臆病な動物-1-

青天の霹靂とはよくいったものだ。
ベオウルフはシレジア城下町のとある食堂で、中途半端な時間に酒を飲んでいた。
彼らはグランベルの追っ手を逃れてシレジアに来てからは、しばらくの間シレジア城に身を寄せ、その後セイレーン城をラーナ王妃に開放してもらって日々の生活を営んでいた。しかし、数日前におきた天馬騎士団の全滅とダッカー公討伐後、彼らは久しぶりにシレジア城で一時休むことになった。
セイレーン城に残っていたエーディンが出産を終え、今日はジャムカやブリギッド、そしてデューが今日は見舞いに行っているらしい。とはいえ、今日の彼の酒は、エーディンとジャムカへの祝い酒というわけではなかったし、雪の上に折り重なる用に死んでいった天馬騎士団への弔い酒ではない。誰を付き合わせるわけにもいかない、付き合わせる気もない個人的な酒だ。
(もともと一人で飲むほうが気楽だしな)
どうせ誰かを付き合わせれば、三日前から赤くなっていた彼の片頬についてみながあれこれいってくるに違いない。答えたくないわけではないが、正直それにいちいち相手をするのも面倒だ、とベオウルフは思う。
自分のちょっとした失言のせいで三日前の晩手痛い目にあったベオウルフだったが、翌朝、彼のその顔を見て「おいおい」と茶化したのはアレク一人だった。
誰も彼も、彼の頬が赤い理由は多少ともわかっている。けれど、みなそれをはっきりと聞く勇気がないのだ。
赤い頬について聞かないまでも、みんな彼に一声かけたくてしようがない−それは、彼の頬を赤く腫れ上がらせた原因について誰もが知っているからなのだが−のだが、それすら出来ずにうろたえている空気をベオウルフは感じ取っていた。その空気を破って彼に声をかけるならば多分シグルドかレックスなのだろう。しかし、その日突然みなの前で舞を披露したシルヴィアに誰もが気をそらされて、結局誰一人ベオウルフに声をかけないまま数日が過ぎた。それは、逆にありがたかったと彼は思っている。わあわあと周囲からあれこれ言われることなぞ彼は慣れていないし、そもそも好きではなかったからだ。
こんな時間−昼食と夕食の間−に一人で飲んでいる客を放っておいて、食堂の従業員達は夜に備えて仕込みを始めている。厨房から湯気と共に、酒を飲んでいても食欲をそそるような匂いが流れてくる。
シレジアの酒は、悪くない。
一番美味いのは、冬の凍える夜に温めて飲む酒だ。
ベオウルフは普段は火酒−火をつけると燃えるほどの強い酒−を好むが、温めて飲む分には火酒ほど強くはないものを最近ではもっぱら好んでいた。シレジアにはそれにふさわしい、温めて飲むと程よい酒が多い。
「おい、忙しいとこわりぃが、もう一杯もらえるかい」
「はぁい!同じでいいんですね?」
「ああ。すまねぇな。入りびたりで」
「ちゃーんとお金払ってくれるなら別にいいですよ」
注文ききの若い女性は、可愛らしい顔をしてなかなかきついことを言う。シレジアに来て間もない頃に一度アレクが口説こうとしたが一筋縄ではいかず「あと一皿食べてくれたら」「あと一杯飲んでくれたら」と延々かわされ、なかなか高額なディナーになったことがある。まあ、アレクもそこまでやる気なら、と楽しみながら口説いていた節もあったが、その金額を捻出するためにどれくらい働いたことか。
「でも、お客さん、これで4杯目でしょ。そろそろ帰った方がいいんじゃないの?お城の人でしょ?天馬騎士団のみなさんがあんなことになっちゃって、お城の警備も手薄になってるのに・・・」
「4杯程度でつぶれるかよ」
飲んでも飲んでも酒が体を回っている感触がしない、とベオウルフは思う。
実際彼は相当酒には強かったし、わずかずつではあったが食べ物も口に運んでいる。そうそう酔うことなぞないだろうと思えた。
「それに、なぁに、それ。どうしたんですか、ほっぺた」
「まだ赤いか?」
「ちょっとだけ。お酒のせいかと思ったけど、違うんでしょう?彼女と喧嘩でもしたの?」
その時、食堂の扉が開き、ちりんちりん、という風や振動で揺れて音をたてるウィンドウチャイムが食堂に響いた。反射的に明るい声で店員は挨拶をする。
「イーグレット亭にようこそ!」
「やあ、待たせたね、ベオウルフ」
聞き慣れた声で自分の名を呼ばれ、驚いてベオウルフはそちらに顔を向ける。
