決意-1-

生まれてから今までの人生で、こんなにも五日間を長く感じたことがあっただろうか。
そんなことを思いながらクリフトはサントハイム城の一室、アリーナの部屋に足を運んだ。
扉をノックをすると中から応えがあり、クリフトは自分の名を告げる。中からアリーナが入室を許す声が聞こえる。
聞き慣れたその声に、一瞬クリフトは目を細めて、息を止めた。それから、聞こえないように静かに息を吐き出すと、ゆっくりと扉を開けた。
「失礼いたします」
「今から、マリアのところに行くのね」
挨拶をして室内に一歩入った途端、仁王立ちで腰に手を当てて立っていたアリーナは、ずばりとクリフトに言い放った。
これには、クリフトもさすがに苦笑を返すしかない。
「はい」
クリフトは、以前アリーナを追ってサントハイムを出た時と同じく神官服をまとい、サントハイムの証の入った神官帽をかぶっていた。それは、長い旅の間に変わることのなかった、最も彼に馴染んだものだ。
「これ、マリアに渡して」
アリーナは手のひらに乗るほどの小さな包みをクリフトに渡した。
「これは?」
見れば、その包みは紙製のナプキンのようで、端にレース模様の切り抜き細工が施してある。
「昨日のおやつ。おいしかったから、マリアにも食べさせてあげようと思って」
「きっと、お喜びになられますよ」
「だといいな。ほら、マリア、甘いもの実は好きでしょ?」
固焼きのクッキーを包んだものだと知り、クリフトはそっと鼻をその包みに近づけた。わずかに甘い香りが漂ってくる。
「間違いなく、お渡しいたします」
そう答えてクリフトは腰につけた革袋に、その小さな菓子の包みをしまいこんだ。
「シンシアさんのことを、尋ねて回るつもりなのね?」
「はい。もう少しだけ、マリアさんと旅をする許可を下さって、ありがとうございます」
「そんなの、わたしが許可するようなことじゃないでしょ」
城に戻ってすっかりと姫らしいドレスを用意される日々に戻ったアリーナ。しかし、旅の間の軽装に慣れた彼女はやはりそれを疎ましく思い、ひとまずは短い丈のドレスを着用することを父王に懇願した。
一国の姫がそれでは・・・とブライは口うるさく言ったが、最近エンドール付近の若い少女達の間で短い丈のドレスが流行していることもあり、まんまとアリーナの思惑通りに父王は承諾したようだった。
レースがふんだんにほどこされたドロワーズがちらりと見える、短め丈のドレスからすらりとした足が見え、膝丈のブーツは革をレースで表面を覆った珍しいデザインだ。
そんな今までに見慣れないアリーナのその姿は、クリフトの目にも大層可愛らしく映り、彼は微笑を見せた。
「それから、エルフの情報を求める看板をサランにも設定してくださったのですね。ありがとうございます」
「ううん、わたしが出来ることなんて、それぐらいだから」
サントハイムに戻ってからすぐ、アリーナは父王に事情を話し、サランの町とサントハイム城前に立看板を設置した。
それはエルフに関する情報を求めるもので、高額ではないにせよ報酬を支払う旨が書かれたものだ。
また、エルフやホビットといったこの地上では人口が少ないと考えられる異種族の生活を、今後出来得る限りサントハイムが保護するという姿勢を、公に示したものでもある。
そのことを十分記しておかなければ、少しでもエルフの情報を手にいれようとエルフに危害を加える人間も出てくるかもしれない、という父王からの配慮だ。
「ほんとは、もっとさ・・・」
アリーナは、本当はクリフトのようにマリアのもとに行って、もう少し一緒に旅をしたいのだ、と彼に本音を漏らした。
けれど、それは出来ないから、サントハイムにいて出来ることをしたいとクリフトに告げた。
彼女は多くは語らないが、エルフについての看板は、マリアのことを考えただけのことではないとクリフトは想像していた。
