てのひらの花-2-

マリアが袖を通したその上着は、彼女があまり得意としない、重量のあるガウンのようなものだった。
それでも、暖炉に火が入っているアリーナの部屋でも軽く身震いはしていたから、着ないよりは余程良い。
アリーナは自室の暖炉の近くに椅子をもってきて、マリアを座らせた。
いつもは部屋の中央に置いてあるらしい小さなテーブルも移動させ、アリーナは部屋の隅でぬいぐるみをいつも乗せて飾っている椅子をひっぱってきた。
基本的にアリーナの部屋では、アリーナが来客と何かをするような場所がない。
実際、こうやって誰かが来て、そしておしゃべりに興じたりすることなぞ今までなかったに違いない。
「サントハイムって、寒いのね」
「冬の間は、そりゃ寒いわよ。マリアの村だって、山奥だから寒いんじゃない?」
「うーん、それなりに気温は下がるんだけど、おじいちゃんが言うには、周りの山の方が高いから、冷たい空気が入りこみにくいんだって」
アリーナもマリアも、天候などについてはあまり知識が多くはない。それがどういう意味なのかを正しく理解は出来なかったが、「ふうん、そんなもんなのね」とアリーナは思ったし、祖父に言われた時にマリアもまた、そのように感じたものだった。
「おじいちゃん、って呼んでるの。ちゃんと」
アリーナはにこ、と笑って、なんの遠慮もなく聞いた。
もちろん、そういうアリーナにだからこそ、マリアも素直に答えられるのだろうけれど。
「う、ん。さすがに、ね」
「そうだよねー。あ、今、お茶持ってくるはずだから。寒い?」
「もう大丈夫。アリーナがそんな厚着してるの、見たこと無い」
そういってマリアは笑った。
旅の間には、ありがたいことにというか残念なことにというか、冬の季節は巡ってこなかった。
そう思えば、自分達の旅が一年にも満たない、そんなに長くないものだったのだと気付いて、何故か少しだけマリアは寂しく感じる。
「なんかさぁ、寒さから身を守るのに着る服って、もこっとしてるやつが多いのよね。動きにくくてたまらないの!」
「そうよね、わたしも、ちょっと」
そう言ってマリアはもじもじと体をよじって見せた。その様子をおかしそうにアリーナが笑った時、ちょうど女中が茶を持ってきた。
「で、なーに、マリア、その、彫刻?木に彫るんでしょ。それのためにって・・・なんか、どこかに武者修行に行くって感じでもないみたいだけど」
武者修行とは、アリーナらしい言葉だ。マリアはくすくす笑い、
「違うわよ。なんか、もっとね、色々なものをね、彫刻をする人間として見聞きしてきたほうがいいって言われて。本当はもっとゆっくり世界を回ってくる方がいいんだけど、おじいちゃんの仕事の手伝いもあるし、今は冬だから、あまり時期もよくないっていうことで」
「冬だと時期がよくないの?」
「うん。結構ね、植物の図案を使うことが多くて・・・わたしの村付近にはない花とかを観にいきたいんだけど、今って冬で、花が咲いてる場所も限られるでしょ。それに、工芸品を取り扱う商人も冬は動かないことが多いらしいし、バザーの時期でもないし。だけど、悠長に春まで待つわけにいかなかったから」
「なんで?」
「おじいちゃん、夏には、山を降りるの。だから、春になってからゆっくり回ろう、なんて言ってたら、あっという間に夏になっちゃうし」
その話は初耳だ、とアリーナは驚いたように瞬きをした。
「何、それ、マリア、一人になるの」
「今だって、一人暮らししてるし」
マリアの祖父は、マリアの父以外にも子供がいたのだという。
そして、その息子夫婦がブランカ付近に居を構え、父に山を降りることを勧めていたらしい。
木こりとしてはあの山にいることが望ましいけれど、彼の長年の実績は、彼が山を降りても仕事を続けられるほどに築き上げられていた。
第一、彼が待っていたマリアは帰ってきたし、そして、もう彼もそれなりの年齢だ。
妻と息子の墓を残して、夏頃には山を降りる。もちろん、それ以降はマリアとは、孫として、仕事仲間の一人として会い続けることになるのだけれど。
「今更、本当の父さんの兄弟がいるって言われても、別に今はわたしも会いたくないし・・・おじいちゃんだけで、もう、いっぱいいっぱい。だけど、夏にはそうやって環境がまた変わるから、それまでに、出来る限りのことはしておきたいんだ」
それらを話すマリアは、とてもさらりと淡白に告げているようにも見えるけれど、本当のところはそうではない。
彼女はまだ、どんどん変わっていく環境に戸惑ってもいたし、未だあの村を捨てることも出来ないし、常に「どうしたらいいのか」と頭を悩ませ続けている。
その中で唯一「木彫りを続ける」と決めて、そしてこうやって動き出した。
