わたしが生きる世界


目覚めると、窓の外から鳥達のさえずりが聞こえてくる。
ベッドの上で上半身を起こして、少しの間マリアはぼうっとしていた。同室だったアリーナは、隣のベッドでまだ寝息を立てている。
マリアは、もともと朝は弱くはない。故郷の村にいた時は、朝早くに起きて、水汲みをしながら鍛えるのが日課だったほどだ。
ただ、最近なにやら、目覚めた直前どうしようもないことを考え、ぼんやりとしてしまう。
(また、当たり前の朝ね)
そして、当たり前の自分が、当たり前の一日を始める。そのことが、時々どうしようもなく不快に思えて、動き出すことが出来ない。
彼女はベッドの上にいるけれど「足が竦んでいる」ような状態だ。
夜、眠りに入る瞬間、マリアはほっとする。
眠っている間は、自分が「ここ」にいることを忘れられる。
そのことを彼女は間違いなく喜び、意識が遠のく瞬間に感じられる安堵は、なんともいえない極上のものだ。(実際は、体がくたくたになっていて、意識することなく眠りに入ることが多いのだが)
そして、目覚める前の僅かな夢の時間、彼女は「今、わたし夢を見ているんだわ」とどこかで冷めてぼんやりと思う。
そして、「この夢が終わったら、目覚めるのかしら」とすら思い、哀しむのだ。
眠っている間は当然ほとんど意識がない。けれど、その時間が至福の時であることは、彼女自身わかっていた。
(寝ている間は、この世界のことを忘れられるのに)
朝から小さく溜息をついて、寝癖のついた髪に触れてうんざりする。
ちょうどその時、隣のベッドのアリーナが寝返りを打ちながら、目を覚ます兆候を見せた。
「う……ん」
「アリーナ、朝よ。おはよう」
「お、はよぉ……」
マリアの物思いはそこで終わる。アリーナが、または、同室で宿に泊まる誰かが、また、一人部屋の時は外の喧騒が。
それらが、彼女をこの世界に呼び戻す。
(わたしが生きるべき場所のないこの世界。わたしが救わなくちゃいけないこの世界。うんざりだわ。わたし、この旅が終わったら、どうなっちゃうのかしら)
いつもいつも、そんなことを思う。
そして、その思いはいつも一人の男の顔を思い出させる。
(なるほど。世界を救った後、わたしに残されてるのは、あの男のことだけだものね)
では、その男との「用事」を済ませた後、自分はどうなるんだろう。マリアはぼんやりとそんなことを思いながらベッドから降りた。
寝巻きを脱ぐと、ちょうどアリーナも体を起こして、もぞもぞと動き出す。
「あー、よく寝たわ!マリアはどう?疲れ取れた?」
そのアリーナに返事をする前に、マリアは心の中で呟く。
(ほら。アリーナが、わたしを、引き戻してくれる)
「うん。全然昨日の疲れなんて残ってないわ」
(この、無意味な世界に)


一時的であれ進化の秘法を使ったピサロは、もとの体に戻ったように見えても、実はまったく元通りとは言えなかった。
進化の秘法によって異常な形態を持った体のあちこちは、予想以上に彼に大きな痛手を与えていたし、体の進化に合わせた魔法力の増幅は、もとの姿に戻った彼には大きな負荷がかかり、思うように制御が出来ない状態にすらさせていた。
エビルプリーストを倒すため、ピサロがマリア達と手を組んだのも、己の体に起きている異常を知ってのことだ。それらの完全な回復を待ちながら単身ロザリーを守り続けるよりも、完全な回復をしなくともマリア達の力で不足分を補えば、一日も早くエビルプリーストを葬ることが出来ると考えたのだろう。
それは、プライドがどうの、という問題ではなく、彼なりに効率を重視した結果に違いない。
とはいえ、マリア達の力はまだエビルプリーストを倒すには及ばず、ピサロの力の回復も及ばず、お互いもどかしさを抱えながらも力をつけることだけを日々考えていた。
「ピサロからしたって、ロザリーちゃん一人を守りながら回復するのも大変だもんねぇ」
とはマーニャの弁で、本人に言えば否定をするだろうが、多分それは真実だ。
いまやエビルプリーストはピサロの代わりに魔族を仕切っていたし、ロザリーヒルにロザリーを置いてきたとしても、彼女の身の安全は誰も保障してやくれない。
力が落ちている――といっても、マリア達からすれば、ピサロの力は十分すぎるほど強いのだが――ことはピサロ自身も痛感しているはずで、今の状態では魔物達もピサロを「以前のデスピサロ」と認めないだろうことは明白なのだし。
そういうわけで彼らは共に行動をするようになったのだが……。
「おい、神官、回復呪文の詠唱が遅すぎるぞ」
「えっ……あ、申し訳、ありません」
「唱えられれば良いというものではなかろうが。お前もだ、女」
「はあ?女って誰のこと?呪文唱える女性は一人でも二人でもないんですけどっ?」
ピサロは的確にマリア達にあれこれと意見を述べる。そのこと事態は悪くはないのだが、その歯に衣着せぬ物言いも良し悪しだ。
それでなくともピサロの立場は「今まで散々人を傷つけてきたくせに」と言われて当然のもので、彼に対して良い感情を持つことすら難しいというのに。
