残像-3-

この村に足をマリアと足を踏み入れることは、なんて自分にとっては重荷になることなのだろう、とクリフトは不覚にもそんなことを感じていた。自分のいたらなさ、そして未熟さ。あまりにもそれらが心苦しくて、平静になることが難しい、と思える。
「マリアさん・・・」
「ああ、クリフト、ごめんなさい。考え事をしながら勝手に進んでしまって・・・これ」
マリアは廃虚となった村の入り口でクリフトを振り返って、腰につけていたポーチから無造作にアイテムを出した。
クリフトに差し出したものは、キメラの翼だった。
「一人でここにくるのは、心許なかったから・・・あなたがいてくれて、今はとても助かるの。でも、あなたがもしも帰りたいと思ったら、いつでも戻っていいわよ・・・」
「・・・あなたは、ひどい人ですね」
クリフトは無理矢理笑顔を作って、そっとマリアの手を押し戻した。マリアはクリフトが本当にそれを受け取って、では、先に帰ります、なんてことを言えると思っているのだろうか?
確かに自分はとてもマリアを傷つけるようなことをしているのかもしれない、とクリフトも冷静にわかっている。けれど、先ほどマリアが言ったことはきっと本当で、こんな自分でもこの場に一緒にいることが彼女の役に多少なりとはたっているのだろう。そう思いたいし、そうだとクリフトは何故だか強く確信している。
誰もいないよりはマシだけれど、誰も連れてきたいとは思えなかったから、丁度良かった
その言葉は彼女の強さと弱さ、クリフトへの拒絶と期待がすべて入り乱れている。それでも、彼女が彼がついてくることを許したのは・・・。
「何かに飲み込まれそうだなんて感じている、あなたを、わたしが」
置いていくわけが。
その言葉は続けずに、クリフトは静かに首を横にふった。マリアは苦笑をしてキメラの翼をポーチに戻る。
そのとき、ぽつりとクリフトの頬に冷たい何かがあたった。指で触れるまでもなく間違いなく雨に違いない。
「・・・雨・・・」
「ええ。降りそうな気がした。でも、多分長くは続かないと思う。この時期のこの山の天候は不安定だけれど、雨は夜半過ぎから少しふって朝には」
ぽつり、ぽつりとあまり大粒ではない雨。
殺戮の名残を残す村の、多分村人達の血を吸ったであろう草の上、地面の上、瓦礫の上。
それらのものが生きていようが死んでいようが雨は関係なく少しずつ遠慮をなくし、激しさを増してきた。
「雨をしのげる場所はあそこしかないわ」
「そうですね」
わかっていたけれど、クリフトの口からそれを先に言うわけにはいかなかった。そして、行きましょう、とも。
マリアは背を向けて歩きだした。心を決めたらしい。
彼女の歩いていく後姿を見ながらクリフトは、ああ、ここは彼女の村だったのだな、と今更ながらに実感をする。
だって、もう、ここには何もないのに。
たとえ瓦礫があったところが家だ、と言われたとしても、焼かれた木やあまりの強い毒気のために地面が変化してしまった毒の沼地があちこちあり、草もとこどろこどにしか残っていない。
あとは剥き出しの地面で、今自分が立っているところですら、誰かが血だらけで倒れていたのかもしれない、更にその遺体に見せしめするほどの価値がない、とばかりに燃やされたのではないかと思えるほどに高温のため変色された土があちらこちらに散らばっている。
そんな中で歩いているマリアは、クリフトには見えない「道」を進んでいる。村の入口からちょっとだけ左寄りに歩いて、崩れ落ちた瓦礫の脇を通り過ぎるときに一瞬だけ顔をそちらに向けた。それからぐるっと廃墟の中央に何かがあったかのように丸く歩いた。
(これは、マリアさんの記憶の中の道なのだ)
クリフトにはやはりどうみてもわからなかった。実際彼が今日一人で来たときには、ただ毒の沼地にはいりませんように、それだけの意識でふらふらと歩いていたから、この廃墟にそれなりの道があったことなぞ考えもしなかった。
