月の欠片――空に生きる者たち(4)――

ピサロナイトは、己が主からの命をどうにもやり遂げることが出来ないまま、天空城を後にして地上に降りた。
彼がやるべきこと、出来ることは、天空には今はないと思われからだ。
次に彼は、ひとまずロザリーヒルに戻ろうと決めた。
天空でマリアがどう暮らしていたのかを、ちらりとでもロザリーに話してあげたらどうか、と考えたのだ。
もちろん、理由はそれだけではない。
彼が天空に行く前に、ロザリーはピサロの元に行くと言い張り、大層彼を困らせた。
彼女をなんとか押しとどめたと思ったら、次はピサロの方がロザリーに会いに行くとも言っていたし、自分がいない間に何か事が動いたのは明白だ。
(ピサロ様は、わたしが地上に戻ったことはわかっているだろう。それでも呼び出されないのは、ピサロ様にとってはわたしに話すほどのことがなかったということだ)
けれども、それはロザリーにとってはどうか。
逆に、ピサロナイト自身にとってはどうか。
それはピサロが量ることではない。
ピサロナイトはいささかの緊張と共にロザリーヒルに戻り、まずはロザリーに会わなければ、と足早になっていた。
(わたしは、マスタードラゴンが言うように、勇者マリアとの間に取引材料がない。それをロザリー様に少しでもヒントをいただければ)
それは希望的観測と言える。が、今の彼にはそれすらすがらなければ、展望がないのだ。
ピサロナイトは、ロザリーが住んでいる塔の薄暗い階段を昇り、彼女の部屋に向かった。
(今更なことだが……ここは、静かだ)
ロザリーヒルの町はそれなりに活気があるし、塔の一部である教会も、人や獣が出入りしている。
けれど、ロザリーが住んでいるこの一角は。
(今までは、それが何の問題もないと思えていたのだが)
人が住む場所が、こんなに静かで良いものなのだろうか。
ふとピサロナイトはそんなことを感じる。それは、今までに一度足りと気にしたことがなかった感情だ。
通路の先に見えるのは、ロザリーの部屋の扉。
その奥に彼女がいるのはわかっているが、あまりにも静かで。
(こんな、静かなところにロザリー様は一人でいつも)
ピサロナイトは己の思いを振り払うように、呼吸を整えた。
どうも最近の自分はおかしい、と彼にはいくらかの自覚がある。
ピサロに命じられて勇者マリアを探すため、数多くの町を渡り歩いたからか。
人が多い町の喧騒は好きではない。けれども、人が居住する場所と言うものは、少なからず複数の者達が住まい、生活の音をそこかしこで立てているものだと今更ながら彼は認識をした。
それが、ここはどうだ。
静まり返った塔の中、ロザリーはひそやかに、まるで息を潜めるように静かにピサロを待ち続けて。
それが悪いことだと決め付けるわけではない。ただ、『これで、良いのだろうか』という思いが彼の中に生まれたことは事実。
(あの、山奥の廃墟も、人が住まう場所ではなくなっていた)
マリアを探して訪れた、彼女の村。いや、村だった場所。
そこにも、人々の生活の音などあろうはずもなかった。
それを思えば、行き先が天空であることは置いたとしても、彼女があの場所から離れることはむしろ当然のことではないかとピサロナイトは思う。
彼は、軽く二回扉をノックして、声をかけた。
「ロザリー様、ピサロナイトです。只今戻りました」
扉越しに伝わる室内の様子に、いくらか彼は神経を向けた。
ロザリーはベッドの上にいたのか、ぎしりとベットのきしむ音が彼の耳にかすかに聞こえる。ほんのその程度の音だけを、彼の耳は拾う。
彼の聴力は人間のそれよりも大分良かったけれど、ここで室内の音に対して耳を澄ませることはほとんどなかった。ロザリーに対してそれが失礼な行為であると彼は思っているからだ。
ほどなくして、扉が僅かに開く。小さな隙間を見て、ピサロナイトは兜の中で眉根を潜めた。
彼とロザリーを繋ぐその空間が『僅か』であることは、彼にとっての異変だ。
「ロザリー様?」
「お帰りなさい、ナイトさん……」
「お、お休みでしたか?」
眠っていたところを起してしまったのだろうか、とピサロナイトは慌てた。
