虚像の使い-1-

バーハラの東の塔の最上階。
それが、彼が幽閉されていた場所だった。
石造りの陰気な牢獄は、最も罪が重い罪人を幽閉するための場所だった。
高い位置にあるために脱出も出来ず、もちろん世話をする人間ですら行き来をすることが容易ではないため、食事も一日一食。長い長い階段で行き来する。
そこに罪人がいるということ自体を、塔の管理をしている人々が疎ましがるような、ぞっとする場所だ。 
牢獄というものは、同時に優れた要塞にもなる。
建築に携わる人間はそう言うけれど、実際に要塞としての威力を発揮するとき、命のために立てこもる人間は、この牢獄に身を寄せる覚悟なぞあるのだろうか。
少し考えれば、その場でどれだけの罪人が自然死し、そして、どれだけの罪人がそこから出て行ったか−それは、死刑になるために、だ−容易に想像がつくに違いない。
表向きにはその牢獄は、余程のことがない限りは使われないものとされていた。しかし、真実は違う。
身分の高いもの達の間で発生する、「人々に知られては都合が悪い事件」などは、日常茶飯時で昔から処理をされていたし、その事件の渦中の人物がこの塔に幽閉されていたという噂も多少なりと城の人々は知っている。
その「多少」は「火のないところに煙は」といった甘いものではなく、繁殖能力が高い動物は一頭見つければ百も出てくるのではないか、という例えに近い威力をもっている。体裁を気にする人々が生きる場など、そんなものだ。
高い位置にあるその部屋は、空にとても近くあるというのにかび臭く、まるで地面に余程近いのではないかと感じるような、地下室に似た空気を持っていた。決して手が届かない位置にある、ひっかかる場所もまったくない小さな小さな高窓からは、一日のうちにほんのわずかな期間だけ小さな光が入ってくる。それが、唯一外界から与えられる自然であり、時間を示すものでもあった。
あまりに高い位置にあるその窓は、たとえ何かを投げつけて割ろうとしても割ることも出来ないし、割れたとしてもそこから出入り出来るものは鳥以外はありえない。投獄された人間は、きっと誰もがその窓からどうにか、と脱出手段を考えに考え、そして、無理であることを思い知ってすべての希望を失ったに違いない。
彼は、自分の運動能力が劣っていることを知っていたし、また、そうでなくとも、この牢獄から脱出したいとは思っていなかった。
たとえ食事が一日一食であろうと、面会人が許されないとしても、誰と話すことがなくとも、彼は何一つ文句も言わず、気が狂うこともなく静かに生活をしていた。
その牢に押し込まれた当初、室内での排泄行為だけが彼が直面した苦痛となったが、ほどなく慣れた。
人は食物を摂取すれば当然排泄をする。
摂取量が減れば排泄量も減る。
もともと食が細い彼にとって、それはすぐに問題ではなくなった。
多くの罪人が自然死したりあるいは死刑に送り出されたその牢は、正直気持ちが良いものではなかった。が、そんな贅沢を言える立場ではないということは、ほかならぬ彼が一番よくわかっていた。
それでも、与えられる食事、排泄物の処理などの対応から、彼の待遇は今までのどの極悪な罪人−もちろん、時には冤罪のものもあったのだろうが−よりも良いということにも、すぐに気付いた。
人が3人横たわることが出来る程度の狭い室内で排泄し、それを放置しておくことはなかなか気が重かったけれど、ありがたいことに毎日決まった時間に排泄物は女中のよって処理をされていた。彼は、普通の罪人であれば何日もそれすら放置されると知っていたから、ありがたいと思う反面、申し訳ないと思わずにはいられなかった。
また、冷え込む日には、嫌々ながら女中が追加の毛布を持ってくることもあった。
彼がもともとあまり頑丈とはいえないことを、彼をこの牢に閉じ込めた張本人は知っていたのだろう。
そして、その張本人は、彼に死なれては困る理由があったのだ。
そうでなければ、後に「バーハラの悲劇」と呼ばれる−もちろん彼は知ることもなかったが−あの場で、彼はその張本人に命を奪われていたに違いないのだ。