「もー!あったぁ来た!あの男!」
マリアと共に洞窟から出てきたマーニャは、トルネコと一緒にパトリシアの体を洗いながら待っていたミネアの顔を見た途端、悪態をついた。
「姉さん、コーミズ訛りが出てるわよ」
「あの男、ちょっとばかり顔がいいからって、なんなのよ!」
「……顔は気に入ってるのね?」
その日、マーニャとクリフトは呪文詠唱の遅さを二度も三度もピサロに指摘されていた。
確かに、ピサロの呪文詠唱の時間は短い。
それは魔族独特のスペリングで行っているからであり、人間よりもより自然に近い存在であるエルフともなれば、更に早い詠唱が出来るのだとブライが説明をしてくれた。
「でも、確かにブライのおじーちゃんは、一部の詠唱早いのよね。もごもご言ってるようにしか聞こえないんだけど」
とマーニャが言えば、一緒に洞窟から出てきたクリフトが説明をする。
「そこが、ブライ様が大魔法使いと呼ばれる所以で……ブライ様はエルフなどと同じ特殊なスペリングを習得しているので、特定の条件が揃った時に短い言葉で詠唱出来るんです」
「ああ、だから、早い時とそうじゃない時があんのね。ムラがあるなーって思ってたんだけど、そんなカラクリがあったの」
ふと見れば、ピサロは迎えに出たロザリーと何かを話している。マリアはアリーナとブライに今日の修行の成果を話しているようだ。
「でも、さすがにマリアの詠唱のことは怒らないのよね」
「ああ……勇者の呪文については、ピサロさんも判断出来ないのでしょうね」
「ってことよね」
とはいえ、マリアがまったくピサロから怒声やら罵声を受けないわけではない。いや、むしろ多い。
戦闘中に僅かでも指示が遅れた時は、戦闘が終わった後に即座に「ぼんやりするな」と言われてしまうし、マリアの指示が的確でなければ即座に冷たい言葉で反論をする。
時々それが行き過ぎているように感じて、仲間たちはマリアを庇う。しかし、マリアは「いいの。大丈夫」の一点張りで、ピサロへの苛立ちを表面には出さなかった。
仲間達はそんなマリアを労わり、その我慢と努力を高く評価していたが、マリア自身の思いは、まったく彼らが想像もつかないところにあった。


(今日は、逆手で剣を振るった時の、体のブレを指摘された。ライアンにも随分前に言われて直したつもりだったけど、やっぱりたまに悪い癖が出る)
マリアは、月の明るい夜に散歩をして、一人で月を見ていることが多い。
今日一日のこと、明日のこと、これまでのこと、これからのこと。
それらを、月を見ながらぼんやりと考えるのが、夜の習慣だった。
しかし、ピサロと共に旅をするようになってから、月を見上げながら彼女が考えることは変わっていった。
(それから、昨日は盾を両手で持った時の姿勢が高いと言われた。あと、クリフトのスクルトの詠唱の時間を、体感でまだわかってないことも)
月灯りの下、マリアは夜のエンドールの町を歩いていた。石畳の町並みのそこここに、小さな石造りのベンチが置いてある。その中でも特にひっそりとした場所にあるベンチに腰を下ろす。
「皮肉ね」
ぽつりと漏れる本音。
(ピサロが、わたしを育ててくれるなんて)
ピサロがマリア達を利用してエビルプリーストを早く倒そうとしているように、一見マリア達もピサロという戦力を利用しているように見えるに違いない。
けれど、マリアにとってはそれだけではない。
彼女は、仲間達以上に厳しい視点で戦闘の立ち回りを見ているピサロからの言葉で、自分の力が伸びていくことを実感していた。けれど、それをそうとはすぐに悟られないように、わざと簡単には直さないふりをしている。それは、あまりにもそれがあからさまになれば、ピサロが逆に何も言わなくなるのでは、という危惧があるからだ。
(今のわたしの力では、まだピサロを倒せない)
だから。
ピサロがいる間は、誰よりも厳しいあの男の叱咤を受けながら、戦う術を今以上に身につけて。
いつか、あの男を、倒さなければいけない。その強い思い。
故郷の村を出たあの運命の日から、ずっとずっと狂おしいほどに願っていた、マリアの本当の目標がそこにはあった。そして、それを為すにはまだ自らの力は足りず、自分ののびしろを感じつつももどかしい毎日を送っていた。
そこに、これほど的確なアドバイザーが現れたのだ。
だから、ピサロからのありとあらゆる痛い言葉も受け入れられる。そして、ピサロの弱い部分も間近で知ることが出来る。こんな好機があっていいものだろうか、とすら思えた。
(ピサロは、確かに詠唱は早い。でも、人型の魔物と戦って剣を受ける時に、癖がある。知ってるけど、教えてなんてやらない)
息を吐きながらマリアは頭を後ろに倒すように、空を見上げた。
空に上っている月は半月で、おもしろいほどにそれは「半分」に見える。
(わたしのことは、絶対半分しか見せない。悟られない。うまくやってみせる)