扉の細い空間からそっと顔をのぞかせたロザリーは、うつむきがちだ。
「……!」
ここ最近見た事はなかったけれど、昔は何度か見たことがあるその様子に、ピサロナイトは察した。
「泣いて、おられたのですか。一体……」
「ごめんなさい。ほんの少しだけ。ナイトさん、マリアさんにお会いになったのですか?」
「はい……その……彼女の様子を、ロザリー様にお教えしようと思って来たのですが……」
それどころではなさそうだ、とピサロナイトは言葉を濁した。
が、ロザリーは彼の言葉を聞くと、目を軽くこすって扉を大きく開けた。
「ロザリー様?」
「ナイトさん、マリアさんに会って来たのですね?その後、ピサロ様のもとへは?」
「いえ、まだ。任務を遂行できておりませんし、経過報告を出来る段階には来ておりませぬので」
「そうですか。ピサロ様も、そうなるのではないかと予想していたようで」
「え?」
泣き笑いの表情を向けるロザリー。
「伝言を預かっています。どうぞ、中にお入りになって。マリアさんのことも、お伺いしたいわ」
そう言ってロザリーが無理に作る笑みは、ピサロナイトには痛々しく映る。
「しかし……」
ピサロナイトは、言葉を詰まらせた。
今のこんな状況で、ロザリーにあれこれを話をしても大丈夫なのだろうか、また、彼女の口から何かを語らせることは悪いことではないのか。
彼の躊躇はそういう意味だ。
しかし、ロザリーは彼の心情を察してか、『大丈夫です』と前置きをして言葉を続ける。
「ピサロ様は、わたしがナイトさんに協力することを、咎めませんでした。でも、わたしとピサロ様の間に、どんな話があったのかは……わたし、まだ、どこまでナイトさんに話して良いのかわからないので……だから、あまり、詳しく聞かないでいただけると嬉しいのだけれど」
「それは……もちろんです。わたしごときが、ロザリー様とピサロ様の間で交わされた話を聞こうなぞ、それほどのおこがましさは……」
「でも、少しだけ、話させて欲しいんです。誰かに話すことで……心が落ち着くというか……ぐちゃぐちゃになっているものを、整理出来る気がするので付き合っていただいてもいいでしょうか」
ロザリーのその申し出に、ピサロナイトは言葉を失った。
未だかつて、このような形でロザリーが彼に気弱な我侭を言ったことがあっただろうか。
(本来、それはピサロ様の役目のように思えるのだが)
しかし、今の元凶はきっとピサロなのだ。それと、マリアと。
であれば、他に話相手のいないロザリーが、ピサロナイトに協力を求めるのかおかしくない。そもそも、勇者マリアに関することを今までにだって何度も話をしているのだろうし。
「わたしで、お役に立てるなら」
生真面目にピサロナイトが答えた時、室内でごそごそと音がする。
どうやら眠っていた子猫とスライムが起き出したようだ。
(確かに、こんな同居人では、何を相談することも出来ぬだろう)
ピサロナイトはそう思いつつ、ロザリーに言われるまま室内に足を踏み入れた。
(それに、わたしもまたロザリー様に話をすることで、何らかの展望を与えていただけることを期待しているのだし)
お互い様だ、と彼は思う。
だが、それと同時に再び浮かび上がってきたのは、勇者マリアのこと。
彼女はどうなのだろうか?共に旅をした仲間から離れ、逃げるように様々な町を移り住んで。
何か相談できる相手なぞ、いないに決まっている。
(それは、ピサロ様も同じ。孤高の者同士ということだろうか)
「ナイトさん、お座りになってください」
「は、失礼いたします」
言われるがまま椅子に座りながらピサロナイトはマリアのことを考え、『そうではない』と結論を出した。
己が主ピサロが、勇者マリアと同じ立場のわけがない。
ピサロは何もかもを一人で決める強さを持ち合わせているが、勇者マリアは。
何かを決めることを恐れ、逃げて逃げて、どうしようもなくなって天空に身を寄せた節がないわけではない。
ピサロならば、そのような後ろ向きの選択肢を選ばないだろうし、選んで尚も惑い続けることもなかろう。
ピサロナイトはマスタードラゴンの言葉を思い出す。
 