「どうしたの、クリフト」
「いえ、なんでもありません」
そう思うとせつなくて胸の奥が熱くなってきた。
暗闇の中で目が慣れてしまったことはありがたいけれど、マリアのひとつひとつの動きががそのおかげでわかること自体はきっと彼女は嬉しくないに違いない。・・・それでもクリフトにとって、目がなれたおかげでマリアが通っている、彼がわからない「道」をそっと供に辿れることはなんだか大切なことのような気がした。
二人は、村の奥でひっそりと隠れていた、地下に続く薄汚れた階段がある場所にたどり着いた。
少しずつ雨足が強くなり、いつもふわりと膨らんでいるマリアの髪がちょっとずつ雨に濡れて形を変えてゆく。
まだ雨が強くなる・・・早く入らなければ、とクリフトが思った途端、マリアの足が止まった。
「・・・っ・・・」
クリフトははっとなってマリアを斜め後ろから見た。
「マリアさん」
「何?」
「大丈夫ですか」
「何が?」
「・・・」
「なんでもないわ」
そう言って彼女は一歩踏み出した。その階段はあまり人の足音を響かせない作りになっているようだ。
中は倉庫になっていたらしく、案外階段は長い、と昼間来たときにクリフトは感じた。
ほんの3段降りたとき、マリアの足が止まった。
クリフトは思い切って言い放った。
「・・・マリアさん、帰りましょう」
「いや。だって、わたし、シンシアの花を、見るの・・・雨が降っていても、朝にはやむわ。そしたら、きっと綺麗だと思う」
「いいですから。わたしが、朝起こして差し上げますから、もう帰りましょう」
「いやよ・・・」
「だって、あなたは震えているんですよ!?」
クリフトはぐい、とマリアの腕を掴んだ。
いつも、そうだ。意地を張っているけれど、どこかでマリアの神経の糸は張り詰めすぎて、クリフトが彼女の心に悪意もなく土足で入り込んだときにその糸は切れそうになる。
今まで何度、皆が知らない彼女を自分は見てきたのか、クリフトは思い出していた。
そして、いつもいつも極限まで、どうして彼女は弱音を吐けないのだろうか。
「足が、止まるわ、クリフト・・・」
「いいんです、行きたくなければ、いい」
「でも、雨が降っているじゃない?」
「だからっ・・・」
「あっ!」
クリフトはマリアの腰のポーチに手を伸ばした。細い階段の入口でもみ合うようにマリアは体をよじる。
「何っ・・・」
「帰りましょう、マリアさん!」
クリフトがこんなに強引なことをするなんて、とマリアは驚いた様子で、彼が自分のポーチからキメラの翼を引っ張り出そうとするのを見ていた。
「嫌よ!そしたら、もう一度ルーラで戻ってくるわ!」
「どうして・・・どうして、今日じゃなきゃいけないんですか。それに、あなたは、疲れているはずだ。連日あなた一人だけ休まず王家の墓にいっていたのですから」
「わたしが今日ここに来ようと思うのに、どれだけの勇気が必要だったのかあなたはわからないわ!明日、またその勇気を初めから奮い起こせっていうの!?」
「・・・でも、あなたはっ!」
クリフトはマリアの両腕を掴んだ。
あれだけ戦いの中では勇猛で、いつもおびえることなく剣を振るう彼女が、足をすくませ、そして体を震わせている。
クリフトはとても静かに、わずかに笑顔を作ってマリアを見た。けれど、彼はうまく笑顔を作れずに、どうしても眉根が寄せられてしまう。本当はもっと優しく、もっと彼女を安心させられる笑顔を向けてあげたいのに。
「・・・まだ、早いです。マリアさん。ここに戻ってくるには・・・」

吹き込む風と雨が強くなる。びゅうびゅうと木が震わされてがさがさと苦しむ音が耳に痛い。
階段の初めの数段は既に雨で色を変えていて、マリアの剥き出しの右腕も濡れそぼっていた。
