憎悪-2-

ふと、マリアの足が止まった。
「どうしたの?」
彼女の後ろから歩いていたアリーナが驚いて声をかける。それに気付いて、先頭を歩いていたライアンが振り返った。
かびの匂いが漂う城の通路で、マリアは天井を見るように軽くあごを突き出し、瞳を閉じた。
「・・・聴こえない?」
「え?」
「何かの鼓動が聞こえる」
「・・・なあに、今度はあたしじゃなくってマリア?」
アリーナは明るく茶化す。そして、次の瞬間、茶化したことを後悔した。
マリアは、ぶる、と身震いをして、腰につけた剣の柄をぎゅっと握る。
「どうなさいましたか、マリア殿」
「近いわ。聞こえる。地獄の帝王の息遣いが。鼓動が」
「私には聞こえませんが・・・」
クリフトもライアンもまた、耳を澄まして辺りの気配を伺った。
辛気臭い城内は魔物も多い。その魔物達はここでずっと生きていたものなのか、それとも地獄の帝王の封印と共に、この城に封印されていたものなのか、彼らには判断することは出来ない。
何度耳を澄ましても、それらの魔物達が蠢く音しか、彼らの耳には入ってこない。
「これは」
あの時と、同じだ。
マリアは唇を噛み締めた。
一体誰が、自分にこんな音を聞かせるのだろう?
あの日、あの時、自分が愛した人々の命が奪われる無慈悲な音を、あの地下室で聞いたときのように。
聞こえるはずのない声、聞こえるはずのない音がこうやって時折聞こえる。 
そんなとき、まるで誰かが無理矢理自分に聞かせているのではないかと思えて、マリアはその「誰か」に対して強く苛立つ。
彼女の脳裏に響くその息遣いは、とても規則正しい音だ。
彼女の脳裏に響く聞こえるその鼓動は、とても規則正しい音だ。
けれど、その規則正しい、本来なら生命の営みを象徴する音が、不吉に思える。
ああ、そうだ、惑ってはいけない。
マリアは不安そうに彼女の様子を伺う仲間達の視線を感じながら、心の中で呟いた。
この呼吸を、この鼓動を止めるために、わたしはここに来たのだ。
だってわたしは、地獄の帝王を倒すと言われた勇者だから。
マリアは、三回深呼吸をして心を落ち着ける。そして、仲間達を見渡して言った。
「準備は、いい?近いわよ。地獄の帝王とやらが、次の間に、いると思う」
何故そんな音が聞こえるのか、なんていう質問は、誰も彼女にしない。
それは悲しいことである反面、ありがたいことでもあった。
「いつでも、準備は出来ておりますぞ」
力強いライアンからの言葉。それに続くアリーナは、僅かに声が上ずっているけれど、それでもマリアには十分すぎる心強い言葉を発してくれた。
「行こう!そのために来たんだもの!」
マリアは二人に頷いた。
最後にクリフトは、マリアのその頷きに、ただ静かに自分も頷き返すだけだ。
それでもまっすぐな彼の瞳は、言葉よりも何よりもマリアに伝えてくれる。
なんという幸せなんだろう。
全てを無くしたとあの時思ったけれど、今こうして私には。
あの人達とは違う形でのつながりだけれども、この人達とこうしているという、これは。
なんという幸せなんだろうか。
マリアは笑顔を3人に向けた。

