彼の人が見た景色-3-


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 外から聞こえる音は、こんな寒くて深い冬の夜でも動く動物の音。
 その動物らしきものが木から木へと移るのか、それとも木にぶつかるのかはわからないが、時折木の枝から雪が落ちる音が遠くに聞こえる。
 洞穴の奥に自分達はいる、と勝手に思っていたラケシスは、その音が届くことに驚く。
 が、それに対してベオウルフは小さく笑って
「冬は、音が通る。空気が違うのも、わかってるだろう。目を閉じると、もっとわかる」
「……ええ、そうね。確かにそうだわ」
 彼の言葉を不快に思わず、ラケシスは静かにそう言った。
 瞳を閉じると、ベオウルフが荷物をごそごそと漁っている音がやたらと耳に入ってくる。
 それから、炎が爆ぜる音。
 その音を聞きつつ、入り口、あるいは出口から流れてくる冷気と、炎によって暖められた目の前の空気が交わる場所をラケシスは感じ取っていた。
 別に、そのような感触はここで味わう必要はない。
 セイレーン城であっても、窓の端からわずかに流れて入ってくる冷気、扉の足元の隙間から入ってくる冷気を、室内で感じることが出来るからだ。
 けれども。
 ベオウルフに言われてわかっていた気になっていたが、こうやって瞳を閉じると、冬の夜、しかも人のいない深い自然の中では、殊更にその空気が違って感じられる。
 冷たい地面の上に、持ってきた布を四重にして座るけれど、尻は常に冷たい。尻が冷たい、という感触を味わうことは、今までの人生でほとんどなかったことに初めてラケシスは気づく。
 かつん、かつん、と聞きなれない音に、ラケシスははっと瞳を開けた。
「何をしているの?」
「体を中から温めるのに、酒を。酒を、温めて飲んだことぐらいあるだろう?」
「それは、あるけれど……こんなところで、そんなものを飲んで、大丈夫なの?」
 そのラケシスの問いに、一瞬ベオウルフはきょとんとした表情を浮かべた。
 それは、『何を馬鹿なことを言っているんだ』だとか『そんなことを言われるとは思わなかった』といった言葉に続かない、珍しい表情。
 それに、ラケシスの方が驚いて不安げに眉根をしかめる。
「……あー、大丈夫だよ。一杯二杯。遭難してるわけでもないし、俺がそれぐらいわからないわけがないだろう」
「そ、そうだけれど」
「キュアン王子からもらった酒があって」
 ベオウルフのその言葉に、ラケシスは唇を引き結んだ。
 レンスターのキュアン王子とその妻エスリン、従者のフィンはつい先日シレジアから母国へ向かって旅立った。
 その前に、キュアンがベオウルフに『エルトシャンが好きだった酒だ』と置き土産をしたことを彼女は聞いている。
「あんたと飲みたいと、思っていたんだ」
「こんなところで?」
「ああ。ここで、俺も、エルトと飲んだからな」
「……!」
 ラケシスの顔色が変わる。
 驚いて、先ほどまであれほど見ていた洞穴の中を、もう一度ラケシスはゆっくりと見回した。
「エルト兄様が、ここで」
「ああ。温めると、この酒はよりうまい、と言って、嬉しそうに飲んでいた。アグストリアの冬では、この酒を熱して飲んだ時の美味さは、引き出せないだろうな、とも言っていたよ」
「……兄様が、シレジアに来たなんてこと、わたしは知らないわ」
「ああ、内緒だったからな。誰にも。まだ、やつが結婚する前の話だ。長い期間、やつがノディオンから離れてたことがあっただろう?」
「……レンスターに、義姉様に会いに二度ほど行っていた時が……」
「多分、そのうちの片方は、シレジアにいた。シャガールのやつに、ノディオン王家の忠義を疑われて、隠密でな」
「!」
 ベオウルフの言葉で、ラケシスは眉根を潜めた。兄エルトシャンが自分に嘘をついていたことに対する怒りか、その命を奪ったシャガールの名を忌々しく思ったのか、彼女の表情か らベオウルフは読み取れない。
「ああ、俺はたまたまシレジアでエルトシャンに出会っただけで、あんたが知らないことを知ってるのは、あんたよりエルトシャンと親しいからじゃない。異国で情報を共有しておかなきゃいけなかったからさ」
