楽園-1-

名を呼ぶ聞きなれた声が聞こえて、振り返ると。
そこには、可愛らしいくるくるとした緑の巻き毛をもつ、わたしの愛しい妹分が走ってくる姿が見えた。
家の前の枯葉を集めていた手を止めて、わたしは彼女に手を振る。
「シンシア!これ!見て!」
13歳になったばかりのマリアは、まだわたしよりも随分背が低い。
寄ってきた彼女を見下ろすと、その腕に何かが抱えられているのが見えた。
「あら、どうしたの?」
子犬だ。
いったいどこから紛れ込んできたのだろうか。
こんな山奥であるからには、その子犬は野犬の子供に違いない。
生まれてからどれくらい経てば、その大きさになるのかはわからないけれど、相当小さいように思える。
この村は、鳴き声をあげる動物はあまり歓迎されない。
けれど、その小さな動物を見て「かわいい」とか「かわいそう」と思う心は、人間がもともと持ち合わせているものなのだろうか。
マリアは、腕の中の子犬を明らかに「そういうもの」として見ていた。
「犬の子供だよね?具合が悪いみたいなの」
その、茶色い子犬はぐったりとして、瞳を綴じたまま息苦しそうに口を開けている。
はっ、はっ、という小さな息は、時折途絶えて、わたし達をどきりとさせた。
村の一角にある茂みの中で倒れていたところを、運良くなのか運悪くなのか、マリアがみつけたのだという。
茂みに隠れた時の傷なのかいつついた傷なのか、体のあちこちに傷を負っていて、産毛もところどころ剥げている。
「マリアは、犬は知っていたかしら?」
「え?うん、犬は知ってるよ。カルンさんのところに、以前いたもん」
ああ、そうだった。
それは、マリアが生まれる前からずっとこの村にいた犬の名だ。
その犬は、昔は宿屋のカルンさんのところにいて、時々猟に出るカルンさんを手伝っていたという。
けれど、マリアが生まれた頃には年のせいか、あまり吠えることも出来なくなり、以前のように走ることもままならないほど弱っていた。
今のこの村は閉鎖的ゆえに、宿屋という商売が成立しない。
カルンさんは以前よりも猟に赴くことが増えたけれど、飼い犬を伴っていくことが出来なくなった。
そして、ある日、その犬は死んだ。
ああ、なるほど。
だから、マリアには「子犬が死んでしまう」という焦りに似た気持ちが、強く湧き上がっているのかもしれない。
彼女が、一番身近に具体的に知った死は、カルンさんが飼っていた犬の死だから。
多分、この犬は助からない。
わたしはそう思ったけれど、すがるようにわたしを見ているマリアの視線を強く感じつつ、一縷の望みをかけた提案をした。
「とりあえず、長老のところへ連れて行きましょう」
「うん」
それへは、即答だ。
わたし達は、村の長老のもとへと急ぎ足で向かった。



「あんなに早く死んじゃうなんて」
長老の家から帰る途中も、マリアはまだうっすらと泣いていた。
彼女の祈りの甲斐もなく、長老の家に着いた直後に、子犬は息を引き取ってしまった。
その遺体を処理するから、と長老に言われ、仕方なくわたし達は遺体を長老に渡した。
情が移るほどの時間はなかったけれど、どんな生き物の運命にも付きまとう死という存在、そして、選ぶことが出来ない抗えない、死が訪れる時期への衝撃。
それを思えば、多感な年頃のマリアの心が揺れても、まったくおかしくはない。
「そうね」
「だって、ちょっと前までは、あったかかったのに。それに、まだ小さかった。生まれてそんなに日数経ってないよね?犬ってどれくらい生きるの?カルンさんところのハリーは、もっともっと大きかったよね」
地上の人間は、不思議なものだ。
生きるために動物を狩って食用にするというのに、ああいう小動物に対してだけは妙に情けをかける。
マリアのその感傷が、実際は相当に身勝手なものだとわたしは知っているけれど、それは敢えて言わない。
ぐすり、と鼻を啜るマリアに、わたしは答えた。
「マリア」
「うん」
「いつ死ぬのか、生き物はみんな、選べないの」
「・・・」
「自分で命を絶とうとしない限りは」