アリーナの心の中では、今でもロザリーの死についての無念さが強く残っている。
たとえ、エビルプリーストの策略だとしても、関係ない人間の中でも噂を聞きつけ、ロザリーが流すルビーの涙を探していた者がいたはずだ。
今後そのようなことを企む人間に対しては、サントハイムは国としてそれを許さない、そう明言したかったのだろう。
「掲示して5日だけど、誰からも何の情報もないなんて、ほんと、エルフは地上では少ないってことよね。大した情報じゃなくても、見たことがある、とかそれだけでも聞きたかったのに」
「ええ、そうですよね。我々も長い旅の中、そうそう見つけることが出来ませんでしたし」
クリフトは、アリーナを安心させようとしてそう言った。
それから、アリーナは「マリアによろしくね」とか「あんまりお説教しちゃ駄目よ」なんてことをクリフトに言い、最後に「クリフトの小言が・・・早く聞きたくなっちゃうかもしれない」と、ぽつりと呟いた。
そんなアリーナの様子を見て、クリフトの胸は締め付けられるような痛みに襲われる。
彼は、アリーナに対してそれ以上「早く戻ります」というような、期待をさせる言葉を発することは出来なかった。
いつもならば「すぐに戻りますから」とか「心配なさらないでください」とか、自分は口にしたのだろうとクリフトは思う。今だって嘘でいいからそれをアリーナに言うべきかもしれない、その方が疑われない・・・そうは思ったけれど、一瞬の躊躇が入った後で言えば、それは余計に言い訳がましく聞こえるだろう。だから、あえて彼はその言葉を口にはしなかった。
「では、姫さま、そろそろわたしは出かけますね」
その退出の挨拶に対してアリーナは
「帰ってくるの、待ってるからね!」
と、笑顔を向ける。
はい、と答える声を震えずに出すことに、クリフトは全精力を傾けた。
そんな自身の思いとは裏腹に、彼は自分でも驚くほどにあっさりと返事をしてしまった。
そしてその声音は、まるでサランの町にお使いにでも行くのではないかと思えるほどに呑気なものだった。
決して日常からかけ離れることがなくするりと口から出たその声は、嘘や偽りを感じさせない。そう、彼自身も感じた。
おかげで、その声にアリーナはあからさまな安堵の表情を浮かべ、照れくさそうな表情を見せる。
「では、行ってまいります」
これ以上、長く姫様のお顔を見てはいられない・・・圧し掛かるその気持ちに後押しをされ、クリフトは深深とアリーナに頭を下げた。
「うん。行ってらっしゃい」
その声に精一杯の笑みを見せ、クリフトは部屋から退出した。
清潔で床が磨かれた廊下は、一時期でも魔物達がはびこっていたとは思えぬほどに掃除が行き届いている。
コツ、コツ、と小さく足音をたてながらクリフトは歩き、階下に戻るために階段に近づいた。
丁度あがってきた女中が、彼に軽く会釈をする。それへ、彼もまた浅く頭を下げて返す。
すれ違った女中が奥にある物置に姿を消したことを確認して、彼は歩いてきた方向を向いた。
先ほど、アリーナにあっさりと答えることが出来たのは、多分自分でもまだ現実味がないからなのだろう、とクリフトは思った。
アリーナの前にいれば、それが自分にとっての過去からの日常であり、そこから抜け出すことがあるなんて今まで考えたことなぞ一度もなかった。
けれど、自分はもう決めてしまったのだ。
クリフトは、今見たばかりのアリーナの笑顔を思いだす。
「姫様」
今まで、どれだけの回数あの方をお呼びしたか。
そして、どれだけの回数、あの方に呼んでいただけたか。
そのことを思うと、クリフトの目頭は熱を帯びて、今にも涙が溢れそうになる。
彼は、姿勢を正して、ゆっくりと深深と頭を下げた。


「クリフト」
サントハイムの城門をくぐってクリフトが城の外に出ようとした時だった。名を呼ばれて振り向くと、そこにはブライがいた。
