虚像の使い-4-

がたん、がたん。
彼を乗せた馬車は、街道をやや離れた細い道を使って、非常にゆっくりと、ある場所に向かって進んでいた。
そこは、彼が既に足を運んだことがある場所だ。
しかし、ヴェルトマー付近からそこへ馬車で向かえば何日かかるのかなぞ彼にはよくわからなかった。また、彼が今までの生涯で知っている景色は一握りであり、馬車からの景色で「今、どの付近にいる」ということを知ることすら難しい。彼にとっては兵士達の言葉がすべてであり、自分がたてた予測があっているのかあっていないのかすら、なかなか答えをみつけられなかった。
今更ながらに己の無知さに彼は嫌気がさす・・・と、彼は時折深いため息をつく。
机に向かうのではなくもっともっと愛するグランベルの地を知ればよかった。いや、それでも自分は各地には行ったはずなのだが・・・自分が今まで行ったことがある場所なぞ、この世界にとっては悲しくなるほどにちっぽけな、一握りの、いや、一握りの砂の中の、更に一粒の砂にも満たない範囲なのだろう。
一日目にして彼は腰痛を感じ、そして二日目にして彼は体の節々の痛みに顔を歪めた。長い間牢獄にいた体にとって、馬車の振動は非常にこたえるものだったに違いない。
とはいえ、では馬に自分で乗れといわれても彼にはできようもないし、誰かの前にのせてもらうなぞ尚のことご免だ。
このまま逃げようか。
そう何度も思ったけれど、彼を囲む兵士達はなかなかの数で、体力の衰えた彼では、その兵士達をすべて蹴散らして馬に乗っていくことなぞ到底無理だと思える。とはいえ、体力が衰えていなくともそれは無理な相談なのだが。
彼が過去に乗ったことがある馬車とは違う、非常におんぼろで貧相な馬車。振動が直接尻の骨に響き、彼とて、厚手のクッションを特別に与えられなければきっと長くは乗ってはいられないだろう。肉の薄い老人であれば半日もせずに音をあげるに違いない。
そうでなければ高貴な身分の者が乗っているとすぐに人の目につき、怪しまれる。それをアルヴィスはよくわかっていた。
彼を乗せた馬車を護衛している兵士達もみな傭兵のような身なり、商人のような身なり、とさまざまな変装を行っていた。
その兵士達の様子を見ると、それらは正規のグランベル兵士ではなく、アルヴィスが私設で作った軍の一員ではないかと彼は想像した。そして、どうやら彼の想像はそう間違ってもいないようだ。兵士達は普通の傭兵にしては規律が守られており、かといって普通の兵士にしては野宿に慣れてもいた。
が、そこはアルヴィスの賢しい部分なのか、その兵士達の中に魔法を行使するものはほとんどいない。ヴェルトマーの人間とゆかりがあるとはまったく思えない兵士達。
(あんなに大量の、いかにもヴェルトマーの魔導士達で、皆を焼き尽くそうとしたというのにな)
目をそらしたくなる記憶を自ら呼び覚まし、彼は目をそっと伏せた。
そうすれば余計にがたんがたん、という馬車の振動が感じられ、無情に彼の体を痛めつけるように思える。
小さな窓を開けて外を見れば、細い街道の両脇に森がうっそうと茂っている。
空には暗い雲がまるで彼らを押しつぶそうとしているように層を重ねつつ低い位置にあった。まるでそれは少しずつ空から地に落ちてくるかのように彼には見えた。
何もかもを押しつぶそうとする、暗い暗い冷たい雲。
彼は憂鬱な気分になって外を見ることをやめた。
牢獄の中から見た空と、今自分の上に集まっている雲に覆われた空は、まったく違いはないと思う。
自分はどこにいようと自由ではない。いや、しかし牢獄にいる間には、彼には彼だけの時間があり、それは自由と呼べた。
彼は彼が思うこと以外には、特に何を強制されるわけではなかった。それは、ある意味自由ではなかったのだろうか。
しかし、今は。
(わたしは、いつでも自由ではなかった)
そう思って、彼は自嘲気味の笑顔になった。
「なんというばか者だ」
己の浅はかな考えに、彼は心底自分が嫌になったように呟いた。
自由ではなかったと?いつでも?