クリフトはゆっくりとマリアの腕を解放して、それから自分が持ってきたマントで彼女の体を包む。それにマリアは抗わなかった。
女性の体に触れることに慣れない彼は、出来るだけマリアの体を感じないように無造作にマントをかけるだけが精一杯だ。それでも「濡れますからこれを」なんていう言葉すらないまま行動に移した彼は、明らかにもう大人の男に近いモノなのだろう。
「すみません。わたしが、あなたを刺激しなければ」
「違うわ・・・だって、本当にあの花を見たかったの、わたし」
彼は、必死にマリアを納得させようと優しい言葉を繰り返す。
「・・・来年になれば、また、咲きますから。だから、今日は帰りましょう」
「来年のことなんていわないでよ。この村のことだって夢だと思いたいのに、これを現実だと思わせて、そして先の話をするのはやめてよ・・・」
マリアは唇を噛み締めてうつむいた。なんて弱いわたし。なんて情けないわたし。そして、なんて可哀相なわたし。
こんな私では、クリフトを傷つけることしか出来ないだろうし、クリフトも私を傷つけることしか出来ないに違いない。
それでも、クリフトのことが好きだという自覚は、あった。アリーナを羨ましいと思っていたし、気がつけば良きにつけ悪しきにつけ、クリフトのことは気にしていた。
けれど、神様というものについて考えたとき。
彼が神の名を口に出すとき、日々のお祈りをするために教会にいくとき。
耐えられないほど、彼をののしりたくなる。
ねえ、神様がいるのに、私の村はこんなひどいありさまになったのよ?って。
・・・なんて弱い私。
マリアはクリフトが包んでくれたマントをぎゅっと掴んで瞳を閉じた。雨の音、匂い。風の音、匂い。
ふと瞳を開くと、クリフトは階段の上から吹き込む雨風からマリアを守ろうと、マリアより一段上の場所で、腕を左右の壁に伸ばして体全体で狭い階段に蓋をしてくれていた。手のひらをぴったりと壁につけて、まるで幅が狭まっていく壁を押し戻してかのように見える。
きっと、彼の背中は、濡れているのだろう。
濡れた髪が頬に貼りついている。
「来年、だなんて。考えさせないで、来年の今ごろ、わたしはきっと一人で生きているのでしょうね・・・。そんなこと、今は考えたくなんてない。言わないで」
神様をののしっていれば、自分だけの責任ではなくなるから。どうして神様は助けてくれなかったの?私達が神様の名を呼ばなかったから罰せられたの?神様は平等ではないの?
それらの質問はクリフトを苦しめる。けれど、わたしは楽になるのだ・・・その救いの構造をマリアは気付いてしまっていた。
自分が強ければ、勇者として成熟していれば、あんなことにはならなかった・・・どうしたってマリアにはそう思える。
何度でも、頭の中に浮かび上がってくる、愚かだった自分の責任。
そう思うほどに、わたしは自分を苛んで息をすることもままならないことが時折ある。神様なんて関係ない。自分の力が足りなかっただけなのだ・・・そう思うことはあまりにも辛くて。
だから、逃げるために私はクリフトを傷つけている。
「本当に、すみません、わたしが・・・」
「そうよ、クリフトのせいよ・・・」
マリアが軽く睨みながらそう言うとクリフトは唇を引き結んで素直に頷いた。
「はい」
「だから、責任とって頂戴」
「え」
マリアはクリフトの左手の甲にそっと自分の右手を重ねた。
それは特に深い意味のある行為ではなかった。ただ、体が素直に動いただけだ。それでもその手はまだ震えてしまっている。この階段を降りて、あの運命の日に、あの殺戮の音を聞いた場所に戻ることを身体が嫌がっているのだろう。
クリフトは驚いた表情で、それでもすぐにそれを払いのけることが出来ずマリアを見た。
「・・・私、頑張るから・・・朝まで一緒にいて頂戴・・・雨が止むまで・・・」

雨の音は、あまりしなかった。
時間の感覚もここにいてはおかしくなってしまうな、とクリフトは思う。
