虚像の使い-8-

「神父さま、ここを出たらあたし達と来てくれる?」
シルヴィアは少しばかり険しい目つきで−−まあ、睨んでいるわけだが−−クロードを見上げた。そういう表情はよろしくないですよ、とクロードは軽く彼女の肩をぽんぽんと叩く。
「・・・わたしをこの場に連れてきた彼らを、裏切るわけにはいかないと思っていたのですけれど・・・」
「それは、裏切りっていわないよ」
「でも」
「じゃあ、危険を冒して一緒に来てくれたデューやブリギッドはどうなるの。ねえ、デュー達、逃げてる間もずっとバルキリーの杖をもっていてくれたんだよ。神父さまに、いつか、渡すために」
シルヴィアはそう言って、クロードの手を自分の両手で覆った。
クロードはその手に、更にもう片方の手を重ねて、愛しげにさする。
彼は淡々と、この先の未来についての恐ろしい話を口にした。
「・・・わたしは、多分、このままアルヴィス卿のところに戻ったら、再度幽閉されるか、殺されることでしょう」
「・・・そうなのね?」
「わたしには、アルヴィス卿が知りたいことを明確に知る力は、今もこの先もないですから。そうであれば、彼の策略・・・まあ、それすらわたしは全てわかっているわけではないのですが、それを知り、隅々まで「見えるかもしれない」人間を生かすのは得策ではないですから」
シルヴィアは、クロードが言うことを半分くらいしか理解が出来ない。
わかることは。
クロードは先ほど「一生涯の祈りを終えた」と言った。
それは、この先、この祈りの間にきても、ブラギ神の声を聞くことがないということなのだろう。
けれど、アルヴィスは「何か」を知ろうとしている。
もし、その「何か」がクロードの頭の中に既に入っているのならば、何をしでかすのかは確かにわからない。
「・・・ねぇ、神父さま。ここに入るとき、赤い石が」
「シルヴィア」
「あれって、何」
クロードは少しばつが悪そうな表情で答えた。
「リワープの杖、というものをご存知ですか」
「わかんない。ワープの杖とは違うの?もし違うなら、神父さま、その杖ってもっていなかったよね?」
「あの石は、その力を増幅するものなのですが、最近発掘しにくくなっているようでね。あの杖があれば、あの時、もう少しみなを助けられたかもしれませんが・・・」
他にももごもごとクロードは視線をそらして独り言のように呟いたけれど、やがて再びシルヴィアを見て、小さな笑顔を見せた。そして、ついに彼は白状をした。
「・・・本当はね、わたしはここから1人で脱出出来たのですよ。アルヴィス卿が、この扉の前にある石を見たことがあれば、きっとわたしをここには送らなかったでしょうね」
「・・・やっぱり・・・どこかに、飛べる杖なのね」
飛べる、か。慣れた言葉を使うようになったものだな、とクロードは苦笑いを浮かべる。
リターンリングは、既に自分が行ったことがある場所に行くものだ。念じることに失敗をすれば、まったくその作用は発生しない。
あの当時、アイーダのもとへ行ったデューが身につけたリターンリングは、逃亡中に「飛ぶ」ことを願っても力を発動することなく不発に終わったのだとデューは話していた。それをシルヴィアは覚えている。
ワープの杖は、他者を遠くへ転移させるものだ。術者はその恩恵を受けるわけではない。
では、クロードが言う「リワープ」とはなんだろう?