戦いの時に既に直っている癖はあった。けれど、それを知られないように、ピサロの前では出来るだけ、それが見えてしまうような戦い方をしないように努めている。そんな駆け引きがあることなぞ、多分誰も気付いていないだろう。逆を言えば、それほど器用なことを出来るくらいに、マリアが強くなっている、ということなのだが。
(それから、ピサロだって本当は盾を使うのがそんなに上手くはないの。多分あの人、昔は攻撃型だったんでしょうね。力が戻れば、もしかしたら盾を捨てて、二刀流になるのかもしれない)
彼のほんの僅かな癖を見逃さないように。
けれども、見ていることを悟られないように。
神経を張り詰めて、マリアはいつも「彼を見る」ことに凄まじく集中をしている自分を知っている。
人の力量を測るときの初歩の観察方法は、ライアンに以前教わっていた。ライアンはきっと今まで数え切れないほどの後輩王宮騎士を見て来たに違いない。
でも、肩を並べて戦いながら、これほどの強者の粗探しをすることはなかったんじゃないか、とマリアは思う。そして、それを毎日毎日繰り返し、毎日毎日悟られぬようにと祈っている自分は、病的なのかもしれない、とも思う。
多分、ロザリーの倍、いや、それ以上に、自分はピサロを見て、ピサロの細かな動きを知って、彼に関する情報を蓄積することに力を注いでいるのだろう。
(そういえば。ロザリーはいつもピサロの右側にいる。それは、ピサロが左手を開けたいからか、それとも、なんとなくそう習慣づいたのか、どっちかなんだろうな)
ふと思い出してしまったことを、マリアは後悔した。ピサロの傍らでいつも笑みを絶やさない、可愛らしく、どこか儚げで、とてもとても優しいエルフのことを。
「どうして」
マリアは瞳を閉じて、いっそう体を丸めた。
どうして、あの男の隣には、ロザリーがいるの。
繰り返される疑問。
(それは、わたし達がロザリーを生き返らせたから)
では、どうして、生き返らせたのか。
(デスピサロを止めると、ロザリーと約束したから。そして、止めるためには、ロザリーが必要だったから)
そして、マリアは勇者と呼ばれる存在で、世界を救うために今ここにいるから。
そんな馬鹿げた話を何度も何度も自分で確認しなければ、時々憎しみでどうにもならなくなってしまう。
マリアの故郷の村を滅ぼしたのは、ピサロだ。
愛していた人々を全て奪ったのは、ピサロだ。
なのに、ピサロが愛しているロザリーをもう一度彼の元に戻したのは、ほかならぬマリアだったのだ。
そして、悲しいことに、マリアはロザリーのことを嫌いではないのだ。いっそのことロザリーのことを憎めれば、嫌いになることが出来れば、どれほど楽かと思ったこともあった。
(そうしたら、エビルプリーストを倒した後に)
マリアは身震いをした。
思っている以上に今晩は気温が下がっているようだ。
肌に痛みを感じるほどの夜風に負け、宿に戻ろうとベンチから腰を浮かせた。空を見上げれば、雲が風に流されて月の姿を消そうとしているところだ。
(どんな罪を負っても、ロザリーを殺して、あの男を同じめにあわせてやるのに。蘇生魔法で生き返らないように、原型を留めないほどに消してやることも今なら出来るのに)
けれど、そんなことを出来ないと、マリアは自分を知っている。
尻についた汚れを払いながら、彼女は深い溜息をついた。情けない。どうしてこんなことを考えてしまうのだろうか。
歪んでいる自覚はある。でも、どうしようもないではないか。
朝、目覚めて一日が始まる。朝食の席には、ずっとずっと憎んでいた相手が、大切にしている女性を傍らに置いている姿が見える。
故郷の村を滅ぼしたことについて真っ向から非難しても、彼は気にした風もなく「あの時のわたしにとっては最良の選択だった」などという。挙句には「お前の弱さだろう。その者達を助けられなかったのは」と、最もマリアが苦痛に思っていることをずばりと言い当てる。
わたしは一体、誰のためにこの世界を守るんだろう。
この世界は、誰のためにあるんだろう。
そんな疑問がぽっかりと頭に浮かぶ瞬間がある。けれど、そこで仲間達が、マリアをそんな物思いから引き戻すように呼んでくれるのだ。
それが、ありがたくもあり、迷惑でもあっても、マリアは平静を装うしかない。
マリアは宿に戻るため、歩き出した。
既に頭上にあった月は姿を消しており、厚い雲がどれほど流れてもその姿を垣間見せることはなかった。


宿屋に戻ると、会いたくない人物が宿屋のおかみと話をしているところに出くわした。もちろん、その人物とは、ピサロだ。
しまった、と思う反面、そのめずらしい光景に驚く。
(ピサロは、人と話をしないのに)
「どうしたの、何かあったの?」
ピサロを心配してではなく、宿屋のおかみを心配して、マリアは声をかけた。ピサロはじろりとマリアを睨んだだけで、何も答えない。
「お客さんも、もしかして毛布を取りにきたのかい?」
「え?わたし?いえ、別に……」
「なんだか今晩は冷えてきただろ?どの部屋のお客さんも、毛布の追加を頼みに来てさ……ほんとにお客さんはいらないんだね?この人の分で最後なんだけど」