そこに居たのは、謎の生き物だった。
見たことが無いもの。一体何なのかと問われれば「地獄の帝王だ」としか答えることが出来ない、知らないもの。
それは、ただ、そういう生命体なのだろう。
人に似て人にあらず。
魔物とは言い切れないほどに人に近く。
けれども、そのどちらでもないとマリアには思えた。
その体は大きく、マリアの倍は上背があるようだ。一見、冑を被っているようにも見えたが、それは「そういう」形の体の一部なのかもしれない。
太い腕、足。それらはさも、既に武器であるような強さを十分に見せつけるように力強く、大きな爪が光っている。だというのに体の強さだけでは満足がいかないのか、手には大剣を握り締めている。
玉座に座ったその姿は、神々しさといったものはないけれど、禍々しさと、見るものを不安にさせる、その見慣れぬ生命体の強さをアピールするには十分だった。
「・・・っ・・・」
構えをとったアリーナの表情がわずかに強張っていることにマリアは気付いていた。
無理も無い、と思う。
弱い魔物だったらこの空間にいるだけでも震え上がって、体が動かなくもなるに違いない。
それほどに強烈な気をその生き物は放っていた。
マリアは目を見開いた。
これだ。
強い確信が体を突き抜ける感触。
さっき、聞こえていた息遣い、鼓動。
それは、まさにこの目の前の生物のものだ。
マリアは両手で剣を握って、真正面にいる「それ」を見つめた。目の前の「それ」は瞳を閉じてぴくりとも動かない。
ただ、規則正しく息をして、そこに存在するだけだ。
そのとき、マリア達を見つけて、玉座前にその生き物の側にそっと身を潜めていた魔物が2体飛び出てきて叫んだ。
「これ以上近寄ってはならぬ!」
アリーナはそれへ慎重に言葉を返した。
「・・・近寄ったらどうなるの?」
「エスターク帝王が目覚めるまで、今しばらくかかりそうなのだ。すぐさま、立ち去れい!」
「マリア殿、確かに眠っているように思えますが」
ライアンが小声で囁く。
「そうね。でも、封印は解けている。でなきゃ、こんな・・・こんな大きな、嫌な気を発しつづけるわけがない」
「確かに」
「どっちだっていいわ。こいつが地獄の帝王だってことは、見るからに間違いないもの!」
「あ、姫様!」
「そいつらを倒して、そいつもさっさとあたしが倒しちゃうからね!」
マリアの返事を待たずにアリーナは飛び出した。やれやれ、とばかりにマリアとライアンも剣を鞘から引き抜いた。
お姫様はいつでもおてんばで困る。
クリフトは苦笑を浮かべた。

