虚像の使い-2-

がしゃがしゃと聞きなれない音が聞こえて、彼は陰気な牢獄で目を覚ました。
目を覚ましたといっても、今が朝なのか夜なのかを判断する術は彼にはなかった。
毛布から体を起こす。
「・・・何・・・」
その音は、かなり以前に聞いたような気もしたが、思い出せない。
彼の脳のどこにしまわれているのかがわからない曖昧な記憶を探り当てる前に、あっけなく答えはわかった。
なぜなら、ついぞ開くことなどなかった扉−それは食事の出し入れをする扉ではなく、人の出入り口、彼もまたくぐってきたものだ−が、ごごぅと不愉快な音をたてて開いたからだ。
あの音は、彼の牢の鍵を開ける音だ。
外側は閂、それから南京錠。更にその上には幾重にも巻きついた鎖があり、鎖同士をまた南京錠で繋いでいた。
彼がこの牢に入るときは扉が開いていたから、彼自身はどれほどの施錠をされているかはわからなかった。ただ、彼が室内に入ってからそのがしゃがしゃという耳障りな音が聞こえなくなるまで、かなりの時間が要されたことは覚えている。
開いた扉の外には、5,6人の兵士が槍を手に立っていた。
「立て」
リーダー格と思える中年の男性が彼に命令をした。その声は明らかに命令し慣れた人間のものだ。
文句ひとつも言わずに、けだるい体に力をいれて彼は立ち上がった。
「何が、起きたんですか」
「お前をこの牢から出せとの命令だ」
誰が、と彼は聞かなかった。
そんな命令をする人間は、一人しかいないに決まっている。
彼をこの牢にいれた男に違いない。
「・・・ようやく、死刑にでもする気になったのですか」
「黙って出ろ」
槍で威嚇をしながら男はぶっきらぼうに言い放った。
彼は、はあ、と小さく溜息をついて歩き出した。
ゆっくりと歩いて、開け放たれた扉を通過した。と、その瞬間彼は小さく声をあげる。
「・・・っつぅ・・・」
「どうした」
「いいえ、その、足の裏が」
兵士達は一斉に彼の足に視線を動かした。
彼は素足だった。
「そういえば、みなさんは靴を履いておられるのですものね・・・忘れていましたよ」
穏やかに、皮肉めいた意味合いもなく素直に彼はそう言った。
牢獄での生活に慣れたということは、以前の生活のことを忘れていくことでもある。
この牢獄に入れられる前と今で、彼には変わったことが二つあった。
それは、日々素足で過ごすこと。
もちろんそれは、簡単に脱走を許さないために、最初に靴を没収されたからであって、彼の本意ではない。
そしてもう一つ。
こちらは彼自身からの願いによって叶えられたことだったけれど、彼は長かった髪を、肩上でばっさりと切り落とした。
獄中生活で長い髪なぞ邪魔で仕様がない。
手入れも何もすることなぞ出来るわけがないし、面倒だからとある日彼から申し出た。その申し出はすんなり通り、兵士達に押さえつけられて彼は髪を女中に切られた。
彼は物心がついた時からずっと髪を長く伸ばしていたから、ああ、こんなにも自分の髪は重かったのだ・・・そう思えるほどに身軽になったように思えた。
髪を切るように、爪を研ぐように。
自分の中の「不要」と自分が思う部分も、切り捨てられたらいいのに。
そんなことを思ったものだ。
「おい、誰か、履物をもってこい」
男がそう言うと1人の兵士が階段を降りていく様子が見られた。
(きっとわたしがわたしでなければ、素足のまま歩けといわれたに違いない)
特別待遇はよくよくわかっていた。それをありがたいと思ってよいのかどうかは彼は判断出来なかったけれど。
「よし、これでいいな。いくぞ」
ほどなくして兵士が持ってきた靴を受け取って、彼はゆっくりとした動作でそれを履いた。あまり足にあうとはいえない靴に無理矢理足を押し込む作業を終える頃、何故か彼は息切れをしていた。
