月下美人-2-

王女は自分の目を疑い、何度も瞬きを繰り返した。
今、自分が目の当たりにしているその光景は夢ではないかと思った。その驚きはいつしか、夢でも現実でもいいからこの時間が長く長く続くように、という切なる願いへと変化してゆく。
白い月の光を浴びながらスレイプニルが空を翔るその雄雄しく美しい姿。
8本の足で自らの巨体とオーディンを支えるこの馬は、どの足も無駄のない美しい筋肉で覆われている。
たった一度だけ、野を駆ける野生の馬の群れを王女は見たことがあった。
城を守る騎士達が乗っている軍用の馬達も申し分ない体躯を持ち、重装備の兵士を乗せながらもやすやすと走る。それを彼女は知っていた。
けれど、野生の馬達からは目には見えないなにかが体全体から吹き上がっているように彼女には思えた。
言葉にするならば、明らかに違う生命力。足を動かすたび、地を蹴るたび、「それ」は鮮明になる。
ああ、スレイプニルは、いつもオーディンを乗せているけれど野性の馬に近い生き物なのだ。
そう思うと何故か胸がしめつけられるように痛み、王女はそっと両手で自分の胸元を押さえて何かをこらえる。
それは、騎士でありながらも人ではなく、唯一の「オーディン」という生き物である彼という存在そのものの生き方を象徴しているようにすら思えてくる。人間と幻獣が共存する世界でありつつも、こうやってオーディンが自分の城に滞在していることは、本当は野生の馬を縛り付けていることと同じことなのかもしれない。
(もし、そうならば、尚の事)
この時間がわずかでも長く続きますように。
月明かりの下で、この人をいつまでも見ていられますように。
いつか失ってしまうものだとわかっているのですから。
その瞬間、彼女の中で、この世界に息づいているありとあらゆるものの意味が失われていた。
自分が立っているこのバルコニー、城、国、民衆の存在も、木々の存在も、空気の存在や、煌々と光を放つ月すらも。
あれほど普段から気を使っている自分の体すら、何一つとして価値がないものに思える。
ただ、あの人がそこにいる。
それ以外のことは無意味だ。
そして、そう感じてしまう自分の心のあまりの醜さに気付き、彼女は愕然とした。今までの人生で培われてきた自分というものがこんなにもろく、たったひとつのことで消えてしまいそうになるなんて。これでは、自分は他の生き物ではないか。
彼女のそんな葛藤はお構いなしで、音もなくスレイプニルは逞しい四肢を動かし、目に見えない螺旋階段を駆け上ってくる。まるで、月明かりが彼の足元を照らし、王女の前までの導き手になっているようだ。
彼女は小刻みに自分の体が震えていることに初めて気付いた。
スレイプニルは少しずつ速度を落として、目に見えない階段の最後の数段をゆっくりと昇った。
ひづめの音は実際には聞こえないけれど、スレイプニルの歩調に合わせて、彼女の耳の奥には音が響くような気すらする。
かつん。
音にならない音がとても礼儀正しく彼女の目の前で響いて、スレイプニルは止まった。
「このような時間に訪問するご無礼をお許しいただきたい」
馬上からオーディンの声が投げかけられる。
夜だからなのだろうか。いつもと変わらぬ重々しい声ではあったが、その声音に含まれた穏やかさに、わずかな優しさまでもが垣間見えたように彼女には思えた。
そうであって欲しいという期待感と、それは自分の思いあがりだという自制の気持ち。
それがないまぜになった今の自分の感情を、彼女はそれまでの人生であまり多くは体験出来てはいない。
何を最初の言葉にすればいいのだろう。
選ぶことがあまりに難しくて、ひとまず彼女は軽く呼吸を整えた。その音すら大きく感じる静けさに、再び身を震わせた。
それから、まっすぐにオーディンを見上げて、今の自分に出来る最も上等な微笑を向ける。
「ごきげんよう、オーディン様。今宵の月は明るく、とても美しいですわ」
非礼を詫びる彼の言葉への返事は、礼儀正しい貴婦人の「ご挨拶」であった。
月が明るく、星星の煌きはそのまぶしさにかき消されて見ることが出来ない。
空の色は黒でも藍でも群青でもない、それまでの彼女の人生で言葉にしたことがない色合いを放っている。ああ、オーディンの甲冑の色と、とてもよく似ている。彼女はそう思い、月光によって側面を照らし出されているオーディンの鎧の輝きを見て、ほう、と小さく溜息をついた。
