約束-2-


「久しぶりだな」
「ヴィクトール様・・・どうして・・・」
カウチから少しばかり離れた場所にヴィクトールは立ち、彼女を見つめている。
そして、アンジェリークもまた、彼を見つめた。
別れてから、何度も何度も、数えられないほどに思い描いていた、胸が痛むほどに会いたかった人。
それが目の前にいることに、彼女は未だ信じられぬ思いでいた。
「すまん。俺が、こちらの世界に来たことを黙っていて欲しいと、レイチェルに頼んだのは俺だ」
「ヴィクトール様・・・」
彼女は、カウチから立ち上がり、一歩、二歩と恐る恐る彼に向かって歩いた。
それから、突然ぴたりと足を止め、瞳を閉じて悲しげにうつむく。
「・・・ずるいです。ヴィクトール様は」
「・・・ん?」
「会いたい時に会えないのに、会いたくない時にいらっしゃって」
「会いたくなかったのか・・・俺に」
「だって、こんな、情けないわたしをお見せしたくなかったんですもの」
「アンジェリーク」
月明かりに包まれて聖獣の女王アンジェリークはそう言うと、細い肩をわずかに震わせた。
「そうか。それは悪かった。でもな」
「・・・」
「俺は、会いたかったぞ」
ヴィクトールは、二人の間の距離を縮めた。靴のかかとが床に降りる音が二つ、静かな室内に小さく響く。
「俺は、いつだってお前に会いたかったぞ」
「ヴィクトール様・・・」
「お前が、俺に会いたくなくても、俺は会いたかった」
「だからっ、ヴィクトール様は意地悪です!」
耐え切れなくなったようにアンジェリークは、床を蹴るようにして勢いよく、ヴィクトールに向かって体をぶつけた。
彼は、それをまったくものともせずに、冷静に彼女の軽い体を両腕で受け止め、そして、抱きしめる。
過去に、何度もその腕に抱いた体だ。まるで、それが彼の腕の中にあることが当然であるかのように、彼は何一つ驚くことなく、いたって自然に彼女を包み込む。
「会いたくないわけ、ないのに。ご存知なのに!」
「アンジェリーク」
「ヴィクトール様・・・会いたかったです。会いたくて、会いたくて、会いたくて」
一度は柔らかさを増した体がそのまま痩せてしまったように、アンジェリークの体は細く、軽く、そして、以前の少女めいた雰囲気を残しながらも、女性を感じさせる。ヴィクトールは、彼女の体を壊してしまいそうに感じながらも、抱きしめる腕に力を入れた。
たとえ、力を入れて壊すことを恐れているとしても。
腕の間をすり抜けて、何かにぶつかって壊れてしまうならば、意味がないではないか。
抱きしめられた力に呼応するように、アンジェリークはヴィクトールの背に腕を回し、か弱い精一杯の力ですがりつく。彼の背に回りきらない手が心もとないように、彼の上着をぎゅっと掴む。
しわになってしまうほどに掴まれている小さな力。回した腕の小さな力。
それらから与えられる刺激がいとおしくて、ヴィクトールは瞳を閉じた。
と、その時、びくりと腕の中のアンジェリークは大きく震え、突然ヴィクトールから身を離した。
「ど・・・ういうことですか・・・どういう・・・ヴィクトール様!」
「アンジェリーク?」
アンジェリークは、眉根を潜めて、まるで苦痛に耐えるかのように口元を軽く歪めた。
それは、子供が泣き出す直前の表情にも見える。
突然の変化に驚き、ヴィクトールは彼女の両の二の腕を掴んで引き戻そうとするが、彼女は彼の腕に手をかけ、そうされないようにと腕を突っ張る。
「ヴィクトール様に、サクリアを、感じます」
・・・ああ、そうか。そのことか。
ヴィクトールは苦笑を見せ、アンジェリークを掴んだ手をゆっくりと離した。
そうだ、まだ、彼女には話を通していないのだ。
「・・・ああ、そう、らしいな。さすがだな、やはり女王陛下にもなると、すぐにわかるものなのか」
