神殺し④

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 ゴットサイドのあの夜以来、マリアとクリフトの口から神という言葉が出ることはなかった。そして、二人きりで言葉を交わすことも。
 それは「話すことがないから」ではない。たまたま二人になる機会もそうなかったし、お互いがその機会を作ろうとも思わなかったからだ。
 そうこうしているうちに、ついに彼らはデスピサロと対峙するに至った。進化の秘法によって己のもとの体を捨て、地獄の帝王エスタークと近しく思えるような禍々しい姿となり、変わり果てたデスピサロ。彼は、地底深く、岩場以外何もない物悲しい暗いだけの洞窟で一人いた。以前のデスピサロは、人間が好みそうな城の主として多くの魔族に囲まれていた。变化の杖で魔物の姿になり、彼の城に侵入したマリア達はその様子を良く知っている。それが今はどうだ。彼の近くをうろつく魔物達は、どれもこれもただそこに「生息しているだけ」のもの。最早変わり果てた彼を崇める者もおらず、ただ「そこにいる、人間たちを憎んでいるらしい異形の者」と認知するだけで、見向きもされない。
 愛しい恋人も、部下も何もなく、己の身ひとつを熟成させるために全てを捨てたデスピサロ。その結果、彼はこの世界のすべての者達から切り離されてしまったようにすら見える。エスタークに似た異形でありながら、彼を魔族の王として敬うものはどこにもいやしない。どれほどの力を持とうとも、今のデスピサロはただ人間を憎んでいるだけの狂人なのだろうとマリアには思えた。僅かな憐憫を感じつつも、決してそれを言葉にはしなかったが。
 最後の戦いよ、と仲間に告げ、ゆっくりとデスピサロの前に近づくマリアの背にクリフトは
「……ちゃんと、眠れましたか」
と問いを投げかけた。
 以前ならば、何を言ってるのか、そんな心配はいらない、と若干苛立っただろうその言葉も、意味が違うとマリアにはわかる。きっと、クリフトは馬車の中でうなされているマリアのことを覚えていて、心配をしているのだ。
「そうね。今日から眠れるわ」
 それへ苦笑交じりの早口で答えれば、クリフトは「そうですね」とマリアにだけ聞こえる相槌を返した。
「さて、と……」
 マリアは、後ろを振り返らずに手のひらを背後の仲間たちへ見せ、立ち止まるように指示をする。足音が止まったことを確認してから、ゆっくりと一歩ずつ、デスピサロへと近づいていく。間合いには入らず探り合う距離で見上げれば、デスピサロは自分の倍以上の背丈があるように見える。
「ねえ、なんて姿になってしまったの?デスピサロ」
 ぼそりと呟くマリア。
「ついにこの日が来たのね。お前が探していた勇者が、お前を倒す日。そして、わたしが生きる意味がようやくまた一つ減ってしまう日」
 仲間の誰にも聞かせたくない言葉。それでも、声として外に放たずにはいられない思い。
 生きる意味が一つ減るのは、マリアという名の人間だろうか。それとも、勇者と呼ばれる人間だろうか。
 そのどちらでも、あまり大差はないな、とマリアは自嘲の笑みを浮かべ、天空の剣を抜いた。
 借りたくない力だ。
 虚勢を張って「仕方がないから使ってあげる」と言うほどの身の程知らずではない。
 この剣の力を借りなければいけない程度には、自分の力はちっぽけで。
 そのちっぽけな力しかない存在を、この世界は勇者と呼ばせているのだ。
(一人で両足で立つなんて、出来ない。みんながいてくれて、ようやく勇者と呼ばれる立場をかろうじて保ってきた。そして、あの日、デスピサロという存在を知らされることで)
 憎んで、憎んで、憎んで。
 そのおかげで、勇者としての使命と呼ばれる「デスピサロを倒す」ことを、遂行出来るのだ。
 仕組んだのは、神だ。
 いや、本当のところはよくわからない。
 けれど、仕組んだのが神ということにしなければ、ここまでマリアは自分を繋ぎとめることが出来なかったのだ。それが、彼女が欲した神の形だ。あれほどに許せないと思っていた神を、己がどんな形であれ欲していたという事実とは、未だにうまく向かい合えないままだけれど。それでも、自分は戦える、とマリアは強く思う。
「行くわよ!」
