子供を産むと女は強くなる、と聞いたことがある。
それは間違いではないけれど、事実のほんの一片なのだとブリギッドは思っている。
母親は強くなるのではない。母親は、子供から力を分けてもらうのだと彼女は信じている。
目には見えないその力を受け取ることが出来る、これまた目には見えない心の触覚が自分のどこかにあって、子供の笑顔から、抱きしめたぬくもりから、言葉で表すことが出来ない温かい愛情や強い力を感じ取って満たされるように思う。それは、今までの人生ではまったく知らない満たされ方だ。
そして、その幸せを与えてくれたのは自分が愛した男に決まっている。唯一自分の体をあずけ、この人の子供を産みたいと思う人。
子供を産むと女は強くなる、という言葉と同じくらい、子供を産むと女は夫をないがしろにする、と聞いたような気もした。後者については、その女が愚かなのか、それとも、余程夫の懐が浅いかのどちらかではないかと彼女は思う。
ブリギッドは自分の夫への感謝を忘れたことはないし、彼がいるからこそ自分の今の幸せがあるのだと心から実感していた。今、自分の夫や子供達を失っては、自分の半身、いや、それ以上を失うのと同じだと思える。
それは弱さと呼ぶべきものなのだろうか?
「ブリギッドさん、大丈夫?」
夫であるデューは、「俺」と自分を呼ぶようになったけれど、妻のことはいつまでも呼び捨てに出来ない。けれど、その優しい響きに幾度も彼女は救われている。今までそのことを口に出して伝えたことはない。常々いつか話さなければいけないと思ってはいるが、他にもやまほど言いたいことがありすぎて困ってしまう。
相手が近ければ近いほど、言葉にしなくてもわかっているだろうと思いがちだが、たとえそれが本当だとしても自分の口から伝えなければブリギッドは納得出来ない。感謝をしなければいけない愛情を感じるひとつひとつのことを上げていけばきりがないけれど。
「・・・大丈夫。安心して少し気が抜けたみたい。だって、もっと早くデューが戻ってくると思っていたもんだからさ。結構心配したんだよ・・・子供達もいないから、久しぶりの一人に、結構気が張っていたのかもね」
「ごめんよ、俺、気が利かなくて。でも、フレイの手紙は読んだんだろ?」
デューが言う「フレイ」とは、彼が飼いならしている伝書用の鳥の名だ。
「読んだよ。ダーナに何をしに行ったのかと驚いたけどね」
「慌てちゃって、詳しいこと書いてなかったね。反省する」
デューは、暗い部屋の隅で椅子に座っているブリギッドに、温かい茶が入った陶器の器を手渡した。
「はは、無事に戻ったんだからもういいんだよ。ああ、ありがとう。シルヴィアは?」
「眠ったみたいだよ。そりゃ疲れてたんだろうしね。いっぱいおしゃべりしたみたいだし?」
そういいながらデューはブリギッドの横で壁にもたれかかった。
「ああ」
ブリギッドは受け取った器を両手でしっかりと持って、ゆっくり唇を近づける。
顔に立ち上る湯気は、いつも心地良い。苛立った心や沈んだ心を穏やかにしてくれる。そんなことを教えてくれたのはデューだった。
ブリギッドさん、これ飲むといいよ。
今から数年前、まだ少年だった彼が、どういう風に年上の女性に気を利かせればいいのかを一所懸命考えて、そっと入れてくれた茶がどれほどありがたかったのかを、ブリギッドは覚えている。
記憶にあまり残ってもいなかった弟に手をかけたその夜、泣けない自分を責めるブリギッドに、デューは温かい茶を渡した。デューは戦そのものより戦後処理でいつも人一倍の働きをする。彼の方が疲れていただろうに。いつそのことを思い出してもそう思う。
「熱くない?」
その頃よりはすっかり大人の男になったデューは、ブリギッドを覗き込むように首を傾げて聞く。
「うん、大丈夫そう」
一口茶を飲むと自分が感じていた以上に喉が渇いていたことがわかり、二口、三口と熱さも気にせずブリギッドは飲んだ。