「地の、サクリア・・・ルヴァ様と一緒ですもの、わかります」
ということは。
さすがに、それ以上は何も言わずとも、彼女はすぐさま理解をした。
何故、ここにヴィクトールがいるのかを。
問い詰めるよりも先に、会いたかった気持ちに背を押され、この男らしい体に、その腕の中に抱かれてしまったけれど。
ヴィクトールはゆっくりと、諭すようにアンジェリークに話し掛けた。
「アンジェリーク。お前が察した通り、俺にはどうやらサクリアが・・・守護聖になるための力が、備わっているらしい。お前さえよければ、俺は、お前のこの宇宙で、地のサクリアを司る守護聖になる命を受けようと想っている」
「!」
「その心積もりで、来た。情けない話だが、その時になって、ようやくわかったよ。女王となって、神鳥の宇宙を離れ、それまでの全ての生活を、何もかも捨てて生きるということが、どれほど重い選択肢だったのか。予想以上だった。それを、お前は、レイチェルは・・・受け入れたんだな」
アンジェリークは、瞳を細めてヴィクトールを見上げた。
彼の言う「重い選択肢」を選んだがゆえの苦痛は、女王試験を受けると決めたときには、既にある程度の覚悟をして、乗り越えていたと自分で思っていたものだった。
それでも、やはりこの地に来て、辛くて辛くて。
けれど、人に言えば、それは甘えだと言われるだろうと、彼女が心に秘め続けてきた、絶え間ない痛みだった。
目の前にいるこの男性が、自分の「それ」を少しでも理解してくれたと思って良いのだろうか、とアンジェリークは眉根を寄せた。
「お前達は、俺の誇りだ。俺が今まで教えた、誰よりも心が強く、揺らぎつつも常に自分の足で立とうとしている。お前達のことが誇らしくて仕方が無い・・・だから、その強さを持つお前だからこそ、苦しみを内に向けてしまうのだろうな」
「・・・わたし、強くなんか」
ありません。
そう言おうとして、アンジェリークは言葉を切った。
それを言っては、ヴィクトールを落胆させてしまうだろうか。
それは、彼女が彼の生徒であった時から、幾度となく思っては、口を閉ざしてしまったことだ。けれども、その言葉の続きは容易にヴィクトールにわかってしまう、思わず漏れてしまう本音。
しかし、ヴィクトールの声音は優しい。
「・・・ああ。お前が、そうでありたいと思うほどは、まだ強くないだろうな。けれど、自分が強くないことを知っている。それは、ひとつの、強さだ」
「ヴィクトール様」
「俺も、強くなろうと思った。けれど、どうしても、耐えられないこともあるのだと知った」
「え」
「それは、人間というものの、限界なのではないかと、最近思うようになった。それだからこそ、人は一人では生きていけないものなのではないかと」
彼の予想外の言葉に、アンジェリークは不安そうにヴィクトールを見上げるだけだ。
俺の言葉を待っているのか。
彼女の様子を見てヴィクトールはそう思い、その不安そうな表情を見せる彼女への愛しさが胸に広がってゆくことを実感する。
「離れていて、わかった。共に近くにいて触れ合えない悲しみよりも、何よりも、お前が苦しんでいることすら知ることが出来ないなど、俺には耐えられない」
「ヴィクトール様・・・」
「そして、お前に、忘れられてゆくのではないか思うことも、俺には耐え難い。それは、この先生きていく上で・・・どこかで、自分が自分ではなくなってしまうほどの、痛みになるような気がした。情けないけれど、俺は、お前を心配しただけれはなく・・・俺自身のために、ここに、来た」
アンジェリークとヴィクトールの視線が強く絡んだ。
ほんの僅か、お互いがお互いに体を寄せようとぴくりと動くが、それは実現されなかった。

もう一度、触れてもいいのだろうか。
