月の欠片――空に生きる者たち(3)――


本当は、自分が寝泊りしている部屋に連れて行ってもいいのだけれど、それが出来ないから、と。
そう言ってマリアは天空城を出た。
門兵らしき者達は2人をじろじろと見たが、軽くマリアが手を振って挨拶をすると、幾分その視線も緩和されたように感じる。
マリアは天空城の側面に回り込むと、とっとっと、と一人で城から離れて雲の上を歩いて行く。
「ねぇ、雲の上、歩いてみた?」
「あまり……キメラの翼で来てすぐに入ったものだから」
「不思議なのよ。マスタードラゴンの力でね、こんな、なんていうの。目で見えてるだけの気体っていうか、あるけどないようなものなのに、地面みたいな感触で歩けるの」
笑いながらマリアは、ぞんざいに自分のサンダルを脱いで雲の上に放りだした。
確かに彼女が言うように、彼女が足をついたところの『白い雲に見える場所』は、散るわけでもなく、何かに圧迫されているようにも見えない。
まるで透明な見えない板がその上に貼られているようだ。
「ガラスでもないのよ。なんか、さらっさらなの」
ピサロナイトは彼女の後をついて行くように数歩前に進んだ。
彼は兜以外は身につけているため、彼女のように裸足になろうとは思わなかったが、『ガラスではない』感触はそれでも十分に伝わる。
「えーと。ここ」
目印を見つけるように、振り返って天空城を見て何かの目測をした。
まだ足もとの雲は続いていたが、がらんとした場所にマリアは座り込む。
話をするにしても、何もないその空間は落ち着かないものだ。その所在なさに、ピサロナイトはわずかに口をへの字に曲げた。
こんな開放感のある場所にいるのは、正直久しぶりのこと。
なんとなく彼はそれに嫌悪感を抱き、それ以上彼女に近づかず、天空城から数歩歩いたところで立ち止まっていた。
「ピサロナイト!」
「……なんだ」
「天空城から少し離れた方が体楽になるよ。ここが、境目なの」
そう言ってマリアはピサロナイトを手招きする。
「境目?」
意味がわからない。
彼女のその言葉にいくらか興味を惹かれて、ピサロナイトは近づいて行った。
「そう。えーと。ここ、ここ」
「……?」
横に来たピサロナイトの腕を、突然マリアは掴んだ。
「何をすっ……」
「掴んでないと危ないから」
「危ない?」
「いち、にぃ、さん、し、ご」
その場から五歩進み、マリアはそうっともう一歩足を踏み出そうとした。それから、爪先を下につけた瞬間、それをひっこめる。
「ここから先は、本物の雲に突っ込むから。落ちたら死ぬよ」
「!」
「裸足だと、わかりやすいのよね。足もとが冷たくなってくるから。あ、大丈夫よ。誰か、触れてる人がこっち側にいれば、落ちないから。一人だと落ちるらしいけど」
ピサロナイトはおそるおそる、という体で、マリアがやったように足を踏み出す。
と、確かに、今もう片方の軸足が残っている高さに足をおろしても、そこには床らしきものが存在しない。
更にゆっくり足を下せば、金属で覆われていても感じられるほどの気温差を体感出来た。
が、それとは別に、彼には感じられたことがある。
確かに、天空城から離れてた方が、体が楽なのだ。
「こっち側は、マスタードラゴンの力の影響を受けないからね。だから、この辺りで話そう。今日は上にある雲も多いから、外にいるのも過ごしやすいわ」
「ずいぶん詳しいんだな」
「ここでは、やることがないからね。たった数日で、嫌ってほど色んな事知ったし、その前にも何度かはマスタードラゴンに用があって来てたから」
そう言ってマリアは肩をすくめて見せると、ピサロナイトの腕を放す。
再び5、6歩戻ってから腰を下した。
「雲の上は、ふかふかしてないのよねぇ。なんとなく、そうじゃないかなーって思ってたけど、知らない方が良かった」
そのマリアの言葉に、わずかにピサロナイトの口端が緩んだ。
雲の上はふかふか。
一度は地上の誰もが思ったことがあるに違いない。
それは、ピサロナイトも例外ではなかったからだ。
鎧の音を立てながら、ピサロナイトもマリアの近くに腰を下した。


