楽園-2-

彼が扉を開けると、そこにはタオルにくるんだ鍋を小脇に抱えたマリアが立っていた。
肩からは布袋をぶらさげている。それは、わたしの家に泊まるときにいつも持ってきている、寝間着などが入っている道具袋だ。
「先生ずるい。先にお茶飲んでたのね」
「はは。おばさんのことを伝えておいたぞ」
「そっか。ありがとう!あ、シンシア、シチュー持ってきたのよ」
「あら、嬉しいわ。じゃ、パンと一緒に食べましょう」
「うん」
マリアはするりと入ってきて、テーブルの上に鍋を置いた。
「じゃあ、俺はこれで失礼するよ」
「先生のお夕ご飯も同じシチューだよ」
「そうだと思ったよ」
そう言って彼は軽く手を振って、外に出て扉を閉めた。
わたしは、飲み干されたカップを下げて、マリアのために新しいカップをテーブルに出した。
「おばさんの容態はどう?」
「うん。薬草煎じて飲んで、今は眠ってる。明日の朝には落ち着くんじゃないかなって、父さんは言うんだけど」
「早く良くなるといいわね」
マリアは、軽い身のこなしで椅子に座る。
「うん。あ、このクッキー食べていい?」
「どうぞ」
まだまだあどけない彼女は、夕食前だろうが構わずに、甘いものに手を伸ばした。
わたしもそれをとくに咎めることなく、ポットにお湯を注いで蒸らす間、鍋を覆っているタオルを外して蓋を開けた。
ぶわっと湯気が立ち上り、塩気のある美味しそうな香りが部屋に広がる。
「おいしそう。まだ熱いくらいね」
「うん。ぐつぐついってるところを移して、すぐもってきたの」
「じゃ、お茶をのんびり飲んでないで、もう夕食にしたい?ちょっと気が早いけど、クッキーつまんでるってことは、お腹減ってるんでしょ?」
そのわたしの提案に、少し恥ずかしそうにマリアは笑った。
「実はそうなの。気が早いっていえば早いけど、食べてる間に日は暮れちゃうし、ね、食べよ?」
少し甘えるような笑顔。
その可愛らしい妹分のおねだりに、もちろん異存があるはずもなかった。


