虚像の使い-6-


ブラギ神の声を聞くことは叶わなかった。そう言って彼が祈りの間を出てきたのは、ほんの半刻ほど後のことだった。
そう言われても、外で待っていた男たちはどうしてよいのかはわからない。
「もう一度、今晩。静かな夜の時間に連れてきていただけないでしょうか」
それに対して、男たちはさも胡散臭そうに彼をじろじろ見たが、やがて、どちらにしてもこのままでは帰れないのだし、と彼の申し出を受けた。正直、男たちは、本当に彼にブラギ神の声を聞く能力があるのかどうか、それすら疑っていた。しかし、彼らが疑おうと、疑わなかろうと、彼らの任務は「ブラギの塔に彼を連れて行って、ブラギ神からの神託を得て戻ってくる」ということだったのだし。そうであれば、彼の言葉を信じる以外、彼らが任務を遂行することは不可能なのだ。
夜まで休むといっても、また彼は馬車に乗せられて、ブラギの塔から離れた場所に移動をすることになった。
度重なる移動で彼の疲労はまたかさむとわかっているのだが、こればかりはどうしようもない。
村に行って休むことも考えられたが、ブラギの塔に来ている巡礼者達と同じ宿に泊まることは危ないと男たちは判断した。それは、彼らがブラギ神の神託を得るためここまで連れてきた男の身分を、他の人間に知られる可能性を考えてのことだった。
夜まで、少しでも体力を回復しよう。
彼はそう思いながら、動き出した馬車の中で横になって体を丸めた。
けれど、瞳を閉じても彼の体はうまく睡眠に入ってはくれなかった。
どくん、どくん、と鼓動が体全体に響くようだ。それは、発熱による体調不良のせいではないし、馬車の振動のせいでもない。
彼は手をのばして、首の後ろの襟元のあたりをごそごそとまさぐった。
折られた襟と後ろ身頃との間に、小さな紙切れが挟み込まれていた。
用意周到にも、彼が身につけている衣類には、ポケットといったものがまったくどこにも存在しなかったし、袋のようなものを手にすることも出来なかった。彼は、実質「自分のもの」を何一つもたず、何ひとつ持つための手段もない。
危険を感じて、あのままブラギの塔の祈りの間にその紙切れを置いて来てもよかった。いや、本来はそうするべきだったのだろう。
けれども彼は、どうしてもそれは出来なかった。
手のひらに収まるに十分すぎるほど小さくたたまれたその紙。
かさかさと音をたてないくらい、それはしわくちゃで湿気を含んでいたけれど、文字ははっきりと書かれていた。

「夜、ブラギの塔で待つ。男達は階段下で待たせる」

その字は、お世辞にも綺麗とはいえないものだった。それでも、「少しだけ、上手になりましたね」と彼だけは褒められる。
彼はその字をしばらく見つめてから、自分の胸にその紙切れを抱え込むようにして更に体を丸めた。
この、少し独特な字は。
あの平和だった雪の国で、わたしが、あの子に教えた字だ。
何度言っても直らなかった癖字が、こんなにも愛しく見えるなんて。

「神父さま、文字を教えて!」
屈託のない笑顔でシルヴィアは部屋に飛び込んできた。本を読んでいた彼は、読書を中断されたことに対して不快を感じるわけでもなく、彼女に椅子を勧めた。
「おや、あなたは字を書けるのではないですか」
すとん、と軽やかに椅子に坐って、テーブルを挟んで二人は向かい合わせになる。
「ちょっとだけよ。自分の名前が書けるだけ」
そういって少し恥ずかしそうに彼女は肩をすくめた。
「神父さまの名前も、書けないの」
「わたしの名前ですか。よくある名前ですよ」
「ね、教えて」
何故そんなに突然ねだるのか、とも思ったけれど、そういった頼みを彼は断る人間ではない。
近くにあった羽ペンとインク、便箋をとって、彼はさらさらと自分の名前を書いた。
「わたしも、綺麗な字ではないですが。これが、わたしの名前です」
「貸して、それ」
シルヴィアは彼が書いてくれた文字を手本にして、その下にぎこちない手つきで文字を書き出した。
「文字の基礎を教えてからにしましょうか」
そう彼が言うと、彼女は首をふって
「いいの、まずは神父さまの名前から。覚えたい」
何故そんなものを。
そう思ったけれど彼はそれを口には出さなかった。
根気強く彼女に文字を教え、姿勢を直して、5回6回と書くうちにようやく彼女は彼の名をすらすらと書くことが出来るようになった。
何故突然彼女がそんなことを言い出したのかは、それから数日後に理解することになった。
シルヴィアは、シレジア独特の編物の仕方をフュリーに教わって、あまり長くない襟巻きを彼のために編んでいたのだ。
それには、ぎこちない文字で彼の名が書いてあるだけの、それでも彼女の一所懸命が伝わるカードが添えられていた。

