月の欠片――空に生きる者たち(6)――

マスタードラゴンに会うため、マリアは天空城の中を歩いていた。
すれ違う数人の天空人はマリアの不調を知っており、声をかけてくる。
だが、その誰もがマリアにとってはまだ馴染みがなく、返す言葉も社交辞令の枠を超えない。
もう暫くすれば、個人的に話せるようになる天空人も増えるのだろうが、マリアはそれを「どうでもいいけれど」と思った。
ピサロの手から逃れるため、地上のあちこちの村に行き、あちこちの人々の生活の中に身を寄せた。
天空で暮らすということも、それとそう大差があるとは思ってはいなかった。
(でも、何かが違う)
ふらりと町の外に出かけられた今までと違うからだろうか。
狭い世界で生きることは、生まれ育った故郷で慣れているはずだ。
町ではなく、建物の中にほとんど閉じ込められているからだろうか。
それは若干あるかもしれないが、まだそれを苦にするほど時間は経過していないと思う。
天空人達は翼があるため、散歩のように時折空を自由に飛ぶ。マリアはそれが出来ないため、気晴らしの散歩というのも天空城の周囲を歩くぐらいだ。確かにその不自由さ窮屈さは感じている。
また、天空人達が地上に行く時はみな連れ立って、何かしらの理由を告げていく。彼らは、余程の事情がない限りは、単独で好き放題行き来することはない。
マリアは単独で動く自由をマスタードラゴンからもらっているが、だからといっていつでも好きに地上に戻れるとは思っていない。
勝手な行動が可能か不可能かで言えば、可能ではある。マスタードラゴンはマリアの能力に制限をかけていないからだ。
しかし、揺るぎのない規律が天空城にはあることを、マリアは重々承知していた。彼女は、自分もそれに従わなければいけないのかどうかを、はっきりとマスタードラゴンに問いていない。だが、それはわざわざ口にするよ うなことでもない、所謂暗黙の了解というものだ。
(確かにこういうことって、面倒で窮屈で堪らなくなってくるに違いないのよね。だけど、どれもこれも後から効いてくるもので、今はまだキツくはない。そうじゃなくて、深いところにある変えられないものが)
それが、じわりじわりと圧迫している。
まだ大丈夫、なんとかなるだろうと思っていた。明確な警鐘は自分の中では鳴っていなかった。だが、それが問題なのだと思う。
静かな蝕みは、性質が悪いのだ。
(マスタードラゴンは、わたしがここでうまくやっていけるって本当に思ってるんだろうか)
天空人はみな、マスタードラゴンを自分達の神として敬っている。
マリアにとって、マスタードラゴンはそういう存在ではない。
価値観の根底にあるものが違っても地上ではお互いを受け入れられるが、天空ではそれがなかなか難しい。そのことは理解していたはずだし、とりたてて何があったというわけではなければ、天空人を必要以上に嫌っているわけでもない。
だが、背に翼があるなしは関係なく、強烈な違和感がいつまでも拭えないことは事実だった。
同じ場所で同じ作物を育てたり、同じ音楽を聞いたりしても、なんだかそれは嘘の世界のように感じる。
ふとした拍子に「この人達は、わたしの本当のお父さんのことも、お母さんのことも、マスタードラゴンに逆らった罪人だと思っているんだな」と思い出すこともある。だからといって、そのこと自体を責める気はないし、
わざわざ問い質すつもりもさらさらない。
天空人達はある意味淡々としており、たとえマリアが罪の末に生まれた子供でも罪を問うわけでもなければ、同情をするわけでもないからだ。
ただ、両親が罪を犯した。それだけのこと。
ある意味では、地上の人間達の方が陰湿で、親の罪を引き合いに子供を苛めたりするのだから、そう思えば天空人達のその気質は悪いことではないのかもしれないとマリアは思う。
だが、その気質の短所としてある種の配慮不足がつきまとう。勿論、それは地上で育った人間にしか感じ取ることが出来ないことで、どれほど言葉にしようと彼らに理解させることは難しいに違いない。
マリアは天空城に来てからというもの、しみじみそんなことを考えざるを得なくなってしまった。
いつもいつもそういうことを考えているわけではない。第一、違いがあることぐらい、ルーシアと旅を共にした時に了解済みだ。
それでも、自分以外全員が天空人という状況になっては、どんなに目を背けようとしても、どんなに受け入れようと努力をしても、明らかに自分が異質なものに思えてくる。
大きな事件がとりたててあったわけではなくとも、日々の交流で緩やかに蓄積されていく何か。
それが、「ストレス」なのだろうと、行きかう天空人を見てマリアは思う。
(ああ、やだやだ)
情けない。
こんな姿をマーニャに見られたら、呆れられること間違いない。馬鹿ねって苦笑いを見せて、肩を軽く叩いてくれるだろう……そう思うと、少しばかり胸が痛む。
そして、ミネアだったらきっと、気持ちが穏やかになる飲み物を出してくれるだろうし、アリーナは心配そうな顔を一瞬しても、すぐ背中をバンと叩いて笑うだろう。
クリフトは。ライアンは。ブライは。トルネコは。
仲間達は、こんな自分をみんな笑いながら励ましたり、大した事ないよと茶化すに違いない。
(人は、人によって生かされている。それを知らなかったわけじゃない)
覚悟が必要だと思っていた。そう思うのは、自分が置いていこうと思っているものが、どれほど大切なものかを知っていたからだ。
知らなければよかったとは思わない。それらは、共に旅をした仲間達のみならず、シンシアを始めとした故郷で自分を支えてくれていた人々が教えてくれた、心の財産だ。否定をしたくはない。
しかし、知っていて尚、それを地上に置いてきたのは、何のためか。
もう一度それを自問自答することで、マリアはどうにもならない息苦しさに襲われていた。
多分、自分は欲張りなのだ。それは、間違いない。