たったひとつのことでも、自分で間違いなく選択したことだから、それだけははっきりとアリーナ達に告げられるし、そして、それをやり遂げようとすれば、自ずと自分のこの先のことも決まってくるのだろうとマリアは思う。
「アリーナの方はどうなの?お姫様らしくはなった?」
「もー!失礼ねっ!」
「あはは、ごめんごめん」
アリーナからの報告は、案外と他愛のない会話ではあったけれど、それでも「お姫様らしく」なってきていることが、マリアにはよく感じられる。
ただ、先ほど父王にも言ったように、彼女はまったくもって、武芸への夢を捨ててはいない。
サントハイムの姫としての義務を果たしつつも、エンドールで次の武闘会があれば、それへ必ず参加しようと狙っているらしい。
そのアリーナらしさには、なんだかマリアもほっと安堵の息を漏らした。
「ねえ、マリア、こういうの、作るの?」
そう言ってアリーナが見せてくれたのは、装飾品を保管するための箱だった。
それは、内側に高級な布が張られており、箱自体は金属製だ。
表面には見事な彫金で、美しい花々が浮き出されている。
マリアは素直にその技術と美しさに驚いた後、アリーナの立場であればそれがどれほど高価なものなのか、を考えて、自分の素朴な彫り物と比較することをやめようと心を落ち着けた。
「これは、金属だけど、こういう箱を作ったりして、彫ったりするんでしょ?そのうち、わたしにも作って」
「でも、アリーナはお姫様だから、こういう高価なものを使わないと、おかしいわよ。わたしが作るものは、本当に工芸品とか、ちょっとしたお土産程度のものだもの」
アリーナが、自分にちょっと情けをかけているのか、とマリアは少しだけ警戒をしながら答えた。普段のアリーナならば、もっと簡単に「じゃあ、マリアの彫り物が売れるように、何か手伝えることがあったら言ってね!」という風に言うだろうに・・・と、そこまで考えながら。
しかし、続いたアリーナの言葉は、マリアの予想を良い意味で裏切るものだった。
「そうじゃないの。亡くなったお母様が」
「・・・アリーナのお母さん」
「うん。お母様は、わたしが小さい頃に、小物をいれられる木箱のオルゴールを持っててね・・・それは、ちっちゃいわたしが暴れた時に壊してしまって、もうないんだけど・・・冬、とても寒いでしょ。こういう金属のものって、すっごい冷たくなるのよね」
「ああ、そうよね」
「木だってそりゃ冷たくはなるけど、金属ほどキンキンに冷えないわ。それを、わけがわからない子供の頃、お母様が言ってたの。今なら、意味がわかるんだぁ。春になったら、昔お母様が好きだったらしい花が城門前に咲くの。それを彫ってもらえたら、嬉しいと思って」
そう言って、アリーナは小さく微笑んだ。
なるほど、金属は寒いところで冷えすぎる。それは確かだとマリアも思う。
「そのうち、わたしの腕前があがったらね。ね、アリーナ、こういう・・・金属でもいいんだ。彫刻されたものに心当たりがあったら、今日でなくてもいいから見せてくれる?」
「うん。マリアの役に立てるなら、気付いた時にとっとくね。すごいね、マリアがそんな風に、何かのために・・・ああ、そうでもないか。旅の間も、新しい呪文を覚えられそうになると、すっごく繰り返して練習してたもんね」
「そ、かな」
「うん。その時みたい」
なんとなく照れ臭い気持ちになって、マリアは曖昧に微笑んで見せた。
そして、次はアリーナの話を聞こう、とばかりに、「サントハイム姫のおつとめって、どういうものなの」とか「何を今勉強してるの」だの、マリアの方からアリーナに質問を繰り出す。
女同士の会話は些細なことでも盛り上がるもので、気付けばとうに一刻を過ぎた頃。
小さなノックの音にアリーナが返事をすると、甘い香りと共にブライが姿を現した。
そのあまりの不釣合いな様子に、マリアもアリーナも、ついつい笑い出してしまう。
「ブっ、ブライが!すごい!ベリーの香りとっ!!きゃはっは!」
「うわああ、マドレーヌのあまーい香りと、ブライ!」
「何がそこまでおかしいやら。年頃の女子というものは、不思議なことで楽しくなるご様子」
そう言いながら、焼き菓子をテーブルの上に置くブライ。
室内にふわりと広がる焼き菓子の香りを、マリアは胸いっぱいに吸い込んだ。
思い出すのは、まだあの幸せで平和だった日々。
決して菓子つくりが得意だったわけではない義母が焼いてくれた、形もいびつで素朴なクッキー。そして、その作り方を教えてもらって、瓶の中にいっぱいクッキーを詰めて待っていてくれたシンシア。
そんな過去を思い出して少しだけ胸が痛んだ。
