臆病な動物-2-

彼らがそんなやりとりをしたその晩、セイレーン城ではジャムカとエーディンの子供が生まれた。
そして翌日、その子供に祝福を贈りたいというシルヴィアの舞を見るために人々はシレジア城の中庭に集まっていた。
ベオウルフはその人々の中にラケシスがいないことに気付いて、わざわざ彼女の部屋に呼びに行った。
それは彼の厚意というよりは、あの人々の輪に一人でいることが気まずいと思えたからだ。
どうやらラケシスの懐妊は、他の人々にもちらほらと噂になっているようだ。
少なくとも、昨晩ラケシスの部屋から帰る時に出会ったアイラには、ベオウルフの方から伝えた。
人々はエーディンの出産に浮かれているけれど、ラケシスの懐妊を知っている人間は、絶対に忘れずに彼女に「おめでとう」ということだろう。それを聞きたくないし、わざわざ自分がそれを言われるなんて、考えただけでベオウルフは身の毛もよだつ思いだった。
案の定、と言うほどのことでもないが、ラケシスを呼びに来た時に、彼女の部屋にはめずらしくアイラが訪問していた。
「シルヴィアが踊るってよ。見にこいよ」
「シルヴィアが?」
女2人は素っ頓狂な声を出した。
「窓から見てみろ」
ラケシスがあてがわれた部屋は、中庭に面した二階の部屋だった。見下ろすと人々がちらちらと集まっていて、中央にいるシルヴィアは既に軽いステップを踏んで、昔とったなんとやら、で人寄せをしているようだった。
「レックスは知っているのかな。じゃ、失礼した」
アイラは軽くラケシスに退出の言葉をかけて、ベオウルフの横をすり抜けていった。仰々しい挨拶も、会話を名残惜しむ様子も何もない。面倒がない女だな、とベオウルフは思う。
アイラがドアをきっちり閉めたことを確認してから、立ち上がって窓から中庭を見下ろしているラケシスの後ろに、そっとベオウルフは近付いた。
「ラケシス、行かないのか」
「・・・お前と?」
「ああ」
「いいわ、ここで見ている」
「やめとけ、ああいうものは遠くから見るもんじゃない。お姫様なんてもんはいつだって特等席だったからわからないんだろうが、遠くから見たってつまらんもんだし、上からじゃー頭しかみえねぇよ」
ラケシスはベオウルフを見ない。
「でも」
「俺といるのが嫌なら、別に俺といる必要なんてないだろう。お前がいないほうが、みんなが心配する。特にフュリーなんて昨晩遅くにセイレーン城から帰ってきたんだ。あいつが、いつだってお前のことを心配してるのを知っているだろう」
ベオウルフの言葉は一見優しく見えて、まったく優しさがなかった。
ラケシスは、「お前はどうなの」と聞きたい衝動に駆られたがそれを抑えて、ゆっくりと振り返った。
「あまり、人がたくさんいる場所にいたくないわ」
「そうか」
窓から差し込む柔らかな光は、目の前にいるラケシスの輪郭がまるで発光しているように縁取る。ベオウルフは軽く目を細めてから体をずらして、光があまり入らないように壁側に移動をした。それを見るラケシスも、体ごとベオウルフに向くように動く。
「ベオウルフ、私」
「ん?」
「みんなから祝いの言葉を、聞きたくないの。だから、あまり」
だから、人々がいる場所に行きたくないのだ。
ベオウルフの出方を伺うためにラケシスは言葉を続けることが出来なかった。
残念ながら、俺も同感だな。
そう言えばきっとラケシスは「そうでしょう?」と答えながらまた失望の表情を浮かべるのだろうと思う。ベオウルフはいささか面倒に思いながらラケシスに手を伸ばして、なめらかな頬にそっと添えた。
「わかってる。あんたも、俺も、いろんな準備がまだ出来ちゃいないんだ。認めたくはないが、俺たちはまだ子供だったんだな」
「ベオウルフが?」
意外そうにラケシスは、不安げな表情でベオウルフを見る。
いつだってラケシスに「馬鹿な女だ」「愚かな女だ」とことあるごとにひどい言葉を投げつけ、その理由をいやと言うほど彼女にぶつけてきた男の言葉とは思えなかったのだろう。
「ああ。俺もあんたも」
「私は、子供だわ。でも、子供だって身ごもることは出来るんだもの」
「ああ、それだってわかってる。あんただってわかってたはずだ」
「そうね」
そう答えたラケシスは、泣き笑いをベオウルフに見せた。なんて心許ない情けない表情なのかとベオウルフは思う。漠然とした不安に苛まされて彼女が苦しんでいることはベオウルフにもわかった。
「でも、私、お前に抱かれたことを後悔していないの」
「ラケシス」
「お前は後悔しているの?」
「・・・いや」
この先何度、抱きしめてやれば彼女は満足できるのだろうか?