「先ほど、一人の天空人の部屋にいたのだが、あのようにみな一室ずつ与えられているのか」
「一人ずつの人も確かにいるわね。でも、その居住区は、天空城に縁のある人しか入れないから。わたしが今日働いてきたのも、同じような場所よ。外から来た者達に見える天空城は、僅かな一角に過ぎないの。雲の上にあるってだけでみんな圧倒されるけど、見えている部分は一部なんですって」
「ふむ……」
「大体の天空人達は数人で一室が与えられているみたい」
「お前も、他の天空人と混じって寝泊りしているのか」
「わたしは、まだマスタードラゴンに認められていないから、客室みたいに一室で」
「そうなのか」
「でも、その居住区で暮らしているから、あなたを連れて行くことは出来ないっていうわけ」
「だろうな。天空人やエルフ達は、ここで一日何をやっているんだ?」
「特別なことはしてないみたいよ。普通の生活。朝起きて、午前と午後で労働当番が決まっているから、どちらかは働いて、どちらかは自由。自由な時間は、わたしは図書室にいったりしてるけど、みんなで踊ったり歌ったりしてる人たちも多いわね」
「何故、踊りや歌を?」
「踊るのが好きだからよ」
「……」
ピサロナイトは、マリアの答えに呆れた。
一日のうち、半日が自由な時間。
その間に何をやっているかといえば、歌ったり踊ったり。そんなことをしている者達の気が知れない、と思う。
「天空人の踊りはいいんだけど、エルフの踊りは気をつけないといけないんですって。見ていると引き込まれて、気づくと年をとってるなんてこともあるって聞いた。余程の阿呆なのか、余程の威力なのね。ロザリーは、踊りは好きなのかしら」
マリアの問いに、ピサロナイトは『わからない』と答えようとして、唇を引き結んだ。
自分はロザリーのことを本当はあまりよく知らないのだろう。
今まで感じたことがないその気持ちは、マリアが現れたことでピサロナイトの中に生まれたものだ。
近くで護衛をしている自分は、ロザリーのことを知ることが役割ではない。
けれども、マリアはピサロやロザリーと寝食を共にし、今ではピサロナイトよりも余程彼らのことに詳しいような気がする。
それをうらやんだり妬んだりするのは、自分の立場ではあり得ない。
あり得ないことだが、わずかながらに嫉妬に似た気持ちが彼の胸の奥底にあるのは事実だ。
「で、なんだって?」
「地上に、戻ってもらえないだろうか」
「……それは、ピサロがそう言ったの?」
「そうだ」
「それが、あなたの今日の任務?」
「ああ」
「……随分、勝手なのね、あなたって」
「仕方あるまい。事情が変わったのだ」
「仕方ない、で済むんだったら、事情が変わった、で済むんだったら、なんでも通るわ」
マリアはそう言いながら、天空城よりも更に高い空を見上げた。
「わたしが地上に戻ったら、ピサロは会いに来るつもりなのかしらね?連れて来いって言う命令じゃなかったんだったら、あいつが来るんじゃない?」
「それは、わからぬ」
「会ったら、わたしはピサロを殺すわ。それでも、わたしを地上に戻そうとするわけ?」
「ピサロ様がそれを望まれているならば」
「じゃあ、わたしがピサロを殺してもいいっていうことな……」
「そうではない」
ピサロナイトはきっぱりとマリアの言葉を遮った。
「ピサロ様は、お前になど、負けぬ。仮にそのようなことが二度と起きれば、どのようなお咎めがあろうと、その前にわたしがお前を倒すだろう」
マリアは視線をピサロナイトに移した。
静かに、まっすぐ。
その視線の意味をピサロナイトは理解出来なかったが、彼もまた視線をそらさずに真っ向から受け止める。
やがて、マリアは伏せ目がちに肩を竦めながら言う。
「例えば、ピサロがわたしに会いに来るとしたら、それは止めないの?」
「……ピサロ様がそうしたいとおっしゃるのならば」
「じゃあ」
顔をあげたマリアは、ピサロナイトを軽く睨みつけた。
「もう一度聞くわ。ピサロがわたしに会いに来るとしたら。そうしたら、わたしがどうなるんだとあなたは思うの」
もう一度?