マリアは、わたしの言葉の意味が半分はわかっているけれど、半分はわかっていない、というような、複雑な表情をわたしに向けた。
「でも、あんなに小さくて、すぐ死んじゃったあの犬は、どうして生まれたの。生まれたのに、あんな短くしか生きられないなんて、一体なんのために生まれてきたんだろう」
その、すがるような表情は、わたしが答えを知っているのだろう、という期待と、わたしの返答で自分が傷つかないだろうか、という不安に満ち溢れている。
優しい子。
生を授かった者は、その意味を知るまで生きることを許されているのではないかと、マリアはそう主張したいのだろう。
「マリア、この世に生まれただけでは、何のために生まれたのか、なんてことは、ないんだと思う」
「・・・そうなのかしら」
「生まれただけならば、生きるという権利を貰っただけだわ。初めから、なんのために生まれて来たか、その理由を持ってる人なんて、いやしないんだわ」
その問答に、マリアは何か反論をしようとした。けれど、彼女の思いは言葉にならず、困惑の表情だけがそこにある。
その時、わたし達が肩を落として会話をしているのを、遠くから目ざとく見つけた人物がいた。
それは、毎日マリアに剣の稽古をつけている男性だ。
「おーい!マリア!剣の修行の時間だぞ!」
その呼びかけにマリアは曖昧な返事をする。
彼女がそんな気分にはなれないということをわたしは知っていた。けれど、それでも彼女を送り出さなければいけない。
「憂鬱かもしれないけれど、行ってきた方がいいわ。ね、甘いお茶を後で淹れてあげるから」
「・・・そうだね。わかった。シンシア、ありがとう」
健気にもマリアはそう言って、わたしに軽く手を振ってから走り出した。


お茶を飲むという習慣は、天空城にも存在した。
地上の人間もまた同じことをするのだと思えば、天界と地上に生きる者たちは、どこかが似ているのではないかと時々思う。
わたしは、13年前、この村にやってきて以来、地上の人間の生活に溶け込むために、地上の道理を理解しなければいけなかった。
地上の人々は、天界ではさほど問題にならないようなことに騒ぎ立てたり、天界であれば大問題になることを「そういうこともある」とか「お互いさまだから」といって見逃したりする。
最初は相当に気苦労を重ね、まるでわたしは地上に生まれたばかりの赤子のようだった。
いや、赤子ならば、頭だろうが心だろうが何もかもがまっさらのまま、生きる地にある道理を教え込まれるからまだ良い。
多くの戸惑いと戦いながら、地上の生活にわたしが「慣れた」と思えるようになるまで、二年はかかったと思う。
初めの頃は「天空城に戻りたい」と思うことも、よくあることだった。
天空城に残っていた、わたしと共に生まれた双子の一人キュンティオスは、彼女の睡眠中に地上にいるわたしと意識を重ねることを義務づけられた。
それも最初のうちはなかなかうまく出来ず、3日に一度出来ればよいほうだったけれど、いまはほぼ毎日彼女の意識がわたしの意識に重なる。
その時、わたしは懐かしさを感じ、郷愁の思いに囚われることも多かった。
しかし、いつからか「そうであること」が日常になり、彼女が遠い天空城で眠りについて、わたしと意識を重ねている間、「懐かしい」という感情を抱くことは次第に薄れていった。
それでも、時折思い出す、自分が生まれて育った天空城。
たくさんの天空人と、限られたエルフと、そしてマスタードラゴン。
天空の理に管理されて生きていた、あの空間。
わたしは、そこで生れ落ちたその時から、「予言の巫女」と呼ばれる存在だった。そして、共に生を受けたキュンティオスは、そのわたしの運命に巻き込まれ、わたしよりも複雑な身の上として生きている。
かちゃ、かちゃ、と茶器をテーブルに並べ、マリアが好きな茶葉が入った瓶を棚から取った。

あんなに小さくて、すぐ死んじゃったあの犬は、どうして生まれたの。
生まれたのに、あんな短くしか生きられないなんて、一体なんのために生まれてきたんだろう。