そういいながらおかみはピサロに毛布を「どっこらしょ」と渡した。
「お前は、毛布はいらぬのか」
「えーっと……今帰ってきたばかりだから、部屋が寒いかどうかよくわからないんだけど」
「他の連中も取りに来ていた。お前の部屋は角部屋だったな?」
「……!」
マリアは驚きで目を見開いた。
ピサロが、もしかして、自分を心配しているのだろうか。
それに、今晩マリアが寝泊りする部屋を、この男が覚えているなんて、それも信じられない。
と、ピサロは手にした毛布をマリアに投げつけた。
「えっ」
「それは、わたしの分ではない。ロザリーの分だ」
「じゃあ、ロザリーに」
「別に良い。もし毛布がなければ、共に眠ろうと思っていたのだし」
そう言うと、ピサロはあっさりと背を向けて歩き出した。マリアは投げられた毛布が床につきそうで、慌ててそれを引き上げて腕でくるくると巻いて持ち直す。
「ピサロ」
名前を呼んでも、ピサロは振り返らない。大きな歩幅で階段まで歩いていき、既に彼は客室のある二階に登って行くところだった。
マリアは慌ててその背を追いかけた。
「ピサロ、ありがとう」
その声に、彼は振り向かなかった。


(もし毛布がなければ、共に眠ろうと思っていた……か)
マリアは毛布をもって部屋に入った。いつもは複数人で一部屋に泊まるのだが、たまたま今日は一人用の角部屋が空いていた。
角部屋は冷える。だから必要だろう。ピサロはそう思ってマリアに毛布をよこしたに違いない。
簡素なベッドに毛布を投げ、マリアは寝巻きに着替えた。
「うー」
確かに、寒い。
室内に風が吹くはずもないのだが、角部屋で窓の数が他の部屋より多いせいか、やたら空気を冷たく感じる。
もともと用意されていた毛布と、ピサロから受け取った毛布。それを重ねて、マリアはもぐりこんだ。
(きっと、今頃二人でいちゃいちゃしてんでしょうね)
寒い夜は身を寄せ合って、幸せな恋人同士は眠るのだろう。
自分が救おうとしている世界は、幸せな彼らのための世界であって、自分のための世界ではない、とマリアは思わずにはいられない。
(どうして、わたしから全部奪ったあの男が)
そう後悔することを知りながら、自分はロザリーを生き返らせたのだ。わかっている。
それでも、せめて「愛しい者を失った痛み」を知ったピサロが、マリアに対して謝罪の一つでもするのではないかと、多少の期待だってなかったわけでもない。
それがどうだ。あの男はロザリーを生き返らせたことへの感謝は述べたけれど、それ以外は。
「寒い」
毛布の中で、マリアは声を出した。
言葉と共に吐き出された息もが冷たく、更に身震いをした。それから、体を丸めて瞳を閉じる。
早く。早く、この世界から、離れなくちゃ。
たとえ、逃げている間の意識がなくとも、一瞬でいいから、ここからいなくなりたい。
マリアは、眠りにつくまでぐるぐると、同じことばかりを考え続けた。


「角度が直ったな」
ある日、魔物との戦いの直後、ピサロはマリアにだけ聞こえるように、すれ違いざまに、ぼそりと囁いた。
聡い彼女は、彼のその言葉が何を指しているのか、即座に理解する。
(しまったな)
それは、随分と前にピサロに指摘されていた、剣を横に振るう時の肘の角度の話だ。マリアは、小柄な体型に似合わぬ大剣を一時期振るっていたため、横になぎ払う時に不必要に下からひっぱりあげるような角度に肘が曲がっていた。そのことを彼は素早く見抜いていた。
とはいえ、実戦でその状態になることはそう多くもなかったし、ライアンですらマリアのその様子を確認したことはなかったに違いない。
(相変わらず、よく見てるのね。ピサロ)
癖が直ったことは、本当は隠したい。けれど、人間というものは単純なもので、努力を気付いてもらえたことに対しては、どうしても嬉しい気持ちが浮かび上がってくる。
ライアンに指摘されても嬉しい。アリーナにも、ブライにも、いや、仲間の誰に、悪い癖が直ったことを指摘されたって嬉しい。
けれど、ピサロに言われることは、そのどれとも違う感情が湧きあがってくる。そのことをマリアは体感していた。
(厳しければ厳しいほど、褒められるのは嬉しいものね)
冷静にそう分析し、当たり前のことと受け止めるように努めた。
ふと気を緩めると、故郷の村で幼い頃から剣を教えてくれた、優しくて厳しい人の面影を思い出して、泣きそうになる。
(こんな形で、思い出すのは、先生に失礼だ)
「マリアー!何ぼっ立ってるの!いくわよー!」
「あ、うん。今行く!」
寸でのところで、焦れたマーニャが声をかけてくれた。マリアはそれで我に帰ると、慌てて仲間達のもとへ走っていく。
「いけない、いけない」
声に出して、自分を叱責する。
考えなくてはいけないことは、そんなことじゃあない。
自分の悪い癖が直ったことを、ピサロにバレてしまった。いや、逆を言えば、バレてしまうほどにピサロもまたマリアをよく見ているということだろう。
(同じ理由かしらね)
いつか殺す相手だから?