そこには、予想外の人物が立っていて、ゆっくりとした動きで外套を脱ごうとしていた。外套の肩からちらちらと落ちるわずかな雪と、布地の上で溶けて光を放っている水滴が目につく。
「・・・大将!?・・・別にあんたのことなんて待ってないですよ、何を言い出すやら」
「ははは。言ってみたかっただけだよ。なんか恰好いいだろう?」
そこに現れたのは今の彼の雇い主と言っても差し支えがない、シグルド公子だった。彼はベオウルフが陣取っている円卓の椅子をひとつひいて、脱いだ外套を椅子の背にかけてから腰をおろした。
「お客さん、ご注文は?」
「あまり強くなくて、でも甘くもない酒でお勧めはないかな?あればそれを」
「あんた、外で酒を飲むことがあるのか」
いささか驚いたようにベオウルフは聞く。
「ああ、おかしいかい?」
「意外」
「わたしも、君がこの時間から飲んでいるとは思わなかったよ」
「そうかい?わかってて言ってるくせに」
「・・・訂正しよう」
シグルドは小さく笑みを見せた。
「言い方が悪かったね。女性を身ごもらせたことで、まさかこんな時間に酒を飲むほど君が困っているとは思わなかったよ」
「意外かい?」
「うーん、意外といえば意外だね。でも、君がどういう気持ちで今飲んでいるのかわからないから、即答しづらいね」
「公子は本当に俺に会いにここまで来たってわけなんですかね?」
「まあね。城で話すには、何かと皆の勘繰りもあるだろうから。最初は思ったより君が動揺してなくて安心していたんだが、そうじゃなくて、まさか知らされていなかったなんてね」
ベオウルフは「ふう」と小さく息をついた。
「いつ、ラケシスが、大将のところに報告に?」
「ダッカー公を討ち取った夜だよ。まったく、本人もわかっていなかったというからたちが悪いね。君はいつわかったんだい?」
それはすなわち、天馬騎士団が全滅をした夜のことだ。
「俺?俺は、葬儀の夜だよ。なんだ、そんな変わらないじゃないか」
そう言いながらベオウルフは酒をもう一口飲んだ。その時、先ほどの女性がシグルドに酒を持ってきた。
「そうかい・・・ああ、ありがとう」
「これ、店長がサービスって」
そう言って煮込み料理が入っている小さな白いボウルを二つ円卓の上に置いた。湯気が立ち上って食欲をそそる匂いが鼻に届く。どうやら、夕食の仕込みをしている途中のものに手を加えて持ってきてくれたようだ。
「いいのかな?こんなに。ありがとう」
「その代わり、もう一杯くらいは飲んでいってくださいね。喪中だから、なんて固いことはいいませんから」
そう言いながら、ごつごつした石を組み合わせて作ったようなカウンターの奥に彼女は戻っていった。
「はは。しっかりしているな」
それを見送ってからシグルドは小さく笑った。
ベオウルフはその笑顔に目を向けていたけれども、見ているようで焦点はあっていない。
その時彼は、ラケシスと交わした会話を思い出していた。

以前セイレーン城でベオウルフは体調を崩したことがあった。
全快したものの、シレジアは冬の深い時期になる前にやらなければいけないことが多いらしく、すぐさまベオウルフはやたらとあちこちに借り出されて毎日目が回るほど忙しかった。この国に完全に居候という形で生活をしている限り、彼ら葉声をかけられれば嫌と言えない立場なのだ。
もともとシレジア生まれでも育ちでもない彼らからすれば、既にシレジアの雪は深くて「冬」そのものだったし、一年の半分近くががそうだと聞いてかなりうんざりもしていた。しかし、本当の冬はこんなものではなく、定期的に「深冬」と呼ばれる期間があるようで、更には春の前にもう一度やってくるという。雪の中、城から城下町にふらふらとやってきて酒を飲むことや、友達と遊ぶんだ、なんていって簡単に家から出ることが出来ないほどの時期がもう一度はあるという。
その、最初の深い時期に入る前に「年越」をするのもシレジアの一風変わった習慣だった。
他国と「年」を越す時期をシレジアはあわせていない。グランベルやアグストリアで「初冬」と呼べる時期に入ったときには、シレジアは既に雪が積もり、年越しの準備をする。