アリーナとライアンの活躍のおかげで、やがてそう時間もたたずにその2体の魔物を倒すと、マリアはすぐさま次の戦いのためクリフトを振り返って叫んだ。
「クリフト、スクルト!」
「はい!」
マリアの声に反応して、クリフトはスクルトの呪文を唱えるための印を指で切った。
「アリーナ、いいわよ」
「もっちろん!」
そうマリアは言うけれど、またもそれより早くアリーナは飛び出していた。目指すは「エスターク帝王」と魔物に呼ばれているらしい、地獄の帝王とやらだ。
アリーナをフォローするようにその斜め後ろにライアンが走りこむ。
初めの一撃が終わるまで、マリアはいつでもクリフトの代わりに回復呪文をかけられるようにと神経を尖らせている。
見知らぬ敵の懐に飛び込むということは、ありとあらゆる危険をはらんでいる。それを見越してのことだ。
切り込み隊長はいつだってアリーナだ。駄目だ、と何度言っても、アリーナは譲ることは無い。
本来ならばある程度の重装備を身につけられ、そこそこ素早い動きも出来る自分がそれをやるべきだ、とマリアは幾度となく主張をしたけれど、「駄目ったら駄ー目!」と、理屈にもならない言葉でアリーナががんとして譲らず、今に至る。
両手に鋭利なキラーピアスを持ち、素早い動きで近づいていってアリーナは攻撃を繰り出した。
「手ごたえある!ちゃんと生きてる!」
とん、と軽い身のこなしで攻撃後に後ろに飛びのくと、クリフトが詠唱を完成させ、彼らの体を魔法の力が包む。
その加護を受けてライアンが一太刀浴びせるけれど、「それ」は攻撃をうけながらも起きるそぶりがなかった。
「・・・何か、来る!」
嫌な予感を感じて、マリアは慌てて剣を床につきたてて印を切った。
分子だとか粒子だとか、そういった難しいことをマリアは知らない。ただ、物質の何かを変化させる印。
人間の形を形成するための何かの繋がりを断ち切るため、左手の親指と人差し指で作った円に右手の親指と人差し指をいれて引き抜く。
そして新たな物質に変化させるために両手の指を複雑な形で絡めて叫んだ。
「アストロン!」
滅多に唱えることが無いその呪文。
クリフトとアリーナは驚いてマリアを見た。
彼らはそこまで慎重になるマリアを滅多に知らない。そして実際、それで困ることはそうそう無かったわけだし。
ぶうぅん、と耳慣れない鈍い音と共に、彼らは自分達の体が突然に人の体を形成するものではない何かに変化する、圧迫感と緊張感を感じた。
「鉄になる」とよく言われる呪文だが、真実は違う。物理的に鉄になるのではなく、比喩としてのものだ。
彼らはその時は自らの肉体を放棄し、ほんの短時間だけこの世で起こるありとあらゆる刺激を無視する物質に変わる。
モシャスやドラゴラムとは一線を画すものだ。
クリフトはとてもこの呪文が嫌だったけれど、マリアがそう判断したなら仕方がない、と思った。
自分という生き物の器、身体が変化する、という感触を彼は嫌っていた。どこかしら神への冒涜とも感じられていたからだ。
錬金術に対しても同様で、素直に「すごい」と思う反面、神に与えられた、その物体が持つ核になるものを変化させることは彼の信仰心によって、受け入れ難いものと思えた。それを錬金術師の父を持つマーニャやミネアに告げたことはないけれど。
ブライはクリフトに「どんなものだって、もとは小さい粒なのだ。同じなのじゃよ」と諭すけれど、まだ彼は若く、ブライの言葉で自らの不快を納得させることは出来ない。
意識だけ残った、肉体を変化させた状態で彼らは様子を伺っていた。
何も起こらないとは誰一人思っていない。
体は刺激に鈍くなるけれど、意識は逆に研ぎ澄まされる気がする。
と、そのとき、眠っているらしい地獄の帝王から発せられる気配が変わった。
マリアが感じた「来る」は、正しい感知だったのだろう。
「!!」
瞳らしきものを閉じたまま、それはゆらりと前後に軽く動いた。
あまり大仰ではない、軽い動き。
その瞬間、本来刺激を受けるはずがない彼らに、大きな衝撃が走った。
「・・・くっ・・・」
体に走るひりついた痛みと、それまでの経験が知らせる警告。
マリアはその身に受ける、地獄の帝王から発せられる力を十二分に感じて心の中で舌打ちをした。
思っていた以上の力を秘めているようだ、ということがこの一撃でわかる。
しかも相手は眠っているというのに!
これは、防衛本能が起こす技なのだろうか?
それとも、眠っていると見えるだけで、実際は起きているのだろうか?
「・・・クリフト、スクルトをもう一度!」
「はい!」
自分の術が解けたことを確認してマリアは叫んだ。
これだけの力を持つ相手が、物理攻撃をしてくればかなりのダメージを負うに違いない。
「ライアン、アリーナ、物理攻撃はきちんと効く。速攻で倒す!」
それへの返事の代わりに、アリーナはまた敵の懐に飛び込む!
まるでその動作に呼応したかのように、地獄の帝王は再度ゆらりと動きをみせ、攻撃を続けた。
禍々しい光がマリア達を照らし、その「気」で彼女達を射抜くような衝撃を与えた。
「きゃあ!」
一体どれほどの防衛本能なのだろうか。
明らかに眠っている地獄の帝王の体から発せられるその「気」とでもいうべきものは増幅し続け、マリア達に恐怖というものを植え付ける。
それでもやらなければいけないのだ、と自らを奮い立たせることが出来るほど彼らの気持ちは正しく強くなっていた。
どくん。
マリアの耳に何故か届く鼓動。
それは時折乱れが聞こえる。
目覚めの時が近いのだ、とマリアは歯軋りをした。
寝ていたってこれだけ強いのに、目が覚めたら一体どうなってしまうのだろうか?
それはそこにいる全員が今抱いている懸念事項だ。
そして、その思いは直接恐怖心へと繋がる。
マリアは彼らが今見舞われている、とても耐えがたく思える、心を揺さぶる恐怖心を彼らからきちんと感じ取っていた。
みんな、必死に立ち向かっている。
ライアンはぶる、と時折身震いをする。
アリーナは緊張のあまりか強く歯を噛み締めている。
そして、わずかに指先が震えるクリフト。
焦り。恐れ。
それに駆られながらも、アリーナもライアンも、そしてクリフトも良く動いてくれる。
誰も退こうとしない。
人はそれを当然と言うのだろうか?
マリアは突然そんなことを思った。
勇者の仲間達なのだから、戦って当たり前だと。
それでは。
自分を守り抜いたあの人達は、戦って当たり前だと、人々は言うだろうか?
いや。
神は、そう言うのだろうか?
「・・・どうして、思い出させようとするの!?」
マリアは叫んだ。
「聞こえないものを聞かせようとするのは、誰!?」
それへのいらえはない。
頭の中に直接、乱れてきた鼓動が聞こえ、そして驚いた仲間達が彼女を見るだけだ。
「私は、神様なんて、信じない!信じるのは、自分の仲間と、自分を守ってくれた人達の勇気だけよ!」
ああ、あの人たちもこうやって。
私を守るために、抗うことがこんなにも難しい、圧倒的な敵に立ち向かっていったのだ。
脳裏によぎる、あの運命の日の風景。
「それを辱めることだけは、何があったって、もうしない!もう、仕組まなくていい、わたしは、信じるもののためだけに戦うのだから!」
その瞬間、彼女の頭の中で響いていた、地獄の帝王の鼓動や息遣いはすっと消えて。
そして、目の前の生物は、瞳を開けた!

