月下美人-1-

花瓶に活けてある花が、ぽとりとテーブルの上に落ちた。
それを拾い上げて、彼女は手のひらの上に乗せる。
透き通るような白い手は、過去から今まで数限りない男性達から褒め称えられてきた彼女ご自慢の部位だ。
細くてすらりと先細った指の先には整った楕円形の爪が品よく並び、紅の花の色を溶かした香油がうっすらと色を重ねている。
指の付け根には彼女の指にするには主張が強すぎるようにも思われる、精巧な金細工が施された指輪が普段と変わりなく、あるべき場所にあるべき姿でいた。
彼女の手を飾るそれらのものは、手のひらにのせた大輪の花の前にいまや完全に色褪せている。
その花は既に息絶えていたし、後は色が静かに沈んでいく悲しい姿を見せることしか出来ないと思えた。
しかし、彼女のその白い手の上でさも大切そうに乗せられた今、最後の華やかさを振り絞るように、まるで宝物にすら見える輝きを放っているようだ。
その姿を見つめながら、想像していたよりも花は重いのだな、と彼女は思う。
「まぁ、申し訳ございません」
高価な茶器を丁寧に取り扱っていた女中が、彼女の様子に気付いて慌てて謝った。年の頃は未だ10代だと思われるのに、行き届いた教育がされている女中だ。
「すぐに、新しい花に取り替えて参ります。お見苦しいところを」
お見せして申し訳ございません。
そう続くのだろうと容易に想像出来る言葉を、彼女は遮った。
「別に良いのです。木に咲く花は、前触れなく落ちるものが多いのだし」
でも、と言いたいところを女中は我慢をした。
白い手の中に乗った花は、既に薄いピンク色と白の花びらに、茶色のしなびた縁取りがじわじわと浸蝕し始めている。
前触れがないのではない。自分達が気付かなかっただけだ、と女中はもう一度心の中で謝罪をした。
「気にすることはありません。それに」
女中に笑いかけてから、彼女はその花をいとおしむようにそっと鼻に手を近づけた。もう片方の手を添えて、丁寧な仕草で。
強い芳香を放っていたその花には未だ残り香があった。
植物くささとそのわずかな残り香が相まって、またいっそう寂しい匂いを彼女は吸い込むことになる。
「花を愛でることも贅沢すぎることでしょうし。あなた方がこうやって茶を淹れてくれることも、どれだけ幸せな
ことか」
「王女様」
「そうでしょう?」
小さく微笑む彼女のうなじの後れ毛が、窓の外から室内を照らす木漏れ陽のおかげで、透けるように輝いている。
きっちりと結い上げた銀髪の流れの乱れを彼女は許さなかったけれど、わずかな後れ毛を残すことは大切だと思っていた。
それは女の甘えた隙ではなく、あくまでも愛する男を喜ばせるためのちょっとした遊びだ。
媚びではなくそれが風流なのだと彼女は思っていたし、この城にいる人々も彼女が少しだけたしなみを崩すそういった様子を好ましいと思っていた。
高貴な身分に相応しく彼女は人々が驚くほどの教養を持ち、その身のこなしの華やかさと慎ましさの両面をも惜しみなく人々にさらけだしていた。また、顔立ち自体は目を奪われるほどの美形とはいえなかったけれど、生まれ持っての上品かつ凛とした佇まいは女中達の羨望を集めていた。
「王女様、新しい香油をご用意いたしました」
「ありがとう」
彼女は花をそっと慈しむようにテーブルの上に置いた。女中が音もなく置いてくれた、すりガラスで作られた瓶に添えるように。
女中はそれを片付けずに、一礼をして銀のワゴンを引いて部屋を出て行く。
湯気と共に立ち上る茶の香り。
その香りを無視して香油の瓶を開けるような無礼な振る舞いを彼女はするはずもなかった。
多分、これが最後の香油なのだろう、と思う。
部屋の隅にはいざというときのために、彼女の体型に合わせた軽い女性用の甲冑が置かれている。
彼女はそれを身につける気はなかったし、身につけたところで何の役にも立たないものだと思っていた。
それよりはドレッサーの引き出しにそっとしまってある懐剣や、指輪の細工の中に塗ってある薬の方が何倍も役に立つに違いない。
城を守る兵士達の数を減らすわけにはいかなかったが、兵士の数には限りがあると彼女も重々承知していた。