それから、彼は長い長い階段をゆっくりと歩いて塔を降りていった。本当にゆっくりと。それは、階段のカーブのせいではない。彼の体そのものが「もっとゆっくり」と彼に悲鳴をあげていたのだ。
何度か兵士にせかされたが、半分もいかないうちに彼の足がもつれて、壁に手をあてないと歩けない状態になっていることは誰もがわかっていた。
あれほど狭い牢に監禁されていたのだし。
それでなくとも体が強くなければ、生来運動も好んでしなかった彼だ。
足の力の衰えもさることながら、動き続けるということが難しいと思えた。
もし、彼の体が日光に晒されることになれば、今度はそれに慣れることが難しいに違いない。
「仕方がない、お前達、交代でそいつをおぶれ」
リーダー格の男がそういうと、兵士達は戸惑って顔を見合わせた。
罪人の移動のために兵士がそんなことをするなぞ、見たことも聞いたこともない。
甘えるな、と鞭のひとつふたつを与えて、どんなにふらふらになっても歩かせるのが常だというのに。
「夜のうちに移動しなければいけないからな」
どこに移動するのです、と聞きたかったけれど、もはや彼にはそんな余裕がなかった。
もう少しあの牢にいれば、自分は衰弱して死ねたのだろうか。
そう思ったけれど、そうさせないために食事を無理やりさせられていたことを思い出す。
「よいしょ・・・っと」
ぐい、と乱暴にひっぱられて、彼の細い体はいとも簡単に兵士の背中に乗せられた。
「うわっ、軽い」
兵士は咄嗟に口走り、それからリーダー格の男に「失礼しました」と慌てて付け加えた。
「軽くてよかったな」
「まあ、重いよりはありがたいですね」
男達の会話を聞きながら、彼は気が遠くなっていった。
無理矢理兵士の肩付近から体の前にひっぱられた両腕も力が抜けていき、おぶさっているというのに彼はしがみつきもしないで不自然な体制で体重を預けた。
かつての彼であれば、いくら体が言うことを聞かないとはいえそんな状況になれば「すみませんね」の一言があったはずだろう。
しかし、それが出来ないほどに彼は消耗していたし、おぶさられていることをどうとも思えないほどに思考はどんよりとしていた。


シルヴィアが黙ると、彼の耳にはよりいっそう、ぱちぱちとはぜる音が響く。
一体彼女は何を言っているのだろうか。
彼が彼女の言葉の意味を理解するのには、驚くほどの時間がかかった。
「気味が悪い?どういう意味ですか?」
いや、結局彼には理解することが出来なかったのだ。
理解出来ないまま黙り込むこともできたけれど、彼は眉根をわずかに寄せて問い返した。彼がそんな表情を見せることはめずらしい。けれど、彼女は彼の顔を見ていなかった。
「だって・・・わたし、変なんでしょ?さっきも言ったようにさ・・・わたし、知ってるんだから」
「え」
「わたし、他の人と違うからさ、踊ると、みんな頭の中でそれぞれの音楽が流れるんでしょ・・・それって、普通と違うんでしょ」
その言葉は問いかけではない。
とうの昔に、彼女は嫌というほど自分の不思議な能力について知っていたに違いない。それは、彼がブラギの末裔として得た「ブラギ神の声を聞く」ということを実感して「他の人達と自分は違う」という自覚が出来る、ずっとずっと前。彼よりも余程長い時間、彼女は「人と違う」ことに苦しみ続けてきたのだろうと、今は思える。
自分からそれを聞いたことはない。
いつから気付いたのか、どう思ったのか。
聞けば彼女は簡単に答えてくれるだろう。
「今、こうやってみんなの役に立ててるんだもん。嬉しいな」
そういって、またいつものようにくるりとその場で一回転するに違いない。
きっと彼女の笑顔には偽りはない。それを彼は知っている。