その晩、マリアと共にベッドに入ったわたしは、暗闇の中瞳を閉じることなく考えていた。
毛布に包まる寸前に、わたしはキュンティオスとの同化を自ら解除して、今は完全にわたしの意識はわたしだけのものだ。
時々、こんな風にマリアと一緒に一日の終わりを迎えると、ふっと過去のことを思い出す。
それは、もちろん天空城で。
わたしは、キュンティオスと一緒で。
生まれた時からいつも一緒だったわたし達は、一日の始まりも一日の終わりも一緒だった。
それは、予言の巫女として「予言をしなければいけない」という天啓を与えられた、運命が突然動き出したあの日以降は特に。
他のエルフ達との接触を避け、わたしとキュンティオスは天空城の特別なフロアに隔離をされ、日々のほとんどを二人きりで過ごしていた。
何故かその時のことが思い出される。
今、キュンティオスはどうしているのだろうか。
それをキュンティオスに問い掛けたところで、その答えは返ってこない。返す手段が彼女にはないのだ。
彼女は、わたしを怨んでいるのだろうか。
怨みつつも、それでもわたしに力を貸すために、日々眠りの間、こうやってわたしの下に意識を飛ばして同化してくれているのだろうか。
以前は、それを「当たり前」と思っていたけれど、最近はそのことを思うと、胸が痛む。
「予言の巫女」が天空城を去ることは、通常はありえないほどの緊急事態だ。
しかし、そうせざるを得なくなり、わたしがこの村に来るにあたり、キュンティオスの存在もまた、天空城から抹消されてしまった。
いわば、彼女は今、天空城にいながらにして、いるはずのない存在。
そんな彼女が、わたしのように誰かと交流を持てる生活を送っているはずがない。
彼女は、多分。
目覚めて彼女が彼女自身の生活を送っている間は、きっと、ひとりきりなのだろう。
目覚めれば一人で、食事をすれば一人で、笑うことも泣くこともたった一人、いや、笑うことも泣くことすら忘れた日々を送っているのかもしれない。
そのことを思うたび、わたしの想像は更に広がっていってしまう。
もしかして、眠りに入って、わたしに同化している間。
たったそれだけの間、キュンティオスもまた、「誰かと触れ合う」時間を得ているのではないかと。
そして、そう思えば思うほど、わたしは困惑する。
この村でわたしが幸せな生活を送っているのは、キュンティオスにとっても喜ばしいことなのだろうか?
それとも、彼女はそんなわたしの日々に同化すればするほど、わたしを怨んでいるだろうか?
「う・・・ん」
その時、ベッドで並んで横になっているマリアが、寝返りをうった。
暗闇の中、わたしは可愛らしいその寝顔を見つめる。
まだ、あどけなさが残る彼女は、自分が勇者になる必然性を未だに感じてはいない。
単に「勇者になるための修行」をするのが、日々の当たり前の行為になっているだけで、それがどういうことなのかをあまり理解はしていない。
ただ、みんなに認められるほど強くなれば、この村から出て行くことを許されるのだと。それだけを思って修行をしているだけだ。
第一、たとえ彼女が「この世界を救うのは自分しかいない」という自覚に目覚めたとしても、それは本当に正しい自覚なのだろうか?
だって、今の彼女にとっては「世界」とはこの村のことだ。
彼女はこの村の外の、広い広い世界を知らない。
その、知らない場所に生きる人々を含んだ「世界」を守るなんて、想像が出来るはずもない。
思えば、わたしも彼女と大差がないのだろう。
わたしは「世界を救うために」予言や未来返しの術を行った。
そんなわたし自身は、生まれた頃から「予言の巫女」として周囲から可愛がられ、ちやほやされていた。
反面、その能力ゆえに天空城から地上に降りることもほとんど禁じられ、今のマリアのように自由を得ることは難しかった。