軽量さ故に衝撃に耐えかねて壁に打ち付けられるアリーナにクリフトが回復呪文を唱えるタイミングは優秀だった。
そして、それゆえに無防備になっているクリフトを庇いながら衝撃に耐えるライアンの集中力。
仲間達に的確な指示を与えながらも、マリアは自ら切り込んで行く。
早く。
あの、デスピサロと呼ばれる男達が来る前に。
「ぐあ!」
「マリアさん!」
マリアは切りつけると同時に、地獄の帝王が払った手を避けきれずに吹っ飛ばされた。
そのスピードはあまりに速く、決してマリアが油断していたわけでもない。
地獄の帝王はマリアを床に叩きつけると、果敢にまた走り寄ってきたアリーナの体を逆の腕で横になぎ払おうとする。
それをアリーナはひらりとかわしたけれど、なぎ払った腕が戻ってくる速度は驚異的で、アリーナにも予測不可能だった。
「きゃあ!」
囮というと聞こえは悪いが、アリーナに攻撃を加えている隙に、ライアンは逆側から飛び込んでもう片方の、先ほどマリアを叩きつけた腕に切りつけた。
「強い!」
ライアンの口から漏れるその言葉。それはまさしく今誰もが感じている思いを最も端的に示すものだ。
床から立ち上がってマリアは敵を睨む。
今までの敵とは桁が違うことをマリアは確信した。
そして、また殊更に生まれる恐怖心。
叩き付けられたアリーナや、その様子を見ていたクリフトにすら再度その感情が芽生えてしまったことがマリアにはわかる。
それでも、私達は、ここで逃げるわけにはいかない。
と、地獄の帝王の全身から、何か目に見えないものが発せられた。
「ぐ!」
一瞬体をこわばらせたマリアは、スクルトの効力が打ち消されたことを確信する。
そして、叫んだ。
「でも、私達は、勝つ!クリフト、もう一度、スクルト!回復は私がするわ!」
「はい!」
「アリーナ、問題ない。思っていたより相手が速いだけよ!」
「う、うん!」
「ライアン、アリーナをフォローしてあげて!」
と、アリーナが走り出したそのとき
「ぐおおおおおお!」
地獄の帝王は咆哮をあげ、口から吹雪を発した。
「きゃあ!」
クリフトはアリーナの声に反応して、咄嗟に回復の呪文、ベホマを唱えようと手を動かしたが、マリアは冷静に言い放つ。
「スクルトよ、クリフト!」
「あ、はい!」
アリーナは自分で祝福の杖を振るって、それから体勢を立て直して走り出した。
実際にはアリーナよりも吹雪によってダメージを与えられたはずのクリフトにマリアはベホイミを唱える。
「・・・うおお!」
切りかかったライアンは着地を狙われて、大きく振り払われた手に、横へなぎ払われた。
がしゃん、と甲冑が床にぶつかる音が響く。
「ライアン!」
「!」
クリフトは慌ててスクルトを唱えた。
自分がアリーナに気を取られて呪文の詠唱が遅れたせいで、ライアンは殊更に痛手を負ってしまっていることに気付いたのだ。
その、自らの失態にクリフトは大きく動揺した。一瞬のその惑いが、更に彼の冷静さを欠く。
クリフトの様子に気付いて一瞬叱責の声をあげようとしたマリアは、ほんのわずか動きを止めた。
もう一度命令をしようとしていた彼女の表情は、すっと緩んで、クリフトへの笑顔に変化する。
「大丈夫よ、クリフト」
「す、みません!」
「大丈夫だから」
ほんのささやかな、一瞬の笑顔。こんなときに彼女が見せたその表情に、クリフトは少しだけ安堵の表情を浮かべた。
「もう一度、スクルトをかけて。あなたにしか出来ないことを、あなたにお願いしたいから」
「・・・はい!」
ようやく立ち上がったライアンに、アリーナが祝福の杖を振る。
マリアはその様子を確認して、床を蹴って飛び出した。