しかし、城下町に暮らす人々にこれ以上の兵役を課すことは得策とは思えない。
今、自分の国は戦場になり、細切れに攻め込まれている。
何度もそれを凌いではいるが、その都度に被害は大きくなり、ついには流通すら途絶えがちになってきた。
花が、茶が、香油が。
そんなことを言い続けられる自分の身分をありがたくもうとましくも思い、彼女はそっと溜息をついた。
民を守れずして、何のための王族か。
王族が民を守るのか、民が王族を守るのか。
そのどちらの気持ちも強くあるこの国を、心底愛しいと彼女は思った。
この城を守ってくれる幻獣達は、みな覚悟を決めてくれた。
敵は、幻獣を操り、また、幻獣達から力を抽出をして己の力として身につけた、不思議な力を持つ魔導師達とやらがいるらしい。多分、この城にいる幻獣達の力を手に入れようとするか、あるいは、手に入らないならば殺すまで、と思っているに違いない。
それでは幻獣を差し出せば良いのか、というと、それもまた違う。
ここで自分達は侵略者に対して下手に出るわけにはいかないのだ。
それは、自ら人と幻獣の共存を妨げる愚かなことだ。
恩を忘れ、愛情を忘れた人間に、一体何の未来があるというのだろうか。
世界が狂っていく、と彼女は思う。
欲望という大きな黒いもやもやとしたものが、自分達の敵だ。
人間と幻獣との共存の道を順調に辿っていたこの世界のバランスを崩したものは、人間の飽くなき欲望、それ以外の何者でもない。そして、それがもたらす戦争というものの忌まわしさを彼女は心から呪う。
座りなれた椅子に腰をおろし、彼女の細い指にしっくりと馴染むカップの手を取り、唇を湿らせた。
こんな時に居合わせてしまって、あの方はなんて可哀相なのだろう。
そして。
こんな時にあの方がいてくださるなんて、それは、なんてありがたいことなのだろう。
彼女はまるで何事もないように窓から差し込む陽射しに視線を移し、一人の人を想った。
この戦が1000年後まで語り継がれる「魔大戦」と呼ばれるものになることを、彼女は未だ知らない。

「オーディン殿」
「何か」
城の通廊で呼び止められてその騎士、オーディンは立ち止まった。
黒光りする甲冑に身を包んだ彼は素晴らしい体躯の持ち主で、呼び止めた男性よりも頭ひとつ以上の身長に、一回りも大きい肩幅を持っていた。
しかし、その体すら現実のものではなく、この城での生活を円滑に行い、この世界で人に混じって生きるために作られたかりそめのものだ。
冑を決してとらずに、彼は呼び止めた男性を見下ろした。
「此度の戦、我らが第二騎士団のため、深手を覆わせたことを、まだ、お詫び申し上げていなかったと」
こちらの男性もまた、甲冑を着ていないため、鍛えぬかれた筋肉を持つと一目でわかる。年のころは30後半といったところであろう。
口ひげの下には薄めの唇がもぞもぞと見え、体型に似合った響く太い声でオーディンに話し掛ける。それにオーディンは静かに答えた。
「どうということはない」
「幻獣であるあなたが傷を負うということは、よほど大きな力を受け止めていただいたのだとお見受けしたのだが」
「ジル団長。気にすることはない」
それにも身じろぎひとつせずに、穏やかにオーディンは答えた。
彼もまた響く声で、しかし、あくまでも静かに言葉をつむぎ出す。
「この程度の傷、わずか数日ここにいればすぐにでも癒えよう」
「しかし」
「同族の力を真っ向から受けてしまえば、いかな幻獣といえど、痛手を負う」
「それを承知で我らを庇って」
「庇ったわけではない」
オーディンは歩き出した。彼は廊下を歩きつづけ、どうやら城を出て門前の庭に行くつもりらしかった。
ジル団長はその後につき従うように歩調を合わせる。もともとの足の長さが違えば歩幅も違う。しかし、オーディ
ンはジルにあわせるつもりはまったくないようだった。
「それでは」
「救いたかっただけだ」
「・・・」
「同じ幻獣として。やつらに操られてしまっていたあやつの辿る道は二つに一つ。あのまま戦で力を放出してどこかで息絶えるか、あの後にまた回収されて、力を奪われるか」
それは、先の戦で第二騎士団相手に敵が放った幻獣のことだ。