「杖というものは、汎用的に使えるように加工がされています。けれど、あの石は違う。強く、思う場所へ、ブラギの子供達だけが行ける転移の石ですから。だからね。本当は・・・例えば。例えば、ですよ」
「うん」
「あなたが、ワープの杖を持ってきてくれれば、そして、一度でもわたしの牢獄を見たことさえあればね。イメージが作れますから・・・わたしが幽閉されていても、あなたはわたしに会いに来られますし、ワープの杖でわたしはあなたを返すことが出来るんですけどね。ただ、それではワープの杖がみつかってしまうでしょうから、確実ではないですね。第一、わたしの牢をあなたは知らないわけですから」
シルヴィアはさっと顔色を変えて、すがるように言った。

「やだ、神父さま・・・牢に戻るなんて言わないで。絶対。お願い」
たとえの話でも、聞きたくない。シルヴィアは今、彼をもう一度失う可能性すら考えたくないのだろう。また自分の短慮に半ば呆れつつ、クロードは彼女に謝った。
「ああ、すみません・・・あのね、シルヴィア」
「うん」
「ここに入るときに、デューには、戻るようにお願いをしておいたんですよ」
「え?」
「あなたがこの中に入ったと聞いたものでね。あなたとならば、逃げられる、あるいは、あの男達に勘付かれないままあなたをここから逃がすことが出来る。でも、デューも一緒となると・・・ね。彼も一緒に転移できるかわかりませんでしたし」
それは、デューはブラギの血筋ではないから、という意味だ。クロードは少し考えるようにゆっくりとした口調で続けた。
「シグルド一味の残党狩り、といったことをしていない兵士達みたいでしたから・・・傭兵といったらよいですかね。だから、デューが顔を出して階段を降りても、きっと怪しまないと思うんです。なんだか、赤毛を被っていたようですしね。むしろその方が、わたしと係わり合いがないとアピールできると思いますしね。ちゃんとデューがわたしのいいつけを守ってこの塔から出て行ってくれていれば・・・」
シルヴィアは少しの間クロードの顔を見て、ぽかんと口を開けていた。
こんなにたくさん、策略めいたことを口にするクロードを彼女は初めて見たと思う。案外細かいそういったことを考えられる人間なのだと初めて知ったような気がした。
その様子を見て、少しクロードは照れ臭そうに
「あの、ですね。一応ね。ブラギの塔に行くと決まってから・・・わたしも色々考えたんですよ。その・・・あなたなら、どこにいるだろうか。あなたがいそうなところに、転移できないだろうか。そこまでも、考えました。でも・・・わたしは駄目ですね。どこにあなたがいるかなんて、全然考えつかなかったんです。だから、あなたがここに来てくださって・・・本当によかった」
小さくクロードは微笑んだ。
その微笑みは、彼女がよく知っている、穏やかで優しくて、彼女をいつでも慈しんでくれていたあの人の笑顔だと心から思えた。ああ、会えたのだ。そう思うと、彼女の心にはじんわりと熱が広がり、幸せを噛み締めるのだった。

小さなカンテラの灯りが遠目に見えた。天候が崩れ、月の光も星の光もほとんどなくなった今、そのちらちらと揺れる灯りだけが足元の頼りになるだろう。
とはいえ、舟の近くまで火を灯し続けるのは危険だ。
自分なら、多分、あそこまで。
ブリギッドはそう思いながら、海の岩場の上で陸地を見ていた。そして、彼女の予想通りのあたりでその灯りはふっと消える。ああ、やはりあれはデューだ。しかし、今見えていた灯りは一つしかなかった。シルヴィアは?それとも、一つを置いてきたか、火がつかなくなったか、なんらかのトラブルがあったのだろうか。
あの場所からはあとは夜目でもデューならばこちらに辿り着けるだろう。
隠れ家から出してきた小舟を、夜の海の音を聞きながら見張りつつ、ブリギッドは目を細めて星を見た。
戻るのが、少しばかり早すぎる。