――下らぬ逃げ道としてこの地を選ばれるのは、この地を司るわたしや、ここを一生の住まいとしている天空人達にとっては不本意。最後の逃げ場だとか、いつでも受け入れる地だとか、嫌っていても都合が良いだとか、そんな思いで来られても、そこに住む者としては甚だ迷惑というもの――
 
 
――地上を捨てる覚悟というものは、天空に生きる覚悟とは違う。その覚悟が彼女に出来て、尚且つここで生きると選ぶのならば、その時は間違いなく返さぬぞ――
 
 
それが、ただの逃げなのか、まごうことなき覚悟を決めた末行き着いた場所なのか。
そのどちらなのかは、まだわからないと言っていた。
彼女は、ピサロほどの強さをきっと持っていないのだろう、とピサロナイトは思うのだった。
 
 
話は相当に遡るが、ピサロナイトがピサロより「地上へ、連れ戻せ」と命令をされた日。
ピサロは、ピサロナイトが目前より退出した直後、すぐさまロザリーヒルへやってきた。
「ピサロ様。いらっしゃいませ」
ロザリーはピサロを快く迎え入れた。
いつもの何倍も不機嫌な表情で、ピサロはいつも座る椅子にどっかりと腰を下ろす。
ロザリーは己の心を落ち着けるかのように、それに気付かぬふりをしながらいつも通り茶を入れ、いつも通りピサロの前にそっと置く。
けれど。
いつものように、ロザリーは笑顔で彼の向かいには座らなかった。
ピサロは何も言わずにカップに手を出して、湯気と共に立ち上る芳香を気にもせずに一口茶を飲んだ。
そして、ようやく彼はロザリーに声をかける。
「座らないのか?」
「……ピサロ様、わたしは、ピサロ様の機嫌を損ねるようなことをしたくありませんし、言いたくありません。いつでも、わたしと共にいてくださる時は、ピサロ様にとって、心安らぐ時間であって欲しいと思っているからです」
ロザリーのその言葉にピサロはぴくりと反応をして、眉根を寄せた。
そんなことは、ロザリーに言われずともわかっている。
ロザリーはピサロに対して相当に従順だ。それは今に始まったことではない。
ピサロも、ロザリーが嫌がることなぞしようとは思わないし、理不尽なことを彼女に課したことなぞ、彼にとっては思い当たる節がないとすら言える。
ロザリーヒルの塔に身を隠して外に出るなと言っても、それはロザリーの身を案じてのことだったし、彼にとっては正しいことだ。
唯一、野望を捨てて欲しいという懇願だけを無下に跳ね除けていたけれど、それすらピサロにとっては『仕方がないこと』として、おおごとだという認識はない。
だからこそ、ロザリーがこんなことを言い出したのは。
今までにないほど、ピサロの不興を買うことを今から彼女が言おうとしているということだと、さすがの彼も感じ取らざるを得なかった。
「それは、わたしとて同じことだ」
「わかっております。ピサロ様は、いつもわたしにお優しくしてくださって、本当に感謝しておりますの」
「……で?」
苛立ちを含んだ声音で、ピサロは彼にしては冷たく言い放つ。
ロザリーがこんな風に言い出したのは何故か、これから彼女の口から何が話されるのか。彼がおおよその予測をしていないわけがない。
「今日は、マリアさんのことでお話が」
「それは、座っても出来ることだろうが」
「はい」
ピサロのその言葉は、ロザリーが今から話すことを聞いてもよい、という許可、許容を表すものだ。
「スライムはどうした」
「ご迷惑と思いながら、シスターに預かっていただきました。もし、ピサロ様がわたしをお怒りになるようなお話があれば、あの子は怯えてしまうでしょうし」
「わたしがお前を怒るようなことが、そうそうあるとは思えぬが」
「そうでしょうか?本当にそうだといいのですけれど」
ちらりと苦笑を見せて、ようやくロザリーは自分の椅子に座る。
そこでようやく、自分の分の茶を入れ忘れていたことに彼女は気付いたが、今から立ち上がる気にはならなかった。
