抱きしめたいと(2)

「エッジ、本当にありがとう」
何度も何度もリディアは彼にそう言って、嬉しそうに笑った。
その笑顔を見せられると、自分はとても弱い。
エッジは「いいってことよ、俺が勝手にしたことだ」と軽く流していたけれど、自分の自己満足でもリディアが笑顔になることはとても嬉しいことだ、と冷静に考えたらとてつもなく恥ずかしいことを思っていた。
トロイアの町並みの中、ちょっとだけ姿を映すようなガラスや鏡があるところでリディアがちらちらともらったばかりの髪飾りをしている姿を横目で見ていることをエッジは知っている。
それが、嬉しかった。
自分と一緒に歩いている女が、衣類を気にしてよそ見をしているのはやりすぎれば限界もある、と常々思っていたけれど、今日のリディアは特別だ。
普段、そんなことを彼女はしない。
それなのに、エッジからもらった髪飾りが自分に似合うのかどうかちらりと何度も見て、そして少しだけ照れたように口元を緩める。
彼女のそんな動きを気付いている、と言ってしまったらきっと意識してやめてしまうだろう。
エッジは子供ではなかったし、今までに何人もの女性とこうやって歩くことだってあったから、わかる。
自分が見ていて嬉しい仕草を相手の女性がやっているときは、口に出してはいけないのだ。
二度とやらなくなるか、意識してやるようになるか。そのどちらかになるのが関の山だ。
純粋に、エッジからもらった髪飾りが案外似合う、ということにそっと喜んでいるリディアの姿を見るのは、とてもエッジの気持ちをくすぐった。
そしてそうであればそうであるほど。
その笑顔が消えるようなことをしたくない、と強く心に思うのだ。

それからセシル達の土産を買おう、と有名なパン屋の焼きたてパンを買い求める列に二人は加わった。そういうことは当然エッジは苦手だったけれど、今日は本当に特別だ。
流れてくる匂いはとても彼らの嗅覚と食欲を刺激する。
店の外で並んでいるほとんどはトロイアの街のおかみさん達だけれど、この街の女性はいくつになってもお洒落らしく、みな年齢相応の流行の服を着ている様子だった。彼女達の話題を小耳に挟んだけれど、さすが女性も学問をたしなむ国だからなのか、自分の家族の話題だけでなく、ちょっとした政治の話なんかも時折顔を覗かせている。
それへはエッジは素直に感心した。
まあ、彼自身がそういう話題を好き、というわけではないし、出来れば避けたい話題なんだけれど。
「わあ、おいしそうな匂い」
「だよなあ。土産と別に、ちっちゃいの買って、ちょっとそこいらで食べていくか?」
「本当?じゃっ、お夕飯食べられる程度につまもうか」
少し待っただけで、調度パンが焼きあがる時間になる。
大きな窯からいい色に焼きあがったパンがどんどん外に出てくる。
焼きあがったものを5人もの店員が手早く綺麗に運び出す。入口がめずらしいガラス扉になっているので中が少し見えるようになっていた。湯気が立ち上るようなパンを見て、リディアは嬉しそうに目を輝かせた。
「わあー!おいしそう」
「だな」
「どうして、焼きたてのパンって、幸せな気持ちになるのかなあー」
少し目を細めてあごを上げ気味で、リディアは匂いを吸い込むようにわずかに鼻を動かした。
店の外まで流れてくるこの香りが、何よりの宣伝効果なのだろう。
「幸せな匂いと、幸せな色してるよねー。嬉しくなっちゃう」
「お前、幸せになるのが簡単なやつだなあ」
「あっ、ひどーい。うん、でもそうかも。エッジは違う?なんか、すごいよね、目が覚めたときに、焼きたてのパンの匂いがするのって、すごい威力だと思うの」
それは。
エッジは聞こうとしてとまどった。
幻獣界でそんなことがあるとは思えない。一体誰がパンなんてものを焼くというのだろう。
ローザだってパンを焼くわけではない。
それは、遠い昔の、母親との記憶だろうか。
「そうだな、すごい威力かもしれないな」
例えば目覚めたときに聞こえる鳥のさえずり。
ああ、朝が来たな、と思わせるその音が、特別なものに感じることがある。
