月の欠片――空に生きる者たち(5)――

説得というものは。
ピサロナイトは小さな溜息をついた。
マリアとなんからの取引が出来ないだろうか、と考えたピサロナイトは、マスタードラゴンに言われたことを思い出していた。
彼は、彼女を説得する術を知らない。
ならば、自分の任務を遂行するには、強引かつ単純に取引を持ちかければいいんではないかと思いつき、それをマスタードラゴンに尋ねたのだ。
それへ、あの竜は

「説得される側のことを考えて、考えて、考え抜けば、おのずと見えるものだ。お前がそこまで辿り着いているようにはまったく思えぬ」

と答え、尚且つ

「そこまでお前が辿り着いて提示して尚、彼女がここに留まるといえば、わたしはお前が来ることを二度と許さぬだろう。今は、まだその時ではない。あれは、未だに心が揺れている」

と彼に告げた。
それは、マリアが地上に戻る可能性があるということを、わざわざ教えてくれたということだ。
ピサロナイトはマリアのことのみならず、マスタードラゴンのこともよくは知らない。
が、そのような言葉を投げかけたということは、マスタードラゴンはマリアが地上に戻ることを悪いこととは思っていないのだろうし、かといって、天空で生きることを否定するわけでもないのだろう。
であれば、マリアの行く末を握るのは、きっとマスタードラゴンではない。
いくらピサロナイトがマスタードラゴンにあれこれと話を持ちかけても、あの竜は間違いなく何もかもを無視するに違いない。
(彼女が、復讐を断念すれば、良いのだ)
ピサロナイトが出した答えは、それだ。
マリアがこのまま逃げたままでは、ピサロナイトの任務は遂行できない。かといって、彼女がなんらかの事情で死んだら――ピサロナイトとしては、それでも構わないと思っているのだが――ロザリーは悲しむだろう。
とはいえ、マリアは地上に戻らないという。それは、きっと、地上に戻ればいつの日にかピサロと再会すると思っているからだろう。
そして、再会をすれば、ピサロに剣を向けぬわけにはいかない……それが、一番の問題だ。
彼女がピサロの命を奪おうとしなければ。
もしかすると、二人の逢瀬をロザリーは悲しむかもしれないけれど、それでも、きっとそれが一番良いことなのだろうと彼は思う。
どうやら、ピサロナイトが知らない『旅の間』、ピサロとマリアは逢引をしており、それをロザリーは肯定していたのだから。
ならば、今更そのことでロザリーが傷つく必要は、本来ないのだ。
ピサロナイト自身はそのことを『けったいなことだ』と思い、理解はしていなかった。けれど、だからといって己が主人とあの女勇者との逢引を糾弾するような立場ではない。
自分は部外者だ、とピサロナイトは常に思っていた。
部外者であるということは、時に当事者よりもよく渦中のものが見えるものだ。
しかし、この複雑な関係は、傍から見て理解が出来ない、と彼は思う。
となれば、第三者である彼がどれほど力を尽くしても、物事の本質は彼が見ている場所にはないのかもしれない。
彼は、もうこれ以上の弱音を吐きたくはなかった。ただひたすらに、さっさとこの面倒な問題を終わりにしたかった。
そして。
ピサロとロザリーが幸せであって欲しいと。
揺るがぬその思いを胸に秘め、彼はロザリーに頭を下げて助言を乞うたのだった。
 
 
瞳を開けようとして、違和感に気付くマリア。
朝の目覚めとは違う、体を動かすための命令が脳から発されぬまま、意識だけがゆっくりと覚醒していく。
天井は、最近ついに見慣れた天空城のもの。
けれど、自分の体は、知らない感触に支配をされている。
「あー……」
そうだ。
午前中の労働中に胃が突然痛んで、座り込んで痛みを堪えていたら気が遠くなって。
「ベッドに……運んでくれたんだ……」
と、声を出した気がしていたが、実はそれは彼女の口からは発されていない。
まるで、まだ夢の中にいるように、声を出そうとしても、手を動かそうとしても、何一つ叶わない。
睡眠は十分とっていた。
食事だって、規則正しくとっていた。
それなりの労働で体は毎日心地よい疲れを感じていた。
なのに、どうしてこんな状態になってしまったのだろう。
ぼんやりとマリアは天井を見つめる。
ありがたいことに、胃の痛みは消えていた。
(あ、少しずつ、体が覚醒してくる)
動かない、と思っていた手が僅かに動く。
夢から現実に体は少しずつ戻ってきて、鉛のように重く感じていた手足にも自由が与えられる。
「う……」
マリアは瞳を閉じた。
折角体が動くようになったというのに、目を開けているとちかちかと白い光が瞬いて、眼球の奥が痛む。
目なぞ、酷使していない。
なのに、一体これはどうしたことだろう。
扉が開く音に気付き、マリアはベッドの上でゆっくりとそちらを向く。
そこには、しずしずと部屋に入ってくるルーシアの姿があった。