マリアの旅に付き合うために、サントハイムから再び旅立つことをアリーナに告げた時、その場にはブライもいた。
その後も何度か言葉を交わしたけれど、ブライは何を思っていたのか、あまりクリフトに小言も言わなかったし、追求もしなかった。
正直なところ、それに対していくばくかクリフトも不穏に感じており、「やはり、いらしたか」と思いながらクリフトはブライを見る。
「ブライ様」
「行くのじゃな」
「はい」
「これを、持っていくがよい」
「・・・これは・・・」
ブライは、クリフトに賢者の石を渡した。
それは、旅の最後に皆でアイテムを分けた時に、魔力が秘められたアイテムはブライに渡しておく方が良いと判断され、マリアから受け取っていたものだ。
それについてクリフトは少しばかり思うところがあった。
本当はマリアはそれを手元に置いておきたかったのではないか、と彼は予想していた。けれど、戦に出る可能性のあるライアンが欲しがるならまだしも、魔法力もあり回復魔法を唱えることが出来るマリアがそれを欲しがることは、多少不自然に思われるだろう。
きっと、彼女はそう思って我慢したのでは・・・そうクリフトが思っていたのが、その賢者の石だ。
「何故、わたしに」
「回復魔法を使えることは重々承知はしておるのじゃぞ。しかし、二人きりでは何かと暴走してしまうこともあろうしの、若者というものは。備えあれば憂いなしというものだし・・・いや、これを、使うことがなければ一番いいのじゃが・・・年寄りの冷や水というもので」
「ブライ様」
クリフトの上背よりは大分小柄な老いた魔法使いは、軽く首を横に振った。
「お前が、何をするために彼女の元に戻るのかは、本当のところは、わしは知らぬ」
「・・・」
「少なくとも、お前にも勇者マリアにとっても、もはや倒すべき相手はこの世界にはいない。けれど、何かを知るため、手に入れるためにこの石を使う事態に追い込まれることがあるやもしれぬ・・・もしそういうことがあるとしても、それは、本来違う形で対処すべきことではないのかと疑わずにはいられぬが・・・なんにせよ、持っていくがよい。そして、それを返すために戻って来なさい」
「・・・はい」
クリフトは、手の中の賢者の石をしばしみつめたのち、力強くブライに返事をした。
「それから、これを」
「え?」
もう一つ、クリフトの顔と同じくらいの大きさの袋を、ブライは差し出した。
受け取ると、妙な温かさが手袋越しにわかり、クリフトは不思議そうな表情を浮かべる。
「これは?」
「あれから5日かな、もう」
「はい」
「彼女の故郷がどういうところなのかわしは知らないが・・・ろくなものを、食べていないかもしれんしの・・・クリフト、お前も食べると良い」
くん、と匂いを嗅いで、それが何なのかクリフトにはすぐにわかった。
ブライがクリフトに手渡したものは、サントハイムの料理長が腕によりをかけて焼き上げたパイだ。
野菜ソースで煮込んだ子羊の肉を包んで焼いたもので、アリーナも好物の一つだ。
彼女が城に戻ってきたことで、料理長はここ数日彼女の好物ばかりを夕食で作っている。それは、きっと今晩出されるはずのものなのだろう。
「ありがとうございます。きっと、マリアさん、すごく喜ぶと思います」
それに頷き返し、ゆっくりとブライは背を向ける。
あまり器用とはいえないこの老人なりの優しさに、クリフトは感動すら覚えた。
ブライは、そういう気遣いを人に見せることがあまり得意ではないし、それを自分から口にすることも得意ではない。
むしろ、口うるさい頑固爺と思われてるほうがせいせいする・・・そう公言することすらある人物だ。
けれど、それは彼が自分で選んだ役回りであって、本来の性質というわけではないのだろう、とクリフトは最近思うことがある。
