虚像の使い-3-

彼は、彼の目の前に現れた男に、そっけなく言った。
彼の表情は凍りついているようで、淡々と口が動くだけだ。もしも以前の彼を知る人間がいれば「あの人が人に対してそんな風に振舞うなんて」と驚くことだろう。

「湯浴みひとつもしない、薄汚れた男とは話をしたくない、という意味なのでしょう?」
入室してきた、たいそう身なりのよさそうな赤毛の男−アルヴィス−は、彼のこの言い草には何一つ心を動かされていないようだ。
アルヴィスは立襟をきっちりと止めた上着を着ていた。上着のあちらこちらには金糸で豪奢な刺繍が施されており、近づいて見ればそれがどれほどまでに精巧なものか、いくら絢爛なものが苦手な彼でもわかったことだろう。もちろん、着ている当の本人がそれを望んでいるのかどうかは定かではないが。
アルヴィスは扉の近くに立ったまま、彼を上から下までまるで品定めをするように眺め、ようやくわずかに眉根を寄せた。が、その口端は心なしか笑っているように彼には見えた。
「髪を短くしたとは聞いていたが。見慣れないものだな」
「さあ?わたしなぞ、自分の顔もまったく見ない生活ですからね。見慣れるも見慣れないも」
それもまた皮肉めいた呟きだ。しかし、アルヴィスはまたも彼の言葉に惑わされず、軽くそれを受け流した。
「見慣れなくて当然か。なにせ、あれから三年の年が経ったのだしな」
「・・・三年」
アルヴィスの言葉に、今度は彼が動揺を見せた。
三年。
アルヴィスがいう「三年」とは、彼が投獄されてから。それはいわゆる、あのバーハラの悲劇から経た年数を表している。それは、言葉として聞いて、脳内で何度も反芻してみると長く感じる気もする。が、彼がそのとき咄嗟に感じ取ったのは「まだ、それしか時間が経っていなかったのか」ということだった。その動揺だ。
牢獄に時折差し込む光、女中が持ってくる食事。単調な日々の中、途中までははっきりと数えることが出来ていたはずのそれらのもの達は、いつしか彼の中では数として積み重ねることを困難にしていった。
光を見ればただただ「ああ、今日は晴れているのだな」と漠然と思って体をその光の下に置く。その光の強さ、ぬくもりで彼はこの三年の途中までは「季節」というものを感じ取っていたはずだった。
けれども、いつからだろう。
唯一の自然からの恩恵、そこには彼の知る季節の移り変わりはなくなり、「太陽というものに与えられる光」ということ以外の意味をまったくなくしてしまったのは。
日に当たるほんのわずかなひととき。
そのとき感じる「今日」などというものは、彼にとってこれっぽっちの存在意義がない。
女中が嫌々ながら合図を送って、小窓から食事を差し出す。それを見れば「ああ、今日の食事が来た。食べなければ」そして、その言葉の「今日」にだって意味はない。
その繰り返しにいつしか彼の感覚は麻痺し、それでも、日々彼は教典を口にし、壁を見つめ、天井を見つめ。
時折伸びてしまった髪を煩わしそうに感じてはもう少し切るようにだけ願い・・・いや、それは彼の勘違いだ。彼は、髪を二回しか切っていない。だいぶ不ぞろいに、だいぶ短くされた記憶がある。そして、それでも彼の髪は既に肩についている。三年。あながち間違いではない、と彼は思った。
「なるほど、三年間」
先ほどまでのそっけない装いをわずかに緩和させ−それは彼がそうしたかったからではないが−彼は、遠くを見るようにそっと眼を細めた。その瞳が見る先にある物はアルヴィスではなく、壁だ。けれども、壁とうい存在を彼が見つめているのではないとアルヴィスにはわかっていた。壁なぞで隔てようがない遠いものを見つめているのか、それとも、壁にたどりつくまでの空間、宙に、この男は何かを見出しているのだろうか。
どちらでもいい。
自分には、関係がないことだ。
アルヴィスは黙って、彼を見ていた。