時折他のエルフのお姉様達と一緒に地上に降りてきても、わたしには必ず誰かお目付け役がつき、出来得る限りに早く天空城に戻ることを義務づけられていた。
そんなわたしが世界を守るために自分を犠牲に出来るのは、ただ天空に生まれ落ちてしまったから、きっとそれだけなのだろう。
今、わたしはこうやって地上に降りて、時には村の外に出ることも許されて生きている。
けれど、それはあくまでも、わたしが予言の力を失い、いちエルフとほぼ変わらない状態になって、天空城に縛り付けられなくてよくなったからだ。
それゆえにここでマリアを守ることを許されたからこそ、知ることが出来た世界が目の前には広がっている。
もしも、わたしが生れ落ちての能力を持ったまま、未来返しの術も成功していたら。
そうしたら、きっとわたしはあのまま天空城に居続け、何か凶事があれば予言の巫女としての儀式を執り行い、そして、いつの日にか死ぬ、それだけの人生だったのだろう。
そして、それを光栄と思い、それを幸せな人生だと思ったに違いない。
今は?
今は、どう思っているの?
「シンシア・・・起きてる、の?」
少し掠れた声。
「ん?うん、ちょっと目が冴えちゃって」
「ベッド狭いから、寝ずらい?わたし、床で寝よっか?」
眠そうに目をこすってから、暗闇のわたしを見ようと、マリアは目を細めてしかめっ面を見せる。ほどなくして暗さに目が慣れたようだ。
「大丈夫よ。ありがとう。今朝はちょっとゆっくり寝すぎたから、そのせいだと思う」
「じゃあ、シンシアが寝るまで、わたしも起きてる・・・」
「マリア、いいのよ、そんなの」
「んーん」
マリアは上半身を起こして、小さく笑った。
「ね、シンシア、ベッドの中も、シンシアの匂いがする」
「わたしの?」
「お花みたいな、いつもの匂い」
「あ、そっか」
タンスの一番下のシーツを入れている引き出しには、いつも身につけている花の香りの匂い袋をいれてある。
きっと、そこから移った香りのことを言っているのだろう。
「わたし、この匂い大好き」
そう言って、マリアは笑う。
それへ、うまく言葉が返せないまま、わたしも笑う。
その夜、ベッドで二人並んで、他愛のないことをわたし達は語り合っていた。
マリアのお父さんが、数日前大きな魚を釣ってきたこと。
その翌日には「たまには獣の肉が食べたい」なんて言って狩りにいったけれど、何も捕ってこられなかったこと。
久しぶりにマリアがお母さんとパンを焼いたこと。
長老に指導されてもうまく呪文を唱えられないこと。
それから・・・それから・・・。
そんなどうということのない話でも、わたし達は笑い合い、いつまでもいつまでも話し続けられるのではないか、と思えるほどの、楽しい時間。
その時のわたしは、間違いなく「シンシア」であり、まるでもともと地上に生をうけたかのように屈託なく笑い、マリアにちょっと意地悪を言ってみたり、たまにたしなめてみたり、時には彼女のおどけた様子に吹き出したりする。
うまくは表現出来ないのだが、「それ」は、天空城では、与えられなかった大切な何かではないかと、わたしは後付けで思う。
言葉に出来ない何か。
生きる上ではとても大切な何かは、本当は「愛」だの「思いやり」だの、ひとつの言葉には出来ない何かなのだろうと、わたしは実感せざるを得ない。
そして、言葉に出来ないから、それをわたしはキュンティオスに伝えることも出来ないし、彼女に語りかけることも出来ないのだ。
ただ、もしかしたらキュンティオスも、わたしと通してこの村の人々と「暮らす」間に、そのことを感じとっているのではないかと。
それだけを、期待をする。
何故、自分がそれを「期待」しなければいけないのか。それすらを、よく理解することが出来ないままで。