マリアの言葉を思い出して、わたしは手を止めた。
天空人であれば、誰一人そんな疑問を抱かないだろう。
あの犬が死んだのは、初めから定められていた運命ではない。
ただ、生きる上で用意されている無数の選択肢のどこかを、選び損ねてしまっただけだ。
そして、生き物は「何のために生まれたのか」なんていう、生に対する理由なぞ普通は持たないのだ。
そう、普通は。
大抵の生き物は。
それに例外がない、とはわたしは言わなかったけれど。
鍋に水を汲む。
かまどの前で石を打って、火をつける。
マリアの修行はそれなりに時間がかかるから、準備はゆっくりでいい。
わたしは椅子に座って、じっとかまどの火を見つめた。

どうして生まれたの。
なんのために生まれたの。

そんな疑問を抱いている彼女は、この村にいるどの人間よりも、その疑問への答えを明確に持つ存在だというのに。
なんという皮肉なのだろうか。
彼女のその疑問は、本来「なんのために生まれたのか、大きな意味を持たない」不特定多数の地上の者たちが、生きながら、あがきながら、繰り返し自らに問うものだ。
そして、その疑問を投げかけられたわたしも、その疑問を投げかけているマリアも。
この村にいるどの人間よりも、「何のため」に生きるかを知っている、あるいは知るはずの存在なのだ。
けれども、それを答えるわけにはいかなくて。
それどころか。
(わたしは、マリアの父親の命を奪った、張本人。なんのためにあの人が生まれたのかと問えば、マリアという子供を成すために、という無情な答えしか、そこにはないのだろう)
「あ」
気付くと、こぷこぷと、湯が沸く音が小さく耳に届き始める。
少しの間、物思いに沈んでいたようだ。
この村での生活は緩やかな時間が流れ、時々わたしはこうやって思いを馳せる。
わたしは、予言の巫女として、天界でこの世界の未来を垣間見る力を唯一もつ生物。
マリアと同じく、「何故生まれたのか」をあまりにも明確に他者から先に答えを出されてしまう、生き物。
でも、そんな風に誰かに決められて、そして、そのための能力を持っていることを、一度も後悔したことがわたしにはない。
その力ゆえに、誰もが見ることの無い、恐ろしい未来の世界を見てしまっても、わたしは後悔などしなかった。
だって、この世界を天空城で見守っているマスタードラゴンのためにその力を使い、そして、わたしだけにしか出来ない使命を果たすため、この場所に生きている。
それらは、多分「幸せ」と言うべきものなのだと思えたから。
わたしもキュンティオスも、辛い選択でありながら、そのことに自分達の力を生かせることは、なんとありがたく幸せなことかと思ったものだ。
けれども。
どうやら、それは、ただの天界の道理ではなかったのか、と最近思うことがある。
いや、多分、ある一面では幸せだと感じさせなければ、決してこの世の何者もがそれを成せない――それほどに苦痛を伴うものではないのかと、ようやく気付き始めた。
まるで、人間が子供を成す行為に、快楽を伴うように。
もしも、それに快楽がなければ、「子孫を残そう」という理性だけで子作りなど行われないだろう。
人間にそれがなければ、それに代わるしきたりが出来上がり、儀式としてそれらを無条件で行うためのものが作り上げられるに違いない。
少しずつ少しずつ。
わたしの中にあった、天界の道理で作り上げられた規律や価値観が揺らいで。
あんなにも帰りたいと思っていた天空城ですら、きっと今戻れば煩わしいと感じてしまう場所に変化しているのだと思う。
「よいしょ・・・」
湯が沸騰し続けていた鍋を火から下ろし、木で組んだ鍋敷きに乗せる。
昨日焼いたクッキーを詰めた瓶の蓋を開けて、先にちょっとだけつまみ食い。
この焼き方を教えてくれたのは、今マリアを育てている養母だ。
とても素朴な女性で、特殊な能力もない人だけれど、「簡単でそこそこ美味しい」料理だけは知っている人。それから、服を織ることや、布から仕立てることが得意な人。
けれど、それらは「それを成すために生まれた」と言われるような力ではない。