「おいしいよ。あたしがいれるより、デューがいれてくれる方が、やっぱりおいしいね」
「何いってんの、俺は、ブリギッドさんがいれてくれたほうがおいしいもん。人がいれてくれたほうが、絶対おいしく感じるんだってば」
そういってデューは小さく笑った。ブリギッドは「そうかもね」と呟いてからそっとカップの中身に視線を移して、何かを考えるようにまばたきを止めた。


「バーハラの悲劇」と彼らの間で呼ばれているあの日に、生き別れになっていたシルヴィアの消息を掴むことはかなりの困難だった。また、アルヴィス卿の手によってクロード神父が幽閉されていることも、一部のグランベル兵しか知らない極秘情報だったため、3年の年月を経てようやく突き止めることが出来たほどだ。
デューは昔の盗賊仲間やその他から、彼が得意とする裏情報をなんとかグランベル側に知られないように入手して、あのバーハラの悲劇で離れ離れになった仲間達の情報を少しずつ集めつつ、小銭を稼ぐ日々だった。
生存が確認出来ているのはティルテュとフュリーとラケシス、シルヴィア、そして、クロード。
犯罪者としてバーハラの塔に幽閉されているクロードを救出することは不可能ではなかったけれど、あまりにも危険を伴うことだ。それでもやろうと決心したのは、シルヴィアが生きているとわかったからだった。
デューは一縷の望みをかけてシルヴィアを探しに行った。そして、ようやく出会うことが出来た。
もしも救出が不可能だとしても、せめてシルヴィアにクロードを会わせてやりたい。
その思いに違うことなく、シルヴィアもクロードに会うことを切望していた。
デューがシルヴィアに会うため留守にしている間、ブリギッドもまた、それまで彼ら2人に色々とよくしてくれた40歳後半の女性のもとに訪れていた。少しばかり離れた小さな集落に住んでいるその女性に、まだ幼い彼らの子供、ファバルとパティを預かってもらうためだ。年子で産んだ二人の子どもはまだまだ幼く、今から彼らがしようとしていることの片手間に育てることはほぼ不可能に近かった。
彼らが信頼しているその女性は、子供6人を産み育てた大した人物で「お兄ちゃん達はもう17歳だから、みんなで育ててあげるわよ」と簡単にデューとブリギッドの頼みを聞いてくれた。


あのバーハラの戦いの日、彼ら2人はアイーダの追っ手を振り切って逃亡をした。そして、国境を越えた後、レンスターの騎士フィンと運良く出会うことが出来た。フィンのおかげで彼らは、その後しばらくの間レンスターに身を寄せていた。
しかし、デューはともかく、ユングヴィの血を引きイチイバルの継承者であるブリギッドをかくまったということになれば、いつレンスターもまたシレジアのように、グランベルの手が伸びるともしれない。それでなくともレンスターはキュアン王子を失って失意のどん底にいたし、トラキアの侵略に怯え続けなければいけず、いまや安定した国とはまったく言えなくなってしまったのだし。そこに更に不安要因である自分達がいることはよくない。そう考えてデューとブリギッドはレンスターを出ることに決めた。
明日、デューと共にレンスターを出ます。
ブリギッドはそのことを告げるために、同じようにレンスターに身を寄せていたラケシスの部屋に訪れたが、ラケシスはそこにはいなかった。
レンスターは自然が多く、彼らが寝泊りさせてもらっていた、とある貴族の別荘はとても環境が良い場所だった。国が大きく揺れる情勢になっているというのにラケシスの身分を慮った待遇だったのだろう。
部屋にいないときにラケシスがどこにいるのか、ブリギッドは知っていた。
少しばかり重い体を動かして中庭へと向かった。案の定ラケシスは美しく手入れをされた中庭に置いてある、白いカウチに座ってぼんやりと木々をみながら日向ぼっこをしていた。
中庭は決して広くはないが、自然に手をあまりかけない主義のレンスター風のものではなく、ラケシスが好みそうな、しっかりと手入れが行き届いている形がそろった木や、趣向を凝らして変わった形に植えられた花々が並んでいる。それがノディオン風なのかどうかはブリギッドにはわからない。