「もっともっと、長い気がしました。しかし、確かになんというか・・・あなたは、わたしが投獄されている間の三年、あまりお変わりがないように見えますね。そうであれば、「たったの」三年であったことも頷けます」
彼から視線をすっとそらして、アルヴィスは言葉を返した。
たとえアルヴィスが彼を見たとしても、彼はアルヴィスを見ないだろう。
いや、アルヴィスがいる方向を見たとしても、彼の気持ちの中に「三年」という、感じ取ることが出来なかった何かが形となって動き出したからには、彼がアルヴィスに送る視線なぞ無意味だ。
「落胆でもしたか。あと数年で寿命が来て、楽になれるとでも思っていたのか」
「そうは思っておりませんよ。ただ、自分の顔は見ていませんが・・・ずいぶんと年をとったのでしょうね、わたしは。そうですか、三年・・・」
「ここにくる間、馬車の窓で自分の顔を見なかったのか」
「いえ、目隠しをさせられましたから」
「ああ、なるほど・・・とりあえず、三年分の垢でも、落としてくるがいい」
アルヴィスはそういうと、扉の近くの、腰近くまでの高さの、美しい曲線を描いてオブジェのように飾られている大理石の上に置いてあった呼び鈴を鳴らした。その調度品はまったく贅沢なことに、その呼び鈴を置くためだけにこの室内にあるのだろう。ほかの何の役割を果たすとも思えず、ただ呼び鈴をそこに置くことが「まったく丁度よい」具合の面積に切り出されている。贅を尽くした寝室であることは、たったその一角だけでもわかろうというものだ。
「湯浴みなぞ」
と彼が言えば、アルヴィスは「ふん」と軽く鼻を鳴らして、それ以上何も言わなかった。それから、もう一度よく響く音を奏でる鈴を振った。
目の前にいる彼が、三年という年月に対して心の整理がついていないことをアルヴィスはわかっていた。そして、それはいくら「ブラギの血をひく神父ともあろうものが」と小馬鹿にしようと何をしようと動かせないものだと知っている。
そんな状態の男と話をしても時間の無駄だ。そう判断したゆえだ。
アルヴィスが軽くふった呼び鈴は、彼が不快に思うほど−長い牢獄生活で聞くこともなかった音だったからだ−澄んで響き渡る。とはいえ、それは、以前の彼ならば、日常生活で聞きなれていたはずの音だったはずだ

ちりりーん
ちりりーん
人を呼ぶために響き渡る音。
人を動かすために震える空気。
それは、彼の耳の奥に響き続ける、あの鈴の音とは全く違う。「鈴」と一括りで呼ばれるには形状が違い、用途がまったく異なるものだ。
それでも、彼の脳の中にはあの音が。
「・・・っ・・・」
シルヴィア。
その名を口走ろうとして、すんでのところ彼は自分の声を抑えることが出来た。
(あの音が、聞こえる)
幾度となく彼を苛み。
そして、年月を数えることが出来なくなってまでも、人への愛しさだけを忘れられないように。
彼の脳の中に繋ぎとめられた愛しい音、愛しい声、愛しい色、あの、形。

−−−なんてことだ−−−

音ではないものも、「響く」のだと彼は生まれて初めてそれを知った。
そうだ。
まるで、呼び鈴で呼ばれたかのように、あの、愛しい体、愛しい動き、それらを彼の脳がまるで慕っているように、突然懐かしさを揺り起こされて「音」という形に姿を変えて響きだしているようだ。
牢獄から出て、三年前に彼がいた、牢獄よりも地獄に近いと思える場所に戻ってきた、そのことを。
あの愛しい踊り子が、足で軽やかに地を蹴って跳躍をする、この世界へ。
まるで、彼がこの場に戻ってきたことを、祝福しようとしているように。
彼の耳の奥には何度も何度も同じ鈴の音が響いていた。

それは。

まるで、耳を切り落としても聞こえてくる、呪いの音のように。
それは、少なくとも、今の彼にとっては、幸せの音でも愛情の音でもない。
彼が彼であることを責め立てる、彼という命の形を否定する音だ。
そう思えてしまうほど、その音を思い出してしまった自分を、彼は心の中で強く罵った。