「ピサロナイトさんに、マリアさんを探させているのでしょうか?ナイトさんは、ピサロ様からの命令を他者に漏らすようなことはなさらないので、はっきりとそうだとわたしには決しておっしゃらないのですが」
「ああ、そうだ。わたしに確認することなく、お前もわかっていたのだろうが。だから、奇跡の剣をあやつに託したのだろう?」
「……はい。ご存知だったのですね」
「そこに」
ピサロはおもしろくもなさそうに、以前ロザリーがマリアの剣を隠していたクローゼットを指差した。
「あれだけ、神聖な力を纏う武具があれば、癇に障る」
「申し訳ございませんでした」
それには素直に謝罪をするロザリー。
隠していたことではなく、ピサロが癇に障っていたにも関わらず、そのことを暴かずに見逃してくれていたことへの感謝の意味も含まれた謝罪だ。
「ピサロ様がわたくしを責めずにいてくださる、そのお優しい気持ちを信じてお尋ねしたいのですが」
「なんだ」
「このままでは、お互いの言い分が平行線のまま。マリアさんは天空に身を寄せたままになってしまいます。せめて、ピサロ様が何をお考えなのか、ナイトさんだけにでも話してさしあげないことには、ナイトさんがどれほど時間をかけても」
「仕方があるまい。わたしが行けば、あの女はわたしに剣を向けるだろうし、さすれば、わたしとて二度は不覚を取らぬ」
「ですから、マリアさんの方から戻るようにするには、どうしたら良いのか、せめてピサロ様も共に考えていただければ。ナイトさんには荷が重過ぎると思います」
「それは、ピサロナイトを侮辱する言葉だと思うが?」
「ピサロ様、そういう意味ではありません」
ピサロのその言葉は本音ではない。
彼も本当はわかっているのだ。
絡み合った糸を、それと知らずに無理矢理ひっぱったところでほどけるはずもない。
ピサロがピサロナイトに命じていることは、それによく似ている。
「マリアさんを連れ戻して、どうなさるおつもりですか?」
「何も?お前やナイトは、何か勘違いをしているのではないか?」
「え?」
「今までととりたてて何か変わったことをする気はない。そもそも、最初にナイトに命じた時は、連れて来いとは言っていない。ただ、発見して教えろと言っただけだ」
ロザリーは、まるで肩透かしを食らったかのように驚き、軽く眼を見開いた。
対してピサロの方は、普段と特に変わりもなく淡々と話すだけで、ロザリーからの質問やら何やらを不快に思ってもいないように見える。
「ピサロ様、では、どうして……どうして、マリアさんの居場所を知ろうとなさったのですか?」
「ただの興味だ。あれが、自分の村とやらを捨てて、どこに行くつもりなのか。ただそれだけだ」
ロザリーは軽く眉根を寄せた。
彼女にはわかる。ピサロの言葉には何一つ嘘はないし、はぐらかしの言葉すらない。
彼は、マリアとの間にある感情その他を、ロザリーに隠さなければいけないなどと、後ろ暗いことをまったく思っていないのだ。
そればかりではなく、マリアの行方を探らせたことをただの興味だと言い放つ。
しかし、マリアは明らかにピサロの監視から逃げていた。
興味本位で居場所を探る者と、それから逃げる者。
であれば、意識をしているのはピサロのほうではなく、マリアの方ではなかろうか。
ロザリーは困惑の表情のまま、唇を閉じる。
では、何故マリアは逃げたのだろうか?
居場所がピサロに筒抜けになっては、困ることがあったというのだろうか。
(あっ……)
ロザリーは、はっと気付いて、自分の胸元で拳をぎゅっと握り締める。
彼女のその様子にピサロもまた気付いたようで
「なんだ」
「あの、ピサロ様」
「うん」
「マリアさんの居場所がわかったら……」
「?」
怪訝そうな視線を向けるピサロ。
それも当然だ。
ロザリーの声は震えている。
そして、そのまま次の言葉をつむぎ出して良いのかどうかまるで自問自答をしているように、瞬く瞳は焦点が定まっていないようにも見えた。
「なんだ、ロザリー」
「……あの……」
ロザリーの唇が動く。
しかし。
その唇は、声を発さない。
  