忘れるわけがない。あの文字を。
ぎこちなくペンを走らせる時の、彼女の真剣な瞳を。
「・・・シルヴィア」
声にそっと出してその名を呼べば、体の内側で、まるで毛が逆立つような不思議な感触を彼は感じた。
体の中に、違う熱が生まれる。愛しさで体はこんなに熱くなるものなのか。
涙を堪えたときと似た熱さを感じながら、彼はその紙をもう一度抱きしめた。
どうなってしまうのだろう、自分は。そして、どうなってしまうのか、彼女は。
不安で心が揺れるなんて、一体どれくらいぶりのことなのだろうか。
彼はその紙を再び襟元にしまいこんでから、わずかでも体力を回復しようと瞳を閉じた。

ブラギの塔は、昼夜関係なく巡礼者が訪れる。
夜は当然のように人が少ないが、時には昼から一昼夜祈り続ける者もいるという。
一時期は海賊が塔付近に現れていたこともあったが、ここ数年はその姿をひそめているようで、巡礼者達は夜でも安心してくることが出来るようになったらしい。
シルヴィアとデューは巡礼者のなりをしてブラギの塔を訪れた。
「神父さま、来るかなぁ」
目の前の塔に近付きながら、ぼそりとデューは呟く。手には小さなカンテラを持ち、フードを深く被っている。そのフードの下から絶え間なく周囲をうかがっているけれど、誰に見られてもそうとは勘付かれないだろう。
「来るわよ」
デューの後ろについて歩きながらシルヴィアは答えた。
「絶対、来る」
昼間、シルヴィアはブリギッドと共にブラギの塔に訪れ、そして祈りの間の前で彼を待ちつづけていた。昼と夜で同じ組み合わせで塔に行くのは目立って危険なことと、舟の扱いが長けているのはブリギッドだということで、デューとブリギッドは交代してやってきたわけだ。シルヴィアは昼間とは違う巡礼者服を着ているし、二人組み三人組の巡礼者も少なくはないから早々護衛兵達に気付かれることもないだろうと思う。
そして、先に祈りの間の前に待ち伏せ、彼らが助け出そうとしているクロード神父にデューが今着ている巡礼者服とフードつきケープを着せる。そしてデューはもう一枚下に重ねて着ている薄手のフードつきケープ姿になる。
うまくいくかどうかはわからない。
二階にあがれば祈りの間だけがあり、どこに隠れるわけにもいかない。
護衛兵が一度二階にあがってしまえば、そこにシルヴィアとデューしかいないことはすぐにばれてしまう。
そうすれば、運良く衣類を交換してシルヴィアとクロード神父がブラギの塔を出たとして、デューは置き去りになってしまうし、彼が階下に下りたとき、あるいは護衛兵が異変を感じて昇ってくれば、デューが犠牲になってしまうのだ。
それに、階下にいる護衛兵が力づくでフードを取って確認をしてくれば・・・。
勝算はなかった。
それに、何かがあって逃亡するにはデューとシルヴィアは非常にいいコンビではあったけれど、相手と交戦することになれば正直なところデューでは少しばかり腕が足らない。ブリギッドの援護があればまた違うのだけれど、逃亡用の舟を確実に確保しておくには誰かが舟に残らなければいけないし、シルヴィアを残したところで何かトラブルがあれば彼女一人で対処出来るとは思えない。
舟に向かう途中で追っ手を足止めするための罠を砂地に埋め込んである。暗闇でもデュー達にはその位置がわかるし、今日初めて仕掛けるような罠ではない。
2人はブラギの塔に入り、二階へと続く階段を昇り始めた。
いざというときのために備えて、小さな火薬袋をデューはいくつも懐に隠していた。階段を降りながら、火薬袋を落としていくイメージを思い描きつつ彼は一段ずつ昇る。建物を壊すわけにも、また、護衛兵をこの中で殺すわけにもいかない、と彼らは思っていたから、あくまでも足止め程度の威力だ。たとえ、彼らの足が速くとも、ブラギの塔から出てからはカンテラを使わずに走らなければならない。そのときに目が慣れるまでには時間がかかる。それだけの時間稼ぎでもしたい、と思ってのことだ。そしてまた、シルヴィアも、いざというときはこの階段を舞いながら降りるのだろうと考えていた。
一見、歩みの遅い巡礼者に見える二人だったが、その心中はまったく穏やかではなく、この石造りの階段で逃亡劇が繰り広げられる可能性を一歩一歩で考えながらの重い足取りだ。階段のところどころの壁に取り付けてある蜀台で、ろうそくの火がゆらゆらとゆらめく。夕方になると塔を管理している人間が火をつけるらしいのだが、途中からは火がついていたりついていなかったりとまばらだ。
ようやく二階に昇りきって2人は息をついた。
誰もいないことを確認しての安堵の息も混じっている。
「・・・デュー」
「うん」
「どきどきしてきた」
「うん。俺も、どきどきしてきた」
2人はフードの下からお互いをそっと見て、小さく笑いあった。
「まだ、合図はないよね」
「ないみたい」
祈りの間の前にあるほんの小さな踊り場には、二つの窓があった。どれも頭すら出せない大きさで、出入り出来るのは鳥くらいのものだ。
デューのつてであるこの地方の情報屋に頼み、グランベルからやってきた馬車から数人がブラギの塔に向かったら教えてくれるように言ってあった。情報屋は基本的に文書で自分達の情報を残さないものだが、紙の伝達が必要になったときに、フレイのような伝書鳥を飛ばす場合もある。それが夜の時も当然ある。彼らは夜行性の鳥も飼いならしているため、合図としてその鳥を飛ばす約束をしていた。
