懺悔-5-

深い眠りでも、浅い眠りでも、キュンティオスはキュンティアの意識と交わることが出来る。
ただ、深い眠りの時は、キュンティアの意識から離脱することが難しく、浅い眠りの時は離脱しやすい。
離脱とは、眠ることでキュンティアの体に自分が入っているかのように同調した意識が、キュンティオス自身の体に戻って、目覚めることだ。
深い眠りから目覚めれば、離脱の不快感に襲われるが、本当の肉体の疲れは癒されている。
しかし、浅い眠りから目覚めれば、離脱の不快感はないけれども、睡眠による休息は十分ではない。
キュンティオスは、キュンティアと別れてからの17年間、キュンティアのもとへ意識を飛ばさない夜以外は、常に何かしら体の不調を感じていた。けれど、それはどうすることも出来ないことだと彼女は諦め、その不調のままでいることが自分にとっての「普通」なのだと、そう思い込むようにしていた。
でなければ、時に弱い心が首をもたげ、「何故わたしだけ」という後ろ向きな気持ちに支配されそうになるからだ。
その日眠りにつく時に、キュンティオスは枕もとに花瓶を置いた。
数日前に、キュンティオスの意識を伴ったまま、キュンティアは地上で、木こりの若者――マリアの実の父親――の墓参りに行った。そのことを思い返したキュンティオスは、自らもまた、罪を担った者の一人として、その花を天空城の花壇から摘んできたのだ。
季節はずれの訪問のため、キュンティアは白い花を摘んでいくことは叶わなかったから、せめて、わたしが。
あなたの妻であるシレインがいる、この天空城で、キュンティアの代わりにあなたのために。
キュンティオスはこの17年間、今のままでは自分が決して出会うことが出来ない人々のことばかりを考えて生きてきた。
キュンティアしかり。
マリアしかり。
彼らを取り巻く村人達しかり。
既に死んでしまった木こりの若者しかり。
そして、同じ天空城にいながら、別々の形で運命に囚われて、自由に生きることも出来ないシレインしかり。
自分の人生と交わりのない人々のことばかりを考えることで、毎日が費やされる。それは、生きているのか生きていないのか、自分という存在があるのかないのかすら、わからなくなるような、不可思議な感覚ではあった。
誰も、わたしのことを知らない。
わたしは、キュンティアが何を考え、何をしているかを知っているけれど、キュンティアは、わたしが何をしているのかを知らない。
ただ、「ああ、今、キュンティオスは力を貸してくれている」とか。そんな認識しかないのだということを、以前意識を重ねている時にキュンティアが伝えてくれた。それだって、キュンティオスには「わかったわ」と返事をすることすら出来ない。
唯一キュンティオスにとってはマスタードラゴンが近しい存在ではあったが、それは近しくもあり、あまりにも遠い存在だ。
天空城で存在を消されたキュンティオスは、エルフとしてはかなり幼い頃から、毎日自分で食事を作って過ごしていた。あるいは、天空城の厨房で山ほど焼かれたパンや果実をマスタードラゴンに操られた衛兵が、彼女の部屋に届けるか。(もちろん、食材などもそうやって用意してもらうのだが)いずれにしても、彼女はキュンティア以上に、異様な程の自立心を要求される生活を強いられていた。
それを不満に思う気持ちはあまりキュンティオスにはなかったけれど、ただ、いつもどこかで「わたしは、わたしとして生きているのだろうか」という気持ちがあったことは事実だ。
自分に課した、課された使命のために、自分を律して生きている。そのことに生きがいを感じることは出来ない。ただ、彼女がそれを行い続けるのは、ひとえにキュンティアへの愛情と、キュンティアが愛している人々への愛情だけだ。
キュンティオスはキュンティアのように未来を見たわけではない。
そして、マスタードラゴンのように、以前発生した「地獄の帝王との戦い」を経験したわけでもない。
何もかも口伝え。そして、何もかも、キュンティアを通してうっすら感じるだけ。
そんな彼女が17年間も「自分は生きていないのかもしれない」などという、漠然とした思いを抱えながら生きてきたことなぞ、キュンティアは知るはずもないだろう。
「おやすみなさい」
ベッドにあがり、毛布に包まり、眠りの挨拶を言葉にして呟く。
その言葉はキュンティアに対してのものでもあり、ある意味ではあまりに不適切な言葉だった。
それでも、キュンティオスは17年間それを続けた。
自分が起きているその一日に、誰とも会わなかったとしても。
自分は、この世界の誰かと繋がっているのだ、と信じたかったからだ。
そうでなければ、きっとキュンティオスは、あまりの孤独に気が触れておかしくなってしまったに違いない。
エルフは長命で、成長は緩やかだ。
キュンティアとキュンティオスのその17年間は、人間の年齢で計算をすればとても多感な時期。
その時期を孤独と共に過ごしたキュンティオスは、それでも、自分の中に間違いなく存在する、キュンティアへの愛情を信じていた。そして。
キュンティアを通して共に過ごしている、あの山奥の村人達への愛情を。