 
ばくん。
ばくん。
ロザリーは、心臓の鼓動が大きく体全体で響いているように感じる。
言いたい。
言いたくない。
言わなくては。
言っては駄目。
繰り返す心の声が音を紡ぎだす邪魔をして、ロザリーの動きを止めてしまう。
けれども。
最早、これ以上瞳を閉じて見ないふりをする必要はないのではないか、と彼女は自分を奮い立たせる。
それに。
(ピサロ様は、なにも嘘をおっしゃらないし、わたしに隠そうとはしていらっしゃらない。あのことだって、わたしがピサロ様に聞けば、いつだって簡単に答えてくれたに違いないのに)
誰が、それを秘密にしようとしていたのか。
マリアは、ロザリーを傷つけたくないと思って、きっと内緒にしていたに違いない。
しかし、ピサロは。
「あっ……」
その時、ロザリーの足元に温かい何かが擦り寄ってきた。
一瞬深い物思いに陥っていたロザリーを正気に戻らせたのは、以前ピサロが拾ってきた仔猫だ。
僅かに苦笑を見せてロザリーは上半身を屈め、仔猫を撫でた。
気まぐれな猫はロザリーの手から離れると、今度はピサロの足元へと向かっていく。
その様子を見て落ち着いたように、ロザリーはピサロに向き直った。
「マリアさんの居場所を知って……そうしたらまた、満月が美しい夜にはマリアさんのもとへ、行かれるのですか……?」
勇気を振り絞って、思いを言葉にする。
自分の声がかすれて、震えて、うまく音になっていないことにロザリーは気付いたが、同じ言葉をもう一度繰り返したいとは思えなかった。
「……?」
一方、言葉を投げかけられたピサロは、不思議そうにロザリーを見ている。
それは、何を言っているかわからない、という意味の表情ではない。
また、知っていたのか、という驚きでもない。
何を今更、という思いか。いや、そうではない。
一拍置いてからピサロは、いつも通りの声音で言葉を返す。
「気が向けばな。それが、どうかしたのか」
「……ピサロ様……」
彼のその言葉を聞いて、ロザリーは愕然とした。
先ほど、ピサロはマリアの居場所を知っても『今までととりたてて何か変わったことをする気はない』と言った。
それは。
再びロザリーの鼓動は大きく彼女の体内を震わせ、まるでそれに体が痺れたかのようにロザリーは動きを止めた。
(ピサロ様にとって、マリアさんに会いに行くことは、特別なことではないのだわ……!)
薄々はわかっていたことを、目の前に引きずり出して突き出したのは自分の方だ。ピサロは責められる立場ではない。
しかし。
ロザリーは確信し、そして同時に心を痛めた。
やはりピサロは、満月の夜にマリアと重ねていた逢瀬が、ロザリーへの不徳にあたるとは思っていない。
つまり、マリアに対しての恋愛感情はない、たとえあったとしても、その自覚はまったくないのだ。
だから、こうやって聞かれれば答える。
彼がそっとベッドを抜け出して逢瀬を繰り返したことをロザリーに告げなかったのは、単に告げる必要を彼が感じなかったからだ。
では。
マリアもそうだったのか、と考えれば。
(今となっては、それは何もわからないこと。どうして、マリアさんはピサロ様と会っていたのか。わたしに内緒にしていたのは、恋愛感情があったからなのか、それとも、ピサロ様と同じように『言う必要がない』と思っていたからなのか)
それは、今のロザリーには判断できない。
ただわかっていることは。
少なくとも、ピサロが自分から『誰かに会いに行く』ことが、実はとんでもなく珍しいことであり、そのような他者との関わりを彼が拒んでいないことは、彼を知るものならばきっと誰もが『彼らしくない』と思うだろうこと。
そして、それをピサロ自身が、まったく気にしてもいないこと。
なんという無自覚か、とロザリーは呆気にとられた。
目の前でピサロは悠々と茶を飲み、足元にじゃれつく子猫をじっと見ている。
「次にマリアさんとお会いした時に、またマリアさんが剣を向けたらどうなさるおつもりですか」
「次は勝つ」
ピサロがまったく相手にしないとわかったか、仔猫は彼の足元を離れてお気に入りの場所――もともとはスライムの寝床だったのだが――へと軽快な足取りで向かった。
「戦うことは、回避できないのですか」
「仕方があるまい、あれが、わたしを殺そうというのならば。それとも、お前はわたしに、あれに殺されろというのか?」
「そういうことではありません!」
ロザリーは軽く声を荒げた。
ピサロの言葉は冗談めいていたけれど、嘘でもそんなことを彼には言って欲しくないのだ。
ふと、ロザリーはあの夜のことを思い出す。
それは、ピサロとマリアが最後に会い、戦い、ピサロがマリアに敗れた夜のこと。
誰もいない、寂しい村。
ひとときでもその場に人々がいて、笑いあって暮らしていた時間があったなんて、まったく想像も出来ない寂しいあの場所。
月灯りに照らされた瓦礫。
倒れているピサロ。
そして、ピサロの頭を踏むマリアの姿。
あの時、突然現れたロザリーの姿を見ても、マリアは驚かなかった。
(いや、むしろマリアさんは、わたしを待っていた。あの時)