敢えて言うならば、マリアの養母となるために生まれてきた、のだろう。
けれど、それをマリアに言うことは出来ない。
マリアは、自分と今一緒に住んでいる「両親」が義父義母であることを知らないのだから。
そうだ。彼女は、真実を知らない。
彼女という命に関わる残酷な出来事を、誰もが口を閉ざしている。
この村にいる人々は、過去にわたしが殺したも同然のマリアの実父の死を、実母が天空人に連れ戻されてしまったあの日のことを、鮮明に心に刻み込んでいる。
あの日から、彼らにとって「空にある者」は、大いなる敵として認識されてしまった。
この地上の人間で、空の上に城があることを知る者はほんの一握り。
そして、知っている者達は、みな「行ってみたい」だとか「いいところなんだろうね」とか「空の上なんて素敵」と口を揃える。
彼らの手の届かない、それこそ「雲の上の」存在は誇張され、美化され、まるで幸せな楽園のように想像されている。
かつては、わたしもそこに所属し、そして、そう呼ばれるに恥じぬ幸せな空間で生きていた。
天空城でエルフ達は歌い、踊り、天空人達は皆優雅な仕草で空を羽ばたき、きっと地上の人間が見れば溜息をつくに違いない。
けれど。
「!」
誰かが、歩いてくる音が聞こえる。
それから、コンコン、と小さなノックの音。
それは、聞き慣れたマリアのものではない。
「誰?」
扉の外からは、くぐもった声が聞こえた。
「シンシア、ちょっと、話が」
「あら」
それは、先ほどマリアに声をかけた男性のものだ。
慌てて扉を開けると、剣の稽古をつけた後とは思えない、汗ひとつかいていないような、そんなさっぱりとした状態でその人は立っていた。
「マリアは?」
「マリアのおふくろさんが熱出して倒れたらしくてさ。それで、今日の稽古は終わりにしろって俺のおふくろが迎えに来て。とりあえず、薬飲んで寝かせたらしいんだけど。夕食の準備だけはしないと、狩りにいっちまった親父さんが困るからな」
「マリアがお食事の」
彼女が料理があまり得意ではないことは、彼もわたしも知っているところだ。
彼は苦笑を見せて
「さすがにあいつ一人じゃあ、無理だな。まあ、おふくろが手伝いに行ってるから、シチューのひとつでも一緒に作るだろ。悪いんだけど、その後はまた、ここに泊めてやってくれるか?」
「そっか。そういうことなら、わかったわ」
この村の人々は、マリアの体調に神経質だ。
マリアと同居している義母や義父が、人に感染する病気になった時には、まずはマリアを最初に隔離する。
そうしてしまうと耐性を作れないのではないかと危惧する思いもあるが、他愛もない病から、何かが起きてマリアの命を脅かすことだけは、誰も彼も避けたいと思っているのだ。
「さすがに、もう、うちに泊まらせるわけにはなあ。ま、俺が床で寝ればいいんだけど」
「うふふ」
もっとマリアが幼い頃は、「幼子相手ならば面倒だろう」ということで、そういう場合はわたしではなく、彼のお母さんがマリアの面倒を見ていた。
そして、彼のベッドで寝泊りをしたこともあったようだ。
マリアも今は女の子らしくなっていたし、わたしの手を煩わせるほどの子供でもなくなったから、最近はこういう時にはわたしの家に泊まることになっている。
彼は、くん、と鼻を鳴らして笑顔を見せた。
「いい匂いがする。何だ?茶?」
「うん。マリアが好きな、甘いお茶。飲んでいく?」
「お、いいのか?」
「丁度、お湯も沸いてるから」
こうやって、誰かを誘ってお茶を淹れるというのも、最初のうちはぎこちなかった。
わたしは彼らと共にこの村に生きているけれど、その存在はどこかに線引きがなされていて、どれほど彼らがわたしに親しくしてくれても、わたしはその一線を越えようとは思えなかったからだ。
けれど、今はそれが当然のように出来るようになってしまった。
「じゃっ、お邪魔しまーすっと」
「先生は、甘くないほうが好きだったっけ?」
「何、シンシアまで先生とか呼ぶなよ。俺は別にシンシアになんにも教えてないだろ」