その鳥をこのブラギの塔に向けて飛ばすといってはいたものの、こんな高い場所に夜行性の鳥が飛んでこられるものだろうか?2人は半信半疑であったが・・・
「・・・シルヴィア、鳥が」
窓の外を見ていたデューが、声を潜めた。
「!」
ブラギの塔に向かって飛んでくる鳥がいた。
森の中に住む夜行性の鳥だ。それが、海辺であるこの辺りにいること自体が普通はおかしい−と知る者はそうそう多くはいないだろうが−ので、それが自分達が待っていた鳥だと彼らは瞬時に理解する。
もうすぐ、彼らが待っている男がこの塔に来る。
二度三度と塔の周囲をその鳥は転回して、そして去っていく。その姿を最後まで見届けると、デューは少しそわそわしはじめた。祈りの間の扉の装飾をじろじろ見たり、コンコンと叩いたり、取っ手を引いたり押したりと動き始めた。
「まいったな、まだどきどきする」
「もうちょっとだね」
「だね・・・」
そういってもなかなか落ち着かないデューは、開かない扉の取っ手を引っ張って背をそらして見せた。その姿を見て少しだけシルヴィアは笑い声を漏らす。
「ほんっとに開かないのね」
「うん。でも、なんだろ、これさぁ」
デューは興味深そうに扉を見つめる。
「閉まってる、っていう感じじゃないんだ、この扉」
「え?」
「閉まっているんじゃなくて・・・なんか、最初から、開かないような」
ふとデューがそう漏らした言葉に、シルヴィアは怪訝そうに眉を潜めた。
「ただの壁に、装飾されているような感じがするんだ、これ。これだけのサイズの石の扉開けるには、なんかこの取っ手の金属ってそこまで頑丈じゃないように見えるし・・・」
「でも、そこが出入り口なんでしょ」
「うん。そうなんだけどさ・・・自分で言うのもおかしいけど、俺の勘は悪くはないはずなんだけど。本当にここから神父さまは中に入るのかな」
「デュー、ちょっとあたしにもひっぱらせて」
「うん」
シルヴィアはデューがそうしていたように、扉についている取っ手を両手で握りしめ、力いっぱいぐいとひっぱった。それから押した。次には右に左にと横にスライドさせようとした。もちろんそれで動くはずもなく扉はびくともしない。
一通りの方向に動かした後、シルヴィアはため息を大きくついた。
「ふあーー!こんなことで力使ってちゃあ、いざってときに力が出なくなっちゃうわ」
「確かにね」
「大体、なんなのよ、この赤い石。こればっかりご大層に取っ手にくっつけちゃ・・・え・・・?きゃっ!!」
何の気なしにシルヴィアは、金属製の取っ手についている赤い石を握った。その瞬間。
「・・・シルヴィア!!」
突然、彼女の手の平の下で石が発光した。デューがわかったのは、たったそれだけのことだ。
眩しい。なんて光だ。一体何が。
そう彼が思った瞬間に。
「え・・・」
ようやく視界が戻ってきた時には、音も何もないままシルヴィアの姿がそこから忽然と消えてなくなってしまっていた。一瞬何が起きたのかデューには理解が出来ず、きょろきょろと周囲を見回す。馬鹿馬鹿しいと思いつつ、シルヴィアが床に倒れているのに見落としているのだろうか?と丁寧に床に目をやるほどだ。
「な・・・何が・・・何が、起きたんだ!?」
呟きながらデューは自分もまたその赤い石を握った。
この赤い石が光ったから、シルヴィアの姿が消えたのだ。それ以外に何も考えられない。今まで一緒にそこにいて、話をしていたのに、突然消えるなんてどう考えてもおかしい。
しかし、彼が何度その石を握ったりなでたりこすったりしても、もう発光をすることすらない。
「・・・これは」
デューはその石に顔を近づけ、それから、手に持ってきたカンテラを近づけた。
彼は今まで数々のお宝と呼ばれるものを見てきたし−若い頃のほとんどは、彼より年上の盗賊に上前をはねられる結果に終わっていたが−そういったものへの嗅覚が自分に備わっていると自負していた。
その自分が、感じるのだ。きっと、これは。
「・・・似ている・・・色は、多分違うけど、似ている石だ・・・」
最初に思い描いた人物の姿は。豊かな金髪で、穏やかで美しい笑みをたたえ、いつも優しかったあの人。今、彼が愛しているブリギッドと同じ血をもつ・・・
「あの時、エーディンさんに、俺があげた杖についていた石に、似てるよ・・・」
ワープの杖。
その名を知っていても、それ以上彼は言葉にすることが出来なかった。切れ切れに息を、言葉を呟くのは、抑えきれない動悸のせいだ。体温があがっていく。嫌な汗をかいている、と彼は自分でわかっていた。
どうしろというのだろう。どうしたらいいのだろう。彼はひどく動揺して、落ち着け、落ち着けと自分に向かって語りかけていた。叫びだしそうだった。シルヴィアの名を呼びながら、この狭い塔の中を走り回りそうだ。それを抑えることだけに彼は集中して、落ち着くまで何も考えないように努めた。
ただ一つ彼にわかったことがある。
やはり、この扉は、開かない扉なのだ。
開かない扉だけれど、それでも確かに祈りの間に通じているのだろう。