それは、生きるか死ぬかの戦いを終えて体を休めた翌朝にエッジはよく痛感していた。
リディアが言っている「幸せな気持ち」とは少し異なるのだと思うけれど、きっとリディアはもう戻ってこない思い出と、この焼きたてのパンの香りが重なっているのだろう。
朝、目覚めたら母親がいてパンを焼いている。
そんな光景をエッジは思い描いた。彼に、幼い頃のリディアは巧く思い描くことはできないけれど。
でも、わかる、と思う。
「わっ、何?」
エッジは急にリディアの背中から手を回して抱きしめた。
「やだ、エッジ、こんなところで何してるのっ」
「ここじゃなきゃいいのか」
「バカっ!」
周囲に人がいるのに、とリディアはその腕を振り解こうとする。
けれど、エッジの質問には正しく答えていない。
「ほんっと、お前って」
「えっ?」
ズルいよな。
そう言えなくてエッジは苦笑する。それを言ったら、なんだか今の関係が終わってしまうような気がして。
「なに、エッジ」
暴れるのをやめて、リディアは首を後ろにひねってエッジの顔を見ようとした。
そうやって彼女が動きをやめると、彼ら二人はとても自然で。
エッジが例え後ろから腕を回して軽く抱きしめていたって、必要以上に力を入れていなければとても楽で自然で、まるでそれが当たり前のようにすら感じるのに。
「からかい甲斐があるよなあ」
「・・・もーっ!いっつもエッジってそうなんだから!セシルもカインもそんな意地悪しないのに、エッジばっかり。エッジの方がお兄さんのくせに〜」
「そ。だから年上の言うことはきちんと聞くものだぜ?」
「エッジ横暴なんだもん」
「だから、どこで覚えてきたんだ、そんな言葉」
そのとき、列が突然動いた。一人の店員が外に出てきて叫ぶ。
「焼きあがりましたあ〜!ゆっくりと中に入ってくださあーい」
エッジはそっと名残惜しそうにリディアの体から腕を放して
「ほら、買おうぜ」
とん、と彼女の肩を後ろから押した。

「エッジ、今日はありがとう」
「んー?」
小さな公園を見つけて、二人は焼きあがったパンの中でも小さなものを買って、温かい飲み物をもって木のベンチに腰掛けた。もうすぐ夕方だけれど、まだ子供達が遊んでいる。
さあ、食べるか、というときにリディアが先にそんな言葉を言うものだから、エッジは眉根を寄せた。
「私のこと、元気づけようと思って連れ出してくれたんでしょ」
「まあな。・・・違うって言ったって、信じないんだろうから、ぶっちゃけたこと言っとくけど」
「うん。だから、ありがとう」
「お前ね、そんなことは食べ終わってから言う方がいいぜ?ここのパン、食ってからだったら、お前、土下座しちまうかもよ」
無理矢理茶化しながらエッジは袋からパンを取り出してリディアに渡した。
「はい、エッジ」
「ん、ありがとよ」
飲み物はリディアが差し出す。
「いただきまあーす」
そういうところは本当に彼女は礼儀正しい。エッジはいつもそれすら言わずにかじりついてしまうので、彼女のその声を聞いてもごもごと後からいうくらいだけれど。
「うわーん、おいしい〜!ふかふかで、あったかくって、表面が香ばしくって!すっごいね〜!おいしいね〜!」
「・・・語彙の少ないやつ・・・」
「え、何何?ねえ、おいしいよね!」
「ああ、うめえな」
語彙が少ない、といっておいて、エッジこそ本当のところは少ないらしく、「うまい」「まあまあだな」「まずい」程度なのだろう。
「私も、上手にパンを焼けるようになれるかなあ?」
「やったことねえんだろ」
「うん」
「じゃあ、誰かに習った方がいいかもな。やりたいなら、さ」
「うん。焼きたいなあ。だって、自分がこんなに嬉しくなるんだもん。みんなのことも、嬉しくさせたいじゃない?」
「・・・バッカだなあ。みんな、そこまで単純じゃねえって」
「え、そ、そうかな」
「でも、そうだな。お前らしいし・・・・お前が焼いたんだったら、みんな嬉しくなるかもな」
リディアはとても大切にされている。
それはエッジにだってわかっていることだ。
セシルだってローザだって、そしてカインも本当はリディアが大事で仕方がないのだ。