――帰りなさい、ロザリー。そして、その目障りな男がこれから、月の出ている夜に抜け出さないように、見張りなさい――
――でなければ、次は、殺す――

――マリアさん、わたし知ってます。本当はそうではないと――

――知っていたなら、どうして引き止めないの。この男は、わたしに、会いに、来たのよ――
 
知っている。そして、そのマリアの言葉はロザリーを傷つけるために発されたのではないことも、ロザリーは今は理解している。
わたしに会いに来たのよ、あなたの男は。そのような侮蔑、嘲りが含まれた言葉でも、それは、マリアがロザリーを見下したものではないのだ。
その事実をロザリーに突きつけることで、マリアはピサロの手綱を取れ、とロザリーを煽ろうとしたのだ。
そういうやり方でしか、マリアはピサロと離別出来なかったのだと思うと、ロザリーの瞳には涙が浮かび上がってきた。
「本当はマリアさんは、ピサロ様に剣を向けたくないのです。でも、ピサロ様が会いに行けばそうせざるを得ない。マリアさんはピサロ様から逃げているのではなくて、剣をピサロ様に向けなければいけない状況を避けようとしているのですね」
「それがどうした。ロザリー、何故お前が泣くのだ?そのような矛盾した感情に振り回されているのはあれ自身の弱さのせいだ。なのに、それをさもわたしが悪いように言われても、知ったことではない」
「でも」
「お前は、次にわたしがあれと会ったら、戦うことになると思うか?」
「え?……」
「夜は、人の本音を暴きたて、太陽の前で曝け出せない真実の姿も、月の前には無慈悲に晒されるもの」
ロザリーは、ピサロの言葉の意味がわからず、涙をぬぐいながら怪訝そうな表情を見せた。
「が、月の下にあっても己自身を見失うは、あの呪縛の地のせいだとしたら、次はどうなるのだろうな?」
一方のピサロは、意地の悪い笑みを浮かべて、軽く笑い声すら漏らしている。
「……呪縛の地とは……」
それが、マリアの故郷を指し示す言葉であることを、ロザリーはすぐさま気付いた。
ピサロは、あの日マリアが彼に剣を向けたのは『己自身を見失』った結果だと言いたいのだろうか?
ロザリーは、知らずのうち両手を胸元で組み、ぎりぎりと力をこめていた。
マリアのことをピサロと話すと決めたのは、彼女に取って並大抵の覚悟ではなかったし、十二分に気力を振り絞ろうと誓ってピサロを迎え入れた。
けれども、彼女の覚悟以上にピサロとの話し合いは難しく、偽りのない言葉からですら、彼の真意を量ることの難しさに打ちひしがれそうになる。
そんな自分を奮い立たせようと、無意識で彼女は手に力入れて。
唇を噛み締め、瞳を伏せた。
ロザリーの脳裏にふっと浮かび上がったのは、先日彼女の元に訪れた時のマリアの言葉。
ピサロが本当はマリアを大切に思っているのだ、とマリアに説こうとしたロザリーに、静かに素っ気なくマリアは告げたのだ。

――大切になんてしてない。ただ、興味があるだけよ。自分を殺す可能性がある人間のことを――

確かに、今のピサロの言葉は相当に興味本位であることを揶揄する口調だった。
(でも、違う。違うと信じたい……それは、マリアさんのためでもピサロ様のためでもなくて)
たとえ、歪んでいるがゆえに強い絆がピサロとマリアの間にあるとしても。
自分はマリアよりも長くピサロを見てきたという自負がある。
それを、ロザリーはまだ疑っていない。
目の前にいる愛しい恋人は、興味本位だけで何度も何度も重い腰をあげるようなたちではないのだから。
 