こんなにも愛しいのに。

わたしは彼女を幸せには出来ないし、償うことも出来ない。

「この男の湯浴みを手伝ってやれ」
「・・・あ・・・」
突然、アルヴィスの声が彼を現実に引き戻した。気が付けば、寝室の扉は開いていて、女中がアルヴィスのもとへ御用聞きにやってきていた
この男。
アルヴィスは女中に、彼のことをそう呼んだ。
そうだ。もはや自分は「クロード神父」と誰に呼ばれることもない、ただ一人の罪人なのだ。彼は、唾液をごくりと飲み込んだ。
この世界に戻ってきたのだ。
戻ってきたからには、自分が三年前までの自分と違うちっぽけな・・・いや、三年前だって今だってちっぽけであることに変わりはないが、と彼は思ったが・・・なんの肩書きもない小汚い一人の男である現実が待っている。
アルヴィスの一言は、その立場を彼に嫌というほどわからせたのだった。


柔らかな、愛しい体。
と思えば、予想外にしなやかで美しい筋肉をもまた備えている体。
それが、彼の上に覆い被さった。
彼は、恐る恐るその体に腕を回した。
いつだって、その体を抱きたいと思っていた。
薄布で覆われただけで、いくら彼が「もっと着ないと風邪をひきますよ」と注意をしても、あまり服を多くまとわないその体。
それに困り果てて、しまいには彼がかわいらしいコートを選んで渡すことで、ようやく寒さをしのぐために服を着込むことを覚えてくれた、無邪気で軽やかな、その愛しい体と心が、彼の腕の中にある。
泣きそうだ。
彼は、思った。
男が泣いてどうするのだ、という気持ちと、きっと女は、こういう時に泣きたい気持ちになる男がいることなぞ知らないのだろう、という気持ちが混じってゆく。
それを考えてどうなるのか彼にはわからない。
が、涙を堪えることは、彼がまわした腕に力を入れるのを堪えることと同じような気がした。
そして、彼は、堪えることを選んだ。
「神父、さま。ぎゅっと、して・・・」
「駄目です、シルヴィア」
「どうして?」
「我慢、出来なくなります」
「何を我慢しているの?どうして我慢しないと駄目なの?」
「・・・」
それを口には出せない。
説明が出来ないとわかっていても、彼は「我慢できなくなる」と口走ってしまった。それを、既に後悔している。
そして、彼の腕の中にいる少女は、本当はとても聡い。
彼の動揺や、彼の困惑、そして、本当はいつだってこうして彼女を抱きしめたいという欲求すら、彼女はわかっているのではないかと思う。それは買いかぶりではない。わかっているから、彼女はこうして、彼の欲求を叶えるために腕の中にいるのに違いない。不思議とそのことを彼は疑わなかった。
そして、こんな風に簡単に叶ってしまうことなのに。
なぜ彼がそれを叶えようとしなかったのか。それを彼女は知りたがっているのだろうし、そして、その理由がなんだろうと、彼に抱きしめられたいと彼女自身も思っているのだ。
おこがましいだろうか。そう思うことは。
彼は唇を噛み締めた。
一人の人間の心の中に、こんな形で自分が存在することがあるのだと、彼はシルヴィアと出会って、彼女を大切に思って、そして彼女から愛されることで初めて知った。
だからこそ、彼は、彼女の体に回した腕に力をこめることが出来ない。
(わたしは、臆病者だ)
ぎし、とベッドが大きく鳴った。
彼の腕の中に収まっていたはずの彼女が体を動かし、するりと軽い抱擁から抜け出した。
「シルヴィア?」
彼女は、相変わらず彼の体の上にのったまま、上から彼を見下ろして囁いた。
「駄目なら。神父さま、駄目なら、髪を。頭を撫でて。いつもみたいに」
「シルヴィア」
そんなに、あたしに触りたくないなら、あたしの体が汚いなら、髪を」
「汚いなんて、思ったことは」
「髪なら、いいでしょ?肌には触りたくないんでしょ?だって、神父さま、たまに頭撫でてくれるじゃない。髪なら、いいんだものね?」
「シルヴィア」
ぽたり、と彼の服の上に、涙の粒が落ちた。彼がそれについて言葉を口にする前に、その涙をこぼした彼女は、慌てて言った。
「違う。泣いてない。すぐ終わるから、心配しないで」
「シルヴィア」
「ううん、違う。やっぱり。心配して。神父さま、心配して。あたしのこと、いっぱいいっぱい心配して。そうしたら、その間だけは神父さま、いっぱいあたしのこと考えてくれるんでしょう?シグルド公子のことより、グランベルのことより、神様のことより、あたしのこと、そのときだけは考えてくれるんでしょう?」
「そんな・・・わたしは、いつも」
いつも、あなたのことを。
その言葉が喉に絡んだ。
横になっている息苦しさのせいで言葉にならないのか、と彼は思ったけれど、そうではなかった。
何かが彼の言葉をとめている。
いや、それは多分、ほかならぬ、彼女自身だ。
彼女はきっと、彼のその言葉を許さないだろう。
なぜか、彼にはそんな気がした。
だって。
多分、彼は本当に、彼女のことをいつも思っているわけではなかったし。
それを知っていても彼女は彼を愛しているのだから。