一体何がおこったのか、シルヴィアには理解できなかった。
そうだ、苛々しながら赤い石に触って、それから。
それから、その石が光って、まぶしいって思って・・・あたし、一体どうしたの。
気がつけば自分は白い床の上に立っていた。目が慣れて見えるようになった、と思った時にはもうここにいた。
円形の部屋。つるっとした素材の床は、部屋の中心から歩幅4,5歩分ごとに広くなる円周を持つ円がいくつも描かれていた。その端っこに自分は立ち尽くしている・・・。
ブラギの塔にある「祈りの間」とはこの部屋なのだ、と気付くまでに彼女はかなりの時間を要した。
壁もまたつるりとした薄い茶色い材質で出来ていて、天井は丸い形になっている。この外側が石造りなのだろうか?明らかに彼女達が見てきたブラギの塔の内部とは異なっていて、やたらとその異質さが気持ち悪いと感じる。
それから、入口は、出口は、とぐるりと辺りを見回したが、そんなものはどこにもなく思えた。
「なんだろう、あれ」
円の外側の一角に、祭壇のようなものがあった。そこに出口があるのでは、とシルヴィアは駆け寄って探し回った。
けれど、つるりとした床、つるりとした薄い茶色の壁、そのどの付近を触ろうと、祭壇の周辺でもまったく出入り口がみつからない。部屋の中全体はまるで夜明けが来る直前ような明るさだ。暗いのか明るいのかその中間で、問題なく周囲は見えるけれどどことなくもやがかかっているような。
「・・・何、ここ。蜀台とかないのに・・・ちゃんと光があって、見える」
そのことに気付き、ぞっとする。シルヴィアは壁をたたき始めた。
「デュー!デュー!外にいるの!?ねぇ。聞こえる!?」
ドンドン、と音を叩いて壁を叩いても、どれだけ叫んでも返事はない。
壁に耳をつけて反対側の物音を聞こうとしてもこれっぽっちも聞こえやしない。
閉じ込められた。
一通り壁をぐるりと一周叩き、最後には床を叩き、くたくたになってシルヴィアは床にへたりこんだ。
必死になってぐるぐると回っていたため、頬が上気して汗がでていた。気持ち悪い、と呟いて、彼女は巡礼者が着るフードつきのローブを脱ぎ、ぽいと床に投げ捨てた。丈の短いスカートからすらりとした足が覗く。一児の母とは思えない若々しい体型がおしげもなくさらされる薄い服。フードの中に無理矢理押さえつけていた髪もばらばらと落ちてきて、彼女が一番自分らしいと信じて疑わない、耳の上の高い位置で二つお団子を作った髪型に戻る。
「もうー!どういうことなの!?」
ここから出て戻らなくちゃ。
きっとデューはどうしていいやらと途方にくれているだろうし。
「ここが、祈りの間なのね。きっと。多分。うん。そうに違いない」
もう一度ぐるりと辺りを見回して、彼女は立ち上がった。そして、導かれるように床に描かれた円の中心部分に歩いていく。
「ここで、神父さまはお祈りするのかしら」
一番狭い円は確かに、人が1人ひざまずくのに丁度良い円周に思える。
シルヴィアはその円の中心に立った。
「あたしが祈ればいいのかしら?ここから出してください、って。うーん、違う違う、そんなの、どういう風に祈ればいいのかよくわからないもん」
シルヴィアは「うーん」と唸って、円の中心に立ったまま瞳を閉じ、手を胸元で組んだ。
「むずかしっ」
そのポーズはそれまで彼女が出会った人々の見様見真似だったけれど、どうも彼女にはしっくりこないらしい。手を胸元で組んで、どんな風に思えば「祈ってる」になるのだろう。

