約束-1-


彼女は、テラスに置いてある純白のカウチに体を預けていた。僅かに髪を揺らすほどの風に吹かれながら軽く顎をあげる彼女の姿を、彼が離れた場所からでも見ることが出来るほど、空の星達は明るく瞬いている。
彼は、わずかな時間息を殺し、彼女の様子をそっと見守っていた。その行為は、「見守る」というよりも、むしろ「観察」と言っても良いかもしれない。
彼の目に映っている彼女の体は、よりいっそう細くなったように見える。
まるで、彼女から幼い部分を優しく削ぎとったように、彼女を急速に大人に仕立てたかのように、「女王」の肩書きと共に彼女の体は変化してしまった。
少女はやがて成長をして女性になるものだ。
正しい成長によって彼女が大人になったのならば、それは、この宇宙にとっては歓迎すべきことなのかもしれない。
けれども、そこで星空を見上げる彼女の変化はそうではない。
あの年頃の少女が、短期間にこうまでも印象が変わって行くのかと思えば、それは尋常ではないように彼には感じられた。いや、彼だからこそ、そう感じられるのかもしれない。身近にいて、その変化を日々見てきた人間には、ほんの微少なものにしか見えないのに違いないのだから。
立ち上がっていないというのに、カウチの斜めから見える彼女の姿は、何故か「すらりとした」印象を彼に与える。上背が変わっていないはずなのに、と彼は眉間に皺を寄せた。それが何故なのかを考えてゆけば、胸に軽い痛みを覚えるほどにせつない想像が、彼の脳裏に浮かんでしまう。
そうだ。まるで、急き立てられるように、背を押されるように、何かに引きずり上げられるように。
爪先立ちですら許してもらえない残酷な状況は彼女の心を圧迫し、結果、彼女は笑みを顔面に貼りつかせたまま、無理矢理大人になるしかなかったのだろう。
ただ静かに星を見つめる横顔を見るだけで、それほどのことが手にとるようにわかってしまう悲しい事実。
深い愛情というものは、時折こうやって、愛するものの苦痛をずるりと白日の下にさらけだしてしまうものだ。
誰が知らなくとも、彼女が知らなくとも、彼女を深く愛する彼は、痛いほどにそれを感じて唇を噛み締めた。
目を背けたいと思う弱さと、立ち向かわなければという強さが彼の心の中で渦巻く。
それでも、この場に自分がいる幸運と奇跡から逃げるつもりはない。
どれほどの時間が経ったのだろうか。やがて、彼はその一歩を踏み出した。
足音を出来る限り消して近付いた彼は、次には、わざと足音を立てて彼女に近付いた。
「っ・・・誰!?」
彼女は、彼女が待っていた人物の足音−それは、彼女が毎日聞いているものであるし、衣擦れの音ひとつも違うのだし−と、耳に入る足音が異なることに驚いて、星空から視線を外した。
まっすぐに長く伸びた栗色の美しい髪が揺れる。
間違いなく彼女は、彼の姿を確認していた。
驚きの余り見開かれた彼女の瞳は、彼の記憶に残る彼女のものと寸分も変わらない。
それが、また、痛々しい。彼はそう感じた。
「・・・ヴィクトール様・・・!!」
その呼びかけは。
彼との別れの直前まで、彼女がどうしても直すことが出来なかった呼び名。
少女らしさを残すその声は、とても愛しい耳慣れた響きで彼の鼓膜を震わせるのであった。


−−聖獣の宇宙の女王が、臥している。
そして、聖獣の宇宙を安定させるためのサクリアを持つのは、あなたです−−
突然現れた少女−エンジュ−からそのことをヴィクトールが聞いたのは、10日ほど遡った日のことだ。
信じ難いその突然の話は、驚きや焦りを彼の心に生んだ。いやそれだけではない。もっと数多くの感情が生まれては消えず、更に生まれては消えず、ただただ蓄積されるだけで、何日もの間彼の心をかき乱すのに充分な威力だった。
聖獣の宇宙の女王であるアンジェリーク・コレットは、もともとは彼が住んでいる神鳥の宇宙にいた少女だ。
彼女は女王となるために、女王試験なるものを受けた。その時、ヴィクトールは女王候補生達を教育する教官に選ばれ、女王試験を行う地に招かれていた。それが、彼らの出会いだ。
今となってはあまりにもあっという間に過ぎたように感じる女王試験の日々。
その中で、ヴィクトールとアンジェリークは、お互いを特別の存在と意識するようになり、そして、お互いの想いを伝え合った。
もし、アンジェリークが女王になれば、聖獣の宇宙に彼女は行くことになり、女王試験終了とともに一般人に戻るヴィクトールとはまみえることが出来ない存在になる・・・。
それがわかっていても、人の感情とは、抑えがたいものだ。特に、愛情と憎悪は。
精神の教官として招かれたにも関わらず、彼は己の感情を最後まで隠し通すことが出来なかった。
あの純真な少女からの愛情に、自分を偽り背を向けることがどうして出来ようか?