ねえ、シンシア。
今、わたしね、クリフトに笑いかけることが出来たの。
こんな時なのに、大丈夫だよって、安心させたいって、そう思って。
でも、そうしたら。

マリアの両眼に突然涙が溢れ出てきた。それに気付く者は誰もいない。

あの日、最後に笑いかけてくれたあなたも、同じ気持ちだったのだと。
今、やっとわかった。
あれは、あなたの優しさだとずっと信じていた。
わたしを不安にさせないように、そんな思いやりだけの笑顔だと思っていた。
それは、いくばくかは間違いではない。でも、それが全てではなかったのね。
そう。
抗うことがとても難しくて。
それでも命を賭けてでも守ろうと、やり遂げようと思えることがあって。
自分のために、自分を信じてくれる人のために、自分を愛してくれる、自分が愛している人のために成そうとする、生命の瀬戸際の中で。
それでも足が竦んで、動けなくなる恐怖の前で。
同じように不安に怯える愛すべき相手に笑いかけることで、自分の中にも生まれた恐怖に立ち向かう勇気が出るなんて!

「もう、誰も死なせたくないのよ、わたしは!」

そして、そうまでしなければ立ち向かうことが出来ない巨大な力が行く手をふさいでも。
それでも、あなた達には最初から退くなんていう選択肢はなかったのね。
わたしを、たった一人のわたしだけを、生かすために。

クリフトが詠唱したスクルトによって、「神の」加護とやらが体を覆う。
それに力を借りねばならないことに忌々しさすら感じつつ、マリアは剣を振るった。
涙で視界が僅かに霞むけれど、それは何の苦にもならない。だって敵の体は大きいから。
もっともっと力ないあの村人達が、今の自分達のように巨大な力にねじ伏せられたあの日のことが脳裏を過ぎる。
こみ上げてくる激情が、マリアの体を動かした。
もう、誰も、死なせはしない。
その思いに重なるのはシンシアの声。
マリア。
あなたを、殺させは、しないわ。
涙の熱さを感じられなくなるくらい、今、わたしの体温は上がっている。
シンシア。
こんな風に、迫る恐怖の中で、こんな残酷な勇気をあなたが振り絞らなければいけなかったなんて!
わたしは、きっと永遠に許すことは出来ないのだろう。
何を?
勇者である自分を?
それとも、デスピサロを?
それとも・・・!