(神父さま!)

耳の奥で、鈴の音が響いた。
それが幻聴だと彼は重々わかっている。
愛する者といる時間は、誰にとっても自由であり、そして、誰も彼もが縛られている。
あの少女といた時間、自分は決して自由ではなかったけれど、幸せだったのではないかと思う。
そして、縛られている、とふと思うこともあったけれど、誰よりもあの少女は、彼の足枷となっているものを「無意味なもの」として彼を助けようとしてくれていたと思う。

(わたしは、彼女を自由な人間だと思っていた)

ぽつり。
小窓に小さな雨粒があたる様子を、彼は視界の隅でとらえた。
馬車を囲む兵士達の間でなんらかのやりとりが行われている様子がわかる。
ぽつ、ぽつ・・・。
決して激しくもなく、決して大粒でもなく。
それでも馬車の速度のおかげで、斜めに窓に切れ込みをいれたようにうっすらとした痕がいくつも出来てゆく。
やがて、馬車はわずかに速度を緩めた。かたん、かたん、と変化した振動は、それでも彼の短くなった髪を揺らすほどに体に響く。
窓に打ち付ける雨は相変わらず小さく、そして激しさもなかったけれど、そのまま走り続けるとやがて窓一面を汚すように密集しだした。

(彼女は、自由な人間だと、自分を見せたかったのかもしれない。わたしを、自由にするために)

交わりあって大きくなってゆく雨粒たち。
いつかは大きくなりすぎて、また窓に軌跡を残しながら地面に落ちてゆくに違いない。
その当たり前の光景を、昔彼女と見た、と彼は思い出していた。

(このままだと、そのうち蒸発しちゃうんだよね)
(そうですね)
(大きくなって、窓から落ちたら、地面に吸い込まれるんでしょ)
(ええ。そして、また蒸発するかもしれませんね)
(でも、植物が吸ったら?動物が飲んだら?それは、そいつらが死んだとき土に還るんでしょ?)
(確かにそうですね)

土に還るんでしょ?

あの時何気なく彼女が口にした言葉を、彼はとても意外に思った。
人の生き死に、植物や動物といったありとあらゆる生き物の生き死にを口にするような、考えているような少女だとは思っていなかった。その当時の自分の浅はかさを、今となっては呪う以外にどうにも出来ないと思う。
彼は、死者や遺族を、多く今まで見てきていた。しかし、その多くが彼とかかわりがないもの達だったと思う。
けれど、彼女は。
彼の何倍も、親しい人間の生き様死に様を見てきたのかもしれないし、人間として扱われないまま死していった知人などもいたのかもしれない。
彼女が口にした「死んだ時」という言葉は、子供の純真さによる、あっけらかんとした残虐な言葉ではない。
もっと、重々しい思いが詰まっていたのかもしれない。
それをもっともっと。
わかって、彼女を抱きしめなければいけなかったのに。
かたん、かたん。
馬車は、しとしとと降り続く雨の中、ブラギの塔を目指して走り続けていった。