「ああ、素晴らしい月明かりだ」
オーディンは空に浮かんだままで月を見上げた。王女もそれに習う。
もっともっとオーディンを見つめていたいという思いもあったが、それよりも何よりも、今オーディンと共に同じ月を自分が見ているこの状況を思ったときに感じた恍惚感に彼女は負けた。
オーディンは相変わらず冑の下から月を見つめていた。
王女もまた、細いあごを軽くもちあげて頭上の月をひたすらに見つめる。
月の表面はいつも不思議な色が混ざっている、と王女は思う。
白い表面に浮かび上がってくる不思議な文様は、水の中に銀鎖を沈めて作ったのではないかといつも彼女は思っていた。
しばしの間、言葉もなく二人は白い煌々と降り注ぐ明かりを浴びていた。
しかし、王女の心は既に月にはなく、目の前の幻獣に囚われている。こうやって月を見ている間は、オーディンに対する胸の内を彼に気付かれないですむのではないかとか、彼が来てくれたことに対して喜び勇んで、それが表に出てしまうのではないかとか、息をつく暇もないほど彼女はそんなことを考えていた。
言葉を発して、彼の視線を自分に向けることが怖いとも思える。
たったそれだけのことでオーディンは自分の心の中を見透かすのでは?と彼女は怯えていた。
会いたかった、見つけて欲しかった、来て欲しかった、あなたがここに来てくれて嬉しい、あなたが好き、あなたを愛している、あなたと共にいたい、あなたが・・・
それらの、喉の奥で封印している言葉が、音にならない状態で彼に伝わってしまうかもしれない。
気付いて欲しいけれど、気付かれたくない。その葛藤のため、声を発することも視線を向けることも自分には何一つ自由に出来やしないのだ。
彼女はゆっくりと数回瞬きをした。それはおそろしく緩やかで、自分の眼球のどれほどの部分が今まぶたの裏に覆われているのかすら把握出来るほどのものだ。これは瞬きとは呼べないのかもしれない。
「外気が冷えてくる。余計なことではあるが、そろそろ室内にお戻りになった方が」
先に澄み切った空気を震わせたのはオーディンの方だ。
王女はもちあげたあごをゆっくりとひき、それからオーディンに向き直った。
「オーディン様こそ。お体に差し障りはないのですか」
「この程度の怪我は、どうということもない」
それが本当なのかはわからないし、この程度、というのもどれほどのものか彼女には想像すら出来ない。
「・・・わたくし、もう少しだけここにいたいのです。このまま室内に戻って眠りにつくことに不安を覚えます」
「何故」
「目が覚めたときに、当たり前の朝が来るのだろうかと。この城が、この国があって、いつもと変わらない日常が始まるのだろうかと。ここに自分がいて、ここでこうして・・・」
彼女の言葉はとまった。
言っても良いことなのだろうか。
そこに含まれる真意は、オーディンに伝わってしまうだろうか。
伝わったらどうしようと思う反面、伝わって欲しいと彼女は願う。
「あなたといることすら本当は夢だとしたら、どうしようと思ってしまうのです。眠りについている間に、戦が始まり、そう、何もかも本当のことを夢のように・・・奪っていくのではないかと。それが不安で・・・そんなことはない、とあなたに言って欲しいのですわ」
本当と嘘が絡み合った言葉。
王女は自分が吐き出してしまった愛しさの欠片というものが、オーディンの目にはどう映り、耳にはどう聞こえたのかとまたも怯えた。
オーディンの言葉を待つ間、彼女は瞳を閉じて神に強く祈る。
何故恋に落ちたのかを人に問われても、その答えを彼女は持たない。
気付けば抗えない真実がそこにあっただけだ。
それに幾度となくもがいたけれど、無駄なあがきだったことは嫌というほど今は実感している。
「奪われたくないならば、守るしかない」
「わたくしには、何の力もございませんもの」
「王女には、国を守る力がある」
「そうでしょうか」
「そうだとも」
そんなことを聞きたいわけではないのに。軽い苛立ちを感じつつ、彼女は目を細めてオーディンを見た。
「この国はそういう国だ。民衆は心から王族を愛し、王族は心から民を愛している。王族なくしてはこの国はありえず、そして民なくしてもこの国はありえない。王女が王女であることが、この国を守ることになるのだと思う」