そして、年越しが終われば、もっともっと深まる冬に備えなければいけない。特に、冬真っ只中になってしまったら中断せざるを得ない工事等は更に急がなければいけなくなり、人手が必要になるというわけだ。冬が深くなり、それが一時期緩やかになって次に備え、また深くなり。その繰り返しで冬全体を越す。確かに雪に強い天馬でもいなければ冬を越えることもままならないだろう。
その最後の深い冬支度に追われて日々が過ぎ、そして今回の騒動だ。
ダッカーを倒すためにラケシスは戦場を駆け回り、これがあのラケシスか、と思えるほどの気迫で女傭兵達をなぎ払って討ち取りの名乗りを高らかにあげた。
その彼女の成長を嬉しく思いつつ、ベオウルフは気付けば随分ラケシスと個人的に会っていないな、と、事もあろうに戦場で思いついた。
個人的に会いたい、会えないとつらい、なんていう感情はあまりない。
が、彼女が最近はどうしているかは多少気がかりだった。
そう思って、ここ、シレジア城で用意されたラケシスの部屋に足を運ぶ途中−一時期身を寄せた場所であるから、知らない場所でもない−彼は彼らしくもなく「久しぶりに抱きたいな」なんていうことを考えていた。先日彼が調子を崩す前に、ラケシスの方が先に具合を悪くしていた。
その時、見舞いともいえない様子伺いに行き、熱い息を吐く彼女を見た。たったそれだけで欲情をしたかといえば嘘にはなるが、何も感じなかったわけでもない。
具合が悪いというのに、この女はこんなに美しいのか。
そう思うと不思議な感情が胸の中で湧きあがってきて、それがなんなのかを知ることも、それを吐き出すことも、ベオウルフ本人は自分で許さなかった。それは、許されるべきではないし、許したいとも思わない。それ意識だけは彼の中でとてもはっきりとした一線となって守り抜かれた。
ラケシスに問い掛けた、「あんたは俺の何だ」という質問。
そして、ラケシスから返された「お前は私の何なの」という質問。
それらに言葉で返すことは彼には出来なかったし、多分言葉でラケシスも返せないのだと思う。
彼は、自分自身の心に引いた、どうにも譲ることが出来ない、細いけれど強固な一線のせいで、答えを返せないのだとわかっている。わかっていてもどうにもならないことが世の中にはなかなか多いものだ。
彼がラケシスの体を愛するようになって、もう何度の夜、彼女の部屋を訪れただろうか。
まだ、片手で指折り数えられる程度ではあったが、何故かその一回一回を鮮明には覚えていない。それは、なんだか女という物を覚えたばかりだった子供の頃にふけっていた遊びに似ている。夢中だった。夢中すぎて、あっという間に過ぎて、腕の中の女と自分が本当に交わったのかもわからなくなってしまうような、走りすぎたあの情けない子供の頃。ただ熱さに追われるような時間。
覚えていられないのは、どうでもいいからではない。何もかも「どうでもよいことがない」からだ。
ベッドの上で衣服をとっぱらって抱き合えば、ラケシスは怯えながらもベオウルフにしがみついてくる。それを彼は邪険にしなかったし、「情事」と呼ばれる時間が終わってから、彼らがいつもの通りにお互いを牽制しあうように戻るまでの時間が、少しずつかかるようになってきていた。少なくともベオウルフはそれを知っていた。
そこにお互いの、返すことが未だに出来ない答えがあることに、気付かないわけがない。
あの、聞きたくない問いをもう一度お互いに投げかけて、もう一度抱いて、その情事を終えたら。
自分達はどうなってしまうんだろうかと心の中で何かがベオウルフに教えようとしている。
必死に目をそらしていたものを直視する時が来たというのだろうか。彼がひいた一線が無意味になる時が。
女を抱くのに理由なんていらないと彼は思っていた。
けれど、理由があって抱くこともあるのだと思う。
(まったく、たいしたもんだよ、あの女は。何回抱いたって、隣で寝ることを許しちゃくれねーんだから)
男は事を終えれば、そのまま眠ってしまいたい。朝まで傍にいたい、なんていう感傷や愛情とは違う、体の気だるさや満足感からの睡眠に対する欲が必ず首をもたげてくる。けれどもラケシスは決してそれを許さず、彼が彼女の部屋で一夜明かすことはなかった。だから、尚更それまでの情事が嘘か本当かがわからなくなる。冷えた自分の部屋に戻って、暖炉に火をくべることも面倒でそのまま眠ってしまえば、自分の体温だけがすべてになる。