「ああ、もぅ、忌々しい!」
先に先に、と気持ちは焦っても、雨を止める力がない限りどうにもしようがない。
ブリギッド達は商人を装って小さな荷馬車に乗って目的地へと向かっていたが、突然の雨のおかげで予定より大幅に遅れてしまっていた。
彼らはアルヴィスの館から真夜中に出た馬車に乗った人物が、森のはずれに用意されていたおんぼろ馬車に乗り移ったという情報を得ていた。普通であればそのような情報が筒抜けになるはずなぞあり得ない。
アルヴィスは身辺の部下に命じて馬車を用意させたが、もちろんヴェルトマーに関係がある館からおんぼろ馬車が出たとあってはかぎまわされる恐れがある。そういったお忍びのため、あるいは、今回のような裏事情がある場合には、町外れの馬車屋で馬車を調達する・・・とここ数年でデューにはわかっていた。
それの確信はなかったが、いくつかの馬車屋の中で最も「わけありでも」貸してくれる場所、と彼の仲間に調査させた結果、二つほどの馬車屋に絞られていた。
シルヴィアが「すごいじゃない、デュー!」と褒めれば、苦々しげにデューは「運が良かったよ。自分じゃ、無意味なことだと思っていたからさ・・・」と眉を寄せて苦笑をした。
ただ、どんなことでも知っておきたかった。でなければ、あの巨大な力の前に、ちっぽけな自分たちは・・・。
そんな言葉を続けようとして、デューは黙った。それは多分デューもシルヴィアもブリギッドもわかっていることだ。そして、ここで改めて口にだして、ようやく飲み込んだ辛い記憶を呼び起こす必要はない。
「大人になったってことだよ」
デューが何も言わなかったというのに、少し遅れながらもブリギッドは彼に呟いた。
デューとブリギッドは二人で肩を並べて御者台にいたが、雨が降ってきたから中にはいるといい、とデューはブリギッドを荷台においやった。意地を張っても仕方がない、とブリギッドは素直にそこはひきさがり、荷台に乗っているシルヴィアの近くに腰をおろした。
衣類は多少は雨に濡れていたけれど、尻や太ももといった御者台に触れていた部分はほとんど濡れていなかったため、荷台に水滴でしみを作ることはほとんどなかった。
「雨、ひどくなってきた?」
シルヴィアがそう問えば、ブリギッドははらりと落ちる濡れた前髪を手でかきあげながら答えた。
「いや、そうでもないね。これくらい、どうってことないんだけど・・・どうも、片方の馬がね、雨はてんで、駄目みたいで」
「馬は普通雨嫌いでしょ」
「いや、馬によるねぇ。大抵の軍用馬なら、雨くらいへっちゃらなんだけどね」
「そっかぁ。ま、嫌いなものは、しょーがないか・・・」
そういいつつもシルヴィアの表情は暗い。
彼らの「奪回計画」は後手後手に回ってしまっているので、ここで多少無理をしてでも雨の中馬車を走らせ続けなければいけない。だというのに肝心の馬が雨嫌いとあってはお手上げだ。
「ま、しょうがないねぇ、それじゃなくても二頭で人間三人と荷物をひっぱってんだ。雨まで降ったら嫌だろうよ」
「あははっ、そりゃ、その通りなんだろうけどさぁ!」
笑わせるつもりがなかったのに、シルヴィアに屈託なく笑顔を見せられてブリギッドは戸惑いを見せた。が、その戸惑いには気づかなかったように、シルヴィアはさっさと違う話題をブリギッドにふった。
「ねえ、ブリギッド、それ」
「ん?」
「腰につけてるの」
旅人がよく身にまとっているマントの下に隠された、腰につけた剣をシルヴィアは指差した。
「前から剣も使ってた?弓は?」
「ああ、これね・・・」
ブリギッドは剣をちらりとマントの端から剣を見せて小さく笑った。
「グランベルの追っ手にみつかりやすくなるからさ、弓矢を使ってたらね」
「そっか」
「思ったより、すじがいいみたいだよ。最初はデューに教えてもらったんだけどさ・・・」