「シレジアで、エルト兄様に雇われたの?」
「ああ。ま、本当はアグストリアで既に、なんか結構な高額な報酬でさ、シレジアを知ってる傭兵を募集してたんだけどよ……俺のとこに、その話が当時回ってきたんだが、断ったんだ。そしたら、俺以外に条件に叶うやつがいなかったのか、やつは傭兵を雇わずに単身シレジアにやってきていた」
「お一人で!?どういうこと。お前は、何故雇われなかったの?どうして、アグストリアでは断ったのに、ここでは雇われたの?」
 矢継ぎ早の質問に、ベオウルフは小さく声を出して笑った。笑われたことに不満そうなラケシスを『まあ落ち着け』といなし、彼は火にかけていた携帯用の小鍋の蓋を、木の棒の先にひっかけて開けた。
 中では水が沸騰しており――それは、外に積もっている雪を無造作に鍋に詰めたものだったが――中央に酒を入れた瓶があった。
 やけどをしないようにその瓶を取り出すと、ベオウルフは二つのカップに半々に酒を注いだ。
 カップの半分にも満たなかったけれど、濃厚なアルコールの香りがその場に広がる。
「つまむといい。やたら、合うんだ」
 そういいながらベオウルフは、懐から小さな焼き菓子を三個取り出した。ラケシスの手の平半分ぐらいのもので、ひとつひとつ布に包まれている。
 どこからもってきたのか、とラケシスは呆れたが、確かに今自分の前に立ち上っている酒は、甘い菓子をつまんでも良いように思える。
「お前が、菓子と酒を一緒にたしなむなんて、初めて聞いたわ」
「俺は、いらねぇよ。一口で十分だ。でも、エルトシャンは案外食ってた」
「兄様だって、そんなに焼き菓子をたくさん食べたりしないわ」
「ああ。自分でもそう言ってたな。小さい頃は、自分の分もあんたにあげたりしていた、と」
「……」
「俺はエルトシャンじゃないが、この菓子はあんたにやるよ。教会の子供達が作ったんだとよ」
 ラケシスは言葉を失ったように、ベオウルフをじっと見つめた。それから、相当に遅れて小さく『ありがとう』と呟く。
 彼女のその素直な様子に、逆にベオウルフの方が拍子抜けをするほどだ。
「まずは乾杯しよう。夜はもう折り返して朝が近いが、こういう場所にいる時間はやたらと長く感じるもんだ。体を冷やさないようにしないとな」
「……そうね」
 既にベオウルフは酒瓶から温めるための瓶に次の酒を注ぎ、再び鍋の中に立てていた。
 しっかり閉まりきってない蓋の周囲から湯気があがっているが、その湯気があっという間に冷えてしまい、手を出してもやけどするほどではない。
 ベオウルフに促されてラケシスはカップを手にした。二人は乾杯をすると、ベオウルフはぐいっと、ラケシスはそっと口に含む程度、一口目を味わう。
「わたしが飲むには、少し強いかもしれないわ」
「そうかい。温まって、匂いが強いだけだと思う」
「そうかしら?……でも、美味しいのね。ほんの少し飲んだだけで、体の中に染み渡るようだわ」
 強いかも、といいつつラケシスは二口目をすぐに口に入れる。
「……以前なら、エルト兄様が好きなものだったら、って背伸びをして、素直に言えなかったかもしれないわね。わたしには強いとか……」
「ほら見ろ。あんたは、聡いよ」
「都合がいい時だけそんなことを言って。お前のことは信用出来ないわ」
「ご尤も」
 そういうとベオウルフは、ぐい、とカップの酒を煽った。
 熱くないのか、とラケシスは驚いてそれを見ていたが、ベオウルフは平気な顔をしている。
 彼女の視線の意味を正確に把握したベオウルフは、目を細めてにやりと笑う。
「体の中に、熱いものが落ちていくのは、気持ちいいもんだ。自分を生かしている自分の体を、嫌ってほど意識させてくれる。こんな寒いところじゃ尚更な」
「自分を生かしている自分の体、ね……わたしは逆よ。大地の剣を使った時、自分の体が何かによって再生されるのは、気持ちが悪い。自分を生かしている自分の体の一部は、自分じゃないって思うから」
「あんたの体を生かすのは、切った相手の生命力だが、それを使って生かそうとするのは」