 仲間に向かって強く叫ぶ。その自分の声を聞いて、マリアは少しだけ驚いた。なんという雄雄しく、力強い声か。わたしの声は。知らぬ間に、勇者「らしく」なったものだ。
 耳に残った村人の断末魔は、彼らが求めていた「勇者」が倒すべき者を彼女に知らしめて。
 眼に妬き付いた村人の死は、彼らが求めていた勇者を作る礎となり。
 そして、どこまでもどこまでも付きまとって、彼女を勇者に仕立て上げたのだ。
 その図を描いたのは、村人達ではないのに。
(勇者は、そうやって作り上げられた)
 その勇者の一声で、仲間達は戸惑いもなく「いつも通り」の戦に身を投じる。彼女の後ろから、何の指示も受けずに当然のように駆け出す足音が心強い。
 まず、マリアの視界の端にアリーナが我先にと飛び出す姿が映った。デスピサロの懐に入るまでにクリフトのスクルトの呪文は間に合わないが、それは仕方がないことだ。あまりにもアリーナの動きは速すぎる。だが、それゆえ彼女の最初に一撃は、相手の装甲や動作速度を伺うに十分だ。
 その一撃めの手応えを見極めるため、マリアは注意深くデスピサロを観察しようとした。けれども、彼女の頭の中ではそれとは関係がない問いを投げかける声が響く。
(では、わたしは。マリアは、どうやって作り上げられたのだ)
 世の人々が思い描く勇者は、神を憎まない。
 そんな存在を、きっと世界は赦さない。
 仕組んだのは神だ。
 神が「マリア」をそうやって作り上げたのだ。
 そうやって、何かを憎まなければ生きてはいけなかったわたしを、憎むことが出来ない勇者というものにしようと。
 ああ、なんてことだ。こんな時に一つの答えがこんなに鮮明に見えてくるなんて。そう叫びだしそうになったが、マリアの口からはまったく違う言葉が発せられた。
「アリーナ下がって! 物理は効く! マーニャ、メラゾーマ!」
「わかってる!」
 魔法で業火を放つマーニャ。それは、言われなくとも、というマーニャの心の声が聞こえてきそうなタイミングだ。仲間達に委ねつつも時には指示を出し、マリアはアリーナとの連携を重視しつつデスピサロに切り込んでいく。エスタークを倒した時も、途方も無い時間がかかった。覚悟は出来ている。決して焦らず、決して奢らず、仲間を信じつつ。
 二刀流のデスピサロの腕を封じれば――足の部分は硬すぎて剣が通用しなかったのだ――次は呪文で攻撃をしてくる。腕がなくとも十二分な強さだ。
「……手応えあった!」
 と、決してデスピサロから視線を逸らさずに後退をするアリーナ。
「やったじゃない!」
 見れば、デスピサロの頭部がアリーナの強烈な一撃で吹っ飛んでいる。マーニャは明るくそう言ったが、彼らの背後から補助魔法を詠唱しているクリフトの眉根は強く寄せられた。
「……動いています!!変態をしている!」
 クリフトが言うように、頭を失ったデスピサロはその役割を腹部に任せたのか新たな「進化」を遂げていた。
 やがて、一度は切り落とした腕は更に強度を増して復活し、デスピサロは自身で一度足を捨て去り、更に硬く太く大きい足を生やすと、終いには新たな頭部を生み出して禍々しい姿に進化を遂げた。既にエスタークと比較を出来ぬほどの強大な力を宿していることは一目瞭然で、激しい炎をその口から吐き出す。
 負けじとマーニャはメラゾーマの呪文を使うが……
「うううわうわっうわ!」
 情けない声をあげるのは、自分が放った業火を跳ね返され、痛い目にあったマーニャだ。
「マリア! こいつ呪文跳ね返すように!」
「一度下がって頂戴!ライアン!」
 マーニャを庇うようにライアンが前に出、デスピサロに向かって走ってゆく。
「クリフト、ミネアと交代!」
「はい!」
 後方から走り出たミネアは、マリアの命令を待たずにフバーハの呪文を唱えた。何も言わずとも理解をしあえるほどの時間を共に過ごした証拠だ。
 マリアは手にした天空の剣の柄を、両手で握り直す。
「本当は、お前の力なんて……」
 借りたくない。
 けれど。
「でも、こんなわたしでも頼らせてくれるんでしょう!?」
 デスピサロに向けて、天空の剣をかざすマリア。剣は心得たとばかりに、白い光で四方八方に大きく照らし出す。その光はデスピサロの反射呪文を解除をするものだ。
 神の加護なぞ。
 そんな言葉は飲み込んで、マリアはライアンへの治癒呪文の詠唱を始めた。