それは、この国に何事もなく、アリーナが飛び出していくこともなく、毎日日々の営みを繰り返すだけでは、きっと感じ取ることが出来なかったことではないかと思う。
「では、行ってまいります」
「うむ」
背を向けたままでブライはそう答え、城内に歩いていってしまう。
それを薄情とも思わず、クリフトは一礼をして歩き出した。


自分は、マリアに対して「土産」と呼べそうなものを持たなかった、とクリフトは後悔をしていた。
しかし、それには彼なりの理由がある。彼は、もうこれ以上手荷物を増やせない状態なのだ。
サントハイム城を出たクリフトは、そのままサランの町に一度向かった。
実はサランの宿屋に昨日から部屋をとっており、そこにクリフトは荷物を置いていたのだ。
「ああ、あんたかい、遅かったね。部屋は昨日のままにしてあるよ。あと半刻で追加料金だ」
「すみません、遅くなりました。今から準備して出かけます」
宿屋にたどり着くと、掃除をしていた中年女に声をかけられた。
慌ててクリフトは、昨日荷物を運び込んだ部屋に向かった。
「さて、と」
部屋に入って鍵をかけると、彼は大慌てで服を脱ぎ捨てて着替える。
神官帽や神官服は袋に詰め込み、彼は旅人の服に着替えてたいそう軽装になった。
そして、ベッドの傍に大量に置いてある荷物は。
はぐれメタルの鎧。
鉄兜。
多少回りくどいやり方ではあったが、これらの装備品を身につけたまま、あるいは手に持った状態でサントハイムから出て行くことは、あれこれ疑ってくれと言ってるのと同じだ。
(はぐれメタルヘルムがあればよかったが・・・)
ある日、カジノでマーニャが荒稼ぎをした時に交換してもらったはぐれメタルヘルムは、いくつも手に入れることが出来なかったため、みなで使いまわしをしていた。最後にライアンがバトランドに持ち帰ったが、それは仕方がないとクリフトは思う。
しかし、その代わりにはぐれメタルの盾は、クリフトが持ち帰ることを許してもらった。
(炎のダメージを軽減できるから、むしろ、これが残ってくれてよかった)
武器についても、どうしてもライアンと使うものが似通ってしまっていたため、あまり無理は出来なかった。
本当は奇跡の剣を手元に残したかったのだが、回復魔法を使えないライアンのため、それは泣く泣く譲ることになった。
そのかわり、攻撃力が高いはぐれメタルの剣を与えられたので、ありがたいといえばありがたかったのだが。
鎧と兜、盾は布で包まれており、運べる状態にしてある。
クリフトは軽装になってから、それまで着ていた服を入れた袋を持ち、一旦宿屋の外に出た。
ぐるりと建物の裏手に回り、深い緑色の葉をつけた木の根元に近づいていった。
そこには、昨晩彼が掘り起こした、あまり大きくない穴がある。
クリフトは手にしていた袋をその中に入れて、土をかけて埋めた。
そう時間もかからずその作業を終えると、ぱんぱんと手についた土を払う。
そして、しばしの間、自分が埋めたばかりの跡をじっとみつめ、眉根を寄せるクリフト。
彼は先日サントハイム王から、サントハイムの印が入った服を着ないでサントハイムを出て行くところを予知夢で見られてしまった。
それへの抵抗というわけではなく、冷静に考えるとその行為は危険だと思え、回避しようと考えたのだ。
そんなことをすればまず、敏感なアリーナはすぐに彼の意図を察知して、間違いなく止めるだろう。
今日のやりとりでさえ、どことなくアリーナはぎこちなく、本当はなんとなくかぎ付けているような気がクリフトにはしていた。ブライだって多くは言わなかったが、明らかに不信に思いながらも送り出してくれたのだし。
だからせめて、残していく人々達の心を、これ以上は乱さないように自分は気をつけるべきだ。クリフトはそう考え、昨日の夜のうちにサランに装備品を持ち込んでいたのだった。
捨てることは、出来ない。
けれど、預かってくれる人間もいない。