昨晩の抱擁で彼女に与えられたものは、たった一晩穏やかな眠りにつくための安心だけだったのかもしれない。
たとえ毎日毎晩抱きしめても、翌日になればまたラケシスは、こんな瞳で自分を見るのだろう。そう思えばいささかうんざりもした。うんざりしたけれど、それでも楽になるための魔法の言葉を彼は口にすることは出来なかった。
簡単なことだ。
ラケシス、愛している。俺の子供を産んでくれ。
たったそれだけだ。それを、心から音として口に出せば済む話だ。
しかし、たったそれだけのことが彼にとってはあまりにも難しいことだった。100人の敵を切り伏せるよりも、100人の女に愛を語るよりも、途方もないことのように思える。
喉の奥につまった塊があることが確かに彼には感じ取られ、それを押し出す作業を心が受け付けてくれやしない。そして、心が受け付けてくれなければ体も動かないのだと思い知らされた。
ベオウルフは、言葉に出せない自分を誤魔化すようにラケシスを抱きしめる。そして、ラケシスもまた騙されようと瞳を閉じてベオウルフの体を預ける。
窓の外、一階から聞こえる人々の声が大きくなっていく。
連れて行かなければ、と思うけれど、自分を奮い立たせる力が弱まっていくことをベオウルフは感じた。
自分もまた、ラケシスからの言葉を欲しているのかもしれない。
そう思うことが怖くて、ベオウルフはその気持ちを打ち消すように、無理矢理言葉を搾り出した。
「後悔するわけがない。お前だから、抱いた」
「ベオウルフ」
「お前だから抱いた。それだけは忘れるな」
昨晩からずっと、彼女が本当に欲しがっている言葉はそれではないのだと思うけれど、それでも、それがベオウルフの精一杯だった。
なんて情けない男だ。俺は。
自分に出来ることは、明日も明後日も、ラケシスが求めてきたら抱きしめる。ただ、それだけだ。
それだけのために、まだこの女の傍にいなければいけない、とベオウルフは思った。そういうことにしてしまえば、彼は楽になれるのだ。
腕の中のラケシスは泣いていなかった。
ベオウルフは、泣かれずに済んでありがたい、なんて思うおめでたい男ではない。
泣くことも出来ずに強張ったラケシスの体は、彼女の強張った心を物語っている。
だって、どうにもならないではないか。自分はラケシスが欲しい言葉は与えられないし、ラケシスもベオウルフに心の内を言葉にしてぶつけることが出来ないのだし。
お互いにそんな愛し方はしていなかったし、されていなかった。
けれど、こんなことになった今でも、彼はそれを後悔なぞしていないのだ。

シグルドは酒を二口飲んで、ベオウルフを見た。
物思いに沈んでいた自分を観察されていることに気付いて、ベオウルフは苦笑を浮かべた。
「なんだい、大将、俺の顔なんざ見てたって酒はうまくないだろうに」
「そうでもないよ」
「じゃ、いい酒の肴にするつもりで?」
「そうでもない」
まったく、喰えない男だ、とベオウルフはシグルドに対して顔をしかめて見せた。
「で、俺に会いに来てどうしよーってんですか。説教?それとも、非難しに来たんですかね?」
「非難?」
「よくも、親友の妹を、ってさ」
そう言いながらベオウルフは、そういえばラケシスにまだエルトシャンの話をしていなかったな、と思い出した。
ぐい、と酒を一気に飲み干した彼は、それでもまだ酔っ払いの目をしておらず、飲んでも飲んでも酔いきれないという風情だ。シグルドは穏やかに問い掛けた。
「君にとっても、親友の妹じゃないのか」
「親友なんてもんじゃない、俺とエルトは」
「そうかい?」
「そーですよ・・・おーい!もう一杯もらえるか?」
「もう、やめておいた方がいいいんじゃないか」
シグルドの制止も聞かずにベオウルフは店員にまた酒を注文する。
こんな時に敵襲でもあったらどうするつもりだ、と言おうと思ったけれど、多分この男は大丈夫なのだろう、とシグルドは一人で勝手に納得をしていた。