知っているからこそ、聞くことが出来ない。
自分は、彼女のように笑えない。
ブラギ神の声を聞くことが出来る、その力で。
みなの役に立てることが、嬉しい。
・・・それはあり得ない言葉、けれども、そう言えたらどれだけ幸せだったのかと思わせる、救済を求める言葉。
どれだけ長い時間準備をしたって、彼が笑っていえるはずがない言葉を聞くことが恐ろしい。
だから、彼は聞けない。
「どうして、黙ってるの、神父様」
シルヴィアはそう言って立ち上がった。
「どうして、そんなことはないって言ってくれないの。それとも、それくらいの嘘も、あたしのためにはついてくれないの?神父様は、神父様だから、たったそれだけの嘘もついちゃいけないって思ってるのね」
「ち、がいます、シルヴィア・・・」
どもりながら彼は答える。
ようやく言葉に出来たそれは、悲しいほどの曖昧で情けない響きを彼の耳に届けた。
こんなびくついた声ではいけない。彼は、わずかに力を込めて、出来るだけ平静を装って言葉を続けた。
「気味が悪い、なんて、思っていません。自分で、自分を傷つけて、貶めるようなことを言うのは、おやめなさい」
彼が伝えたかったことはまさしくそれで、間違いがない言葉を紡ぎだした・・・と彼自身は思っていた。
実際彼は彼女に対して「気味が悪い」など微塵も思っていなかったし、彼女が自虐的なことを口に出すことは、あまりに痛々しくて見ていられないと思っていた。
それだけの才能がある踊り子が、自分の力を卑下しなければならないなんて、そんなことはおかしい、と思う。
シルヴィアは唇を引き結んだ。
瞬きを忘れたかのように、大き目の瞳を更に縦に見開いて、彼女は彼を見上げた。
泣くことを我慢している子供に似ている、と彼は思った。
「・・・ひどいよ、神父様」
「シルヴィア・・・?」
「そんな風に思わせてるのは、神父様じゃない。あたし、他の誰にどう見られたって、そんなこと思いやしない。みんな笑ってあたしの舞を見てくれて、みんな褒めてくれて、また踊ってくれよ、って嘘でもお世辞でもいいから言ってくれて。それでなんの不満も不安もないんだからっ・・・神父様だけ・・・神父様だけじゃない。腫れ物に触るようにしてるのは」
「わたしが・・・?」
想像もしなかった言葉を投げつけられて、彼は戸惑った。
腫れ物に触るように。
一体いつ、彼女に対して自分が。
思い巡らしても彼にはその事実なぞ浮かんではこない。
「シルヴィア、待ってください、わたしが、いつ」
「いつ、とかどこで、とか、そんなこと意味ないし、今、ここでこの時そうやってるじゃない!」
「シルヴィア」
「そんなことないって言うなら、手を握ってよ・・・神父様、あたし、手が全然あったかくならない。だから・・・」
シルヴィアは顔を伏せ、まるで何かに祈っているかのように両手を胸元でぎゅっと絡めて、身を強張らせるように首をすくめた。
クロードは驚いて彼女の、指と指が重なっている祈りの手を見た。
(ああ、シルヴィアは・・・右手の親指が、上に重なるのですね)
当たり前のことだった。
右だろうが左だろうが、手と手を組めば、必ずどちらかの指が上側になり、もう片方が下側になる。
それはなんの不思議もないことだ。人間ならば。

「あなたは体の左右に偏りがない人ですね」

以前、彼は彼女を見てそう告げたことがある。
笑えば同じようにあがる左右の口端、同じように動く眉山。
いつなんどき彼女を見ても、まっすぐな肩。まっすぐに左右対称に踏み出される足。
左を軸にくるくると回転すれば、右を軸にも同じように回転をし、両腕を後ろに伸ばせば同じ角度で曲がり。
それを見て、選ばれた者なのだ、と彼は思っていた。
腕を組めば、指を組めば、足を組めば。