いつか、自分を殺しに来る相手だから?
マリアは自嘲気味に、口元を緩めた。


ピサロの力は徐々に回復に向かっていたが、未だ完全ではなかった。それを補うためにマリア達も強くなる必要があった。
進化の秘法を使ったエビルプリーストが完成型になるまでは、もう少しばかり時間がかかるとピサロは言うが、残された時間がいかほどなのか具体的にはわからない。
その日も、月が明るい夜だった。エンドールの宿屋で同室のアリーナが昼間の疲れで早々に眠ってしまい、マリアは所在なく窓辺で空を見上げていた。
三日月の形は、綺麗だと思う。
本当は丸いのに、何かに圧迫されるように姿を細くしか見せられないその形は、研ぎ澄まされた鋭利な刃のようで美しい。
そんなことを思っていた時だった。
ぞくん。
室内着に包まれた体に、鳥肌がたった。
「何……これ」
知っている感覚。
マリアは壁に立てかけておいた剣を手にして、室内着のまま部屋の外へそっと出た。
勇者の魔法であるギガデインを撃とうと練習をしていた時、予想以上に強く膨らんだ力に、自分で一度圧倒された。その時の感触に似ていると思う。
どこかで、誰かが、ギガデインを?いや、ギガデインのはずがない。
マリアは宿屋から出て、自分の感覚を頼りにぐるりと宿屋の裏へと小走りで向かった。
と、宿屋の裏には、予想外の人物が立っていた。彼は、マリアの足音に既に気付いていたようで、マリアが角を曲がった時には既に、こちらを睨んでいた。
「……何をしに来た」
「ピサロ?」
薄暗い闇夜の中でも見間違うことのない、長い銀髪に、エルフと似た特徴的な耳。そして、一見冷たく見える赤い瞳。マリアはそれらをまっすぐに見つめながら近づいた。
「何をしに来た。そんな無防備な恰好で」
「あなたこそ……何をしてたの?」
「夜風に当たりたくなっただけだ」
そう言い捨てると、ピサロはマリアの横を通り過ぎて立ち去ろうとした。マリアは、慌てて呼び止めようとした。
「雷撃の、魔法を、練習してたの?」
ぴくり、とピサロが反応する。僅かに驚きの色を浮かべながら、彼はマリアを振り返った。
「何故そう思う」
「……まだギガデインを使えなかった時に、試しに撃とうとしたことがあったの。その時感じた……自分の力に相応ではない、雷撃の力が集まってくる妙な感覚を……この辺りに感じて、やってきたの」
マリアはそう言ってピサロを見つめた。
「ギガデインではない。それは、お前だけの魔法だろう」
「そ、れはそうだけど」
そのピサロの言い方から推測すれば、半分は当たっているということなのだろう。ピサロは、何か、雷撃の魔法を練習していたというのだろうか?
「勘違いするな。練習なぞわたしがするわけがなかろう」
「でも」
「もう、とっくに唱えられる状態になっている」
「え」
「お前には、隠しておこうと思っていたが……迂闊だったな。どこまで制御出来るか少し試そうとしただけで、お前が出てくるとは」
そう言うと、ピサロは意地悪そうな表情で口端をあげて笑みを作った。その自嘲気味の笑みを見て、マリアは眉根を寄せる。
「お互い様だろう。本当の力を見せ合わないのは」
「!」
「お前が、そうしたがっていたからだ。だから、わたしも付き合ってやっているのだが?」
マリアは唇を軽く噛み締めた。
どうやら、ピサロはマリアの思いなぞ、全てお見通しだったようだ。そのことに苛立ちを感じて、マリアの体温は上がった。
「さすが、魔王さまは、よくわかっていらっしゃるわね」
「わたしの目は節穴ではないぞ」
マリアは小さく舌打ちをした。それは、故郷の村でみなから怒られていた癖で、この旅の間は姿を潜めていた癖だった。
「よく、見てるじゃない。わたしのことを」
そんな、どうしようもない皮肉を言うしか、マリアは言葉を思いつかなかった。
それ以外、肯定も否定も無意味だろうし、苛立ちで声をあげても何をしても、目の前の男はきっと気にもしないに違いない。
ところが、マリアのその言葉を聞いたピサロは、不快そうに眉間に皺を寄せ、言葉を返さなかった。
ピサロからの返事がなければ、マリアも特にそれ以上彼に言うべき言葉を探せない。
二人は、短い間ではあったが、まっすぐにお互いを見詰め合った。そして、突然マリアは気付いてしまった。
「……!」
わたしを見ていることを、わたしが気付かないと思っていたの?
それとも。
わたしを見ていることを。
あなたは、自分で、気付いてなかったの?