たとえ、別れが初めからわかっている間柄であっても。 
「・・・何故、俺に知らせてくれなかったんだ」
軍の執務室に、ふとヴィクトールは呟いた。わざわざ声に出してしまった自分を恥ずかしいと思い、彼は瞳を閉じて、小さく溜息をついた。
贅沢なものなぞ何もない、ひたすらに機能的でシンプルで、けれど、木製の家具が多いためか温もりがどことなく残されている、彼の執務室。
窓越しにちらりと外を見やれば、月が既に傾きかけている。それでも、彼は限られた時間にやり遂げなければいけない職務をいくつか抱えていたため、未だ横になることは許されないのだ。
(何故、だと?我ながら、間抜けな問いかけだ)
答えはわかっていた。
知らせる必要なぞ、微塵もなかったからだ。
いや、むしろ知らせてはいけないと彼女ならば思うに違いない。
もはや彼と彼女を繋ぐ糸は限りなく細い。
ヴィクトールが住んでいる神鳥の宇宙と、彼女が治めている聖獣の宇宙。
どれほどにお互いを思っていようと、どれほどに手を伸ばそうと決して届かない距離。それを繋ぐ、細くて切れそうな糸。
会いに行く、とは言えなかった。それは、立場上も物理的にも無理だからだ。
手紙を書く、と彼は彼女に言った。しかし、聖獣の宇宙へ郵送物を送るには、必ず神鳥の宇宙の聖殿を仲介しなければならない。
彼は、自分が彼女に送る手紙が公の文書ではないことを重々承知していた。だから、多くは送れないとわかっていた。
それでも週に一度。忙しい時は月に一度、彼は手紙を書いた。
そして、彼女からの手紙を読んで。
もう、彼女は決して自分には頼ってくれないのだ。
いや、頼られても自分は何も出来ないのだ、と、己の無力さを思い知り、悔恨とも落胆ともつかない感情に苛まされる。
後悔はしていない、と思う。
あの愛らしい女王候補は、自分が女王になることを選び、宇宙をその肩に担うことを選んだ。そして、そうであることをヴィクトールもまた望んだのだから。
そうだ、後悔はしていなかった。
けれども。


聖獣の宇宙の歴史は、非常に浅い。
しかし、形式様式といえる部分は、神鳥の宇宙からそのまま引き継いでいるように彼には思えた。神鳥の宇宙から聖獣の宇宙にやってきた彼が最初に案内された場所も、御多分に漏れずの様式美を誇る聖殿だった。
あちらこちらに飾り細工が施された壁のデザイン。窓枠一つですら彼に贅を感じさせるほどの徹底振りは、権力の誇示なのか、それとも、人という身分では推し量ることが出来ない長い時を経る人間を思っての、彼には理解が出来ないサービスの一つなのだろうか。
ヴィクトールは、身分が高いものが豪奢な服を着て、美しい場所に住まうことに対して声高に意を唱える人間でなかったので−文化の違いと割り切っているのだろうが−そのことを特にどうこうと言うつもりはない。
セイランが見れば「へえ、まったく、こんなところだけ無意味に美しくても、未熟な宇宙を救う足しにもならないっていうのにね。まあ、センスの良さは認めるよ」とでもヴィクトールに軽くぼやくのかもしれない。
とはいえ、この場を初めに用意をしたのは、神鳥の宇宙の女王陛下や補佐官だったのだから、聖獣の宇宙に住まう者たちが非難されるいわれはないのだが。
彼は、エンジュという少女−聖獣の宇宙からの使いとして、神鳥の宇宙にいる彼を迎えにきた使者といって差し支えはないだろう−の後ろについて歩き、とある一室に足を運んだ。
「待っていましたよ、ヴィクトール様!!・・・って、いっけなーい。昔の癖で」
エンジュに続いて室内に足を踏み入れると、途端に明るい声が響き渡った。
その部屋の主は、聖獣の宇宙の女王補佐官という立場を持つレイチェルだ。
この宇宙の女王となったアンジェリーク・コレットと共に女王試験を受け、惜しくも敗れてしまったものの、アンジェリークと共に聖獣の宇宙へと身を移して女王アンジェリークをサポートする役割を担っている。もちろん、彼女もまた女王候補生時代にヴィクトールと出会った、いわば、彼の生徒である。