そのことを知ったからといって、事態が何か変わるわけでもない。けれど、これは自分に言い聞かせておかない
といけないことだ。
何故と誰かに聞かれてもうまく答えられないが、マリアは苦々しくそう思った。


何度も足を運んだ大きな扉。
いつもならば、マスタードラゴンの部屋の前には天空人が二人、そして中にもまた護衛が必要ではないはずの主を守るように必ずいる。だが、今日はそれがいない。
大方、察して人払いをしたのだろうと思い、つい唇を軽く尖らせるマリア。
(そんな気の遣い方。そりゃ、天空人にあんまり聞かれたくない話になるのは、大体いつものことだけど)
マスタードラゴンはマスタードラゴンで、きっとマリアのことを考えてのことだろう。が、それを素直にありがたいと受け入れることはなかなか難しい。
マリアからすれば「気を使うのはそこじゃない」というところだ。
「入るわよ」
自分の口から発されたその言葉が、予想以上に不機嫌そうに聞こえたことにマリアは驚いた。
わざわざそれを失礼だとは思わないが、いくらなんでもこれはないな、と口端を歪める。
中からは何の応えもなかったが、マスタードラゴンが気を悪くしているわけでもなく、入室を拒んでいるわけでもないことは明白だ。
「失礼します」
さすがに先程の声音はまずかったな、と若干声を和らげてマリアは扉を開けた。
見慣れたはずの赤い絨毯。そして、その先にいる偉大なる竜の王。
何度も足を運び、何度も会ったはずなのに、それがやたら昔のように感じる。
(天空に来てからも、会っているのに。どうしてかしら)
やはり、自分は疲れているのだろうか。
マリアはぼんやりとそう思ったが、誰もその正しい解答を教えてくれるはずもない。自分でも何の確信もないことなので、考えるのを止めようと軽く頭を振った。
ぱさぱさと顔にかかる髪は、仲間達と旅をしていた頃に比べれば大分伸びたなあ、と思う。
「もう、大丈夫なのか」
先に口を開いたのは、マスタードラゴンの方だ。
大丈夫じゃなきゃ来てない、なんて憎まれ口がマリアの喉から出掛かったが、寸でのところでそれを留めることが出来た。
「うん。みんなに迷惑をかけちゃった」
「精神的なものと聞いたが」
「ストレスですって、笑っちゃうわ」
自嘲気味の笑顔に、マスタードラゴンは何も反応をしなかった。
マリアにとって何がストレスなのかを知っていて黙っているのか、それとも単に興味がないのか、その思いを外には出さない。
どちらにしても、マリアが来たのはそんな話をするためではなかった。 「お願いがあって、来たの」
「何だ。大体、身勝手なことだろうが、話だけは聞いてやろう」
まいったなと苦笑いを見せるマリア。それは、マスタードラゴンの言葉が図星だからだ。
確かに身勝手なことは承知している。
そもそも、どんな者であろうとマスタードラゴンに何かしら頼みごとをする時は、おおよそ身勝手なものだ。
取引が出来るような対等な者同士であれば、一方的な願いではなく相談から始まるのが筋だとマリアだってわかっているし、マスタードラゴンだって承知のこと。
(わたしがマスタードラゴンに頼むことは、ピサロナイトがわたしに無理難題を言うのと同じね)
ふとそのことに思い当たって、ほんの一瞬反省をするマリア。
「勝手なお願いなのは承知している……そろそろ、腕を治してもらえると助かるのだけど」
「うむ。確かに勝手だな」
「ごめんなさい」
それへは素直に頭を下げた。
「とりあえず、言ってみるだけならタダだと思って」
「成るほど。それは、言うはタダだが実際やらせるとなれば何かしら取引が発生すると思っているということか」
「わたしがあなたと取引出来るようなことなんて、この世界であるようには思えないから、お願いに来たんだけど」
「成るほど」
同じ言葉を繰り返し、マスタードラゴンは静かにマリアを見つめた。
何度面会をしても、いつもマリアはマスタードラゴンの真意を測りかねる。それは当然だとも思っていた。
大体、マスタードラゴンの思惑がわかるぐらいなら、もっと色々なことがうまく出来るに違いないし、天空人達に敬われるぐらいの存在になれるに決まっているのだ。
マリアに出来ることは、自分を正面から見るマスタードラゴンに怯むことなく、あちらから言葉を紡ぎだす事を待ち続けることぐらい。
やがて、マリアのその苦労は報われ、マスタードラゴンはゆっくりと尋ねた。
「お前は、あの男を殺したいのか」
「あの男ってのは、ピサロのこと?」
否定の言葉が返されないことで、マリアはそれを肯定と判断した。そして、はっきりと回答を告げる。
「みんなの敵討ちをしたいと、ずっと思っているわ」
その言葉に嘘はない。
ずっとずっと願っていたことだ。
自分の故郷を滅ぼした魔族達を倒し、みなの無念を晴らす。
長い旅の始まりから終わりまで、それは忘れることが出来なかった思いだ。
が、その言葉でマリアが逃げていることを、マスタードラゴンは見透かしていた。
「だが、お前は自らあの男を殺しに行かぬな」
「そうね。会わなければ、殺さなくて済むと思ってた。片目を閉じながら生きていけば良いと思ってたの。見えないふりを、ね。だって、世の中の人達、本当はみんなそうやって生きてるんでしょ?」
「ふむ……」
曖昧な相槌で、やはりマスタードラゴンは肯定も否定もしない。
「魔族が地上の人間と共存出来ない理由は、天空と地上が交われないことと同じよね。この地の理は、まったく違うけれど、魔の者達の理と似ている。そして、ロザリーは不思議と地上の人間達に近い。だから、わたしはロ ザリーは嫌いにはなれないの」
「この地の理と、魔の者達の理が似ていると」
「そう。天空に住む者も、魔の者も、どちらも両目を開けて生きている。揺れることがないものに従って、それを疑わないで」
「おもしろいことを言う」
