虚像の使い-5-

直接雨にうたれたわけではなかったのに、彼は突然の高熱にうなされることになり、移動の足を止めた。
昨日までの雨も止み、雨上がりのぬかるみがようやく固くなって動きやすくなった頃も、彼はまだ意識朦朧とした状態であまり広くない馬車の中で毛布に包まっていた。雨の中で天幕を張ったものの、病人を安静にさせられる環境を整えることは難しく、冷え込みをうまく防げなかった。仕様がなく彼は馬車の中で寝床を作ってもらい、無理矢理体を横たえて一晩を過ごした。
いわくつきのこの集団は、そこいらの小さな集落に助けを求めることもままならず、彼を寝かせるための宿屋をとることすら許されていなかった。馬車で移動をし、野営で眠る。ただそれだけだ。
三年間の牢屋暮らしが彼の体を弱らせていることは、アルヴィスも百も承知の上。こういうこともあろうかと医師を同行させていたが、その医師から「移動見合わせを」の言葉が出たのは、昨晩のことだ。
一晩明けて今尚、彼は高熱にうなされ、薬草を煎じた熱冷ましの効果もいまひとつ、体を休める環境もこれまたいまひとつ。
寒気から来る震えがなくなったものの、相変わらず続く高熱に医師は苦い顔を見せていた。
「芳しくない。若いのに、こんなに衰弱が激しいとは」
医師は、熱にうなされている彼のもともとの立場をよく知らない。
それらを詮索してはいけないということだけは知っている。
護衛に関しても、余計なことを口に出さないほうが身のためだと医師はわかっていた。彼は、必要な会話だけをしようとこころがけながら容態について話した。
「まだ動かさない方が良い。せめてあと半日安静にして、体力を回復させないことには」
「半日。それはまた厄介な」
集団を率いているリーダー格の男が苦々しげにいうが、それ以上のことは口を閉ざす。
半日遅くなることがどれほど厄介なのかを医師は知らないし、それを告げるようなことをもらす必要もない。
「あとニ刻ほどでは無理か?」
「そう急いでは、また後で悪化して、結局もっと遅れることになるだろうとも」
「・・・それも困ることだ」
「この先、季節柄海からの風が強くもなる。空気の質も変わることを考えれば、ここでの足止めの方がましだと思うのだけれど」
「仕方がない。使い物にならない状態で到着しても、意味がない」
使い物になるならないとは穏やかではない表現だ、と医師は思うが、それについては何もいわず、軽く肩をすくめてみせた。
「ここでならなんとか手持ちの薬で持ち直せるが、土地が変われば病も変わる。ご理解いただきたい」
「では、半日。半日過ぎた時点で、様子をみることにしよう。皆にもそう伝えておく。最善を尽くして欲しい」
「医師になんと馬鹿げたことを」
「馬鹿げた?」
「最善を尽くさないものは、医師ではない」
医師のその言葉を聞き、わずかな間、男は真正面から医師を見ていた。それから、わざとらしく肩をすくめる。
「それは失礼をした。医師ではないものを医師と呼ぶ人間を、多く見てきたものだからな」
「残念ながら、それが今の世の中だ」
「不穏な発言だな」
「それは失礼をした」
まるで先ほどの男の言葉を真似するかのように医師はそう答え、苦笑いを見せた。

眠っているのに、まったく眠っていないような気がする。
しかし、気付けば月の位置、星の位置、太陽の位置。何もかもが動いていて、わずかに差し込む光の様子が違う。
馬車の狭い中で横になっていると、牢獄の中にいたときとなんら変わりがないように彼には思える。
光の動きを見て、時の流れを感じることですら、彼にとっては「いつも」のことだった。
(まったく、わたしの体は弱くてかなわない)
熱に浮かされる中、そんなことを思う。
(いや、違う、体だけではないな・・・)
自嘲気味に笑った・・・ように思うだけで、表情は変わらない。瞳を閉じたまま、ただ荒く呼吸を繰り返すだけだ。
時々気管がひゅうひゅうと不快な音を立てる。体の中に、突き刺さるような風が吹いているようだ、と彼は思った。
シレジアで、彼が愛した少女は一度風邪をひいた。
いつも薄着で飛び回る姿を見てかねがね心配していたのだが、予想通りの風邪っぴきだった。
が、注意をしていた彼自身がその後風邪をひいて、彼女よりも余程長く寝込む羽目になってしまった。
彼女の場合は薄着を理由に出来るが、自分は違う。それに、彼女と圧倒的に違うのは、回復力の速度だ。何日も何日もぐじぐじと長引き、なかなか体がすっきりとしない日々が続いた。
(でも、悪くもなかった。あれは。ほんの少しだけ、風邪をひいてみるのも悪くないと思ったものだ)
治りが遅い自分に苛立ったりしたけれど、「神父様の面倒、あたしがなんでもみるからね!」なんて、不謹慎にもちょっとだけ嬉しそうな彼女を見れば、たまにはいいか、とも思った記憶が甦る。
なんと幸せな日々だったのか。
あんなに幸せな日々が、この世界に、自分に訪れるとは思いもしなかった。
(願わくば、あと一度だけ)
あの少女に伝えたい、と彼は思った。
何を?