深い、眠りだった。
先日キュンティアが木こりの息子の墓参りに行った理由を、キュンティオスは漠然としか知らない。
キュンティアはその理由を言葉にして出してはくれないし、ならば、キュンティオスがそれを知ることは不可能なのだ。
けれど、推測することは出来る。
キュンティアが地上で一人、その時を恐れているように、キュンティオスもまた、天空城で一人、恐れていた。
今まで以上に気を使って、いつでもキュンティアに全ての力を貸せるように。
眠りの質をあげるために、いつも以上にキュンティオスは肌触りのよい寝巻きを着ていたし、深く眠れるように眠る前に軽い運動をし、わずかに甘いものを摂取をし、温かい飲み物で体の内側を温めてからベッドにあがった。
その努力の甲斐があってか、すんなりと眠りに入り、そして、地上に引き込まれるように感じるほどの深い眠りだった。
キュンティオスが気付いた時には、キュンティアは花畑にいた。
彼女は一人、空を流れる雲を見つめていた。
いつも通りの村の光景。そして、いつもキュンティアとマリアがおしゃべりをしている、小さな花畑の香り。
「・・・キュンティオス、来てくれたのね」
キュンティアは珍しく、ぽつりと呟く。その声がキュンティアの鼓膜に戻ることで、キュンティオスはその言葉を聞くことが出来る。
それへ、返事をする術をキュンティオスは持たないが、キュンティアは「キュンティオスの意識が重なった」瞬間を敏感に感じ取っているようで、その声は確信に満ちていた。
「今、この空の、ずっと向こうで、あなたは眠っているんでしょうね」
キュンティアがそのように饒舌なことは、今までほとんどなかった。
そのことにキュンティオスは一瞬不安になったが、彼女は彼女なりに相応の覚悟はあったため、自分の心を落ち着かせて静かにキュンティアの言葉に耳を傾ける。
「わたし、今、悩んでいるの。とってもとっても大きな選択肢の前で、どうしようもなく悩んでいる」
そういって、キュンティアは花に視線を向けた。
「その選択肢を間違えたら、今までのわたし達の17年間は、なんだったのかと・・・そうあなたも思うんだと思う。だから、間違うわけにはいかないの。でも、わたし・・・」
キュンティアは、赤い花を一本手折った。それは、珍しいことだ。
彼女は、マリアと花冠などを編んで遊ぶ時以外、意味もなく花を摘むことはない。
「ねえ、キュンティオス。この村の預言は、当たると思う?」
キュンティオスは、キュンティアにその答えを聞かせる術がない。
それを知っていながらキュンティアは聞く。
まるで、キュンティオスに言葉をかけることで、己の中でまだ定まっていない、その答えを定めるための何かを探っているかのようだ。
ごろり。
手折った花をぞんざいに放り投げると、その花は再び花畑に咲く花々に混じってしまった。
「あ」
その時、キュンティアは近づいてくる人影に気付き、ごろりと横たわったままで目を細めてその人物の姿を確認した。
いつもとまったく変わった様子のない、妹のように可愛がっている緑の髪の少女。
それが、人影の正体だ。
「シンシア、おはよっ」
「おはよう、マリア」
少し遠くから手をあげて声をかけてきたマリアは、花畑に近づいてからキュンティアの顔を覗き込み、屈託のない笑顔を見せる。
「日向ぼっこ?」
「ふふ、こうして寝っ転がっていると、とてもいい気持ちよ」
「今日はいい天気だもんね」
そう言って、マリアは空を仰ぎ見た。それから、「あ、父さんにお弁当届けなきゃいけないんだ。またね」と軽く笑ってから背を向け、その場から立ち去ろうとする。それにキュンティアは声をかけ、マリアを引きとめた。
「ねえ、マリア」
「え?」
驚いてマリアは振り返る。キュンティアは寝転がったまま、マリアを見つめた。
「わたし達、大きくなってもこのままでいられたらいいのにね」
突然のその言葉を不思議に思ったようで、マリアは眉間に皺を寄せた。
「どうしたの?シンシアったら、変なこと言うのね・・・っと、急がなきゃ!ご飯食べたら、また来るわ!」
心配そうな声を出すものの、自分の用件を忘れはしない。マリアはそう言うと、再び慌てて早足でその場を去っていった。
キュンティアは軽く顔をあげ、マリアの後姿が見えなくなるまで、ずっとその背を見つめる。
キュンティオスは、いつもと違うキュンティアの様子に敏感に気づいて、息を潜めるように緊張した。とはいえ、それは眠っている間の意識だけのことなので、実際彼女の体が本当に息を潜めているかといえばそうではない。
(何を、思い悩んでいるの。キュンティア)
いつまでもいつまでも、固定されている視界。
そこには、既にマリアの姿はない。
ただ、キュンティアは静かに。
マリアの姿よりも、更にもっともっと向こうにある、彼女にしかわからない何かを見ていたのかもしれない。