「ルーシア……」
「あ、気がつきました?」
「ごめん……わたし……」
頭の奥に、鈍い痛みがあることに気付いて、マリアは一度瞳を閉じた。
もう一度ゆっくりと目を開けると、眼球の奥がまた痛み、頭痛も強く感じる。
「しばらくは、安静になさってください。ストレス、みたいなものらしいですよ」
「ストレス……」
ルーシアはベッドの傍に置いてあるローチェストの上に、持ってきた篭を置いた。その中には果物がいくつか入っている。
「わたしが、ストレス?」
マリアは感情があまりこもらない声で、いささか棒読みで返す。
言葉の意味はわかっている。けれど、それと今の自分の状況が結びつかないし、そもそも何がストレスなのか、すらぴんとこない。
慣れぬ生活のせいだろうか。
いや、それももう慣れてきた、と思っていたし、慣れぬことで何か困ることもほとんどなくなっている。むしろ、ストレスを感じていたことから解放された時期だと思える。
後ストレスと思えることといえば。
(情けない。そんなに悩み苦しむような話ではないはずなのに)
ピサロのこと、ロザリーのこと、ピサロナイトのこと。
地上にいる仲間達のこと。
それぐらいしかマリアには思い当たる節がない。
かといって、それらのことで自分がストレスを感じている、と認めることは、なかなか出来なかった。
そんな彼女の気持ちなぞ、まったくわからぬようにルーシアは単語を重ねる。
「ストレスらしいですよ。胃が痛くなる、っていうのはよく聞く話らしいですけど、気を失ったのが痛みのせいなのか、それとは別の眩暈とかなのか……それによって、違うんですけど……どんな感じでした?」
「うう、ん、よく、覚えていないけど……痛みのせいじゃないと思う」
「そうですか。じゃあ、胃が治ってもそちらは治らないかもしれませんね。あんまりストレスになるようなことを、思いつめないようにしてください」
わかった、とは返事しかねる話だ、とマリアは口を閉ざす。
思いつめるとかつめないとか、そういうものは人から言われて簡単に「ああ、そうですか」と切り替えられるものではない。
「何かあったら、そこにある呼び鈴を鳴らせば、誰か来ますから。では、くれぐれも安静にしてくださいね、失礼します」
ルーシアはそう言い放つと、あっさりと部屋を出て行く。
今は、あまり話したくない。言葉を発するたびに頭の奥の痛みが強まるし、目を閉じている方も楽だ。
そのルーシアのあっさり具合にありがたいと思いつつ、マリアは再び目を閉じた。
部屋はいつも大きなガラス窓から太陽光が降り注いでいるけれど、今はカーテンを二重に引いている。
(それでも、日の光は窓を通って、カーテンを通って、瞼を通って、目の奥に届く)
どんなに頑なに己を守ろうとしても、それは無駄だと。まるでそう言われているような気がして、マリアは毛布を引き上げて潜りこんだ。
どうして。
どうして、助かることが、出来ないのだろうか、と。
ずっと自分を縛り付けてきた。
そうだ。それは、ピサロでもロザリーでもなければ、死んだ村の人々でもない。紛れもない自分自身。
自分を縛る者が自分ならば、解放をするのだって自分に決まっている。
けれども、いつまでたってもそれが出来ない。
ピサロと共に過ごしたあの日々、復讐を我慢して押し殺して共に戦うことを選んだのは、『マリア』ではない。
『勇者』という存在だ。
マリアを守って死んでいってしまった、村の人々が望んでいた『勇者』ならば、世界を守るためにそうしたのだろうと思ったから、彼女はそれを選んだ。
けれど、マリアという人物は、それを拒んだ。
村のみんなの仇。復讐しなければいけない相手。
それを倒さなければ、マリアは自分自身を許すことが出来ない。けれど、倒してはいけないと勇者という存在が彼女を止める。
今はもう、勇者という名から解き放たれて、彼女は一人のマリアという人間だ。
でも。
勇者としてピサロと共に過ごしたあの時間は、紛れもなくマリアの時間でもあって。
(わたしが、勇者を演じなければ、勇者になれないほど心が弱かったから)
だから、こんなことになったのだろうか、とマリアは毛布に包まりながら下唇を噛んだ。
何もかもが、おかしい。生きることが苦しい。どこに救いがあって、何を救いとして自分が求めているのかすらわからない。
ついには、自分を守って死んだ村人達のことすら、疑わずにはいられない弱さ。
(わたしが、勇者だから、守ってくれたのだろう。わたしが、力のない、なんてことない、ただの天空人と地上人とのハーフ、というだけの子供だったら、みんなは)
死ななくてもよかったのだろうし、また、命をかけてまでも守ってくれなかったのかもしれない。
憎むべき相手は、勇者なのか。それとも、勇者になることが出来なかった情けないマリアなのか。
(お願い。ピサロを、憎ませて……!!)