「マリアさん、じっとしていてください」
「・・・ありがとう、クリフト」
壁にもたれて血まみれになっているマリアの横にクリフトは駆け寄った。
朦朧とした意識の中、彼らの目の前で地獄の帝王はゆっくりとその動きを止め、そして、再び眠りについた。
そこにまだいるというのに、まるで突然風化したかのように、その生き物の色は褪せ、年月を経た絵画のように黒ずんだ変色が見られる。
「アリーナとライアンは・・・」
「姫さまは軽い脳震盪をおこしていますから、揺さぶらないほうがよさそうです。今、ライアンさんが薬草で姫さまの傷を治してくださっています。ライアンさんは、最後にわたしがベホマをかけておきましたから・・・ああ、動いてはいけない」
「ああ・・・そうだ、アリーナがふっとばされて」
沈みそうな意識を引き戻して、マリアはなんとか正常な思考を巡らそうと言葉にする。
「ライアンさんが姫さまの後ろでクッションになってくださったのですが、何分にもものすごい吹っ飛ばされ方でしたので・・・お二方とも壁にしたたか打ち付けられてしまい・・・ライアンさんも今気がついたばかりでした」
「そうだ・・・最後に、わたしとあなただけで・・・」
「はい」
気がつくと、今まで見たことが無いほどの出血を自分がしていることにマリアは気付いた。床に広がる自分の血は、既に一部が固まってしまっている。その異臭は慣れたはずだが、何故かやたらと鼻につくような気がする。
「わたしを庇って、あなたは二回もの物理攻撃を受けてしまったことを、覚えていらっしゃいますか」
「・・・はは・・・」
苦々しくマリアは力なく笑った。
クリフトは丁寧にベホマ詠唱を始めた。膝を折った彼の足もとにもマリアの血は流れ、彼の服の一部を染める。
よりによって、地獄の帝王エスタークが放った波動により、スクルトの効力を消されてから、マリアは打撃を食らって全身血まみれになった。
左腕の骨と、肋骨の一部が折れていることが自分でもわかる。
内部の修復は単純なベホマでは治せない。クリフトは詠唱短縮をしないフルスペルでマリアに術を施そうとしている。
「・・・ん・・・」
クリフトがベホマを唱えると同時に、マリアは自分の体が癒される感触を味わう。詠唱が終わっても、マリアの体が全て回復するまでにはしばしの時間がかかる。
「無理を、なさいましたね、最後に」
「・・・」
「あんな打撃の後に、よくもあれだけの一撃を」
「・・・だって」
「・・・ええ」
「立ち向かわずにはいられなかったんですもの」
「マリアさん」
「ね、クリフト、恐かった?」
マリアはようやく動くようになった左腕で、ぐい、と自分の口はしについていた自分の血を拭った。
クリフトは目を見開いてマリアの顔を見て、それから躊躇いがちに
「はい」
とだけ答える。
「そうよね・・・恐ろしい生き物だったものね」
「・・・はい」
「わたしも、恐かったわ。クリフト、勇者でも、恐かったのよ」
それが一体どういう意味なのかクリフトにはわからない。
マリアは黙って鎧を脱ぎ、そっと手で体を探る。そして、自分の肋骨がベホマによって正しく癒されたことを確認する。
丁度そのときアリーナを抱き上げてライアンが二人に近づいてきた。
「呼吸は整っているから、ほどなくして目覚めるとは思うのですが。今は一刻も早くここから出るほうが」
「そうね。地獄の帝王は、あれは、死んでいないわよね?」
「生きているか死んでいるか、では生きていると思われますが・・」
ライアンはそういって言葉を濁した。それへクリフトが
「わたしには・・・まるで、冬眠をしているように見えます」
「冬眠。いい言葉を遣うじゃない・・・」
よろり、とマリアは立ち上がった。それをそっと助けながらクリフトも共に立ち上がる。
「ライアンの言う通り、ここから早く出たほうが良いと思えるわ。ライアン、アリーナを抱いたまま動ける?」
「もちろん」
マリアはライアンの頬についている傷に気付き、そっとベホイミを唱えた。それに対してライアンは小さく笑顔を見せて「かたじけない」とだけつぶやく。
そのとき。
「な・・・なんということだ!」
聞き慣れぬ男性の声が彼等の耳に飛び込んで来た。はっとなり3人は声の方向を見る。
室内には更にぐるりと人が通れるかどうかぎりぎりの幅で並ぶ柱によって、周囲を囲む通路と遮られている。
その通路を魔物達と共に歩いてくる男の姿が見えた。
「エスターク帝王が倒されてしまうとは・・・!」
その男は。
魔物達の城から飛び出て来たはずのデスピサロだ。デスピサロは柱ごしにマリア達を睨み付けて、顔を歪め禍禍しい表情を作る。
「しかし、予言では、帝王を倒せるものは・・・天空の血をひく勇者だけだ!まさか・・・」
デスピサロは立ち並ぶ柱に手の平をむけた。明らかに戦闘態勢だということに気付いてライアンがアリーナを抱きかかえたままで叫んだ。
「マリア殿、ここはひとまず・・・」
「リレミトはここでは無効化される!ライアン、アリーナを連れて逃げなさい!」
「しかし・・・」
「誰かを庇いながら闘う余裕なぞない!」
叫びながらマリアは、デスピサロを睨みつけた。
絡む二人の視線。デスピサロと、マリアと。
手の平をむけるデスピサロのその動きは、柱を壊そうとする動きだ。
けれど、絡んだ視線を逸らすことが出来ず、そして、手の平に破壊のための気を集めることが出来ないほどの、視線に込められた強い意識。マリアも視線を逸らさず、デスピサロを見つめる。