マリアはクリフトのマントにくるまったままで瞳を閉じて薄暗い倉庫の、奥の部屋でうずくまる。
失礼します、と声をかけてもマリアはクリフトの方を向かなかった。
濡れてしまった服を上だけ脱いでクリフトはぎゅっと絞った。
階段でマリアともめている間にかなり背中が濡れてしまった。いつもの服であれば何重にでも着ているから外が濡れても内側の服は大丈夫だったろうに。普段着ない部屋着に着替えていたためにまったくもってぐしょ濡れだ。
若い女性の前で上半身だけでも裸になることはクリフトには抵抗があったから、さすがに最後の一枚は濡れたまま着ている。
「マリアさんは、濡れてませんか?大丈夫ですね?」
「大丈夫よ・・・」
普段左腕を被っている手袋だけが濡れそぼっていたので、それだけマリアははずして、震えながらうずくまっている。
それは、雨や風にさらされての震えではない。
「眠りますか」
「眠れないわ・・・きっと」
「・・・でも、明日に響きます」
こんなときにラリホーを唱えられたらな、とクリフトは苦笑せざるを得なかった。
「どうしてかしら。雨の音も風の音もしないわ・・・」
「これだけ地下ならば」
「でも、音が聞こえたの」
「・・・マリアさん、思い出そうとしないでください」
「じゃあ、いつまで蓋を閉めておけばいいの」
そういってクリフトの方を向いたマリアの表情を見てクリフトは心配そうに声をかけた。
「・・・マリアさん、寒いのですか」
「寒くないわ・・・」
「顔色が悪い・・・」
妙に唇の色が赤く見えて、けれど顔は青白いように思える。
「この部屋にいたのに、どうして、わたしには、あれだけの音が聞こえたの」
「マリアさん」
「だって、クリフト、聞こえないでしょう、外の音。雨も風も。でもわたしには聞こえていたの、聞こえていたの、聞こえていたの」
混乱している表情ではなかった。
今、マリアが戦っているのだということをクリフトは気付いた。
ああ、なんて、この人は強くて。
そして自分が強いと信じたいと強く思ってしまうほど・・・弱いのだろうか。
不思議とクリフトは、そんなことを感じ取った。それが正しいか正しくないかはよくわからない。
マリアの側にクリフトが跪いてもマリアは決してクリフトに泣き付いてくることもなければ、拒絶をすることもない。
ただ彼女は、自分と今戦っているのだろう。
繰り返された言葉は、意味がわからず繰り返したものでもなく、自分に教え込むためのものでもない。クリフトはそれに気付いて、はたと彼女の苦しみの一端が、初めて自分から正しく理解できたような、そんな気がした。
視線を合わせると、マリアの強い、それでもどこか怯えた視線が彼を睨みつける。
「マリアさん、あなたは、今」
「なに」
「また、神様と、自分を、呪おうとしているのでしょうか」
「・・・っ・・・」
「あなたが聞いたとおっしゃっていた殺戮の音・・・」
まいった。また、自分の方が泣いてしまうかもしれない、とクリフトは歯をくいしばって、それから。
「聞こえるはずのない殺戮の音が、この部屋で聞こえていたこと。それが、もしや」
「他に何が考えられるっていうの、だって、今、ここでは聞こえないでしょう?風が木を震わせるあの強い、恐ろしい音ですらここには届いてこないっていうのに」
なのに。
なのになのに、あの日の殺戮の音は未だにマリアの鼓膜から消えない。まざまざと焼き付けられたのは、人々の姿ではなく、人々が「人間だった塊」という「モノ」になっていくだけの非情な音。
そうまでしなければ、神様は、わたしが勇者となる心積もりが出来ない子供だと思っていたのではないのだろうか。
そして、自分がそうであったということをマリアはよく知っている。
「マリアさん、考えないでください」
「クリフトっ・・・・」
「!」