 それから、どれほどの時間が経過しただろうか。
 激しい戦いの最中、マリアはデスピサロの様子を誰よりも細かく観察しており、この戦がもうすぐ終わりを迎えると予測した。
 ぼろぼろになりながら自分の指示に従ってくれる仲間の姿に胸が熱くなる。ああ、なんと強い人々なのだろう。自分には分不相応な過ぎた仲間達だ。ありがとう、という言葉を今日までにとっておけばよかった。他のそれ以上の言葉を自分は知らない……そんなことをちらりと思う。
 魔法力が尽きそうなミネアの代わりに、再度クリフトが前に出る。そしてブライもまた、マーニャの代わりに飛び出し、氷結呪文をデスピサロに放った。
「もう少し。あと少しじゃろうて……今こそ!」
「勇者殿!」
 ブライの声、ライアンの声。彼らが何を自分に期待をしているのか、マリアは理解をしている。魔法を容易に発動させるための媒体は、この世にこれ以上うってつけのものがあるはずもない、天空の剣だ。ライアンとクリフトがデスピサロの注意を引きつける間に、マリアは、神に作りあげられた勇者だけが許された魔法の詠唱を行う。


「勇者マリアの名において、彼方なる者へ祈りを捧げる」

「天を引き裂く神聖なる雷を、悪しき魂に」

「裁きの時は来たり」

 天空の剣と同じように、本当は借りたくない力。本当の意味で神ではないけれど、それでも神の名を冠する不遜な竜の力。
 勇者のみに行使が許されたその呪文が、本当はマスタードラゴンの「下界への干渉」であること、自分と天空の剣がその媒体であることをマリアは知っている。
 せめて、この呪文が「命じる」と上位からの発動であれば、少しは気が晴れただろうに。「祈り」だなんて忌々しい。そして、裁きの時とは。自分の父親の命を奪ったその光が「裁く」正当な立場であったことなぞ、彼女は一度も許容はしていない。
 それでも、利用出来るものは利用してやる、とマリアは躊躇なく詠唱を完成させた。