それでも自分はラケシスを抱いていたし、素直にそれを気持ちいいと思う。
理由なんて、それだけだ。そう思いたかったけれど。
コンコン、と慣れたノックをすれば、慣れた返事が内側から聞こえる。
「開いてるわ」
素っ気のない小さな声だが、それはノックの主がベオウルフだとわかっている証拠だ。
「失礼」
形ばかりの言葉を口に出しながら、ベオウルフはドアを開け、ラケシスの部屋の中に入る。
ラケシスは火が燃え上がっている温かな暖炉の傍で、ラーナ王妃からもらった白いショールを膝にかけて座っていた。
石造りの暖炉の火を見れば、もう少し燃やしても良いのではないかと思えて、許可も得ずにベオウルフはさっさと傍に積んである薪をくべた。
「お疲れだったな。あんたの戦いっぷりはなかなかのものだった」
「そう?ありがとう・・・座る?」
その言葉は、「話でもあるの?」という意味なのだろう。
「ん〜、あ、ま、座るかな」
そういってベオウルフもラケシスと同じように、もうひとつある椅子を暖炉の傍にひっぱっていって座った。
ラケシスはめずらしくけだるそうに椅子の背によりかかっている。背にもたれてあごを引いても、彼女の美しい顔の輪郭は崩れない。無駄な肉がない証拠かもしれないが、もう少しふくよかになってもいいのかもしれないな、とベオウルフは思う。
「・・・調子悪いのか」
「ちょっとだけね。大した事じゃないわ」
「働きすぎたか」
「そういうわけでもないわ」言葉に比べてラケシスの言葉はそっけないわけではなかった。
「あまり、長くは話せないの。これから医師のところに行くつもりだから」
「そうなのか・・・じゃ、今日はやめておかないとな」
「何を?」
ベオウルフは阿呆のように正直に言った。
「あんたを抱くのをさ」
「まあ」
その正直さに呆れたようにラケシスは少し顎を揚げ気味に口を開けてしばらくベオウルフの顔を見ていた。
とはいえ、ベオウルフが普段ラケシスを抱くときに、いつでも遠回しになんとなくに体を重ねてくるわけではない。むしろ、その単刀直入さはラケシスの気には触らなかった。
誰かに「抱きたい」「口付けたい」とはっきり言われることは時にはとても気持ちが良いものだ。
求められている、お前にはその価値がある、と男が女にわからせることが出来る瞬間だし、それが、嫌いな男ではなければ尚のことだ。
他の誰に言われても、それはあまりに不躾で、いとも簡単に男の手に落ちると思われているのではないかと、ラケシスにとってはプライドを傷つけられる恥ずかしい言葉だ。しかし、誰に対しても飄々として、呆れるほどの無作法さでラケシスに接していたベオウルフだけは特別だった。それを「ベオウルフのことを好きだからだろう」と誰かに言われることは我慢がならなかったかもしれないが。
「私を抱きに来たの?」
「ま、端的に言えばそーだな」
「・・・でも、私はお前に抱かれないわ」
ラケシスはベオウルフに断言をした。
「そうか。それじゃ、しょうがない」
そして、それを聞いてあっさりとベオウルフが辞退の言葉を口に出したのは「女は出来ないときもあるしな」という単純な理由からだった。
とはいえ、もしラケシスが「もうお前に飽きたの」と言えば、ちょっとは驚いてから「そりゃ失礼」と簡単に答えるだろうけれど。
「今日だけじゃないわ。明日も、明後日も、ずっとずっと」
「・・・目が覚めたか。一介のどこの馬の骨ともわからない、うさんくさい傭兵との情事は、飽きるほど堪能したか」
「うさんくさくないでしょう。お前はエルト兄様の友人なのだし」
「どうだかね」
「それに、目が覚めたも何もないわ。私はいつもの私ですもの」
以前ならば目くじらをたてるはずのベオウルフの言葉に、何故かラケシスは怒らなかった。
背もたれに体を預けているのに、機嫌が悪くないのだろうか?
そう思ってベオウルフはラケシスを観察する。
が、理由はすぐにわかった。
機嫌が悪いのではない。ラケシスはラケシスでベオウルフに話があったのだ。きっと、そうに違いない。
だから、ちょっとやそっとのベオウルフの、いつもながらの彼女にとっての「忌々しい振る舞い」をされたからといってすぐに邪険にはしないのだろう。
「・・・じゃあ、それは何故だ?」
俺のことが、気に入らなくなったのか?