マリアは目のまで跪いたクリフトの肩を、突然マントの中から手を伸ばしてがっちりと掴んだ。
クリフトは上着を脱いでランニング型の肌着のみになってむき出しになっていた肩を突然掴まれて、瞬間身体をひきそうになったけれど、マリアの言葉がそれを許さなかった。
「わたしっ、あなたのこと、好きじゃあない!好きじゃないわ!神様を信じているなんて、許せないし、許したくないし、意味がわからない。意味がわからないことを人に勧める、神官なんていうものは、わたしの世界になんか、いらない!」
「・・・!」
「だけど・・・!」
マリアは瞳を閉じて、苦渋の表情を見せた。
「・・・・」
その唇が、音を形作った。
けれど、声帯はそれを外に漏らすことを許してくれなかった。
クリフトは彼女の唇を凝視して、瞬きを忘れた。なぜならばその言葉は。
今まで数限りなく彼は教会で、その言葉を口に出す人々を見て来た、紛れもない彼女の叫び。
「マリアさん・・・」
それでも、息を吸って吐いて、マリアが次に発した言葉は、普段の彼女らしい、静かなものだった。
「わたしの村はもうないわ。あるのは廃虚だけ。わたしはあそこが自分の村だとは思えない。わたしが知っているわたしの村は、階段を降りたこの小さな倉庫達だけなんだわ」
「そんな・・・」
「それでも、ここに足を踏み入れれば、見えるのはあの日のことだけなの。あの日のことだけなのよ。だったらいっそのこと」

足を踏み入れれば。
先生が、わたしをここに連れて来た。
別れのときのあの人の表情。
切羽つまっていて、わたしに何も伝えられなかったあの人は、それでも、わたしを見て微笑んでいた。
ここから出るな、と厳しい口調で言った後、背を向ける直前の笑顔。
大好きだった大好きだった先生の笑顔。わたし、先生が大好きだった。もっと早く生まれて、先生のお嫁さんになりたいとおもっていたくらいあの人が大好きだった。
それから。
恐ろしい音が続く中でやってきたシンシア。
さよなら、マリア。
その言葉と共に、わたしの姿になったまま微笑んだシンシアの笑顔。
わたし、わたし、わたし、同じ姿形でも、あんな風に笑えない。あのときのシンシアの、わたしの姿で微笑んだ、彼女の笑顔。
ずるい。
だって、あの人達の最後の言葉の声音をずっとずっと覚えていたいのに、思い出そうとするとわたしの鼓膜に響くのは。
あのとき、ここでたったひとりで聞いていた、殺戮の音ばかり。
わたしの記憶の中にあるのは、彼等の言葉とその優しい愛情に満ちた響きではない。
殺戮の音と。
この部屋で見た、最後の笑顔と。
その二つが結びついて、わたしは、自分を苛むのだ。
ここでわたしの脳が繰り返すのは、残酷な非情な思い出すだけでも吐き気がするような、長い長い殺戮の音と、それをまるで否定するかのような、けれど、明らかにそれの犠牲になったあの人達の笑顔。
網膜に焼き付いたのは、愛情。
鼓膜に焼き付いたのは、破壊。
そして。
わたしが見た、わたしの顔をした、わたしではないあの人の笑顔は。
それでも、あの花の香りに包まれていたのだ。

だったらいっそのこと。ここも壊してしまっていいかしら。
その言葉は声にならなかった。
そんなことは出来るわけがないし、クリフトが許すわけもない。マリアはうな垂れて、それでもクリフトを掴む手を離せないまま頭を前に下げた。
「・・・ごめんなさい・・・」
けれど、クリフトは穏やかに返す。
「マリアさん・・・朝になったら、花を見にいきましょう?」
「そうね」
「とても可憐な花です。あなたも好きになると思います」
「そうね」
「それまで、わたしが、そばにいますから」
「・・・ふふ・・・」
マリアは小さく自嘲気味に笑った。
きっと、クリフトは幼い頃にでも、嵐を怖がるアリーナをこうやって寝かしつけたのではないか、なんて。
そんな下世話な想像をしてしまった。
この場で。