それは詭弁だ。王女はそういおうとしたが、オーディンの言葉は終わってはいなかった。
「王女に出来ることは、たったそれだけだ。けれども、それはとても難しいことだ」
「たったそれだけ」
「守る力がないとあなたは言った。そうではないと私は思う。しかし、あなたはあなたが欲するほどの大きい力を持っているわけではない。たとえ納得いかなくとも、自分が持ちうる力で・・・自分だけが出来る方法で、この国を守るしかないのだ」
「つまり」
王女は悲しげに顔を曇らせた。
「わたくしには、わたくしの民を守るだけの、望む力はないということではありませんか。それでは、同じです」
「同じではない」
「同じです」
「王女がそうである限り、わたしはこの国を守ろう」
その言葉にはっとなって彼女は目を見開いた。オーディンは穏やかに続ける。
「この国の民が王族を正しく敬い、この国を愛する限り。王が、この国の民に誠実で、王族としての役割を忘れぬ限り、それぞれがそれぞれを守るための信念を貫こうとするならば、わたしはこの国を守ろう」
「オーディン様」
「王女が王女であること。民が民であること。王が王であること。それらが、この国の力となろう」
初めてオーディンの口からそんな言葉を聞いた、と彼女は気付いた。
オーディンが何故今まだここにいて、そして何故今戦いに参加し、負傷してまでもこの地に留まってくれているのか。そして、彼はこの国に対してどう思っているのか。
王女は胸元を押さえていた手をゆっくりと両脇にさげ、小さな拳を握り締めた。
あなたが。
あなたが、わたくしの力となってくださるのですね。
喉の奥に絡まって声がうまく出てこない。それは、傲慢な物言いではなかろうか。そんな躊躇が彼女の体の中にその言葉達を縛り付けている。
「オーディン様」
「うむ」
「ぐるりと、この城の周りを、ほんの一周だけ」
彼女の口から出た言葉は、まったく違うものだった。
「お供させていただけませんか。月夜の散歩を一人で行う自由はわたくしにはないのです。けれども、あなたとならば王も許してくださいますでしょう」
オーディンはその申し出にはすぐには答えなかった。すぐさま王女は彼の沈黙を「ああ、やはりはしたない女だと思われてしまったのだろう」と解釈をして落胆した。
「それで、王女が眠りについてくださるのであれば。一周だけ。それから、今晩だけと約束していただけるならば、喜んで」
はっと彼女は瞳を見開いた。存分に月光を浴びたスレイプニルが更に数歩前に進んでバルコニーに降りた。
目の前で愛しい騎士は「失礼」と言いつつ馬から降りて、彼女に近づく。
ひざをつくことなく王女に手を差し出す。自信のない振る舞いは彼女自身が許さない。本当は感動のあまりに手を差し出すことすら怖いというのに、彼女は自分を奮い立たせて、傲慢な貴婦人のようにオーディンの大きな手−当然それはまた、指先、手首を覆う緻密な作りの篭手で覆われていたが−に手を重ねた。
その手をとって、オーディンは彼女を軽く引き上げた。たったそれだけで、まるで重力がなくなったかのようにふわりと彼女の体はスレイプニルの背にまでひっぱりあげられる。
そうだ、初めて出会った日も、こんな風に。
オーディンは王女をスレイプニルに乗せ、その後ろに自分がまたがって手綱を手に走り出した。
まるで自分だけの居場所のように堂々とスレイプニルが再び空に舞い、地上へと戻っていく。城壁を越えて一気に城外へと飛び出てしまった。
空に浮かぶという初めてかつ普通では経験出来ない特殊な感触に戸惑うよりも、後ろで自分の体を支えるオーディンの冷たい鎧の感触に彼女は支配されていた。
月明かりが照らし出す美しい光景を目に焼き付けるよりも、瞳を閉じて今自分が肌で感じるオーディンを鮮明に覚えておきたいと思う。
城の周囲をぐるりと馬で駆けても、どれほどの時間にもならないことを彼女は知っていたし、オーディンもまた知っていた。
ああ、これは、儚い一夜限りの夢だ。
繰り返し同じことを思うしか、もはや彼女の思考は広がることがない。自分の心や体の中に詰め込むことが出来るありとあらゆる場所にその思いが充満してゆくだけだ。
彼らはどちらも言葉を発さないまま、スレイプニルの背に乗り城壁に沿って言葉通り一周した。
そうだ、もはや言葉はいらない。
今ここに自分がいて、そしてオーディンがいる。