だからこそ、今、彼女の内面が揺れていることに対して手を出すことがとても難しい。
リディアの母親を間接的に殺してしまって、村を焼いてしまったセシルとカイン。リディアは幼い頃から思いを寄せていたセシルが選んだ女性であるローザ。
そして。
人を憎むという感情への恐怖をリディアに与えてしまった自分。
誰も彼もリディアに手を差し伸べるのにはおぼつかない立場にいてうまく出来ない。
そして、言葉にしないだけでそうだということをリディアも知っているのではあるまいか。ちょっとだけそんなことをエッジは思う。
深読みであったらいい。そうである方がありがたい、とすら思う。
それから二人はしばらくの間ぼうっとしていた。
焼きたてのパンはおいしかったし、途中で買ってきた温かい飲み物もなかなか冷めなくてゆっくりと味わうことが出来た。
エッジは、リディアが何を考えているのだろう、ととても気になったけれど、とても優しい表情をしているな、と横顔を見て思う。
彼が買ってあげた髪飾りはとても彼女によく似合っていたし、自分の審美眼も悪くない、とちょっといい気分にもさせられる。
「そろそろ帰るか。それ、飲み終わったらさ」
「もうちょっとだけ、待ってくれる?」
「うん?」
「あの子達がおうちに帰るまで、見てたら遅くなっちゃうかなあ?」
「・・・」
ふと見ると、遊んでいた子供達を迎えに母親がちらほらとやってきた。
そろそろお夕飯よ、という声。
お父さんが待ってるわよ、という声。
じゃあまたね、と子供達はお互い手を振り合う。
夕焼けが見えるにはまだ早い時刻だったけれど、トロイアではきっと平均的な帰宅時間なのだろう。
一人、また一人、と子供達が減っていく。
「お前も、お母さんが迎えに来てくれたのか」
「ううん、お迎えがある前に帰っていたかなあ。私の村は、あんまり子供も多くなくって・・・みんな一緒に適当な時間になったら帰っていたような気がする。召喚士は短命で、しかももともと人数が少ないから・・・とても小さな村で。あんな風にお迎えにきてもらう必要もなかったし。エッジは?」
「俺かあ。俺はなあ・・・逃げてたからなあ」
「えっ?」
「遊びたくて遊びたくて仕方がなくて、勉強の時間とかも抜け出して、秘密の隠れ家にいっててさあ・・・夕方近くになると、オヤジが命令した何人かの兵士が俺を探しに来るんだけど、俺、一応これでもエリートニンジャだからよ、みんな俺のことみつけられないんだぜ?」
「あははは」
「でも、結局、腹が減るのが我慢出来なくて、適当な時間にもどっちまうの。我慢できねえガキだったかんな」
「今は?」
「・・・今も、あんまり我慢できねーな。腹減るのは苦手だ」
そういってエッジはリディアに笑顔を見せる。リディアもつられて笑った。
「あれ?」
「うん?」
「あの子、お迎えまだなのかなあ?」
一人の男の子だけがぽつんと残って、小さなボールを一人で上に投げてはキャッチして、上に投げてはキャッチしている。
「母親が来るのが遅いだけだろ」
「そ、そっか」
リディアがなんとなく心配そうにその子供を見ているのがわかって、まあ、仕方がない、付き合うか、とエッジもあまりせかさないでその少年の動きを見ていた。
それからその少年は地面にばん、と勢いをつけてボールをたたきつけて、跳ね返って高くあがったそれをキャッチする遊びをやりだした。多分7,8歳くらいだろう。
やがてその子はリディア達が見ているのに気付いたようで、二人の方を見て
「何見てんだよ!見るなよ!」
と叫ぶ。
「んだと、このクソガキ!」
そんなに怒った風でもなくエッジはそういい返した。
「さっきから見てりゃ、おめー、へたくそなんだよ。貸して見ろ!」
「なんだとっ!?」
「わあ、エッジ!?」
エッジはベンチから腰をあげてその少年の方へ走っていった。
それを見てリディアは呆れたように苦笑する。
「・・・エッジの方が、子供みたい〜」

リディアはにこにこと二人が罵りあいながらボールの取り合いをしているのを見ていた。