「……っ!」
マリアは、ピサロからの返事を何も聞かぬまま、突然背を向けて走り出した。ピサロは、それを追わない。
ばくん、ばくん、とマリアの鼓動が高鳴る。
(わたしは、ピサロを見ていた)
それは、意識してのことだったし、自分でよくわかっている。
それに、ピサロがマリアを見ていることだって、数々のピサロからの指摘でよくわかっていたはずだ。
(なのに)
ピサロは。
わたしを見ている、自分を知らない。
(違う)
今まで、「気付いていなかった」のだ。
(それを、わたしが教えてしまった。そのうえ……)
マリアは無我夢中で宿屋の入り口に回り、素早く中に入った。宿屋の一階には酒場があり、地下のカジノに行く客も、酒を楽しむ客も、夜を楽しもうと大勢いた。怪しまれないようにとマリアは平静を装い、呼吸を整えながら部屋に戻った。
一刻も早く扉を閉めたい気持ちと、眠っているアリーナを起こさないようにと思う気持ちがまじりあって、扉を閉めようとする手が震えた。
アリーナを気遣いながらそっと靴を脱いだが、そのままベッドには上がらず、裸足のまま窓辺に近づいた。
まだ、鼓動は高鳴ったままだ。
(ピサロは、わたしを見ていた。それは、間違いない)
そうでなければ、あんなに細かい指摘を出来るとは思えない。呪文の詠唱の速度を指摘するより、剣を振るった時の特定の形への指摘が、どれほど難しいのかはマリアもよくわかっている。だから、ピサロが自分を見ていることは、知っていた。いや、知っているつもりだった。
しかし、本当にマリアが驚いたのは、別のことだった。
(わたし、あんなにピサロのことを見ていたのに)
なのに、一度足りと。
ぴくり、とマリアの眉が動く。
(わたしの方を見ていたピサロを、見たことがない……!)
それがどういうことなのか、彼女は考えた。考えないようにと走ってきたのに、窓辺を照らす月明かりを見た瞬間、抑えきれない涙が突然瞳に湧きあがってくる。
彼を見ている自分を知られないように。
ひっそりと、けれども確実に、彼だけに集中していた。いつでも、どこでも。
では、何故「自分を見ている彼」を見たことがなかったのだろうか?
答えは簡単だ。
彼もまた。
(それは、私の視線を知っていたから?それとも)
ひっそりと、息を潜めて。誰にも知られないように。
きっと。
(わたしを、見ていたのね、ピサロ)
アリーナの寝息だけが静かに響く室内。
床にぺたりと座り込んで、剥き出しになっている膝を見つめる。月明かりが彼女の少しだけ陽に焼けた肌を照らし出す。
本当はお互いに気付かないはずがない、とマリアは思う。自分はそこまで鈍い方ではないし、ピサロだってそのはずだ。どれほど気をつけても、お互いの視線をお互いに気付かないなんてことは、普通に考えたら有り得ない。有り得ないのに、それは間違いなく二人の間に存在した事実だ。
悟られないように、ひっそりと。息を潜めて、強過ぎて外に迸りそうな感情を殺して。けれど、その行為はどれほどに自分を狂わせていたことだろうか。
(悟られないように、と思っていたのは、ピサロに対して?)
初めて生まれたその疑問を自分に投げかけ、マリアは顔をあげた。窓の外の月は僅かに先程よりも傾き、落ちていきそうに見える。
瞳を閉じると、目蓋の奥に焼きついているピサロの姿が見える。
それがあまりに鮮明であることにマリアは驚き、恐れた。
隣に眠っているアリーナは?マーニャは?ミネアは?他の仲間達は?別れてしまったホフマンは?失った村のみんなは?シンシアは?