伝令用の鳥、スレイがデューのもとに飛んできたのは今朝方だった。
そして、それからほんの一刻後、さらに次の鳥がデューのもとにやってきた。それは、彼がバーハラに侵入させておいた、なかなか腕のよい諜報員−もともとは盗賊稼業の人間なのだが−からの連絡だった。
はじめのうち、ブリギッドはデューの口からその男の話を聞いていただけだったので、彼をあまり信用しておらず、何度も「グランベル側に売られるのでは」と勘繰っていた。が、一度会う機会があり、その心配がないと安心できた。いや、もっと極端なことを言えば、その男以外は誰も信用が出来ないし、彼らの情報がグランベルに漏れるとしたらその男から以外あり得ないほどだ。
その男はデューを「命の恩人」と呼んでいた。
まあ、いくら命の恩人の頼みといえど、一銭にもならないことをするはずがない。そこはそれ、レンスターを出るときに、餞別としてレンスターの騎士フィンが袋につめてくれたいくらかの宝石類−そのうちの数個は、亡きレンスター王子キュアンの妻エスリンが所持していたものだと聞いたが−からひとつ、かなり値が張りそうな、それでいてその宝石の出所がわからなそうなものをとっくに渡している。
レンスターを出る時、こんな大層なものは受け取れない、とフィンに一度つき返せば、生真面目な若い騎士はつらそうな表情でゆっくりと首を横にふり
「キュアン様はエスリン様がもし生きていれば、あなた方にもっと援助をなさると思っておりますから。ほかに力になれないことを、わたしは悔やんでおります」
と彼らにもう一度その袋を渡した。
それを出来るだけ使わないようにと思っていたが、味方が少ない彼らにとってはこういう使い方をすることをためらっている時間はなかった。
そういうわけで、今のところはその効力は続いているようで、何か動きがあればこうやって知らせてくれる。が、それだって余程のことがなければそうそう続けざまに伝令用の鳥を飛ばすわけがない。明らかに非常事態が発生しているのだとデューは察知して、鳥に括り付けられている文書を読んだ。
「・・・ブリギッドさん」
「なんだい」
デューの声を聞き、芳しくない知らせが来たということをブリギッドはすぐさま気づく。
なんだい、と答えたものの、めずらしく彼女の声は上ずっていた。
「東の塔の罪人が、明け方、公開処刑されたそうだよ」
「・・・どういうことなんだい、デュー。それは、クロード神父が・・・もっとわかりやすく教えておくれよ」
「・・・バーハラの・・・東の塔の、最上階にいた罪人は、明け方死刑にされたって」
「だから、それが、クロード神父だってのかい。スレイがもってきた知らせと随分話がすれ違っているんじゃないかい」
明け方にもう一羽やってきたスレイは、バーハラの東の塔の最上階にいた罪人が、秘密裏に塔から出され、どこかに運送されたらしいという情報を運んできた。が、実際それはどこに連れて行かれたかといった具体的な話ではなかった。
それだけを聞けばあながちおかしくない二つの情報ではあるが、死刑が決まった罪人を「秘密裏に」運搬する必要なぞ、まったくない。
「投獄されていたのが、クロード神父だってことは、公開されていなかったのに、公開処刑って、おかしいよね」
「ああ、そうだね。公開処刑だと、もしかして神父の知り合いがいるかもしれないし・・・」
「ってことは、とにかく、東の塔の罪人は東の塔にはもういない。いや、どこにもいない、死んだことに、とにかくしたかったんだね」