それだけのことを噛み締めるのに、言葉なぞいるはずがないのだ。
彼女は息を潜めて、自分の体に当たる彼の鎧や、彼が愛しているスレイプニルのひづめの音を、永遠に忘れないように記憶にしまい込もうと全身全霊を傾けていた。
空気よりも何よりも、今の自分の生きる糧が、まるでそれであるかのように。

夢は朝になれば覚めるものだ。
いやというほど知らされる、息苦しい朝がやってきた。
押し寄せてくる恐怖の波に飲み込まれないように、彼女は唇を引き結んで拳を強く握り締める。
事態は急転直下悪化し、幻の一夜が明けて目覚めた彼女を待っていたのは、幼い頃彼女がなついていた第三団長の訃報だった。敵はぞくぞくと押し寄せ城に攻め入らんばかりの勢いだという。
逃げるという選択肢は初めからなかった。父王は、せめて彼女だけは、と言い続けたが、彼女はこの国とこの城と自分が共にあることを永遠に望む、と言って父王へ深く頭を下げた。
早くに本当の母親を失った王女は、尊敬する父王を再び自分が置いていくことを許せないと思った。
母親の替わりに自分が父と共にいることを、この戦が始まった時に彼女は決意していた。
鎧を纏うように女中達が何度も何度も勧めたが、彼女は頑としてそれを拒み続けた。
自分が鎧に身を包めば、そこまでの覚悟を王女がしてしまった、と人々に動揺を与える。やはり、彼女は常にいつもの自分でいたかったし、自分がそうであることが兵士達への信頼の表現だと思っていた。
「着替えたいの」
豪奢な部屋に女中二人を呼んで彼女はそう告げた。
ようやくその気になってくれたか、と彼女たちは安堵の―それは何ひとつ安堵するようなことではないのだが―表情を浮かべた。しかし、王女はその期待を裏切る言葉を続ける。
「なめらかな肌触りのドレスがいいわ。わたしが一番美しく見える一枚布仕立てのものを」
その指定で女中達は、おおよそどのドレスなのかを把握した。
王女でありながらあまり多くの衣類を所持していない彼女が最も愛しているドレスがそれだ。
死に装束として選んでいるわけではない。ただ、彼女は毅然としていたいだけだ。
自分に自信をもつため、ドレスを着替え、髪を綺麗に結い上げ、装飾品をつける。
この城にいる者達で、彼女のそんな様子を見て「自分が戦わないからそのような恰好を」と憤慨する者はいない。
むしろ、誰もがその姿を見て彼女のその気持ちを理解することだろう。
つややかな光沢を放つ薄手のクリーム色のドレスに彼女は着替えた。
それから、髪を直したいという旨を申し出て、女中達に髪を結わせた。
お気に入りのいつもの椅子に腰をかけて、薔薇の彫刻がほどこされた銀の手鏡を手にして自分の顔や髪を入念にチェックをして指示を出す。
「きつく結い上げて頂戴。ああ、長さが足りない襟足の髪は香油できちんと上へあげてね」
「・・・はい」
女中は表情を一瞬翳らせてから彼女の指示に従う。
はらはらと落ちる短い髪や産毛に香油を優しくなでつけ、上へ上へとくせをつける。
長い髪の流れに巻き込んで乱れがないように。今まで、決して彼女が許すことがなかった、乱れのないまとめ髪。
それは、彼女がこの城の最期を心の中で覚悟した現れなのだろう。
この城に残っている幻獣で最も力が大きい者はオーディンだ。
けれど、彼は先だっての戦いで負傷をしており、未だその傷が癒えぬことを彼女は知っている。
オーディンが負けないことを信じてはいるけれど、負傷した彼を前線に自分の父親が送ることはないのではないか、という気持ちも彼女にはあった。
どうなるのかはわからない。
だから、覚悟がいる。最悪の状態をいつでも考えておかなければいけないのだし。
騒がしい音が聞こえた。
城門付近から響いてくる耳障りな喧騒。
その音がどんどん大きくなってゆく。
来た、と彼女は思った。
手鏡で自分の顔を見て、険しい表情でいることに彼女はがっかりした。
それから気まぐれをおこして、そうっと彼女の髪を結い上げている女中を映し出す。ちょっとしたいたずら心で動かした鏡の中に映る女中を見て、彼女は驚きの声を軽くあげた。
「・・・何を泣いているの。怖いの?」
ふと気付けば部屋の中にいる女中3人は誰もがうっすらと涙を浮かべていた。
王女は視線だけでそれを確認して、小さく微笑む。
「・・・怖ければお逃げなさい。まだ、間に合うわ」
「いいえ」
一人が泣きながらも答えた。