「あなたが決めたことは絶対。ピサロが決めたことは絶対。でも、地上の人間には絶対者なんていない。わたしが幼い時に、わたしの本当の父親の命をあなたが奪ったからといって、あの村の人達はあなたを絶対者であると 、神であると、そんな風に思わなかったんじゃないかしら」
「そうだな」
ようやく、はっきりとした肯定の声。
マリアは、まさかここでマスタードラゴンからそんな返事が聞けると思わなかったのか、驚いて言葉を止めた。
ぐるる、と低くマスタードラゴンは喉を鳴らし、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「地上の者達は、両目を開けて生きるには、人数が多すぎる。ただそれだけだ。個体が多ければ多いほど、統治する者は増え、集合体は分割される。通常、それぞれの立場を公平にするには白黒はっきりしたものに従うべきだが、増えすぎた集合体を集合体として成立させるには、曖昧なことを多く許す必要があるのだろう。増えれば増えるほど、「違う」個体に囲まれる。一人にとって大切な個体が、誰かにとって不要な個体とされることもあろう。地上人は、それを是としない。であれば、生き方が違うこと、理が違うことは当然だ」
「うん」
「それをわかっていながら、お前はここに来た。別の苦しみから逃げるために」
別の苦しみから。
そのマスタードラゴンの言葉に、マリアは眉根を潜めた。それは、「別」ではない苦しみがあると指摘されたからだ。
「マスタードラゴン」
「他に、いくつか問おう。マリアよ」
マスタードラゴンはゆっくりと体を動かし、立派な尾の位置をもぞもぞと動かした。それはまるで、人間が改まった話をする時に姿勢を正す様子に似ている、とマリアは思う。
「仇をとりたいと。それは、何をすれば仇をとったことになるのだ?」
「……わたしに、言葉にさせたいのね」
マリアの答えを待たず、マスタードラゴンは次の質問を重ねた。
「片目を閉じてやり過ごせる程度しか、あの男を殺したいと思っていないのだな?」
「……」
「勘違いをするな。それを責めるわけでもなければ、逆にピサロを殺したいと思うことを責めるわけでもない」
「村のみんなを、あいつは殺した」
「わたしは、お前の父親を殺したぞ」
「あいつは、わたしを殺すために、罪もない子供達をさらったり、腕の立つ人達を殺した」
マスタードラゴンの質問に対して、マリアの返事は早い。だが、早いだけだ。その言葉に説得力は欠けていたし、声にも力がない。
やがて、彼女は「ふふ」と小さく声をあげ、苦笑いを見せた。
「ピサロを仲間にして、旅をしている間ずっとずっと片目を閉じていた。そうじゃなきゃ、ピサロと一緒にいられなかったから。旅が終われば、それも終わりだと思ってたけど、閉じてしまった目を開けるのは、思いの他大変だわ」
「そうか。それがわかっているのならば、大丈夫だろう」
「何も大丈夫じゃないわ。くっそ」
口汚く言うと、マリアはマスタードラゴンを蹴る素振りを見せた。実際彼女はマスタードラゴンから随分離れた位置にいるから、片足をどんなに懸命に蹴り上げても届くはずがないのだが。
ちっぽけな人間のそんな抵抗なぞ意に介さぬようで、マスタードラゴンはそれについては何も言及をしなかった。
低い唸り声を小さくあげて、マリアに重々しく告げるマスタードラゴン。
「……勇者として生きるため、お前は足枷を自らつけた。そして、今はまた別の足枷をはめようとしている。それが、お前がお前として生きることを封じる足枷でなければ良いが」
「似たことを以前クリフトに言われた」
「ほう?サントハイムの神官がなんと」
「人は生きている間にどんどん自分に錘をつけていくんだって。意識してもしなくても。でも、わたしの錘は人より重いように感じるから、気をつけろって」
「ふむ、で、お前は気をつけたのか」
「気をつけてどうにかなるの?それって」
「さあて」
肝心なことははぐらかす。それはマスタードラゴンの意地悪ではなく、彼という存在が持つ影響力ゆえのこともあると、マリアはうっすらと理解をしている。
彼は時に、人が求める真理というものを口にすることをはばかる。
それは、彼が空に生きる存在であり、地上の人間と理が違うからではない。
彼は基本的にはどんなことに関しても、責任を追及されるような存在ではないのだ。
いや、そうであってはいけないと己に課しているのかもしれない。
「で、本題はなんだった?」
マスタードラゴンはとぼけた風に尋ねた。
そうだ、話はかなり最初のうちに逸れていたのだ、とマリアは慌てて「腕」と口走り、それからすぐに唇を引き結んだ。
わかっているくせに、そういう風に話を振り直す。それは、今はまだマスタードラゴンが彼女の「お願い」を聞く気が無いということだ。
マリアはそれを追及しない。追及しようがしまいが、マスタードラゴンが叶えてくれないことは明らかだし、きっと理由を尋ねてもマリアがわかるようには教えてくれないのだ。
引き結んだ唇が緩んで、ふう、とため息が自然に出た。
「……どうして、あいつがここに来ることを許可したの」
「あいつ?」
「ピサロナイトよ」
「呪いの甲冑の者か」
「呪いの甲冑……?」
「あの緑の甲冑は、普通の甲冑ではない。よくもまあ、あんなものを身に着けた部下をここに遣わしたものだ。
気の毒に。で、なんだと?」
「どうして、あいつがここに来ること許可したの」
「認めねば、ピサロがやがてここに来ることだろう。いかな愚鈍な魔族だとしても、時間稼ぎぐらいは出来るだろう。お前がその足枷をしつつ生きる覚悟が出来るまで。あるいは、その足枷をはずす覚悟が出来るまで。そのどちらも出来ぬまま対峙したいと言うならば止めぬ」
「……そう。優しいのね、案外と」
お手上げだ、とマリアは自分の負けを認めて、肩をすくめた。
「でも、わたしもね。急がなきゃって何かが焦ってるの。何も考えてないわけじゃないわ」
「それぐらいは、わかっておる」
「そうなの?」