何かが起きたと考える方が当たりだろう。
腰に下げた剣に手をかけながら、辺りをうかがうことに彼女は集中した。
やがて、10分程後、彼女が予想した通りの人物の声が海の音に混じって聞こえてきた。
「会えたよ、会えた!」
デューの声だ。ようやく闇に紛れた彼の姿をどうにか確認して、ブリギッドは「シッ」と厳しくしかりつける。
「静かにおし。なんだい、何があったんだい」
ごつごつした岩場を軽く乗り越えてデューは彼女のもとにやってきた。
「はぁー〜、疲れた・・・ブリギッドさん、あのね」
岩場の目立たないところに腰をかけるデュー。その脇に跪いたブリギッドは、陸地の方を見るのに余念がない。
「手早く話して頂戴。脱線しないで」
もう、信用がないなぁ、と言いたくなったところだったが、デューは減らず口は叩かずに、それまでの経緯を説明した。シルヴィアと祈りの間の前であったこと。クロードとの再会、そして命じられたこと。
「なんだか、不思議な話だねぇ・・・どうもね、未だに、なんていうんだい、魔法とか杖とか・・・なんかこうすっきりしないものだね」
「正直、俺も」
そう言うとデューは肩をすくめて見せた。
「だけど、それは神父さまを信じてないってことじゃないんだ。使う人のことは信じてるよ、俺」
「そうね」
「だから、信じて待って、神父さまのいうとおりにしようって思ったんだ。シルヴィアを連れてきた俺がこんなこといっちゃいけないけど・・・もしも、神父さまが一緒に来たくないって言えば・・・俺は、ホラ、従うしかないかなーって・・・」
神妙にデューはそう言った。以前の彼ならば絶対、なんでもかんでも、神父さまを連れ戻す!と息巻いたに違いない。けれど、彼は随分と大人の道理もわかってしまったし、先ほどクロードと話したように、自分とブリギッド、そして子供達の命はクロードに救われたということを常に考えている。「そんなの、納得いかないよ!」と食いつく少年ではなくなってしまったのだ。
それが嬉しくも思う反面、悲しいとブリギッドは思う。その変化をデュー自身も気付いていないわけではない、それが更に辛く思えた。
決してそれは「あたしが好きなデューはそんな人間じゃなかった」などと言うべき部分ではない。彼が変わらずにはいられないほど、自分達の仲間が襲われたあの悲しい出来事は、彼の心を強く痛めたのだ。
ブリギッドは小さく笑みを作った。その表情がデューに見えているかどうかは謎だが、彼に見せたくて作った笑みではない。ただただ自然に口元がほころんだだけだ。彼は少しばかり変わってしまった。けれど、それは悪いことではない。そして、彼を変わらずに愛しいと思う自分の気持ちに、こんな時でも笑みがこぼれたのだ。
「デューなら、そう言うと思ってたよ。あたしだったらそういうわけにはいかなかったけど。行ったのがデューで正解みたいね」
「え?」
「・・・女だからだと思うの。いくら、命を助けてもらった恩があっても、クロード神父がシルヴィアの気持ちを踏みにじるようなことをしたら・・・あたしは許せないからさ」
「そりゃそうだよ、それはわかってるって!」
心外だ、とばかりにデューは叫んだ。ブリギッドはそれを「しーっ」とたしなめる。
「でも、そんなこと、神父さまはしないよ。絶対」
「・・・うん」
デューはにやりと笑って、茶化すような声でブリギッドに言った。
「第一、ブラギの塔で賭けをしたら、神父さまより強いヤツなんか、絶対いないって」
思いもよらない言葉に不意をつかれて、ブリギッドはたまらず笑い声をあげてしまった。
「・・・あっははは!そりゃそうだ!」
「ブリギッドさん、声、大きいよっ」
「あは、は、ごめん、ごめん・・・そりゃそうだ。デューの方が、色々とよくわかっているようだ。失礼なことを言ったわ、ごめんね」
「いいよう。そんなこと。失礼でもなんでもないさ」