 ベオウルフはカップに残っていた酒をすべて飲み干す。
「エルトシャンだ」
「……どうして……どうして、ここにわたしを連れてきたの。兄様のことなら、別にここじゃなくたって話は出来るでしょう」
「それは、後で教えてやるよ」
 飲むペースが速すぎたな、とベオウルフは独り言をいって、小鍋の蓋を開けた。
 湯が減っている、と気付いて、洞穴の外に出て雪の塊を手にして戻ってくる。
 ぼちゃん、と湯に雪を入れれれば、みるみるうちにそれは溶けて、鍋の中の水位はあがった。
 どっこいしょ、と声をかけてラケシスの斜め横に座るベオウルフ。
 酒を飲む手も休め、じっと炎を見ているラケシスに穏やかに声をかけた。
「俺が、エルトシャンのことを話すのは、もう不快じゃないのか」
「不快だわ」
「どうして」
「……男の人達がする兄様の話はいつも嫌いよ。男同士でいつも隠し事があるんだわ。シグルド公子やキュアン様も一緒。お前の話は、そのお二方よりずっと、隠し事に満ちているのね。きっと」
「じゃあ、やめとくか」
「ここで止めたら、どうしてここにわたしを連れてきたのか、話してもらえなくなったりしない?」
「話さないわな」
「……脅迫する気ね」
「そんなつもりじゃないが……ここで、エルトに最初、お前を頼むと言われたんだ」
「えっ……」
「その時は、俺とあんたは何の接点もないし、未来にそんなことがあるとは俺もエルトも思っていなかったよ。でも、間違いなくあいつは、俺に言ったんだ。万が一、ノディオンに何かがあったら、妹を頼むってさ」
「……嘘」
「俺は、やなこった、って答えたね」
 そういって笑うベオウルフを、ラケシスはあっけに取られてみるだけだ。
「何かがあってからじゃ、金は貰えないし。貰っちまったら貰った分何か働かなきゃいけねぇし。だったら、ノディオンに何かが起きる前にやつをノディオンに戻すことに力を尽くした方がマシだってな」
「まあ」
「軽蔑するか?」
「傭兵らしい物の考え方ね」
「そうさね」
「……兄様は、お前にノディオンの話をしていたの?この異国の地で」
「ああ。たくさん、したよ。若造の自分を国民が慕ってくれて、本当にありがたいとか。土壌が豊かといっても一国ごとの力は知れているし、グランベルのような大国と肩を並べられるほど、諸国との結託が強くないことが今度響くだろうとか。騎士団の訓練が好きだとか、ノディオンには腕の良い機織職人がいるとか……俺は、アグストリアの国々のどこがどう、という特色を把握していたつもりだったが、あいつの話を聞いたら、アグストリアの全部の国をもう一度回りたくなったぐらいだ。特に、ノディオンに滞在したくもなった。それまで、何度かいた国なのにさ」
「……」
「人にそういう風に思わせるってのは、余程のことだよ。お姫様」
 馬鹿にしたつもりはなかったが、ベオウルフはラケシスにそんな風に言って肩を竦めて見せた。
「国を離れれば、よりいっそう国のことを愛しく思って思いが募る、と言っていた」
「……っ……」
 ベオウルフの声音はあっさりとしていたけれど、ラケシスの心を強く揺さぶるには十分だった。
 ここで、若きエルトシャンとベオウルフが同じように熱い酒を飲んで語り合って。
 母国への愛情を、一傭兵に対して口にしたエルトシャンの気持ちは、以前のラケシスならばきっとわからなかっただろう。けれども。
「どうしたら、心が揺れずに、お前の話を聞けるの」
 ラケシスはカップを地面に置き、両手で顔を覆った。
「どうしたら、お前からエルト兄様の話を、すべて聞けるほど強くなれるの」
「……そんな日が、来るのかね、本当に」
「ベオウルフっ……」
「俺が、あんたの傍にいる間に」
 そう告げたベオウルフの口元は笑っている。けれど、彼の瞳は細められ。
「どうして……そんな辛そうな顔をお前がするの」
「辛い?俺は、辛くはねぇよ、別に」
「嘘よ」
「あんたは、すぐ俺が嘘をついていると思い込む」
 そう言いつつも、声音は優しい。