咲き乱れる大輪の花々の香りがブリギッドの鼻を掠める。その香りの中にラケシスがいることは、とても似合っていると思えた。
ブリギッドが声をかけるよりも先にラケシスはブリギッドの姿に気付き、「あら」と一声あげてから手招きをした。その優雅な仕草とラケシスの美しさに純粋に心打たれて、一瞬ブリギッドは言葉を失った。
レンスターに来てからというもの、ラケシスは装飾がほとんどない無地の、光沢もない質素なドレスに身を包むことが増えていた。けれど、それすら彼女が身につければ高価な織物に見えるほど、以前にも増してラケシスの美しさは際立ってきたとブリギッドは思う。
ラケシスの隣によっこいしょ、と声をあげながら腰をおろして早速本題に入ろうとすると、それより先にラケシスが話し出した。
「行くの?明日?明後日?まさか、今から?わかりきってるだろうけど、気をつけてね」
ブリギッドはいつでも旅立てるような身軽な恰好でいるから、ラケシスが「今日」も候補にいれたのは当然とも言える。実際今のブリギッドの恰好は、砂漠を渡ってイザークまで行くにもおかしくないほど旅人めいた出で立ちだった。ただひとつ、目立ってきた腹部を除いては。
「うん、明日。最後までフィン達に止められたけどね。ラケシス様も、早くデルムッドぼうやと再会できますように」
ブリギッドのその言葉は本音だ。
「産むまで待つ気はないのね」
「ちょうどつわりもおさまったしね。フィンが仲介してくれる、グランベルに近い小さな集落があるっていうからさ・・・そこまで行って産もうと思って。産むまでだと、あと何ヶ月もレンスターにいなきゃいけないでしょう。生まれたての子供を守りながら旅は出来ないし、今しかないんだよね」
ブリギッドは自分に言い聞かせるようにそうラケシスに告げた。わかるわ、とラケシスは小さく答えた。
何故レンスターで産まず、危険をおかしてまでもグランベル近くで。フィンは何度もブリギッドを説得しようとしたが、ブリギッドもデューもがんとして譲らなかった。
「・・・ブリギッド、私ね・・・」
「なんだい、ラケシス様とあろう人が、なんでそんなに言いづらそうに」
「・・・私も、今、また、ここに」
ラケシスはそういってそっと自分の腹部に手をあてた。
その仕草を見てブリギッドは目を丸くする。
「ちょ、ちょっちょ・・・それは」
誰の。
と不躾に聞こうとしたブリギッドの言葉を、ラケシスは先に遮った。
「デルムッドの弟か妹か・・・どっちになるのかしらね」
「ラケシス様」
「驚いた?そうよね。私、とても自分の体のことに無知だったから、子供を産んだ後、いつから次は子供を作る準備が出来るのかもよく知らなかったわ」
「・・・はあ」
それを言われると自分も弱いな、とブリギッドは思う。
物心ついたときには海賊達に混じって生活をしていたのだから、女性の体の仕組みについて細やかに教えてくれる人間なぞいなかったし、聞こうとしたって周りは誰も彼も話にならないような男達ばかりだった。身ごもった体でレンスターに辿り着いてから、レンスターの王宮医師をフィンに紹介されたが、ブリギッドのあまりの知識のなさに呆れられるやら笑われるやらで散々な目にあった。
ラケシスは既にデルムッドの出産を終えていたのだから、ブリギッドよりは遥かに経験者で知識もそれなりに持ち合わせていたため、何度かラケシスに相談にのってもらったこともある。そのラケシスがわからないことをブリギッドがわかるはずもない。ブリギッドは、ラケシスはともかく、よくもまああのイザークの王女アイラが出産なんて出来たものだ、と今更ながら感心する。
「ベオウルフは知っていたのかしらね?あの男がそんなに、生きた証をこの世に残したいような、そんな人間じゃないと勝手に思っていたのだけれど」