その懐かしさに、さすがのヴィクトールもわずかに笑みが漏れてしまった。彼を迎え入れたレイチェルもまた、彼女にしてはばつが悪そうな笑顔を見せた。
「ああ、久しぶりだな、レイチェル・・・いかんいかん、女王補佐官殿」
「アハハ、お互い様ってとこですね!まだ、守護聖になる儀式は行われていないし、いいですよ」
「そういうわけにも。俺はともかく、お前は女王補佐・・・おっと、お前、と呼んではいかんな・・・」
「とにかく、堅苦しいことナシで話しましょ。それからです」
2人は軽く握手を交わす。レイチェルは、彼をこの地に導いた少女へ満面の笑みをむけた。
「これで、また少し宇宙も安定して、女王陛下も楽になるわ。エンジュ、ありがとね!」
「いいえ、どういたしまして!お力になれて嬉しいです。早く女王陛下がお元気になるといいですね!」
屈託ない笑顔で、気の優しい明るい少女はそう答えた。が、その言葉を聞いたヴィクトールからはすうっと笑みが退いていき、眉根を寄せ、見るからに思わしくない表情へと変化していった。
「・・・そのこと、なんだが、レイチェル・・・」
「ん?」
「アンジェリークの・・・女王、陛下のお加減というのは・・・」
「うん。ヴィクトール様、そのことなんだけど」
そう答えながらレイチェルはちらっとエンジュに視線をやった。
普通であれば、「エンジュがいる前で話してもよいのだろうか?」という意味合いなのだろうが、もともと賢い彼女がこれ見よがしにそんな素振りをするはずがない。
それは、ヴィクトールにむけての、違うサインだ。


どこまで話していいの。
女王陛下の。ううん、アンジェリークのことを。
アナタとのことも、いいの?
どういう覚悟で、その言葉を口にするの?


ヴィクトールは恋愛沙汰などは疎い人間であったが、そういった「はっきりと強い意志をもった、彼個人に明確に放たれた信号」を正しい形で受信する能力はもともと低くはない。そうであるからこそ、彼は軍人として優れていた逸材であったし、部下からも絶大なる信頼を得ていたのだし。
唇を引き結んで彼はレイチェルを見つめる。
当のエンジュには、2人の間にどれほどの思いがあるのかをわかろうはずがない。が、2人の様子から何かを敏感に察知したように、慌てて一歩下がる。
「あっ、わたし、お邪魔ですよね。おいとましますっ!」
「・・・ああ、いいんだ、エンジュ。悪い。俺が悪かった、気を使う必要はない・・・というのに」
困ったようにヴィクトールはそう声をかける。しかし、エンジュは頭をぺこりと下げて、ばたばたと補佐官室から出て行ってしまった。
その軽いけたたましさですら、ヴィクトールにはどこか懐かしさを感じられ、苦笑をしてしまう。
そうだ。この年頃の少女達は、悪気がなくともばたばたと動くことがあるものだ・・・。
一瞬そんな感慨にふけったが、すぐさま気を取り直してレイチェルへ質問を投げかけた。
「レイチェル、陛下の容態はどうなっているんだ。陛下からの手紙は、かれこれ3ヶ月前を境にぷっつりと途絶えていた。その時は、忙しくなるから、次の返事が遅くなるかもしれない、と・・・」
ヴィクトールは、アンジェリークには是非とも立派な女王になって欲しい、と心から思っていた。
そのために彼は、自分が彼女の重荷にならないようにと連絡を切ろうと思い悩んだことすら幾たびもある。
自分のことなぞ忘れてしまった方が、あの栗毛色の愛らしい少女のためになるのではないか。
夜になれば考え、朝が来ればそれを忘れるかのような激務が彼を待っていて、そしてまた夜には考え。
同じように彼女が思っていたら、どうしたらいいのだろう。
そんな、相手の心にすら疑念を持ってしまう、悲しい体と心の距離が彼らの間にはあった。
けれど、彼は変わらず筆をとり続け、そして彼女からの返事を待った。
自分達の有り様に対して結果を出すには、まだ早いかもしれない、と思っていたのだ。