そんな質問は、今が初めてだ。
ピサロナイトはそう言おうとして、その言葉をはっと呑みこんだ。
ばらばらの内容に聞こえる彼女の問いは、すべてひとつに繋がっている。
それは。
「あなたが言っていることは」
「……」
「あなたかピサロがわたしを殺すから、地上に降りて来いって言っているようなものよ。あなたがどう思っているかはわからないけれど、わたしがピサロに剣を向けさえすれば、あいつは『ちゃんと』わたしを殺そうとしてくれるの。だから、そういうことなのよ」
「ピサロ様がお前を殺そうとしているのかどうかは、わからぬ」
「殺そうとしてなくたって、あいつに会ったらわたしはあいつを殺すのよ?」
静かな声音。
ピサロナイトは眉根を寄せた。
彼女のその言葉は、まるで彼女が自分自身に言い聞かせているかのように、彼には思えたのだ。
「何故、ピサロ様を殺そうとする」
「村のみんなの仇だもの。当たり前じゃない。何今更そんなこと聞くの」
「それは、どうしてもしなければいけないことなのか。そんなことを今更してどうなる」
「たとえ、誰に言われたとしても、あなたやピサロには言われたくないわね。それは」
マリアは、ピサロナイトを見なかった。
その瞳は何もない、空という名の空間を見つめているようでもあり、何も見ていないようにもピサロナイトには思える。
「わたしには」
「何」
「お前が固執しているのは、仇討ちではないように思える」
「わたしは何にも固執なんてしてないよ。ただ、その場が与えられればやらなくちゃいけないことは決まってる。自分からその場を作ろうとしないだけだわ。固執しているのはピサロの方じゃない?」
そのマリアの言葉に、ピサロナイトはいささか納得せざるを得なかった。
彼は、彼の主がこんな形でマリアに対しての執着があることを不思議に思っていたし、今でもその執着のありどころ、意味合いがまったく理解出来ないまま。
だが、少なくとも執着されている側のマリアもそれの答えにはたどり着いていないようだったし、彼女はピサロの手を逃れるために『その場』に自らを置かないようにとしてきた。
それを、台無しにしようとしているのはピサロだ。
ピサロは、マリアが言うような『その場』を作りたいのだろうか。
いや、それもよくわからない。
ならば、彼女を地上に引き戻すだけでは不十分だ。
この先、主が『その場』を作り出す可能性があるとして。そこにもしも自分がいられなかったら。
それならば、むしろ彼女をピサロの元に連れて行って『その場』を自分の前で引き起こせば良いのではないか。
ふとそのようなことを思わなかったわけでもない。
(それは、勝手なひとりよがりだ。ピサロ様の本意を無視している。けれど)
主を護るが自分の役目と思えば、それもありなのか。
ピサロナイトは、自分が本当にしなければいけないことが何なのか、何かを見違えてないだろうか、と一瞬不安にかられた。
黙るマリア。
そして、黙るピサロナイト。
村を見てきた。墓の周りの花を見てきた。
それを、言っても良いのだろうか、とピサロナイトは悩んだ。
いくばくかは感じているのだ、と。
マリアがここに来るために、それなりの覚悟をしてやってきていることを、この目で見て実感してきたのだと。
それでも尚、地上に戻れと頼むのだと。
(だが、それもまたこちらの都合)
情にこちらが訴えようとするならば、むしろ、こちらが情に訴えられて折れるべきだ。
その程度のことはピサロナイトにはわかっている。
だから、彼は言葉を飲み込んだ。そうすれば、驚くほど自分は彼女を説得する言葉もなく、ひたすらに頼みこむ以外に何の駆け引きも出来ないのだと気付く。
それは、来る前からわかっていたはずだ。しかし、これほどまでに自分が無力だとは、予想以上だ、と彼は落胆した。
と、その時。