「あんたが、辛いんだろう。聞くべき時に、聞くべき言葉を拒んでしまう自分を、後から呪っても遅い。それを俺は知ってるからだ。時が満ちていない残酷さを、あんたはそろそろ知るべきだ」
 ラケシスは目を閉じた。
 二度と会えない彼の人を思い出せば。その姿は拒もうとしても脳裏に強く浮かび上がり、ラケシスは向かい合わなければいけない。
 ラケシスには、エルトシャンにたくさん話したいことも聞きたいこともあったのだろう。時間さえ、機会さえあれば、せめて彼がまだ生きていれば、きっとそれはいつか叶うことだったのだろうと思う。
 では。
 ラケシスの心が行き着く先を、ベオウルフは静かに推測していた。

――エルト兄様はどうだったのだろう。わたしに、もっと色々話したいと、思ってくれていたのだろうか――

 いや、それだけならばまだいい。

 聞くべき時に、聞くべき言葉を拒んでしまう自分。
 時が満ちていない残酷さ。

 ラケシスは、ベオウルフが何を言いたいのか理解している。彼女の様子を見て、ベオウルフは不思議と確信を持った。
 それは、傷心のままシレジアで彼女が過ごした時間を、ずっと見守り続けてきた彼にだけわかることだ。
 二度、三度。
 目を伏せ、両手で自分の口元を覆って、大きく呼吸を繰り返して気を落ち着けるラケシス。
 ベオウルフはその間、彼女のことは放ったままで二杯目の酒を自分のカップに注いでいた。
「……ベオウルフ」
 それは、うめき声のように搾り出される。
「うん」
「わたし、教会で」
 ベオウルフを見ながら言葉に出来ないのか、ラケシスは上体を折って、地面に向かって言葉を紡いだ。
「……ああ」
「ノディオンの民の事を、ずっと、祈っていたのよ」
「……!」
 酒を飲もう、とカップに口をつけたベオウルフは、予想外のラケシスの言葉に驚き、その口を離した。
「それが、どういうことなのか、お前はわかるの」
「……さあ、どうだろうな」
 ラケシスの言葉を聞きながら、ベオウルフは教会での彼女の様子を思い出していた。
 あれは、エルトシャンのことを思ってのことではなかったのか。ベオウルフはそのことに驚きもしたけれど、心のどこかではほっとしていた。
 教会に迎えに行った時、既にラケシスにエルトシャンの話をすることは決めていた。まだ、時期が早いだろうかと何度か彼は自問自答していたが、今のラケシスならば大丈夫だろうと彼は賭けた。
 エルトシャンの話をすることは、エルトシャンを失った悲しみを掘り起こすとともに、過去の己がどれほど、『エルトシャンがいない未来』を考えもしなかったのかをラケシスに突きつけてしまう。
 ラケシスは、そういったことに関しては愚鈍ではない。むしろ、神経質すぎるとも言える。だから、ベオウルフもラケシスに命じられるがまま、エルトシャンのことは口から出さずにきた。
 けれども。
 そうやって目を背けている間に時は流れていく。
 聞くべき時に聞くべき答えを拒むラケシス。
 そして、自分は。
 ラケシスの心に波風を立てたくない、という言い訳をして、言うべき時に、心の変化を恐れて言うべき言葉を紡がなくなってしまうのではないか。
 ベオウルフは、自嘲気味に口端を歪めた。
「……俺がわかるのは、エルトシャンはあんなくそ若い頃でも、こんな遠い国でノディオンのことを思い、あんたのことを思う、間違いなく誇るべきノディオンの王だったということだ。それだけだ。あんたの祈りの意味を知るほど、あんたと酒を飲み交わしてもいないしな」
 淡々と語るベオウルフの前で、ラケシスはまだ顔を伏せたままだ。
「なんという」
「うん」
「なんという幸せなの。ベオウルフ」
「……何を持って、幸せと言う」
「お前が、答えをくれたのに」
「何が」
「このシレジアで」
 ゆっくりとラケシスは顔を上げた。
 乱れた髪は頬からさらりと落ちていき、炎に映し出される彼女の表情を明らかにする。
 その表情は。
 ベオウルフは息を飲んだ。
「兄様の死を嘆く時は既に終わったとしても。過去においても今においてもわたしは無力だわ。わたしは、祈ることしか出来ない」
「ラケシス」
 兄様の死を嘆く時は、既に終わった。
 その宣言に、ベオウルフは目を見開いた。