「勇者マリアは、そもそも聡い。その聡さゆえに片目を閉じ、その聡さゆえに己の欲望に蓋をし、その聡さゆえに己以外のものを傷つけることを恐れる。もっと阿呆であれば、あるいは、天空の理で生きていれば、このように多くの糸が解けぬところまで絡まらずに済んだものを。その聡さはお前には邪魔なものだったのかもしれぬ」
「褒めてるの、褒めてないの」
「褒めている」
「もう、いちいちわかりにくいんだよ……」
ぶつくさと文句を言いながら、マリアは扉に向った。
きっと衛兵が見ていれば、なんという無礼な、といわれるに違いないその不遜な行為を、マスタードラゴンは咎めずに受け入れた。
話は終わりとか、面会ありがとうとか。
退出の旨を告げる言葉など何一つなく、マリアは部屋を出ようとした。
「マリアよ」
「ん?」
扉の前に辿り着いたマリアの背に、マスタードラゴンが声をかける。
立ち止まってゆっくりと振り返るマリア。
「お前が、地上の人間に近い、と評したあのエルフ」
「……ロザリー?」
「あのエルフの覚悟がどれほどのものだったか、知らぬわけではあるまい。両目を開けるということはそういうことだ。片目を閉じ続けてはいられない時が、どんな生き物でもやってくる。地上の者達は、いつもそれがもっと先であるようにと願っているようだが」
マスタードラゴンの体のサイズ、竜の目の位置は特殊で、その部屋のどの位置にいても人間が視線を合わせることがなかなか難しい。
それでも、時には水晶の一種をはめ込んだように見えるマスタードラゴンの瞳を、マリアは精一杯見据えた。
「両目を開けたからといって、どれほどの覚悟をしたからといって、ロザリーの力で出来たことはわずかなこと。両目を開けようと決めた時には、両足で立たなきゃいけない。自分の覚悟を人に委ねるようなことは、わたしはしたくないわ。片目を閉じ続ける人間が、全て逃げているだけではないと思うけど」
「それも、確かに」
重々しいマスタードラゴンの頷きを聞くや否や、マリアは扉を開けた。



この日に天空城に行けば、風向きが良い。
そうミネアに言われた日まで天空城に行くことをピサロナイトが我慢が出来たのは、ピサロからの呼び出しがなかったからに他ならない。
理由はわかっている。気を使ったロザリーが「世界樹が見たい」とピサロに嘆願し、折角だからと数日恋人達の時間を過ごすことになったからだ。
とはいえ、そういう状況でもピサロが日がな一日ロザリーに付き合うことは珍しい。
(きっとピサロ様はわかっていらっしゃるのだろう)
ロザリーからの願い事が、ピサロナイトへの容赦の嘆願だということが。
ピサロがわかっていてそれを受け入れるのは、彼もまた自分がピサロナイトに命じたことが性急すぎることを重々わかっているからだ。
(ピサロ様は、暴君ではない。出来ることと出来ないことを見分ける力を備えていらっしゃる)
天空相手では誰が行こうと梃子摺る。それはピサロもわかっていることだ。
むしろ、ピサロが口で言うほどピサロナイトがスムーズに主の命にそって、物事を片付けてきたとしたら。
それはそれでおもしろくないこともピサロナイトはわかっていた。
ピサロとロザリーは、先日マリアのことでいくらか口論めいたやりとりがあったはずだが、そのことで仲違いをするような間柄ではない。
二人きりで過ごす数日、きっとどちらもマリアの名も自分の名も出さないだろう、とピサロナイトは思う。
(今日は、お二人に報いるためにも失敗は許されない)
そう思っても、何をすれば「成功」になるのかは、いまだ考えあぐねていた。
彼は勝手に、ミネアが言う「この日に行くと良い」日までに、己の中で答えが出ているのではないかと期待をしていた。だが、それはあっさりと裏切られ、どれほどマリアのことやピサロ、ロザリーのことを考えても、先日天空に行ったときと心持が変わることもなければ、良いアイディアも思いつかない。
(だが、あの占い師はわたしを謀るような人物ではない。甘い人物でもないが)
彼とて、楽観して決してこの日までに何も考えなかったわけではない。それでも、彼にはもう限界が来ていた。
すがれるものは、ミネアの言葉だけ。
そして、自分に課すことは、今日という日に訪れるだろう「何か」のチャンスを嗅ぎ分けること。
彼とて、己の力の無さに打ちひしがれたが、だからといって何もしないわけにはいかない。
ピサロから呼び出されるかもしれない、という思いを抱えつつも、彼は彼で自分に出来ることをしたつもりだ。
彼が把握している、勇者マリアが転々とした土地。そこで彼女をかくまった人々のもとに、彼は足を運んだ。
驚いたことに、ガーデンブルグの女王は、彼を邪険にしなかった。
それどころか、マリアが何故逃げているのかを、彼から聞き出そうとする始末。
あちらの方が役者が上だと気づいたピサロナイトは「これだから人間の女は恐ろしい」と内心呟きながら、ガーデンブルグを後にした。
だが、マリアについてまったく有益な情報がなくとも、彼にはわかったことがある。
彼女は転々とさまよいながら、誰にも「何故ここにいるのか」「何故逃げているのか」といったことを誰にも明確に語っていなかったようだ。
そして、それを追求する者もいないという事実。それに彼は驚きを隠せなかった。
ガーデンブルグに彼がやってきた時、明らかに彼は警戒され、マリアを逃がそうという動きに抗うことが出来なかった。だが、それら全ては「何故マリアを逃がさなければいけないのか」「何故彼女が追われているのか」ということを知らぬ人々によって行われた、無償のことだったのだと知った。
どういう信頼関係があるのか彼には理解が出来なかったが、最後に女王が告げたのは
「勇者マリアはどの国にも所属をせずに生きている。そうすることが平和維持に必要なことを彼女は知っている。そして、彼女がそうであればそうであるほど、この地上のどの国も彼女を敬うことでしょう」
という言葉だ。
勿論、いくら鈍いピサロナイトでもその言葉の意味はわかる。