彼は、毎日毎日、幼い頃から繰り返し読んだ、とうの昔にそらでいえてしまうようになっていた経典を、声に出して読んだ。狭い室内で、彼の小さな声は静かに反響して彼の耳に戻ってきた。それから、短い時間であってもわずかに差し込む日差しに少しでも体をさらした。生きていることを今更実感してもどうなることでもないが、その陽射しは、世界が変わらず動いていることを何よりも強く彼に知らせてくれるものだった。
彼は、時々体を拭くことを許されていた。
女中が兵士と共にぬるま湯と布を、小さな扉から差し出す。
罪人に対してそういったことをすることなぞ、考えられないことだ。
彼は素直にそれを受け取り、手早く体を拭く。
投獄されてから何度か、そういったことや食事の摂取を拒んだこともあった。
世を儚んで、ではないけれど、この先の一生をここで過ごすのだと思えば、病に倒れてしまうほうがましだと彼は思ったのだ。
その思想はとても正常だ。
彼はまだ相当に若かったし、今まで外の世界で生きた倍以上の時間、この薄暗く何一つ外界からの刺激のない牢で過ごさなければならないのだ。その気が遠くなる時間をより少なくするには、病むしかないと思えた。
しかし、相手は驚くほど上手で、彼にそれを許さなかった。その相手のやり方に、投獄されてから彼は初めて怒りを覚えた。
食事の摂取や、清潔にすることを拒んだ時。
その責任はすべて、その時にやってきた女中に返るのだと兵士達に教えられた。
何を見え透いた嘘を。
彼はその「嘘」を気にも留めず、食事を拒んだ。いらない、と。そして、翌日すぐに、女中や兵士の言葉を「嘘」と決め付けた自分を呪った。
彼の元に翌日食事を運んできた女中は、前日の人間とは違った。罪人のもとに食事を運ぶ人間は数が限られている。そのどちらの女中のことも彼はよく知っていた。前日に食事を運んできた女中と年のころは同じくらいの、若い少女だ。
彼らは顔をあわせて話すことはない。
食事も排泄物も何もかもが、足元にある小さな扉からやりとりをするだけで、その時にお互いの腕がわずかに見えるだけだ。罪人に触れられることを避けるため、分厚い壁を隔てた遠くから、かすかな声と白い腕が見える。ぐい、と押し出されたトレーの奥行きよりももっともっと長い幅がある壁。牢が狭い理由は、何重にも壁が重なっているからだと彼は知っている。
「食事なら、いりませんよ」
彼は、彼女に、見張り兵士に聞こえるように、彼にしては大きな声できっぱりと告げた。
同じことを、前日の女中にも言った。一日や二日の絶食なぞ彼には造作もない。彼の声はまだはりがあり若々しかったので、聞き返されることなく相手に伝わった。
が、それを聞くやいなや、壁の向こうからヒステリックな声があがり、彼に訴える女中のひきつった言葉が耳に飛び込んできた。
お願いです。食べてください。お願いします。
罪人として投獄されている彼に対して、女中は何度も許しを請い、食事をするように嘆願した。繰り返されるお願いから、最後には食事を受け取らない彼への罵り。
その言葉から、どうやら前日彼のもとに食事を運んできた女中がひどく罰せられたことを彼は知った。
いくらなんでもそんな直接的なことは、あの男らしくない。あの男が第三者に直接手をくだすような、そんな馬鹿げたことをするはずがない。
彼はそう思った。そう思ったけれど、ヒステリックな女中の声を聞いていることは、外部から受ける刺激が少なくなった彼にとってはえらく苦痛だった。
しょうがなく食事をとった。積極的とはいいがたいが、生きようという姿勢を見せるしかないと悟った。
もはや、女中の叫びが演技でもどうでもよくなり、彼は抵抗を諦めた。
ただ、前日にやってきた女中は、二度と彼の牢に来ることはなかったことは確かだ。

時々彼は、あの悲劇の日のことを思い出して、自分を苛んだ。
そして、ブラギの神に何度も何度も問い掛けた。
彼は信仰を捨てることも出来ず、ただひたすら問い掛けた。
なぜなら、彼がブラギ神から下された神託は間違ってはいなかったし、そうであればあるほど彼はその目に見えない存在を信じられたからだ。
それと同時に、「いる」と思えば思うほど、問い掛けずにはいられないことがあった。