「む?」
雲の上のせいか、なんとなく空気が湿っている、とピサロナイト先ほどから感じていた。
それが、雲の上にいるせいではなく、雨雲の下にいるからだったのだとようやく彼は知った。
ぽつん、ぽつん、と落ちてくる水滴。それが、ざぁっと大降りになったのは、あっという間の出来事だった。
「ここでも、雨が降るのか」
「うわ、なんか、上の方に雲が多いと思ったのよね!」
マリアはそう言って立ち上がる。
ピサロナイトも慌ててそれにならい、二人は仕方ないとばかりに天空城の方へと戻った。
「おい、靴」
戻る途中でピサロナイトは、マリアが途中で投げ捨てたサンダルがそのままになっていることに気付いて声をかけた。が、マリアは
「いいのよ」
と軽く返事をして、そちらすら見ない。
天空城の側面はいくらか雨宿りが出来るぐらいのひさしがある。それはとても短く、腰かけて足を出せばすぐに足先が濡れてしまう程度。
とはいえ、たったそれだけのものでも、とりあえずで入る今の彼らにとっては十分だった。
「はぁー、一気に来たわね」
「雨は、ここにも降るのか」
二度目の問いかけに、ようやくマリアは答える。
「天空城の外も快適にするのに、上に雲がある方がいいんですって。稀に、風に流されてきた大きな雨雲が通過するって言ってたわ。私たちが思っているよりも、天空城は地上に近いらしくてね。まあ、考えれば天空人が自分の翼で地上と行き来するんだから、高すぎたら大変よね」
「確かに」
マリアは、ピサロナイトをちらりと見ると、あはは、と小さく笑い声をあげた。
「なんだ」
「髪」
「?」
「濡れると、ちょっと、若っ……ぐっ、ははは!」
「笑うようなことか!」
兜をかぶっていれば、こんなことにはならなかった。
そう言いたげにピサロナイトは苛立ってマリアを睨み、前髪をかきあげながら買い言葉を放つ。
「お前のほうが、別人のようだろうが。人を笑えるか」
一方のマリアは、いつものくせ毛が雨にいくらか濡れて輪郭に張り付いている。
改めて見ると、いつもはくせ毛で髪が上にも横にも広がっているため気付かなかったが、普段の印象よりも小柄に見える、とピサロナイトは思った。。
「よく言われる。アネイルで温泉入った後、アリーナったら目の前にわたしがいるのに、マリアがいない、って探しに行っちゃったなぁ……あ、アリーナってのは、サントハイムのお姫様なんだけどね」
そこまで口にして、ふとマリアの表情が曇る。
彼女の心に何が翳りを落としたのか、ピサロナイトにはわからない。
「戻って、拭いてくれば良い」
「そこまでするほど、しなくちゃいけない話はまだあるの?」
「……ない、な。堂々巡りとはこのことだ」
「何一つあなたには取引材料がないんだもの。仕方ないわ。わたしはピサロと違って、あなたに何か頼むこともないし、ロザリーのように守ってもらうことだってないし、それに、あなたに同情して聞き入れてあげるほどあなたと仲良くもないんだもの」
「取引材料」
「取引は、相手を知らなければ取引できないものでしょ。でも、わたしは別にあなたにわたしのことを知って欲しいわけじゃないし」
そう言ってマリアは背中を丸めて自分の足先を覗きこんだ。
ぽつん、と雨粒がひさしをつたって、マリアの頬に落ちてくる。
雨は降り続き、天空城に落ちてくる。
地上で耳にする音といくらか違うな、とピサロナイトは思う。
彼らが『立っていられる』場所を、雨はすり抜けずにじわりじわりと地面のように吸収していく。
まるで、次は自分がその雨を降らせるかのように、天空城の雲の中へと吸い込まれていくようだ。
その速度は地面のそれと同じようで、あちらこちらに水たまりが出来ていく。それを見た彼は、足もとがまったく傾斜も凹凸もない平面ではないことに初めて気づいた。
「……」