当たり前のように左右の偏り、違いがそこに現れる。
当たり前のように、ではない。当然だ。
内臓は左右対称ではないし、磨いだ爪だって、食事の時に物を噛む癖だってなんだって、本当に左右対称でいられる人間なぞあり得ない。
あり得ないのに、彼女ならばそうでも不思議はない、と思っていたことに、彼はようやく気付いた。
そして、気付いたそのことはそのまま、彼自身の失敗を告げている。
間違いなく自分は彼女を特別視していて。
愛とか恋とかとはまったく違う場所から、彼女を異質なものとして捕らえて。
(気味が悪い、という感情ではないが・・・それに近いものを感じたのだろう)
それならば、身に覚えがある、と彼は思った。
実際彼も幼い頃より、ブラギの血筋としての余りある才能を前にした大人達に「異質なもの」と扱われてきた。だから、わかるのだ。
「手、握ってよ・・・神父様、お部屋にずっといたんだもん。あったかいでしょう?」
彼女は、顔を上げない。
泣いているのだろうか。
もし、泣いているのならば、泣き止んでもらうことは出来るのだろうか。
それを直接聞けば、「手を握って」と何度でも彼女は言うに違いない。
彼は、おそるおそる手を出した。
本当に彼女の手は冷たいのか。
それだけを確認したかったのだ。
ぎゅっと握り締められたその手は、女性の手にしては少しばかり骨ばっているように思える。
ひんやりと彼の手に温度を伝えているはずだけれど、それよりもごつごつとした感触の方が彼には強く感じられた。
踊っている最中に時折ぴんと伸ばされる、体のしなやかさと同じほどしなやかで美しい形に見える手。
それが、本当は想像よりも骨っぽいことを改めて知って、彼は驚いた。
甘やかされていない手だ、と思う。
「冷たい、ですね」
「うん」
「もっと、暖炉の火に」
「当たると、じんじんして痛い」
彼女が言うことは、彼にはわかった。
あまりにも冷えた直後に暖炉の火にあたると、痒いような痛いような、むずむずする感触を覚える。それは、冬のグランベルでも多少は体験できることだったけれど、ここシレジアに来てからというもの、彼も幾度となく体感していることだ。
とはいえ、だからといって手を握っていろ、というのは強引な話だ。
「でも」
「神父様の手なら、痛くない。でも、神父様の手が冷えちゃうかな」
そう言って、シルヴィアはうつむいたまま手を少し引いた。
反射的にそれを追うように、彼の手もまた動いた。
握っていたかったわけではない。なんとなく、そう動いただけだ。
逃がしそうな気がして追ってみた、ただそんな感じだと彼は思う。しかし、追ってしまった以上はそれを認めなければいけない。
「・・・いいえ、大丈夫です」
しかたがないな、と小さな溜息が漏れそうになる。それをぐっとこらえて彼は答えた。
やがて、未だに顔をあげないまま、シルヴィアはまたぽつりと呟いた。
「神父様、ぎゅっとして」
「・・・こうですか?」
「手じゃない」
「シルヴィア」
「手じゃない。全部。全部ぎゅっとしてよ」
その言葉に彼は戸惑い、手を離して体を引こうとした。けれども、彼女は彼にそれを許しはしなかった。
「どうして、駄目なの?」
「シルヴィア・・・うわ!」
突然だった。
なんの断りもなくシルヴィアは彼に体ごと正面から抱きついてきた。
いつもくるくると回って軽快なステップを踏み、どちらかといえば小柄と思えるその体が、本当はしなやかな筋肉で鍛えられ、見た目ほどは軽くないのだとそのとき彼は初めて知った。
いや、ほかの男性であれば「女性はやっぱり軽いな」とあっさりと抱きとめられる体重だったに違いない。けれど、日ごろから筋肉を使うことに慣れていない彼は、彼女の体の重みに耐え切れず、踏ん張ることが出来ずにバランスを崩した。