「あやつらは人との交わりの義理や誓いなしで、ただ操られているだけだ。操られない幻獣は同族に命を奪われ、魔導師とやらの力の源になるだけ」
「まったく、ひどい話で・・・」
そう答えることがジル団長には精一杯だった。
「操られていても、わずかでも自我が残っている幻獣は、誰もが自害を選ぶに違いない。あやつもそうだった。し
かし、操られているが故に自害は叶わない。だから」
オーディンはその先の言葉は続けなかった。
ジルは溜息をつく。
「お気持ち、お察しいたしますぞ」
「・・・感情というものを、同じような形で幻獣も人間も持ち合わせているというのに」
オーディンは、わかったのだ。
つい先日彼らが対峙した幻獣は、この苦しみから解放されたかったのだと。
このまま戦に利用されるくらいなら。この後で力を抽出され、人間の欲望の道具になるくらいなら。
全ての力を放出して、今すぐにでも息絶えたいのだと。
自分が本気で同族を屠ろうとすれば、相当な力のぶつかり合いが起きて、その場にいる第二騎士団までもが巻き添えを食うほどの大騒ぎになることをオーディンはわかっていた。
だから。
だから、自らは手を下さず。
あの幻獣が全ての力を自分にぶつけてくることを受け入れ、ジル騎士団をオーディンは守った。
彼が耐えたのは、肉体の痛みではない。
それは、同族への憐れみと、人間の欲望への悲しみだ。

「オーディン様」
城の前にひろがる庭に、数人の兵士と女中に囲まれて彼女は芝生の上に座っていた。
膝を折ってそっと斜めに流した上にふうわりとひろがる上質な柔らかな素材のドレスの上に、摘み取られた小さな花が乗せられている。
兵士と女中達は姿勢を正してオーディンに一礼をした。
この城においてのオーディンは賓客として迎え入れられており、彼はもともとはこの城を居住区にした幻獣ではなかった。それでも未だここを離れられないのは、彼は彼なりの忠義や恩をこの国の人々に感じているからだ。
彼はどの幻獣よりも、人間に近い感覚を持ち合わせている。
それが彼の幸せでもあり不幸でもある。
「あまり外に出られぬよう」
オーディンは冑の下で彼女には見えないが、人間で言うところの「仏頂面」で重々しくそう言った。
彼の言葉はぶっきらぼうだ。
「わかっております。けれど」
「何をなさっておいでか」
「先の戦いで、死んでしまった者達に、手向けの花を」
「たむけのはな」
よく見ると王女の手には、花の茎と茎とを絡めて編んでいる途中の小さな花輪があった。もちろん、それは未だ輪にもなっておらず、王女の手のひらの上に乗る程度の長さまでしか編み進んでいない。
「棺の上に花輪を置いて、土をかぶせるのが本来のならわし。けれど、戦で命を失ってしまった者はそれすらかないませぬ」
彼女が言うならわしというものが、人間界で、更にこの国のものだということをオーディンはよく知らない。
知らないけれど、ならわしというものが、彼女にとって「しなければいけないこと」なのだろうと納得をした。
「それに、今のわたくしは、民を守るために何一つ力を持ちませぬ。出来ることといえば、これくらいのこと」
そういって王女は膝の上にちりばめられた小さな花達の中から一本、小さな花びらがたくさん集まって形づくられている花を手にした。そして、オーディンが見ている前で白い細い指で、器用に茎を絡めた。
オーディンは言葉もなくそれをみつめていた。
王女は顔をあげずに言葉を続けた。
「お亡くなりになった幻獣のみなさんにも花輪を作ることは、余計なことでしょうか」
この戦が始まってから今日までの数回のせめぎあいで、あまり力が強くない幻獣の数体は力尽き、ある者は敵に回収され、ある者はあまりに力の差がある敵の幻獣の攻撃により、その場から消えてしまった。
オーディンは黙ったまま王女を見つめていた。
冑の下からでもわかる強い視線を王女は感じて、顔をあげることが出来ない。ただ、手を動かして花輪を編み進めるだけだ。
彼の視線を感じると、いつも彼女は後悔をする。
ああ、こんな風に後れ毛を残すことを、身だしなみが出来ていない女だとこの方は思われるかしら?