反面、では勇者マリアが天空に所属する存在になったらどうなるのか、と喉元まで競りあがってきたが、彼はそれを飲み込んだ。
海辺の村はともかくとして、マリアが勇者であることを知って彼女を囲う国々は、どこも本当は自分の国に彼女を住まわせたいと考えている。
勇者がいるということは、国力に結びつくからだ。
それでなくとも、勇者の一行として語られている中でサントハイム王家に縁の者が三名もいて、それだけで国々はあれこれ勘繰らずには居られぬのが、悲しいかな人間界ゆえのこと。
サントハイムが戦争をしかけるなど誰も考えないけれど、国と国の諍いがあれば、実質サントハイムの武力はエンドール以上のものと言える。しかも、王族の直系であるアリーナ姫は武芸の達人だ。
みな、強い者を備え、お互いの抑止力にしたいと思うのは当然のことだ。
その中で最も焦点になるのは勇者マリアの所在。
(あの女も、ただの阿呆ではないということか)
人間達の思惑と、それに対するマリアのスタンスをピサロナイトは学んだ。
だが、それは彼女を地上に引き戻すために何の威力も発揮出来ぬ内容であり、何の決めても手に入れられぬまま。
それから、彼は再度マリアの故郷に足を運んだ。
経過した日数はそう多く感じていなかったが、マリアが植えていった花達は、蕾がついていたものは咲き、咲き誇っていたものは萎れ、次の時期を待とうとしていた。
ただただ、その場所は静かに時が流れ、これ以上彼に何を告げることもない。
どうして再びここに足を運んだのか、それはピサロナイト本人にもわからなかった。
彼女の故郷であるその場所は、彼女が生活していた時とはまったく姿が違うはずだったのに、不思議と彼には納得が出来た。
ぼうぼうに生えた草木、建物があったと告げるためだけに残った瓦礫、惨状を誰かに語ろうとする毒の沼、わずかな期間彼女が過ごしたのだろう居住場、そして。
悲しみの墓標と、それを飾る花々。
自分達魔族が滅ぼしただとか、そういう話はどうでもよい。
ただ、この場にもし村があったとしたら。
こんな不便な山奥なのに、きっと彼女には居心地がよかったのだろうと、想像が出来たのだ。
海辺の村で、マリアから渡されたパン。
旅の最中に覚えたものではないだろうと、容易に想像が出来る。
誰かがここで、彼女に教えたのだ。
勇者として育てられながら、この場から出ることを禁じられながら、それでも少女として。
(この前は、このような感傷など感じなかったというのに)
誰かを知ろうということは、このように自分の心も揺れるものなのか。
ならば、それは自分には必要ない。
ピサロナイトはそう思い、それ以上彼女のことを考えないようにと努めた。
だが、そんな彼の脳裏に浮かぶのは、マスタードラゴンの言葉。

「説得される側のことを考えて、考えて、考え抜けば、おのずと見えるものだ。お前がそこまで辿り着いている
ようにはまったく思えぬ」

あの日から、何度もそれを思い出しては、選択肢を間違えぬようにと幾度も思いを馳せた。
(情とやらに訴える気ではなかろうな。わたしが彼女について考えれば考えるほど情が沸くように。あちらにとって都合が良いように事を運ぶために)
マスタードラゴンを疑っても何も良いことはないとはわかっていても、疑心暗鬼になるのも仕方がないこと。
あの竜は彼に天空城に来ることを許可したが、ピサロナイトを妙な誘導に巻き込もうという思惑があるかどうかは彼には判別がつかない。
しかし、答える必要がないピサロナイトからの問いに応えてくれたマスタードラゴンを疑っても、今の彼に得られるものはひとつとしてないのだ。
自分にはまったくもってマリアと取引が出来る「何か」を思いつくことも出来ず、それに近づける希望も感じられず。このままでは、次の手段が必要なのでは。そうピサロナイトは深い失望感に苛まされ続けた。
そんな数日を過ごし、ピサロナイトは覚悟を決めて天空に向かった。
マリアに向かって、最初に何を話してか良いのかわからない。それ程に曖昧な状態で。


「よく来たな」
ピサロナイトを迎えたマスタードラゴンが、最初に発した言葉がそれだ。
よく、来たな。
それは、少なくとも地上では来訪者を歓迎する意味を持つ。それゆえ、ピサロナイトはいささか動揺をした。
婉曲した嫌味なのだろうか、と一瞬考えたが、マスタードラゴンほどの存在が、そのような回りくどい嫌味をピサロナイトに向ける必要が思いつかない。
ピサロナイトは未だ、マスタードラゴンがどういう物の考え方をする存在なのかを測りかねていたが、少なくとも力関係は比べ物にならぬほど離れている。
であれば、わざわざピサロナイトに向って己の心を偽る必要もない。それは、先日、初めて面会をした時にいやというほど知らされたことなのだ。
「許可を頂き、感謝する」
「良い。それは、先日のこと」
「言われた通り、前回と同じ時刻に来たのだが、勇者マリアは労働とやらをしているのだろうか?」
「マリアは今日は休んでおる。体調を崩したゆえに」
「体調を」
軟弱な、と思ったけれど、口に出すのを寸でのところで留まるピサロナイト。
「寝ているやもしれぬ。誰ぞに様子を見にいかせよう。それまで、また茶でも飲んで待っているがよい」
それは、前回と同じく、罪を償っているという天空人のもとに行けということだ。
「マスタードラゴン」
「うむ」
「わたしは、彼女との取引材料を見つけることが出来なかった」
「そうか」
「何が、足りぬのだろうか。それは、わたしに見つけることが出来るものなのだろうか」
「さあな」
無責任な答えに、ピサロナイトは眉根を潜めた。
だが、マスタードラゴンを責めることはお門違いだと気付き、平静を取り戻そうと勤めた。
「またあの天空人の部屋で待っていれば良いのだろうか」
「うむ」
「では、失礼する」
それ以上の問答は、マスタードラゴンにとりあって貰えないだろう。自分の直感を信じて、ピサロナイトは素直に頭を下げ、その部屋を出た。