降り続ける雨を見つめながら、しばしの無言。
ピサロナイトは、困惑していた。
以前の彼であれば、彼女の腕を掴んでそのままキメラの翼を使って地上に無理やり戻したことだろう。
これ以上の面倒は御免だ、とデスパレスに行き、ピサロの命令とは幾分違うものの、とにかくピサロの前に彼女を連れて行く。
そのためには、もっと用意周到に天空城に来る必要があった。
けれども、悩んだ末、結局彼はそうはしなかった。
第一、今彼はマスタードラゴンに『許された』からこうやって天空にいられるからであり、マスタードラゴンの意向に背けば、先ほどのように体全体は重くなり、ひとつの自由も与えられなくなるに違いない。
それに、たとえそうではなくとも。
彼は自分の任務がピサロの怒りと共に課せられたものである自覚はあったが、だからといって力づくでことを起こせば同じことを繰り返すとも気づいていた。
だから、ひとまず、と思って所在を確認しに来た。それで、今日は良いだろうと自分に言い聞かせた。
今度の彼女は、この天空城を最後の逃げ場としているだけで、ピサロナイトが追ってきたからといって、逃げ隠れるわけではない。
それがわかっていれば、どうにかなる、と彼は思っていた。
とはいえ。
こうやって話をすればするほど、彼は自分の『どうにかなる』が、実は『どうにもならない』ことを痛感するしかなく、力づく以外の解決策が見えてこない。
それに、マリアを怒らせることに、彼はいくらかの抵抗を覚えるようにもなっていた。
マリアを憐れんでいるわけではない。
ただ、彼女を怒らせてしまったら、感情に任せて何をするのかわからない、と彼は学んだのだ。
彼らが抱えている問題は、ピサロナイトがどれだけ時間をかけて接してもわからないことだらけで、入り組んでいる。
ピサロがマリアを殺そうとすれば、ロザリーは悲しむだろう。
しかし、マリアは自分はピサロを殺すという。
マリアがピサロを殺してもロザリーは悲しむに違いない。
何度考えても、これは動かない関係だ。
かといって、代わりに自分がマリアを殺せば、それはピサロにとっては本意ではないのだろう。
三人が共に地上にあって、ピサロとマリアが顔を合わせなければそれが一番良いのかもしれない。
が、それがそもそも叶わぬことで、発端はピサロがマリアを呼び出そうとしたことから始まっている。
(今のままで、良いではないか。この女が天空にいて、いざとなれば会いに来ることも出来て)
頭ではそう思える。
が、彼女が天空に身を置くことが、どれだけ辛いことなのかとロザリーは思いを馳せていた。
その『辛い』は、ピサロナイトには未だよくわからない。
こうやって話していても、そんな辛さを彼女は垣間見せないし、既に十分慣れているようにすら見えるのだし。
(自分は、何をどうしようというのか)
ピサロナイトは小さくため息をついた。繰り返される『どうしたら良いのか』は、何度考えようと完璧な答えを導き出さない。
何をどうするか。そんなことは本当は決まっている。
彼女を地上に連れ戻す。それ以外のことを考える必要はないのだ。ピサロの命に従うのが、己の役目。
なのに。
何故。

ぱしゃん。

隣に座っていたマリアが、雨の中突然歩きだした。
落していたサンダルを拾い、それから、天空城の様子をみながらゆっくりと、また床の端を足で探るように進んでいく。
「ねえ、この縁から水が散って、真っ白な煙みたいになって行くわよ」
明るい声。
ピサロナイトは雨に濡れるのが面倒だ、と思いつつ、再び兜を置いたままで腰をあげて歩き出した。
普段目にすることが出来ないその現象が気になったのは確かだ。
わざわざ彼女に付き合おうと思ったわけではない。
マリアは膝をついて、雲の中を覗き込むように見ていた。が、あまりに冷たいため、顔を近づけるのもわずかな間のようだ。