やはり、その言葉はあまりに陳腐で、そして彼らの間に存在するには間抜けすぎる問いだと思えた。
ラケシスはベオウルフを見た。
言葉がないまま、お互い目をそらすことなくこんなに見つめ合う時間なんて、今までなかったし、どんな恋人同士でもどんな夫婦でもないだろうと言い切れるほど、彼らはお互いを見つめ、目をそらさないまま、唇を引き結んでいた。
「ベオウルフ」
「何だ?」
ラケシスは体を起こして、椅子から立ち上がった。ほんの数歩歩くだけでベオウルフの目の前に立つ。それから、座っているベオウルフの左肩にそっと右手を置いて、彼の耳元に顔を寄せた。
何かを耳元で囁こうとしているのか、とベオウルフはけだるげに顔をわずかに倒して、ラケシスに耳を向ける。が、彼の予想に反してラケシスからの囁きはなく、柔らかな唇が彼の耳たぶの下にそっと触れた。
寒さを凌ぐために、彼が気に入って着ている首を覆うタートルネックの襟元にそっとラケシスは指を
差し入れ、首から肩のラインを見た。
「なんか、気になるのか」
「お前に、噛み付いたことがあったわね」
「あぁ、そうだな」
「私は馬鹿ね。男に、自分の痕を残すようなことをするなんて」
「・・・すごいことを言うようになったんだな」
その言葉に官能を感じる人間と感じない人間がいるに違いないが、きっとラケシスはわかっていないのだろう。ベオウルフは苦笑を見せた。
「そう?・・・あっ」
ベオウルフはラケシスを軽く押しのけるように立ち上がり−押しのけなければ立ち上がれないほどラケシスが密着していたのだが−後退りしたラケシスを左腕で抱きかかえるように抑えた。
「なんだなんだ、抱くなといっといて誘惑して」
「誘惑なんかじゃないわ、それに・・・」
そのままベオウルフは、ラケシスが彼にそうしたように、彼女の耳元に唇を引き寄せようと、腕に力をこめた。その時
「やめて!」
ラケシスは軽い抵抗をした。それに驚いてベオウルフは腕にいれた力を抜く。
「・・・気に触ったか。すまなかったな」
これは、ますますもって、俺のことが気に入らなくなったのか?そう思いついてベオウルフは肩を軽くすくめた。
男女の間でそういったことが永遠にないはずはない。もしなくなったならその相手は、気に入っても気に入らなくなっても、この先の人生共にいることを選び決めた伴侶なのだろうと思うし、ベオウルフは自分にとってそんな人間がこの世界にいると思ったこともなかったからだ。
「あ・・・違うのよ」
ラケシスは咄嗟にとった自分の行動に驚いたように、おびえた表情でベオウルフを見る。
「何が違うんだ」
「強く、抱かれるのかと思って」
「・・・それが嫌なんだろう?」
「私は、構わないわ。別に、今更」
それは乾いた嘘の言葉だ、とベオウルフは思う。ラケシスは何度ベオウルフが抱きしめてみても体を一瞬強張らせて、いつでもそれが初めてのように息を止める。腕の中でほっと一呼吸を置いてから体の力を抜く彼女のことを、彼女以上にベオウルフは知っていたのだし。それを「今更」といえるほどに彼女が慣れたとは思っていない。
「じゃ、なんだってんだ?今日はまた一段とあんたは面倒なお姫様だ。抱くなっつっては男に触って誘惑したかと思えば拒んで、でもそうじゃない、と来たもんだ。まったく、わかんねぇよ。何か言いたいことがあるならさっさと言えばいいだろうが」
「まだ、加減がわからなくて。でも、そうね、別にそんなたいしたことじゃなかったわ」
「何がだ」
「お前の強い力で抱かれたら、お腹が、押しつぶされるかと思って。でも、そこまで過敏にならなくてもまだいいんでしょうしね。あまり詳しくはわからないけれど・・・」
ラケシスはそう言って、ベオウルフの前でうつむきがちに自分の腹部にそっと手をあてた。
ベオウルフは2、3度まばたきをした。
いくらなんだって、彼女のその仕草の意味がわからない阿呆ではない。
この期に及んで「腹痛か、女は大変だな」とへらず口を叩いてしらを切ろうなんてさすがに思えない。
「ラケシス」
ベオウルフは彼女の名を呼んだ。それから、彼女の両腕を掴んだ。毎日剣をふるうようになって多少はたくましくなったが、まだまだ華奢な女性の腕だ。冬用の厚手の布の上からだってそう思える。