「説教でも、非難でもないよ。ただ、わざわざ君を呼び出すのも申し訳ないし、君の部屋に押しかけるのもどうかと思って、ふらっとね。私もほんの少しばかり気晴らしついでに」
「気晴らし。ま、確かにあんたも大変だからな・・・グランベルが動き出したんだもんな。もうすぐ、ここを出るつもりなんでしょうよ」
「ああ。そうなるだろうね」
さすがに酒が入っていても筋金入りで頭が切れるな、とシグルドは心の中でベオウルフを賞賛した。シグルドの言葉にちゃんと反応をして、間違いのない答えを返してくる。
なのに、この男は何故。
そこで先走ってベオウルフへの「説教」をしたい気持ちになったが、シグルドは穏やかに続けた。
「気晴らしついでといってはいけないんだろうけれど、君にお祝いを言おうと思って」
「やめてくれませんかね」
「どうして」
「・・・嬉しかねぇ、子供なんざ」
「そうかい?私は妻がセリスを身ごもった時、嬉しかったよ」
そういってシグルドは煮込み料理に口をつけた。
「うん、なかなかうまい。君は食べないのかい」
ベオウルフはその言葉へは返事をしなかった。
「大将はそうかもしれねぇけど。俺は無理ですよ。今まで、女が身ごもったって、嬉しいと思ったことなんざありゃしませんし」
「前科持ちってわけかい」
わかっていたけれど、とシグルドは苦笑をした。
「知ってるだけで2人いますからね。多分、あと1人や2人いるんじゃないかと思いますがね」
「本当かい」
「嘘ついたってしょうがない。つっても1人は死んじまった。産むこともないままね」
淡々とベオウルフは続けた。
「もう1人は、身ごもったまま姿を消しちまったから、どうなったことやら」
「それは、意外だ」
「なんで?」
「君が姿を消す側ではなかったのかと思って」
ベオウルフは驚いたようにシグルドの顔をまじまじと見つめた。
不思議な間が出来た。
シグルドもベオウルフもお互い何も言わずにいる。
何も言葉を返さないベオウルフに対してシグルドが何もせっつかずに黙っているということは、自分の一言が彼を黙らせるだろうと知っている、いわゆる確信犯だったということだ。
その時、ちょうど店員がベオウルフに酒を運んできてその妙な間を緩和してくれる。
ありがとよ、と軽く手をあげて、ベオウルフはすぐにまた酒に口をつけた。休むことを知らないのか、とシグルドはいささか呆れ気味だ。
「・・・大将、あんた、前から思っていたけどさ」
「なんだい?」
「嫌なやつだな〜」
「おやおや」
あまり心外でもなさそうにシグルドは軽くそう答える。その返事に不満はなかったようで、ベオウルフはようやく煮込み料理に手を伸ばしながら、話題を少しそらした。
「イザークの姫さんにも言ったんだけどさ・・・ああ、うまいな、これ」
「アイラに?」
「ああ。たまたま、これやった日に会いましてね」
そう言ってベオウルフは自分の赤い頬を指差した。シグルドは苦々しそうに、それでもこらえられなかったようで笑い声をあげる。
「ははは、災難だな。どうせ君のことだ、ろくでもないことを言ってラケシスにくらったんだろう?」
「ご名答」
「それで?アイラに何を言ったんだって?聞いてもいいのかな?」
「俺は別に子供なんざ、嬉しいとは思いませんがね。ラケシスが、その子供をきちんと愛して、産みたいって思ってくれるなら。それはきっといいことだと思うわけで。そう思えば、悪くない、って言ったんですよ」
「いい事を言うじゃないか」
「でも、ラケシスはそんなことを聞きたいわけじゃないんだろうし」
「・・・そうなのかな」
「そうでしょうとも」
「本当に?」
「・・・なんでそんなところで勘繰るんですか?」
「だったら、何で君はここで酒を飲んでいるだい?」
シグルドのその言葉は、厳しい響きを伴っていた。
それまで穏やかに聞き、穏やかに答え、まるでベオウルフの全てを受け入れるかのように静かに酒を飲んでいた彼が、ようやく本題に入るといったところなのだろう。