自分達が捨石だということを彼は誰よりも知っていたし、捨石が捨石にならなかった時、真に為されることが正確には行えないことを知っていた。
だから、口を閉ざして。
人々を見殺しにして。
自分に出来る精一杯で杖を振り続け、命を守ろうとしたけれど。彼は、己の無力さゆえに時折悲鳴をあげそうになる。
あの日、突然真夜中に、彼の元にやってきた神託。
ブラギの塔で与えられた神託の、その先、捨石に自分達がなってからその後、の神託。
彼が垣間見たのは、2人の少年の姿だった。
その1人が、シグルド公子の子息、セリスであることを彼は確信していた。
けれども。
悲しいことに彼を取り巻く、うすぼんやりとした「支持する人々」に、自分や自分の仲間達の空気を、彼は感じることが出来なかった。
我々は、みな、死ぬのだろうか。未来には存在しないのだろうか。
彼はうつろにそう思った。それが、本当の運命なのか、自分の想像なのかは彼には区別がつかなかった。
何度も何度も不思議な夢を見た。
彼は、自分が一体何をすればよいのか、ブラギ神は何を彼に伝えようとしていたのか、まったく理解出来なかった。
遠いあの日。シグルド公子の無実を晴らすため、ブラギの塔で彼は神託を得ようとした。そして、そこで得たものはとても具体的で、これこそ神の声だ、と思えるものだった。
一緒についていく、と言って聞かなかった、少々彼の手を焼かせていたティルテュを外に控えさせ、塔の中で彼は1人ひざまづき、祈った。
ひんやりとした床の温度が膝に伝わり、塔の内部の空気を剥き出しの顔、手に突然強く感じた。自分の顔や手に「空気があたっている」と実感することなぞ、日常生活ではありえないことだ。
次に、ブラギの血をひく彼は、自らに体内に流れる血流が沸き立つような感覚に打ち震えた。
と思った瞬間、彼の脳に、膨大な情報が流れこんできた。
頭が痛い。今、自分が何を見ているのか、何か音を聞いているのかすら判断が出来ない。
長い長い時間ののち、その情報達は形を作っていき、最後に彼にとても具体的な信託を与えた。
シグルド公子は、無実だ。
この動乱を起こしているもの達は・・・
彼の目には、目の前にあるはずのない映像を映し出した。
脳に直接転写されたような、無理矢理与えられた映像。
うっすらとはわかっていた。わかっていたことだったが、あまりの衝撃で、今でもその感触は覚えている。
ああ、これが、本当の神託なのだ、と彼は深く感銘をうけた。
ブラギの塔を出る頃には、かなりの疲労を伴っていたという記憶がある。
しかし、その日以来、彼のもとに時々下される、まるで夢の延長のような神託「らしきもの」は、とても曖昧だった。
小出しに小出しにされる「それ」は、彼にとって「本当にあの神託をくださったブラギ神が同じように伝えようとしてくださっているのだろうか?」「ブラギの塔ではないがゆえに、明確に見えないのだろうか」という絶え間ない疑問を生んだ。
今ならば想像が出来る。
多分、すべての神託は、あの時に出ていたのだろう。
ブラギの塔で、あの日、あの時に。
彼に流れ込んできた情報は、彼の脳に重なるように無秩序に流れ込み、混沌としたまま焼きついて。
ただ、あの時彼が最も知りたいと思っていた、心から得たいと思っていた内容だけが、整然と彼の脳に収まっただけなのだろう、と。
決して彼は、「これから我々はどうなるのか」「この世界は」といった大きな問題を知ろうとしたわけではない。
彼は、自分が器の小さな、心の弱い人間だと信じていたから、そんな大それたことを知ってしまえば気が狂ってしまうと思っていた。
だから、そんな質問は、絶対にブラギ神に問い掛けてはいけない。
封じ込めろ、封じ込めろ、考えるな、考えるな。
その彼の意図に反して、彼は悲しいぐらいに優れたブラギの血筋で。
(お前が真に知らなければいけないことは、シグルド公子の無罪ではない)
もし、ブラギ神が直接言葉を使えば、そう彼に告げたに違いない。
彼が請うた神託は、更に大きな問題、そう、彼が知りたくないとせつに願った「この世界の未来」などといったことにまで及んで跳ね返ってきていた。
人間としての限界を超えるような勢いで、それらは形を成さないまま彼の脳に焼き付いて。
彼のもとに、夢の映像として、現れたのだ。