普段は風流として自分が重んじているそのことすら、幻獣である彼の目にはどう映るのかが気がかりだった。
それならば、髪を全てきっちり結い上げればよい。髪を結い上げずにおろしておけばよい、色々と手立てはあった。あったけれども、彼女にとってはそのどれもを行う勇気はなかった。
こんな戦の時だからこそ、自分はいつもと変わらぬ自分として振舞うべきだ、と彼女は自分に言い聞かせていた。
ほんのわずかな女としての恥じらいで自分のスタイルを変えることは、女中達に不審がられてしまうし、余計な不安をもかきたててしまうだろう。それは避けたい。
だから彼女は相変わらずうなじにかかるわずかな後れ毛を好む振りをして、いつものように着飾り、いつものように振舞う。
たとえ、彼の視線をうけることによって、白い頬がうっすらと内側から紅を纏っても。
「それを作ることに何の意味があるのかはわからないが」
オーディンは重々しく口を開いた。
「王女のお心は、わたしにも伝わる。そして、それをありがたいと思う」
その言葉が肯定であるということに気づくのに時間がかかり、一瞬の躊躇の後で彼女は顔をあげた。
「そうおっしゃっていただけて、嬉しく思います」
オーディンはその言葉尻からは想像出来ないほどに丁寧な騎士の礼を見せて、その場を離れた。

彼を初めに見つけたのは自分だ、と彼女は思っている。
本当は見つけられたのは自分の方なのだけれど、出会った時から今まで続いている「見つけた」というこの気持ちは、誰に否定されたとしても譲ることが出来ない。
あまり強い力を持たない幻獣達の、ほんのちょっとしたいたずらで森で迷ってしまった彼女と兵士達を助けてくれたのがオーディンだった。
無事に彼女を城に送り届けたオーディンに父王はいたく感激をして、人間流ではあるがもてなしたいと申し出た。
彼女はまったく知らなかったけれど、なんでも、この国に300年程昔に存在していた、英雄と呼ばれた騎士が死した後にオーディンとなったという伝説があるそうだ。
真実はわからない。けれども、彼女の父王はその伝説を信じていたし、その騎士が何度もこの国の危機を救ってくれたからこそ今の繁栄があるのだと考えていた。
そのようなことは自分には関係がない、とオーディンはその場を去ろうとした。
それを引き止めたのは彼女だ。
人間と幻獣は当たり前のように共存していたから、人間の道理が通る時と通らない時があるということを彼女は日常から知っていた。もてなしを受けるという感覚は幻獣にも本来はあるものだ。
オーディンという幻獣がどういった性質をもつのかを彼女は知らなかったけれど、彼女に対する彼の態度は立派な騎士のそれであり、とても人間的であった。そして、騎士であるからこそ女性を救うことは当然であったし、報酬を受けるほどのことでもないのだ。それは騎士である彼の道理だ。
それを利用したつもりではないが、城から去ろうとしたオーディンを追いかけて、彼女は通廊を走った。王女とい
う身分で場内を一人で走ることはついぞなかったはずなのだが、彼女の体は軽やかに動いた。少女だった頃に女中達に囲まれて野山に行った時のように、夢中になって走った。
オーディンはまるで人間の騎士らしく、無理に空間転移もせずに素直に歩いていた。
「オーディン様、お待ちください」
甲冑を着けた広い背中にようやく出口付近で追いついた彼女は、ドレスをつまんで腰を落としつつオーディンに頭を下げた。
立ち止まった途端に息が切れていることに気づく。どうしても我慢できずにはぁはぁと息をつきながら、それでも
、礼だけは反してはいけない、とオーディンを待たせずに言葉を無理矢理続けた。
「お客人にこのようなお願いを申し出るのは、まことに恥ずかしいことでありますが」
その言葉にオーディンは反応を見せた。
「何か。あなたがわたしに頭を下げられることなぞはないと思うが」
息を切らせた様子に関しては彼は何も言わなかった。彼女は数回深呼吸をしたけれど、それはとても静かなもので、頭を下げたその体勢がぐらりと揺れないようにと細心の注意を払ってのものだった。