目の奥が痛み、頭の奥が痛み、息が苦しい。
早く眠りの世界に、意識が引きずり込まれれば良いのに、とマリアは思うのだった。
 
 
さて、ピサロナイトはロザリーから助言を与えられ、モンバーバラに足を運んだ。
モンバーバラに住んでいる双子の姉妹は、共に戦った仲間の中で一番長くマリアと旅をしたのだと聞く。それに、同性でもある。
村の住人全てを失ったマリアにとっては、この世界にいる誰よりも一緒に時間を過ごした間柄となる姉妹。
マリアを知ろうと思うならば、その双子に会うことが一番の近道ではないかとロザリーは提案をしたのだ。
ロザリーの提案は、ピサロナイトにとっては非常にありがたく、納得が行く内容だった。
長く共に過ごせばそれだけで必ず深い仲になるわけではない。
けれど、それを知っても尚ロザリーが推すならば、間違いがないのだろうと彼は思う。
モンバーバラの町外れに、双子の小さな家は建っていた。
モンバーバラの名所である劇場で踊る踊り子達は、みな劇場奥や団長が斡旋する長屋などで寝泊りしている。
が、双子の姉妹の姉マーニャはモンバーバラでは右に出るものがいないトップスターで、旅から戻ってきてから、あれよあれよという間に大金を稼いで家を建て直したのだと言う。とはいえ、金を稼ぐよりも減らす方にもマーニャの才能はあるようで、妹のミネアは日々嘆いているのだが。
彼女達が家を建てたのは、本当のところは他の理由がある。
決して、コーミズにある実家を捨てたわけではない。
けれど、モンバーバラがこれからも彼女達の主な活動の場であることは、本人達でなくとも一目瞭然だった。だから、考えに考えた末、新しく建て直したのだ。
姉のマーニャは、共に旅をしたバトランドの王宮戦士であるライアンと恋仲で、少ない休暇を使ってライアンがモンバーバラに来ることもある。
その時に、彼がミネアに遠慮しなくていいように、二人で住むには少しだけ広い家。お互いの個室は少し離れた位置に、とそれぞれのプライベートを尊重する形に設計をした。これは、ミネアとしては『姉さんがカジノに行って朝帰りしても、飲んだくれて暴れても、安眠が守れるように』という理由が大きなものだったが。
なんにせよ、彼女達は以前のように仲良しではあったけれど、旅をしたことで更に人脈も広がって、それぞれが勝手に出かけることも増えた。
食事は一緒にするし、共に過ごす居間もあるし、マーニャが劇場で踊っている時間はミネアも劇場の客に占いをして稼いでいるから、一緒だ。
それでも、大人になればなるほど、干渉してはいけない時間が増えるということを、聡い二人はよくわかっていたのだろう。
もちろん、やってきたピサロナイトはそんなことは知る由もなく、二人が建てた家の前で難しい顔をしていた。
宿屋だとか道具屋だとか。
そういった客商売の店に聞き込みにいったりするのは慣れているが、誰か特定の人物の家に訪れるということは、彼には不慣れだ。
(マーニャと、ミネア、と言ったな)
それらの名前と顔は、ピサロから受け取った記憶――キメラの翼を使っていく場所を受け取ったときだ――の中に含まれている。
とはいえ、意識をしないと思い出せないという程度の、ほんのわずかな記憶しか受け取ることは出来なかったが。
ピサロナイトは意を決して双子の家を訪問した。
 
 
「姉は、今日は新しい衣装の打ち合わせと、次の舞台のバックダンサーに踊りを教えに行っているので、当分戻ってこないはずです」
「……そ、う、か」
うまく受け答えることが出来ず、ピサロナイトはどもった。
相当な勇気を出してドアをノックすれば、ほどなく入り口の扉が開いてミネアが姿を現した。
そして、こともあろうに彼女ははっきりと『いらっしゃい、ピサロナイトさん。お会いするのは二度目ですが、生きてらしたのですね。どうぞ、中にお入りください』なんてことを、すらすらと発したのだ。
ピサロナイトは一体何がどうなっているのだ、と、まるで狸やら狐やらに化かされたようにぽかんとするしかない。
困惑しているうちに彼女に促され、居間の椅子に座って現在に至るというわけだ。
室内は柔らかな日差しが丁度いい具合に入ってくる、過ごしやすい明るさだ。ベージュ色の壁や、滑らかに磨き上げられた木のテーブルや椅子も、非常に趣味が良い。女性の感性で選んだものなのだろうが、嫌味がない。
もちろん、ひとつひとつの要素をピサロナイトは気にしているわけもなく、大雑把に『良い家だな』と思うだけだが。
「今日は少し暑いですね。こちらをどうぞ」