「昼間はみんなが気にするでしょうから、医師のところに行くのは夜にしたの。でも、夜は夜で通路が寒いんですものね。あっちをたてればこっちがたたないとはこのことだわ」
「・・・そんなことを聞きたいんじゃないぞ」
ラケシスは明らかに無理矢理気丈そうに振舞っている。ベオウルフを目を合わせようとしない。
言わなければと思っていたから、ラケシスはベオウルフを部屋に入れた。けれど、それを口に出すには勇気が必要だったし、ベオウルフに伝わっているのだろうと思っていても、自分から念押しして決定打を放つことにはまだ抵抗があった。
2人は暖炉の前で立って、ベオウルフはラケシスを見て、ラケシスは自分の足元を見つめていた。
思った以上に自分が強い力でラケシスの腕を掴んでいると気付いて、ベオウルフはその力を緩めた。
それを、なんと思ったのか、腕の力が緩んだ途端にラケシスはゆっくりと顔をあげて、ベオウルフを見上げた。
「ベオウルフ」
「・・・ラケシス、それは」
言葉を選ぼうとしたけれど、うまく選べない。そのもどかしさにベオウルフは彼らしくもなく焦った。
ラケシスが自分から事実を伝えたくない、ベオウルフから聞いて欲しい、そう願っていることはわかる。
自分が子供ならば、それすらもわからなかったかもしれないが。
その気持ちの焦りが、彼自身も信じられないような暴言を彼の口から出してしまった。いや、確かにそれは聞くべきことではあったかもしれないが、ラケシスがそんなことを聞きたいわけではないのだと、彼は百も承知だったのに。
「俺の、子供、なのか」
「・・・」
その瞬間。
ラケシスの右手がしなやかに動いて、ベオウルフの頬を叩いた。
ぱん、と最近聞かなかったよく響く音がベオウルフの耳の奥で鳴ったように聞こえた。
反動でそむけるようにベオウルフの顔は右へと向いた。彼はすぐには何も言わず、決して声も荒立てずに静かに再び正面を向いた。見下ろせば、ラケシスがまたばきせずにベオウルフを睨みつけている。
「・・・っつ・・・ほんとに・・・あんたは、いい平手をくらわしてくれるな」
「それは、ありがとう。素敵な褒め言葉ね」
しまったな、手を緩めなければよかった。
そんなことを思いつつ、ベオウルフは怒りに震えるラケシスを見ていた。
唇を噛み締めてラケシスは、まだベオルウルフを睨んでいる。
「出て行って」
「ラケシス」
ラケシスの声は震えていた。きっと彼女自身もそれに気付いているだろう。
それは、泣き初めの声によく似ているとベオウルフは思う。
「言ったでしょう。医師のところに行くと」
じんじんと頬が痛む。ベオウルフは赤く熱を持った頬に触りもせずに、ラケシスに見つめ返した。
「・・・あんたは、あまり俺と話をしないほうがいいかもしれないな」
「どうしてそう思うの?」
「俺は、あんたを苛立たせる。それは、あんたの体のためにならない」
「・・・そう思うなら、話さなければいいわ」
「そうだな」
「ベオウルフ」
「ああ」
「抱きしめて頂戴」
出て行けといったくせに。
以前だったらそんなことを言って、もっとラケシスを苛立たせたに違いなかったけれど、ベオウルフは何も言わずにラケシスを抱きしめた。あまり丁寧とはいえない引き寄せ方だったけれど、腕には力をいれて強く抱きしめ、しかし、体を無理に押し付けずにいる。それは、ベオウルフなりの気遣いだ。
ラケシスはベオウルフの胸に顔をうずめたまま、瞳を閉じて唇を引き結んでいた。当然その表情はベオウルフには見えない。まるで何かにおびえるように、何かを耐えるように。ベオウルフの腕の中ででも彼女には安らぐ時がないように。それでも彼女はベオウルフの腕を欲していた。
ベオウルフもまた、ラケシスを抱きしめていたけれどその瞳は閉じられることはなく、ラケシスの肩越しからあてもなく視線をベッドの隅あたりに彷徨わせていた。心がない抱擁といわれれば否定はしないけれど、それが必要な時もあることを彼は知っていた。それに、気持ちがこもらないのは、ラケシスへの感情が薄いからではない。ただ、彼はどうにもならないほどに戸惑っていたのだ。
どんな女を孕ませたとしても、さほど自分は動揺しなかったのに。
そのことに一番彼自身が驚いていた。


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