 
天空城の一角。
訪問者が足を踏み入れることが出来ないエリアで、天空人達は食事を作る。
数人が一度に作業が出来るような広い厨房で、マリアは一人で作業をしていた。
力を入れて、白い生地をこねて、こねて。
同じ事を繰り返し続け、『そろそろいいかな』と思ってから、更に力を入れて丁寧にこね続ける。
こうやってパンをこねている時は、無心になれる。
だから、マリアは現実から逃げるためにパンを時々焼いていたのだ。
ピサロナイトから逃げた、あちらこちらの町や村、そのどこでも許されることならばそうしてきた。
そして、今は天空城でも。
午前の労働を終えて自由な時間を与えられたマリアは、他の天空人やエルフのようにおしゃべりをすることも、踊ったり歌を歌うこともない。
今まで育ててきた己の筋力を失うことは、彼女の本意ではない。
故郷の村にいた頃から、何度も何度も剣の師匠に『鍛錬を一日欠かせば、その遅れは一日分として取り戻せるわけではない』と言われ続けてきた。
村にいた時の実感はそこまでなかったけれど、旅を続けて日々魔物達と戦ってたあの頃に、それは嫌と言うほど身にしみた。
もともと鍛錬が大好きなアリーナや、それを生業の基礎としているライアンとは違って、マリアは『毎日することが好きではない』のに、仕方がなく日々鍛錬を行ってきただけだ。
仲間達は誰も、そんな彼女に『毎日やらなきゃ駄目』とは言わなかった。ライアンですら、だ。
もちろん、それが望ましいことをライアンだってわかってはいたに違いない。それでも、若い女性の身、日々の多忙を考えれば彼は無理強いをすることが出来なかったのだろう。
だから、彼女が実感して自主的に毎日鍛錬を続けるようになってからは、モチベーション維持に気を使ってくれたのか、何度か『最近頑張っておられる』と彼はマリアに声をかけてくれたものだ。
その甲斐あって、マリアは旅を止めても日々の鍛錬を欠かさず、未だいつでも剣を振るい、思うとおりに体を動かせる自信もあった。
天空城にやってきてからも、一日だって欠かしたことはない。
だからこそ、力仕事であるパンの捏ね作業は彼女の得意とすることなのだ。
マリアは、パン生地を捏ね続ける。
ただひたすら、おいしく出来るように、そのことだけを思って。
と、その時右腕に軽い痛みが走った。
「……っ……」
ピサロと戦った時に神経を傷つけられたようで、首のあたりからぴりりと腕を走っていくような痛み。
それは、こうやって力を入れている時に感じることもあれば、突然痛みと共に感覚が鈍って動かしづらくなることもある。
毎日ではない。たまに。
マスタードラゴンは、マリアのその腕を治さない。いや、正確には『まだ』治さないというだけだろう。
マリアがこの腕を治せるかと聞いた時、治せるか治せないかのどちらかであれば治せる、とマスタードラゴンは言って、話を濁した。
それにくってかかるほどの気力はマリアには残されておらず、きっとあの竜がそのような言い草をするならば、治すにしても今がその時期というわけではないのだろう、と要望を飲み込んだ。マリアはマリアなりに、マスタードラゴンとの距離感を把握しているのだ。
「よっし」
今日は痛みがすぐに引いた。
マリアは、パンの生地をボウルに入れ、その上に濡れふきんをかけた。
それから、一回り大きなボウルに少し熱めのぬるま湯を張り、パン生地が入ったボウルをその中に入れて周囲をタオルで二重三重に包む。
「うまく発酵してねー」
と、パン生地に呟くと、近くにあるかまどに火をくべ、別の鍋で湯を沸かしだした。
天空城に来てからパンを作るのは既に三度目だが、先の二度はあまりうまい出来栄えではなかった。
それは、パン焼きなどが出来るかまどの火の強さなどを把握していなかったからだろう。
三度目の正直というし、今日はうまく出来るに違いない、とマリアは頬を少し紅潮させながら期待にいくらか胸を膨らませていた。
沸かしている湯は、ボウルの湯の温度が下がりすぎたら足すための湯だ。
一息ついたマリアは、かまどの前にある椅子に腰かけた。
この前までは天空人達がマリアのやることを珍しそうに観察に来ていたが――天空人もパンのようなものを焼くが、火の通りの早い平たいものがほとんどだ――今日はもう誰も覗きに来ない。
天空人達のティータイムは、焼き菓子のようなものはほとんど食べず、木の実や干した果実を少し口にする程度。
なので、午後のゆったりした時間にこの厨房で菓子などを作る者もまったくいない。
天空人達のそんな様子を見たから、というわけではないが、今日焼くパンには干した果実をたっぷりいれて焼き上げようと考えていた。
時折ボウルの温度を手で測りながら、ゆっくりと生地の発酵を待つ。
「ぼんやりするなぁ……」
最近一人言が増えた自覚が彼女にはある。
様々な町を転々としている間は、日々気を張り詰めてもいた。
けれど、この天空城では、未だ天空人は彼女を「下界からやってきた勇者」と扱っているし、一緒に旅をしたルーシアとはそこまで深い仲というわけでもない。
午前中の労働時間を除けば、マリアはこの地で孤立と安全を手に入れているのだ。
パンを焼いても、それは暇だからと自己満足であって、それらを一緒に食べたい相手もいなければおすそ分けをする相手もいない。
かといって、これ以上天空人達と仲良くなりたい、と焦る気持ちがあるわけでもない。
そもそも、何から何までマリアには天空の生活は合わない。
それでも順応力が自分は高いと思っていたし、どうにもならないほどに嫌というわけでもない。