ピサロナイトも膝をつき、マリアが促すように覗きこんだ。
それまで、見えなかった境目が肉眼ではっきりと見える。
マスタードラゴンによって作られているらしい、目に見えない床から零れた雨は、雲の一部になるためか、冷気をまとって白い煙のような帯を一瞬作りながら視界から消えていく。
どういう原理、あるいは、マスタードラゴンが作り上げた仕組みなのかはわからないが、それは不思議な光景で、周囲を見渡してみればうっすらと『境目』にぼんやりとした霧に似たものが立ち上がっている。
「本当だな。不思議な光景だ」
「こんなの、見たの初めてよ。ヒャド系の魔法の様子とも、ちょっと違うわよね」
そう言って、雲の中を覗き込むように下を見続けるマリア。
そうやっている間も二人は雨に濡れ続けていたが、そんなことよりも、初めて見たその光景に、ピサロナイトも『天空』という場所の神秘的な力を感じ、驚きを隠すことが出来ない。
「雨が一瞬で」
雲になっていくようだ、と続けようとして、ピサロナイトははっと言葉を飲み込んだ。
隣にいるマリアは雨に降られたまま頭を垂れ、わずかに肩を震わせている。
(泣いているのか)
それがどうしてかは、ピサロナイトにはわからない。
が、少なくとも。
彼女とピサロに関係すること、あるいは、彼女と、あの村に住んでいた人々とのこと。
それらのことが原因ではないかと、彼はぼんやりと思った。
「……馬鹿馬鹿しいわ」
「?」
「勇者だとか言われて、世界を救って。こんなやって、初めてのものを一緒に見て話をしてるのが、村の誰でもなく、一緒に旅をした仲間でもなく、あなただなんて、馬鹿馬鹿しい」
「……」
「ロザリーのことを引き合いに出して、ピサロを殺しに行かない自分のことも馬鹿馬鹿しいわ!右腕が痺れたって、あいつのこと、わたし殺せるのよ。でも殺しに行かないの。自分から。それがどうしてなのか、あいつはわかっててわたしのことを呼ぶんだわ!」
ピサロナイトは眉根を潜めた。
天空人の服は雨に濡れ彼女の体に張り付き、いつも活発そうにあちらこちらへくるくると巻いている緑の髪も濡れ、そこにいる彼女は驚くほど普通の、ただの少女に見える。
その彼女が、吠えている、とピサロナイトは思った。
「わからせたつもりだったのに!わたしは、本気でお前を殺すんだって。どんな気持ちであの日、あいつがわたしに会いに来たのかなんて、これっぽっちも考えてなんかあげないって」
「勇者マリア」
「あいつは軽装だったわ。わたしの力を軽んじながらわたしを殺しに来たふりをしてくれたのは、わたしがあいつを殺そうとしていたからよ。そうじゃなかったら、どうなっていたのよ。旅も終わって、あいつはわたしに会う理由なんてないのよ。なのに……本当に、あいつ、来たのよ。一緒に、月を、見るためだけに!馬鹿じゃないの。あいつが一緒に月を見る相手は、ロザリーであるべきなのに」
雨の続く中。
ピサロナイトは、四つん這いになっているマリアを静かに、見降ろすだけだった。
 
 
それから、半刻後。
「濡れたままで、申し訳ない」
ピサロナイトは、濡れたまま天空城内を歩き、床を濡らしながらマスタードラゴンの部屋に戻ってきた。
通路で天空人達は彼を見てひそひそと囁きあっていたが、誰ひとり彼にタオルを差し出す者はいなかったのだ。
室内の絨毯を濡らすのはどうかと躊躇して立ち止まると、マスタードラゴンがおおらかに声をかける。
「いや、良い。何の問題もない。マリアはタオルひとつも与えなかったのか」
「彼女は、自室に戻るのが精いっぱいのようだったので。天空の境目に長くい過ぎて、体が冷えきってしまったようだ」
「そうか」
ピサロナイトがさらりと『天空の境目』と表現しても、マスタードラゴンは気にも止めない。