そして、その矢先だった。
返事が途絶え、彼も休日がないほどの多忙さを極めた頃。エンジュが現れて、事の次第を告げたのだ。
「立ち話もなんですから、どうぞ」
レイチェルは、足の細い、美しい飾り細工を施された白い椅子−といっても上質なもので、安定感はあるのだが−をヴィクトールに勧めた。ああ、と頷いて、彼はそれに従って腰をかけた。
「そっか、お手紙、やっぱり出していなかったんですね・・・あ、お飲み物、持って来させます」
レイチェルはそう呟きながら、ヴィクトールの向かいに坐った。白いテーブルの隅に置いてあった呼び鈴を軽く鳴らし、やってきた女中に紅茶を注文すると、レイチェルは軽くため息をついてヴィクトールに向き直る。
「あのコ、ヴィクトール様に気をつかったに違いありません、絶対。わかってる。心配、させたくなかったんだもの」
「しかし」
「手紙じゃ、顔は見えないでしょ。最近はヴィジョン映す小型マシンだってあるけど、あっちとこっちの宇宙で映像のやりとりなんてタブーだし・・・」
「そうだな・・・」
それが出来れば、少しはお互いの様子がわかって安心出来るのに・・・そうヴィクトールが思えば、レイチェルからはまったく逆の言葉が続けられた。
「だから、きっとあの子、ほっとしてたんだと思うんです」
「ほっとしてた!?」
どういうことだ?姿が見えないことで、彼女がほっとしていたというのだろうか?
ヴィクトールの質問が音になる前に、レイチェルは話を続けた。
「知ってるでしょ、ヴィクトール様。女王試験の時だって、失敗した時に限ってあの子、へたくそな笑顔作ってたって、覚えてるでしょ。忘れるわけ、ないですよね」
「・・・」
「あの、へたくそな笑い顔、ヴィクトール様にみせたらさ、絶対ヴィクトール様、公務捨ててこっちに来たくなるでしょう。そんなの、辛いもん」
「!」
ヴィクトールは、やや険しい表情で−レイチェルに向けることは過去にあまりなかったものだが−苦渋の声を漏らした。
「俺が、神鳥の宇宙での公務を、捨ててまで・・・こっちに来る人間だと思うのか。レイチェル。そんな程度の覚悟で、アンジェリークをお前に頼んだのだと思っているのか。見損な・・・」
「だからぁ。そうじゃなくって!」
彼の言葉を聞き、負けじとレイチェルは声を荒げた。
「ヴィクトール様は、ちゃんとわかっててあのコのこと見送ったんじゃない!」
「・・・っ?」
「あのコは、この、聖獣の宇宙の女王だものっ。ヴィクトール様は強い人だから、ぎりぎりまで見守って見守って、あのコがボロボロになるまで絶対何も手出しをしないように我慢するんだろうって、きっとあのコわかってるの。私欲でわがまま言うような人じゃないから、簡単には動かない。ずーっとずーっと、あのコが倒れるまで、ヴィクトール様は絶対我慢しちゃうよ・・・だって、アナタは好きな女のために、簡単に駄々をこねるよーな子供じゃないんだもん」
「・・・」
「だけど、そうだってわかっているから・・・。そんな風に我慢するヴィクトール様を見るのだって、絶対あのコ辛いと思う。どんなにヴィクトール様が大人で、頑張ってその素振りを隠したって・・・好きあってる者同志、隠せないことだってあるじゃないですか。でしょ?」
レイチェルはそう言って、ヴィクトールを真っ向から見つめた。
相も変らぬ意志の強いその瞳を受け止め、ヴィクトールは眉根を寄せる。
そういうことか・・・だから、ヴィジョンがなくて良かったのだ、とレイチェルは言いたかったのだ。
ヴィクトールは唇を噛み締めた。
自分は確かにアンジェリークの心配をするだろう。そして、きっと己を戒める。
自分を律して律して、何も変わりがないように、自分のことだけは心配ないから安心しろ、と彼女に告げられるように。決して弱音を吐かないように。
しかし、たとえそれをヴィクトールが自分の最大の努力で成し遂げたとしても、アンジェリークは、彼の心の痛みや葛藤を先回りして気付いてしまうのだろう。