時折寝苦しくて目を覚ますと、驚くほどの寝汗をかいていた。
時折、誰かの苦しい声が聞こえる、と目を覚ませば、それが自分の口から漏れたものだったと知った。
毎日ではないけれど、シレジアでの日々、その頻度はあがってゆき、このまま狂ってしまうかもしれないとすら思えた。
そんなある夜、彼の元へ、彼が愛しくて愛しくてしようがなくて、触れることもままならない娘、シルヴィアが訪れた。

夜半過ぎに、小さなノック。
彼は小さな灯りを頼ってシレジアの信仰の歴史を彼に教えてくれる書物を読んでいた。しかし、ついにシレジアの冬の夜の寒さに負けて、ベッドに入ろうかと椅子から立ち上がったところだった。
まるで自分が立ち上がったのを見透かしたかのようなタイミング。それに驚きはしたが、その程度の偶然はどこにでも転がっていることだ。彼は返事をする前に、そっと耳をすました。その音が自分の部屋の扉を叩いたものではないのでは?と、一瞬疑ったからだ。

「神父さま、起きてる?」
彼の部屋には滅多に人が訪れることなぞない。で、あれば、誰がその音をたてたのかを彼は容易に想像が出来る。そして、その周囲を気遣った小さな声は、彼が考えた通りの人物のものだった。それは、間違いなく彼が大切にしたいと思っている娘、シルヴィアの声だ。
一見、自由奔放に見える彼女が本当はとても真面目で、生きるということに精一杯だということを知ってからというもの、戸惑いつつも彼は彼女から目を離せなくなっていた。
時々彼を困らせる、彼女が自分で口に出す「スレている」部分も、彼女が必死に生きてきた証だと思えばいつの日か愛しいとすら思えるようになっていた。
彼は、踊り子というものが、人々からどう認識されているのかをあまり知らなかった。ただ、舞を踊る彼女は美しいと思ったし、人々の心はそれで慰められたり、浮き立ったり、時にはせつなくなったり。人の感情を揺さぶる、強い力を彼女は持っている、と彼は思っていた。事実、彼女の舞は常人の理解を超えていて、人々の体に残る疲労や気力の低下を取り払うほどの、神懸った力を秘めていたのだし。彼女が舞えば、そこがどこであろうと人々の脳裏には、記憶の底にしまわれていたような音楽が聞こえだす。
「だから、他人と一緒に踊れなかったのよね。踊ってると途中から違う音楽が聞こえちゃって・・・今はさ、ちゃんと側で鳴らされてる音にあわせて踊れるけど、昔はそれが出来なくて、よーく団長にぶん殴られてたなぁ」
屈託ない笑顔で彼女は軽く彼にそう言ったことがある。女性があっさり「ぶん殴られた」なんて口に出すのを彼は生まれて初めて聞いた。団長というからには、旅の一座か何かに彼女がいた時のことに違いない。
彼女は1人で旅をしていたときに、レヴィン王子と知り合ったのだと聞いている。確かに彼女の舞を見れば、「誰かと共に」踊りを生業には出来なかったに違いない。「今は踊れる」と彼女は言うけれど、一体どれほどの間、その団長とやらに殴られたりしていたのだろう。彼は、それを聞かなかった。自分のせいで、彼女が悲しい過去を思い出すことが嫌だったし、話したければその時は聞こうと思っていたし。
生きてきた場所も、考え方も、何もかも違う二人は、お互いにお互いを「わからない」と思いつつ、それでも共にいることを心地よいと感じるように変化をしてきた。
彼は彼女の笑顔が好きだった。
誰に対して笑っている姿でも魅力的だと思った。そして、その明るさを惜しまず人に振りまいている様子を見ては自分には一生できないことを彼女はこともなげにやっているのだ、と尊敬の念すら覚えた。そして、それを彼女に言えば、やはり彼が言うことを「わかんない」と口を尖らせて言って、その後に彼にとびきりの笑顔をくれるのだ。「わかんないけど、わたしのこと好きっていう意味なら嬉しいな」尊敬と好き嫌いは違う、と伝えようと思ったけれど、それを明確にすることはあまりに無粋なことと思えた。
そんな彼女が、この冷えるシレジアの冬、凍えながら廊下を歩いて来たのだと思えば、彼には無視をすることは出来なかった。
「起きていますよ。どうしたのですか、女性がこんな遅くに」
「怒られるのは、わかってるよ」