突然の悲鳴、怒声、聞きなれぬ魔物の鳴き声。
それは、キュンティオスにとっても初めての喧騒であり、きっと、この山奥の村にとっても初めての騒々しさだったのではないかと思えるほどだ。
(ついに、来たのね)
それが何なのかは、キュンティオスはすぐには理解を出来なかった。ただ、今日の日が「運命の日」であることだけはわかる。
それは、この世界にとって?この村にとって?マリアにとって?それとも・・・。
「魔物が!魔物が来たぞおおお!!!!」
そして、外敵が来た時に鳴らすことになっている竹筒のしかけが動き、ガラガラと音を立てる。
すると、家の中にいた村人は外に飛び出し、外にいた村人は、武器を求めて自分の家に戻ってくゆ。中には、手近なところに置いてあった鍬をその場で手にする姿も見えた。
(誰も、逃げようとしない)
キュンティオスはそれに気付いた。
人々の顔色には怯えの表情が見えるし、年配の男性は手が震えている。
それでも、誰も。
その時、マリアの家から、二つの人影が飛び出てきた。
1年に数回だけふもとの城に行商に行く、情報を仕入れてくる男性に急かされながら、マリアは走っていた。彼らが村の奥まった方へと向かっているのは、一目瞭然だ。マリアはキュンティアが花畑に未だいることに気付いて、村の中央付近で足を止めて叫ぶ。
「・・・シンシア!」
キュンティアは慌てて小走りでマリアに近づき、早口でまくしたてた。
「マリア、あなたにもしものことがあったらわたし・・・とにかく隠れて!わたしもすぐに行くわ!」
「シンシアっ・・・」
それから、マリアはまるで何が起きているのかわからないように、きょろきょろと辺りを見回して何かを言おうとしたが、男性に腕をひっぱられて無理矢理歩かされて行ってしまう。
その頃にはさすがにキュンティオスにも事態が飲み込めていた。
そして、キュンティオスは今さっきのキュンティアの言葉に疑問を持ちつつ、成り行きを冷静に見守ろうと自分に言い聞かせる。

あなたにもしものことがあったら、わたし。

まるで、はずみで出たようなその言葉。
それは、唯一の希望であるマリアに何かがあったら、この世界は・・・そういう心配ではない。
キュンティアにとってマリアは、既に愛すべき一人の人間なのだ。
今日初めてそれを知ったわけでもなかったけれど、それ故にキュンティオスの胸中には不安が広がる。
(キュンティア、さっきあなた、どうしようもなく悩んでいるって言っていたわよね・・・?)
そして、キュンティアが、キュンティオスに語りかけた言葉。

ねえ、キュンティオス。この村の預言は、当たると思う?