そう静かにラケシスは言って空を見上げた。ブリギッドは答えることが出来ずに、ただラケシスの横顔を見つめる。
美しくて穏やかな横顔。肉親を失い、国に戻ることも叶わず、愛する−と思うのは、ブリギッドの考え違いだろうか?−男も失って。苦しい思いをして産んだ息子は、遠く離れた地に。
ラケシスだって自分の息子に会いに行きたくないわけがないのに、と常々ブリギッドは不思議に思っていた。
何故レンスターにいつまでもその身を置くのか。その答えは、彼女の体に宿るもう一つの命だったのだとようやくブリギッドは理解した。
わずかな沈黙の時。
ぽっかりとあいたその時間をブリギッドは嫌だとは思わない。ブリギッドもラケシスに倣って、同じように空を見ながら言った。
「ラケシス様、あたし達と一緒に行かないかい?」
「・・・あなたならそうおっしゃると思っていたわ」
「じゃ、即答だね?」
「ええ。ありがとう、嬉しいけれど、私はここで子供を産みます。残念ながら、私の体はあまり強くないらしいから、あなたのように身ごもったまま旅をするのは無理そうだわ」
それはブリギッドもわかっていた。シレジアでデルムッドを身ごもったラケシスの体調の崩し方はかなりのものだったことを忘れたわけではない。
それにラケシスはレンスターで子供を産んだ後は、回復をして、以前のように剣を振るうつもりなのだ。亡きキュアン王子に雇われた金額分まだ働いていない、と言っていたベオウルフの代わりに。
「でも、今は結構調子がよさそうじゃないか。だって、どう数えたってつわりがひどい時期なのに、ラケシス様が身ごもっているなんて、全然気付きやしなかったよ」
「そうね。二人目だからなのかしら。あとね」
「うん」
「今は、私の心が、きちんと準備が出来ているの。この子が生まれてくるための。だからなのかもしれない。デルムッドを身ごもっていた時、子供が出来る覚悟はあったけれど、どこかで・・・」
言いづらそうにラケシスは唇を閉じた。
ためらいがちに続きの言葉を発するまでの間、ブリギッドは何故かまったく苛立ちもなく素直に待つことが出来た。
「怖かったの。私、子供が出来て関係が変わったら、あの人が、私を置いていくのではないかと思って」
ベオウルフは自分の子供なぞ望んでいないのではないかと思って。ラケシスは言葉に出さなかったけれど、ブリギッドは意味を間違えなかった。
「・・・そのことはベオウルフに」
「言うわけがないわ。そんなことが言えるくらいなら、初めからそんなことを思うわけなんてないでしょう」
「そうかい」
「多分、誰もわからないと思うわ。あの人が、デルムッドの名前をつけてくれたことが、どれほど嬉しかったのかなんて。ねえ、ブリギッド、デルムッドって、素敵な名前だと思わない?」
「思うよ。いい名前だ」
「ありがとう」
ブリギッドはラケシスとベオウルフの間柄について詳しくは知らない。ただ、2人の間には他者が踏み入ることが出来ない何かがあったことだけはイメージとして残っている。その「何か」は言葉では表せないけれど、子供の名を「デルムッド」とベオウルフが名付けた時は何かが消える瞬間だったのだろうと想像する。わだかまりがとけてゆくように。春の柔らかな光に雪が姿を変えて雪解け水になっていくように。
「この子は私が名付けるわ。本当は、ベオウルフならどんな名前をつけるのかと考えようと思ったのだけれど、私、あの人のことは何も知らないの」
「・・・」
「でも、あの人の子供を身ごもっていることは、今、とても嬉しいの」
その言葉でブリギッドの心は揺れた。
胸の奥が一瞬何かに握られたように苦しくなり、その痛みから解放されるとじんわりと体が温かくなる。その温かさと共に感情が体に広がるような錯覚をうけ、ブリギッドは苦笑を見せた。
「わかるよ」
「わかる?」
「ああ、わかるよ。あたしは今までだってあんまりラケシス様のことを知らないし、この先も知らないんだろうけどさ、それは、わかるよ」
「そう。嬉しいわ」