「だって。マリアに合わせてるうちに」
そう言って小さくわたしが笑うと、彼はしょうがない、と言いたげに肩をすくめて、勝手に椅子に座った。
わたしは彼の目の前の席に座って、茶葉をポットに入れ、湯を注ぐ。
「マリアが、子犬を見つけてきたって?」
「長老から聞いたの?」
「うん。今、ここに来る途中に。どーりで、稽古に気が入ってないわけだ」
「放っといても、何をしても、多分死んでいたと思う。でも、その、言い方は悪いけど、おばさんの具合が悪くなってばたばたしてる方が、忘れられていいのかもね」
「ああ、そうだな・・・っと」
彼は、わたしに許可を求めることなく、クッキーに手を伸ばして勝手に口に放り込んだ。
その不調法は別段気にはならないし、むしろ、そういう仲であることが少しだけ嬉しいと思える。
彼は、マリアを立派な勇者にするために、特例としてこの村を何度も出た人物だ。
幼い頃に目の前で起こった衝撃の瞬間を、彼は忘れようがない、と時々言う。
それは、マリアの実父が、マスタードラゴンが放った雷で焼け焦げた光景。
マリアの実母が叫びながら、天空人に体を抑え付けられながら、空へつれ戻される光景。
そのどちらにも、わたしが関与していることを、わたしは時々打ち明けたくなる。
人間の年齢とエルフの年齢はかけ離れているけれど、寿命に対する相対的な年齢でいえば、彼はわたしとあまり変わりがないと思う。
そして、人口の少ないこの村では、わたしにとってもマリアにとっても、案外年齢が近しい人として、気安く出来る数少ない相手だ。
普通の町に行けば、この人とマリアの年齢差は決して「近い」とはいえないだろう。
けれど、マリアを守るために、この村の人々は子供を成すことをあの日からお互いに禁じた。だから、実質彼とマリアの年齢が一番近いと言うしかないのだ。
マリアよりも幼い子供がこの村にいれば、どんなに監視をしていても、ちょっとした隙に、なんの悪気もなく、外部にマリアのことが漏らされる危険もある。それを警戒しているのだ。
彼は、その幼い頃の体験で、空には何者かがいることや、マリアを勇者にしなければいけない理由など、正しいか正しくないかは別として、それらをとても強く実感している。
だからこそ、余計にわたしは、打ち明けたくなるのだ。
けれど、打ち明ければきっと、彼はその剣をわたしに向けるのではないかと思う。
「シンシア。手、止まってる。どうした」
「あ、うん。茶葉が、開くの待ってるの」
「あ、そうなのか。ぼーっとしてるように見えた」
「やあね、わたしって、そんなぼうっとしている?」
「・・・時々、花畑で」
「・・・」
「空を見ている」
予想外の言葉が返ってきて、わたしは無理矢理それを軽く笑って流した。
そして、茶を注いで彼の前にカップを出す。
「ね、先生は、信じてる?」
「うん?何を?」
「マリアが、立派な勇者になるって」
そのわたしの問いに、彼はティーカップを持ち上げようとして手を止めた。
彼の眼差しは、驚くほどに真剣で、まっすぐにわたしを見据えている。それから、とても静かに、彼は心からの言葉を告げた。
「俺程度の者が、勇者を育てられるとは思っていない」
「・・・!」
「けれど、尚のこと、俺程度の者が教えられる全てを習得せずして、勇者になぞなれないとも思う。俺はただ、どんな人間がマリアにどんな剣技を教えようと、それを間違いなく正しく理解出来るような、基礎力をひたすらつけてやるだけだ」
彼は、そう言って静かな笑みを見せた。それから、ティーカップに口をつけ、一口、二口。
なんと、優しくて強い人なのだろう。
わたしが、あの日、マリアの父親の命をマスタードラゴンに奪わせて。
その光景を目の当たりにさせ、運命を狂わせてしまった、この男性は。
いいや、彼だけではない。
彼のお母さんも。この村の長老も。カルンさんも、ドッセルさんも、誰も彼も。
あの日、この村を襲った不幸に晒され、彼らの人生は大きく狂い始めてしまった。
それを言えば、マリアの本当の両親がこの村に来た時から、すべてが始まっていたのだ、という人もいるかもしれない。