「あなた様が立派な騎士様であらせられることは、今日のわたくしに対する態度で重々承知しております。こちらからのもてなしをお断りになるのも、立派な騎士様である証拠だと存じております」
「そうではない。もてなしを受けるようなことを、しておらぬからだ」
だから、その気持ちが、と彼女は言いたいところをこらえた。
「父があなたを引き止めるのには、他にも理由があるのです」
「理由?」
「我が王国は見ての通り、繁栄をしておらぬわけではございませんが、ここ数年名のある将軍数名が、病死や遠征先での事故死、そして高齢のための自然死と立て続けに亡くなっております。当然ながら、父王も民もそのことを悲しく思っております。そこにあなた様のような立派な騎士様が現れたので、皆、沈んだ気持ちもわずかに晴れたのでございましょう。これ以上こちらからご迷惑をかけることは本意ではありませぬが、せめてあと数日あなた様にご滞在いただければ、父も兵士達も民も明るい気持ちになれるのではないかと思います。娘の立場からも王女としての立場からもお願いさせていただきたく、こうして頭を下げる次第でございます」
そう言って彼女は深々と頭を下げた。
オーディンは何も言わずに彼女の姿を見つめ、やがて、そのまま今歩いてきた通廊を逆戻りしていった。
それに気づいて彼女は顔をあげ、歩いていくオーディンの姿を確認してから今度は彼の広い背に向けて深く礼をした。
「オーディン様、ありがとうございます」
彼は振り向かずそのまま歩いて行き、彼女の父王が待つ王の間に戻り、突然気が変わった、と一言呟いたということだ。
そして、その日から今日までの、人の年月で数えるところの二月の間。
彼は未だにこの城に滞在していた。
そして、そればかりではなく彼は戦から自分達を守ってくれている。
あのとき引き止めなければ、あの方は同族である幻獣と戦わずにすんだかもしれない。
そう思えば彼女の心はとても打ちひしがれ、己のエゴイズムで行ったことを日夜後悔するばかりだ。
けれどもその逆に、彼がいてくれるからこそこの城は未だ無事なのだし、自分の愛する民達も戦火に全てを奪われることなく生活が出来るのだ。
何故そこまで、とオーディンに聞けば、彼は普段と変わらず穏やかに答える。
はじめに、そなたを守ろうと手を差し出したのは、わたしの方だからだ。
だから守るのだとはオーディンは言わない。言わないけれど、そういう意味なのは明白だ。
彼女は時折彼のその言葉を思い出し、胸の奥がしめつけられる。
その場所は、一体どこなのだろう、と思う。
自分の体の中でどくんどくんと音を立てている、かすかに動いているように感じる不思議な楽器よりも自分の右手側で、白い乳房と乳房の間のずうっと奥深くで。
背中に手を這わせたときに存在を感じる背骨よりは前にあるような気もするし、そうでもない気もする。
何か、何も触れることが出来ない小さなまあるい空間が自分の体の中にあって、大切な人への気持ちだけがその空間を震わせるのではないかとも思うが、誰に聞くことも出来ずに彼女は黙り続けていた。
心というものは頭の中にあるのだと思っていたけれど、それはきっとこの場所を指すのだろうと思う。
その晩、王女はベランダとの間を遮る大きなガラス窓のカーテンの合わせ目からそっと差し込む月明かりに気付いた。
もうすぐ満月になりそうなまだ不完全な円が、驚くほどの白い光を放っている。
彼女の部屋からは馬屋の様子は見えないが、明るい月の晩に愛馬スレイプニルに乗って城門から出て行くオーディンの姿を見ることは出来た。
彼の愛馬もまた彼と同じく幻獣であり、本来はそこに存在せずともオーディンが力を発揮するときにはどこからともなく姿を現すという。
それでも、足8本も持つ珍獣であるスレイプニルは、この城の馬屋で他の馬達となんのかわりもなくこの二月を過ごしていた。
あまりに立派な体躯を持つために、馬屋の二部屋を繋げてスレイプニルのための場所をこしらえる必要があった。
幅もそうであったが奥行きも必要だった。