誰の姿を思い出そうとしても、どこかしら輪郭がぼんやりとしているような気がする。
なのに、ピサロの姿だけは。
(違う、さっき、会ったばかりだからよ。さっき、ピサロを見たばかりだからっ……)
細く尖った三日月ですら、煌々と光を放り、まるで烙印を押すようにマリアの膝を、膝に置いた手を照らし出す。
もしも、わたしが、ピサロを好きだとしたら。
ゆっくりとマリアは立ち上がり、窓辺に寄った。
この世界は、一体、何故ここにあって。
何故わたしはここにいなければいけないの。
「……いらない」
こんな世界は、いらない。
殺したい相手を、こんな風に思わずにはいられない情けないわたしと、そんなわたしが救うこの世界。
けれども、他の人達にとっては大切な世界。
悲しいことに、マリアには既に予感があった。遠からず、自分にとってこの世界の意味が更に変わるということを。
そして、月が海に映るリバーサイドのとある夜。
彼らの関係は、致命的に大きく動き出したのだ。


自分でもひた隠しにしていたその感情に気付いたのが、本当は彼が先だったのか自分が先だったのか今となっては曖昧で、そしてそれを確かめることは無意味だった。
あのエンドールの夜から一体何日過ぎていたのか、マリアは数えてはいなかった。
マリアがはっきり覚えているのは、リバーサイドの海に映って揺れる月の姿。それは、随分あの夜に比べて丸くなっており、日数の経過を彼女に告げる役目を持っているようだった。
それから。
海辺に座り込んで膝を抱えている彼女のもとに、足音をほとんど立てずに傍らに寄ってきた人影。
「どうしたの?」とか、「眠れないの?」とか。
何もマリアは言うことが出来ず、ちらりと視界に彼の姿を入れた後は、ただ海に映る月を見続けるだけだった。
そして、彼も無言で、彼女の傍らに立ったまま空の月を見ていた。
しばしの沈黙の後に彼から放たれた言葉は、残酷で、しかし彼らの関係を端的に表すものだった。
「旅が終われば、お前はわたしを殺そうとするのだろうな」
潮の匂いがする風が緩やかに吹き、肌を僅かにべたつかせる。それが不快だ、なんて無理矢理マリアは考えた。
そうでなければ、苦しすぎたからだ。
そうよ、と答えたらどんな顔をするだろう。
いいえ、と答えたらどんな顔をするだろう。
どちらを選んでも、自分は自分を苛むし、そんな問いをした彼を恨むだろう、とマリアは思った。
口を開けば恨み言や繰言が飛び出してしまいそうだ。
それから。
彼を思ってしまっている、自分の心の内とか。
マリアの無言をどう捉えたのか、彼はゆっくりと膝を折ってマリアの隣に座った。
彼が自分からそこまでマリアの傍に来ることは、稀だった。しかし、マリアは驚かず、隣から伸びてきた彼の手を受け入れた。頬に触れたその手に抗わず、ゆっくりとマリアはピサロを見た。
「お前と本気で戦えば、今はわたしの方に分があるな」
それをマリアは否定をしなかった。
彼の手が想像以上に温かいことに驚き、そしてやるせない問い掛けがマリアの心の中で生まれた。
どうして、今更。
そう。
どうして、今更、わたしに触れるの。
もっと早く触れてくれたら、あなたを憎んだままでいられたのに。
「まだ、わたしに剣を向けるな」
そう言って、彼――ピサロ――は、マリアに口付けた。そして、マリアはそれを拒まなかった。舌を絡ませれば、やはり思いの他彼のそれは熱く、不思議な気持ちになる。
(体温も何もかも、冷たいと思ってたのに)
多分、あの夜から、いつかこうなるんじゃないかと思っていた。そして、それを恐れていた。
マリアは初めから、ピサロを目で追っていた。それを誰にも知られないように、と隠したいはっきりとした理由も初めからあった。
いつからその理由が変わったのかは、マリアにもわからない。彼からの視線の意味を気付いた瞬間からか、その前からだったのか。それは、誰も知ることが出来ないものだろう。
ただ、狂おしいほどの胸の痛みだけがそこにあって。
(世界を救って、この旅が終わったら。わたしは、この男に剣を向けて、村のみんなの仇をとらなくちゃいけない)
それだけが、彼女が「この世界でやりたいこと」だ。他には何一つ残ってやしない。
あの運命の日、ピサロはマリアから全てを奪っていった。旅を終えてもマリアは戻る場所もなければ、彼女の帰りを待っている人間も、共に生きる人間だってどこにもいやしない。
どれほど旅を共にしていた仲間達を好いていても、彼らには戻るべき場所があり、そして誰もがそこに帰る事を当然だと思ってる。
そんな彼らと自分は、同じ地を踏んでいるような気がしない。
けれど。
目の前にいる、彼女から全てを奪った男は、その存在すべてで今度は彼女に「この世界にいる意味」を与えてくれているのかもしれない。
剣を向けて、マリアが勝てば、またこの世界は彼女にとって無意味になる。マリアが負ければ、この世界から去ることが出来る。
時々、本当に自分はピサロに勝ちたいのか、マリアにはわからなくなる。それは、そのどうしようもない結末を思ってのことだ。
(この男が、わたしを世界に繋ぎ止めてくれる。でも、それは必要なの?わたしは、この男によって生かされているの?)
