ちいさな世界が終わる日

 
 
もう少しだけ。もう少しだけ。
わたしの心の奥で何かが囁き続けていた。
それは、何かに許しを請うような。
すがりついて、泣き喚いて、無様に地に頭を擦り付けるような。
それほどまでに強く、激しい感情。
けれど、私はその熱さを認めることが出来ず、ねじ伏せられ抑制されて聞こえるは、か細い囁きばかり。
もう少しだけ。
あと一度だけ。
その日が来ることの覚悟が出来るまで、お願い。
お願い。
それは、何へ願っていたのか。
神を信じず、空の城の主であるあの竜に対して、竜の「神様」と言う事を忌み嫌うわたしが。
いったい、何に対して。


その日、宿屋での朝食の席で突然ミネアが手を止め、持っていたシルバーをかちゃんと置いた。
眉根は寄せられ、彼女は苦しそうに瞳を閉じて面を軽く伏せた。
仲間達はみな彼女の異変に気付いて、視線をそちらに向ける。
「忌々しい気が、増幅しています」
瞳を開けることも出来ず、彼女がようやく搾り出すように放った言葉は、わたし達を緊張させるに十分だった。
それへ、誰よりも早く反応をして、あっけないほどに軽く頷いたのはピサロ。
「進化の秘法が、更なる進化をやつの体にもたらしたのだろう。もう、時間がない」
ぶるりとミネアは体を震わせた。彼女は拳を強く握り、その表情は険しい。
忌々しい気。
本当はわたしも起きた時から感じていた。それは、勇者という選ばれし者だからなのか、天空の血を引くからなのか、わたしにはわからない。
わからないけれど、わたしは感じていながらも、それを知らない振りをしたかったのだ。
「ミネア、それ以上は感じ取らないで。水晶も見てはいけない」
わたしは彼女の肩に手を置きながら、苦しそうな彼女にゆっくりと言い聞かせた。
時として、水晶を介して未来なりなんなりを覗く者は、逆にその水晶を介した気を受け、攻撃に晒されることをわたしは知っている。
だから。
ミネアを失うわけにはいかないから。
「ふっ……う……」
わたしの言葉を正しく受け止めたように、ミネアは言葉もなく頷くと、深呼吸を数回繰り返した。
「これ以上、やつの力が大きくなるのは歓迎しかねる」
ミネアの様子が落ち着くのを待たずに、ピサロはそう言ってわたしを正面から見据えた。
仲間達の視線がピサロに一度向いた後、わたしに集中をした。
けれど、数多い仲間からの視線よりも、誰よりも、ピサロの視線がわたしには痛い。
決断をしろ。今行くか、行かないのか。
彼の瞳はわたしに強く訴えかける。
わたしがそれに対して間違った決断をすれば、彼はきっと我々を見限るに違いない。
それほどに、彼が正しいと思っているだろう選択肢は明白だった。
わたしは、平静を装って言葉をつむぎ出す、
「……そうね。ピサロがいけるなら。魔王としての力は十分に取り戻したでしょう?」
「言われるまでもなく」
そのやりとりは、決断の言葉。
はらはらと見守る仲間の名を、わたしはゆっくりと一人ずつ呼ぶ。
それは、みんなの意思の確認とともに、自分自身を落ち着けるための行為だ。
そう。
わたしは、きっと誰よりも動揺をして、誰よりも現実を受け入れるのに時間がかかったのに違いない。
「マーニャ」
「ぱぱっと片付けましょ?」
いつもと変わらぬ飄々とした声。
「ミネア」
「はい」
少し強張った、先ほどまでの緊張をなかなか解けない声。
「トルネコ」
「準備は万端だよ」
毎晩武器防具や道具を丁寧に手入れを続けてくれた、安心感のある声。
「アリーナ」
「わたし、絶好調よっ!」
戦いにいつも勇んで前のめりな、彼女らしい明るい声。
「ブライ」
「うむ」
穏やかな、けれども覚悟を感じられる重々しい声。
「クリフト」
「はい!」
少しだけ上ずった、生真面目な優しい声。
「ライアン」
「お任せください」
とても男らしくて冷静な、頼もしい声。
それから。
名を呼ぶわけにはいかなかったけれど、わたしはピサロとロザリーを見た。
名を呼んだら、ピサロは返事を何かしてくれるのだろうか。
いや、『なんだというのだ』と冷たくあしらわれるほど、あまりにもいつも通りの態度に違いない。
「食べたら、すぐに出ましょう。これ以上、もたもたしている時間はないようだから」
「同感だ」
「みんな、食べ過ぎないようにしてね」
わたしの言葉通り、みんなは朝食を腹八分目よりも少なくかきこんで、足早に部屋に戻る。
マーニャは気を利かせてくれて、宿から出る旨をさっさとおかみさんに話しに言ってくれた。
誰も、わざわざ今日の予定をわたしに尋ねたりしない。
いつかこの日が来ることなんて、ずっとわかっていたことだったし、多くを語る必要がわたし達にはないからだ。
エビルプリーストがいる場所はわかっている。
出来る限り体力を温存して、そこまで辿りつかなければいけない。
そして。
(エビルプリーストを倒せば、とりあえず)
世界を救った、ということになるのだろう……と思う。
それはあまりに不確定で。
エスタークを倒すことまでは予言にあったけれど、その先の軌跡は、一体何をどこまで成せばわたしの役目が終わるのかがよくわかっていない。
きっとそれは、マスタードラゴンが『終わった』と判断した時に終わるのだろう。
では。
エビルプリーストを倒しても、その『終わり』がこなかったら?
誰よりも早く準備を整えて、宿屋からあっさりと出て行くピサロとロザリーの後姿を見ながら、わたしは目を細めた。
終わりが来なかったら。
それは、きっと、ピサロをも倒せということなのだろう。
いや、もし『終わり』が来たとしても。
わたしは、ピサロを。