それから、また数年。穏やかな時間が、何者からの邪魔も無いまま優しく過ぎて行く。
村人達は、マリアを立派な勇者に育てるべく、彼らが出来る限りのことを継続している。
素人目で見ても、マリアはまだまだ勇者の自覚もなく、彼女の中には「自分が勇者にならなければいけない理由」が明確にない。
けれど、それを明確に出来る人間はこの世界に今のところいない。
彼女の複雑な出生その他を語ることは、彼女が今いる、この村の平穏を乱すことになり、そうなってはきっと、彼女は勇者になるための修行を投げ捨てるとも思えるからだ。
ここ数年、ざわざわとわたしの中で広がる「気配」。
それは、この地上のどこかで「何か」が動き出し、その力を広げている、闇の匂い。
未来返しの術を行うべく、天空城でわたしが未来へと意識を飛ばした時、肉体のないわたしの気配を察した、あの男が動き出したのだろうか。
(間に合わないかも、しれない)
それまで、はっきりと具体的に感じたことがなかった焦りが、わたしの中のどこか深い場所で日々増していく。
けれど、それはどこか上の空にも思えるほど、そう、まるで「もう一人の自分」が焦っているかのように、この村の生活とは切り離されたところで、宙ぶらりんになっている。
おはよう、と笑いかけるマリア。
シンシア、何をしてるの?と問い掛けるマリア。
可愛らしい彼女のその呑気さに、わたしは焦りを感じない。
わたしはどこかで、「間に合わないかも」「どうしたらいいのだろう」と心が急いているけれど、その一方では、今自分がいる「この場所」が永遠に変わらない、穏やかでのどかなものだと信じている。いや、信じたかったのだ。
そんなある日、わたしは村の長老に呼ばれた。
長老から呼ばれた時は、まだキュンティオスは眠っていないようで、わたしの意識と同化が行われていなかった。
身支度を整えて出かけようとした時、丁度同化の予兆が始まり、ふっと意識が揺らいだ。
わたしは、不思議な予感に襲われ、めずらしくキュンティオスとの同化を拒んだ。
「とりたてて問題がないと思った日」やら「体調が悪くて同化したくない日」などは、自分から拒絶をする権利を行使する。
それはもともと、わたしからキュンティオスへ伝えてあった数少ない約束ごとだ。
(長老がわたしを呼ぶなんて、滅多にないことだわ)
ならば、本当はキュンティオスも同席(わたしにとっては、そういう感覚なのだ)してもらった方が良いのではないか、と普段なら思うだろう。
けれど、その日わたしは妙な胸騒ぎを感じて、あえて彼女との同化を拒んだ。
それが、良いことだったのかどうかは、自分にも、いや、誰にも判断が出来ないことだと思う。
「シンシアです、長老」
わたしは、手土産にまた焼いたクッキーをもって、長老の家に伺った。
わたしのノックと呼びかけに対して、長老は笑顔で出迎えてくれた。
「おう、シンシア、待っておったぞ。そこに座るがよい」
この山奥の村で、ひっそりと年齢を重ねていく長老。
もう、何歳になるのだろう。地上の人間の寿命は、どれほどなのだろう。
そう思わずにはいられないほど、長老は昔から長老で、マリアが生まれた頃から、なんら変わりがないように見える。
「最近、マリアは、どうかの」
長老には、昔奥さんがいたと言う。
子供がいないまだ若いうちに奥さんを亡くし、そのまま一人暮らしを続けていると聞いた。
奥さんを亡くしたのは、村の外からやってきた人間が持ち込んでしまった、流行り病。
だから、長老の年齢に近い人間が、この村にはほとんどいないのだ。
そして、マリアの義父母や先生の母親ほどの年齢の人々は、その流行病で親を亡くし、長老に長い間世話になっていたのだとも聞いた。
この村の人々は、それぞれ一戸建てで住んではいるけれど、みな家族のようなものだと時々思う。
「マリアは・・・」
わたしは、長老の家で、長老が作った茶をいただいた。
長老は家の裏で背の低い木を育て、その葉を使って茶葉を作る。
それは年に二度のことであまり量が多くとれないのだが、長老は自分の分のほかにも、わたしにも少しだけわけてくれる。
渋みがあるけれど、その渋みはとてもまろやかで、優しい味とすら思える茶だ。
それは、この老人の人となりに似ている、といつもわたしは思う。
「また、しきりと村の外に出たい、と言っています。多分、次にわたしがお花摘みに行く時に、ついて行きたいという意思表示でしょうね」
「ああ、確かに・・・あと、二月もすれば花が咲く時期になろうからの」
「そうやって、わたし一人が村の外に出るのは、確かにマリアには酷なことなのでしょうけど」
わたしは、長老が入れてくれた茶を飲み、ほっと一息ついた。
すると、長老は話題をさっと変え、わたしが予想もしていなかった言葉を放った。
「のう、シンシア。最近、なんだか、この世界は騒がしいと思わぬかの」
「・・・え・・・」
「わしの、勘違いだといいのだが。こんな山奥に暮らしておきながら、この世界、などと言うこと自体、年寄りの戯言と思われても仕方がないのだが」
「長老、わたしだって、この村しか知らないですもの。この世界・・・と言われても」
ぴんと、こない。
そう言おうとして、わたしは言葉を飲み込んだ。
目の前にいる長老は、まっすぐにわたしを見ている。
深い皺が刻まれたその表情に威圧感はなかったけれど、わたしに上辺だけの言葉を出させないような、心を引き締めさせる何かが滲む。
長老と、小さなテーブルを挟んで向かい合う。
二人の間には、それまで味わったことのない空気が漂い、わたしは身動きが出来ない。