ミネアは穏やかにそう言いながら、ピサロナイトの前にあるテーブルに飲み物が入ったグラスを置いた。
「む、これは……?」
「近くの湧き水に、レモンとミントの葉を入れたものです。さっぱりすると思います」
鎧兜をすべて置いてきたピサロナイトにとっては、いくらか暑い日であろうといつもよりは余程楽に思える。
が、ミネアの言うように、いささか今日のモンバーバラは湿度が高い。じっとりとした汗が肌に浮かんでいることにピサロナイトは気付き、素直にグラスに手を伸ばした。
本来ならば、知らぬ相手に出された飲食物を口にすることはない。が、ロザリーに紹介された相手に対して、過度の警戒を見せることはむしろ失礼にあたる、と彼は考えた。もちろん、ピサロがそこにいれば『面倒なことを考えるのだな』だとか、逆に『紹介されたからどうだというのだ』と鼻で笑うぐらいのことはされるかもしれない。
と、彼のその思いを読んだわけではないのだろうが、絶妙のタイミングでミネアが言う。
「ピサロさんも、ロザリーさんも、気に入ってくださったので、あなたにもどうかと思って」
ぴくり、と眉根を動かすピサロナイト。
それを気にした風もなく、ミネアはピサロナイトの斜め前の椅子に腰を下ろし、自分のグラスに口をつけた。
「……すっきり、するな」
「でしょう。ミントの葉を、少しだけ擦って入れるんです。形が崩れると見た目が悪いので、ほんの少し」
「眠気ざましに使う、と聞いたことはあるが」
「苛々している時にも、良いと聞きますね。あと、暑い時に、清涼感を与えるので」
「ふむ」
ピサロナイトは、自分もそれを気に入った、とは口に出さなかった。
それは、ピサロとロザリーと自分を同格に扱って欲しいかのように聞こえては困る、と思ったからだ。
彼は、結局それ以上飲み物の感想は言わず、気になっていたことを正直に尋ねた。
「……何故、尋ねてくると気付いて……名前まで?」
「名前は、ロザリーさんにお伺いしていましたから。マリアさんはそれはもう、あなたを倒してしまったがゆえに、ロザリーさんが攫われてしまったのだと思い、何度も何度も謝っていらして……その時に、あなたのお名前は出ていました」
「名前を聞いていたとしても、お前達が知っていたのは甲冑に身を包んでいた……」
「ピサロナイトさん、わたしは、占い師です。自分の運命は占うことは出来ませんが、マリアさんを心配したわたしの水晶に、あなたやロザリーさんがちらりと顔を覗かせているんですよ。何度も何度も」
「……!」
ピサロナイトは、腰を浮かせようとした。
水晶に、という意味はわからないが、それは、自分やロザリーのやりとりをこのモンバーバラから監視して、盗み見盗み聞きをしていたのではないか、と思ったからだ。
が、結局彼はそのまま椅子に座ったまま、もう一口グラスに口をつけるだけ。
(落ち着け。ロザリー様が、そのような相手を紹介するわけがないし、そうであったらそのことは先にわたしに話してくれているに違いないのだし)
「水晶に映るといっても、あなた方が何を感じて何をしているのか、それはわたしには見えません。ただ、マリアさんを取り巻く何かの中に、あなたの姿が現れていただけ。そして、あなたがモンバーバラに近づいてきている気配を感じた。ただそれだけです。そんなに、何もかもを見通せるほど、占いは精巧なものではありませんし、人の運命をたやすく変えられるような助言は、占いからは導くことは出来ません」
「よくわからんが……そうなのだろうな。でなければ、この世界で一番恐ろしいのは占い師だということになる」
「そういうことです」
にこ、とミネアは微笑んだ。
食わせ物だ、とピサロナイトは胸中で呟き、何をどう言葉にすればよいだろうか、と少しばかり悩んだ。
が、そこはまたミネアが先回りをする。
「けれど、占い師かどうかは置いて、あなたがここに来た理由はおぼろげに推測出来るんですよ。マリアさんのことか、ピサロさんのことですよね?わたしが、何かあなたのお役に立てるのでしょうか」
彼女の言葉に、ピサロナイトは口をへの字に曲げた。
まいった。まったくもって、相手のペースだ、と。
マスタードラゴンといい、ミネアといい、ピサロナイトの心労をどこまでわかっているのかは知らないが、嫌な形で彼の先回りをする。
そして、先回りをする割には、簡単に彼に力を貸してくれないのだ。
当然のことながら、彼らはマリアの味方であって、ピサロナイトの味方ではないからだ。
「……そうですか、そんなことが」