何度かオーディンが「そこまでせずとも」と口を挟んだにも関わらず、王は頑として譲らずに「客人の愛馬にも快
適な場をお作りできずに、なんのもてなしが出来ると言おうか」と突貫工事ではあったけれどスレイプニルのための空間を作った。
当のスレイプニルは、オーディンの言葉を借りれば「飼い馬として生活をするのも、たまには良いものだろう。自
分が駆けたくなれば勝手に出て行くだけだし、のんびりと雨を凌げる場所はありがたい」といったところらしい。
今日もまたオーディンはスレイプニルと共に月明かりの元、どこまでか走っていくのだろう。
それが、自分達のような人間の遠乗りと同じなのか違うのかも彼女にはわからない。
彼女は眠ってしまうので、いつ彼が戻ってくるのかもわからない。
そっと出て行く姿を見守り、一体彼はどこにいくのだろう、どのように走っていくのだろう、そう考えながら眠り
につくのが常だった。
しかし、その晩の彼女は違った。
多分、今晩あの方はいつものようにスレイプニルに乗って出かけるに違いない。
彼女は既に寝間着姿ではあったが、その姿のままでカーテンを開けた。
その大きなガラス扉を覆うカーテンは三重にもなっている。ひとつ、またひとつ、と開ける度に、漏れていた月明
かりが部屋の中に満ちていき、終いに暗い部屋を覆っていた影に、くっきりとガラス扉を切り取ったような明るい
光が差し込んで、この光の中では眠れない、と思えるほどになった。
それから、ただただ、月に向かってに願う。
どうぞ、あの方が気付いてくださいますように。
夜の静かな空気の中、遠くの森が作る黒い影がぐるりと城を囲むように見える。
それぞれの葉が重なり、枝が重なるとこんなシルエットになるのかとしばしの間、やけに深く黒い木々の並びに眼を奪われ、それから、その影を作り出す明るい月に視線を戻した。
彼女には自分から夜遅い時間に、外に出歩くことは不可能だった。
着るものをもってこさせるために、まずは呼び鈴で女中を呼び着替えて身支度を整えて、今度は見張りの兵士に用件と行き先を伝えなければいけない。
そんなことをしては、この戦時中一人で出歩くなどもってのほか、などと言われて何人もの兵士と女中が彼女を囲む散歩になるに違いない。たとえ「一人になりたい」と彼女が言っても、今が夜であるがゆえにそれは室内でしか叶えられないことなのだ。
だから。
どうか、あの方が気付いてくださいますように。
幻獣であるオーディンならば、出会いの時のように自分を助けてくれるのではないかと彼女は思った。
日に焼けることがない真っ白な首元から胸元にかけてのデコルテのラインがさらけ出される寝間着のまま、彼女はそっとベランダへと出て行った。
真っ白な羽根をあしらった高価なルームシューズは、くつろぐためのものとはいえ彼女自身を美しく見せるために作られているので少しばかりソールが高い。けれども、それはやわらかい音が鳴る。
まっすぐにおろした銀髪が、鎖骨に静かに這う。
こんな姿でベランダに立つことは、はしたないことかもしれない。いや、それは間違いない。
城門の見張りに気付かれてしまうかもしれないけれど、彼らの役目はそれを咎めることではないから、許してもらえるのではないかと彼女は都合が良いことを思った。
彼女は何度も思い描く。
あの方に聞かれたらどう答えようか。
何故窓を開けていたかと聞かれたら、なんと答えればよいのだろうか。
そんな悩みはとても幸せな悩みなのだと彼女は思って、溜息を深くついた。
この気持ちに気付かなければよかったと思った夜も幾度となくある。
人に対する気持ちというものは、とても抗い難いもので、自分の感情であっても制御がきかなくなることがほとんどだ。
明らかに今の自分は、オーディンに恋をしている。
この国が戦争に巻き込まれ、日夜兵士達が傷つき、果ては命を落としているというのに、自分はオーディンへの気持ちの高鳴りを抑えることばかりに一日を費やす。
知らなければよかったのに。
そうすれば、女々しくこんな夜に一人でぐるぐると繰言を頭の中で言い続けなくて済むのに。