扉を開ければ予想通り、ショールにくるまった彼女が立っていた。
普段頭の両側に、髪を手早くまとめて結い上げているけれど、寝る時にはおろしている。
その時の彼女は、昼間よりは幾分大人しい印象で、短いドレスではなくくるぶしを隠すほどの長い、やわらかなドレスが似合うように彼には思える。
そして、寒いシレジアの冬、彼女は今、足をすべて覆い隠す室内着に毛糸のベスト、そしてショールを肩にかけていた。
「中に、いれて。お話があるの」
断ることを許さないその口調は、彼女の内面をあまり知らない人間が聞けば、彼女らしいと思うに違いない。けれど、彼はそうは思わなかった。むしろ、彼女らしくない、とすら彼は思う。
「・・・ええ、どうぞ」
戸惑いを隠しきれずに言葉が喉に引っかかったが、彼は彼女を室内に招き入れた。
何故、彼女がここにきたのか。
彼は、うすうすはわかっていた。
わかっていたけれど、ここで拒んでも同じことが起きるのだろうと、恋愛に対してうすらぼんやりとしている彼でもわかっていた。いくらなんだって、ブラギの神からのご神託がなくともそれくらいはわかる。
彼女は、昔のことを思い出して、眠れなくなったのだと彼にぽつぽつと話し出した。
暖炉にはまだ火が残っていて、彼がベッドにはいろうとしてからあまり時間がたっていないことを物語っていた。シルヴィアは目ざとくそれを見つけて、寝るところ、ごめんなさい、と小さく謝った。
いいんですよ、と彼が薪を足すと、暖炉の前に彼女はぺたりと座り込んで、少しずつ広がる火をじいっと見つめていた。まばたきもなしに。
「おかしいよね。みんながいて・・・こうやって、神父様もいるのに、なんか、寂しいんだ」
「寂しい、んですか?」
「うん」
「そうですか・・・」
彼女に対して、彼は他に言葉はうまくみつけられなかった。
−−わたし達がついているじゃないですか−−
そんな曖昧で安っぽい言葉を口にするつもりはなかったし、彼女の言う「寂しい」の意味だって彼は量りかねていたわけだし。
やがて、新しい薪に火は燃え広がり、二人の間には沈黙が広がった。
シルヴィアは相変わらず火を見つめていたし、彼はその傍らで薪をくべたり、ちらりと彼女の顔をみたりと忙しい。
やがて、彼女は火から視線をそらさずに、まばたきもせずに真剣な表情で彼に聞いた。
「ねえ、神父様」
「なんですか」
彼女が彼を見ない。
それが、どういうことなのか、彼にはわかっていた。
彼女は、怖いのだろう。彼女が彼に、今から聞くことの答え、返事を、彼女は既に予測をしていて、怖いのだろう。
それでも、自分は彼女に残酷なことを言うのに違いない。そう彼は思っていた。
「わたし、神父様と一緒に寝たいんだけど」
「・・・」
「駄目、かなぁ」
ぱちぱちとはぜる音が耳にやたらと響く。
「・・・」
彼は咄嗟に言葉を返せなかった。
わかっていた。予想通りの言葉だった。
そして、それに対して彼は「お断り」の言葉を返す準備をしていた。いや、していたはずだった。
だというのに、まばたきもせずに火を見つめる彼女の横顔を見れば見るほどに、彼は用意していた言葉を口に出すことが難しくなってしまう。
駄目だ、ということはたやすいけれど、それで彼女が傷ついたらどうすればいいだろうか。
彼を慕うことを彼女はやめてしまうだろうか。
もし、そうなってしまったら、それまでだと彼は思っていた。
その方が彼女の幸せかもしれないと思うし、自分は彼女に応えてあげることが出来ない、器の小さいどうしようもない男だとも思っている。
しかし、それでも彼を慕い続けたら、自分は本当に耐えられるのだろうか。自分の身勝手に対して彼女が頭を縦に振って、どこまでもついてきてしまったら。
その可能性を考えていなかった彼は、自分の間抜けさにようやく気付いた。そして、彼女の問いに対する答えを簡単に見つけることが出来なくなり、動揺した。
それほどまでに、彼女の声音には、覚悟を決めた響きが含まれているように、彼は感じたのだ。
そうだ。彼女だって、きっと、もっとあっさりといいたかったのだろう。
そういう娘だ。
いつも笑って、茶化しながら本心を告げたり、茶化しながら相手から本心を聞き出そうとしたり。