この、運命の場所で、自分は今そんなどうでもいいことを考えられるなんて。
「人間は、案外と・・・昔のことより今のことの方が大切なのね」
「・・・・?」
よくわからない、という表情を見せてからクリフトは
「それが、生き残った人間の義務ですから。死した人を思い、記憶に留めて愛していても、自分が生きていなければその人々を覚えている人間がいなければ、彼等を思い出してくれる人はいなくなってしまいます・・・・そのためにも、精一杯生きなければいけないのです。例え、泣いても、叫んでも」
「泣いても、叫んでも」
「はい」
「そうね」
ふとマリアは、自分が掴んでいるクリフトの肩がとても冷たいことに気付いた。
「クリフト、寒いんじゃないの」
「ああ・・大丈夫ですよ・・・」
「本当に?」
「ええ。お気遣いありがとうございます」
マリアはクリフトを見た。
マントに、一緒に、くるまろう?なんてことをマリアは言えない。けれど、クリフトが貸してくれたこのマントを彼に今返したくないとも思った。
だって、自分がくるまっていたこの布で、今度は彼がくるまるなんて。普段ならまったくなんともないそのことが、とても恥かしいことのような気がして。
「マリアさん」
「なに」
「わたしのことを嫌ってくれても、なんでも構いません。でも・・・いいんですよ、言葉にしても」
「何を」
「・・・わたしに、助けを求めるのは、恥かしいこと、許せないことなのですか?」

音にならなかった唇の形だけで発せられたクリフトへの言葉。
マリアは箍が外れたように、そのままクリフトに抱きついた。
あれだけ拒絶して自分を苦しめて、そして自分も彼を傷つけたのに。
これは、恋愛ではない。
クリフトはマリアを、あまり力を入れずに抱きしめ返した。
まだ震えている彼女の身体はやはりマント越しでも冷たい。例えその震えが寒さのためのものでなくとも。
「花を、摘んでいきましょうね。きっと、みんなあの香りを好んでくれると思います」
「クリフトっ・・・」
「なんでしょうか」
「心の弱いわたしを、責めないで。責めないで・・・もっと、強くなるから。もっと強くなるわ、わたし、何にも負けないわ」
それは、クリフトへの言葉では本当はない。
マリアは泣きながら、強く、相手がクリフトであることを忘れてしまったかのように強くすがりついた。
「だから、愚かな、情けないわたしのことを、今は責めないで」
「責めません。誰も、あなたを責めませんよ、マリアさん」
クリフトは、ただ、マリアを抱きしめるだけだ。身体を押しつけて泣き続けるマリアに、それ以上何も言わず、静かに静かに、まるで当たり前に満ちてしまった波が当たり前にひいていくのをまつように・・・彼は彼女を抱きしめるだけだった。

やがて半刻もしないうちに、マリアはマントにくるまったまま、クリフトにしがみついたまま寝息を立て始めた。
丁寧に床に横たえてやって、クリフトは彼女の頬にかかった濡れた髪をどけてやる。それから天井を、壁をみつめたあとで
「わたしが、お役にたてるのであれば」
何もない空間にむかってクリフトは言う。
「この方の叫びに、応える権利をいただいてもよろしいのでしょうか」
もちろん誰からのいらえはない。
クリフトはマリアのようにこの室内にいても、シンシアや、彼女の剣の先生の姿を思い描くことが出来るはずもない。
それでも、最後に彼等がマリアへの愛情を伝えたこの、寂しくて冷たくて薄暗いこの部屋で、クリフトは繰り返すのだ。
「あなたたちの愛情が、この人にとっての呪縛にならないように」

ついに、クリフトに対して彼女は叫び出そうとしたのだ。
助けて、と。
それは音にならなかったけれど、その唇の動きは、クリフトの網膜に焼き付いて離れなかった。


Fin

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