その大切な部分だけが、熱のせいか彼の頭には思い浮かばない。
それが答えだ。
明確に言葉として思い浮かぶことならば、もっともっと簡単にあの少女に告げられただろうに。

ブリギッド達は、目的地に辿り着いた。それは、以前、彼らが来たことがある場所、いや、建築物だ。
当時ブリギッドは「この辺りの海は自分の縄張り」と主張するほどの海賊の頭だったし、その建物は遠くからでもかなり見える有名地だった。当然この建物についてはよく知っていた。ただ、彼女達は自分の縄張りから必要以上に離れないことを常としていたため、陸上で、しかも、近くで見るのは5,6年ぶりのことで記憶が定かではない。
一方、デューとシルヴィアはこの建物の真下までやってきたことがあったため、非常によく覚えている。
「ブラギの塔」
海風に吹かれながら彼ら葉建物を見上げた。その名をシルヴィアは口に出した。
彼らの前にそびえたつ古い建築物は、数多の巡礼者達が目指す聖地、ブラギの塔だ。その地を目指すものはグランベル以外の国の人間も多いといわれる。
しかし、この時期は海風が強く、比較的巡礼者は少ない。それに、たとえ辿り着いたとしても、ブラギの血を引いていない限り巡礼者達はブラギ神からなんの神託を得ることも出来るはずがないのだ。それを知っていて尚もこの地に赴くような人間は、年々減ってきているという。
彼らはその巡礼者達の多くがそうしているように、フードのついた薄汚れたケープやローブを纏い、武器を出来る限り隠してブラギの塔に近付いてきた。ありがたいことに、今日は他には誰一人巡礼者はいないように見える。
「この前見た時も思ったけど、いつ崩れてもおかしくないよなぁ」
デューは少しばかり呑気と思える口調でそう言った。「この前」が一体何年前のことなのか、彼はさほど考えてはいないようだ。彼がいうことも最もで、塔の入口を囲む岩で作られた塀は、あちこちひび割れ、欠片がそこここに落ちている。装飾が施されている扉も、かなり変色しているだろうことが一目でわかるほどだ。
「普通、海に近い大きな建物なんざ、灯台しかないと思うけどねぇ。これは灯台じゃないんだろう?ここに、クロード神父達は来るのかい」
ブリギッドは周囲の様子を伺いながらデューに聞いた。
「うん。ここに来るよ」
「ここに来て、何をしようってんだい」
「・・・・ブラギの祈り?」
シルヴィアは自信なさそうに呟いた。
「・・・多分ね」
デューもまた、自信なさそうに答える。
彼らが助けようとしているクロード神父は、十二聖戦士の一人である大司祭ブラギの血をひくエッダ家の人間だ。そして、このブラギの塔は、大司祭ブラギが祭ら れている。ブラギの血を引くものが「ブラギの祈り」を行い、ブラギ神からの神託を得るための、祈りの間がこの塔にはある。その神託を得る資格なきものは、なんぴとたりとも踏み入ることが許されぬ、聖域とも呼べる空間が存在するのだろう。
「でも、無意味じゃない。そんなの。今更何を知ろうっていうの、神父様は」
「神父様が知りたいわけじゃないんだろうね。きっと、アルヴィスが、何かを知りたいんだと思う」
「あたしらも入ってみるかい」
「ブラギの血族じゃないと、入れないんじゃなかったかなぁ。俺はそう聞いたけど」
「ううん、塔自体には入れるはずよ。その先の、神託を受ける場所は入れないみたいだけど。でなきゃ、塔を直すとき、誰も中に入れないわよねぇ」
シルヴィアはいささか呑気そうにそう言った。それにブリギッドは噴出して
「何いってんだい、神託受けるところに入れないんだったら、そこは誰も直せないってことじゃあないか」
「ブラギの血を引く大工さんがいればいいってこと?」
デューもそう言いながら笑った。