そのキュンティオスの思考を止めるほどの、不快な音がキュンティアの鼓膜を震わせた。
遠くで、張り裂けんばかりの叫び声が聞こえた。それは、きっと何度聞いても真似が出来ない、どう発音しているのかもわからないような、人間が助けを求めて精一杯の音を発しただけのものだ。
多分、たまに狩りの獲物をキュンティアにもわけてくれていた、気のいい男性の声だろう。
壮絶なその叫び声は、キュンティオスにとってもキュンティアにとっても生まれて初めて聞く「断末魔」だった。
村の入り口方面で、煙があがっている。
何かが焼かれたのだろうことはわかっているが、それが何かはわからない。
キュンティアは少し村の奥へと走ってゆき、茂みに隠れた。
村の中央から奥へと進むと、視界を阻むように茂みが続いていた。
村で暮らしている人々は難なくその茂みを越えるけれど、背の低い木に混じって所々に生えた高い木々が、上手く視界を狭めてくれるように工夫されている。その奥側に潜り込んで、キュンティアはそうっと木々の間から遠くをうかがった。
魔物らしき影がどんどん村の入り口から中へと入ってきて、人々がそれへと向かっていく姿が遠目で見える。
その時、炎が突然あがった。
誰かの体が燃え上がっている。
それは、魔法によって生み出された灼熱の炎だろう。
ぎゃああああ、と、この世のものとは思えない壮絶な悲鳴をあげながら、炎に巻かれた誰かはまるで踊っているようにくるくる回っている。それを、魔物は四方から囲み、槍で塊を貫いた。
目を背けたくなる映像を、キュンティアはじっと見ている。
キュンティオスは震えた。
いや、意識だけがこの場にあるのだから、彼女の体が震えているわけではない。けれど、間違いなくキュンティオスは「わたし、震えている」と気付くほどに、心臓を鷲づかみにされたかのような恐怖感に身悶えていた。
が、キュンティアはあまりにも静かで、目を逸らすことなく残酷な光景を覗き続ける。
(これくらいは、どうということはないの?キュンティア。もしかして、もしかして・・・あなたが見てきた「恐ろしい未来」は、これほどのおぞましい光景を見ても心が動かないほどに、もっと想像を絶するほどの悪夢の襲来だったというの?)
キュンティアは、とても静かだ。
心臓の鼓動が早くなる様子すら、キュンティオスには感じられない。
誰かが、魔物の切りかかる姿がおぼろげにだけ見えた。
けれど、魔物に返り討ちにあって、地面にすぐに倒されてしまう。
それから。
突然に、更なる業火がその場で燃え上がり、そして、瞬間で消えた。それは、なんという魔法なのだろうか。
その人は断末魔すら放つことなく、その炎が燃え上がった瞬間にこの世から去ったのではないか。そう思えるほどの、あっとうい間のことだった。
地面にその人を倒した魔物は、既にその人が倒れたはずの場所に目もくれない。
キュンティアはそうっと茂みから少しずつ離れて、村の奥へと進んでいった。
村の奥にある、とても丁寧に作られた秘密の地下室。
いつもは無防備な姿だけれど、一旦外から木々で覆えばあっという間に見えなくなってしまう階段。
いつもはかび臭いだけの、子供だった頃のキュンティア達の思い出の遊び場だったけれど。
そこへ向かうと、地下室からあがってくる人影が見えた。
それは、慣れ親しんだ一人の男性だ。
とても、キュンティアにもマリアにも優しかった人。
そして、キュンティオスがキュンティアを通して、ほんの少し。
ほんの少しの間だけ味わった、初恋の相手だった。
無事だったのね、とか。マリアは地下室に?とか。そんなありきたりの言葉、質問を口にすることなく、キュンティアは冷静に言葉を紡ぎ出す。
「みんなが」
「ああ」
「消えていくの。炎に焼かれて。魔物に囲まれて、刺されて」
キュンティアは早口で悲しい現実を告げた。
彼は少しの間だけキュンティアを見つめて、何かを言いたそうな素振りを見せた。けれど、それを止めて、別の言葉を囁きがちに発した。
「・・・先に行く。出来れば、お前には来て欲しくない」
こんな時ですら、誰かを思いやるその言葉。優しいけれども意志が強そうな真摯な瞳。それから目を逸らすことなく、キュンティアは彼をまっすぐ見据えた。
「少しだけ、時間を稼いで。別れを済ませてくるから」
「シンシア」
「わたし、この村で、マリアといられて、本当に幸せだった」
静かなキュンティアの声。
彼はそれへは言葉もなく、泣き笑いのような表情を見せる。そして、腰につけた剣に手を触れながらその場を離れていった。
(彼も)
彼も、死んでしまうの。
キュンティオスは叫び出しそうになった。しかし、彼女のその意識は、彼女自身の深い眠りによって抑え付けられる。
もしも現実に彼女が叫んでしまえば、きっと己の声で目覚めてしまう。
ここで、目覚めてしまうことはキュンティオスには出来ない。
ある意味ではキュンティオスは、キュンティア以上に強い精神力を必要とされていた。
眠りながら、自分ではない人間が遭遇している出来事を体感し、そして、どんな衝撃があろうとも「眠っている自分を起こさない」ほどの自制を強いられるのだ。
それがどれほどに難しいことなのか、既にキュンティオスはよくわからなくなっていた。何故ならば、それは彼女にとって「当たり前」なことになってしまったからだ。
キュンティアと意志の疎通が出来ないキュンティオスは、日常生活でも時にはキュンティアの行為に驚いたり、村で起こったちょっとしたハプニングに驚いたりして、初めのうちはその衝撃で目覚めることがあった。
それでは、いけない。一番大事な時に、キュンティアを助けてあげられない。
そう感じて、キュンティオスは、夢の中眠りの世界で己を律して律して。
このような状況でも、己を「起こさない」ことを意識し続けている。