ブリギッドの言葉にラケシスは気を悪くはしなかった。
彼女たちは戦友ではあったけれど、女同士の個人的付き合いはあまりなかった。
ラケシスと一番言葉を交わしていたのはフュリーだったし、ラケシスが一番楽に一緒にいた人物はアイラだった。
ブリギッドもまた、一番言葉を交わしていたのは妹であるエーディンだったし、一緒にいて気楽だったのはこれまたアイラだった。
今こうしてラケシスと共にいる感覚は、アイラといる時とはまったく違うけれど、面倒がなく簡単な関係だ。言葉は必要だけれども、多すぎる言葉はいらないと思える。
「明日、朝には出発するよ。今日は一緒に食事をしようよ」
「ええ、いいわね」
ラケシスはブリギッドを見て微笑んだ。
ベオウルフの話をしても、ラケシスはもはや涙ひとつも見せることはないのだ。
穏やか過ぎるその笑顔を見ていることが辛くて、ブリギッドは曖昧な笑顔を見せてから、咲き乱れた花だけをずっと見つめていた。


あのバーハラの戦に参戦出来なかったブリギッドは、その当時のことをシルヴィアから聞き、憤り、落ち着くまで時間がかかった。妹エーディンのことは、曖昧では合ったけれど多分クロード神父が逃がしたのだろうとシルヴィアは語った。しかし、その夫であったジャムカは、残念ながら既に息を引き取った姿をシルヴィアは確認していた。
あれから数年。ブリギッドには既に覚悟があった。もはやジャムカもエーディンも生きてはいないと。せめてエーディンの子供であるレスターを捜しに彼らは北上をしようと思っていた矢先に、クロードの生存が確認出来てここで足を止めたのだ。
エーディンが生きているかもしれない。そのことで少しばかり憤りの気持ちも静まり、ブリギッドは冷静になることが出来た。
彼女がようやく落ち着いた後で、積もる話もあるだろうし、とデューが気を利かせて席を外してくれたのは、やはりどこかで「女は女同士」という気持ちもあるからなのだろう。席を外すといっても、もともとせいぜいが二人暮しで部屋数も少ない、風が吹けば飛ばされそうなぼろぼろの家だ。デューの逃げ場は、シルヴィアに提供する予定の小さな部屋しかなかった。
「あたし、子供、預けてきたのよ」
デューが部屋の扉を閉めるよりも早く、シルヴィアはあっさりとブリギッドにそう言った。
「えっ、シルヴィア、あんた・・・」
「うん。神父様の子供・・・ダーナの町に行って、預けてきた」
ダーナの町に行ったことは知っていた。何故かと思っていたが、そういうことか。ようやく話がわかったとばかりにブリギッドは「なるほど」と頷く。
「なんでダーナまで」
「あそこにね。ずーーーっと昔、旅の途中のキャラバンについていけなくなった子を修道院に預かってもらったことがあったのを思い出して。それに修道院なら余程のことがない限り、グランベルの追っ手が荒らしに行かないと思ったから」
「確かに悪くない選択だね・・・クロード神父は子供のこと知っているのかい」
「知らないはずよ。だって、あたしだって全然気付かなかったんだもん」
久しぶりに会ったシルヴィアの体は以前と変わらずしなやかな筋肉を筋肉とわからせないほどに華奢に見えた。その体で子供を産んだと聞いて、ブリギッドは驚きを隠せなかった。
「でも、たった一回きりだったの。たった一回体重ねただけで、子供が出来るのね、知らなかった。大丈夫だって思ってたのに」
「あ、いや、そうとは言えないみたいだけど」
なんと言って良いのかわからずブリギッドは苦笑いを浮かべた。
昔、自分の手下だった海賊の一人が、村の少女を陵辱したことがあったとブリギッドは思い出す。けれど、その少女は運良く子供を身ごもらずに済んだはずだった。それでも、海賊に慰み者にされた女として村人達に疎まれ、少女は村から逃げることになった。
ブリギッドはその男に対して、罰を与えるために仲間から追い出すことにした。それから他の手下と共にその少女を違う村へ送り届けたが、あの少女は今はどうしているのだろうとぼんやりと思う。