エッジの方がお兄さんのくせに、とさっき言ったものの、どうみてもその少年とエッジは精神年齢が変わらないのではないかとその様子を見ている限りでは思える。
「おーい!リディ、それとってくれ!」
ボールがころころとリディアの方へ転がってきた。しょうがないなあ、とリディアはそれをとって軽く投げた。
予想外に軽すぎたのか、エッジ達のところに届かないで、もっと手前でボールは落ちて、ぽてぽてとあまりバウンドもしないで転がった。
「バカ、お前もへたっぴだな!」
「もー!失礼しちゃうっ!力がないだけじゃない!」
慌ててリディアはそれを拾って、二人のところに届ける。
「はい。ねえ、でもそろそろ遅くなっちゃうから帰らないといけないね」
空は夕焼けに染まり始めている。きっとセシル達がそろそろ心配するころだ、とリディアは思った。
「そうだな。おい、小僧、お前帰らねえのかよ」
「帰らない」
「なんでだよ」
「だって、かあちゃん、迎えに来てくれないもん・・・俺、足が遅いからきっと嫌いになったんだ」
「はあ?」
言ってることがわからない。エッジは頓狂な声を出して少年の顔を覗き込む。
「なんだって?全然わっかんねーぜ?」
「だって、昨日、学校でかけっこがあって・・・俺、足遅いから一番最後になっちゃって・・・でも、となりに済んでるモックのやつは一番でさあ・・・だから、かあちゃんは、俺のこと嫌いになったんだもん」
「何言ってるかもっとわからねえ。お前がかけっこがビリっけつだってことだけわかったけどな」
「またあ、エッジったら・・・」
「大体、足遅いからって嫌いになるわけねーじゃん」
ははは、とエッジは笑う。
が、その少年はそれからなかなかな彼の遍歴を語ってくれた。
「勉強だって出来なくて、この前かあちゃん、先生に呼ばれて・・・俺、毎日家に帰ると水汲みしてくるんだけど、昨日も今日も途中で半分くらいこぼしてきちまって、そんでそれ・・・謝らないで遊びに来ちゃったし、今朝は嫌いなモンが出たから母ちゃんの皿に内緒で半分入れてきちゃったし・・・」
それを聞いてぶはっ、とエッジは笑う。聞けば聞くほど情けない話だけれど、子供の頃にはよくあることだ。それに対してきちんとこれだけしょげかえってくれれば周囲もありがたいものだろう、と思ったりもする。
「そりゃお前が悪いや。ははは、でもそれと母ちゃんがこねえのは関係ねんだろ?」
「わっかんないヤツだな!だから、母ちゃんはきっと俺のこと嫌いになって、迎えに来てくれないんだ」
「んなバカなことあるかよ。そんなケツの穴のちいせえこと言って・・・」
エッジはけらけらと笑って簡単に言うけれど、どうも少年は本気らしい。
リディアも小さく笑ってしまったけれど、その場にしゃがみこんで少年と目線を合わせた。
「きっとお母さん、今ね、お料理失敗しちゃって大変なことになってるんだよ。もうちょっと待ったら絶対来てくれるんじゃないかなあ」
「俺の母ちゃんは料理、得意だもん!」
「そうなんだ。いいなあ」
「でも、嫌いなものは食べられねえんだろ?」
にやにやとエッジは少年の頭をこづいた。まったく、彼の意地悪も低レベルで仕方がない。リディアは呆れながらも小さく笑う。
「んもー、エッジってどうして!」
ぽんぽん、と上から、しゃがみこんでいるリディアの頭を軽く叩くエッジ。
「ま、ともかくな、男がちっちゃいことでいじいじしてんなって」
「だってさあ!」
「んー?」
「昨日母ちゃん、俺のこと、バカな子で憎らしい、ってぶつぶつ言ってたもんっ!」
その言葉にリディアは眉根を寄せてエッジを見上げる。
「バカだな、お前も」
エッジはリディアの頭を今度はちょっと乱暴になでながら
「そんな、大した意味ねーよ。賭けてもいいぜ」
「うん」

少年の母親がちょっと息を切らせてたどり着いたのはほどなくしてのことだった。
「ニック!夕食の時間だよ!」
遠目から小走りでやってきたのが見えて、リディアはほっと胸をなでおろす。
きっと母親も遅れて来たことが心配で、自然と早足急ぎ足になっていたのだろう。
が、現金なものでさきほどまでぐずぐずいっていたニックというその少年は、またエッジとボール遊びを始めていた。