「ギガデイン!!」


 デスピサロを襲う天からの雷。地下の世界に天の力が届くには、マリアという存在、天空の剣という存在が揃わなければいけなかったに違いない。
 その雷が落ちて発生した振動は彼女達の足場全てに伝わり、ビリビリと全身にその威力の大きさが響く。
 満身創痍のデスピサロの口から、空間を揺るがすような咆哮が放たれた。
 立ち尽くすマリアは、その姿を見つめる目をすっと細める。
 ああ、勇者マリアは、とても遠いところに来てしまった。
 憎しみと寄り添わなければ。神という存在があると信じなければ、辿り着けない場所に。
 自分はデスピサロと神とに生かされ、仲間達によって世界との接点を維持して、そして。
 クリフトのおかげで、己の本当の弱さを知ったのだ。
 デスピサロの終わりとともに、自分は……。
「近すぎる!」
 マリアは未だ震えているようにも感じる地を蹴り、デスピサロの懐に飛び込んだ。
 背後でブライの声が聞こえたが、なぎ払おうとするデスピサロの攻撃を交わすと、強く両手で持った天空の剣でデスピサロに切りつけた。
「……っ!」
 腕に伝わるのは、生物の命を絶つ感触。天空の剣は、その一撃がそれまでのどれよりも強く、そして受けたデスピサロの体を脆くなっていたことを伝える。
 最後に切り裂いた場所からびちゃびちゃと体液が噴出し、マリアの鎧に降りかかる。
 鼓膜を震わせる音は、ゴオオオオ、という奇声。それは、断末魔だ。
(ほら、神は、ロザリーのこともデスピサロのことも救いやしない)
 剣をそっとおろしたマリアの両眼に、涙が溢れた。
 そうだ。神なんて、やはりこの世界にはどこにもいないのだ。
 けれど、いないものを信じなければ生きられない人間がこの世界には沢山いて。
 いないはずのものを、心の中で偶像として作り上げ、依存をしなければいけない者がいる。
 弱くて弱くてどうしようもなかった自分は、その最たる者だったのだ。
「……終わりよ」
 彼女のその言葉を、仲間達はどういう意味に捉えただろう?デスピサロに放った言葉だと思っただろうか・。
 その時、先程の振動とはまた別のものが足元から伝わる。ゴゴゴゴ、と低く不快な地鳴りが地の底からせりあがって来る。洞窟は、まるでデスピサロの命と連動していたかのように震え出し、崩壊へと向かう。地鳴りと共に岩場に亀裂が入る。マリアは仲間に叫ぶ。
「馬車に乗って!早く!」
 パトリシアのいななき。
 皆は一斉に馬車に向かって走り出した。この洞窟が長くは持たぬことを誰一人疑わず、マリアの指示も当然のもの。だから、誰も振り返らない。
 走る彼らの姿を確認すると、マリアは横たわった「デスピサロだったもの」を振り返り、身に纏っている鎧兜を乱暴に脱ぎ捨てた。
(トルネコ、天空のもの、捨ててく。ごめん)
 ビシビシっと大きな音。マリアの足元にも亀裂が入り、崩れた岩壁の一部が、彼女と馬車の間を隔てるようにがつんと落ちてきた。すぐに、自分と馬車の間は隔てられるだろう。あるいは、それを待つことなくこの足元は崩れるに違いない。

(神は、いてもいなくてもいい)

 遠くで、仲間が叫ぶ声が僅かに耳に届いたが、マリアは振り返らなかった。
 申し訳ないという気持ちはあったけれど、それは昨晩眠れぬよるの間、何度も何度も考え、覚悟を決めたことだ。
 今更、彼らへの謝罪を繰り返しても、それは伝わらないものだろうし、無意味と思う。ありがとう以外の言葉を結局思いつかなかった。もっと何か見つかれば、少しは違ったのだろうかとどうしようもないことをふと思う。
 岩に亀裂が入る耳障りな音が続き、様々な音を立てて崩れた岩が地の底へ、まだそこにある足場へと落ちていく。
 デスピサロの終焉と共に、この地底も封じられるのだろうか、とマリアは思う。アッテムトの底にエスタークと城が封じられていたように。
 それで良い。そうなることを願う。そして、自分は更にその底に消えたい、と思う。

(世界を救った勇者すら、きっと神は助けない。それが、神を憎む勇者を世界から排除する神の思惑だとしてもかまわない)