ベオウルフはしばらくシグルドの顔をみて、片方の口端をにやりと吊り上げ、表情を作った。
「あんたは、本当、嫌な男だな。だけど、俺はあんたは嫌いじゃない」
「わたしは君のことは好きだよ」
「そんな言葉は、誰にだって、言いませんからね、俺は」
「言わないだけなんだろう?」
シグルドはベオウルフを逃がさなかった。
追い詰めるつもりはないとわかる、激しさはない言葉。
たったそれだけでも今のベオウルフには十分に堪えたに違いない。
「あんたは、俺をいい加減な男だと思っていない」
「うん」
「なんでそう思うんですかね。俺としては滅法困る」
「どうして」
「いい加減だからさ」
「まさか」
シグルドは声をあげて笑った。それから、酒を一口飲んで笑顔を向ける。
「エルトシャンの友人には、いい加減な人間なんていやしない。いるとしたら、わたしが一番いい加減だと思うしね」
シグルドは、大した男だ。そして、それを言い切らせるエルトシャンという男は、もっともっと大した男だ、とベオウルフは思う。記憶の片隅にいる、あのアグストリアの獅子王の姿を思い出して、ベオウルフは苦笑を浮かべた。
「いや、二番目でしょう。一番はどう考えたって俺だ」
シグルドがいい加減な男ではない、と反論はしない。別段ベオウルフは、目の前にいる彼の雇い主をいい加減な男だと思ったことはないが、いちいちそれを否定する必要なんてないと思った。そんなことをして欲しくてシグルドが言ったわけがないのだし。
「抱けば、子供が出来る。当然だ」
「ああ」
「そこまでは、俺にだってわかっていた。繰り返せばいつかそうなる。もう、ラケシスの体はちゃんと元に戻って、健康体なんだし、子供が出来ない方がおかしい。そんなこたぁ、わかってたんですよ、いくらいい加減な俺だって。ノディオン王家の血を引くガキが生まれるって。当然、ラケシスだってわかっていたに決まっている」
「そりゃそうだろう」
「俺は、嫌じゃない。あの女が俺の子供を産むことが」
「ベオウルフ」
「別に、いい。それはそれで。俺は、なんてーの?一介の傭兵ともあろう身分がノディオンのお姫さんに身ごもらせるなんて、そんな身分知らずな・・・とか、そういった馬鹿馬鹿しいことは言われたってなんだって、気にするつもりもない。なったもんはしょうがないでしょう」
では、どうしてここで君は。
シグルドの視線は、ベオウルフにもう一度、先ほどの問い掛けを投げつけてきていた。それを嗅ぎつけて、ベオウルフは「ここらが潮時かな」と小さく呟いて、酒を2、3口飲んでから身を乗り出した。
「あんたは、ラケシスに、俺のことを何か聞いたんじゃあないのか?妊娠したって、報告うけた時に」
「・・・」
「図星でしょうが?」
「ラケシスは君のことを」
シグルドは両手で酒が入ったグラスを掴んだまま、真剣な瞳でベオウルフを見据えている。
「いつか、自分の前からいなくなるのだろう、と、言った。そんな男の子供を身ごもったことを、後悔はしていないと言っていた」
「・・・そうか」
「エルトシャンが生きていれば、こんなことはなかったのだろうが、もし、今生きているとしたら、祝福してくれるのだろうと言って、必死に笑っていたよ。それから・・・」
言いづらそうにシグルドはわずかに目を細めて、それから思い切ったようにはっきりとベオウルフに伝えた。
「自分は、エルトシャンを愛していたのだと。妹としてではなく・・・。今だから言えたのだろうけどね。エルトシャンは兄として愛してくれていたけれど、自分は違ったんだと、きっぱりと言ってくれたよ。噂にもなっていて薄々わかってはいたんだけれど、彼女の口からその話を一生聞くことはないと思っていた・・・兄妹でも、そんな気持ちになるものなのかな」
シグルドは、彼の方がつらそうな表情を見せた。