人と人が共に暮らしているこの場所には、温かさがあり、優しさに満ちている。
まるで、室内を暖める暖炉の火のぬくもりのように。
それをうらやましく思う気持ちがむくりと起き上がってきたが、決して自分はその温かさからのけものにされているわけではなく、自分が蚊帳の外にいることを選んだのだ、と自制をした。
「よ、っと・・・失礼いたしますぞ」
見ればブライは廊下に小さな椅子を持ってきていたようで、マリアとアリーナの会話に加わる気満々だ。
その様子もまたおかしく思えて、マリアとアリーナはお互い目くばせをして笑いあった。


二刻待ってもクリフトが戻ってくる気配は一向になく、マリアはサントハイムを発つことをアリーナに伝えた。
もう少し、もう少しできっと帰ってくるから、とアリーナは言うけれど、一刻半で帰ってくるといわれて既に二刻以上。
長居をしては迷惑をかけると思えたし――それは、アリーナがサントハイム王に言われた通り、夕方までにやらねばならぬことがあるとも知っていたからだ――そうまでしてクリフトに会いたい、と思われることも恥ずかしく感じられた。
サントハイム王に退出の挨拶をして、それでもまだ引きとめようとするアリーナに「クリフトによろしく。戻ってきたら、また来るって伝えて」と言うことで、どうにか解放してもらおうとマリアは試みた。
後から考えると、ブライがアリーナの部屋にやってきて話に加わったのも、彼なりにマリアを引き止めようと思ったからなのではないかと思える。
結局はごねるアリーナをたしなめるようにブライが後押しをしてくれて、マリアはサントハイム城を後にした。
ミントスへと空間転移の魔法ルーラで飛ぶ前に、サントハイム隣のサランの町の様子をみようとマリアは足を運んだ。
サントハイム城から僅かに離れたところにあるサランは、実質上サントハイム城下町とも言える。
その四季の姿はサントハイムと同じであろうし、むしろサランの人々の様子を見るほうが、この地域の冬というものを感じられるかもしれない。
借りていた上着は返してきたから、正直なところ肌寒くて仕方がない。それでも、なんだか懐かしい気持ちになりながら、マリアはサランの町の中を歩いた。
何度か泊まった事がある、サランの宿。何度も通りかかった教会。
マリアはふと思い出したように教会の裏手に回って、古ぼけた立て札を見つける。
「サントハイム王の」
マリアは、今後誰も読まないかもしれない、その薄汚れた立札の文字を読んだ。
「・・・おそらのずっとうえには、てんくうのおしろがあって、りゅうのカミさまがすんでるんだって。りゅうのカミさまはとてもつよくて、おおむかしのじごくのていおうを・・・」
胸が、痛む。
竜の神様はとても強かった。
強くて、強くて、そして、強すぎるが故に、地上に干渉出来ないほど弱くて。
無力だったマリアが勇者として立ち上がらなければいけなかったほどに、竜の神の力はこの地を救うことが出来なかった。
マリアがどれだけなじっても、どれだけ罵っても、己を守ることも出来ない可哀想な竜。
「・・・そのうち」
その竜の姿を彫れるほど、己の手に新しい力が宿るだろうか。
ふと、そんなことを思いついて、マリアは自嘲気味に口端を歪ませた。
びゅうと風が吹き、冬の冷気にぶるりと身を震わせる。
もう、そろそろ行こう。
マリアは立札に背を向け、空間移動のルーラの呪文を唱えた。


一日、二日、三日。
ミントスで隠居生活を送っているヒルタン老人の世話になって、十日。
足を伸ばしてソレッタで三日。
何もない田舎と言われているものの、ソレッタの周辺は寒さに強い花がちらほらと咲いており、枯れるのか枯れないのかわからない、不思議な状態で紅葉を見せている木々も見られた。
それから、気候がよくわからないスタンシアラへ行き、孤島の冬の姿を見て。
マリアは最後に、ゴッドサイドに足を運んだ。
久しぶりに泊まったゴッドサイドの宿屋で、一人きり。
どの町だろうが、彼女が一人で宿泊をしたことなどほとんどない。
ブランカとエンドールの宿ぐらいだろうか。
ゴッドサイドは、あまり冬の様子を見せていない。
肌寒さもなく、「いつもの」ゴッドサイドとしかマリアには感じられなかった。
「この辺りは、あまり寒くならないんですか?」
宿屋の主人に問い掛ければ、あっさりと「そうだね」と答えられる。
マリアは夕食を宿屋でとった後に、外へ出かけた。
向かったのは、ゴッドサイドの祭壇。
旅の間、マスタードラゴンと向かい合い、暗い気持ちになっていたマリアを、みなが元気づけてくれた高台だ。
高い場所にあがれば、少しだけ夜風が肌寒いと思える。
「わあ・・・」
上を見上げれば、そこには満天の星空が広がっていた。