「シルヴィア。ラケシス様も、もう一人身ごもっていたんだよ。デューから聞いたかい?」
「ええっ?ベオウルフの子供?ううん、聞いてないよ。レンスターにいることだけ聞いたわ」
「そう、ベオウルフの子」
「・・・そうなの」
シルヴィアは歯切れの悪い返事をした。
女2人はどちらも、自分の心中をどう表現してよいのかわからずに困惑の表情を浮かべた。
ぽつりとシルヴィアはうつむきながら小さな声で話し出した。その内容がデューには打ち明けていないことなのだとブリギッドはすぐに勘付いた。
「神父様は、なかなか、体を重ねてくれなかったの」
ブリギッドの返事はいささか遅れた。彼女はさっぱりとした気性の女性で、あまり隠し事をする人間ではないけれど、男女の営みについての会話はあまり得意としなかったからだ。それが自分や自分の知り合いであればなおのこと。
エーディンのように、高貴な身分として育てられた女性は誰しも、そういったことをあまり口に出さないものだ。当然ブリギッドは妹エーディンのような教育を受けていないから、それとは理由が違う。どちらかといえば女性が生まれもった「そういう話は気恥ずかしい」という、当たり前だけれど時として邪魔になる本能に近い感覚のせいだろう。そういう意味ではブリギッドは非常に女性的であるとも言えた。
「そうなのかい。聖職者だからかしらね?」
「あたしもそう思ってたの。神父様もそう言ってた・・・でも、なんかね、おかしいなって途中で思ったの」
「おかしい?」
「うん・・・あたしと神父様は、一緒に眠ったりしなかったんだけどね。ある日さ、どうしても寂しくてしょーがなくて神父様のところに行ったら、神父様に怒られたの」
女性が夜中男性のところに来るなんてはしたない、とかそういうことでも言うのかとブリギッドは想像をした。うん、あの神父なら言うかもしれない。けれど、それを自分の恋人に言うのは、あまりに残酷ではないのかと思う。
不安で押しつぶされそうな時、愛する男の傍にいたいと思うのはわがままなのだろうか。
それをわがままと言うならば、聖職者は永遠に人の心を救うことなぞ出来ないし、聖職者が説く神というものを自分は好きではないとブリギッドは思った。
が、シルヴィアはまったくそんなこととはかけ離れたことを言う。
「神父様、「私が我慢出来なくなったらどうするんですか」なんていうの。あたし、驚いた。今でもよく覚えてるもん」
「我慢出来なくなったら・・・それのどこがおかしいんだい?」
「だって、神父様は、自分が信じている、なんてゆーの?聖職ってゆーの?そういうもので決められたことを守るのを「我慢」なんて言う人じゃないもん。だから、わかったんだ。あたしと体を重ねないのは、神父様が神父だからじゃないんだって」
そう言ったシルヴィアの瞳は、とてもまっすぐで強い力を持ってブリギッドに向けられていた。
熱い、とブリギッドは思う。
シルヴィアが踊りを舞っているときのように、シルヴィアの瞳からブリギッドに向けて何かが放たれているように感じる。それを言葉にするならば「熱い」。それ以外に表現のしようがないと思えた。
その瞳の前では「勘違いじゃないのかい」と茶化すことが出来ない強さ。
「でもさ、あの後、リーンを産むまでにあたし考える時間いっぱいあったからさ」
リーン。それが子供の名か、とブリギッドは思う。
「そりゃそうさね」
「考えたら、思いついたの」
「何を」
「・・・神父様は、神父様でいることが、もう嫌だったんじゃないのかなって」
ブリギッドは目を丸くしてシルヴィアをまじまじと見た。
確かにブリギッドの何倍も、シルヴィアはクロードのことを知っているに違いない。その彼女が言っているのだから、笑い飛ばすことなんて出来やしない。
「そんでさ、神父様が神父だっていう理由以外に、あたしのことを抱けなかった理由がなんとなくわかった」