ピサロへの憎しみのため、突然叫び出して、目の前の彼の腕を切り落としたくなるような、そんな激情。その己の行き場のない思いには自覚があった。他者に対するそれほどの大きな感情は、些細なきっかけでその行くべき先を、辿るべき道を捻じ曲げられ、更に歪んでいくのかもしれない。マリアはそんなことを思いながら、口付けから逃げるように体を引いた。
「安心して頂戴。どんなに強くなっても、一撃では終わらせないであげるわ。楽しみたいんでしょう?」
ピサロは、マリアをまっすぐ見て、口端を歪めた。
「おもしろい。大層なことを言う。一撃では終わらせないであげる、か。それは楽しみだ」
そして、ピサロはもう一度マリアに口付けた。


自分が守るこの世界は誰のためのものなのか、と、マリアはずっとうらやんできた。
ピサロとロザリーのように、仲睦まじい恋人同士が幸せに暮らせる、そんな平和な世界で自分がどうやって生きればいいのかわからなくて。
なのに。
マリアにとってのこの世界は、ピサロの存在によって意味があるものへと形を変えようとしていた。
殺したいという憎しみとか。もっと触れて欲しいと思う情けない気持ちとか。
彼女が持つそれらの思いは、たくさんの色を纏いながら間違いなくピサロに向かっている。
何故戦っているのか、何故世界を救おうとしているのか、と問われれば、即答で「勇者だからよ」とマリアは答えるだろう。それは、本当はマリアの本意ではない。そうであって欲しいと、故郷の人々が思っていただけだ。けれど、彼女は彼らのその思いを無下にせずに生きることに決めた。だから、まだ戦っているのだ。
では、何故生きているのか、と問われれば。
自分は、「ピサロがいるから」と答えるのかもしれない……そう思えば、自嘲気味な笑みが浮かんでくる。
月の夜の逢瀬。何をするでもなく、ただ二人でニ、三言会話を交わし、そして、何かの儀式のようにピサロはマリアに口付けをする。
ただ、それだけのことを、月明りはいつも照らし出していた。
「そっか」
長い口付けの後、突然思いついたようにマリアは呟く。
この世界がなくなったら、ピサロを憎むことも、こうやって口付けされることもなくなるのだ、とマリアは思う。それは、ピサロを倒した後の世界でも、マリアが死んだ後でも、同じではないか。
「何だ」
「なんでもない」
(そしたら。ピサロを倒したら、わたしは生きていなくてもいいのかしら。それなら、話は簡単ね。この男を殺しても殺せなくても、無意味な場所にいる必要はなくなるんだもの)
自分の行く末が何をしても同じなのかと思えば、こうやってピサロの傍にいて口付けを受けても、時折言葉もなく身を寄せても、それはロザリーに対しての背徳でもなんでもないようにすら思えてしまう。
マリアは小さく笑い声を漏らした。
「悔しいな」
「何をさっきから言っているのだ」
「もし、わたしがピサロを倒すほど強くなれなくて、ピサロに殺されても」
その言葉に驚いたように、ピサロは軽く瞳を見開いた。それは、なかなかお目にかかることが出来ない、珍しい表情だ。
「ピサロは、きっと、生きていくんだもの」
「人に話すなら、もう少しわかるように話せ」
「嫌。教えない」
囁くように告げ、マリアはピサロの銀髪を引っ張った。彼は面倒くさそうにマリアの顔に高さを合わせるよう前かがみになる。
ロザリーが死んで、人間を憎んだピサロは進化の秘法を使った。ピサロでありながらピサロではないものとなったあの時、ある意味では彼は死んだようなものだ。だけど。
「ピサロって、泣くことあるの」
マリアに強請られて顔を近づけようとした途端に質問され、気分を害したようにピサロは眉根を寄せた。
「つまらない質問をする」
「わたしが死んでも、泣かないんでしょうね」
「役に立たぬうちに死ねば、何度でも生き返らせてやる。お前はお前の役割があるだろう」
「あら。でも、蘇生呪文は、生きる意志があった死者にしか効かないでしょう」
そのマリアの言葉に、ピサロは失笑を向けた。
「死にたいのか」
端的な問いかけに、マリアは端的に答えた。
「違う。でも、生きたくもない」
その答えに、ピサロは理由を聞こうとはしない。それがとても彼らしいことを、マリアはもう知っている。
「お前は、抜け殻のようだな。どこに中身を失ったやら」
「知ってるでしょ」
あの日、あの場所で、デスピサロの手で全てを失ったと同時に。
それが、マリアの答えだ。
ピサロはマリアに覆い被さるように、深く唇を重ねてきた。
ロザリーが生きている限り、彼にとっては、この世界にいる理由が在り続けるのだろう……。マリアは瞳を閉じて、彼の口付けを受けながらそんなことを考えていた。
そして、彼らが共に生きていれば、また他の生きる意味を手に入れるかもしれない。それは、自分にはこの先手に入れられないものなのに、彼にはまだ可能性があるのだろうと思う。
(そして、この男が生きる意味は、わたしの存在ではないのだ)
マリアはその事実を静かに受け止め、ピサロの首に腕を回した。そして、ピサロの唇が離れる瞬間、僅かに追いかけるように彼の下唇を啄ばむ。
彼女の初めてのその行為にピサロは顔をしかめ、耳元から落ちてくる自らの銀髪を手でかきあげた。
「……気が、向いたのか」
「うん。気が向いたの」
そのままマリアはピサロの腕の中に体を預けた。
既に慣れてしまった、その大きな体に包まれる安心感が、仮初のものだとマリアはいつだって忘れやしない。
「おい」
「何」
「もう一度、お前から、してみろ」
見上げれば、ピサロは別段おもしろくもなさそうな顔でマリアを見下ろしている。
きっと、もう一度ロザリーが死ねば、この男はほんの少しかもしれないけど、涙を流すだろう、とマリアは思う。
(重ねた口づけの数ぐらい、わたしのために泣いてくれるのだろうか。いや、きっと、この男は泣かない)
それが、わたしが生きている世界なのだ。
マリアは、体を伸ばしてピサロの首筋に唇で挟み込み、軽く歯をたてた。思いがけない場所に与えられた痛い口付けも、ピサロは静かに受け入れるだけだった。


END



モドル