以前見た時もその素晴らしさに驚き、自分の故郷の村のように山奥でなくとも、ここまで美しい星が見えるのかと思ったものだ。
しかし、今日の夜空は、以前ここで見た空よりも、星の光が強く感じられる。
(そこまで寒くなくても、ちゃんと空気は冬の空気なんだわ)
マリアは今までの体感で、冬は空気が澄むことを知っている。
他の町と比べて寒くなくとも、間違いなくこの地にも冬がやってきており、その数少ない恩恵をこのような形で見せてくれているのだろう。
それに、海に囲まれた場所でも、普段よりも水辺を感じない、と思う。
多分それは空気が乾燥しているからなのだと、マリアは思う。
「っ・・・!」
不意に眩暈のように、空に吸い込まれそうに感じてマリアの体は揺れた。
慌てて、その場にぺたりと座り込む。
高台の床は冷たく、座り込んだマリアは軽く「ひゃっ」と声をあげたが、それを聞いているものは誰一人としていない。
あの旅の夜。みんなで見たこの空を今は一人で見ており、そして、季節も移り変わっている。
きっと、自分も少し変わっただろうし――それを「成長」という言葉で表してよいのかは、マリアにはわからないが――アリーナが少しだけ大人びたように、クリフトもまた。会っていないけれど、マーニャ達も。
(わたしが旅をしている間に、またクリフトと、なんだか距離が出来るのかしら)
やはり夜になると思い出すのは彼のことだった。
マリアは膝を抱えて体を丸め、瞳を閉じた。
ひんやりとした空気に包まれても、風邪をひくほどとは思えなかった。
むしろ、自分の体温をよく感じられて気持ち良いと思う。
(どこか出かける時には、言いに行くっていう約束だった。約束があっても会えないなら、どうすれば会えるんだろう。会いに行く理由があっても、こんな風に会えない時があるのは、当たり前のことだけど)
いつ会いに行くから、と、具体的な約束をしなければいけないのだろうか。
けれど、もしもその「会いに行く時」にクリフトがこの間のように用事があってサントハイムにいないとしたら。
クリフトは、自分のためにその用事をずらしてしまうだろうか。
それとも、マリアの訪問を断るだろうか。
マリアは自分のその想像に対して、どちらでも良いと思う。
どちらでも、嬉しい。
そして、どちらでも、申し訳ない。
朝起きればそこにクリフトがいた日々は戻ってこないし、私用で姿を消す時にマリアに断りに彼がやってくる日々も、出かけていた彼が必ずマリアのもとに帰って来る日々も、戻ってはこないのだ。
(受け入れよう。とにかく、受け入れないと。クリフトは、あるべき場所に戻ったのだし、わたしはわたしの我侭で、村を捨てられないのだし)

――ねえ、マリアは、クリフトのこと好きなんでしょ――

――だったら、サントハイムにくればいいのに――

あれは、アリーナ達と別れた日のことだ。
それを即座に断ったのはマリアの方だし、今だってその言葉を受け入れるわけにはいかない。
未熟であろうと、マリアは自分で生きていく道を決めたのだし、祖父が山を離れた後は、祖父の代わりに祖母と実父の墓を守ろうとも思っている。そして、自分の村も。
(思い出にすがり付いてるわけじゃない。だけど、わたしはまだ村を捨てられない)
あの村に住んでいた人々は、もうマリアの記憶と、天空にいるキュンティオスの記憶の中にしか存在しない。
ならば、あの村が存在してもしなくても、同じなのかもしれない。
それでも。
ようやく旅を終えて村に戻って、一人一人の墓を作って。
それで何もかも、後はなかったことになぞ、出来ないのだ。
いつかは、そうなるとしても。
(誰もいなくなっても、それでもわたしはわたしで、戻るべき場所に戻ってきたのだ)
そして、その場所で生きるために、今精一杯のことをしているのだ。
だから、受け入れなくてはいけないのだ。
マリアは何度も何度も、自分に言い聞かせた。
何故そんなことを言い聞かせなければいけないのか、ということと真剣に向かい合うことを恐れて、ただただ機械的に「今は、自分のことを、考えよう」
とだけ繰り返す。
その「自分のこと」には、クリフトを想う少女の感情が含まれていることから目を逸らしながら。


再びマリアがサントハイムに訪れたのは、ひとつきが経った頃だった。
本当ならば真っ先に村に戻り、祖父に会うのが筋だとわかっていた。
それでもサントハイムに先に足を運んだのは、自分の心に嘘をつき通せなかったからなのかもしれない。
もちろん、マリア自身はそれをよくわかっていなかったけれど。
「さ・・・む・・・!」
サランの町にルーラで戻ってきての第一声がそれだ。