そうじゃない。わたしの祈りってものは、こんな形じゃない。

そう思った瞬間、シルヴィアの体の中で何かが動き出した。胸と呼ばれる辺りから、体中に駆け巡るこの熱はなんだろう。
胸を抑えてシルヴィアはぼんやりと感じた。
ああ、これは、「心」だ。この場所、あたしの胸のここいら辺にきっと心というものがあるんだ。それが、熱い。
ローブをはいで身軽になった体。無意識にシルヴィアは足を動かす。
いつも足首に巻いている鈴は置いてきたから音はしない。
けれど、彼女は自分でその鈴の音を頭の中で聞いているし、何の問題もありはしない。
勝手に体が動いた。顔をまっすぐ正面に向けて。息を吸って、吐いて、吸った次の瞬間。
腕が伸びて、爪先が白い床を蹴って。背をそらして頭を仰け反らせて、指先が奇妙な形を作り出した。
彼女の中で聞こえている音楽は、胸が苦しくなるような、悲しみの音だ。
何かに自分達は動かされている。それが神と呼ばれるものなのかどうかは本当はわからないけれど。
三年前、あのバーハラで自分は狂ったように踊っていた。
死への恐怖と、仲間を救いたい一心で踊りだしたけれど、最後には。
踊らなければ呼吸が出来ないようなそんな錯覚の中、いつまでもいつまでも踊っていたのだ。
生きるために。生かすために。持つ力の全てを使ってでも。