抱く、という言葉の生々しさに一瞬ブリギッドはどきりとした。けれど、それにはまったくいやらしい響きはなく、むしろ悲しい気持ちにさえなる。
しばらくブリギッドはシルヴィアの言葉を待ったけれど、決してシルヴィアはその「理由」とやらを話してはくれなかった。そして、結局どういったいきさつがあって2人が体を重ねたのかも。
ブリギッドは、シルヴィアがわかったという、クロードが自分の恋人と体を重ねなかった理由を聞きたいと思った。多分無理矢理聞き出せばシルヴィアは答えてくれるだろうという確信もあった。
けれど、そこでその気持ちを口に出さなかったのは、なんだかその理由を聞くのが怖い気もしていたからだ。
「神父様は、知ってたのね。バーハラであんなことが起きるって」
「多分そうなんだろうね」
「バルキリーの杖をデューに預けてたんでしょ。あたし気付いたの、バーハラに行く途中に。いつもと杖の数が違うって。布に包んであるけど、あたしが騙されるわけないじゃない」
「そうだったのかい」
「神父様との子供は、女の子。あっ、ごめん、ちゃんと説明しなかったね。リーンって名前をつけたの。あの子がいたから、あたし、今日まで生きてこられたようなもんだわ・・・いつかバルキリーの杖が使えるようになるのかなぁ・・・」
そこでシルヴィアの話は終わった。
いささか長旅の疲れが出てきたのか、ブリギッドから見てもシルヴィアには休息が必要だと思えた。睡眠を勧めればシルヴィアは素直に頷いてとぼとぼと部屋を出て行く。明日になれば記憶の中にある、軽快な足取りを見ることが出来るだろうか、とブリギッドは思った。


ベオウルフは知っていたのかしらね?
あの男がそんなに、生きた証をこの世に残したいような、そんな人間じゃないと勝手に思っていたのだけれど


突然思い出すラケシスの言葉。
元来自分は、人と話したことを細細と何から何まで覚えている人間ではないと彼女は知っていた。
だからこそとまどい、どうしてそんなことを思い出したのかを知ろうと試みた。
不意に生まれた感情に「何故」をぶつけることは難しい。けれど、記憶に閉まってあった何かを引きずり出したときは、必ずそのために必要な鍵が近くにあるのだ。
「・・・生きた証を・・・この世界に残したがるような・・・?」
ブリギッドは声に出して呟いた。とても心許なく消え入りそうな声なのは、本当にその言葉でよかったのだろうかと自信がないからだ。が、少なくともおおよその意味はあっていたと思える。そして、その言葉達がもつ意味を考えた。
自分という存在がこの世界から消えることを知っている人間が作り出す言葉。いいや、誰もがそれを知っている。しかも、傭兵でいつも死と隣合わせに渡り歩いてきたベオウルフであれば、尚のこと日常に死を感じることは多かったに違いない。
いつか自分は戦で死ぬ。彼はそう思っていたんじゃないかとブリギッドは思うし、そう考えればなんの不思議もない言葉だと思えた。

神父様は、知ってたのね。バーハラであんなことが起きるって

「・・・ああ・・・」
そういうことか。そういうことだったのか。
ブリギッドはうな垂れて瞳を閉じた。
何故クロードがシルヴィアを体で愛することが出来なかったのか、おぼろげにわかった気がした。
ブリギッドはシルヴィアのこと、ラケシスのこと、ベオウルフのこと以上に、クロードのひととなりをよく知らないと自分で思っていた。そんな自分でも突然心の底で、落ち着くべき場所に気持ちがおさまったように感じたのだから、多分間違いではないのだと思う。
あの神父は、自分が生きた証をこの世界に残したくなかったのだろう。
シルヴィアが自分の恋人であるということすら、知らせたくないことだったのかもしれない。
「・・・なんだよ、なんでそういうことになるんだよ、神父様・・・」
苦しい呟きがブリギッドの口から漏れる。
神父は確かに知っていたのだろう。
自分達が圧倒的な力によってねじ伏せられることを。