見れば、建物の屋根や道のそこここにもうっすらと白いベールがかかったように、冬の彩りを添えている。
(雪だ。雪が、降ったんだ)
雪を知らないわけでも、氷を知らないわけでもない。
しかし、このようにいかにも「冬景色」に近づいた町を見ることは、マリアにとっては生まれて初めてのことだった。
歩けば、革のブーツの底に僅かに雪の感触を感じられる。それは、なんともいえぬ感触で、歩く速度に合わせて音がきゅっきゅと聞こえてくる。
さっさとサントハイム城に行って、とりあえずでいいから中に入れてもらおう。
体を丸めながら、マリアは慌ててサントハイムに向かった。
その道中の草木も、細い枝の上にうっすらと雪を装い、冬の薄い昼の陽射しを反射している。
きらきらと輝く姿をゆっくり見たい気持ちもあったけれど、寒さに耐えかねてマリアはそれを二の次にした。
「・・・っくしゅっ!」
まるでそれが合図なのではないかと思えるタイミングで、やはりマリアはサントハイム城門前で大きなくしゃみをひとつ。
そして、これまたお約束なのか、その音で門兵が彼女に気付く。
「これは、勇者殿!今日もまた、そんな薄着でいらして、大丈夫ですか!?」
運が良いのか悪いのか、それはひとつき前にここで会った兵士だ。
「だ、いじょうぶです。あの、わたし・・・」
「さあ、さあ、お入りください!」
門兵たるもの、訪問者の用件も何も聞かずに通していいものなのか。マリアはちらりとそう思ったけれど、彼のその恩情に大いに甘えることにした。
もう一人の門兵が先触れのように中に駆け込み、マリアの来訪を伝えに行く。
「はぁ・・・」
あの日のように、城に入った途端に体がリラックスするような、彼女を安心させる温かな空気がそこには流れていた。
マリアは小さく息を吐き出し、明らかに温められていることがわかるほどのその室温を十分に肌に感じる。
通り過ぎる女中達へ頭を下げていると、ぱたぱた、と軽い足音が聞こえてきた。
それは、またアリーナの足音だろうか。
「・・・?」
ふと違和感を感じて、マリアは階段を見上げた。
すると、そこに姿を現したのは、アリーナでもブライでもなく。
「マリアさん。来てくださったのですね」
「・・・クリフト」
旅の間に着ていた服にもう一枚厚手の外套を羽織ったクリフトが、何かを腕に抱えて階段を降りてくる姿があった。
クリフトに会えたら、と思いながら来たのは間違いではなかったけれど、アリーナよりも先にクリフトがマリアを出迎えることは少し予想外の出来事だ。
マリアは、久しぶりに出会えた彼への言葉をうまく出せない。ようやく、一拍おいて
「戻ってきたから、報告に来たの」
と、事実をそのまま口にした。
それへ、クリフトは笑顔を向ける。
「お疲れですか?」
「ん?ううん、別に疲れてないわ。ルーラでやってきただけだし」
「では」
もぞもぞと、手に抱えていたものをひとつ、ことんと床に落とすクリフト。
彼は二つのものを手にしていた。
それは、女性用のブーツと。
「これを着て、それから、これを履いてください」
「え」
彼がマリアに向けて広げたものは、女性用の防寒着だ。
驚いて目を見開くマリアへ、彼は笑顔のまま告げた。
「少しだけ、わたしに付き合っていただけませんか」
階上からは、アリーナの足音もブライの足音も聞こえない。
そのことにマリアは気付いて、戸惑いながらも小さく頷いた。


クリフトがマリアに着せてくれた防寒着はフードがついており、足元までの丈がある長い物だったけれど、軽い上に相当温かなものだった。
そして、用意してくれていたブーツは彼女の足にぴったりで、内側には毛皮が張られながらも、これまた軽いものだ。
きっと、どちらも本当は高価なものなのだろうとマリアは思う。
サントハイムの女中に荷物を預けて、マリアはクリフトに手をひっぱられながら城を出た。
久しぶりに触れた彼の手は暖かく、寒い外からやってきたマリアにとっては、ただそれだけ心底気持ちが良いと思えるぬくもりを与えてくれる。
(クリフト、手袋、してないんだ)
それがどういうことなのか、マリアは思い当たり、胸が高鳴る。
「マリアさん。ポケットがありますから、その中に手袋をどうぞ」
「え?手袋・・・あ、ほんとだ」
サントハイム城前から少し離れた場所でそう言われて、マリアは慌ててポケットに手を入れる。
確かにそこには毛糸の手袋が入っていたし、クリフトも外套のポケットから手袋を出して、丁寧に手を入れている。
マリアはちらりとクリフトを見た。その視線の意味に気付いたのか、クリフトは照れ臭そうに言う。
「手袋をする前に、触れたかったので」
「・・・バカ」
「そうですよね」
「それで、何。どこに行くの」