「お見苦しいところをお見せして申し訳ございません。怖いわけではございません」
言葉はわずかに震えているけれど、その表情には何の迷いもないように王女には感じられた。
「それなら、何を泣いているの」
「王女様が」
「・・・」
「あまりにお美しいので」
「・・・ありがとう」
王女はそこにいる女中達をぐるりと見渡して、満面の笑みを作った。
三人の女中はその瞬間誰もが泣き崩れた。
こんな王女がいるこの国に、何故悲劇が起きるのだろう。
繰り返し誰もがそれを思い、けれどもそれを口にすることなく、来るべき時を待ち続けるしか、もはや何一つ手立てはないのだった。

オーディンはスレイプニルに乗ったまま、王の間近くの通路で控えていた。
傷が癒えぬ彼を前線に出すことを王は拒み続け、先ほどようやくそれを説き伏せたばかりだ。
どんな状況であれ、自分は騎士だ。
たとえ、この城の王に忠誠を誓ったわけでもなく、彼自身が人ではないとしても、彼は王女に手を差し伸べたあの日からこの国を守る義務を自分に課していた。
しかし、王からしてみれば、今までの戦いでオーディンはとても健闘してくれていたし、なんといっても今は負傷している。
本来主位である自分はオーディンをもまた守る立場であるべきなのだ、と王はなかなか譲らなかった。オーディンは意識をしてはいなかったが、彼はこの国では客位にあたるわけなのだし。
今更といってはなんだが、その王の気持ちも多少わからぬこともない。
王は、オーディンには最後の最後までこの城に控えていて欲しい、とそれだけを出陣に対しての交換条件にしてきた。オーディンの負傷は未だに癒えず、甲冑に包まれているものの、わずかなぎこちなさはその動きに出て、戦人として野を駆けたことがある王はそれを見逃すことはなかった。
オーディンは、この国がもう終わってしまうことを知っていた。
たとえ自分が敵を一蹴したとしても、城まで攻め入られるということはそれなりの損害を受けているということで、この戦で勝利しても次はないだろう。そして、たとえ次の戦がないとしても、復興するには難しいほど戦火が広がっていることも理解していた。
たった一夜で事態が悪化しているのは、思いもよらないほど強化された、敵方の幻獣と魔道士のせいだ。
オーディン以外にこの城に身をよせていた幻獣や、城下町に住んでいた幻獣達は既に前線に出ており、そして、敵がこの城に辿り着いたということは同胞たちの死や捕獲を意味する。
「こちらへ!」
兵士の声が響く。
オーディンが立つ通路の先の角から、兵士二人に率いられて王女と女中数名がこちらに向かってくる姿が見えた。
多分、奥の間に篭るのだろうとオーディンは思う。あの王女は逃げないと言った。ならば、それを曲げることは出来ないのだろうと彼は知っていた。
「オーディン様」
王女は、彼の名を呼んだ。
「早くゆくが良い」
その言葉に足を止める。兵士達は急かそうとするけれど、その言葉を無視して王女は馬上の騎士をまっすぐ見上げていた。
「・・・ここで、何をなさっているのですか」
「王に呼ばれればいつなりと、私は戦に赴く」
「父が、あなたの主なのですか」
王女の言葉にオーディンはぴくりと反応をした。
ああ、やはり。
王女は軽く眉を寄せ、苦渋の表情を見せた。
わかっていたけれど。
「それは、あなたが一番よくわかっていらっしゃることではないのか」
「・・・」
はりさけんばかりに叫びたい衝動が、王女の全身を襲った。
そうだ。わかっている。
あの日彼は自分を助けて、この城にやってきた。
そして、彼女がそう望んだから、未だに彼はここに留まっているのではないか。
わかっていたけれど彼女はそれを口にしなかったし、彼もまたそうだとは言わなかった。
それでも、今ここで彼女はどうしても確かめたかったのだ。
昨晩喉に絡んで出てこなかった言葉達が、こんなときにようやく解放されるなんて。
王女は自分の口元が、まるで痙攣しているかのように震え始めたことに気付く。
力をいれて、我慢をしなければ。
わたくしがわたくしであることが、この国を守ることであるとこのお方はおっしゃったのだから。
「オーディン様、スレイプニルから降りていただけますか」
静かな声音。
わずかな間ののち、オーディンは無言でスレイプニルから降りた。
がしゃりと鈍く響く甲冑の音。王女はそっとスレイプニルに手を伸ばす。