先ほどのように抱いてもいいのだろうか。

もう一度、胸に飛び込んでいいのだろうか。
さっきのように、夢中になってその腕の中に体を寄せてもいいのだろうか。

お互いの戸惑いが、空気を介してびりびりと伝わってくるようだ。
再会の喜びと抑えきれない激情で一度は体を寄せたけれど、二人はお互いの立場を再確認してしまった。
まるで禁忌を破ることを恐れるように、どちらもそれ以上動くことが出来ない。
二度と会えない覚悟をしていた。
離れたくない、いつまでも共にいたい、そう願いつつも、自分達は二度と会えなくなる「ために」、あの時、同じ時間を過ごしていたのではないか。それを2人は重々承知をしていた。
初めから決められていた別れに逆らうことは彼らには出来なかったし、逆らったとしても何一つ現実は変えられないと思っていた。あの日、あの場所で出会った瞬間から、別れは決定していたことだったのだ。
ヴィクトールは、アンジェリークが女王になるために力となり、アンジェリークは、女王になるためにヴィクトールの力を借り、その結果こうやっていまや彼女は聖獣の宇宙の女王だ。
もっと違う形で出会えたらよかったと、彼らは何度思っただろうか。
普通の女の子として出会えたら。
いや、しかし、そうであれば、きっと一生まみえることの出来ないままだったのだろうし。
繰り返し考えても、それらは何一つ変える事が出来ないものだ。
それほどの覚悟をして別れ、立場が変化してしまった自分達は、再会の激情が緩やかになった今、お互い容易く触れることが出来ない。
けれど。
「わたし、わたし、ヴィクトール様が、わたしのことを思ってこちらの世界に来てくださったら・・・それはとても嬉しいけれど、なんて申し訳ないのだろうと思っていました」
「そうか」
「だから、もう、心配させたくなかったんです。でも」
「うん」
「わたしが、ヴィクトール様の側にいることで、ヴィクトール様の、助けになるのですか」
「そうだ」
「わたしは」
「ああ」
「この世界に、ヴィクトール様を迎え入れることで、ヴィクトール様のお役に立てるんでしょうか。それで、それで、そんなことを思って、ヴィクトール様を迎え入れることは、女王として失格なのでしょうか」
「アンジェリーク。女王とて、もともと、一人の人間だ。だからこそ、人々の痛みを知り、導くことが出来るのではないかと・・・お前を見ていると、俺は思う。以前は、知るよしもなかった。絶対無比の存在が、女王陛下であると。それだけを信じていたのだから」
「・・・わ、わたしも、そうでした。だから・・・だから、自分がそうなれないことが、とても、腹立たしいです」
「時間は、山ほどあるのだろう。宇宙と共に、女王も育てばいい・・・ここに来る前に、神鳥の宇宙の聖殿に赴いた。その時、俺がジュリアス様に言われた言葉だ」
アンジェリークは瞳を大きく見開いた。
宇宙と共に、女王も育てばよい。
あの、誇り高き光の守護聖、女王陛下に忠誠を誰よりも厚く誓っている生真面目な守護聖が、そう言ったのか。
記憶の中に留まっている、ジュリアスの姿をアンジェリークは辿った。
いつも彼は正しく、いや、正しくあろうと毅然とした面持ちで、未熟なアンジェリーク達を導き、時に叱咤、時に激励を。厳しい人だった、と彼女は思う。
そのジュリアスからの言葉なのかと思えば、それはなんと心強いのだろうか。
「わたしも、もっと、育っていけば良いんですね」
「そうだ。そして、俺もまだまだ未熟ではあるが、俺の内側にあるサクリアの力が、この世界の役に立つのではないかと思う。それは、お前の役に・・・たつのだと思って良いんだろう?」
ならば、迷うことはないではないか。