エルトシャンとラケシスが、兄妹以上の関係ではないかと、その当時あまりよくない噂として流れていたことは嫌でも耳に入ってくることだった。それについてラケシスは否定を続けていたし、聞かれても黙することが多かったため、シグルドも無理矢理聞こうとはしなかった。
こんな形で今更聞いた言葉は彼に少なからず衝撃を与えたし、そのエルトシャンの友人でもあるベオウルフに伝えるべきかは悩んだが、それでも彼はひとつも隠すことなくベオウルフに話した。
「大将、ありがとうよ」
ベオウルフは礼を言うと、立ち上がった。しわくしゃになった紙幣を適当にポケットから出してテーブルに置く。
「ベオウルフ、ちょっと・・・」
待て、とシグルドは言おうとしたが、それを止めた。彼は、ベオウルフに対してこれ以上の追求も何もかも、無駄だとよくわかっていた。
シグルドの脇をすり抜けてベオウルフは出口に向かう。慌ててカウンターから出てきた店員に軽く手を振ってから、ベオウルフはさっさと店を出て行ってしまった。

外は、シグルドが来た時からずっと雪が降り続いている様子だった。空は曇っていて、どんよりとしている。
酒が入った体はすぐには冷えない。ベオウルフは雪道をゆったりとした足取りで歩き出し、シレジア城へ向かった。主要な道は雪かきをしたおかげで、足元に注意すれば雪のせいで歩けないなんてことはそうそうなかった。
歩きながら考えることは、ラケシスのことばかり。
シグルドにすらわかるほど、ラケシスは痛々しい笑みを見せたのだろう。
後悔をしていないという言葉は、嘘ではないのだと思う。
ラケシスは、強くなったのだ、と思う。それはベオウルフにとっては非常にありがたかったし、見ていて聞いていて惚れ惚れするほどのことだ。
体も、心も、ラケシスは、本当に強くなった。
もう、俺が必要ないほどに。
相反する感情が自分の中にあることにベオウルフは耐え切れずに、酒に逃げた。めずらしいことだと彼自身わかっている。
ラケシスにとって、ベオウルフが必要なくなる時が来ると、彼は初めから知っていた。なのに、抱いた。抱けばいずれ子供を授かる。必要のない自分が、違う意味で必要になってしまうのだろうと、そこまでベオウルフがわからないはずがない。
女を抱いた男の責任とやらについては、彼はあまり深く考えることもないし、運が悪ければいつかは誰かに首根っこを掴んでそれをつきつけられると思ってもいた。それが、これか、と彼も年貢の納め時を覚悟しなかったわけではない。
しかし、ラケシスは、彼の首根っこを掴みやしない。それが、どれほどのことなのか、きっとわかる人間なんて彼らの周りにはいるはずがないのだ。
(あんたは、よくわかっていらっしゃるよ、大将)
それは、ラケシスのプライドなのだろうか。いや、それだけではない。
そもそもラケシスは、ベオウルフが自分の夫になることなぞ許してはいないのだし。それは、ベオウルフのことを好きではない、ということとは違う。
腕の中で力を抜くことが出来ない、あの愛しい女。
それは、子供を身ごもった初めての経験を恐れながらも、もっと大きなものに恐れおののいているのだろう。

ようやくシレジア城に戻って、城門をくぐったと思うと、よく知っている人物がベオウルフの視界に飛び込んでくる。
ラケシスだ。
ラケシスは雪の中を歩いて、馬屋に向かっているようだった。
(まさか、子供を身ごもった状態で馬に乗るつもりなのか、これ以上。この前の戦だって、いくらなんだってありゃあ、暴れすぎだったってのに)
ベオウルフは焦ってラケシスの後を追った。遠くでは雪かきをしている音がしているため、後をつけるベオウルフの足音はそれにかき消されているようだ。
雪の上を歩くのにかなり慣れた足取りでラケシスは歩いていく。初めてシレジアの雪を知ったときと比べると、それは雲泥の差だった。
彼女は馬屋に辿り着き、先日の戦でかなり暴れまわってくれた彼女の愛馬のもとに行った。