くるりとその場で回って「で、答えは?」と茶目っ気たっぷりに彼女は聞きたかったのだと彼は思う。
それを、出来なくしてしまったのは、自分の責任だ。
彼は瞳を閉じた。
返さなければいけない答えを必死になって探した。
彼女は寒さに耐えながら、もう彼を逃がしたくなくてこの場に来たのだ。その覚悟を彼は感じていた。
どうして、ここまで自分は彼女を思いつめさせてしまったのだろうか。
答えは簡単だ。
彼は彼女が好きだった。
好きであればあるほど、自分の醜い面を見せたくないと思ったし、彼女を不安にさせたくないと思っていた。
けれど。
ここ、シレジアに来てから頻繁に夢に見るようになった、記憶の中に順不同に、形がない状態で焼き付いたブラギの神託。
小出しに小出しに、彼に何かを思い知らせるように、彼に与えられるその予兆。
真夜中や明け方、それらに苦しめられて飛び起きる様子をこの娘に見られたくはないと心から思えた。
嫌われるなら、まだいい。
けれど、彼女はきっと彼を心から心配し、元気づけ、大切に扱うのだろう。
気まぐれにあちらこちら舞う蝶々のように見えるが、本当は情の厚い娘だ。
彼が懸念していたのは、彼女が心配をすることが申し訳ない、ということではない。心配をするな、気にするな、といっても彼女はきかないだろう。彼女はあれやこれや思いつく限りのことを彼にしてくれるだろうと思う。
そして、最後に、何をしても自分の力が及ばないことを、彼女は思い知るのだ。
そのやるせない、どうにも出来ない口惜しさを彼女に感じさせることが辛い。今までの人生で何度も何度も彼女が感じてきただろう、敗北感。

「いいんだ、あたし、慣れてるからさ。頭よくないし、他のこと、出来ないもん・・・」

きっと今度こそ、彼女はそうは言えないのだろう。
だって、自分のことではないのだから。
彼のことだからこそ心を痛め、精一杯のことをしようとするに違いない。けれど、誰よりも彼自身が、それが何の効果も彼に与えないと知っていた。夢を見るのは彼自身だけれど、その夢は彼の体験やイメージを基にして生まれるものではなく、誰かが−多分それは、ブラギ神が−無理矢理彼の脳に埋め込んだ、忌まわしい種から滲み出てくるものだ。それを取り除くこと、それが見せるものを忘れることなぞ、どれほど彼が抵抗をしても無理に決まっている。
(いいや、それだけではない)
彼は、唇を引き結んだ。
−−それは、建前だ。
彼女のことを思っているふりをして、自分は何かから目をそらしている。彼はそう思った。
もっと大きな、何か。
何かが彼に歯止めをかけ、彼女の体を引き寄せることも、腕に抱くこと、髪を指先で梳くこと、何もかもを止めている。
彼は、自分が恋愛に対して晩熟であることをよく知っていたし、それゆえに女性に触れることに臆病だともわかっていた。しかし、臆病であっても、自分にはその欲求があるということだって嫌というほどに気付いていた。
しなやかな体。柔らかな髪。
彼とて、正常な肉体を持つ男だったし、彼女を異性として愛しいと思っていたし。
けれど、彼はそうすることを自分で許さなかった。許すわけにはいかなかった。強い意志で彼は自分を制御しようとしていた。
だから、彼女はここに来たのだ。
一体何が、自分の愛しい男を縛っているのかを知るために。
「やっぱり、駄目なの?」
彼女のその言葉で、彼ははっと気付いた。
膝をついて薪をくべた後、彼女の横顔を見た後、ずっとずっと長い時間、思いをめぐらせていたように自分では感じていた。けれど、それは一瞬の出来事だったようだ。
目の前には、ただじっと暖炉に広がる火を見つめるシルヴィアが床に座っている。
「そっかー・・・しょうがないよねぇ・・・」
「シルヴィ・・・」
「ねぇ、神父様。あたしのこと」
彼の呼びかけを彼女が遮ってくれたことで、彼はいささかほっとしていた。彼女の名を呼んで何をしたかったのか、何を伝えたかったのか、彼自身もわからなかったのだ。
けれども。
「もしかして、本当は、神父様に、気味が悪い女だって思われてるのかな?」
彼女の口から信じられない言葉が発せられ、彼は全身を強張らせた。


Next→



モドル