かいつまんで、マリアを地上に呼び戻すにはどうしたら良いのか、知恵を貸してくれ、とピサロナイトはミネアに話した。
細かいピサロとロザリーのことは、あまり触れないようにと彼は彼なりの配慮をしたつもりだったが、ミネアがどこまでのことを知っているのかは、その表情からまったく読み取ることが彼には出来ない。
話を聞き終わったミネアは、暫くの間何かを考え込んでいるようだった。
ピサロナイトは何をどう急かせばよいのかもわからず、ミネアの次の言葉を待つしかない。
やがて、小さく溜息をついて、ミネアはゆっくりと言葉をつむぎ出した。
「マリアさんがあなた達から逃げているのは、まだ、その時が来ていないからだとわたしは思うんです」
「その時……とは」
「ピサロさんを殺すことを選ばなくても、マリアさんがマリアさんでいられる時を」
「……?」
「わたしは、阿呆でした。ピサロさんとマリアさんの間に、憎しみはもう薄れたのではないかと思っていたなんて。そうではない……マリアさんが抱いているものは、憎しみは憎しみでも、ピサロさんへの憎しみではないのですね、きっと」
「何、どういうことだ。意味がさっぱりわからぬ」
うつむいたミネアの頬に、さらりと長い髪が落ちてくる。
それをゆったりとした仕草でかきあげながら、彼女は顔をあげてピサロナイトと視線をはっきりと合わせた。
「いつか、マリアさんは、ピサロさんと会っても、剣を抜かずにいられる時が来るはずです。でも、今はまだ」
「その時、とやらは、どうすればその時になるのだ」
「誰が何をすれば、そうなるのかはわたしにもわかりません。わたしにわかっているのは、いつかは、来るのだということ。けれど、それをあなたやピサロさんは待てないのでしょうね」
「……いや、わたしが望んでいるのは、勇者マリアが地上に戻ることだけ。主からの命令は、ただそれだけだ」
「それは、マリアさんとピサロさんがいつでも会える状況にする、ということですよね」
「む……」
確かに、それはそうかもしれない、とピサロナイトは言葉を失った。
まだ、それでは駄目なのだ、と目の前の占い師は彼に告げているのだ。けれど、彼は彼で、ミネアにそう言われたから、なんていう理由で、主の命令に対して『もう少々お待ちください』と言うわけにはいかない。
「たとえ、今がその時でなくとも、わたしは彼女が地上に戻るために力を尽くさねばならないのだ。どうすれば、わたしにそれが叶うだろうか。わたしが、彼女の心を動かすために、出来ることはないのだろうか」
そういいながら、ピサロナイトはグラスを手にとって、また口に液体を含んだ。
「そうですね……一番簡単なのは、地上に降りなければロザリーさんを殺す、と」
「!」
ミネアの言葉で、ピサロナイトはダン、とグラスをテーブルに置く。
「たとえば、です。もちろん、ロザリーさんでなく、わたしやわたしの姉などでも構いません。でも、その方法でマリアさんが地上に戻ったとしたら、わたしが今お話した『その時』はとても遠くなるか、あるいは訪れなくなるかもしれませんね」
「……ああ、わかっている。あの女は、そういう人物だろう」
「今、マリアさんは形としては逃げているのでしょうが……本当は、あの人は、逃げるような人ではないんです」
「……」
「何からも、あの人は逃げないんですよ。むしろ、逃げても良いはずなのに、すべてをまっすぐ受け止めて、両足に力を入れて食いしばってしまうんです。それを、そうだとは誰にも言わないで。だからこそ……今のマリアさんは、尋常ではないことが心の中にあって……受け止めるためには、一度逃げる必要があったのだと思うんです」
ミネアの言葉の意味がわからない、とピサロナイトは彼女をじっと見つめた。
彼はそうマリアのことを知るわけではなかったし、むしろ彼が知っているマリアなぞ逃げ回っている姿ばかり。
だからミネアの言葉はまったく合点がいかず、けれども、もしかしてミネアがそういうならばそれが正しいのだろうか、と心も揺れ、彼は自分から何を言うことも出来なくなってしまう。
考えた結果、彼はいささか話が逸れてしまう質問をミネアに発した。
「共に戦った仲間、とやらに何の相談もなく勝手に天空城に行き……今後どうなるかわからなくとも、少なくとも今の勇者マリアは、天空に身を寄せ続けようとしている。そのことは……腹立ちがあったり、裏切りと感じたりはしないのだろうか?わたしは人間達の感情に関してはあまり知識がないのだが、我々魔物よりもなんというか……身内、意識?というのか?そういうものが……ううむ」
最後のうめきは、言いたいことを巧く言えぬ自分に苛立ってのものだ。