共に生れた娘には近しい名で、かつ、稀有な運命を切り開く力をその名に与えるため、男児の名を与えよう。

本当は。
キュンティアよりも余程、キュンティオスの方が、ある意味では過酷な人生を送っていた。それは、もしかすると生まれた時から既に定められたことだったのかもしれない。
マスタードラゴンが与える名付けの祝福がどれほどのものかは測ることなぞは出来ないが、少なくとも、キュンティオスは誰の想像をも絶するほどに、強い意志でその運命に立ち向かっていたのだ。
キュンティオスは、ひたすらに己の息遣いを整えることに集中し、そして、キュンティアのために自分が出来ることが何なのか、そればかりを考えていた。
早足で、けれども、出来るだけ音をたてないように、キュンティアはつま先立ちで歩き出す。
地下室に下りていったキュンティアは、あの男性の術によって動きを封じられたマリアのもとへ行って。
混乱のまま、不安そうにキュンティアを見つめるマリアに、優しい声で語りかけて。
それから。
ついに、「その時」が来たのだ。
「大丈夫。あなたを殺させはしないわ」
優しい、けれども意志に満ちた言葉。
それは、先ほど、別れの言葉すらかわすことが出来なかった、あの男性の瞳とまるで同じではないか。キュンティオスは泣き出したい気持ちにかられたが、キュンティアは彼女に泣くことを許さなかった。

キュンティオス。力を貸して頂戴。

今までになかったほどに、強い声がキュンティオスの意識に響く。
ついに来た「運命の日」、「運命の時」。
それは、キュンティオスがキュンティアに力を貸す時。
でありながらも、キュンティアが「大きな選択肢」の前で、後戻りの出来ない命懸けの選択をした瞬間。
キュンティオスは、キュンティアが何をするのか、既に気付いていた。
キュンティアは、本来は既に失っているはずの魔法力を、キュンティオスの助けによって使うことで、「他人の姿形や能力を一時的に手に入れる」高位魔法モシャスの呪文を詠唱しようというのだ。
(マリアの姿形になって、あなたは)
キュンティオスは、それを拒むことは出来なかった。
キュンティアが深く悩んだ末に「この村に伝わる預言は当たらないのだ」と推測し、「今日、この場で、マリアは勇者として覚醒はしない」と判断をしたのだから。
そうであれば、キュンティアはマリアを護らなければいけないのだから。
(・・・でも、本当は、キュンティア。それは!!)
キュンティアはモシャスを唱え、マリアの姿に変身をした。
動きを封じられながらも、それを見るマリアの表情にゆっくりと驚愕の色が広がってゆく。これからキュンティアが何をするか、マリアも理解し出したのだろう。その表情の変化の緩やかさは、体の自由が利かないからだとキュンティオスにも見てとれた。
マリアは叫び出しそうな、けれど、それが出来ないもどかしさに苦しむ表情へと少しずつ歪んでいく。
声が、出ない。体が、動かない。その思いが、まるでキュンティオスにも伝わるようだ。
そして、そのマリアの表情を確認した瞬間。
(キュンティア!キュンティア!待って・・・待っ・・・!!)