ブリギッドは少しだけ声をひそめた。そうやって小声にならなくとも、馬車の音や雨の音、さまざまな音で彼女の声はかき消されるのだが、それでも御者台にいるデューに気を使ったのだろう。
「もう、デューよりよっぽど腕がたつんだよ」
シルヴィアはくすくすっと笑って
「やぁだ、そんなの・・・」
これまたシルヴィアも声をひそめて、返事を返した。
「ブリギッドのほうが、武芸の才能みたいなのはあるんでしょ?そんなの、最初っからわかってるよぉ」
「だね」
そう言ってブリギッドは苦笑を見せたが、慌てて彼女の伴侶である男性をかばうように付け足した。
「武芸以外のことは、大抵デューの方がなんでも出来るんだよ。そのう、たとえばねぇ、料理とかも」
「あははっ!」
「海に出れば、さすがにあたしの方が役立てるとは思うんだけどねぇ」
それにも明るくシルヴィアは笑った。そして、一通り笑いが収まると、話題を元に戻す。
「でも、弓矢ももってるんでしょ?」
「一応ね。でも・・・イチイバルは、ここにはないんだ」
「え?」
シルヴィアは素っ頓狂な声をあげた。
ブリギッドといえば、弓使いウルの血をひくユングヴィ家の直系であり、「聖弓イチイバル」を扱える唯一の人間だ。
その人間が、イチイバルを手放して腰に剣をつけ。
「どうしたの、イチイバル。もしかして、あの時の・・・」
不安そうにシルヴィアが聞くと、ブリギッドは慌てて言葉をさえぎった。
「いやいや、ずっと持っていたんだよ。でもね」
「うん」
「・・・あたし達の子供を、預けてきたところにね、イチイバルも置いてきたんだ」
その言葉にシルヴィアは顔色をわずかに変えた。
それは、もしかして。
ブリギッドは、もう、子供の元に戻れないかもしれない・・・そんな覚悟があるからだろうか?
確かにブリギッドやデューにとっては、シルヴィアの恋人でありシルヴィアの娘の父親であるクロードも、一時期は共に生活をした仲に違いない。しかし、彼らの生活をそこまで犠牲にしてまで、そこまでの覚悟をさせてまでも巻き込むことは、シルヴィアの本意ではなかった。
きっと、うまくやれる−−そう思うからこそシルヴィアも彼らの力を借りようとしていた。
娘リーンはダーナの修道院に預けてきたが、リーンの元に戻れないなんてことは、シルヴィアはこれっぽっちも思っていない。
自分が思っている以上に悲観的な覚悟が、この二人にはあるのだろうか。
ぎゅ、とわずかに唇を引き結んだ後、シルヴィアは小さく微笑んだ。
「大丈夫だよ、ブリギッド」
「うん?」
「大丈夫。絶対、子供のところに帰れるよ、そんなに心配しなくても」
「・・・そう思っているんだよ、あたしも。うん。そうじゃなくて。ああ、なんて言ったらいいのかな」
しまった、余計な心配をさせてしまった。
シルヴィアの受け答えを聞いて、さしものブリギッドでもシルヴィアの心の動きがわかったようで、また彼女は慌てて言葉を続けた。
「あたしゃ、小さい頃にエーディンと生き別れになってね」
「うん」
その話は聞いたことがある。シルヴィアは記憶の隅においやっていた、過去に聞いた話を必死に掘り返そうとした。
そうだ、確か。エーディンとブリギッドは幼い頃に離れ離れになって、ブリギッドは海賊の頭領の娘として育って・・・
「それでも、あたしには、弓があった」
「うん」
「確かにあたしとエーディンは見た目も似てはいるけれど、他人の空似なんてよくあることだ」
「そうかもね」
「あたしは、エーディンからイチイバルを渡されて、そこで自分がユングヴィ家の長女だということを思い出したんだよ」
懐かしい昔を思い出しているように、ブリギッドの瞳はそっと閉じられた。
今まで彼女のそんな様子を見たことがなかったシルヴィアは、わずかに口を開けたまま、その美貌の弓戦士の表情を見つめていた。