よろけたのは、ほんの一瞬だ。
彼はそのまま彼女の体を支え−には全然なっていなかったが−ながら、背中からベッドに倒れこんだ。
どすん、と思いかけない大きな音が響いた。
隣の部屋の人間に、不審に思われないだろうか。
彼はそう思ったけれど、それが余計な心配だとすぐに思い出した。隣の部屋は、今は誰もいないに違いない。彼の両隣の人間は、今日は、夜番で見張りをするはずだったのだから。
「・・・シルヴィア」
「どうして、駄目なの、神父さま」
情けないことに彼は、大事に思っている少女−と思っているのは彼だけで、彼女はもう立派な大人の女性と言えるのだが−にベッドの上に組み敷かれるように横たわっていた。ベッドからはみ出た足が、中途半端なまま宙に浮いている。
彼の体の上に四つんばいになって覗き込む彼女の髪が、さらりと彼の頬を掠めた。
「いけません。シルヴィア・・・」
「だから、どうしてなの」
悲しくもせつない彼女の懇願の声に、彼ははっきりとした答えを未だに返さなかった。
ぎしりとベッドがきしむ音。それは、彼女がまったくその場を離れる気はなく、完全にベッドに自分の体重を乗せていることの現われだ。
「どいてください・・・お願いですから」
「神父さま」
彼は、頬を掠める彼女の髪から逃げるように、顔を背けた。
その行動がどれほどに彼女を傷つけているのかを彼は知らなかったし、彼女もまた、彼が自分以外の何かから逃れたくて顔を背けたということだって知ることは出来なかった。
「我慢、出来なくなってしまいます。早く、どいてください」
「どうして?我慢ってことは、神父さまも、あたしのこと、ぎゅっとしたいの?」
「・・・ええ」
弱弱しい肯定の声。
「でも、それは出来ません。だから、お願いです」
「どうして出来ないの」
聞き分けがない彼女を説得することを諦めて、彼は、体をあげて彼女を押しのけようと力を入れた。
彼女の肩を押しながら起きようと。乱暴に起き上がって、彼女を少しでも傷つけないように、と。
そう思って、彼女に向き直った途端、彼は唖然とした。唖然として、突き飛ばすことすら出来なくなった。
シルヴィアは膝立ちになって、彼の目の前で荒っぽく服を脱ぎ捨てた。
彼は上半身を軽く起こした状態で口をぽかんとあけたまま、間抜けなことを聞いた。
「シルヴィア、何を」
「・・・・だって」
服を脱ぎ捨てた彼女は、もう一枚薄い肌着−だと彼は思ったが、本当のところはわからない−を身に纏っていた。それでも、彼女の細い首、鎖骨、少し骨ばった腕の付け根、腕すべて、そして、曲線を描きかけている胸元は露になっている。
彼は女性のそんな姿を見慣れていなかったとはいえ、子供でもない。
まるで教え諭す先生のように、難しい表情で彼は彼女に言った。
「いけません。女性が、そんな」
「何がいけないの」
彼女は1歩も引かない。前かがみになれば、胸元がさらに深く見えるようで、そこから目線をはずすように、彼は彼女の瞳に焦点を合わせた。が、驚くほどまっすぐ見据えられ、彼はたじろいでしまう。
「その、そんな、簡単に、男の前で」
「簡単じゃないもの」
「シルヴィア、服を、着てください」
彼はようやく力を入れて体を起こし、脱ぎ捨てたシルヴィアの服を手のとろうとした。シルヴィアは素早くその手を無理矢理抱きかかえながら叫び、彼の動きを止めた。
「簡単じゃないわ!どれだけ、簡単じゃないのか、神父さまはわかってない!神父さまは、あたしが簡単に、こうやって、男の人の前で服を脱ぐ女だと思ってるのね!?嫌!そんなこと、言わないでよ!」

耳の奥で、鈴の音が響いた気がした。どこか、懐かしい。
その音と重なるように、鈴を踏みつけるような、鈍い音。