「あら?」
「こんばんは」
おずおずとリディアが母親に挨拶をする。
「すみません。私の連れが彼とボール遊びはじめちゃって」
照れくさそうにそう言うと、ほっと母親は胸をなでおろして笑った。
「なんだ、じゃあ慌ててくるこたあ、なかったのかしらね。いやね、でがけに隣の家のおばあちゃんが転んで腰うったってもんだから運ぶのを手伝ってたら案の定こんなに遅くなっちまったのよ。一人で待ってるんだろうと思ったら悪くてねえ〜」
そういってほがらかに言うと、エッジとボール遊びをしている自分の息子を見ている。
「あの子、へたくそでしょう?もう、何やってもいっつもへたくそでねえ。父親がいればいろいろ教えてやれるんだろうけど」
「お父さんは・・・?」
「それがねえ。2年前に流行病で死んじまってさあ」
「あ・・ごめんなさいっ」
「いいんだよ、なんてこたない話だし。だからって悪いとは思ってないしね」
エッジと少年は母親が来たことに気付いているようだけれど、手を休めない。
どうやらエッジが彼に色々教えてやっているらしくて、それが楽しくて仕方なくなっているようだ。子供は泣いていてもすぐにけろっと次の興味がわいたことに夢中になってしまうものだし。
「おばさま、あのね」
リディアはどうしよう、ともじもじと困った顔をしながらそう言った。どういう口を利いていいのかとまどっている様子だ。
「あの子、おばさまが、あの子のことをバカな子で憎らしい、っていったのを気にしているみたいなの」
「あらま」
あっさりと母親はそう言って目を丸くする。
「あらあら、本当にあの子はバカだねえ」
あははは、と笑い飛ばされてリディアもこれまた目を丸くして見せた。
「悪戯を仕掛けられたこっちの身にもなって欲しいもんだよ。お嬢さん。疲れて仕事から帰ってきたときに前掛けの紐が椅子にがっちり何重にも玉結びで結ばれてたら忌々しいってもんだろう?」
「わあ」
リディアは苦笑してみせた。
「そしたらついつい、憎らしい、くらい口に出るもんさ。・・・でもねえ、子供はほんと、時々親の言葉に敏感だからねえ。気にして欲しいことは気にしてくれやしないのに、ねえ」
ははは、とそれでも少しだけ力なく母親は笑いながら少年を見つめる。
その目は少し困ったような、けれども愛情を感じさせるような優しい穏やかな視線を送っている。
「でも、あれはあたしが悪かったんだ。あの子はかまって欲しかっただけだったんだからね」
「そっか・・・寂しかったんですよ、きっと」
「そうだろうね。だから、あたしの何気ない言葉を覚えていたんだろうなあ。ほんと、バカだね」
と、またそういう言葉を口にする。それは愛情ゆえの単語だということをリディアは知っていたけれど、ちょっとだけ不安そうに母親を見た。が、続けて母親は
「子供を憎いと思う母親がいるわきゃあないのにねえ。自分の体っから生まれてきた自分の子供には、何されたって憎みやしないもんだ。なんたって母親なんだからねえ」
「・・・そう、ですよね」
「あんた達、みたところ旅の人なんだろ?」
トロイア風の服を着ていないことでずばりとそう言い当てて、その母親はリディアにもその優しい視線をむけた。
「あ、はい、そうです」
「たまにはお母さんのところに帰ってやりなよ。いつだってきっと、待ってるに違いないんだから」
調度エッジが大きい声で少年に「それ、あと20回やったら絶対うまくなるからやってみろよ。ほらほら。騙されたと思ってやってみ?」と叫ぶ声が聞こえる。
それからリディアの視界の隅っこに、エッジが近づいてくる姿が見えた。
少年は「よーし」とエッジに言われたのかボールを使って何か練習をしているようだ。
「おばさま」
リディアの声が震える。
「なんだい?」
「もう一回、言ってもらえませんか」
「何をだい?」
「子供を憎いと思う母親なんて、いないって」
「・・・お嬢ちゃん?」
エッジはリディアの様子を見て、近づいてくる足を少し手前で止めた。
「ごめん、なさい。急にっ・・・」
リディアは切れ切れに、少年の母親に向かって謝りながら、それでももう一度繰り返した。