「もう少しだけ、北の方へ」
マリアは、アリーナ達には、とか、サントハイム王には、とか、何も聞く気にならなかった。
クリフトがこんな風に強引なことをするということは、既にお膳立てが出来ているのだろう。
時々見せるクリフトのこういう強引な面を、実はマリアはとても好ましく思っている。
それは、彼が「マリアのことを考えて」そういう手段にいつも出ているのだと知っているからだ。
「手袋をしてますが、手を繋いでいいですか。雪が少しだけ深いところへ行きますから、ゆっくり歩きましょう」
クリフトはそう言って、マリアに手を差し出した。
それへ笑みを見せることはうまく出来なかったけれど、マリアは素直に彼の手に自分の手を重ねた。


マリアが連れて行かれた場所は、サントハイムより北にあるテンペの村の近くだった。
周囲の針葉樹には雪が積もっており、サントハイムより降雪量が多いように見える。
しゃべるたびに息は白く空間に散っていき、まるで自分の言葉がクリフトに届いていないのではないかと不安になる。
これが、誰かと過ごす冬なのか。二人でいるのに、どこか寂しい。
そんなことを一瞬考えてしまい、マリアは自分の気持ちが暗くなっていることを内心でたしなめた。
クリフトがいてくれた。それはとても嬉しい。
そして、自分のためにこの防寒着も、ブーツも手袋も用意をしてくれた。
そして、アリーナ達に何といったかはわからないけれど、二人きりの時間を作ってくれた。
そして、初めて見る他国の雪景色を、マリアに堪能させてくれる。
さく、さく、さく、といつもより随分とゆっくりな足取りで、クリフトはマリアの手をひいていく。
言葉は、少ない。
まだ?とか、もう少しです、とか。そんな、僅かな単語だけが二人の間を行き来するだけだ。
歩きながらの会話では彼はあまり振り向けないので――足元が心許なくなるためだろう――マリアは消えていく自分の息を見ては、悲しい気持ちになる。
知らない場所にいる、いつもと違う彼。そして、いつもと違う自分。
それが無性に不安で、どうしようもない。
冷気で、顔の皮膚がひきつる。まるで、ブライの冷気魔法を近くで何度も感じた時のようだ。
手を繋いでいるけれど、それは逆に「そこ」しか繋がっていないような気にすらなる。
(違う。わたし、クリフトから、早く聞きたいんだ)

早く。
早く、わたしと会いたかったって。

けれど、それはマリアから問えることではない。
クリフトがこうやって共にいるだけで、答えはもうわかっている。わかっていても、それを聞きたい。
会いたくても会えなくて、そして、会えないだけ距離が開くのではないかと不安になって。
こうやって手を繋いでいても、それはいつかするりと抜けてしまって、自分はこの冷気の中に取り残されてしまうような気がする。
「クリフトっ・・・!」
マリアは、自分の中で大きくなっていく、理由のわからない焦燥感に押しつぶされそうになり、ついに彼の名を呼んだ。
その時、クリフトはぴたりと立ち止まった。
「丁度降って来ましたね」
「え?」
「雪」
クリフトは、マリアの手を離さないまま上空を見上げた。
それに倣ってマリアも顔をあげる。
ちらり、ちらり。
白い花びらが空を待って、二人の上に降りてくる。
「本当。それに、大きい」
「ええ。この辺りの雪は、とても大きいですね」
ようやくお互いの顔を見合わせて話が出来るのに、マリアは上を見上げたまま。
冬の柔らかな陽射しの中に降ってくる雪はとても大きく、これほどの大きさならばあっという間に積もってしまうだろうと思える。
自由な片手を開くと、その中にふわりと大粒の雪が舞い降りる。
冷気に晒されて手袋は、マリアの温もりを外には滲ませない。
手袋の上に雪は留まり、その姿はなかなか消えない。
マリアが知っている雪は、もっともっと小さく、触れればすぐさま姿を消す、あまりに儚いものだった。
けれど、これほどの気温の中では、それは姿を主張して、マリアの視界からいなくなろうとはしない。
「マリアさん、雪の結晶を、ゆっくり見たことがありますか?」
「けっしょう?」
「ブライ様が唱える呪文を、魔物から受けたときにはそんなものを見る余裕もなかったことでしょうね」
「雪の、けっしょう?」
クリフトは、またちらりとマリアの手袋の上に降りてきた雪を指差して
「よく見ると、可愛らしい形をしているんですよ。見えると良いのですけれど」
マリアは目を凝らした。
何が可愛らしい形をしているというのだろう。
ただの、冷たい、小さな小さな氷の粒が集まっただけの・・・
「・・・!」
マリアは息を飲んだ。
「何、これ」