ぎちぎちと悲鳴をあげるような、鈴の音。それは、どこかで聞いた音だ。
混濁した意識の中で、彼は呻き声をあげた、ような気がしていた。
まるで赤子のように彼は、拳を握って眠っていた。
まぶたの奥に、それまで感じたことがない−そう思えただけで、実際投獄されるまでは毎日のように感じていたはずだが−光を感知した。
瞳を開けるのが怖い。
まだ朦朧としている頭で、彼はそう思う。
目が潰れてしまいそうだ。
それでも、その「違う」と感じたその場で、自分が何故眠っているのかを知るために起きなければいけない。
瞼が張り付いたように強張っていて、目を開ける作業すら気力を要した。
「・・・う・・・」
瞳を開けるより先に、声が漏れる。
「こ、こ・・・」
手をついて起き上がろうとして、その手がふれたものが、ほんの数刻前の自分には決して与えられるはずもなかった、上質のリネンだということに気付いた。
気持ちが良い。
そうだ。何か物に触れて気持ちが良いと思うなぞ、ひさしぶりのことではないか。
彼は、人並みの、いや、人並み以上の生活の匂いを感じさせる一室で眠っていたのだ。
体を起こすと、彼にかかっていた毛布はするりと落ちる。それもまた、毛足が長く、貴族達が冬の間好んで使う毛布だと彼は知っていた。
入り込んでいる光は、うっすらとカーテンを通して入り込む正常な陽射しだ。誰かが彼を起こすために、わざわざカーテン紐を引き、窓の内側に薄布一枚を残して立ち去ったのに違いない。
彼は「寝室」と呼べる室内で目覚め、ぎしぎしと音が出るはずもない重厚なベッド、何もかも行き届いた上質な調度品に囲まれていた。
そんなものを見るのは、久しぶりだ。
彼はベッドから降り、その場にあった寝室用の履物に足を入れた。
もう、彼はおおよそ何が起きたのかわかっていた。
ここがどこなのかという明確な答えは持っていなかったが、誰が彼を牢からだし、そしてこれほどの優遇をしているのかは見当がついていたし、ご大層なその人間は、きっと彼に湯浴みすら勧める違いない。
彼は身につけている寝間着すら、彼の記憶がないうちに着替えさせられたものだとようやく気付いた。
そうだ。
ようやく記憶が繋がってくる。
牢から出されて。
馬車に乗せられて。
随分長い間走っていたような気がする。
しかし、多分あれはカモフラージュで、本当はもっとあっさりと「あの男」のもとに送り届けられるはずだったのだろう。
なかなか、したたかなものだ。
「・・・どうしましょうかね・・・・」
待っているべきだろうか。
それとも自分から動くべきだろうか。
わずかな時間、彼は悩んだ。
その悩みをかぎつけられたかのように、ノックの音が響いた。
彼は、返事をしなかった。
けれど、彼からの応えなぞどうでもいい、とばかりに、遠慮なしに扉が開き、一人の男が足を踏み入れた。
やはり、この男か・・・彼は、唇を引き結んで、この部屋、いや、館の主を真正面から見据えた。
「・・・ああ、やはり起きたか」
「・・・」
「久しぶりだな、と挨拶でもすれば良いのかな」
「お久しぶりですね。お元気そうで、何よりです」
それは、彼の精一杯の皮肉だった。けれど、男はまったくその皮肉を気にすることなく、彼の予想通りの言葉を続けた。
「話の前に、湯浴みをしてきたらどうだ。あれだけ長い間の牢獄生活だ。服だけ着替えさせても、こちらはあまりいい気がするものではない」
彼は、ふう、と息を吐いた。
それから、彼にしては厳しい眼差しで、男を睨みつけるようにゆっくりと答えた。
「それは、あなたの勝手ですね、アルヴィス」

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