気が、狂いそうだ。
マリアは瞬きを忘れた。
「あなたを、殺させは、しないわ」
その言葉とその笑顔が一体どれほどの覚悟で、どれほどの恐怖心すら乗り越えなければいけなかったのか。
愛情、なんていう奇麗事ではないということに、わたしは気付いてしまった。
ああ、シンシア。
こんな風に、迫る恐怖の中で、こんな残酷な勇気をあなたが振り絞らなければいけなかったなんて。
わたしは、きっと永遠に許すことは出来ないのだろう。
自分を、デスピサロを、そして。

「勇者は、屠ったはずだ!」
デスピサロは叫んだ。
「愚かな、デスピサロ!お前が屠ったのは、わたしの、大事な、大事な姉代わりの人だ!この顔を、覚えていないのか!」
デスピサロの言葉を聞き、ぎり、と歯ぎしりをしてから、マリアもまた叫んだ。そして、剣を構える。
「来い!デスピサロ!」
「いけない、マリア殿!」
マリアの挑発の声と、ライアンの制止の声が重なった。そしてそれと同時に
「マリアさん駄目です!」
「・・・離せ、クリフト!」
クリフトはマリアの背後から彼女を羽交い締めにして、飛び出そうとした彼女を無理矢理引き止めた。
「離せ、クリフト!邪魔だ!」
普段の彼女からは想像も出来ない、激しい叫び声。ライアンはアリーナを床に置くことが危険だと判断し、左腕で抱きかかえたまま剣を握り締め、二人の様子を視界にいれながらデスピサロを見ている。
「離しません!鎧も身につけず、戦うつもりですか!」
「うるさい、どけ!」
そのとき、マリアはクリフトの腕から逃れ、彼の腹部に肘鉄を食らわせて走り出した。クリフトはうめき声をあげてその場にうずくまる。
「死にに来たか、勇者が!」
「死ぬのは、お前だ!」
「笑止!」
その声と共に、デスピサロの手の平から巨大な気が発せられた。
柱の一部が砕け散り、その破片がマリアのからだを襲う。マリアはその場で上半身を丸め、盾を構えた。
「この顔を、覚えていないのか、だと?」
ばらばらと崩れ落ちる柱達の間から、デスピサロは一歩踏み出した。
「知らぬ、その顔なぞ。いちいち、すぐに死ぬ者達の顔を覚えているほどわたしは暇人ではない」
冷ややかなその言葉。マリアは盾と剣をもち直した。
「よくもそんなことを言う!覚悟しろ!」
「いけない、マリア殿!」
「マリア、さんっ・・・」
悲痛な叫びとうめき声を背に、マリアはデスピサロに向かって走り出そうとしたその時
「デスピサロ様、大変です!」
小柄な魔物が一体、その場に転がり込んで来た。
「どうした!」
「ロ、ロザリー様が、人間達の手に・・・!」
「何!?」
その言葉に、デスピサロはもとより、マリアの動きも止まる。
と、その背後につい今までうずくまっていたクリフトが顔をしかめながら近寄って囁く。
「お許しください、マリアさん」
「・・・!」
どん、とマリアのみぞおち付近に、クリフトの拳が入った。