長老は、カップに口を近づけて、ふう、とその中身に息を吹きかけた。
それから、ゆっくりと茶を飲んで、両手でそのカップを包んだまま、ごとんとテーブルに置く。
彼自身が落ち着きたかったからなのか、わたしに心の準備をする時間を与えようとしたからなのか、それはわからない。
「年のせいなのか、最近、昔よりも記憶が曖昧になったり、逆に鮮明になったりと、わしも相当なおいぼれになったようでな」
「長老」
「時々」
静かな言葉、静かな空気。
それが、なんとも重苦しくわたしの両肩に圧し掛かってくる。
その圧力を感じていない振りをすることがとても難しく思え、わたしの呼吸は浅くなった。
「わしの過去に、お前がいないことが、わかったよ」
「・・・え・・・」
「けれど、どこかの過去には、お前がいるようでな」
その時、わたしはどんな表情だったのか。
それは、後で考えてもまったく思い出せなかった。
少なくとも、予想外だった長老の言葉に動揺し、自分ではその動揺を隠そうとした。
もしもキュンティオスが同化していれば、長老の言葉はすぐさまマスタードラゴンへ伝えられ、何らかの措置をとられたかもしれない。
わたしは、マリアの父親の命をマスタードラゴンが奪った日、マリアの母親をマリアから奪った日、それ以降この村に降り立った。
そして、マスタードラゴンの力を借りて、この村にさも以前からいたかのような記憶操作を施した。
それは永続的なものではないがゆえに、わたし自身この村に住み、彼らのその記憶操作の効果が切れぬようにと見張っていた。
定期的に、キュンティオスを通してマスタードラゴンの力を借り、この十年以上うまくやってきた。
そう。うまくやってきた、はずだった。
「何を、言ってるんですか、長老」
わたしは、笑い飛ばそうとして、失敗をした。
その言葉は上滑りし、そして、わたしは長老と視線を合わせることが出来なかったのだ。
「意味がわかりません」
「年をとってから、時々、昔の夢を見ることがあって」
「・・・」
「若いうちは、そうはなかったがの。どうも、人生において、衝撃的だった事柄というものは、忘れることを許されないままで、ここに仕舞われるらしい」
そう言って、長老は自分の頭をとんとん、と右手の平で叩いてみせる。
「昔の夢といっても、昔の思い出と夢の中が混じってしまうこともある。が、ただの記憶の再生の時も、ある」
どうして、そんなに。
何を咎めるでもなく。
問いただそうとする、強さもなく。
この老人は、優しく言うのだろうか。
わたしは、呆然と長老の話を聞いていた。他に、どうしようもなかったからだ。
目の前の老人は静かに、一度目を伏せた。それは、まるで、言葉にすることを未だ悩むように、言葉にすることを恐れるような仕草にも思える。
それから、またもまっすぐにわたしを見て、穏やかな声音で長老は言葉を放つ。
「わしの、記憶の引き出しからするりと出てくるこの村には、何故かシンシアがおらんのよ」
「そんな・・・」
そんなこと、知らない。わからない。
そう言おうとして、またわたしの言葉は喉の奥で力尽きてしまった。
少しだけ、わかる気がする。
年をとると、よく人間は「もうろくする」と言われる。
それは、体や心が老いぼれることだ。
わたしがマスタードラゴンの力を借りて彼らに施した記憶操作は、きっと正しく働いている。
けれど、長老は、既に相当な年齢で、頭の中に整理されているはずの記憶すら曖昧になことも多いのだろう。
本来なら覚えていて当然のことを忘れてしまい、記憶の彼方、一番忘れてもおかしくない「記憶操作によって現実ではないと思い込んでいる、本当の記憶の断片」が突然鮮明に浮き上がったりしたのかもしれない。
その、記憶の曖昧さ、混濁さは、天空人でもエルフでも、年老いていけば現れる現象だ。
きっと、ここでもしもマスタードラゴンの力を借りれば、長老の記憶ももう一度ねじ伏せられるだろう。
ちらりとそう思い、そして、それが出来ないことを何故か、わたしはありがたいとすら思った。
不思議とわたしは、今日キュンティオスと同化していないことを、悔やんではいなかったのだ。
そうか。
これが、わたしの予感だったのか。
そう納得した途端、何故かわたしは肩の荷が下りたように、力がふっと抜けた。
そして、自分の体の中・・・いや、それは、正確に言えば、体の中心にある臓器の、更に深いところにある、何か。
そう。きっと、「心」と呼ぶものが間違いなくそこにあり、長老の言葉が「そこ」にある何かを動かしたのだ、と初めて実感した瞬間。
今まで知らなかった何かがわたしの胸の内で穏やかな波として広がり、焦りや失態への失望などを包んで、余計な感情を流してしまう。
驚くほどわたしは心に開放感を感じる。それは一種の快楽ではないかと思えるほどの心地よさだ。
一体、これは何なんだろう?
それ以上言葉にならないわたしに、長老は問い掛けた。
「シンシア」
「はい」
「お前さんは、マリアを、守ってくれるのかね」
「・・・!」
その一言は、わたしに新たな衝撃を与えた。
目の前にいる老人は、間違いなくわたしに対して、なんらかの疑いを持ったはずだ。
何故、ここにこのエルフはいるのだろうか。
何故、このエルフがいない過去が、自分の頭の中にあるのだろうか。
彼が、それをどれほど以前から感じていたのかは、わからない。
恐くて、そんなことすらわたしは聞けない。
そんなわたしを安心させる言葉を、決して長老は発しない。
何故なら、長老はわたしを疑い、信頼が揺らいでいるからだ。
けれども、その信頼を取り戻すために、長老はわたしに問いかけてくれている。