持っていって、マリアの故郷に置いておくことは、尚出来ない。
サントハイム領内から出た瞬間には、サントハイムに関するものを身に纏っていてはいけないとクリフトは思っていた。
本当ならば、ブライから受け取った賢者の石すらも、出来れば遠慮をしたいほどだった。
誰もそれを見て「サントハイムのものだ」とわかるわけではなくとも、今後サントハイムの宝のひとつになるはずだったものだからだ。
結局苦肉の策で、衣類は全てこの宿屋の裏庭に埋めることにした。
ここならば野良犬などに掘り起こされることはなさそうだし、この木の裏は鬱蒼としており子供も寄り付かないだろうと思う。
長い間着用し、体に馴染んだ服。
日々己の職務を露にすることで、自身を律する力になってくれていた神官帽。
それらと決別する時が来るなぞ想像していなかったし、よしんば想像していたとしてもこんな形ではなかったことだろう。
(感傷的になっている暇はないぞ)
クリフトは、自分の物思いに入りそうになったことに気付き、深呼吸をした。そして、あまり時間がないことを思い出し、慌てて再び宿屋の部屋に戻っていった。
「よいしょ」
軽装にはぐれメタルの剣を背負い鎧類を持つと、それだけでかなり荷物が多くてうんざりする。
けれど、ブライから受け取ったパイを置いていくわけにはいかなかったので、彼はバランスよく左右の手に荷物を持とうと、何度か持ち直す。
準備が整ったのはほぼ半刻後のことで、クリフトは大慌てで宿屋の人間に声をかけた。
「じゃあ、お世話になりました」
「あいよ!また使っておくれ!」
「はい」
威勢の良い返事に曖昧に頷き、クリフトは宿屋を出た。
そして、ポケットに忍ばせておいたキメラの翼を取り出した。


マリアの故郷には、キメラの翼で行くことが出来ない。また、ルーラの魔法でも。
たどり着こうと思っている人物がクリフトだろうとマリアだろうと、まるであの村が何者をも拒もうとしているように、たどり着けない。
クリフトはひとまずブランカ城に寄ってひとやすみをして、それからマリアの故郷に向かった。
それには、山道を延々と歩かなければいけない。
こんなに手荷物を持ったままで行くのは、少しばかり彼には荷が重い。それは彼にも重々わかっていたので、ポケットには疲労回復用に小さな甘い飴玉と塩っ辛い飴玉を忍ばせてあるし、水も持ってきた。
以前、一人でマリアの故郷を探しに山に入った時、初めにみつけたのは小さな山小屋だった。
そこに住んでいる人間はその時留守で犬だけがいたのだが、後でマリアに聞いたところ、その山小屋には一人の木こりが住んでいるのだと言う。
(でも、マリアさんに案内されて行った時は、あの山小屋の近くを通らなかったんだよな・・・)
自分一人で来た時には、山に足を踏み入れて人間が通りそうな道――といっても、それは相当に獣道に近いものだが――を歩いて行った記憶がある。そうであれば、普通にこの山に入った人間や、迷って道を探した人間は、その山小屋にたどり着いてしまうのだろうとクリフトは思う。
緩やかな傾斜が続く道を歩くと、どんどんと道が細くなって両脇の木が寄ってくる。
「あー・・・そうだ」
確かに、最初に来たときもこんな感じだった。
昼間なのに、木々が道を押しつぶすように寄ってきた辺りから、空からの光も絶え絶えになってくる。
木洩れ日が差し込んでもまだ尚暗く、この先に村があると知らなければそろそろ引き返してしまう頃だろう、とクリフトは思った。
少しずつあがっていく息。
ほとんど道が消えて、歩きづらくなる足元。
時折顔を掠めそうになる木の枝。
忌々しい、と思いつつも、ここで足を止めたって何もいいことがないと彼は知っている。
「ふう・・・」
普通であれば「もうこれ以上先に進んでも何もあるまい、これ以上進めば、戻るのがおっくうだ」と感じそうな、その距離。