「ブラギの血を引く人間が一緒に入れば大丈夫とか?」
うーん、とブリギッドが唸りながらいうと、今度はシルヴィアが笑って
「変なの!大工さんの仕事が終わるまで、待ってなきゃいけないってこと?」
あははは、と少しだけ声を出して3人は笑った。
今ここでそんな風に声を出して笑えるなんて、変なものだ。
3人が3人ともそう思いながら。
「・・・うまくいけばいいんだけどね・・・」
ブラギの塔から多少離れた入り江に、彼らは小さな船を準備していた。当然、それを仕切っているのはブリギッドだ。
この界隈の地理を誰よりも−デューよりもシルヴィアよりも、また、グランベルの兵士達よりも−知っている彼女は、小船でしか入り込めない、そうそうはみつからないだろう格好の隠れ家を知っていた。
小船を準備した時点で下見に行ったが、さすがのデューも「これはすごい」とうならずにはいられない、なかなか探し当てるのが容易ではない場所だ。入口は陸地からはただの岩肌にしか見えない。また、船で乗り出しても「そこにそれがある」とわからなければ、岩と岩の隙間に入り口を見つけることも不可能と思える。
「小さな船では入れない上に、手前で波が常に荒い場所があるからね、そう簡単にはみつかりやしいないってわけだ」
隠れ家は用意できている。
しかし。
どうやってクロード神父を船まで連れて行くか、それが問題だった。
彼が1人になるチャンスは、ブラギの塔の「祈りの間」にいる時だけだ。ブラギの塔は、入口も出口も一つだけ。
巡礼者のなりをして塔に入るまではいいが、きっと兵士達は祈りの間の扉付近まで来るに違いない。そして、そこから先は自分達も入ることは出来ないのだ。
強行突破をするわけにはいかない、とブリギッドは思っていた。
バーハラを出立したクロード神父達の馬車を追ってきたが、昨日追い抜いて先回りをすることが出来た。それは、相手になんらかのトラブルがあったからだ。そして、十中八九、それがクロード神父の体調不良だと彼女は読んでいる。それでなくとも健康な状態だってあの神父は足手まといになりそうなのだから・・・。申し訳ないがそう思わずにはいられない。
地の利を生かして奇襲するにしても、人数が足りない。
シルヴィアの舞の力を借りても無謀な賭けだ。
(でも、夜ならば)
どうにかして、クロードをブラギの塔に夜来させれば。
ならば、話は違う。
地の利は更に有効になるし、いくら陸近くとはいえ夜の海を月明かりだけで漕ぎ出せるのは自分しかいないと彼女は思えた。
まずは、クロードとの接触だ。
ブリギッドは巡礼者と同じケープを指でちょいとつまんで苦笑をした。
「神父さんが、人が変わっていないとありがたいんだけどね」
ありきたりの方法ではあるが、ああいう人物だからこそそれが尚更有効に思える。そういう手段をいくつか彼らは考えていた。
彼女達の頭上に、既に見慣れた鳥が近づいてきていた。
何箇所かにいるデューの仲間が、クロード神父達の現在地を知らせてくれているのだ。
デューのもとに鳥は緩やかに降りてきて、彼が上に差し出した指に軽く?まった。
「いつも、ありがとうな」
言葉がわかるわけがないが、デューは時々こうやって語りかける。と、その脇にいたシルヴィアも、明るく
「ありがとね!」
とスレイに声をかけた。
ああ、この子には本当にかなわないな・・・。
ブリギッドは苦笑をしてそんなことを思う。
当の鳥は周囲の声にはおかまいなしで、羽を休めて何も考えていないように見えた。

ちらちらと訪れていた巡礼者達を、兵士がブラギの塔から追い払っている。
彼は少し離れた場所に止めている馬車の中からその様子を見て表情を曇らせた。慌てて馬車の小窓を開けて、兵士に問いただす。
「何をしているんですか」