たとえば。
何故ここにいるのか。
何故騙していたのか。

そんな問いならば当然と思えるはずなのに、長老はその当たり前のものに意味を見出さない。そして。
「マリアを、守ってくれるのかね」
二度目の、問い掛け。
違うのだ。本当は、わたしは、マリアを守るためだけにここにいるのではないのだ。
わたしは、マリアを勇者として育てて、この世界を闇の世界にしようとしている者を倒さなければ。
それは、嫌というほどわかっていた。わかっていたけれど。
わたしは、喉の奥にあれこれと言葉たちが貼り付く不快感に身震いし、熱い茶を無理矢理飲んだ。

どうして、そんな問いをするの。
どうして、糾弾しないの。
どうして、どうして――

どうして、この村にいるあなた達は、こんなに優しいの。

「長老、わたしっ・・・」
「うん」
わたしは、勇気を振り絞って、言葉をどうにか吐き出した。
「マリアのことが、大事です」
「うむ」
「マリアを、守ると誓えば、まだ、あの子の傍にいさせてもらえますかっ・・・」
「誓う必要なぞない。守ろうとしてくれているのか、どうなのかだけを、聞きたいだけで」
「わたし・・・!」
先ほどまで喉の奥で、外に出たい出たいと騒いでいたたくさんの感情、たくさんの言葉。
何かを言おうとすれば、お互いが干渉しあって、何もかも掠れた声になりそうだった、ざわついた言葉達。
その中から、するり、と音がわたしの唇と唇の間から零れた。
「わたし、マリアを、守ります」
その宣言は、紛れもなくわたしの声。
長老は、軽く目を見開いてわたしを見て。
わたしは、発した自らの言葉に驚いて硬直をして。
ほんの一瞬、その場で音というものが消滅したのではないかと感じられるような、そう、短いけれど、とても深い静寂。
真正面からわたしと視線を合わせた長老は、大きなまばたきを一つ。
まるで、それを合図にして世界が再び動き出したように、わたしは自分の呼吸音を感じた。
どうしたらよいか困っているわたしに、長老は小さく笑みを見せた。
「そうか。ならば、お前はこの村の子供じゃよ」
「・・・っ・・・!」
「茶が冷めぬ間に、おあがり。今年の葉は、例年よりも柔らかい味になってなかなか美味い」
何年も変わらず、マリアを、わたしを、村人を見守ってきた、その笑み。
長老のその言葉は、「もうこれ以上の追求はしない」という意思表示だ。
わたしは、長老に許されたのだ。
マリアを守る、という言葉ひとつで。
この村は、マリアを大事に育てる、箱庭のようなもの。
それは、マスタードラゴンが、わたしが、「そう」あるべくして指針づけたからだ。少なくともわたし達はそう思っている。
だからこそ、と言えばいいのか。
それなのに、と言えばいいのか。
わたしは一瞬惑った。
こんな形で長老がわたしを許してくれることは、「マリアを勇者として育てる」ことをこの村に義務付けた我々の洗脳によるものなのか、それとも、この老人の深い優しさゆえなのか、それらは誰も判断出来ることが出来ない。いや、出来ないはずだった。
けれどもわたしは、それを後者ゆえのものだと、気付いてしまったのだ。
わたしは、耐え切れずに突然号泣した。
昔のわたしであったら、長老のこの行為はまったく理解出来なかったに違いない。
自分達を騙していたわたしを、何故許すのだろう?地上の人間は、余程頭がおかしいのかもしれない、なんて、それこそ阿呆なことを思ったかもしれない。
キュンティオスが今ここに、一緒にいない。
そのことがありがたくもあり、残念でもあり。
それでも、彼女がもしもここで同化していれば、すぐさまマスタードラゴンに事が知れて、長老の記憶は操作されるだろう。
それは、わたしにとって耐えがたいことだった。
わたしは初めて。
誰かに許されたことをありがたいと思い。
そして。
そうか。
わたしは、誰かに許されたかったのだ、と知った。
泣き続けるわたしの肩に、テーブルの向こうから伸びてきた長老の軽い手が乗った。
大丈夫、大丈夫だ、シンシア。
繰り返されるその声の前で、わたしはマリアよりも小さな子供になったように、しゃくりあげて泣き続けた。
許されるということは、なんと辛いことなのだろうか。
それでもきっと、わたしはそれをずっとずっと待っていたのだろう。
そして、これからも、騙し続けているあらゆる人々に対して、許して欲しいと願い続けるのだろう。
もちろん、そんなことはキュンティオスにすら伝えることは出来ないけれど。


この日、わたしは久しぶりに深い眠りについた。
この村に住む事に馴れ、けれど、地上の道理をまったく気にもしなかった頃は、ぐっすりと眠れていたはずだ。
いつからだろうか。
自分でも気付かなかったほど、わたしはわたしをどこかで苛み、深い眠りすら許していなかったのかもしれない。
ようやく得ることが出来た。本当に本当に、それは驚くほど深い眠り。
それは、マリアを勇者にすることが間に合わないのでは、という焦りすら打ち消すほどのもの。
目覚めてあまりのその眠りの深さに驚き、涙すら込み上げてくるほどの、本当の眠りだったのだ。


←Previous Next→



モドル