次にマリアの目が覚めたのは、炭坑の隅だった。
アリーナが開けた穴から途中まで戻ったものの、さすがのライアンでも消耗が激しく一休みをすることになったのだ。
マリアの気がつく前にアリーナも目を覚ましたけれど、少し一休みするからもう少し寝ているといい、とライアンにいわれて素直に壁側をむいて丸くなって眠っている。いくら呪文で回復をしたって、それは一時的なもので体の奥の疲れがすべて癒えるわけではない。
防具をあまり身につけないアリーナにはかなり手痛い戦いだったのだろう。
ごつごつとした岩の上でも文句ひとついわずにアリーナは寝息を立てていた。
掠れた声でマリアは誰ともなく話し掛けた。
「聖職者は、あんなずるっこもするのね・・・」
「マリア殿、気付かれましたか」
ライアンは立ったままマリアを上から見下ろす。どうやらクリフトはそこにいないらしい。
「ライアン、デスピサロは」
「慌てて帰って行きました。ロザリーさんのところに行ったのではないでしょうかな」
「そうよね・・・」
ライアンはそれしか告げず、黙った。
マリアは横になったまま、ばつが悪そうに目を閉じる。
「呆れた?感情的になっていたわ、わたし」
「・・・ええ、あれはあなたらしくありませんでしたな・・・が・・・」
「うん」
「マリア殿は、勇者ではありますが・・・人間ですからそういうこともありましょう。けれど、二度目は許しませんぞ」
ライアンは決して笑顔は見せないし声音は厳しいものだったけれど、マリアを完全には否定しなかった。
マリアは小さい声で、ありがとう、とだけ答えて黙る。ライアンはそれへ返事もしないで、彼もまた壁に背をつけて座り込んだ。
「水、汲んできましたよ」
と、クリフトの声がした。マリアはそちらを向こうとしない。
「・・・マリアさん、水を一口飲んだ方がいいですよ」
そういって彼はマリアの顔がむいている側に膝をついた。マリアはおとなしく彼を見上げる。
「ありがとう。大層ひどいことするのね、あなたって」
「肘鉄を食らわされたお返しです」
「そういうこと、聖職者が言っていいわけ?」
「あまりよくないでしょうね」
マリアはクリフトが助け起こそうとする手を無視して自分で重い体を起こした。その手を無視されたことについては何も言わずにクリフトは水を入れて来た革袋を手渡す。
「ありがと。一口だけもらう」
「どうぞ」
わずかに唇と舌、喉を湿らす程度の水を摂取してからマリアは袋をクリフトに返した。気付けば脱いでいたはずの鎧を着ている。
座り込んだままでマリアはクリフトにも同じ質問をした。
「呆れた?わたしのこと」
「・・・呆れました」
「そう」
「どうしてそうご自分の命を粗末になさるのですか」
「クリフト。わたし、恐かったのよ」
マリアは地獄の帝王を倒した後にクリフトに告げた言葉をもう一度伝えた。
岩盤に背をもたれかけていたライアンはぴくりと反応をして、マリアとクリフトを見た。
「わたしたちがエスタークに立ち向かってあれだけ恐いと思ったように、シンシアやわたしの村の人達も恐かったのだと、本当に初めて知ったわ。今までだって恐いと思ったことはあったけれど、比べようもなかった」
「ええ。凄まじい相手でした」
「そうしたら、わたし、許せないと思ったの」
「何を・・・デスピサロを、ですか」
マリアはじっとクリフトを見て、それから泣き笑いの表情を作って首を横に数回ふった。その仕種は妙に投げやりで、クリフトは眉根を寄せる。
「それともご自分をまた」
「・・・どっちも正解じゃない、とは言わないけど・・・でも、やっぱりそのどっちでもないものを」
クリフトは必死に答えになる言葉を捜したけれど、ついに彼には見つけることができなかったように黙り込む。
ちら、とマリアは膝をついている彼の足元を見て、自分の血らしきものを吸って変色している布にそっと触れた。
「ごめんなさい、汚しちゃったわね。洗えば落ちるかしら?」
「え、あ、これくらい、どうということはありません」
「とってもいっぱい血が流れたんだものね、わたし」
「そうですね。でも、もう傷はすべてふさがっているでしょう?」
そんな会話をしながら、クリフトは妙に胸騒ぎを覚えて、瞬きをせずにマリアを見つめた。
「帝王を倒せるのは、天空の血をひく勇者だけ、ってデスピサロは言ってたわね」
「・・・はい」
「もし、本当にわたしの体にそんなものが流れているなら」
「・・・」
「なくなってしまえばいいのに。天空の血なんて」
「やはり、あなたはご自分を憎んで」
マリアはもう一度、ぶんぶん、と首を横にふった。
無理矢理振ったせいで、頭が痛いな、と彼女は思う。
「行かなくちゃ、天空に。お空には城があって、神さまが住んでいるんでしょう?」
もう、先ほどみせた激情はどこかにいってしまったかのように、マリアは立ちあがった。
「クリフト、汚しちゃって、ごめんなさい」
けれども、本当は。
その激情がまた彼女の中に封印されただけなのだ、ということをクリフトは知っている。
いつものように、また頑なに閉ざしてしまったその深い哀れな心の闇を想い、クリフトは心の中で神の名を呟いて、そっと印を指で切った。
それが、決して口に出してはいけない、マリアへの質問の答えだということに、本当は既に気付いていても。
それでもクリフトは黙って立ち上がり、自分の服が吸った、マリアの血を見るだけだった。


Fin

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モドル

ライアンがいてくれることでかなりこの二人は助かっていたのかもしれませんね。
散漫な思考の中で断続的にマリアが救いを求める声が、もっとクリフトに届きますように、と願います。