「見ての通り。巡礼者達を塔から立ち退かせているのです」
馬車の脇に立っていた護衛兵が平然と答えた。
「その必要はないでしょう」
「いいえ、念には念をというもので」
何の念だ、と彼は思ったが、おおよその意味はわかる。
彼をつつがなくバーハラに連れ帰るまで、出来る限り誰にも彼を人々に見られないようにしたいのだ。
「変に騒ぎ立てられますよ。それよりも一巡礼者に混じってわたしを塔に入れてしまったほうがよほどいいのではありませんか。こうやってあなた方がわたしを囲んだり、塔を見張ったりしていては、何かと噂になってしまうと思うのですがね。それに、祈りの間にわたし以外に入れる巡礼者なぞいやしないでしょうし」
彼の言い分ももっともだった。
彼の隣にいた男は舌打ちをして、近くにいた仲間に声をかけて相談をし始めた。
やがて、巡礼者を追い払っている仲間のもとへ1人が駆けて行き、なにやら話し合いが始まった。そうほどなくして、塔の周辺にいた男達がみなぞろぞろと馬車に向かって歩き出す様子が見られた。
「外に出ろ」
声をかけられて、彼は素直に応じた。
あれから熱は下がって落ち着いたものの、正直もう少し体を休めたいと思うところだ。彼もまた巡礼者と似たフードつきのケープをつけ、馬車からゆっくりとした動作で降りた。
足裏に感じる砂地の感触は久しぶりだと思える。
周囲の空気、風景、何もかもを素直に懐かしいと感じ、彼は目を細めて改めてブラギの塔を見つめた。
「では、いきましょうか」
誰に声をかけたわけでもないがそう呟き、彼は歩き出した。
護衛(というよりも、見張りといったほうが正しいだろう)兵が2人、同じようなケープを身にまとって彼の側から離れない。見る人間が見れば一目で「らしくない」とわかる動きで周囲をうかがっている。
数人の巡礼者とすれ違いながら、彼らはブラギの塔の目の前にたどり着いた。
「先ほどもお伝えしましたが・・・いかほどの時間がかかるかはわかりません。もし、長くお待たせすることになっても、恨まないでくださいね」
彼は苦笑をしながら2人に告げた。返答が難しいようで、2人は黙ったままだ。
まあ、あまり時間がかかれば、自分の体力がもつかわからないが・・・彼は心の中でそう呟いた。
3人はブラギの塔に足を踏み入れた。
石造りの老朽化が進んだ外見とは裏腹に、内部は思いのほか美しい状態が保たれている。塔の中には巡礼者達が祈りを捧げる大きな広間があり、そこには4、5人の巡礼者が膝をついてブラギ神に祈り続けているようだった。
円形の広間の床には、魔法陣のような見慣れない円や文字を組み合わせたものがびっしりと掘り込まれいたが、巡礼者達に長年踏まれ続けたおかげか、うっすらとしか見ることが出来ない。
入り口にあった石造りの薔薇窓とほとんど同じデザインの窓が、円形の広間の奥にある祭壇の後ろにもあった。
何もかも石造りの塔は、華美さがない。
本来、祈りを行う場所は、高さがあっても吹き抜けになっていて、階段などは必要がないと彼は思っていた。あるとしてもそれは建物そのものを管理するための階段であり、信者達とは無縁のものと考えられる。
また、それと同時に塔というものは、その高さを生かした用途であるべきだ、とも思う。
彼が幽閉されていた牢獄は、ある意味で正しい使用方法だと思えるし、海を照らし出す灯台だってそうだ。国境に並ぶ見張り塔なども正しい。
祈りを捧げるこの場所は、どんな身分のものも体が不自由なものも誰もかれも、まったく変わらず祈れなければいけない。だからこそ、入り口も高い場所にはなく、すぐに祈るための広間、祭壇がある。だというのにここはブラギの「塔」だ。