瞳を閉じると、本当に彼女はエーディンとうり2つだ、なんて思いながら。
それから、静かにブリギッドは瞳をあけて、右手をゆっくりと胸にあてた。
「どれだけの年数を隔てても、どれだけ忘れていても、こう、胸のあたりがあたたかくなってさ・・・」
「うん」
「ありがたいことにあたしは、離れ離れになっている間にも、弓の才能を・・・育ての親に見込まれてね。だから、ずっと弓の鍛錬をしてきて、扱いがうまかった。当たり前だけど、いくら聖戦士の直系だとしても、幼い頃から神器を扱うために武芸を続けなければ、あたしのようにイチイバルと再会したって、うまく扱えやしないだろ」
「・・・そうだけど」
それは、やはり、ブリギッドが彼女の息子ファバルや娘パティと再会出来なかったら、という危惧から来る思いではないのか。
イチイバルを子供達に託すことで、子供達が弓矢に興味をもってくれるように。もし、離れ離れになっても自分の親が残した弓を手放さずに守ってくれるように。複雑な多くの思いがその行為には絡んでいる、とシルヴィアは思う。
「シルヴィアが思っている通り」
「うん」
「もしかして、今回、クロード神父を助けても・・・あたし達は以前の生活に戻れないかもしれない」
「・・・」
「でも、それは、多分一時的なことだ。あたし達がまた会えたように・・・クロード神父とあんたがまた会えるように・・・もし、何かがあったって、またあたしとファバル達は会えるんだ。そう思っている。だから、会えなくなったら・・・なんていう気持ちはもっていないよ」
「ブリギッド」
「でも、会えない時期が続くかもしれない。なんていったって、あたし達を探しているグランベル兵がお守りしている神父さんのとこにいくわけだからね」
「そうね・・・」
「会えない間は、きっとイチイバルがあの子達を守ってくれると思ってね」
「・・・お守り?」
「そうそう。そんな感じだよ。他にあたし達は、あの子達に何も形で残せやしないんだもの」
ブリギッドは苦笑をして肩をすくめてみせた。
大げさなボディランゲージをしない彼女にしては珍しいその動きだったが、シルヴィアはそれを見て小さく微笑む。
「ごめん、ブリギッド。気をつかわせちゃったね」
「そんなことはないよ」
「でも、ブリギッドが言ってること、ちょっとわかる」
シルヴィアはそういって、馬車の隅にそうっと置いてある、布で包まれた細長い物体をちらりと見た。
その視線の先に何があるのかをブリギッドは確認して「ああ」とうめき声に似た返事をする。
「バルキリーの杖、預かっていてくれて、ありがとう」
「いや、礼を言われるほどのものじゃない」
それは、あの痛ましいバーハラの悲劇が起こるわずかに前。
アイーダの監視下でヴェルトマー城に滞在したほんの数日の間。
クロード神父はなんらかの予感、あるいはなんらかの天啓によって、バルキリーの杖を手放すことに決めたのだった。
そして、それは、バーハラへ共に行くことができなかったデューに−それは、ブリギッドが身重だったせいなのだが−何もいわずにそっと託されていた。
ほんのわずかに部屋を離れた隙に、クロード神父はデューが滞在していた部屋に忍び込み、そして。
窓際の隅に、ひっそりとバルキリーの杖を置いていったのだ。
その杖の意味を一人で量りかねて、デューはブリギッドの元に行った。そして、相談の結果、ヴェルトマー城からこっそりと抜け出したのだ。
案の定その直後から彼らを追う兵士達が大量に城から放たれた。彼らを生かしてはおけない、というヴェルトマー側の意向がそれで確信されたわけだ。そして、逃走の末、レンスターの騎士フィンと出会って二人はレンスターに身を寄せることになったわけだ。
その後も結局は、何故バルキリーの杖を彼らに託したのか、クロードの真意を知ることは出来なかった。