 なんという残酷な言葉なのか。
 ベオウルフが思っていたよりも、ラケシスはとうに『峠』を越えていたのだ。
 たとえ心に決めたとしても、口に出すことは自身を傷つけることに違いない。
 けれども、ラケシスは自分自身の言葉に怯まずに続けた。
「とても遅いけれど。取り返しもつかないけれど。でも、わたし、今ノディオンの民のことを強く思っているの。きっと、兄様がそうであったように」
 誰からの否定をも許さぬように、ラケシスははっきりと言葉を発した。
 彼女の凛とした表情を見つめるベオウルフ。
 彼の脳裏には、エルトシャンの言葉が蘇っていた。
「一生をかける勝負事か」
「え?」
「いや」
 ベオウルフは、疲れたように軽く首を横に振った。



 遠き若き日の思い出。
 未来を語ればそれはとてもまばゆく、どこか現実味のないもので。
「しっかし、俺がノディオン国王様とこんなところにいるなんてねぇ。心配しなくても、あんたが言った通り、俺は誰にも言わないさ」
 炎に映し出されたエルトシャンの横顔は、若々しさだけを武器にするものではなく、端正で、内側から溢れる気品を纏っていた。
 選ばれた者の顔だ、とベオウルフは思ったものだ。
 そう、まるで今のラケシスのように。
「そういう男だと思ったから、お前を雇った」
 にやりと笑うエルトシャンの表情は、きっと、男同士でしか見ることが出来ないものだったのだろう。
「ああ、でも」
「うん?」
「ノディオンの王から直接仕事を請け負ったなんて、傭兵の世界では滅多にないことだろう?お前が、何か一生をかける勝負事に必要になれば、話してもいいぞ。利用されてやる」
「一生をかける勝負事ねぇ」
 うーん、とベオウルフは眉根を寄せて考え込んだ。
 そんなことは想像が出来ない。そもそも彼は、虎の意を借るなんとやらになるつもりは毛頭ないからだ。
「そんな言葉で落ちる女と付き合う気はねぇな」
「女か」
 はは、とエルトシャンは笑った。
 そういった冗談は軽蔑するような人間だと思っていたベオウルフは、見事な肩透かしを食らう。
「お前のように豪胆で、遠慮のないふてぶてしい男に落ちる女は、余程強い女に違いない」


 ベオウルフは洞穴の更に先――貫通している、と彼は言っていたので、外に続くのだろうが――に様子を見に行った。
 きっと冷えてくるだろう、とラケシスは薪を多めにくべる。
「夜が明ける。いい時間だ」
 戻ってきたベオウルフは、ラケシスにきちんとコートを着て、フードもしっかり被るように指示をした。
「凍えて戻ってくるだろうから、ちと多めに……うん?薪、足したのか。寒いか?」
「大丈夫よ」
「無理はするな」
 本当はベオウルフのために足したのだが、ラケシスはそれを決して言葉にしなかった。
「手袋もな」
「ええ」
「頬が凍える。襟元もあげた方がいい……行くぞ」
 おとなしくラケシスはそれに従い、来た時と同じようにベオウルフの背を追った。
 炎の前から離れれば、すぐに冷気に体が蹂躙され、わずかに露出している肌が悲鳴を上げる。
 すぐに戻って温まりたい、と、わずかの間甘やかされた体が我侭を言い出す。それは、雪国の人々が毎日繰り返す葛藤だ。
 洞穴入り口から焚き火をしていた場所までより、大分長い距離。
 洞穴はあまり曲がりくねってはいなかったが、直接風が吹き込まない程度には曲がっているようだった。
「あ……」
 ラケシスは声をあげた。
 空気が、強く流れだす。
 前方に、日差しが差し込んでいる。
 外に近づくたびに、フードの下の顔の皮膚が冷気に晒されて痛みを伴うが、ベオウルフの歩みもラケシスの歩みも躊躇がない。
「……ラケシス。落ちないように気をつけろ」
「落ちないように……?」
 ついに、洞穴の終点に辿り着く二人。
 ラケシスは、眼前に広がった景色に息を飲んだ。
 眼下に広がる景色は、山の傾斜に沿って並びゆく大量の樹氷。
 そして、その樹氷の遥か先から、朝陽が顔を覗かせている。
 冬の日差しは弱いはずなのに、その光は樹氷を満遍なく照らして二人の元に届く。
「あまり、前に出るなよ」