ミネアはそれを察したのか、穏やかに答える。
「言ったでしょう。まだ、その時ではないと。逃げているということは、マリアさんが成すべきことに対して成すべきことを正しく行っておらず、時が満ちていないということ。そんな状態で話をマリアさんに求めても、きっと二転三転してこちらが振り回されるだけ。あの方は、あまり……進行している事柄について、相談を人に求めないんですよ。たまにそれが仇になりますが、共に旅をしている我々に影響があること以外は、かたくなに事後報告を貫く人なんです」
すらすらと言葉にするミネアの様子を見つつ、ピサロナイトはぼんやりと『自分がピサロ様のことを語る時も、きっとこのように淀みないにではないか。であれば、この女性とあの女の間柄も、きっと揺るがぬものなのだろう』と妙な納得をしていた。
自分は、ピサロという人物のひととなりを知っている、と思う。
ピサロが一体どんな人物かと聞かれれば、一瞬は考えるかもしれないが、はっきりとした答えを彼は持っている。
わからない、とか、多分、とか。
そんな曖昧な言葉はピサロナイトには必要がない。
多分、ミネアがマリアのことを語るのも、それに近いことなのだろうと思える。
「だから、マリアさんが天空城に身を寄せているのは……正しい形で、地上に戻るためではないかとわたしは思うんです」
「……!」
「どれほどの覚悟で天空城に行ったのかはわかりません。でも、マリアさんご自身がわかっているかどうかはともかく、あの方が逃げているということは、あの方にとって物事が正しく動いていないということ。それでは、両足を地につけて踏ん張ることも、迷いを断ち切ることも出来ません。だから、あなたも、待ってあげてくれませんか。焦る気持ちも十分わかりますが、あの方を追い詰めたのは、あなたの主なのですから」
「そう、なのだろうか」
「そうですよ」
「仮にそうだとしても……わたしはやはり、待つわけにはいかない。彼女にとって物事が正しく動いてなかろうと、彼女には動いてもらわねばならぬのだ。だから、取引するための条件となるものを探して」
と、そのピサロナイトの言葉を聞いた途端。
目の前に座っていたミネアの表情がすっと消えた。
物静かな、穏やかな、決してことを荒立てないように見えた彼女の顔から、表情が消える。
あるべき場所に目が、鼻が、口が、眉が。
それらすべてが、感情を出すことを否定するように、ただそこにあるだけのように。
動き出した口は、音を発するために仕方なく形を変えるだけのもののように。
ピサロナイトは、ぞくりと言いようのない感覚に囚われ、息を呑んだ。
「やめた方が、懸命です。本当はピサロさんもご存知のはずですよ。ご存知なのに、あの人は我慢のならない我侭なところがおありだから、あなたに頼んでいらっしゃるのね。本当はどんなに天空城が嫌いでも、ピサロさんご自身が行けば良いんです。月が美しい夜に、マリアさんとの逢引に足を運んだように」
「……そこ、まで」
知っていたのか、と口にしようとしたのに、ピサロナイトは己の意思と裏腹に言葉を切った。
ピサロとマリアの逢引について、彼はまったく口にしていなかった。彼のかいつまんだ説明の中には、マリアとピサロの不思議な関係を示唆するような内容はなかった。単にピサロはマリアを地上に戻れと。そのうち会いに行く可能性もあると。マリアはピサロに会えば殺すから、地上に戻りたくないと。ロザリーを悲しませることになるから、と。
そんなオブラートに包まれた話を聞いて『そうですか』と簡単に済ませるような人物では、この占い師はなかったのだ、とピサロナイトはようやく気付く。
そして、それまでまったく感じなかった『悪意』が、ミネアから噴出されているように彼には思えたのだ。
ミネアは、淡々と言葉を紡いだ。
「ピサロナイトさん。今日あなたがいらっしゃることはわかっていました。でも、わたしは姉を仕事に行かせました。いざとなれば、他の国にいる仲間達をルーラで呼んで来ることだって、半刻も必要としません。それが、どういうことかわかりますか?」
「……わたしを……」
「あなたを捕らえて、ロザリーさん相手にわたし達が交渉をすることだって出来るんですよ?ピサロさんは、どれほどあなたに信頼を置いていても、部下の命ひとつで屈するなんてこと、許さない人ですから、ピサロさんとなんか取引はしません。でも、わたしはあなたがロザリーさんから紹介を受けたのだろうと推測をして、ロザリーさんの顔を立ててこうして話をしているんです」