そして、あれほど聖職者として忠実に生きてきたにも関わらず、ブラギの神の意思を騙った男として、反逆者としての汚名を拭い去ることは出来ないということを。
怖くてシルヴィアには聞けない、とブリギッドは思った。
シルヴィアもまたブリギッドと同じ意見だったらどうしよう、という恐怖ではない。
その悲しい神父の心の動きを、シルヴィアの口から語らせることに、自分が耐えられないのではないかと思えたのだ。
デューには話さないでおこう。
自分達はお互い秘密を作らない夫婦だと思っていたし、これは秘密とは違うだろうし。
推測を何から何まで話すことは無意味なのだから。
それに、きっとラケシスの言葉がなければ、自分はこの推測に辿り着かなかったのだから、シルヴィアも失言はしてはいない。


「どうしたの、ブリギッドさん」
デューは妻の浮かない表情に気付いて眉根を寄せた。
「いや、ちょっとあたしも疲れたなーと思って。眠れば治るよ」
ブリギッドは咄嗟の嘘があまりうまくない。それでもデューはその言葉を信じたらしい。
当然シルヴィアが疲れたのならばデューだって同じ距離旅をしてきたのだから疲れたに決まっている。
それなのに、あの頃−戦いの中仲間達と共にいた頃−と変わらず自分を気遣って温かい茶を入れてくれたのだ。こみあげる愛しさを他に表現出来ないように、ブリギッドはデューの頬に口付けを返した。
「うん、もう休んだ方がいいよ」
「そうだね」
「体調を整えて明日から、だよね」
「ええ・・・頑張ろうね・・・早く子供達のところへ行ってやりたいし、シルヴィアのためにも・・・クロード神父のためにもさ。急がないと、いつまで命の保障があるかわかりゃしないしね」
クロードをバーハラの塔から救出して、シルヴィアに合わせて。
そしてクロードに教えなければいけないとブリギッドは強く決心した。
どんなにあなたが拒んでいても、あなたの子供がいたおかげでシルヴィアは生きられたんだから。
そう教えてあげなければいけないと思う。
「そうだよ。シルヴィアも言ってた。神父様をこのまま神様のところに連れて行かせるものかって。俺達の方が神様の何倍も神父様のこと好きなんだからってさ」
「・・・ええ、そうね」
確かにその通りだとブリギッドは思った。
あの神父は神に愛されている人なのだとブリギッドはずっと思っていた。
ブラギ神の声を聞くことが出来る特別な人物。
それをまったく鼻にもかけずに、とてもよくできた人間で、シレジアの地にいてもセイレーン城の城下町に住む人々が皆「お城の神父様」と呼んで彼を慕っていたことを覚えている。
そんな彼が、神に裏切られるなんて、許せない。
「デュー」
「何」
「絶対に、クロード神父を取り戻そうね。それから、ファバル達を迎えにいって、それから、エーディンを探して・・・」
「もちろんだよ」
そう言ってデューは壁から背を離して上半身を曲げ、ブリギッドの頬に軽く口付ける。
それからデューはベッドに腰をかけてブーツを脱いだ。愛しい夫のたったそれだけの動きですら、彼女の心を揺らす。
ブリギッドは瞳を伏せて心から祈った。
それは神に対する祈りではない。いや、神に対して祈りたくなんてないと意識的に彼女は思った。
「ブリギッドさん?」

子供が出来て関係が変わったら、あの人が、私を置いていくのではないかと思って

思い出されるもう一つのラケシスの言葉。
ねえ、クロード神父。
早く、シルヴィアを抱きしめてあげて。
あんたが否定し続けたこの世界に、あんたの子供を産み落としたあの子を、愛していると言ってやってよ。
言葉もぬくもりもないなんて、そんなの、ひどいじゃないか。
繰り返しそう思いながらブリギッドは立ち上がった。デューの前に歩いて行き、愛しい男の頭を抱きしめるように覆い被さり、腕を絡めて瞳を閉じた。
彼女の腕にそっと手をかけたデューの体温を感じて、ああ、これは幸せの温度だ、と思う。
その幸せに目が眩んで、ブリギッドは泣きそうになった。


Fin


モドル