背が高い馬は彼女が腕を伸ばすと利口にも頭を低くする。その思いやりの深さに王女は涙腺が熱くなるのを感じた。
指先で触れてから、その首筋を両腕で抱きしめた。
それから名残惜しそうに、ゆっくりゆっくりとその腕を放してオーディンに向き直る。
「わたくしの、命令を、聞いていただけますか」
「なんなりと」
「決して、死なないで」
オーディンはゆっくりと王女の前で膝を折った。
王の前ですら彼が膝を折った姿を誰一人として見たことはない。
その場にいる誰もが息を殺して、オーディンの一挙一動を王女の後ろから見守っていた。
「最善を尽くそう」
出来ない約束はしない。
最善を尽くすということが、今のオーディンが唯一心から言える答えであることは明白だった。
王女は哀歓が入り乱れた気持ちを抑えよう抑えようと、それだけに全身の力を傾けた。
彼の主は、自分なのだ。
その歓び。
そして、多分、彼にとって自分は主でしかないのだ。
その哀しみ。
それでも、目の前で愛しい騎士が膝を折っているその姿は感動的とすら言えたし、愛しさで破裂しそうなほど彼女の心臓は高鳴っている。
今すぐ、ここで、彼のその体を抱きしめたい。
スレイプニルの首筋を抱いたように、細い自分の手では回りきらない彼の鍛えぬかれた体に、腕を絡めたい。
その感情を殺すことだけが、今の彼女の精一杯だった。
「・・・ご武運を、お祈りしております」
「ありがたきお言葉」
オーディンは深く頭を下げた。
「顔をあげてください」
王女の声で、ゆっくりと顔をあげる。相変わらず彼の視線はどこを向いているのかがよくわからないけれど、多分、まっすぐと自分を見つめているのだろうと王女は思う。
「・・・・」
背中に兵士と女中の視線を感じながら、王女は小さく唇を動かした。
そのとき、どーーーん、という大きな音と共に、城全体が揺れるほどの衝撃が彼らを襲った。
オーディン様、オーディン様。
兵士の声が遠くから聞こえてくる。
「・・・行くぞ」
オーディンは立ち上がり、名残惜しさの欠片も見せずにスレイプニルに乗った。
「早く、王女を奥の間に」
「は、はい!」
兵士にそう言い放つと、オーディンは城の通路にも関わらずスレイプニルに合図を送る。
何の儀式なのかスレイプニルは一度だけ高らかにいななくと、何の躊躇もなくオーディンに言われるがまま走り出す。
「オーディン様!」
王女は悲鳴に似た声をあげた。オーディンを乗せたスレイプニルはあっという間に先の角をまがり、その姿を消してしまっていた。
残念ながらその声は、きっとオーディンには届いていなかったに違いない。
では、あの囁きは、伝わったのだろうか。

戦は完全なる敗北で集結した。
生きたまま捕らえられた王女は、生き残った民達の生命の保証だけを繰り返し敵兵に頼み続けた。
しかし、彼女を捕らえた兵士達にはそれらを決定する権力はなく、また、その権力を持つ人物は既に幻獣達の力を集めて本陣へと戻っていってしまったという。
王女は城の一室に監禁されて、厳重な見張りをつけられた。
彼女はどこにも短剣などをもっていなかったし、そうであることが一目でわかる、一枚布のドレスを身にまとっていたためとりたててチェックを受けることもなかった。
ただ、両手だけは体の前で手首を縛られ自由が利かない状態だ。その際に手首にたくさんつけていたブレスレットを外されたが、彼女は文句ひとつも言うことはなかった。
床に座らされても彼女は悲しみにくれることなく、非常に冷静にあたりの様子を伺っていた。
彼女の両脇に一人ずつ、窓辺に二人、扉に二人。隅には共に奥の間にいた女中三人が固められていて、兵士二人が見張っている。
ありがたいことに彼らは略奪や陵辱を行わなかった。それは彼女達にとってもっとも救いとなった。王女を守ろうと最後まで共にいた兵士二人は、圧倒的な数の敵兵にねじ伏せられて命を落としてしまったことは残念なことだが。
城にある金品は一時没収され、それらをどうするのかを敵軍では毎回検討することになっているらしい。
その習慣を徹底させるため誰一人として略奪を許されていないのだろう。逆を言えばそれほどの数の国を、彼らは滅ぼしてきたということだろう。初めは手始めに小国を。やがて、じわじわとそれは広がっていき、この城に到達したというわけだ。
「これから、あなた方はわたくしをどうするのですか」