「・・・クロード神父を殺すつもりもなく、投獄しておきたくない、でも、今まで放置していた人物が動いたってことか」
「そうだね・・・クロード神父は、誰かの手で牢から出されたんだ。だけど、クロード神父が牢から出たことを、人に知られることを恐れて、誰かを代わりに死刑に・・・」
「ああ、それじゃあ、神父の行方は何もわからないよ。予想が本当かどうかもわからないし」
困ったようにブリギッドはそう言ってため息をついた。
「落ち着いてよ、ブリギッドさん。俺だって、一応は持ってる情報全部集めてさ・・・つなぎ合わせながら、今、話してるんだから」
「シルヴィアが起きたら、何て言えばいいんだい」
「そのままを伝えるしかないよ
デューもまた、ため息をついた。
クロード神父が生きている、という情報を得、ようやく探し当てたシルヴィアのもとへ行き、この家に連れて帰ってきたのは、くしくも昨日のことだ。シルヴィアに希望を与えて、共にクロードを助けようと話しながら長旅を耐えてきた。その仕打ちがこんな知らせだとしたら、なんという運命だろう。
どこまでも自分達は運がない、いや、バーハラでの悲劇を逃れただけでも強運なのかもしれないが、少なくとも二人は「なんて悪い時に」とどちらもが思っていた。
デューは彼にしては難しそうに眉間にしわを寄せながら続けた。
「クロード神父は、東の塔から出された。それだけは間違いがない事実だから・・・っ!?」
そのとき、がたん、と扉の外から音が聞こえた。
シルヴィアが起きたのだ。
二人は同時に同じことを考えた。慌ててデューは扉を押した。扉はぎいぎいとうるさい音をたてながら開かれた。
案の定そこには、昨晩、この薄汚れた家にたどり着いたシルヴィアが、青ざめた顔で立っていた。
「お、おは、よ」
気丈にもシルヴィアはなんとかその言葉を搾り出した。
おはよう、というには既に日は高くあがっていて、かといってこんにちはというのも間が抜けたように思える。が、その挨拶に二人は答えることが出来なかった。
どこから聞いていたんだろう、と二人はシルヴィアの様子をうかがおうとしたが、そんなことをいまさらする間柄ではないことをあっさりと思い出した。
ブリギッドは瞳を一度閉じて、そして覚悟を決めたように言った。
「シルヴィア、そんな、立っていないでそこにお座りよ」
「うん」
シルヴィアはブリギッドに促されるまま、少しばかり足が欠けた木の椅子に近づいた。
深く腰をおろそうとすると、座面に飛び出ている木のかけらが尻にささりそうになる。それをデューに言われて、彼女は注意深く、浅めに腰をおろした。ぎし、と音をたてて、わずかにかしがたt状態で椅子はシルヴィアの体重をなんとか支えた。
「おなかは減ったかい?」
「少しね」
「あっ、そうだよね。待ってて。今、パンを持ってくるから」
そういうとデューは慌てて部屋から出て行った。狭い家の中でも食料はきちんと厨房近くに貯蔵してある。それをとってくるのには、さほどの時間がかからなかった。
デューが戻ってくるまでに、女二人は口を開かずにただずっと待っているだけだった。
こじんまりとした隠れ家は、それでも昼間になれば陽が差し込む。
逆にあまり「いかにも隠れ家」然としていては、あっという間にグランベル兵にかぎつけられるに違いない。
質素な暮らしを営む若夫婦と、旧知の仲で遊びに来た踊り子。
誰が彼らを見てもそう思ったことだろう。
やがて、戻ってきたデューは、固焼きパン二つと干し肉。それから、野菜くずだけが入ったスープと、腐った部分をナイフで抉り取った果実をトレイにのせて運んできた。