そうであれば、どれだけわたしは救われるのだろうか。
けれども、悲しいことに、やはりそれは本当ではないとわたしは思うのだ。
あのまま放置しておけば、マリアの父は流行病で倒れ、母ひとり子ひとりでこの村に暮らすことになっていただろう。
そして、いつの日か。
抗えない恐怖の力を持つ、邪悪なるものがこの世界を覆い、全世界が地獄絵図と化すのだ。
そうなるよりは、良いだろう。
そう、天空の人々は言うに違いない。
けれど、やはり、わたしはそれは違うのだと思う。
この13年間、この村の人々は、誰もがあの悲劇の日のことを思い続けている。それは、そうであるように、わたしが仕組み、時折キュンティオスを通してマスタードラゴンの力を分けてもらい、彼らに催眠を施しているからだ。
あの日から、わたしはずっとこの村の人々の人生を、少しずつ少しずつ、狂わせ続けている。
彼らは、マリアが言うところの「なんのために生まれたの」という問いに、今ならば「マリアを立派な勇者にするためなのかもしれないね」と答えるかもしれない。
けれども、それすら。
それすら、わたしが狂わせてしまった彼らの偽りの人生における言葉。
もしも、彼らがわたしやマスタードラゴンに「我々はなんのために生まれたのか」と、問えば、わたし達は「勇者を作る犠牲になるために」という答えしか与えられないのだ。
それでも、目の前にいるこの人やこの村の人たちは、その歪んだ人生の中で優しく、強く、どうしようもないほど、わたしの心を揺らす。
そして、揺れる感情を自分の中で認識すればするほど。
もう、わたしは天空で生きることは出来ないのだろうと、そう思えるのだ。
多分、ここにこうやって生きているわたしは、天の道理も地の道理も知り、どちらの言い分もよく理解が出来る唯一の存在なのかもしれない。
けれど、わたしにとって必要なのは、それを知ることではない。
マリアが、世界を救う勇者になって。
凄惨な恐怖の侵略を食い止めてくれること。
そのために、自分の出来る範囲のことを全力を尽くす。
ただそれだけ。
わたしが、地上の道理を知り、この村にいる人々を通して、地上人の心を知っても、それは何の役にも立たない。
なのに。
(キュンティオスは、どう感じているのだろうか。この13年間、わたしを通して、この村の様子を体感して)
声に出せば、それはキュンティオスに伝わる。
誰もいない場所で「キュンティオス、あなたは、どう思っているのかしら」と問い掛ければ、わたしの言葉はわたしの耳に戻り、キュンティオスに聞こえる。
しかし、それに対する答えをキュンティオスがわたしに届ける術はない。
だから、そんな、いたずらに彼女の心を揺らすような問い掛けをわたしはしない。
(天界にいながら、この村を体感しているあなたは・・・)
「やっぱり、ぼーっとしてる」
「・・・あっ!」
「俺は、帰ったほうがよさそうだな」
気付けば、わたしはわたしのために注いだ茶の入ったティーカップを両手で持ち、ただそのままの恰好で制止していた。
「シンシアも、子犬のこと、考えていたのかな?」
見れば、彼のカップの中身は既になくなっている。そんなことに気がいかないほど、わたしは長い物思いに浸っていたのだろうか。
かたん、と椅子を後ろに押しながら立ち上がった彼の表情は、穏やかだ。
気遣われてしまっている。そう思うと、それはやたらと恥ずかしくも思えたし、どこかしら嬉しくも思えた。
「ううん、そうじゃないんだけど・・・」
うまい言い訳が出来ずに、わたしは口篭もる。
すると、まるでそこに助け舟を出すように、聞きなれたノックの音が響いた。
「シンシア!入ってもいいー!?」
もちろん、外から聞こえるのはマリアの声。
立ち上がった彼はふふっと小さく笑って、肩をすくめてみせた。
「邪魔者は、退散するよ。女の子は女の子同士で、楽しい話をするものだし」


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