隣で見張っている兵士を見上げて、王女は穏やかな声で聞いた。
取り乱した風もなく、かといって強がっている風もないその様子に、敵兵はすんなりと教えてくれた。
「手ひどくあちこちの町を焼いてしまったが、我々の領地となった以上多少なりと復興する必要がある。王女様には悪いが、生き残ったあんたの民衆が裏切らないように捕虜になってもらうだろう。他の国の王族はそうしている。もう少ししたらきっとあんたはこの城から連れ出されるだろうよ」
「・・・王は」
「死んだよ。王の間で自害した」
ああ、と女中が落胆の声をあげる。
王女は数回深呼吸をした。瞳の奥に熱いものがこみ上げてきたけれど、それを耐えるために軽く天井を見て、湧き上がってきた液体が乾きますように、と瞬きをせずにしばしの間制止した。
それから、ようやく3呼吸の後に質問を続ける。
「オーディン様は」
「オーディン?ああ、最後に出てきたっていう幻獣か」
「ええ、そうです。他の幻獣達のように、力を吸い取られてしまったのですか」
兵士達は顔を見合わせた。窓辺にいる兵士が口を開く。
「無理だってさ。力が強すぎて、吸い取れないってんで、王様の目の前で石化したって話だ」
「せきか・・・?」
「石にしちまったんだってさ。そのうち、あれだけの大きな力もちゅーしゅつ、ってのかな?魔道の力に変えられるようになるから、それまでこの城ごととっとくんだとよ。下手に動かすと石だから壊れるらしくって、そうしたら死ぬから、それも勿体無いとか言っていたな」
「なんだそりゃ。第一石に生きてるも死んでるもあるのか」
「あるんだろ、きっと。死んだら幻獣の力は抽出出来ないんだろ。でも、あの幻獣は力がすげぇ大きいから、まともに捕獲も出来ないし、かといって殺すのも勿体ないってことだし」
「石から力を抽出出来るってのか」
「それはわかんないけど。だけど、一体いつになるやら、一年先くらいか、何十年先か、もしかすっと何百年もかかるか、全然わからないとか言ってたぞ」
王女はその話を聞きながら、よくわからないなりに考えていた。
一体この兵士達は何を言っているのだろう。
石化とはなんだろう。石にしてしまった?そんなことが人間に出来るのだろうか。
ああ、魔導の力とかいうものを敵は持っていると聞いたことがある。それなのだろうか。
「それでは、オーディン様は、死んでいるわけではないのですね。石になっているだけなのですね」
「みたいだけどな。だけど、生きてるとは言わないよなぁ、あれじゃあよ」
その時、ドンドンと荒っぽいノックの音が聞こえた。
兵士達はお互いなにやらの暗号めいたやりとりをして扉を開く。やってきた敵兵は、この部屋で王女達と話していた兵士よりも格上なのか、強い口調で命令をした。
「王女を連れて来い。父親の遺体を見せてやる。あれが本当の王であるかどうか確認させるんだ」
彼女は瞳を閉じた。既にありとあらゆる覚悟は出来ているつもりだった。本当に自分にその覚悟があったのかどうかを再確認しようとした。
視界が閉ざされた中で脳裏を掠めたのは、月明かりの下駆けてくるスレイプニルの姿だ。

しんと静まり返った王の広間に、兵士に軽く突き飛ばされて彼女は足を踏み入れた。
見慣れたはずだったその空間は、もはや彼女の知った場所ではなかった。
押されたせいでつまづきそうになり、あ、と自分の足先に目をやって、彼女は体を強張らせた。
爪先につくどす黒い何か。それが凝固した血だということを理解するまで、彼女はその場でじっと足元を見詰めていた。ようやくそのことを理解してそうっと視線をあげると、せわしなく残処理に動く敵兵達が死体を運んでいる姿に気付いた。そして今更ながら飛び散った血の跡が床や壁のあちこちについていることに気付き、息を呑んだ。
扉付近には兵士の遺体が山積みにされて、この城のものらしいシーツがかぶせられていた。隙間からわずかに見える甲冑が敵兵のものであることを彼女に教えていた。
彼女は隠されている遺体を見ることは出来なかったし見たいとも思わなかった。
ただ、それでは自国の兵士の遺体はどこに処分されたのだろう、とだけ動かない頭で思った。
「こっちに来い」
奥の玉座近くまで行って、彼女を連れ出した男は荒っぽく王女を呼んだ。
しかし。
玉座よりも手前に、彼女の足を止める者がいた。
見つけた。