「神に近い場所」であるために、塔でなければいけなかったのか。一階の広間で祈るだけでは神に声は届かないというのか。そう考える以外に建築物の高さに意味はない。そして、それは同時に祈る人間の中で「選ばれた者」と「選ばれていない者」が存在することを明らかにしている。
彼は、これまた石造りの螺旋階段に足を運んだ。
ブラギの塔の最上階が特別な祈りの間なのだ。
幽閉されていた塔よりも高さはない。
では、あの牢獄がより神に近かったのかと思うと、無意識に自嘲気味の笑みが口元に浮かんでしまう。
巡礼者達の一部は、祈りの間に自分も入れるのではないかという一縷の望みを持ってこの螺旋階段を昇っていく。
そして、最上階で。
目の前に現れた扉が決して自分を迎え入れてくれないという事実にうな垂れて、とぼとぼと降りていくのだ。
己の分を知る巡礼者は、その階段に足をかけることすらおこがましいと思う、それほどまでに隔たった場所。
どれほど厚い信仰心があろうとも、決して乗り越えることが出来ない高い壁が「血」にあるのだ。
人間があとから作ったどれほどの身分というものがあっても。
そんなものはいつだって覆すことが出来るし、時代の流れと共にそれらは形を変えていく。
けれど、体内に流れる血は、そうはいかない。
元を辿っていけば誰も彼も同じ祖先を持つのだと思われるが、ことこれに関してはそう簡単な話ではない。
ブラギの血を引く者。それが、100年200年先になればどれほどの人数になるのかとも思われるが、少なくとも今の時点で確認できる人物はこの世にはきっと数えられる程度であり、その中で「ブラギの祈り」を成功させられる人物は彼1人と言える。
長い螺旋階段を上りきったところに小さな踊り場があり、そこに2人の巡礼者がうずくまって祈りを捧げていた。
目の前にある「祈りの間」の扉は当然のように閉ざされている。頑なに巡礼者達を拒み続けてきたであろうこの扉には、有無を言わさぬ神々しさがある、と彼は思った。
巡礼者をどけようと、2人の護衛が踏み出した時、彼は片手をあげてそれを制した。
「おやめなさい。気が済むまで、この場にいさせてあげなさい」
「しかし、あれでは祈りの間に入れない」
「急ぐ気持ちはわかりますが・・・わたしが祈りの間に入るところを見られても良いのですか。わたしが入るために、追い払ったと思われるのも、あまりよくないでしょう」
彼の言葉はもっともだった。
その場にいる巡礼者が立ち去ったのちに、誰にも見られずに彼が祈りの間に入ることが望ましいと彼は既におおよそのことがわかっていた。特にこういった場で腕づくで何かをしようとするのはよろしくない。必要以上に噂になるだろうし、それは護衛達の本意ではないはずだ。
彼が自分の都合だけでそういっているわけではないと、両脇の2人もそろそろ理解をしているようで、そのまま黙ってその場に控えるだけだ。
「・・・それにしても、いつまで祈っているつもりだ」
ぼそりと1人が呟いたとき、先にうずくまっていた巡礼者が体を起こした。
「もしや、あなた方は、祈りの間に入られるおつもりですか」
女性の声だ。
聞いたことがある声だと彼は思う。いや、聞いたことがあるような・・・ないような・・・。
あの長い幽閉生活の中、自分の記憶はどこかが混濁していて、過去をしまいこんでいる引出しをうまく開けることが出来ないような気がしていた。ふと一瞬だけ間があいて、彼は自分でその空白の時間に驚いてまばたきをする。
「いいえ。祈りの間はブラギの血族のみ許される場と、あなた方もご存知のはず」
彼は物思いを振り切って、穏やかにそう答えた。そして、質問を返した。
「あなた方は何故祈りの間の前に?」
「この中に入れないことは百も承知ではありますが、ここで祈ればよりいっそうブラギ神に届くのではないかと思いまして」