何度も何度もその意味を二人はそれぞれ考えていた。
バーハラの悲劇を知っていたとしても、もしも彼がバルキリーの杖をもっていけば、死ななくても済んだ仲間がいたかもしれない。
また、まわりくどい暗号のようにバルキリーの杖を置いていかなくとも、一言「ここにいては危険です」と言えばよかったではないか。
いずれにせよ、あの神父が何を見て何を知り、そして何を知らず、何が出来たのかをしる者は、ここにはいない。
二人で話し合ってもその答えが見えないことをお互いに知り、やがて、デューもブリギッドもそれについては触れることもなくなってきていた。
「シルヴィア」
「なあに」
「あんた達がバーハラに向かう前に、クロード神父がデューに声をかけたんだって」
「うん」
怪訝そうな表情でシルヴィアはブリギッドを見た。
「なんて?バルキリーの杖の話、じゃないよね?」
「違うよ」
「じゃ、何」
「良い子供がうまれますように、ってことと」
「・・・」
「神の、ご加護が、ありますように、ってさ」
ブリギッドはそのまま言葉を止めた。
また、シルヴィアもまた、ブリギッドを真正面から見つめつづけるだけだ。
その唇が、まるで乾きすぎたかのように、ゆっくりと、あまり大きくも動かずに必死に声を出そうとした。
「かみの、ご、かご」
「・・・そうさ」
がたん、がたん、という馬車の振動が殊更に体に響くように感じ、突然現実の世界に戻ってきたように二人は「はっ」となる。
そうだ、そういえば雨が降っていた。
そんなことすら一瞬忘れてしまうほど、彼女達二人の間には、非常に瞬間的に摩訶不思議な時間が流れた。
「ねえ、シルヴィア」
「・・・うん」
「神父様さ・・・バーハラの悲劇を知ってたんじゃないの」
「・・・」
「もう、自分たちには、神様とやらの加護がないのだと」
言いたくない言葉だった。ずっと黙っていた。今までデューと似た話をしても、そこまで直接的に言わないようにと努力をしていた。けれど、ブリギッドはついにそれを口にした。
それを言ってしまっては、誰もがクロードを責める言葉しか思いつかないに違いない。だから、ブリギッドは言葉にしたくなかったのだ。
あの神父は知っていたのではないか、何もかも。
バーハラでシグルド達が裏切られ、仲間が大量に死ぬことも何もかも。
そして、それはバルキリーの杖がそこにあったとしても、防ぐことが出来ず。
そして、シルヴィアの体には彼の血をひく命が既に宿っており。
その子にバルキリーの杖を託すには、あの戦場では無理だと。
「・・・・違うよ、ブリギッド!」
シルヴィアは、声を荒げた。ひざを床にぺたんとついて、前のめりの格好で、まるでブリギッドに噛み付くような勢いで言葉を続ける。
「わたし、聞いたんだもん、神父さまに」
「え?」
「バルキリーの杖どうしたの、って。わたしが気づかないわけないじゃない」
「・・・なんて、答えたんだい」
「デューに預けたって。その方がいい気がしたっていってたわ。それで・・・えーと・・・それで・・・」
思い出せ、思い出せ。
シルヴィアは目を閉じて、顔を伏せて考えた。
四つんばいの姿勢でしばらく固まっているシルヴィアを見下ろして、ブリギッドは困惑していた。
しかし、「別にいいよ」と簡単にいなすことも出来ず、彼女も黙ったままシルヴィアの記憶が甦ることを待つだけだ。
「そう。あのね」
「うん」
さっきの元気はどうしたことやら。
シルヴィアはうつむいたまま声を搾り出した。
「その方がいい気がした、っていってたの。ヴェルトマー城に戻るのかどうかも、よくわからないって。何もかも曖昧で、曖昧すぎて・・・それで、それ以上あたし、聞かなかったんだ」
「そうだったのかい」
「でも、違うの、ブリギッド」
「・・・うん、何が、違うんだい」
「多分、神父さま」
「・・・」