そう彼女を説き伏せようとヴィクトールはしていたが、それでも、アンジェリークは素直に受け入れることは出来ない。
「わたし、女王になる、覚悟は、出来ていたのですけれど」
アンジェリークは、たどたどしい言葉を口にした。
「ヴィクトール様と離れることだって、何度も何度も、ベッドの中で泣きながら、それでも、覚悟をしたのですけれど」
「・・・そうか」
「わたしは、いつでも、ヴィクトール様を、ヴィクトール様って呼んでいたいんです。そうじゃなくなる覚悟なんて、全然、していなかった。こちらの世界に来れば、ヴィクトール様とはお別れで、わたし達の関係は、その時の、あの時のままでいられると思っていたのに」
「・・・もしも、守護聖としての命を拝せば、二度とお前の名を呼ぶことは出来なくなるだろう」
「ええ。そう、なんでしょうね。たとえ呼ぶとしても、わたしの名前を」
「女王アンジェリークと、呼ぶことになる。そして、お前は、俺を」
「お名前を、そのまま、呼びかけさせていただきます」
「ああ、そうだな」
「・・・だから、何度でも、今は言わせてください。ヴィクトール様」
「アンジェリーク」
アンジェリークが自分を呼びかける声が、可憐で、そして人懐こいことをヴィクトールは知っていた。
いつの日か、その声が近くにあることが日常になっていた。
その存在が失われてから、ヴィクトールは働いて、働いて、働いて。アンジェリークの声が聞こえないことが当たり前であるような、過酷な現場を渡り歩き、何度も「部下の育成だけに力を注げ」と周囲に言われても、現場に行かずにはいられなくなり、彼の心を激務にかきたてた。
それほどまでに彼女の声を彼は必要としていたし、その声が曇らないためならば、何であろうと立ち向かう覚悟が出来ていた。
今、こうして、あの声が彼の鼓膜を優しくくすぐる。
彼の名を呼ぶ彼女の唇の動きを見るだけで、心の中に熱い気持ちが広がっていく。
もう一度、とヴィクトールは手を伸ばした。
柔らかな、けれど、以前よりも大分痩せて、顔の輪郭が強調されてしまっているその頬に触れた。
「ヴィクトール様・・・!」
耐えられない、とばかりに、アンジェリークは、再会の抱擁よりも強く強く、彼にしがみついた。
「会いたかったです、会いたかった。会いたかったんです・・・!」
「大丈夫だ、アンジェリーク」
「ヴィクトール様に、会いたくて、会いたくて、会いたくて・・・っ!」
何度も何度も、それ以外に言葉がないように、アンジェリークは繰り返した。
「アンジェリーク。俺は、ここにいる。手を伸ばせば、いつでも届く場所に、俺は、お前のもとに戻ってきたんだ」
恋人達の熱い抱擁は、月が更に動くまで、長く長く続いた。


ヴィクトールは、神鳥の宇宙を後にする前に、どうしても先に知らねばならないことがあった。
それは、守護聖の世代交代と、女王の世代交代のことについてだ。
光の守護聖であるジュリアスの執務室にヴィクトールが訪れたのは、聖獣の宇宙に行くと彼が決めた、その日だった。
そもそも、ジュリアスの、「守護聖」という立場上、ヴィクトールが聖獣の宇宙に行くと決めなければ、訪問することもなかなか叶わなかったのだが。
驚きの表情を一瞬見せた後、ジュリアスは快く彼を迎えた。執務室の一角にある、来客用のこじんまりした応接セットのソファをヴィクトールに勧めた。
言葉を選ぶことは、あまりヴィクトールはうまくない。
彼なりに考え、「失礼にあたらないようにとは考えているのですが、自信はありません」と前置きをして、素直にジュリアスに質問をぶつけた。
「たとえ、そなたのサクリアが発見されたのが今なのだとしても・・・それが、聖獣の宇宙の女王よりも、サクリアが持続する、枯渇するまでに時間があるという意味ではない。それは、個人差が大きいものだ」