1人がそういえば、もう1人がむくりと体を起こした。
「あなた方もここにいらしたということは、同じお気持ちではないのですか?」
こちらもまた女性の声だ。そして、彼はまた聞いたことがあるような、そんな気がする。しかし、その声は幽閉されていたときに聞こえた女中の声にも似ている気がするし、定かではない。
彼の両脇を固めていた男達に向かって発せられたその質問に、どう返答すればよいものかと護衛兵は困惑し、顔を見合わせる。それへ、彼が助け舟を出した。
「ええ、もちろんです。我々もまた少しでも神の近くにあれ、と思いまして。聞こえるはずのない声が届くのではないかと、すがる思いで参ったのですよ」
思ったより演技派だな・・・男達は心の中でそう呟いた。なにはともあれ彼の言葉で助かったことに変わりはないが。
「わたし達以外に誰もここまではこないと思い、長居をしてしまいました。お邪魔になったことをお詫びいたします」
先に体を起こしていた女性が坐ったままで3人に向かって深々と頭を下げた。明らかに2人の護衛はほっとした様子で、警戒を弱めたことが空気を伝わってわかる。
「姉様、広間に戻りましょう」
「ええ、そうね、時間がまたかかるけれど・・・」
顔は見えないが会話から二人の女性が姉妹であると伺えた。後から体を起こした方が姉らしい。
「もし、差し支えなければ」
妹らしき人物が立ち上がって一歩前に進んだ。
「姉は片足を不自由にしておりまして。この階段を昇るにもかなりの時間がかかりましたが、降りるにも時間がかかりましょう。あなた方の祈りの邪魔になっては申し訳ありません。もし、出来ることでしたらば、どなたかお一方でも手を貸していただけると早く降りることが出来ると思うのですが・・・」
「それはお困りでしょう・・・」
彼はそう言ったが、彼自身もあまり人に手を貸せるような状態ではない。いや、元気だとしても人一人を支えながら階段を降りることは、彼には難しいことだったかもしれない。よくよくみると姉の方は彼とあまり身長差もないように見える。
男達は顔を見合わせた。
確かにこの女性二人を早くこの場から離れさせなければ、彼が祈りの間に入るところを観られてしまう。それは、ブラギの血をひく人間だと知らせてしまう行為だ。
仕方ない、とばかりに一人の男が姉と呼ばれる女性の脇に並び、手伝おうとした。
立ち上がるために彼女は妹と男の手を借りて「よいしょ」と小さく声をかけた。
彼女は階段の手すりに手を伸ばした。その時、懐に持っていたらしい小さい袋がケープの間から落ちた。
「ああ!」
ちゃりんちゃりん、と音をたてて、その袋の中から銅貨が出てきた。数はさほど多くは無いし、どれもこれも銅貨で、銀貨や金貨といった高額なものはない。それらは少量ながらも踊り場にちらばり、数枚は階段に落ちていってしまった。
「困ったことをしてくれたものだ」
姉に手を貸していないもう片方の護衛兵はそう言って舌打ちをした。
「申し訳ございません、申し訳・・・」
「わたしたちが拾いますから、あなたはお姉さんを下まで下ろしてあげてくれますか?」
姉に手を貸している護衛兵に彼はそう言った。護衛兵は頷いて先を急がせる。姉はしきりに謝りながらも、一歩一歩階段を下りていった。しかし、さすがに階段の途中に落ちてしまった銅貨を拾いながらは無理そうだ。
「わたしがあの銅貨を拾ってきてもよいでしょうか?」
彼はもう一人の護衛兵に言った。確かに彼は監視をされている身分であるから、ひょいひょいと自分がやりたいように動くわけにはいかない。ちゃりちゃりと音をたてて、妹が慌てて床にまた座り込んで銅貨を拾っている。
「いや、自分が」