馬屋は、雪から馬達を守るしっかりした造りのものだった。雪をものともしないシレジアの馬達は、あまり繁殖力は強くないけれど個体そのものは非常に強い。そんな馬達の棲家は、今までベオウルフが見た馬屋の中でも群を抜いて強度を高めた造りに見えた。
「ごめんなさいね。当分、あまり馬乗りは出来ないの。そのうち、誰かに言って・・・ベオウルフにでもお願いして、ちゃんと走らせてあげるから、待っていて頂戴」
ラケシスは愛馬をそっとなでて、優しく語り掛ける。
本当はあまり神経が太くはない馬達に配慮して、優しく優しく。
ああ、いつもそういう顔をしていれば良いのに。
ベオウルフはそう思いながら、ラケシスに近付いて声をかけた。
「あんたは、馬にはとても優しい顔をする」
「ベオウルフ・・・見ていたの?」
「ああ」
「馬は、お前と違って、嫌なことは言わないもの」
「確かにそうだ」
「何か用?・・・いやだ、お酒、飲んできたのね?」
「すまねーな。あんたが、まさか、遠乗りにでも出かけるんじゃないかと思って、ついてきたんだ」
「あら」
ラケシスは意外そうな表情を見せた。
「それは、私を心配してくれたっていうことなのかしら」
そう返されてベオウルフは一瞬答えに困った。困ったけれど、嘘はつかないでおこうと思う。
「そうだな。そういうことだ」
「・・・ありがとう」
素直にラケシスはそう言って、その場でうつむきがちに黙り込んだ。
馬達が体を揺らす音、遠くから聞こえる、大きな雪の塊を投げる音や、雪を掘る音。
冬でもいる鳥の声。誰かが誰かを呼んでいるらしい声。
2人は様様な音に囲まれながら、お互いにお互いの次の声を待って息を潜めていた。
「・・・観念した。白状する。どう考えても俺から伝える必要がある」
先に、突然の言葉を発したのはベオウルフの方だった。
「俺は、あんたが、俺のことを大事にしてくれていることを知っている」
「・・・!?」
何を言われたのかわからないように、ラケシスは目を見開いて彼を見上げる。
ベオウルフの表情は、いつもの少し皮肉めいたそれではなく、彼にしては珍しく神妙な面持ちだった。
「責任をとれとも、夫になれとかさ・・・ありとあらゆる要求や、非難の言葉をひとつも俺にぶつけないくらい、あんたが大人になったことも知っているし・・・俺があんたの夫なんてもんにならないことも、よーくわかってるくらい、あんたが俺のことを知っているってことだって、わかってる。俺は、あんたに感謝している」
何も言葉を挟めずに、ラケシスはベオウルフを見つめた。
とても静かな視線。
もしも、自分が勘違いしているならば、またラケシスのなかなかに素晴らしい平手が飛ぶに違いない、と覚悟をしながらベオウルフは言葉を続ける。
「あんたは傭兵の妻になるような女じゃないし、俺は、ノディオンの姫君の婿になるような男じゃない。お互い、それはまっぴらごめんのはずだ。そこらへんの阿呆達は、簡単に結婚しろだのなんだの言うかもしれないが、俺は、それだけは絶対に出来ない」
「知っているわ」
強がりを含むわけでもなく、とても冷静な声音でラケシスは頷いた。
「好き合っているなら結婚すればいい、子供が出来たら結婚するのが当たり前、なんて、一体誰が決めたのかしら。この世に政略結婚みたいなものがある限り、結婚なんて、ただの手段だったり体裁だったりするものだわ。そんなものをお前と整えたいなんて、一度だって思ったことなんて、ない」
「ああ」
「どうしてかしら。私、お前のことを」
「うん」
「とても、大事に思っているの。夫婦になんて、なる気がおきないくらい。そんな約束事で守られた間柄になんて、お前となる気がおきないくらい」
「ああ、あんたは、よくわかってる」
ベオウルフは1歩踏み出してラケシスに近付いた。いつもならば、そこで腕を伸ばして引き寄せるのはベオウルフの方だった。けれど、彼の動きを見てラケシスは自分から体をベオウルフに摺り寄せて、彼の腰に腕を回した。どこで誰が見ているかわからない人目のつくところで、ラケシスがこんな風に甘えを見せるのは、多分最初で最後だったに違いない。