何故かうつむいて視線を合わせずにいて、それは人に物を頼む態度には見えないけれどリディアにとっての精一杯なのだろうとエッジは見て思う。
「子供を、憎いと、思う、お母さんなんて、いないって、言ってもらえませんか。お願い」
「リディア」
ああ、やっちまった、とエッジは小さく溜息をついて、一度止めた足を動かして近づいた。
もう一度名前を呼ぶ。それでも止まらないならば、仕方がないと思えた。
「リディア」
「お嬢ちゃん」
そんなリディアを見てどう思ったのかはわからないけれど、少年の母親は軽くリディアの両肩に手を置いた。
「どこの世界に、そんな母親がいるっていうんだい?自分の体をはって、時には命までかけて産んだ子供を憎むわけないじゃあないか。あんたのお母さんだって、あんたのことを愛してくれているのに違いないのに。そうだろう?」
「う・・・」
ぽたぽたとリディアの足元に涙が落ちる。
それから、堰を切ったようにリディアは声を上げて、子供のように泣きじゃくった。
今までエッジが見たことがないリディアがそこにいる。
うわあああん、と大きくなった体にはそぐわない泣き声。
何があったかは知らないけれど、と母親はぽんぽんと優しくリディアの肩を抱いて何度も彼女の背中を軽く叩いてくれた。
顔にかかる前髪は涙で張り付いて、鼻の頭を赤くして何度も鼻をすすりながら、それでもリディアは泣き止まない。
「お母さんを、殺した人と一緒にいてもっ、その人のことが、大好きでも、お母さんは、わたしをっ・・・」
しゃくりあげながら何度も何度も。
「わたしがっ、セシルのこと、大好きでも、それでもっ・・・」
聞きたくない言葉だ、とエッジは思ったけれど、今はまだ許してやらなければいけないのだと苦々しく唇を噛み締めた。
わたしが、セシルのことを好きになって。
お母さんを殺してしまったあの人を憎めずに恋におちてしまったことを、お母さんは許してくれるのだろうか。
人を憎む、という感情について考えていたリディアがたどり着いてしまったそのことを、リディアに納得させられる人間など誰一人いなかった。
だってそうではないか。母親を殺してしまったセシルとカイン。そしてそのセシルを愛しているローザ、そしてリディアを愛してしまっているエッジ。
誰の言葉を聞いたって、信じられるわけがない。
ああ、トロイアに来てよかった。
エッジはその偶然に、何かはわからないものへと感謝をした。
こんな風に痛い思いをして泣かせるつもりなんて、なかった。ただ彼女が笑えて、そしてたまには年相応の女の子たちと同じようなことをして明るく二人で楽しく過ごせたらいい、なんて思ってきただけだった。
だからこそ何も彼女の過去にかげりを落とさないように思えたこの街を選んだし、実際ここまで穏やかに二人で笑いあっていた。
だって、泣かせるつもりなんて、毛頭なかったから。
それでも。
普段、リディアが泣くのは嬉しくはない。けれど、この涙は歓迎しなければいけない涙なのだと思う。
自分がしてしまったことのせいで母親からの愛情が信じられなくなった子供は、子供である間に母親からきちんと愛情を伝えてもらわなければいけないのだろうな、とエッジはなんとなくぼんやりと思った。
今泣いているリディアはきっと、子供だった頃のリディアだ。
目の前にいる彼女を、エッジは、知らない。


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モドル

あはは、もう、みなさんが「やっぱりこんなことになっちまったかー!」とお怒りな姿が目に浮かびます。(ウソです・・・オフラインでのお姿は知りませんし)「やっぱりこんなラブラブものだけで終わるとは思ってなかったんだよーーー!!」と。(笑)
しかもずっとエッジ側からの描写だったのに、突然リディア側からの描写もはいってしまっています。
今の自分の文章力ではこうするしかなかったのだ・・・と肩をおとしながらも、書いております。
まったく、毎日毎日この文章量よく書いていられると自分で呆れながら。