この場にいろ、という意味だろう。そう言って護衛兵は自分で階段を下りていった。それを見て
「本当に申し訳ございません。この銅貨がなければ我々は帰ることもかないませぬ・・・」
と妹は言い、床に坐ったままで彼の手をそっととった。知らない人間に手を触れられたことに驚いて、彼は手をひっこめようとした。以前ならば、訪問先で「神父様」と慕われ、何かの恩恵を得ようと藁にもすがる思いで彼の手をとる人々もいただろうが・・・。
「いいえ、そんなにかしこまるような・・・」
その瞬間、彼は言葉を詰まらせて、床に坐っている巡礼者を見た。しかし、彼女は彼を見ることなくすっくと立ち上がって一礼をしたかと思ったら、何も言わずにそのまま階段に向かっていった。
その時。

しゃらん。

小さな、音がする。その音は、彼女の足元から聞こえる音だ。そして、その音は、彼の耳の奥で馴染んでしまっていた音にとてもよく似ていた。
その音は。
忘れるはずもない、その音に。
「・・・」
彼は呆然とその場に立ち尽くし、目を見開いた。妹はすでに階段を降り始め、中腰になって銅貨を拾っている男の側に立っていた。彼はその様子を見つめながら、先ほど彼女に触れられた手をぎゅっと握りしめた。
「申し訳ありません、あとはわたしが拾いますから」
銅貨を男から受け取って、妹は深深と一礼をした。銅貨を拾っていた男は彼のもとへ戻ろうと階段昇り始める。更に下からは、姉の方を助けていった男が戻ってきている音が聞こえる。
彼は慌てて自分の片手をそっと胸元に差し入れてもぞもぞと動いたあと、何事もなかったかのように男たちに微笑んだ。
「足が悪いのにここまで来られるとは、信仰深い方々ですね。あなた方も、手助け、ありがとうございます」
しかし、男たちは今の出来事をなんとも思わないようにぶっきらぼうに言った。
「邪魔者がいなくなったところで、中へ」
「あなた方は?」
「ここで、先ほどの二人のように祈っているふりでもしている」
「どれだけの時間がかかるか、わかりませんよ?」
それでもかまわない、と男たちは言う。仕方がない、とばかりに彼は小さく頷いた。
彼は、扉の前に立った。
最上階に設置されているためそう大きな扉ではないが、室内はそこそこの広さがあるように見える。
「本当に、あなたしか、入れないのか?」
男の一人がそう問い掛けた。
「いいですよ、ためしに、どうぞ」
彼は穏やかにそう言って男に譲った。
扉の取っ手は金属製だった。全体が石造りの建物なのに、そこだけ黒光りしていることに違和感を感じる。取っ手の上には聖職者達が持つ杖によくついている、丸く研磨された赤い石が飾られている。
「む・・」
男は取っ手をしっかり握って、押した。そして、引いた。そしてもう一度押して、引いた。次には体を扉にぴたりとつけて、体重をかけながら押してみた。
「・・・開かないな」
「どれ」
もう一人の男も、一通り同じ動作を繰り返した。しかし、扉は閉ざされたままびくともしない。
「本当に、開くのか、これは」
そういって息をフウ、とつく。
「では、いってまいりますね」
彼は男たちに何も答えないまま、取っ手に細い手を伸ばした。そして、赤い石に手をかざした瞬間。
「!!」
その石が突然発光し、そのまま彼を包んだ・・・ように男たちには見えた。
けれども。
扉は、開かない。まったく動かないまま、閉ざされたままだ。
まったく扉は開かなかったけれど。
「なんだ、何が起こったんだ!?」
「今の光は・・・」
その場から、音もなく彼の姿は消えていた。
慌てて男は、先ほど彼がそうしたように、取っ手の上についている赤い石に手をかざした。
しかし、何の変化もなく、扉はただただ目の前で閉ざされたままだった。


←Previous Next→



モドル