ジュリアスは、彼が知るすべてのことをいくらでもヴィクトールに教えようと、誠意を持ってしてヴィクトールの問いに答えた。ヴィクトールは、眉根を潜めてゆっくりと言葉を返した。
「枯渇したら・・・世代交代をしたら・・・前の、その、サクリアが尽きた守護聖は」
「退任をして、野に下る。それだけのことだ。昔は・・・その際に、聖地での記憶を消去したこともあったようだが、最近ではその必要性について考え直され、記憶操作はしない方向ではあるな」
「聖地を去るのみなのですね」
「とはいえ、これはあくまでも、この神鳥の宇宙での話だ。聖獣の宇宙が今後、この神鳥の宇宙のしきたりに準じるのかどうかは、聖獣の宇宙の女王が決めることだろう」
「・・・なるほど、確かに」
「ただ、サクリアを失った守護聖が、聖地に残ることは・・・その者にとっては大いなる悲劇ではあるだろうな。野に下ることが、お互いのためだとわたしは思う。とはいえ、聖獣の宇宙は未熟な宇宙。いつになれば、下ることが出来る野そのものが出来ることやら」
ジュリアスはカフェ・ロワイヤルが入ったカップを手にした。
それを口に運ぶ前に、ヴィクトールがまったくカップに口をつけていないことに気付き
「おや、そなたは、ラム・ティーが好きだと聞いていたのだが。口に合わなかったか」
「あ、いえ、そういうわけではありません。いただきます」
「・・・・・・緊張している、ということか、そなたが」
ジュリアスはそう呟くと、カップに口をつけ、彼の好物を一口二口ゆっくりと飲んだ。
「精神の教官ともあろう人物が。それほどまでに、プレッシャーを感じているのだと思って良いのか?」
「そう、ですね。ええ。けれどそれは、聖獣の宇宙にて、守護聖になるから・・・では、ないと思います」
「・・・そなたが、アンジェリーク・コレットと恋仲だったのだということは、誰もが知っている」
「ジュリアス様」
「だというのに、そなたは、よくやってくれた。最後まで、彼女を女王にふさわしい人間として育て、力を貸して、決して彼女の歩む道を阻もうとしなかった。さすが、精神の教官、と我々は思っていた」
予想外の言葉に、ヴィクトールは驚きで瞳を見開いた。
「けれど、そんなそなたに我々は何一つ報いることは出来ない。いや、女王を育てることに携わった栄誉以外に、報いることなぞ何もありはしない。本来は。けれど・・・」
「けれど?」
「人を、愛するという感情を抑えるということは、とても難しいのだと・・・いや、わたしは、知らぬ、その感情を。けれど、それを知る者達は、みな口をそろえて、そなたの行いを称えていた」
「そ・・・そんな、大それたことでは・・・」
「わたしは、わからぬ。けれど、何故そなたがここに来たのかはわかっているつもりだ」」
「は・・・」
「聖獣の宇宙で、守護聖として、全力を尽くすが良い。やがて、あの未熟な宇宙も、この神鳥の宇宙のように、人々が増え、文明が生まれ、発達していくはずだ。そなた達守護聖は、女王アンジェリーク・コレットが、または、そなた達がいつか生きていく世界を・・・自分達で作らなければいけない」
「!」
ヴィクトールは唇を軽く噛み締めた。
それから、目の前にあるラム・ティーのカップを手にして、ぐい、と口の中に液体を注ぎこんだ。
「聖獣の宇宙の女王、あるいは、守護聖ともなれば、野に下る時に・・・この、神鳥の宇宙に戻ることは叶わないだろう。違う宇宙のことを知っている者なぞ、この宇宙の民間に存在させるわけにはいかぬ・・・。こちらの宇宙に戻るとなれば、我々は、以前のように、そなた達に記憶操作をすることを決断するに違いない。それを思えば・・・そなた達は、あの宇宙に骨をうずめる覚悟をしなければいけない」