 見せ付けたいのだとクリフトは言った。
 だが、本当にマリアが見せ付けたいのは神ではなくて。
 ついにマリアの足元の岩場も崩れ出す。
 マリアがそれに身を委ねようとした時、頭上に羽音が聞こえた。
 見なくとも、突風を巻き起こすほどのその翼、こんな地底にやってこられる存在など、知れている。
 マスタードラゴンが来たなら、馬車にいる仲間を助けてくれるに違いない。
 まだ自分には魔力が残っている。万が一、マスタードラゴンが自分を助けようとしたら、それを振り払えるぐらいには。
(地底まで来て、ご苦労なことじゃない? これが干渉じゃないならなんなのよ)
 最後に悪態をついて、マリアは崩れようとしている地を蹴ろうとした。
 神はいつでも見ている、という聖職者の言葉はまんざら嘘でもないのだとおぼろげに思う。
 マリアにはマリアにとって「必要」な神が、マリアの中だけに存在するのだとクリフトは言おうとしたのだ。
 ならば、自分を消すしか、神を本当に滅ぼすことなぞ出来ないではないか。
 神を消せば、生きる意味がもう一つ減る。
 そうすれば、もう。
 ――その時
「マリアさん!」
 ひび割れた地の底に身を委ねようとした瞬間、誰かがマリアの腕を掴んだ。
 岩が崩れる音のせいで、まったく気配に気づかなかったマリアは、心底驚いて「ヒッ」と小さく声をあげる。
「……クリフト!?」
「神は、いるんです、マリアさん!」
「な、に」
 がらがらと崩れる岩が巻き散らかす土埃にまみれたクリフトが、息を切らせてそこにいた。彼は既に多くの岩にぶつかったのか、不自然に鎧のあちこちが凹んでいる。
 クリフトの姿を捉えた視界の隅には、マスタードラゴンが大きな足で馬車の幌を掴む姿も見える。それにほっとするのも束の間、必死の形相で叫ぶクリフトの言葉は、マリアの胸に突き刺さった。
「マリアさん、あなたはもうご存知じゃないですか! わたしの、わたしの治癒呪文が、神の加護だと! いるんです、神は!」
 その必死の形相に対抗するために、マリアもまた声をあげた。どうしてあなたはここにいるの。何故わたしの腕を掴んだの。どうして。どうして。
「だから何よ!」
「あなたの心の神を消しても、人々にどんなに神を否定しても! だから!」
「何よ……何を、こんな時に!」
 小さな岩が上から降ってくる。むき出しの体にそれが当たる痛みなぞ気にしてる暇がマリアにはなかった。
 聞きたい。けれど、このままここにいてはクリフトは。いや、けれど彼の言葉を。いや、このままでは……!
「無力で無慈悲であろうと、神を、赦して、生きてくださ……っ」
「!!」
 次の瞬間、マリアの目の前でクリフトの体に岩がめり込み、彼の体は衝撃で横に吹っ飛んだ。マリアを掴んでいた手は力なく離れ、まさに彼女が飛び込もうとした地の底にクリフトの姿が吸い込まれそうになる。
「クリフト!」
 完全に反射で、マリアはクリフトに飛びついた。寸でのところで彼の足首を掴んだものの、彼女が踏ん張れるほどの足場が既にそこには残されていなかった。崩れ落ちる岩と共に、二人の体は、地割れに吸い込まれてゆく。
「……バッカ!!心中するか! わたしなんかと!」
 容赦なく岩ががつんがつんとマリアに当たる。こんな状況でクリフトの足を抱きかかえるなんて、絵にならなすぎる、と間抜けなことを一瞬マリアは考えた。
 落ちていく恐怖はない。そうあろうと自分で思っていたのだから。ただそこにあるのは。
「クリフトを」
 鎧を着ているクリフトと違って、天空の鎧を脱ぎ捨ててしまったマリアの体はむき出しだ。既にあちらこちらの皮膚を、肉を、岩に削り取られ、血が噴き出してる。それでも、クリフトを離すことだけは出来なかった。
 落下しながら、地割れの崖から突き出した部分に後頭部を打ちつけ、マリアは死を覚悟した。それは、予定通りだったのだから、どうでもいと思う。けれども。

「お願い……」

―― クリフトを ――

―― こんな形で巻き込みたくなかった、最後までわたしのことを心配して、手を差し伸べてくれた人を ――

 マリアの両眼から涙が溢れた。
 血と土とに混じったそれは、すぐに肌に張り付いて不快を与えたが、既に彼女の意識は朦朧としている。
 どうして彼が自分と共に死ななければいけないのだろう。
 ああ、けれども自分はもう彼を助けることが出来ない。
 ならば、自分が出来ることは……そんな、ぼんやりとまとまらない思考を必死に手繰り寄せ、マリアは最後に強く願った。