「雪の結晶です。わたしも詳しくは知らないのですが、気温などによって形は違うようですが・・・こう、中心から六方向に、向かって、ですね」
クリフトの説明の途中で、マリアが見ていた雪は静かに姿を消した。
近くに積もっている雪を手ですくおうか、とマリアは思ったけれど、それよりなにより。
今まさに、それが空から降りてくるのだということに不思議な驚きを感じて、再び舞い降りた雪をそっと手のひらに受け止める。
「六方向。1、2、3・・・本当。ねえ、クリフト」
「はい」
「これ、小さな・・・世界で一番小さな、花みたいね」
そう言ってマリアはクリフトを見た。
クリフトは返事もなく、小さな笑みを見せるだけだ。
その微笑を見て、マリアは眉根を寄せた。
胸が、痛い。
体の奥、胸の奥に、何かがいて、ぎゅっと自分の胸、いや、それは多分心と呼べるものだろう。それを、掴んで放してくれないのだ。
クリフト、アリーナに聞いたの、ブライに聞いたの。
それで、わたしのことを考えてくれたの。
何かを見せられないのかって、考えてくれたの。
会いたかったとか、この前は不在で申し訳なかった、とか。
元気だったのか、とか、会えてうれしいとか。
(この人は、そんな言葉を交わすよりも先に、わたしにこれを見せたかったのだろう)
どの思いも、うまく言葉に出来ない自分がもどかしい、とマリアは思う。
彼女にとって一番必要なことは、それらをクリフトに問いただすことではないのだ。
マリアは、冷えた体の中から、突然熱い何かがこみ上げてくる感触に戸惑った。
「・・・マリアさん!?」
次の瞬間、それは涙となって彼女の両眼から溢れ、冷たい彼女の頬を濡らし、暖めて、ぽとりと落ちていく。
慌ててクリフトは片手でマリアの二の腕を軽く掴んで、しどろもどろになる。
「ど、どうなさったんですか。えっと、寒い、ですか。それともっ・・・」
「バカ。クリフト」
「は、はいっ」
「そうじゃないっ、そうじゃないでしょ・・・っ」
マリアは雪の花を受け止めた手で、自分の涙をぞんざいにぬぐった。それでも、しっかりと繋がれたもう片方の手は、そのままクリフトの大きな手から離れまいとしている。
「そんなに、わたしのこと、考えてくれなくていい・・・」
「・・・マリアさん」
「会えない間、考えなくていい」
クリフトは、マリアの言葉に驚いたように眉根を寄せた。そして、握り締めた手に力を入れる。
「どうして、ですか。わたしが、あなたのことを考えては、迷惑なんでしょうか」
それは、こんな風に彼女を連れ出した自分を責めているのだろうか。クリフトは何をどう聞けばよいのか戸惑い、結果、まっすぐな言葉を発するしか出来ない。
ちらりちらりと降りてくる雪の花。
お互いの視線を隔てるように、大粒の雪は後から後から舞い降りる。
「そうじゃないの。そうじゃない・・・」
「マリアさん」
「ほんとは、嬉しいの。クリフトが、すごくすごく、わたしのこと考えてくれていて。アリーナ達に聞いたんでしょ。わたしが、こういう冬を知らないって。雪もあまり知らないって。わたしの村はこんなに寒くないって」
「・・・はい」
「それから、わたしが、わたしが、何を勉強して、何を見聞きするために旅に出たのかとか」
「はい」
「それで、わたしの力になるために、考えてくれて、ここに連れて来てくれて、そのためにこんなあったかい服も用意してくれて・・・わたしが、重い服着るのが得意じゃないって知ってて、こんな軽い服を用意してくれて、それから、えっと・・・それから・・・」
「マリアさん・・・」
うまく言葉にならず、マリアはもう一度涙を拭った。
彼女は、自分が何故泣いているのかがよくわからない。
そして、何をクリフトに伝えようとしているのか、自分でもよく理解出来ていなかった。
ただ、体の外に涙が出よう出ようとするように、マリアの胸の奥を掴んでいる「何か」も、彼女の言葉を借りて外へ出ようとしているのだ。
クリフトに自分という存在を知って欲しいと思っているかのように。
けれど、クリフトはそれ以上、自制が聞かないマリアの言葉を聞かず、遮った。
「マリアさん、会えなくて、サントハイムにあの日戻って来られず、申し訳ありませんでした」
「そんなことっ、そんなの、いいの。そんなことはっ・・・」
「わたしが、至らず、申し訳なく思って・・・何か出来ないかと」
「だから!」
声を荒げたマリアはクリフトから顔を逸らしながら、彼の手を振り払った。
「そんなこといいの!だから!わたしのことを、会えない間にそんなに考えてくれるぐらいなら!」
「・・・っ・・・」
ついに箍が外れたように、マリアはクリフトの片腕を抱くように体を摺り寄せる。そして、彼女の口から本当の言葉達がぽろりと零れた。