それは、既にお互いが、ただの教官と生徒という関係ではなくなっていることを物語っている。
「だけど、それで、あのコが耐え切れなくなったら・・・そういう瀬戸際の姿まで見ちゃったらさ。そしたら、ヴィクトール様は今度はちゃんと天秤にかけるでしょ。あのコと公務じゃないよ。この宇宙そのものと、アナタの公務で量るに決まってる。そうしたら、もしかしたらここに来るかもしれない。そう、今のように」
毅然と言い放たれたそのレイチェルの言葉。
この宇宙と、俺の公務。
アンジェリークと公務ではなくて。
それは、とても正しくて、そして、心の痛む訴えだ。
ヴィクトールはわずかに唇を開いたまま、言葉も出せずに彼女を見つめた。
「・・・俺は・・・」
「それはそれで、わかっていても辛いじゃない。好きな人が自分を選ぶんじゃなくて・・・自分が守る宇宙を選ぶんだって。どの段階でだってお互い辛くて、傷つけあっちゃうよ。だったら、見えない方が絶対楽に決まってるんだ」
そうだ。
ヴィクトールはレイチェルから視線をそらした。
彼女の視線が痛くなったわけではない。自分自身に問いかけなければいけない時は、他人の存在を感じなくてもいいように、そうやって目をそらさずにはいられないものだ。
きっと、自分は「宇宙」そのものを選ぶに違いない。今ここにこうしているように。
神鳥の宇宙での自分の公務を決して彼は軽んじてはいない。
けれど、自分は自分の後継者を育てようとすれば出来なくはないのだ。
もはや彼はそれがわからない子供ではなかった。
若さゆえに陥りやすい「俺がやらなければ」「他の奴には任せておけない」というそのたぎるような思いは、裏を返せば「信頼して委ねられる人材を育てる努力をしていない」ことを認めたくない口上とも言える。そして、以前の自分はそうだったことを彼は知っている。それではいけないのだと、過去の経験から彼は十二分にわかっていたけれど、今の今まで腰をあげることが出来なかった。
けれども、この10日間でありとあらゆることを自分に課して、後輩達、同僚達に課して、信じてここにやってきた。
あげられなかった腰をあげ、多くのものを失うとわかりつつも、彼は神鳥の宇宙から自分の存在が消えることを承知して、この聖獣の宇宙に来たのだ。
それは、愛情だけから生まれた行動ではない。
使命感だとか、責任感だとか。
レイチェルが言うように、アンジェリークへの愛情ではなく、聖獣の宇宙を救わなければいけないという気持ちを天秤にかけて、彼はここに今いるのだ。
きっと、それをアンジェリークは「ヴィクトール様らしいと思います」と言ってくれるのだと彼は思った。
その言葉を口にしながら、果たして、彼女はどんな気持ちを心に抱くのだろうか。
想像しても想像しても、ヴィクトールには彼女の細やかな感情の動きを的確に予測は出来ない。
ヴィクトールはわずかにうな垂れ、無意識で瞳をそっと伏せた。その様子には気づかないように、レイチェルは言葉を続ける。

「それにさ・・・あの、うまく笑えてない顔、見せた後って」
彼女の声が耳に入ると同時に、はっとヴィクトールは顔をあげる。
呟くように言葉を搾り出すレイチェルもまた、彼と同じようにわずかに顔を傾げていた。まるで床を見るような角度で顎をひき、長いまつげで瞳のほとんどを覆うように、伏し目がちになっていた。
いや、本当は、彼女は何もそこにあるものを見てはいなかったのかもしれない。
目では見えない、人の気持ちとか、思い出とか、そういった形のないものを見つめているように、その場にあるありとあらゆる、視覚で感じることから刺激を受けていないように、レイチェルの視線は空間をさまよっていた。
「あのコ、ヴィクトール様にしか、甘えられないって、ワタシ、悔しいけど知っているんだから」
「レイチェル」
「そんなんじゃ、女王補佐官失格だよ・・・」
「レイチェル」
「ね、そう思いませんか?」