天空人達と近しくなって馴染んで快適に暮らすには、もう少し時間がかかることだって当然のこと。
マスタードラゴンに対する恨みつらみについては、天空城に来てからまったく彼女は口にしていない。
どれほどに恨めしく思っても、過去のことは取り返しがつかない。それは、ピサロとのことだってそうだ。
しかし、マスタードラゴンとピサロは、彼女に対する態度がまったく違う。
マスタードラゴンは、己の力が及ばなかったせいで、マリアが生きる場所を、あの故郷の村を失ったことを重々理解をしていて、天空城で暮らさないかと声をかけてきた。
それは、謝罪こそなくともマスタードラゴンなりの誠意だとマリアにはわかるし、ピサロにそれを望むことはまったくの無謀だとも知っている。
だからといって、マスタードラゴンが実父を殺したこと、山奥の村をデスピサロが滅ぼしたことにまったく関与せずに様子を窺っていたことへの憤りが消えるわけではない。
そればかりではない。
マスタードラゴンの命令で天空城に連れ戻された実母に、未だにマリアは会う権利を与えられていない。
マリアが勇者として世界を救い、戦いを終えても、地上人との間に子供をもうけた罪は罪として、解放される日はまだ来ないのだという。
けれども、その罪の先に生まれた子供である自分は、天空城に受け入れられている。
自分が矛盾した存在になることは、当然マリアにだって予測できたこと。
日々その矛盾や憤りと向かい合いながら、折り合いをつけながら生きることは苦痛で、天空人達には理解出来ぬ感情が常にマリアの胸中には渦巻いているのだ。
だというのに、それ相応の覚悟をしてここに来たマリアに対して、どこかの誰かさんは簡単に『地上に戻れ』と言う。
「あんの、頭の固い馬鹿騎士が……って……頭が固いのは、わたしも一緒か……マスタードラゴンもね……」
そういえば、焼いたパンをピサロナイトに食べさせたな、と突然思い出す。
「あんなやつに食べさせるなんて、勿体なかった!!」
マリアは声を荒げて叫んだ。
と、調度その時
「あらっ?マリアさん?」
「ん?あ、ルーシア」
「こんなところで、何を作ってるんですか?」
一時期、地上で共に旅をしたルーシアが厨房に入ってきた。
「地上のパンをね」
そう答えながら、マリアは温度がさがってきたボウルに湯を少し足して調節をする。それをじろじろと見つめるルーシア。
「まあ。焼けたら、おひとついただいてもいいですか?」
「え?いいけど。うまく出来るかわかんないよ。それに、天空のパンとは」
「違うのは知ってますよ。もちろんです」
くすくすとルーシアは笑い声をあげた。その笑いは、何を今更、という意味が含まれているのだろう。
「そうだったわね」
確かに、共に生活をしていた時に地上のパンを食べたことがあっただろうな、とマリアは苦笑を見せる。
「ねえ、マリアさん」
「うん?」
ルーシアは近くにあった椅子に勝手に腰掛けて、足をぶらぶらさせながら呑気に話を続けた。
「ピサロナイトさん」
「え、ルーシア、知ってるの、あいつのこと」
予想外の名前がルーシアの口から出てきて、驚くマリア。
「マスタードラゴンに言われて、天空城をすこーーーしだけ案内したので」
「そうなんだ」
「きっと、ピサロナイトさんまたきますよ」
「……来なくていいよ……なんで、そう思うの?」
何か事情をルーシアは知っているのだろうか、とマリアは疑いの目をむけ、不審を露にした声音で尋ねた。
当のルーシアの方はどこ吹く風、といった風に自分のペースを乱さず呑気に「ええーっと」なんて間抜けな声を挟む。
地上にいたときは彼女のそういうところが少し苦手だとマリアは思っていたけれど、天空人には比較的そういう人物が多いということも、ここ最近知ったことだ。
「マスタードラゴンが、ちょっとだけ、気に入ってるみたいで」
「はあ!?何、それ、どういうこと?」
「今までここに魔族がやってきたことって、前例あるんですけどね……次回の約束をした相手なんて、いないんです」
「え、何?次回の約束って」
「次も天空城に来た時は、最初マスタードラゴンのところに来いって。マリアさん達だって、初めて来た時はマスタードラゴンに挨拶に行ったでしょうけど、その後は天空城に来ても勝手なことしてましたよね」
邪気のないルーシアの言葉に、マリアは頬を紅潮させた。
勝手なこと、といわれれば確かに勝手なこと。
この城はマスタードラゴンが主なのだから、初回は確かに挨拶をした。けれど、次からは「図書館に用事があるから」だとか「くるくる踊ってる人達見にきたんだぁ」とか、マスタードラゴンの顔すらみずに城内を闊歩していたものだ。
それは、地上でも一度王国の王に面通しをすれば許されているからであって、マスタードラゴンだってそれについて何も言わなかったはずだ。
「次も来いって……それは、警戒されてるってことじゃなくて?」
「いいえ、あれは」
ルーシアは、彼女を知らない人間が見れば「何をたくらんでいるんだ」と言われそうな、子供がいたずらを思いついた時のような表情で、また笑った。
「気に入ってる証拠です。わたしにはわかるんですよう〜」
「だとしたら、勝手にお茶でもしてて頂戴、って伝えてよ」
マリアは口をへの字に曲げ、濡れ布巾をとると、かなり大きく膨らんだ生地を少し伸ばし、状態の確認をする。
発酵がうまくいったことに満足したようで、マリアの口端はほころぶ。
そこにいるルーシアから聞いた情報は、彼女にとっては決して嬉しいことではなかったけれど。



←Previous Next→



←前話へ
モドル