みんなが宿屋を出て行く中、わたしは宿屋の裏の井戸へ走っていき、慌ててその水を汲み上げた。
水がやたらと重たく感じる。
それは、わたしが焦っているからなのだろうと思う。
「ふー……」
ようやく汲み上げた桶の水に、手をそっと浸す。
とても冷たい。
あまりに冷たくて、わたしは。
「っ……」
ああ、泣きそうだ。
熱が顔に集まっていき、目元にじわりとそれが広がって。
その熱をどうにかしたくて、わたしはばしゃばしゃと荒っぽく水を顔にかける。
いや、熱を冷ますためだけではない。
泣かないように。
揺れぬように。
惑わぬように。
見失わぬように。
心の中で己を叱責しながら、何度も何度も顔を冷たい水に乱暴にさらす。


ごめんなさい。
わたしに力を貸してくれるみんな。
ごめんなさい。
わたしの力が及ばず、守れなかった村のみんな。
わたしはこんな時にも。
ぐるぐると回るのは、弱い自分を繰りかえし繰り返し自覚するだけの言葉達。


そうだ。
わたしはこんな時にも。
ほんの数日前の夜にあの男から与えられた抱擁が、最後のぬくもりだと自分に言い聞かせることに、必死なのだ。
わたしがあの冷たい瞳の男の体温を感じることを許された、ほんの僅かな夜。
あの綺麗な長髪がわたしの頬に落ち、そしてあの薄い唇がわたしの頬に落ち、いつ首を絞めて命を奪われてもおかしくない距離に彼がいるあの時間。
それが、既に終わってしまっていたなんて。
まるで、遠いあの日、突然故郷の村が彼に滅ぼされたように。
そうだ。
きっと、わたしの本当のお父さんも、本当のお母さんも、こんな風に突然の別れや突然の死に誘われたに違いない。
サントハイムの人々が突然姿を消したように。
マーニャ達のお父さんが突然殺されたように。
出会いというものが突然やってくるように、別れも突然やってくる。
そこには、何の例外もないのだ。
誰かが愛していたそこにあるはずの世界というものは、無慈悲に前触れもなく壊れてしまうものだ。
なのに。
どうして、覚悟をする日が来る、なんて思っていたのだろうか。
月灯りの下で抱き合いながら、『明日が終われば』なんてことを、あの男と語らう日が来ると思っていたのだろうか。
情けない。
自分の甘さが許せない。
いつでも、今夜が最後だと覚悟をしていたような気になっていた。
なのに。
もう二度と与えられないだろうあの愛撫を思い、わたしの胸はこんなにも張り裂けそうになり。
呼んではいけないあの名を呼びたくなり、それから。
既に、明日からの自分のことが不安でどうしようもないのだ。
エビルプリーストとの戦いのことなんて、これっぽっちもわたしを悩まさない。
わたしを苦しめるのは、過去も、今も、未来も、あの男だ。


今日が終われば。

わたしは、彼に剣を向ける。

それが、わたしの『元に戻る』ということだ。

あのぬくもりなどなかったことにして、いつもと違う調子で囁かれるあの声もなかったことにして。
わたしを見る目が少しだけ優しいと思えて、心が震えたあの時間は夢の彼方。
それは、故郷の村の人々が今も笑顔で生きているのではないかと思い描くのと、なんら変わりがないように思える。
そのことにわたしは絶望し、胸をかきむしりたい衝動に駆られる。


いけない。
泣かないように。
揺れぬように。
惑わぬように。
見失わぬように。
忘れないように。
忘れないように。
忘れないように。
いいえ。
今すぐ忘れてしまいますように。


手が痺れて、頬の感覚がなくなるまで、わたしは何度も何度も顔を洗う振りをして、顔に水をかけ続けた。
遠くで、わたしの名を呼ぶアリーナの声が聞こえても。



Fin



モドル