前回天空人の女性に言われた通り、不承不承ピサロナイトは冑をとって天空城を歩いた。
顔を晒さずに歩く方が彼にとっては都合が良いのだが、息苦しさも緩和されるし、魔族である自分に自由を与えたマスタードラゴンの顔をたてることも必要だと考えてのことだ。
通路で天空人数人と出会ったが、みな端に寄って彼を見ながらひそひそと耳打ちをしている。
その程度のことで不快に思うほどではないが、いい気がするわけでもない。
足早に前回連れて行かれた部屋に向かい、いささか乱暴に彼はノックをした。
「はい」
彼の来訪を知っていたのか、まったく戸惑いもなく、即座に部屋の扉は開けられた。
貧相な翼を持つ天空人が顔をのぞかせる。
「先日の茶の振る舞い、感謝している。申し訳ないのだが、今日も」
「どうぞ、お入りください」
「失礼する」
中に入ると、既に茶を蒸らしているのか、芳醇な茶葉の香りが部屋に広がっている。
手にした冑を足元に置いて、先日と同じ椅子に腰をかけた。
「……自分がここに来ることを、知っていたのか」
「マスタードラゴンのもとに、あなたが訪れたとお伺いして」
「そうか」
天空城内のネットワークに関する知識を、彼はまったく持ち合わせていない。
そもそも、ピサロナイトが来たからといって、この部屋を尋ねるまでの時間がどれほどかかるかもわからない。
茶葉を蒸らしすぎれば苦味も出るだろうし、見計らったようなその心遣いが逆に居心地の悪さを感じさせる。
「今日も勇者マリアに会いにいらしたのですか」
「そうだ。体調不良と聞いたのだが」
「!」
ポットから茶をカップに注ごうとしていたその女性は、驚きの表情で一瞬ピサロナイトを見た。
が、すぐ様カップに視線を落として、静かに呟く。
「そうですか」
彼女のその一連の様子を見て、ピサロナイトは「何か気になる」と直感を得た。
何がどうと説明は出来ないが、少なくともこの天空人は勇者マリアについて何らかの個人的な感情を抱いているのではないかと、彼が感じるのも当然のことだ。
平静を装った呟きは、まるでそこだけ切り離されたようにやたら乾いている。
それだけのことでも、ピサロナイトが探りをいれようと考えるには十分だった。
「そういえば、罪人とのことだったな。勇者マリアの近況については知らないのか。前回来た時は、彼女が労働をしていることなどは知っているようだったが」
「いえ、他には存じません。勇者マリアがこちらの城に来た時には、天空城に住む全ての住民にその旨が周知されましたので、労働を行うこと等は伝えられましたが。体調不良とは初耳です。天空人と地上人の血を半分ずつひいている彼女が体調を崩したというのは、地上で言うところの風邪のような病なのか、それはここでも起きる
ことなのか……残念ながら、想像すら出来ません」
「……」
「どうぞ」
芳しい香りを放つ茶のカップが、ピサロナイトの前に置かれた。
先日とは違って、薄紫色の花の桜漬けを乗せた白いプレートが、その脇に添えられる。
ピサロナイトは礼を述べ、茶を一口飲んだ。
注意深く動向を探ると、彼女は自分の分の茶をカップに注いで、静かに向かいに座った。
そのまま二人は口を閉ざし、沈黙の時間が過ぎる。
ピサロナイト自身、自分がこういう役割が苦手であることを重々わかっている。
とくに話題を考えてこなかっただけではなく、先ほど感じた勇者マリアとの関係を探る言葉も、いくら捜しても彼にはみつけることが出来ない。
(大体、こういうことは……)
エビルプリーストが得手としていたことだ。
剣を振るうことの方がどれほど楽なことか。
その思いが顔に出たのか、部屋の主は怪訝そうに彼に声をかけてきた。
「お口にあいませんか?」
「あ、いや……」
自分が難しい顔をしていたのかもしれない、と我に返るピサロナイト。
もう少し様子を探れればと思いつつ、結局彼はそれ以上何を言うこともなく茶を飲み干してしまった。
「もう一杯お召し上がりになります?」
「いや……あ、うむ、半分ほど頂いてもよいだろうか」
「はい」
それほど喉が渇いていたわけではないが、茶を飲んでいる間はこの居心地の悪い空気も耐えられる。彼はそう思って、言い直した。
手馴れたように彼女が茶を注ぎ足すのも、そう時間がかからない。
「どうぞ」
部屋の主は穏やかな声音で一言添えて、再びピサロナイトの前にカップを置く。と、それと同時に、室内にノックの音が響いた。
「あら……」
マリアが直接来たのか、それとも違う天空人なのか。
ピサロナイトは腰を浮かせかけたが、茶を淹れて立ったままだった彼女がそれを制するように軽く首を振り、扉を静かに開ける。
どうやら、来訪者はマリアではなかったらしい。ピサロナイトが座っている場所から姿ははっきりと見えないが、それぐらいは判断が出来る。
わずかな扉の隙間で、声を潜めたぼそぼそとしたやり取り。
普通の人間ならば聞こえないと思える音量でも、ピサロナイトの耳にははっきりと届く。
勇者マリアが部屋にいない。
居住区にも労働区にもいないから、この辺りにいるはずなのだが。
もう少し客人の相手を続けて欲しい。
その三つの会話を確認しただけで十分、とピサロナイトは立ち上がった。
「わたしが歩ける範囲にいるならば、自分で探すが」
その言葉にびくりと体を震わせる二人の天空人。
聞こえていたのか、と咎める表情を向ける二人に、ピサロナイトはこれっぽっちも悪いと思っていなかったが、形ばかり謝罪をした。
「申し訳ない。わたしの耳では、特に気をつけずとも二人の会話が聞こえてしまって」
「……魔族がみな耳が良いわけでもないと思ってましたが」
「確かに。魔族でもエルフでも、尖った耳があれば耳が良いというわけではない。聞き耳をたてるようなことになって、申し訳ない」
彼の二度目の心無い謝罪の途中で、部屋にやってきた天空人が、はっと横を――それは、通路の遠くを見るような方向で――向いて小声で囁いた。