どこまでこの竜は見えているのか、とピサロナイトは思ったが、口には出さなかった。
「更に、申し訳ないのだが」
「うむ?」
「もう一度、この地に足を運ぶことをお許しいただきたい。彼女と、また話をしたい」
「強引に連れ戻すことは、せぬか」
「それをすれば、とんでもないことになりそうで。そもそも、それをやろうとすれば、わたしの自由は奪われるに違いないし」
そのピサロナイトの言葉に、マスタードラゴンはぐるる、と喉を鳴らすような音をたてた。
「それを理解してもらえてよかった」
「……その、とんでもないことは、あなたでは防げないことなのだろうか」
「人の感情を起点にして起きる事象は、時には誰も止めることが出来ぬもの。お前の主がそれを証明しかけたではないか。ああ、お前は死んでいたか」
「ああ、だが、話は一通り聞いているので、いわんとすることは理解していると思う」
「それを助けられる、止められることが出来るものは、その者の心の中に圧倒的にいる者しかいないものだ。だが、マリアの場合はそれを奪ったのがお前の主であり、そのことがことの発端なのだから、後は本人の意識が変わるのを待つしかない。お前の主のように世界を滅ぼす、などといったたわ言を言うわけでもなし、残された時間が短いわけでもない。マリアの意識が変わる以外、お前にもお前の主にも、成す術はなかろう。待つが良い。まあ、お前の主は待てないかもしれないが、お前の主が痺れを切らしてここに来ても、わたしは許さぬぞ」
最後の一言で、ピサロナイトは背筋が凍りつく感触に襲われた。
声音は変わらず、音量をあげるわけでも、威嚇もない。けれども、ここで『許された』自分のことと、天空に来ることを拒むピサロの様子を思えば、そちらの方が余程とんでもないことになるのではないかと、ピサロナイトは敏感に感じ取ったのだ。
勇者マリアと戦う前に、マスタードラゴンと戦うことになりかねない。それは、彼としては避けたいと思えることだった。
「こちらの勝手ばかりで、その、申し訳ないとは思っている。許可をいただき、ありがたく思う」
「良い。どうせ、マリアもいくらか暇をもてあましているだろうし。ああ、次に来るときも、今日と同じぐらいの時刻に来るが良い」
わかった、と答えようとして、ピサロナイトはふと今日のことを思い出し、発言を変えた。
「それでは、勇者マリアの労働中になるのでは」
「また、あの部屋にいる天空人と話をしながら待っていればよい。わけあって、他の天空人と話を出来ぬ、哀れな者だ」
哀れな者。
裁く側が使う表現ではないような気がするな、と、マスタードラゴンの言葉に違和感を感じるピサロナイト。
「罪人であると、聞いた」
「うむ。許されるには、もう少し時間が必要な罪人だ」
「それは……あなたが許すには、ということか?天空に住んでいる者達が、という意味だろうか」
「天空における約束事として、だ。地上と天空はまったく別のものではない。地上の王であっても、その権力を振りかざし、特例ばかりを作っては民に反感を持たれることだろう。お前の主はそういうことを考えながら魔族を統べようとはしていないのだろうな。己が力を思いあがるからこそ、エビルプリーストのようなものが欺こうとするのだ。人間は、それが恐ろしいことだと知っている。優れた王であればあるほど、己の権力を振りかざすことなく事を運ぶものだ。わたしはこの天空、いや、世界において無二の存在ではあるが、だからといって天空人達をねじ伏せたいわけではない。約束事に準拠出来るものであれば、それをするに越したことはない。だから、あの罪人が許されるにはもう少し時間が必要であるし、彼女にとってもその方が良いのだ。今は」
そのマスタードラゴンの言葉を聞いて、ピサロナイトは唇を引き結んだ。
それから、少し考えながら、けれどもはっきりとした言葉で反論をする。