ジュリアスもまた、カップの中の液体を飲み干し、ほとんど音を立てずにカップを皿の上に戻した。
ヴィクトールは、やるせない気持ちでいっぱいになりつつも、それに倣って、ラム・ティーを飲み干してカップを置いた。
「・・・ジュリアス様、ありがとうございます。そこまでのことを、わたくしなぞにお話くださって」
「なんの・・・少しでもそなた達の助けになればよいのだが」
「十分すぎます」
「そなたならば、ルヴァのところに行くのではないかと思ったが、わたしを訪ねてくるとはな。いささか驚いた」
そのジュリアスの言葉に、ヴィクトールは苦笑を返した。
ジュリアスの指摘は、あながち間違いではなかった。ヴィクトールは、確かにルヴァのもとに行こうと思っていた。それは、サクリアが同じとか、そういうことではなく。彼の問いに、最も正しく答えてくれるような気がしたからだ。しかし、ヴィクトールは、ここに来た。それには、彼なりに理由も当然あったのだが。
「あの方は、時には厳しいこともおっしゃるのですが・・・逃げ道を残してくださいます。今、わたしが必要としているのは、逃げ道を残す必要のない、ただの真実だけ。ありがとうございます」
ヴィクトールはそう言って、立ち上がって深深と頭を下げた。それへ、ジュリアスは頷きで返し
「そなたの未来、聖獣の宇宙の女王の未来、そして、聖獣の宇宙そのものの未来に、幸多からんことを」
最上の祈りの言葉を、ヴィクトールへのはなむけの言葉にした。


「セレスティアに行ってみました?あそこは、素敵な場所がたくさんあるんですよ」
ようやく落ち着いたアンジェリークは、泣きはらした目を時々軽くこすりながら、ヴィクトールとたわいもないように聞こえることを話していた。
それまで、もたれかかっていたカウチに、二人は並んで座り、傾いた月を時々見つめながら。
「そのようだな。俺はまだ来たばかりなので、説明をうけただけで足を運んではいないが・・・あの、時空の狭間が・・・アルカディアがあんな風になったのだとは。驚きでいっぱいだ」
「残念ながら、わたしも、今はさすがに行くことはできませんけれど・・・何度かお忍びで様子を見にいったことがあるんです」
アンジェリークははにかんだ笑みをヴィクトールに見せた。
「自然の園は、冬は雪に包まれますけれど、夏は夏で、氷の洞窟があるんです。ヴィクトール様に気にいっていただけると思うんです。わたしも、大好き」
「ほお」
「わたし、ヴィクトール様と一緒に歩いたら、どれだけ素敵だろうかと、思いました」
そこで、言葉は終わった。
もう二度と会うことは叶わないと思ったけれど、今、こうやって近くに息遣いを感じるほどの距離にいる愛しい想い人。だが、再会の喜びが大きければ大きいほどに、以前と異なる、お互いを縛る立場を2人は意識せざるを得ない。
なのに、ヴィクトールは優しく彼女に問い掛けるのだ。
「・・・一緒に、歩こう、アンジェリーク」
「ヴィクトール様?でも、わたしは・・・この宇宙が安定しない限り、当分わたしは、ここから動けません」
「だから、一緒にセレスティアに行けるように。その日が来るように俺の力のすべてを尽くそう」
「ヴィクトール様」
「二人でいる時間を持てるように、お前の負担を少しでも減らせるように、出来る限り努力をする。それは、この宇宙の発展のためでもあるだろうし」
それから。
いつの日か、サクリアが尽きて、守護聖の世代交代があったら。
アンジェリークのサクリアが尽きて、女王の世代交代があったら。
その時に、もはや神鳥の宇宙に戻れない彼女のために。
過ごしやすい世界を作りたい。その思いは、あまりに個人的で、身勝手なものだと彼はわかっている。
それでも、願わずにはいられないのだ。だって、一体誰がそんなことを、彼女のために考えるというのだろうか?