「……」
ピサロナイトは、ぎり、と奥歯を食いしばった。
ミネアが言うことは間違ってはいない。
彼とて、マリアの仲間やロザリーの紹介だからといって、誰も彼も自分に対して好意的であると思っているわけではない。
しかも、道理が通っていないのはピサロの方だと、さすがの彼もわかっている。それでも彼は自身の職務に忠実でなければいけなかったし、道理が通る通らないは関係なく、周囲にどう思われようが遂行すべきだと考えている。
とはいえ、ロザリーの顔に泥を塗るわけにはいかないし、ミネアが圧倒的に正しいことは理解しており、これ以上の無理強いが難しいことを彼は重々わかっていた。
そこまでわかっていても、簡単に引くことが出来ないのが、彼の立場なのだが。
「それでも、あなたが強引にマリアさんを動かそうとするならば、こちらにも考えがあります」
「占い師、いくら鎧兜がなかろうと、お前のような女一人をひねることなぞ、造作もないことだ」
「わたしをひねって、どうするつもりですか?まったく建設的ではないでしょう。マリアさんの怒りをさらに買ってどうしようというんですか?」
「そんなことは、わかっている。が、こちらも手ぶらで帰るわけにもいかぬ」
「……手ぶらでは、ないでしょう」
ふっと、ミネアの気配が緩和した。
彼女の表情は、憐憫が垣間見えるようなもの。
ピサロナイトは一瞬、何かしらの同情をされたのだと思い、苛立った。が、どうやらミネアから感じ取ったその感情は、同情とも違うもののようだった。
「あなたが、ピサロさんから命じられたことを遂行するための近道は、どんなに歯がゆくとも待つことだと。それをわたしが保証しても、手ぶらだと思われるのですか?わたしは、姉と共にマリアさんと旅をしてきましたが、他の仲間よりも先んじてマリアさんと出会うことが出来ました。それが、一体どういうことなのか教えて差し上げないといけないのでしょうか?運命に導かれてみなさんはマリアさんのもとに集いましたが、マリアさんと出会うためにどこにいることが良いのか、それを意識的に行って、正しく早いうちに出会えたのはわたし達だけなんですよ」
「……占い師」
「信じないとおっしゃるなら、それもまたよし」
ピサロナイトは深い溜息をついた。
お手上げだ、と思う。
「今後、死ぬまで占い師とは敵対したくないものだ」
力なく呟くピサロナイトの様子を見て、小さく笑い声を漏らすミネア。
「その方が良いかもしれませんね。このまま帰っていただくのも申し訳ありませんから、もうひとつ手土産をお渡ししましょうか」
「手土産?」
「いつ、天空城に行けば少しでも良い風向きになるのかを、占って差し上げましょう」
「……その、良い風向きというのは、わたしにとって、だろうか」
「あら、聡い方ですね」
ピサロナイトは口をへの字に曲げた。
「マリアさんにとって良い日であれば、あなたにとっても進展の日だと考えられませんか?」
「……出来るだけ、近い日にちを言ってくれると助かるのだが」
完全に優位に立たれている、とピサロナイトは心中で舌打ちをした。
それから、マスタードラゴンの言葉を思い出す。
マスタードラゴンも、この占い師も。もしかしたら、マリアに関与するありとあらゆる人物が、声をそろえるのだろうか。
まだ、『その時』ではないのだ、と。
 
 
数日ゆっくり休んでも、あまり調子がよくない。
それでも、いつまでも寝ているわけもいかず、マリアは午前中の労働には出ることにした。
不調の原因の半分は、女性としての周期の乱れのせいだとわかっている。
あちらこちらの町へ移り、ピサロが追ってくるのではないかと気を張っていた間に、その乱れはやってきた。
今思えば、それこそがストレスと呼ばれるものなのだとわかるが、その頃はとても漠然と『あっちこっちにいって、疲れてるんだよね、きっと』ぐらいにしか思っていなかった。
が、今は違う。
ピサロナイトはやってきたが、地上で逃げていた時と違ってある意味ここは安心だし、生活にも慣れた。
ならば、その乱れがくる必要もないはずなのだ。
むしろ、順調に戻ってもおかしくない日々。
それでも体も心もストレスを感じ取って、彼女を通常の状態にしてくれない。
情けないという想いがつのるが、だからといってどうにかなるものでもない。
(逃げていることが、自分で許せないし、納得していないからだ)
覚悟をしてきたつもりだけれど、納得はしていない。
それは間違いのないことだ。
(こんな情けないことになるぐらいなら……)