―― ああ、どうか ――

―― お願い ――

―― 『神様』……!! ――

 そこでマリアの意識は途絶え、力を失った手はクリフトの体から離れた。






「マリアさん……!」


「マリアさん!」


 何度も名前を呼ばれ、マリアはようやく瞳を開けた。
 ああ、馬車の中だ……朦朧としながら、所在だけ確認をする。
「……う……」
「そろそろ姫様達が戻ってきますよ」
 聞き慣れた声。
「……あなた、無事だったの……?」
「? 何をおっしゃっているんですか?」
 クリフトに起こされて、マリアはごしごしと目をこすった。馬車で軽く転寝をするつもりが、随分深く寝てしまった、と自分に呆れる。
「んー? ……寝ぼけた? わたし」
「ですね。よく寝ていらっしゃったようで」
「うん。よーく寝ちゃった……」
 幌の出入り口に垂らした布がめくられ、外から声がかけられる。
「マリアさん、クリフトさん、みなさんがお戻りになりましたよ」
「ああ、ありがと、ロザリー……なに? マーニャが騒がしいわね」
「なにやら、ピサロ様と喧嘩なさっているようですよ」
 そう答えたエルフの少女は、くすくすと笑い声をあげた。察するに、大したことではないのだろう。
 マリアとクリフトは苦笑を見せた。
「お茶は甘い方がいいですか?」
「うん。よろしく」
「はい。クリフトさんは甘くない方ですね?」
「あ、わたしも甘くしていただけますか」
「わかりました」
 ロザリーはそう丁寧に答えると、出入り口の布を下ろして戻っていった。マリアは体に掛けていた毛布を畳みつつ、クリフトに尋ねる。
「ね、わたし、結構長く寝てた?」
「そうですね。熟睡なさっていました」
 最近はよく眠られていますね、と続けるクリフトにマリアは言葉を重ねた。
「んー、夢を、見ていた気もするんだけど、全然覚えてないんだよねえ」
「それは、覚えていなくてもよい夢だったのでしょうね」
「そういうもの?」
「そういうものだと、姫様によく言われまして」
「アリーナが言うなら、そうなんだろうな」
 そうマリアが言うと、クリフトは噴出して声を出して笑った。なによ、と言いつつ、マリアも笑いをこらえきれずに「はは」と漏らす。
「……でも、大事な夢だった気もするの」
「そうなんですか」
「だけど、いいや。思い出さなくても。クリフトが生きててくれたら嬉しいし」
「え?」
 マリアの言葉に、クリフトは驚きの声をあげた。それを受けて、ようやくマリアは、自分がおかしなことを口走ったことに気付く。
「……やだ、何言ってるのかしら、わたし」
「どうしたんですか……? なんだか、そのう、熱烈な告白を受けたような、そういう、いや、まいったな」
 クリフトが生きててくれたら嬉しい。まあ、そう捉えられても仕方がないが、大雑把すぎるだろう、とマリアは呆れたように答えた。
「してないわよそんなの……」
「なんだ、残念ですね」
「え?」
 クリフトはそれ以上何も言わず、幌の外へ先に出て行こうとする。その背を見て「ああ、生きている」とぼんやりとマリアは思う。
「クリフト」
 何も言うことはなかったけれど、マリアはなんとなく彼の名を呼んだ。
 すると、振り返ったクリフトは小さく微笑んで
「わたしも、マリアさんが生きていてくれて、嬉しいですよ?」
と穏やかに告げた。
「社交辞令?」
「かもしれません」
「食えない神官!」
 マリアはクリフトの背に、仮眠用の小さな枕を投げつけた。それは彼に届かず、ぽふんと床の上に落ちる。
 馬車の外から、みなの賑やかな声が聞こえて。そこにロザリーの可愛らしい笑い声も混じって。
 ああ、この世界も捨てたものではない、とマリアは思った。








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