ねえ、神様とやら。教えてちょうだい。
あんなに神父さまは神様を信じているのに、どうして罪人として捕われなきゃいけなかったの。どうしてみんなはあんな風に死ななきゃいけなかったの。

みんなを少しでも助けるためにあたし踊っていたけど。

それは、何もできない神様が、あたしの体を使ってみんなを助けようとしたんじゃないかって、あの後であたし思ったの。

だけど助けられなかった。それは、あなたの力不足なの。あたしの力不足なの。

また、力が足りなくて、あたしは神父さまに会えないの?

あたしには。

神様の声なんて聞こえない。

それを許されているのは神父さまだけ。

なのに、それを許されたあの人をどうして助けてくれないの。

「どうしてなの・・・!!」

ぐるぐると回る、突然溢れ出てきたとめどない想いを抑えることが出来ずに、シルヴィアはただただ踊り続けた。
踊れば何か解決すると思ったわけではない。
ただ、彼女は「ここは祈る場所だ」と認識をして、そして「祈った」だけだ。
何を祈るのか、そんなことすら彼女にはわかっていなかった。
今の自分の最優先事項は、この祈りの間から出ることだったはずだ。けれど、突然体の内側から湧き上がった感情にそれは流され、まるで祈るためにこの場に来たように、彼女は「祈り」始めたのだ。
前後に、左右に、斜めに。
ステップを踏んで、時折高く跳躍をして。
小指と薬指だけを曲げた形で、肩から指先までの神経をぴりぴりと感じながらまっすぐ腕をあげる。
並行に並べた腕を大きく回して動かす間、彼女の頭もまたぐらぐらと一緒に円を描き、最後には腕を放り投げるように左斜め下に投げると同時に床を蹴って、まるで野生動物のようにしなやかに飛んで、そして着地をする。
とんとん、ととん、と足の爪先で床を鳴らすような小刻みなステップを踏んでる間、腕がまるで蛇のように動く。
ひとつひとつの動きには、あまり意味がない。きっと誰かに聞かれても彼女自身あまり答えられないだろう。
酒場で踊っている踊り子達のように、決められた振りで決められた曲で一斉に踊ることも彼女は嫌いではない。最初に踊りを覚えた時は1人ではなかったし。
けれどいつからだろう。「いつもと同じ楽しい踊りを踊るね!」と舞い始めて、ふと決まっていたはずの振り付けと違う動きにどうしてもなってしまったり、吟遊詩人の音楽に合わせて、誰に教わったわけでもないのに当たり前のように即興で踊れるようになってしまったのは。
色んな街で踊っては、色んな人たちに足止めをされた。初めはそれが嬉しかった。
多くの金を積まれて「この酒場で踊ってくれ」と懇願されたこともあった。
それを断わったために好きだった青年を傷つけられたこともあった。
自分の生きる喜びも悲しみもいつも舞いと共にあったし、舞っている瞬間は誰からも侵略されないものだと心から思う。
そして、自分のこの舞は誰のものでもなく、いつも自由だ。

誰のものでもなく?