「・・・会いたいって、たまには、言ってよ・・・でなきゃ、わたし、会いに来られない・・・」
弱弱しいその声音。
クリフトは、目を見開いた。
一瞬「そんなことは簡単じゃないですか」と安易に言い出しそうになり、彼はぐっとそれを堪える。
違うのだ。簡単ではないのだ。
クリフトは、自分が勘違いをしていたことに気付いた。
(マリアさんには、マリアさんの生活があって、それが順調に動き出すまで、わたしが邪魔をしてはいけないと思っていた)
彼女が強くて優しくて不器用で、そして本当は脆さを持っていることを、彼は誰よりも知っている。
その強さは彼女の内へ内へと自分自身を抑制し、そしてその優しさは、彼女の外へと向けられて、クリフトのことを思いやってくれる。だから、彼女はサントハイムに戻るクリフトを責めなかったし、いつ会うのかと約束もしなかった。
けれど、彼女はあまりに不器用で、その優しさを内側に向けることも、自分の脆さに手を差し伸べることもうまく出来ず、最後にはこうやってクリフトに思いを叩きつけることしか出来ないのだ。
それは、あの旅の間に嫌と言うほど繰り返してきたことではないか。
会いたいと言われなければ、会いに行けない。
彼女がそういうかたくなな人間だと、自分が一番よく知っていたはずなのに。
クリフトは、小さく溜息をついた。
それを失望の呼吸と感じたのか、マリアの体は強張り、いっそうクリフトの腕を強く抱きしめる。
「・・・マリアさん、失礼します」
縮こまった肩にもう片方の腕を回すクリフト。
その肩に降り続いていた雪が、クリフトの腕によって存在を消されていく。
「本当に、いいんですか。会いたいとわたしが言っても」
「・・・言って」
「毎日、会いたいです。でも、そういうわけにいかないことは、わかっています。わたしにはサントハイムでの務めがあって、あなたにはあなたの新しい仕事がおありでしょうから」
そんなこと、わかってる。
ようやく泣き止んだマリアが声を荒げようと顔を上げた、次の瞬間。
「だから、時々、わたしに夕食を作って待っていてくださらないでしょうか」
「・・・え?」
「ご飯を、食べに、伺っても良いでしょうか。えっと、いつ伺うとか、それは・・・これから、話し合うということで」
自分の提案がいささか照れ臭いようで、クリフトも珍しく顔を軽く逸らした。
マリアは、少しの間言葉を失った。
見上げたことで、彼女のまつげには大粒の雪が落ちてきて、ぱちぱちと瞬きをしてそれを無理矢理消す。
目に入りそうだった雪が消えても、マリアは彼の言葉をうまく整理できなかった。
一体何の話になったのだろうか、とクリフトの意図を理解できず、所在なさげな彼の横顔をじっと見る。
やがて、彼がいささか的外れな、けれど、彼にしては上出来な「会うための理由」を提示してくれたのだということにマリアは気付いた。
「クリフト」
「はい」
「クリフトって、本当に」
「はい」
「なんでそんなに」
「はい」
生真面目なの。
最後の言葉は、マリアの声帯を震わせることはなく、クリフトの体に腕を回して強く抱きしめる形で、マリアの外側に放たれた。
それをクリフトはどう受け取ったのかはマリアにはわからない。
けれど、彼は彼で、マリアの言葉を追求せずに、まるで雪から彼女を守るように、覆い被さるように強く抱き返す。
「マリアさん」
「うん」
「会いたかったです」
「知ってる。ごめんなさい」
強く抱き合えば抱き合うほど、お互いの冷え切った外套の冷たさが沁みる。
それでも、彼らはどちらも「サントハイムに戻ろう」と声をかけて移動することが出来ぬまま、強く抱きしめあった。
ようやく出会えた恋人と、一秒、いや、それよりももっと短い瞬間ですら、今は離れたくないのだ。
マリアは、外套のせいで以前よりも一回り大きいクリフトの体にしがみつき、彼の冷たい外套に頬を強く押し付けながらぼんやりと思った。
(村に戻ったら、最初にクリフトに彫ってあげよう)
彼が見せてくれた、美しい雪の結晶を。
それが、彼の精一杯の優しさへの答えだと、彼はきっとわかってくれるはずだ。
雪が降りしきる中、凍える体のつらさも忘れ、二人は少しだけ近づいた心の距離を感じたのだろう。
やがて、どちらともなく体を離すと、クリフトはマリアにフードを被せる。
「サントハイムに戻って、マドレーヌを食べましょう。姫様達が、お待ちでしょうから」
それへ頷きながら、マリアはクリフトに手を差し出した。
彼女の手のひらに雪が再び落ちるよりも早く、クリフトはその手を握り締めた。


Fin

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