「あっ……」
 もう一度ベオウルフはラケシスに注意をした。
 彼らがいた洞穴は崖の横穴になっており、出口から一歩踏み出せば雪山にぽっかり開いた渓谷に落下してしまうような危険な場所だ。。
 だが、その崖のところどころにも、岩から突き出した強い生命力を持つ木々が樹氷となって、洞穴の出口を外から見えにくくしているようだった。
 きっと、その樹氷が邪魔なのと足場がないため、天馬でもこの辺りは来られないのだろう。
「ここは、こんなに高い場所だったの?」
「歩いた距離の割には、かなり高いようだな」
「なんて……なんて、美しいの」
 己の視界を覆う樹氷達。
 その樹氷はきらきらとそこここで朝陽を己の中で反射しているようにすら見える。
 痛いほどの冷気の環境でしか、見ることが出来ない美しさ。
 そこに広がるのは、雪が見せる銀世界とはまた違った、光が満ち溢れる輝きの世界だ。
「あっ」
 渓谷に風が吹く。
 崖のあちらこちらから突き出た木を輝きで覆う氷の粒が、風に舞った。
 透明な空気の中、雪ではなく氷の粒がぱあっと散る様のなんとはかないことか。
「なんて美しいの」
 ラケシスはもう一度呟いて、静かにその景色を見つめていた。
 鍛えられた体は、彼女の背筋をまっすぐに保ち、普通の者ならば足ががくがくと震えそうな眼下の渓谷にも怯まず、彼女はその場に立っていた。
「空気が冷たくて、涙が自然に出るわ」
「ああ」
「涙が熱い。でも、すぐに熱さが奪われてしまう」
 ぽつりぽつりとラケシスは呟いた。
「エルトも、泣いていたよ。泣けるほど美しく、涙が出るほど、まばたきが出来ずに」
「そうなの……」
「あんたに、エルトが見た景色を見せたかった。間に合って、よかったよ」
 間に合うって、何が。
 いつものラケシスならば、そう問いただしていたことだろう。
 けれど、ラケシスは未だ静かに目前に広がる景色に目を奪われているようだった。
 やがて、彼女はそっと胸元で指を組んだ。
 それは、祈りだ。
「お、降ってきたか」
 雪の華が風に乗り、ちらちらと彼らのもとへと届く。
 ベオウルフはわざと声を出したけれど、ラケシスの体は動かない。
(純度が増す、か。クロード神父も、さすがただのそこらへんの神父とは違うもんだ)
 きっと、クロードの見立ては間違っていないのだろう、とベオウルフは思う。
 目の前のラケシスは、シレジアの美しい自然の前で、きっとノディオンのことを祈っているに違いない。
 それは、一見矛盾を含んでいるかもしれない。
(でも、俺にはわかるような気がする)
 多分、この景色にエルトシャンが涙した時も、ノディオンのことを思ったに違いない。
 これほどに美しい自然を目の当たりにしては、人の心は何もかも剥ぎ取られ、心の芯となる、核となるものがむき出しになるものだ。
 それは、人から与えられる言葉などでは足りない、圧倒的な強い力。
 その力の中でむき出しになったエルトシャンにも、ラケシスにも、そこにあるものは。
 どこまでも、自分達がノディオン王家の者であるという血やしがらみや誇り。
 雪の中立つは、美しきノディオン王女。
 言葉もなく静かにシレジアの自然に見入る姿は、ベオウルフにいやおうなく在りし日のエルトシャンを彷彿させる。
「……ラケシス、雪が強くなる」
「……」
「ラケシス」
 二度目の呼びかけで、彼女はゆっくりとベオウルフへと視線を移した。
 そして。
「ベオウルフ、もう大丈夫よ」
 口を引き結んで返事をしないベオウルフのことをどう思ったのか。ラケシスはもう一度告げる。
「もう、大丈夫」
「そうか」
 何が、どう大丈夫なんだ。
 その思いは言葉に出さず、ベオウルフはラケシスの体を引き寄せた。
 表面が冷たく濡れた厚手のコートに阻まれ、お互いの体温は決して届くことはない。
 それでも、ベオウルフはラケシスを抱きしめる腕に力を込め、ラケシスはその腕の中で静かに。
 静かに、嗚咽を漏らした。





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