それを越えなければ山小屋すらみつけることが出来なかったはずだ、とクリフトはかすかな記憶を辿って歩き続けた。
神官帽を被っていれば、きっとあちこちの枝にぶつかりぶつかりで苛立ったに違いない、と彼は心の中で呟く。
一度の休憩をはさもうとしたが、既に深い茂みに足を踏み入れてしまい、腰をおろすに丁度良い場所もない。
渋々足を動かし続けていると、ついに、見たことがある山小屋を視界の隅に捉えた。
(人がいなくとも、あそこならば少し開けているから、一休み出来るはずだ。それに、あそこからならば、マリアさんの故郷まではそこまでは遠く感じなかった気がする)
心は急いたけれど、彼が山小屋を発見した位置から実際の小屋までは、案外と距離があった。
道なき道を歩く困難さを、以前の彼は知らなかった。
そして、それを知った今でも、荷物が多いこの状態では予想以上に体力が削がれていく。大荷物での上り坂は、長い旅の間にもそうは多くなかった。彼にとってはこのけだるさは初体験だ。
こんなところで足を止めている時間はない・・・そう自分に言い聞かせて、クリフトはもくもくと小屋に向かった。
「つ、ついた・・・」
ついた、と口に出してから「まだマリアさんの故郷ではないのに」とクリフトは自分を少し恥じた。
音を上げるには早すぎる。
山小屋の周囲は木々が切り倒されており、クリフトが荷物を置いて腰をおろすほどのスペースはいくらでもあった。
とはいえ、もしも小屋に人が住んでいるとしたら。
挨拶もなしに旅人が家の前で休憩をしているというのも、怪しく思われてしまうだろう。
(この前は留守だったが・・・誰か、いるのだろうか?)
犬がいることは知っていた。
ならば、確かにマリアが言っていたように、人がここには住んでいるに違いない。
主に今回は会えるだろうか・・・クリフトはそう思いながら、恐る恐る小屋に近づいた。
先日は気付かなかったが、小屋の横には墓らしきものがあり、几帳面に垂直に交差されている十字の木が立っている。
それは、人間の信仰を感じさせるものだ。
クリフトはふと立ち止まって、遠目から墓碑がわりらしいその木製の十字架を見つめた。
(そういえば、マリアさんの村には教会がないとおっしゃっていた。そして、神という存在を誰も敬っていなかった、と)
けれど、この山小屋の主にはその概念がどうやらあるらしい。
墓に十字架を立てるのは、その表れだ。
それから、クリフトは小屋の扉に近づき、軽くノックをして声をあげた。
「こんにちは!どなたか、いらっしゃいますか!?」
その彼の声に反応したように、小屋の中から犬の鳴き声が聞こえる。
それから、ぱたぱたと軽い足音。
それから。
「はい?どなた?」
扉が開く前に、声が聞こえた。
「えっ・・・」
それは、聞き覚えのある声だ。
まさか。いや、あり得る。そんな風にクリフトが思った次の瞬間。
「わあ!クリフト!」
扉は開かれ、そこにはマリアの姿が現れたのであった。


「よかった・・・まだ、無茶なことをしないでいてくれたんですね・・・」
マリアの顔を見た途端、クリフトは呆けたように口を開け、それから、こともあろうにそんなことを呟いた。
扉を開け放して、マリアは不本意そうに唇を尖らす。
「悪かったわね。無茶なことをしそうな人間で」
「あっ、その」
「でも、確かにそうだものね」
そうマリアがぼそっと言う後ろから、男性の声が響いた。
「何だ、誰が来たってんだ。知り合いか?」
「この前まで一緒に旅をしていた人が、会いに来てくれたみたい。丁度いいから、わたしももう行くね」
「ふん、さっさと帰って、教えてやった通りに作ってみな!」
「そうする。ありがとう」
親しげなやりとり。マリアの後ろでどっしりと座っている男性の姿をクリフトは確認し、慌てて頭をぺこりと下げた。
それへは何も言葉は返ってこない。