「知らなかったと思うの、あんなことが起きるなんて」
でも、と言いかけてブリギッドは口を引き結んだ。
反論することはたやすいけれど、彼女が反論したいということはシルヴィアだって知っているに違いない。
シルヴィアは、クロード神父を擁護しようとしているのだろうか?
それはそうだ。自分が好きな男が、こうやって非難されようとしているのだ。きっとブリギッドがシルヴィアの立場だったとしてもそうしたに違いない。
自分では意識していなかったが、ブリギッドは憐れみの色を含んだ瞳でシルヴィアを見ていた。
言ってはいけないことを言ったのは自分だ。シルヴィアがこうやってクロード神父を擁護したくなるのは当然ではないか・・・でも、ここで「悪いことをいった」と自分が謝ったからといって、彼女の心に刺さった言葉は抜けないのだろう・・・。
そんなことをブリギッドは思っていたが、次にシルヴィアが口に出した言葉は、まったくもって予想ができない、不思議なものだった。
「ねえ、ブリギッド。聖職者っていう人たちが」
「・・・うん」
「神さまってのを、信じられなくなった時って」
「・・・」
「それを、人に言うと思う?」
シルヴィアは四つんばいになって、頭を垂れたままぽつりぽつりと彼女に問い掛けた。
いつも頭の両側に結い上げている二つのおだんごから垂れた毛先は、なんとなく湿り気をおびている床についてしまっていた。
それには気にもせず、彼女はまるで、いやいやをする子供のように、それでもゆっくりと首を軽く動かす。
さらさらとその毛先が薄汚れた床をかすって動く。
「ごめん、なんでもない」
「シルヴィア」
ゆっくりとシルヴィアは顔をあげた。
涙をこらえた目をしている。そうブリギッドは感じ取った。
「神父さまが知っていたか、知ってなかったのかは、予想でしかないし、神父さまに聞くしか真実はわからない」
「そうだね」
「だから、今は考えないことにする」
「そうだね・・・ああ、ちょっと休ませて貰うよ。悪いんだけど、次にデューが疲れたら、ちょっとの間だけ交代してやってくれないか」
「いいよ。ブリギッドが一番長く起きてるでしょ。ちゃんと寝ていいから」
荷台に伝わる振動があまりに大きくて、彼らは移動中はうまく眠れていない。デューやシルヴィアはともかく、ブリギッドは過去何年も陸上での移動なぞ考えられない生活をしていて、こういう旅には不慣れだ。
また、いざということがあればもっとも頼りになる武芸者はブリギッドであるから、それも彼女の睡眠を妨げる緊張の元になっているに違いない。
「あたしの毛布を折ってさ、体の下にもう一枚敷きなよ」
「いいのかい」
「いいっていいって。あたしは、昨日グーグー眠らせてもらったから」
「シルヴィアは、案外タフだよねぇ」
「えっへっへ、よく言われます」
ブリギッドはシルヴィアの申し出に素直に従った。
折りたたんだ毛布を床の上に起き、そこに横たわると案外と衝撃も楽になったし、床の冷たさもあまり感じなくなった。
「おやすみ、頼んだよ」
「うん。おやすみなさーい」
そういうとシルヴィアは御者台のデューの様子を見に行こうと腰を浮かせた。
彼女が傍らから離れる気配を感じながら、ブリギッドは瞳を閉じる。

(でもね、シルヴィア)

(神様を信じなくなった人が)

(他人に「神のご加護がありますように」なんて、言うかい?)

昨日まではなかなか寝付かれない要因となっていた馬車の揺れが、心地よいほどにブリギッドの体を優しく揺らす。
彼女が思っている以上に体は疲労を訴えていたようだ。
ブリギッドは、クロードとシルヴィアのこと−それこそ彼女が考えたところでどうなるものでもないのだが−を思いつつ、深い眠りについた。


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