「っ……勇者マリアが、こちらに」
「!」
その言葉に反応をしたのは、ピサロナイトではなく部屋の主の方だった。
バン、と荒っぽく扉を閉め、彼女はすぐ様部屋の奥へと戻る。
その行動の不自然さは、ピサロナイトに気に障った。
だからといって、それをどうこう問い詰める暇は彼にはなく、注ぎ足してもらった茶をカップに残したまま、冑を脇に抱えて立ち上がった。
「近くにいるならば、これで失礼しよう。それでは」
「あっ、あ、待って下さい!」
「無駄な時間が惜しい。また見失っても困る。非礼は次回があれば次回謝ろう」
早口でそう言うと、一応頭を軽く下げ、部屋の主の声を無視してピサロナイトは扉を開けた。
部屋の奥から「お待ちください!」ともう一度か細い声が聞こえたが、駆け寄ってまで止める素振りはないようだった。
むしろ、扉に近づくことを恐れるような態度が気になったが、マリアを会うことを優先し、ピサロナイトは通路に出る。
と、先程やってきた天空人と思える女性が、勇者マリアと何やら問答をしている姿が彼に視界に飛び込んだ。今日も、天空人が着ているような柔らかな布のワンピースらしい服を着ている。
通路の先、角を曲がってきたばかりといった場所で、天空人はマリアを何やら止めているようだ。
「客人がいらっしゃってますので、図書室の方にでも」
「どこにいるの」
「そちらに、わたしが案内しますから」
「だから、どこにいるのって……!!」
と、言い争っているマリアは明らかにピサロナイトに気付き、表情を変えた。
乱暴に天空人を押しのけて、通路を走ってくるマリア。
天空城の床は、地上で言えば白い大理石のような材質で出来ている。そして、天井も壁も地上にはない材質のもので作られており、それらへのピサロナイトの印象は「無機質だが厳か」だ。
だというのに、それにまったくそぐわぬように、マリアは前傾姿勢でまっすぐピサロナイトを睨みながら勢いよく突っ込んで来る。
あまりの剣幕にピサロナイトは怯み、一瞬冑を被ろうかという思いすら脳裏を掠めたほどだ。
「お前、今、その部屋から出てきたの!?」
「……っ!」
気圧される。
今まで何度か会って、喧嘩腰になりながら会話をしてきたけれど、ここまでマリアから強い悪意をぶつけられたのはサロナイトには初めてのことだった。
しかも、彼に対する二人称に「お前」等と居丈高に言われることもこれまではなく、明らかにその声音は荒々しい。
あっという間に距離をつめたマリアは、下からぎろりとピサロナイトを見上げ、鍛えられた右腕を突き上げた。
「!!!」
「答えろ!」
予想外の行動に呆気にとられていたピサロナイトは、あまりに素早く下から潜り込んできた彼女の拳を、完全には避けきれなかった。
ぴたりと彼の顎に触れるか触れないかの位置で、マリアの拳は止まる。
「右腕は今日は動くのだな……サントハイムの姫譲りなのか、それは」
「そんな減らず口叩く暇があんの?平和ボケしてんじゃないわよ。お前とわたしはいつ殺し合いが始まってもおかしくないんだから」
「その細腕で殴られても、死ぬわけがない」
「やってみなきゃわからないでしょう」
マリアの目は、言うならばぎらぎらとしている、とピサロナイトは思う。
これまで何度も彼女から冷たい言葉を発されたり、怒りに任せて言葉を投げつけられたりもした。
だが、それらとまったく違う感情が今の彼女の中に渦巻いていることを、その強い眼光は物語っている。
(やはりこの部屋の主と、なんらかの関係があるのか)
自分の勘は間違っていなかった。そう思いつつ、ことを焦らぬようにとピサロナイトはゆっくりと言葉を選んだ。
「……で、何をそう苛立っているのだ」
「その部屋から、出てきたの?」
「そうだが」
「どうして、お前がその部屋に」
未だ二人称は「お前」だ。これはなかなかの重症だな、と彼は眉根を寄せたが、その表情を見てもマリアはまったく力を抜く様子もない。
「……ひどい顔だな。人間達が言う悪鬼とは魔物のことを指すようだが、今はお前の方がそれに近いようだ」
ピサロナイトは空いている方の手で、そっとマリアの拳をどけようとした。
だが、ぴたりと静止しているその細腕は予想以上の力で固定されており、彼のおざなりな抵抗ではびくともしない。
「わたしがここから出てきたら、何か問題があるのか」
「……」
「わたしは、お前の質問に答えたぞ。お前も質問に答えるのが筋ではないのか」
「ピサロみたいな言い方をするな」
「仕方ないだろう。誰かと何かしらの交渉をする場面は、ピサロ様を見て学んできたのだし」
「もっとマシな手本はなかったの」
若干落ち着いたのか、ゆっくりとマリアは腕を下ろした。が、相変わらず険しい瞳でピサロナイトを見上げている。
「どうやってその部屋を突き止めたの」
「先に質問に答えて欲しいものだが」
「……」
マリアは、ちらりと通路を振り返った。
先程までそこにいたはずの天空人は既に姿を消している。
「あなたがこの部屋にいることを知らせないようにと、天空人達が画策をしていたのね」
「そうなのか」
どうやら、マリアはようやく少し落ち着いたで、ピサロナイトに対する呼び名も穏やかなものに戻った。
勿論、彼とてそれに気づいていたが、わざわざ蒸し返すような指摘はしない。それこそ、藪をつついて蛇を出すようなものだ。
「ってことは天空人達は知っていたわけで……マスタードラゴンが仕組んだってこと。そりゃそうだわ。そこに入ることが許されている天空人なんて、一人もいないんだもの」
「そうなのか」
「……中にいる天空人は、元気だった?」
「元気、なのかはよくわからない。他の天空人と比較にならぬほど、貧相な翼で、身体はやつれているように見える……が……多分、美しい人なのだろうと思う」
「……そう」
力なく呟くマリア。
先ほどの勢いが嘘のように、彼女は目を伏せた。まるで、静かに何かに耐えているようにピサロナイトには見えた。