「こんなにいいの?」
シルヴィアはお伺いをたてるようにブリギッドを見る。それへ「はは」とようやく軽く笑顔を見せてブリギッドは答えた。
「何いってんだい、こっちが呼んどいて、この程度のもてなししかできない方が申し訳ないってもんだ」
「二人は食べたの?」
「とっくにね。さ、とにかく食べるといいよ。話はそれからだ」
「わかった。ありがとう・・・いただきます」
シルヴィアは素直にそういって、まずは野菜くずのスープにスプーンを差し込んだ。
「あのね、神父さまね」
スープをすくって口にいれたと思ったら、シルヴィアはそんなことを言い出す。
ブリギッドとデューはぎょっとした表情になったが、スプーンで二口目のスープをすくっているシルヴィアには、二人のそんな顔は見えない。
「な、なんだい?」
「神父さま、生きてると思う」
「なんで」
「なんとなく。あのね」
「うん」
「神父さまさ、もんのすごく、神様に祈ってて、もんのすごく・・・信じてたからさ」
「うん」
「そんな人が死ぬときは、世界が何か変わると思うの」
「・・・」
そんなわけはない。
ブリギッドもデューもそういおうとして、けれども、口に出すことは出来なかった。
あれほど真正直に生きて、あれほどに誰からも愛されていたシグルド公子だって、どんなに必死に生きようとしても、抗えない陰謀に押しつぶされて命を落としてしまったのだ。
あんなにも懸命に、多くのものを失ってまで、自分を信じてついてくる者達と、そして自分のために。
精一杯生きて生きて、信じて、貫こうとしたあの男が。すべてのものにそむかれ、謀略の中で命を落とした。
それでも、この世界は変わらなかった。
なのに。
「馬鹿なこと言ってるって笑う?」
「笑いやしない。笑わないけど、あたしにはそうとは思えない。あたし達は誰も彼もちっぽけだ。誰が今どこで何をしていようと、赤ん坊が生まれようと、老人が死のうと、世界なんてもんは変わりゃしないと思うんだけどね」
「そうかなあ」
自分の意見を否定されても、シルヴィアは怒りもせずに、次はパンにかじりついた。一度口をつけたけれど、その固さにしかめっ面をしてシルヴィアは口を離す。
「あたしは、変わると思うよ。ううん、そうじゃないな」
「ん?」
ブリギッドが聞きなおす声にお構いなしで、シルヴィアはパンに再挑戦をして大口でかじりついた。
なかなかパンを引きちぎれずに、シルヴィアが続きを言葉を口にするまで、なかなかに時間がかかった。しかし、ブリギッド達はせかしもせず、パンと奮闘しているシルヴィアを見つめるだけだ。
昔と同じように髪を頭の両側にお団子にして結って、そこから長い毛をたらしている。
それでも、顔立ちはデューほどの変化でもないが、かなり大人びた、とブリギッドは思う。
なのに、「んもお、噛み切れなーい!」と声をあげる様子は相も変わらず、シレジアの冬を共に過ごした少女の面影そのままだ。
「落ち着いて食べな」
「うーん、固い〜・・・けど、でも、おいしいね」
「そりゃよかった」
続きの言葉はないのかな?とブリギッドが言おうとした瞬間、その空気を察したわけでもなく、シルヴィアはぽそりと言った。
「・・・あの人が死んだら・・・あたしがいる、あたしの世界が変わるんだろーなぁ・・・そうしたら、あたし、どーなっちゃうんだろ?どうもならないのかな?」
シルヴィアのその呟きに、デューとブリギッドは顔を見合わせるだけだった。


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