「クリフト、ここからなら近道があるから、すぐ連れて行ってあげられるわよ」
「あっ、それなら助かります。実は、結構へとへとで」
「そうみたい。何、その大荷物」
マリアはようやくクリフトのいでたちを上から下までしげしげと眺め、いつもと彼の様子がまったく違うことに気付いたようだった。
服装もそうだが、背に、手に、大荷物を彼は抱えている。
山道を歩くのに適した姿には、到底思えない。
「お邪魔しました!」
マリアは山小屋の中からするりと外に出た。以前とほとんど変わらないいでたちで帯剣しており、違うところといえば背に布袋をしょっているところぐらいだ。
「何か、貸して。持ってあげる」
「ありがとうございます」
彼女の厚意にクリフトは素直に頭を下げ、片手に持っていた荷物を渡した。
「何これ。盾じゃない」
「はい」
「わざわざ持ってきたの?」
「・・・使わなくて済めば、それに越したことはありませんが」
そのクリフトの言葉にマリアは苦笑を返した。
そんな表情ではなく、まるきり驚いてみたり、大笑いしてみたり。そうしてくれれば、どれだけ気が楽なことだろう、と思いながらクリフトも苦笑を見せた。
「マリアさん。あの小屋にいらした人は」
クリフトの前に立って、あまり早くない速度でマリアは歩き出した。
彼女の背を見ながら、クリフトは話し掛ける。
「前に話したでしょ。木こりよ」
「親しくなられたんですね」
「わたしの、おじいさんなの」
「え」
まったく予想していなかった言葉に、クリフトの足は一瞬止まった。
草や木を踏む音が背後で止まったことに気付いて、マリアは素早く振り返る。
「いろんなことがわかったの。だから」
「だから?」
「まだ、無茶なことをしないで、ここにいることが出来た。そうじゃなかったら」
マリアは、真剣な眼差しでクリフトを見つめた。その視線の強さに負けるわけにはいかない、とクリフトも目を逸らさずに彼女をまっすぐみつめる。
ああ。
クリフトは、眉根を寄せた。
この五日間は、長く感じていた。
それは、たった数日でも、彼女が行動を起こすには十分だとわかっていたからだ。
自分の危惧は間違っていなくて、もしかするとあと一日遅かったら、彼女はここにいなかったのかもしれない。
そう思うことは少しばかりクリフトにとってはつらい。
待っていてくれるはずの彼女が、本当は待てなかったのかもしれない。そう思うことは、お互いの信頼関係を否定することだ。
けれど、それは仕方がないことなのだとも、彼は知っている。
知っているから、彼はここに来たのだ。そうでなければ、五日間なぞ「あっという間」に感じ、「いつ頃マリアさんのところに行こうかな」なんて呑気なことを考えていたに違いない。
「遅くなって、すみません、マリアさん」
「ううん」
「あなたを、一人にしてしまって」
「わたしの方こそ、ごめんなさい。やっぱり、クリフトは無理して来ちゃったんでしょ。無理しないで、って言ったのに」
「無理は・・・していません」
「嘘よ」
マリアは、静かに微笑んで、肩をすくめて見せた。
「やあね。どんな形でサントハイムから出てきたって、クリフトが一人で、そんな恰好で来たなら、そんな楽なことじゃなかったってそれくらい・・・それくらい、わたしだってわかるわ。クリフトだって、わたしが無茶なことしそうだってわかってたんでしょ。わかってるのは、自分だけだと思ってるの?」
それは、少しだけ恋をする少女のように。
可愛らしい恋のかけひき、恋の他愛のない探りあいだと、誰かが見ていれば言いたくなるような言葉達。
けれど。
お互いの間に漂う空気は、若い恋愛に浮かれ立っているものではない。
そうであったならば、どれほど楽なことか。
「そうは思っていません」
クリフトは首を横にふった。
それを見たマリアは「そう」と小さく呟いて、再びクリフトの前を歩き出すのだった。



Next→


モドル