二度目の深い溜息をつこうとしたそのとき。
城門に向かうオーディンの姿が見えた。

オーディンはスレイプニルに乗り、夜の遠乗りを楽しむために城門を通り抜けようとした。
彼は幻獣なのだから、本来ならばいちいちそこまで人間くさいことをする必要はない。
しかし、彼がいなくなれば城の人間は不安がるに違いない。
それを思って、彼は至って普通に、兵士達に行く先を告げて城を出るのだ。
月が明るい夜は、スレイプニルが喜ぶ。
白い光の夜は更にそうだ。
地を駆けるだけでなく、空間をも駆ける愛馬が喜ぶ様が見たくてオーディンは夜の遠乗りをする。
その晩、城門を抜ける手前でオーディンは王女の部屋のバルコニーに人影があることに気付いた。
王女本人であれば問題がないのだが、と振り向くと、そこには彼の思惑を裏切らずに彼女が立っていた。
月明かりに照らされだしたそのシルエットは文句なく美しい。バルコニーの手すりにもたれかかることもなく、彼女はまっすぐに立っていた。月明かりの逆光のために、彼女の顔はよくはみえない。
何故彼女がそこにいるのかということはオーディンにはとんと心当たりがなかったけれど、大方月が明るいから月を見ているのだろう、と当たらずとも遠からずのことを思いながらスレイプニルの手綱を引いた。
彼は彼女のことを美しく気高い王女だと思う。
初めて彼女に出会い、道に迷ってくたくただった彼女をスレイプニルに乗せてこの城まで送って来た時から好感は持っていた。
オーディンに丁寧に礼を言い、そして、スレイプニルにまで彼女は礼を言っていた。
普通の人間ならば「馬鹿げている」と笑い飛ばすことだろうが、あの聡明な王女は「乗せてくれてありがとう。迷惑をかけましたね」とそっとスレイプニルのわき腹にそっと手を触れた。
オーディンを乗せるためにスレイプニルは普通の馬よりも一回りも二回りも大きい。その大きさに怖がる人間も多いというのに、あの王女は恐れずに彼の愛馬に語りかけて手を伸ばしたのだ。
そういった心遣いも、オーディンを引き止めるために理由を話して頭を下げる姿も、オーディンには好ましく映ってい
た。その好ましさというものは、異性を想う気持ちとは異なるはずだが、それでも「ご婦人であるのに」という気持ちがいくばくかはそれに混ざっていることは事実だ。
と、そのとき、スレイプニルが地面を強く蹴った。
「どうした」
聞く必要はないというのに、ついついオーディンは言葉に出した。それにいななきの返事もしないのは、夜、人を脅かしてはいけないと思っているからだろう。
次にスレイプニルが足を置いた場所は、地面ではなく空だった。
城門の見張り兵が驚いてその様を見つめる中、オーディンを乗せてスレイプニルは夜空に向かって駆け出す。
普通に地を駆ける分にはその雄雄しい姿に見慣れた兵士達も、月明かりの中空に舞う8本足の馬と、それを操るに相応しい騎士の堂々たる姿に目を奪われた。
オーディンは冑の中で苦笑をしながら、愛馬に問い掛けた。
「あの王女が気になるのか」
それは、自分もそうだとオーディンは思ったが、逆なのかもしれないと心の中で苦笑をした。
スレイプニルが彼女を気にしたのではなく、多分、気にしたオーディンにスレイプニルが気付いたのだろう。
この戦時下で夜にあまり外に姿を見せるのは好ましくない。特に月が明るい夜は侵入者を発見しやすいと共に侵入者も動きやすい。彼女がなんらかの陰謀に巻き込まれないとも言い切れないのだし。
それを伝えに行くだけならば、まあ、よいか、とオーディンは自分に言い聞かせ、スレイプニルの動くままに任せ
た。


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モドル

ほとんど彼らの関係が描かれないままの古代城イベントです。みなさんの想像の二人とは違うと思います。基本的にうちのオーディンは、もう一つのサイトLunaticSinで書いているオーディンのイメージのままなので、色々と妙なところがあるとは思いますが・・・。