「誰とも会えぬ罪人だから、お前を待つ間話し相手になってやってくれと。先日ここに来た時にも、この部屋に案内された」
「そうだったの」
「答えぬのか。わたしの問いには」
「むう」
あからさまに不満気にマリアは唸った。それが、その辺りの町娘が我侭を通そうとする様子に見えて、ピサロナイトは笑いそうになったけれど、なんとかそれを堪える。
確かにマリアとピサロナイトは、先ほど彼女が言ったように、いつ何が起こるかわからない、命の取り合いをしてもおかしくはない間柄だ。
だが、そんな相手であるピサロナイトに対しても、マリアはいつも人間界で言うところの一定の義理は果たしているように彼は思う。
案の定彼の思惑通りに、嫌々ながらマリアは答えを返した。
「わたしとの取引材料に、ここにいる天空人をあなたが巻き込もうとしたのかと思って」
「……ふむ。それは、有効な手段だと言うことだな」
「でも考えたら、そんなこと出来るはずがなかった。ここにいる罪人は囚われの身かもしれないけれど、マスタードラゴンに保護されているんだもの。あなたが何かをしようとすれば、すぐにマスタードラゴンがあなたの自由を奪うはず。頭に血が上った」
「頭に血が上るほど、お前に縁のある者なのだな」
「もーー!いちいちうるさいわね」
駄々を捏ねる子供のような言い草に、ぴしゃりと反論をするピサロナイト。
「有無も言わさず暴力に訴えようとしたお前に言われる筋合いはない」
「暴力に訴えてないでしょう。本気を見せてあげただけよ」
「同じことだ」
それへはさすがにマリアもバツが悪そうな表情を向ける。
「確かにそうね。悪かった。さっきも言ったでしょう。頭に血があがったのよ」
「お前はヒステリー気味なのか。体調が悪いと聞いたが、そのせいか」
「違うわよ……もうー……」
ぺたりと床に座り込んで、膝を折って両足を抱え込むマリア。
「ああもう、あなたと会うといつもこんな風にぐるぐるする」
「ぐるぐる」
ピサロナイトは立ったままマリアの頭を見下ろす。と、その視線を感じたのか、打ちひしがれた様子だった彼女は勢いよく顔をあげ、またもピサロナイトを睨んだ。
「あっ、今、髪がぐるぐるだって言おうとした!?」
「はっ!?……し、していない」
「ほんと!?」
何の話だと思いつつ、なんとか適切な言葉を選ぼうとピサロナイトはもごもごと返す。
「していない。第一、そんなに……ぐるぐるではないだろう」
「……そうか……ぐるぐるが緩くなるぐらい、伸びたんだもんねえ……」
マリアは自分の髪の束を掴み、鼻の先に持って行くと、しみじみとそれを見た。
ピサロナイトはそれまでまったく意識をしていなかったマリアの髪型を、今まで会った時々の様子から思い出そうとする。
緑の髪は珍しい。だから、どこでマリアを見てもすぐに「あれが勇者マリアだろう」と思うだけで、どういう髪型だったのかは長い短い以外に意識をしていなかったことに気付く。
「そういえば、ぐるぐるだったかもしらんな」
「あ、なんか人に言われるとちょっとムカっとくる」
「子供の頃からぐるぐるだったのか」
「そうよ。ずっとぐるぐるだったのよ。旅の途中だって、たまにミネアが上手に切ってくれて。村に居た時にお母さんが切ってくれたのと、大体同じ感じにいつもしてくれたの。凄いのよ、ミネアは」
あの占い師が、と声に出しそうになって、それをなんとか押し留めるピサロナイト。今はまだ、ミネアに会いに行ったことをマリアに悟られない方が良いと彼は考えたのだ。
「……自分では切らないのか」
「あなたは自分で切ってるの」
「他に誰がいる」
その回答に、マリアは不躾なほど彼の髪を見た。後ろ側を覗き込むように軽く首を傾げて見ると、あっさりとひどいことを口にした。
「そっか。だからぼさぼさなのね」
「……おかしいか」
「ううん、そうでもない。そういえば、ピサロの髪は誰が切ってるの?ロザリーは自分で切ってるのかな?」
「知らぬ」
「そっか」
そういうと、マリアはもう一度膝をかかえ、顔を膝の間に埋めた。
俯いただけではなく、まるでこすり付けるように深く沈めている。
何と声をかければ良いのかわからないピサロナイトは、彼女が言葉を続けるのをひたすらに待つだけだ。
20秒、30秒。それとももっと。
その沈黙を破ったのは、当然のようにマリアの方だった。
「こんなことを言うのは、虫がいいことだってわかっているの。わたしは、マスタードラゴンにもあなたにも、仲間にも、誰にも彼にも、勝手なことを言ってる自覚がある」
「うん?」
まるで独り言のように、ピサロナイトを見ずにマリアは言葉を続ける。が、それがピサロナイトに語りかけているものだとういことは明白だ。
「お願い。ここにいる天空人だけは、巻き込まないで。あなただってロザリーを巻き込みたくないでしょう。それと同じものがわたしにもあるの」
ピサロナイトはぴくりと眉を潜める。
彼女の口から「お願い」という言葉が発されたことで、彼はここが自分にとっての正念場ではないかと感じ取る。ことを急いてはいけない。けれど、逃してはいけない。慎重に彼女から情報を引き出さなければいけないと気を使い、言葉を選んでいく。
「仲間のことではないのか」
「わたしの仲間巻き込んだら、わたしが知らないうちに全員でピサロのところに直談判に行ってひどいことになるわよ」
「……困る」
「でしょ」
まるで苦笑いをしているかのような声音は、一瞬彼女の緊張が緩和したようにピサロナイトには感じられた。だが、それとは裏腹にマリアは更に肩をすぼめ、まるでもっと小さくもっと小さく、殻に閉じこもるように体を小さくする。
ふー、と長く息を吐く音。
それから、消え入りそうな、くぐもった声がピサロナイトの耳に届いた。
「ここにいるのは、わたしの本当のお母さんなのよ……」




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モドル