待って。
まだ、わたし、あなたと共に。
まだ、何か出来ることがあるかもしれない。だから、待って。

キュンティオスは、自分の意識が切り離される感覚に敏感に気付いて、しがみつこうと必死に念じた。
閉ざされる、キュンティアの意識。いや、それはキュンティオスがそう感じているだけで、キュンティアの意識は失われてはいなかったし、何の障害もない。ただ、キュンティアはもはや、キュンティオスが己の意識と同調していることを「許可」しなくなったというだけだ。
「キュンティア!!」
自分の叫び声と共に、キュンティオスは目覚め、激しい勢いで上体を起こした。
そこは、当たり前に見慣れた自分の部屋。
静まり返った部屋の中で、キュンティオスは肩で荒く息をつき、瞬きを忘れたように目を見開いたままで、自分の呼吸を必死に整えた。寝汗で全身がしっとりと濡れていることにすら気付かず、深い眠りの時に無理矢理離脱した不快感に、頭を振った。
そう。キュンティオスはキュンティアの意識から突然離脱「させられ」た。
それによって、キュンティオスはその光景をそれ以上見ることは出来なくなったのだ。
モシャスのせいだろうか?
キュンティオスは一瞬そう思ったけれど、それはあまりにも浅はかな想像だ。
明らかにそれ以上、キュンティアは、キュンティオスがこの惨劇の光景を見ることを許さなかったのだ。
今から自分は、マリアの姿で「勇者」として地上に出て、魔物達になぶり殺されるだろう・・・そうキュンティアは考えていたのだろう。
その時にどこまで正気を保っていられるのか、きっと自信がなかったのではないか。
キュンティオスがキュンティアから意識の離脱をするときは、キュンティアがキュンティオスを拒んだ時、キュンティオスが目覚めた時、その二つだ。
キュンティオスがキュンティアと意識を重ねたまま、もし、キュンティアが死んだら?
それを考えてキュンティアはそのタイミングでキュンティオスを意識の外へ追い出したのだろう。
己が正気を保っていて、かつ、キュンティオスにそれ以上危険な目にあわせないために。
自分の体を残しながら「意識を飛ばす」ことに関しては、キュンティアは十分その危険性を知っていたのだから。
少しずつ頭がはっきりして、それらのことを整然と理解する前に、キュンティオスは自分の中に生まれた違和感に気付いた。
どんどん膨れ上がっていくその違和感。
吐き気とは違う、気持ちの悪さ。
それが一体なんなのか、キュンティオス本人は気付かないし、後から思い出しても理解が出来ない感触だった。
けれど、それは言葉にすれば「喪失感」というものだったのかもしれない。
生まれてからずっとずっと繋がっていた半身を感じ取ることが出来なくなってしまったことを、なによりも自分自身の体が、心の奥底が、ありえないこととしてキュンティオス本人に訴えかけている。
どうしたの。何があったの。わたしは、わたしじゃなくなったの。
足りない。欲しい。欲しい。欲しい。
「あ、あ、あ、あああ、あ、ああああ!」
キュンティオスは、叫んだ。けれど、彼女はそれが自分の声であることに気付かず、まるで誰かの声を聞いているかのように――まるで、あの村で魔物に殺されていった人々があげた断末魔のように――他人事のようにその声を感じていた。
己の体、意識への違和感に悶えながら、彼女の思考は乱れ、澱み、まるで深い沼に足をとられてもがいているかのように、あまりにもとめどもない苦しみに襲われていた。
ぐるぐると彼女の脳裏に浮かんでは消え、また浮かんで、終わりがないように同じ情景ばかりが繰り返される。
遠くで燃え上がる火炎。
茂みの中から覗いた光景と、人々の叫び声。
好きだった人が、何かを言いかけたその瞬間の表情。
そして。
まるで絶望の時を迎えたかのような、見たことがないほどに悲痛な、マリアの表情。
そして、遠くで燃えあがる火炎。
キュンティアが手折った花。
好きだった人の背中。
そして、マリアの。
人々の叫び声。槍を突き立てる音。
そして。
キュンティオスはベッドの上で叫びながらのけぞり、背骨が折れるのではないかというほど、体をよじった。
それでも、自分が何をしているのか彼女にはさっぱりわからなかったし、それを止める者すら、天空城にはいなかった。
何故なら。
唯一キュンティオスのその声を聞いていたマスタードラゴンは、ただ一人。
キュンティアの死を、今まさに、静かに看取ろうと息を潜めていたからだ。
彼の耳にキュンティオスの叫び声も届いていたとしても、彼は彼にしか出来ないその役割を受け入れるしかなかったのだ。
どれほどの存在であろうとも耐え難い、心の痛みと共に。



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