「シルヴィア」

踊りながら彼女は、彼の言葉を思い出していた。

「あなただけは」

「しあわせに」

「わたしの、踊り子」

そう思うならば、その杖を振らないで。あたしとあなたの間を広い広い空間で隔てる、その杖を振らないで。
あたしだけを、救おうとしないで。
お願い、神父さま。
そうだ。
あたしが祈りたいのは、神様になんかじゃない。
あの日、あの時、あたしだけを遠くへと逃がした神父さまに。

「シルヴィア」

つ、と床から爪先が離れた。
と思ったら、彼女はバランスを崩して床に倒れて転がった。
踊っている最中に転ぶなんてことは、彼女にとっては珍しいことだ。
理由は、すぐにわかった。
どんな荒々しい感情に振り回されて踊ろうと、どれほど懸命に、陽気な気持ちを人々にわけようと踊っていても。
いつだって彼女の踊りをすぐに止めることが出来る、唯一の人。
その人の声は、穏やかであまり大きくないけれど、どんな時でも彼女の耳に届く。
シルヴィアは、体を起こして、息を荒くしたままで名前を呼んだ。
「神父さま。クロード、神父さま」
彼女がその名を呼ぶのがたどたどしいのは、自分の責任だ、と、その部屋に新しく現れた人物は心底思った。
その人物は、白い床の上をゆっくりとした歩調で彼女に近付いていく。
金髪を肩の辺りで切ってしまったその髪型は彼女にとっては初めて見るものだったし、三年の月日はもともと痩せていた彼を更に痩せさせていたけれど。
昼間会ったときは、フードの中からしか見ることが出来ず、よくわからなかった変化が今ならいやと言うほどわかるし、どれだけみてもそれを咎める人間はいない。きっと、同じように彼もまた、シルヴィアを上から下まで見ているに違いない。
どこから入ってきたの、とか、デューには会ったの、とか。
そんな言葉はひとつも彼女の喉元にすら浮かんでこなかった。
彼は、座り込んでいる彼女を立たせようとはせず、自分がその場に座って彼女と目線を合わせた。
あれだけ踊ったにも関わらず、自分が倒れこんだ場所が部屋の中心、床に描かれた円の中だということにシルヴィアは気付いていないまま、瞬きも出来ずに彼をみつめていた。
「大丈夫ですか。怪我はありませんか」
「神父さま・・・うん、大丈夫・・・」
「よかった・・・あなたは、本当に、素晴らしい踊り子ですね」
「神父さま・・・」
「その・・・あまり、字は、相変わらず癖字ですが・・・少し、上手になりましたね」
シルヴィアの両眼に涙が浮かんだ。
なんて呑気な人なの。ほんの少しそんな気持ちが生まれたけれど、彼の頬がわずかに上気しているのをシルヴィアは気づいた。
それは、階段をあがってきたからだろうか。
いいや、違う。彼の声は穏やかで、まったく息も乱れていないではないか。それに、この表情を知っている。
(あたし、知っている。この人は、今、喜んでいる・・・)
聞きたかった声。見たかった姿。
それが、今、目の前にある。
そして、触れたかった体に手を伸ばせば。
シルヴィアは前のめりになった。あの時。あの、悪夢のバーハラではかけよろうとしても、腕を伸ばそうとしても、彼女の体は言うことを聞かずにそれがかなわなかったけれど、今は、違う。
「神父さま。神父さま・・・」
「はい」
「神父さま」
「・・・ありがとう。来てくれて。会いに来てくださって」
床にひざをついた彼は、崩れるように彼の胸の中に飛び込んで来たシルヴィアを両腕で抱きとめた。
三年の牢獄生活で彼は痩せてはいたが、同じようにシルヴィアもまた、以前よりも更に痩せているということに彼は気付いた。背中に回した腕にそっと力を入れて、彼は穏やかに言った。
「ありがとう。わたしの望みを叶えてくださって」
願わくばあと一度だけ、彼女に会いたいと。
「それは、神にではなく、あなたに感謝しています。心から」
「神父さま、神父さま、あたし・・・」
「ええ」
「神父さまに、会いたかったの」
シルヴィアはしゃくりあげ、何度も何度も同じ言葉を繰り返した。あたし、神父さまに会いたかったの。あたし、神父さまに・・・。
クロード神父は腕の中のシルヴィアを抱きしめながら、幼い子供に言い聞かせるように、彼もまた繰り返した。
「わたしもですよ。わたしも、あなたに会いたかった。会いたかったんです。もう会わないと覚悟を決めたのに、それでもあなたに会いたかった」



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