「オーディン様」
彼女の目の前にいる、その人は。
間違いなくこの国を守ろうと、負傷した体をおしてまで戦いに出た愛しい騎士とその愛馬だった。
「おお・・・」
スレイプニルは昨晩とはうってかわった荒々しい跳躍を見せようとしている瞬間であったし、馬上の彼もまた、強く手綱を握りつつ敵に切りかかろうとしているその瞬間だ。
ああ、そうではないのに。
王女はその場でへたりと座り込んだ。冷たい床の上にはもしかして、血がこびりついていたかもしれないが、そんなことに気が回る状態ではなかった。
愛する彼らは、兵士達の話通りに、まるで芸術家の最高傑作と思えるような石の彫刻となり、既にここにはいない敵を切り捨てようとしているところだった。
石といっても、鈍い黒い光をもつ、しかも強度が高い石だ。
まるで彼の甲冑の色がそのまま彼の触れるもの全てに広がっていったように、スレイプニルの全身にまで広がっている。
「おい!王女を立たせて、連れてこい!」
男の怒声が響く。彼女の鼓膜を振るわせるその音は、彼女にとっては何の意味もない。
そうではない。そうではないはずなのに。
目の前の彫刻に手を触れたい衝動にかられたが、触れた瞬間に壊れてしまったら、と彼女は怯えた。
ああ、自分が留めておきたかった瞬間は、こんな一瞬ではなく。
どうせならば、月明かりのあの時に、わたくしとあなたの時が止まればどれほどよかったか!
残酷な現実を前にして彼女はうなだれた。そんな彼女を立たせようと兵士が肩をぐいと掴む。
「ほら、立て。王の遺体を確認したくないのか」
「オーディン様」
「なに?何か言ったか?」
「ごめんなさい」
彼女は床に膝をついたまま、突然体を前に丸めた。

王女が、そうである限り、わたしはこの国を守ろう

彼はこの国を守ると言ったけれど、もう彼がこの国を守ってくれることは未来永劫ないのだろうし、彼の声を聞くこともないと彼女は思った。
ならば、わたくしが国を守る力を放棄しても、許してくださいますわね?
手首に枷をつける時にはずされずにすんでいた指輪を、彼女は強く噛んだ。
食べ物以外のものを噛むなどというはしたない行為をこんな最後にするなんて。彼女はそんなことをわずかに思う。
騎士は主を守るために命をも犠牲にするけれど、主のすべての願いが騎士の生存であれば。
それを裏切られて残された主だって、守ってくれる騎士なくしては生きてはいけないではないか。
許してください、許してください、許してください。
彼女の心を支配する許しの祈りは、誰へ向けたものなのだろうか。
王へ?民へ?オーディンへ?
最期まで王女として生きることを貫けなかった自分に対して不甲斐なく思ういとますらなく、体の中を、彼女を死にいざなう獰猛な闇が広がる。
最初に視界が失われたことも何も気付くことが出来ないまま、彼女はオーディンの足元に崩れ落ちた。
驚くほど軽い音で彼女は冷たい床に体を預けた。
クリーム色のドレスの裾がひろがり、たたまれたなめらかな素材のドレープは、見るものをはっとさせるほどに美しい。まるで彼女自身を花のしべとして包み込む花弁のようだ。
彼女の側にいた兵士達はその美しさに触れることに躊躇して、しばしの間倒れた彼女を見つめるだけだった。
何が起きたのか、と疑問に思う間もなく、自分の目に飛び込んできた光景の美に彼らは心を奪われていた。
「何をしている、王女を連れて来い!」
男の怒声が彼らの耳から脳へ正しく伝達されるまでに要された時間はおよそ指折り数えて10を過ぎた後だ。
わずかな髪の乱れもないまま、彼女が王女であることを放棄したと、そのときようやく彼らは理解した。
それでも、誰も王女に触れることは出来なかった。
落ちた花の美しさに心打たれることがあることを、それまでの人生で彼らは知らなかったに違いない。

死なないで。
その彼女の哀願と命令が忠実になされたことを、後にオーディン自身は身をもって知るのだが、それは遠い未来の話だ。
彼女がこの地を去って隔てること1000年。
それが彼にとっての一夜であり、美しき王女との記憶は彼にとって最も鮮やかな記憶として蘇ることになる。
あの美しい王女が知れば、それは限りなき喜びになるだろうに。



Fin

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