本調子ではなくとも、それなりに働いて、昼食を摂る時間になり、天空人達は皆解散をした。もちろん、マリアも担当区域から自分の居住区へと戻っていく。
食欲もここ数日あまりない。それではいけない、と無理矢理果物を口にしたりしたが、調理されていないそれらの自然のものが、逆に無機的に感じられて食欲をそぐ。
地上の一般家庭で作られているような、母親が作ってくれるような料理が食べたい、と思うのは贅沢だろうか。
昨日は野菜スープを作ってみたが、少ししか食べられなかった。それでも、誰か人の手――といっても、マリア本人の手だが――で調理されたものを口にすることは、不思議な安心感をマリアに与える。
それに気付いて、そこまで食欲がなかったけれど、今朝は朝っぱらからパンを焼いてみた。
力が入らなかったけれど、そういう時にはそれなりに出来る、こねなくてもいいパンの作り方をネネに既に教わっていた。
腕が時々痛んで動かなくなるから、その時にということで、わざわざレシピを尋ねに行った時、ネネはパン以外でもいくつも簡単なものを教えてくれた。
だが、なんとなくマリアが作る料理のほとんどは『村で昔食べたものに似ている』ものばかりで、あまり馴染みのないものはネネから聞いても気が向かない。申し訳ないとは思うのだけれど、いつか気が向く時も来るだろうとも思う。
どんなにたくさんの町を回って、新しい物事を知っても、自分を育んだあの故郷での17年間は大きい。
この先、仮にこの地で17年以上暮らしたとしても、自分という存在の構築には故郷以上の影響を与えないだろう。
それらのことをマリアは漠然としか理解していない。
だが、故郷で食べたものに近いものでなければ作る気がしない、という明らかな心の動きだけははっきりと勘付いている。
それほどに自分にとって大きかったものを、ピサロは奪った。
そして、それなのに謝罪ひとつもなく、あの地に足を踏み入れ、マリアに会いに来たのだ。
剣を向けるなという方がおかしい。
孤独の中、ひとつひとつ作った村人の墓標。
暮らす場所は作ったけれど、誰もいない村での生活はどこかむなしく、やるせなく、けれども愛した場所を手放すことも出来ないマリアにとって、ピサロの来訪は転機といえば転機だった。
あそこで殺してしまえば。
そうすれば、みなの仇を討ったと墓標に報告をし、祈りを捧げ――マリアは祈りというものをよく理解していなかったけれど――あの村を出ることが。
あの村を出る?
(それは、わたしの勝手な妄想だ。みんなの仇を討つまでは、あの村から出ていくことが裏切りだと思うなんて、思い込みだ。わかってる。でも)
でも、どこかで何かの線引きをしなければ、次の一歩を歩き出せないような気がした。
だから、あの日剣を向けた。
それはマリアにとっては『そうせざるを得ない』ことだった、はずだ。
なのに、最後までやり通せなかったのは何故かと問われれば、うまく答えることが出来ない。
きっと、マスタードラゴンやミネアならば、『ピサロに剣を向ける時ではなかったのだ』なんていう曖昧な言葉が返ってくるのだろうが、マリアはそうは考えない。
もう一度、ピサロに剣を向けたら。
覚悟を決めてもう一度だけ、ピサロと対峙したら、何かが変わるのかもしれない。
それこそ曖昧で、根拠のない思いだ。
彼女をよく知る者――たとえば、マーニャやアリーナなど――が聞けば、一体どうしたのか、と、剣を振るうには少しきゃしゃな両肩を掴んで、マリアの体を揺さぶるだろう。
けれど、マリアが自分で思うよりもどうやら彼女の心は重症で、何かひとつ核になる思いにすがりついて楽になりたいと悲鳴をあげている。
それに対して悲しいほどに彼女は無自覚だったし、彼女の仲間もそんなことを知りようがない、静かな侵食。
外に迸ることがなかったそれが、体の中心の中で主張を始めて、ストレスという形で彼女に警告を与えている。
そんな彼女の脳裏に浮かんだのは、緑の甲冑の騎士。
わたしがいて、ピサロがいて、ロザリーがいて。
それでは、何も動かなかったのだ。あの旅の日々も、ピサロがやってきたあの月の夜も。
けれど、今はもう一人、その関係に近しい人物がいる。
(わたしがピサロを倒すつもりならば、彼がわたしの前に立ちふさがるだろう)
その時、ピサロはどうするだろう。
ロザリーはどう思うのだろう。
「……行こう」
マリアはぽそりと呟いて、マスタードラゴンの部屋へと向かうのだった。




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