「あんたは、貪欲だ。約束されていない状態で、それでも、俺があんたの傍にいることが嬉しいんだろう」
「そうよ。私、わがままなんだわ」
「わがままじゃない」
「妻だとか、夫だとか、それが一体何なの。だって、私、もう知っているのよ?兄だとか妹だとか、決められてしまって変えようがない関係で、それを演じることがどれだけつらいのか」
「ラケシス」
「そんな肩書きも、約束もいらない。肩書きは失うこともあるし、約束は破られることだってある。そんな思いをするのは、もうこりごりだわ」
ベオウルフはラケシスの髪に顔をうずめて、細い肩を優しく抱いた。
俺は、絶対に約束を破らない。そんな言葉を出せるほど、ベオウルフは子供ではなかったし、約束を破らないように努力をする、なんて言葉ではラケシスを安心させることなどできないのだ。
そんな気持ちを知っている人間は、ここには誰もいやしない。
むしろ、そんな言葉を求めている女が多いことが当然だとベオウルフは知っている。そして、そんな女達にベオウルフは今まで何度も失望をさせてきていた。この先も彼は、変わることはないのだと思う。
だからラケシスはベオウルフを求めるだろうし、ベオウルフも、そんな浅はかな思いに答えるため、何の関係も約束もないままに彼女を抱きしめるのだ。
強張っていた彼女の体は、子供を身ごもったことに祝福をされなかったからでも、子供を身ごもったことへの恐れの現れでもなかった。ベオウルフは最初からわかっていたそれを、「ああ、やっぱりな」と納得して、何度も彼女の髪を手でなでた。彼女は、子供の存在によって自分とベオウルフの関係が壊れることが一番怖かったのに違いない。

お前は、わたしの前から消えないで。それが誓えないなら、もう、わたしの傍にこないで

以前、ラケシスがベオウルフに放った言葉。
誓いも約束も何も必要がない。そんなものがなくても、今ベオウルフはまだここにいるし、逃げようともしない。変わらずラケシスを引き寄せて抱く。それがどれほどの愛情なのか、ラケシスはもはや気づいている。そして、自分がどれほどベオウルフのことを思っているのかも彼女は知っていた。

「お前は、俺のことを、自由に思っていればいい。何に捕われる必要はない。俺も、お前のことを自由に思う。憎いと思えば憎めばいいし、会いたいと思えば会えばいい。恋人とか夫婦とか、わざわざ定義づける必要なんて、何もありゃしない。お前が子供の母親で、俺が父親だってことは変えようがないんだし」
「ベオウルフ」
「あんたが、あんたらしくいられることが、一番の幸いだ」
以前、その言葉を聞いたことがある。ラケシスはふと思い当たって、ベオウルフの腕の中で身動きをして彼を見上げた。
「それは、誰の幸いなの」
「俺の、幸いだ」
伝えようと思えなくて、以前飲み込んだ言葉。それをベオウルフはさらりと口から出した。
「・・・ありがとう」
そう言ってラケシスは、ベオウルフの胸に顔を摺り寄せた。ぎゅ、と彼の腰に回す腕には力が入っていたけれど、もう体の強張りはないように思える。
ベオウルフは自分が吐く息が白いことにようやく気付いて、そんなことに気づけなかった間抜けさに苦笑した。
それから、彼女の体が冷えるのではないかと懸念して、体全体で覆うように、先ほどよりも少しばかり強く抱きしめた。
「酒の匂い、嫌じゃないのか。気持ち悪くないか」
「大丈夫。そんなことが気にならないくらい、私、集中しているの」
「・・・そうか。俺も、あんたを抱きしめることに、必死だ」
こんなに恥ずかしい愛の言葉を、女に言ったことなんざない。ベオウルフは降伏した。
誰にもきっとわかってもらえないだろうけれど、これが自分達の形なのだと、ベオウルフは彼らしくもないことを考えて瞳を閉じた。拒まれるかもしれないけれど、今晩は彼女の隣で眠るのも悪くない、と思いながら。

Fin


モドル