「ピサロ様の統治と、人間の一国の主の統治は、別のもの。魔の者達は国という概念を持たず、生きるためのテリトリーがあるものの、領地という概念もない。その魔族全てを統治することは、あなたが言うものとは勝手が違う。それを、土地に縛られて区分けされた一部の人間共を統治し、それゆえ複数の国の同じ立場の王達と協定を結んだりして己の国を保とうとする、そのような存在と混同されていただいては困る。わが主はそれを成すことが出来る器の持ち主であるし、そのために己が力を誇示することは、我らの観念からは当然のものだ」
マスタードラゴンはピサロナイトの言葉にまったく怒ることもなく最後まで聞き、ふふ、と小さく笑った――ように、ピサロナイトには思えた――。
「お前はまっすぐな忠義の者のようだな。お前の言い分はもっともだ。だが、そもそもそのような統治が、魔の者として最良なのかは誰もわかり得ないだろうな」
「それは……確かにそうかもしれぬが……」
「たまには、魔族の言葉に耳を傾けるのもおもしろいものだ。次回も、マリアに会う前にここに来るが良い。天空城からの退出は、今日のように挨拶はいらぬ」
「承知した」
マスタードラゴンのその言葉が、もう今日の話は終わりだと告げていることを、ピサロナイトは理解した。
そのような婉曲した物言いは、いくらか彼の主であるピサロに似ていたからだ。
退出の挨拶として頭を下げてから、ピサロナイトはマスタードラゴンに背を向けて扉に向かった。
一歩、二歩。
扉の前でぴたりと止まると、ピサロナイトは振り向いてもう一度、この城の主に声をかける。
「マスタードラゴン」
「なんだ」
「わたしは、何か、勇者マリアと取引が出来ないだろうか」
「……取引、とは?」
「彼女からは、かたくなに拒まれてしまっている。わたしはその牙城を崩すための手段を何も持たない。足しげく通うことで情に訴えたいわけではない。シンプルに、取引材料があることが、我々にとっては好ましいのではないかと思うのだけれど」
マスタードラゴンは、ぐるる、と喉を鳴らした。
それから、尻尾をゆっくりと床の上に這わせて揺らす。それは、何事かを考えている風情をピサロナイトに伝えた。
「説得というものは」
少しだけ首を前に倒して、ピサロナイトを見つめながら話しかけるマスタードラゴン。
「説得される側のことを考えて、考えて、考え抜けば、おのずと見えるものだ。お前がそこまで辿り着いているようにはまったく思えぬ」
「それは……わたしに、そこまで辿り着いて、勇者マリアがこの地から去るほうが良いと、あなたが考えているということか」
「そうではない。そこまでお前が辿り着いて提示して尚、彼女がここに留まるといえば、わたしはお前が来ることを二度と許さぬだろう。今は、まだその時ではない。あれは、未だに心が揺れている」
未だに心が揺れている。
マスタードラゴンのその発言に、ピサロナイトは一筋の光明を見出した気持ちになった。
ピサロナイトは改めて、深くマスタードラゴンに頭を下げる。
このように頭を下げたことが己の主に知られれば罵られるかもしれぬ、と内心では思ってはいたが、それでも頭を下げるべき時であると彼は判断したのだ。
「感謝します。たとえ、あなたからの助言が、わたしを助けるためのものではなく……わたしからのアプローチによって彼女の心を決めさせようという思いから来たものであっても、今のわたしにはあなたの言葉が必要だったようだ」
「うむ。行くが良い」
「それでは、また」
もう、振り返る必要はない。
ピサロナイトはマスタードラゴンの部屋から出て、一目散に天空城の外へと向かうのだった。


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