「ヴィクトール様?」
「ああ、いや、なんでもない」
それは、決してアンジェリークには伝えまい、と思う。
今、彼女はこの未熟な宇宙を安定させることで精一杯で、己の力が尽きた時や、文明が生まれた先のことなど、考える余裕はないのだろうし。
「公私混同ではあるが」
「えっ?何かおっしゃいました?」
「いや・・・アンジェリーク、約束してくれ。いつか、一緒にセレスティアに行こう。その、氷の洞窟とやらを、案内してくれ」
「本当に?」
「ああ。一日も早く、その日が来るように、エンジュやレイチェルにも力になってもらって。守護聖を集めて、この宇宙が安定をするように、一緒に頑張ろう」
「じゃあ、じゃあ、わたしからも一つ、約束をお願いしてもいいですか?」
「おう、なんだ?」
「二人きりの時間がとれたら・・・その時は、今までと同じように・・・ヴィクトール様と、呼ばせていただけますか」
「もちろんだ」
「その時は、もちろん、ヴィクトール様には・・・アンジェリーク、と、呼んで欲しいんです」
「・・・約束しよう」
そう言って、ヴィクトールは、今度は彼の方からアンジェリークを引き寄せ、その細い肩を抱いた。
アンジェリークが口にした約束はたやすいことだろう。
ありがたいことに、というか、この宇宙では、未だ、事細かにしきたりに口を出すような守護聖はいないのだし。
けれど、彼が口にした約束は。
この宇宙が安定して、二人でセレスティアに行ける日。
その時、自分は守護聖でいられるのだろうか。彼女は、女王でいられるのだろうか。
そんな遠い未来のことを考える自分は、やはり、年をとった大人なのだろうか。
それでも、そんな未来の約束でもしなければ、自分を律して彼女を「女王アンジェリーク」と呼び、彼女から「ヴィクトール」と呼びかけられる生活を送る自信が彼にはない。体の距離が近付いても、立場は離れ、決して肩を並べることも、彼が彼女を見下ろすこともない。それを受け入れるには、遠い遠い未来の約束が、彼には必要に思えた。
と、そのとき
「ヴィクトール様。ずっと、ずっと、わたしの側にいて下さい」
そう呟くアンジェリークの声は少しばかりくぐもっていて。
まるで、その願いが、本当は聞き届けられないと思っているかのように、重々しい響きを伴っていた。
「ああ。そのために、俺は、神鳥の宇宙を捨ててきた」
そういってアンジェリークの肩を抱く腕に力を入れると、アンジェリークはまた彼の胸元にすがりつく。
ようやく出会えた自分達は、再会の喜びよりも、動いてしまった関係に戸惑い揺れている。
それをかき消すようにアンジェリークはヴィクトールにしがみつき。
そして、ヴィクトールは、彼の思惑を彼女に悟られないように、何度も何度も抱きしめて「一緒にいよう」と繰り返すだけだった。
思えば、自分達は出会ったときから、終わりを知っている関係から始まっていたのだ。
女王候補生と教官という関係は、試験の終わりと共に別れを告げることが決められていた。
そして今は。
いつか確実に来る世代交代−それは、どちらが先に迎えるのかはわからないが−が自分達を待ち受けている。
アンジェリークはきっとまだそれに気付いていない・・・いや、気付かないでいて欲しいとヴィクトールは思う。
もしも、既にそれに気付いて、こうやって身を寄せてくるのであれば。
自分の言葉はなんと無力で、偽善に満ちているのだろうか、とヴィクトールは思う。
それでも、彼は「約束だ」と何度も何度も言い聞かせ、腕の中で頷くアンジェリークの、細い体、温かな体温を感じ続けることで精一杯だった。


Fin
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