そういって顔をあげたレイチェルは、彼女もまためずらしく、うまく笑えていない。彼は、直感的に「こんなレイチェルは初めて見る」と、感銘に近い衝撃を受けた。
ヴィクトールは瞳を閉じ、唇を噛み締める。
そして、このプライドが高い女王候補もまた、心からアンジェリークを愛していて、こんなにも立派に女王補佐官であろうと努めているのだと、心の底から彼は理解をした。
きっと、屈辱でもあるのだろう、とヴィクトールは思う。
彼が知っている、「女王候補生レイチェル」は、言葉にすれば「今風」で、なんでもあけすけにものを言い、自我が非常に強い女性とみられがちな少女だった。
しかし、その反面、彼女はとても正しく自分に厳しく、いつでも歩きつづけないと気がすまない理想家でもあるとヴィクトールは知っていた。
その彼女が、自分一人ではアンジェリークの笑顔を取り戻せない、容態を良く出来ないと知り、こんな形で本音をヴィクトールにぶつける。
それは、彼女にとっては本当は屈辱的なことではないのだろうか。
「・・・アンジェリークは、俺が、地の守護聖ということを知っているのか」
「それが」
レイチェルはばつが悪そうに口篭もった。
「ここ一週間ほど、具合が悪くて。あまり込み入った話を出来ていないんです」
「ああ、知らせていないのか」
「でも、守護聖として任命する儀式を行うから、言わないといけない」
「そうだな・・・。いや、その前に、ひとつ、頼みがある」
「なんですか?」
「レイチェル・・・いや、女王補佐官殿」
ヴィクトールは立ち上がって、テーブルの周りをぐるりと歩き、最後にレイチェルの前に跪いた。
「ヴィクトール・・・」
様、とまた口走りそうになって、レイチェルは慌てて表情を引き締め、言葉を無理矢理切った。
「わたしがお力になれることならば、いくらでも力になりましょう。こうしてまた、あなた方の力になれるのならば、それがこの宇宙の力ともなるのであれば、これほどの光栄はありえない」
レイチェルは「ちょっ・・・」と声を発して、そのまま黙った。
わずかな間。
跪いて頭を下げるヴィクトールを見つめた後、レイチェルはゆっくりとその場で立ち上がった。
「期待しています、ヴィクトール。あなたの望みを聞きましょう。顔をあげてください」
その言葉を聞いて、ヴィクトールは頭をあげ、レイチェルを見上げた。まばたきを忘れたように、二人はお互いから決して瞳をそらしてはいけないとそれぞれ念じ、視線を絡ませる。
「・・・はい。一度だけ、儀式を行う前に」
レイチェルは、その先のヴィクトールの言葉をとうに予測していたに違いない。


−−−アンジェリークと、2人きりで会わせて欲しい、と。


ちょうどその時、お飲み物をお持ちしました、と女中の声が、控えめに室内に響いた。
「・・・喉が渇いたわ。先に飲んで一息つかせて」
レイチェルはそう言うと、ヴィクトールからの言葉を待たずに、すとん、と椅子に座り直した。
はは、と小さくヴィクトールは笑い、立ち上がって自分の席に戻った。
一体何があったのだろうと女中は戸惑いを見せたが、ちょっとやそっとで動揺をして仕事の手が止まる使用人はここにはいない。すぐさま気を取り直したようで、何事もなかったように2人の前にカップとソーサーを美しく正しい形で並べて、女中は静かに退出していく。
「・・・やっぱり、今はまだ、ヴィクトール様って呼ばせてください。あのコの心の準備が出来ないうちに、ワタシが先を行くわけにはいかないと思いますから」
そういいながらレイチェルは紅茶に砂糖を入れた。まるで言い訳のように、普段はいれないんですよ、なんて言いながら。
それが本当だとヴィクトールは知っている。
そして、砂糖をいれたくなるような気持ち、というものも、なんとなくわかるような気がする・・・と彼は思った。



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