そう言ってデューはブリギッドに体を寄せて、軽くその肩を抱いた。
辺りをうかがいながらなので、心からの抱擁、というわけにはいかないのが少しばかり残念ではあるが。
しかし、ブリギッドの方も、彼の腕のぬくもりを感じながらも周囲への注意を怠らずに緊張を解いていなかった。
そういう状態だとわかっていても、デューはブリギッドの肩を抱きたかったのだろうし、ブリギッドもそれを望んでいたのだろう。
時々、無性に不安になる。
もし、自分達がクロードとシルヴィアのように離れ離れになったら。
考えたくない不吉なことではあるが、考えずにいられるほどに彼らも能天気ではない。
だから。
離れても、再会できるのだと。
また共に暮らせる日がこうやってくるのだと。
クロードとシルヴィアに、願いを託す気持ちが少しばかり彼らにはある。
波の音。
ざざ、と打ち寄せる音が聞こえては、どこかで岩にうちつけられて割れる音が続く。繰り返し繰り返し、毎回同じようにも違うようにも聞こえる音。
闇の中でふと気を抜けば、自分達しかこの世界にはいないのではないか、という錯覚をもたらす、夜の海。
海というものには、いつもいつも、そうだ。
あまりに心もとない小さな自分達を痛感させられ、繰り返し繰り返しその無力さを思い知らされる、とブリギッドは思う。
どれだけの間、彼らは身を寄せていただろうか。
息を潜めて、神経を張りつめて、海の音に飲まれないように、飲まれないように。お互いの体温を感じあいながら、彼らはかなりの間そこでじっと待ち続けた。
そして。
「・・・ん?」
最初に反応をしたのはブリギッドだった。
「え?」
「・・・なんだか、今、ぞくっときた」
「え?何だい?ブリギッドさん」
ブリギッドは、自分達が今から乗って逃亡するはずの小舟に目をやった。
夜の暗闇に慣れた目には、波の動きも見える。波が荒くない場所でゆらゆらとゆれる小舟。
そこに、人影が突然現れた。暗闇の中でもわかる、闇よりも更に黒い塊が二つ。
「わあ、真っ暗!」
女性の声が聞こえた。
「ここは、海の上ではないですか・・・!わっと・・・ふ、舟ですね?」
もう1人の声は男性のものだ。よろけたように黒い影が動き、となりの影がそれを支える。
「あっ、気をつけないと、転んじゃうよ!・・・目が慣れるまでじっとしてて」
「そうします・・・牢の中は夜は真っ暗でしたから、以前よりかなり見えるようになりましたよ」
ブリギッドとデューは驚きで叫びだしたくなるのをこらえながら、岩場を急いで降りていき、ブラギの塔方面が見えないほどに岩に隠れている小舟の側に近寄った。
「2人共、ただいま!ねぇ、デュー、神父さまとね、あの赤い石でここに来たの!」
舟の上に立ったまま、シルヴィアは明るくブリギッドとデューに手をふった。
デューは軽くそれに手を振り返したが、視線はシルヴィアではなく、もう1人の人影−クロードに注がれていた。
そしてまた、ブリギッドも。
2人の視線に、ようやく暗闇に慣れたクロードは気付いた。いささか呑気に思える口調で、彼は静かに2人に声をかける。
「遅くなりました。迎えに来てくださって、ありがとうございます」
それにはこくりと一度頷いただけで、ブリギッドは何も答えない。
彼女は手をそっと差し出した。その手を、クロードはしっかりと握り締める。
「・・・行きましょう、神父さま。話は、後から出来る」
シルヴィアの言葉だけでは、どうやってここに彼らが突然現れたのかはよくわからなかったが、事情はさておき、今すぐにやらなければいけないことがある。
デューの名を一度呼んでから、ブリギッドは軽い身のこなしで舟に乗った。もうここにいる必要はない。急がないと。そういう意味だと気付いてデューはあわてて小舟を繋ぐ縄をほどき、岩と岩の間に差し込んだ杭が目立たぬように、近くに集めておいた小さめな岩いくつかでカモフラージュをしてから、ブリギッドに倣って舟に乗った。追っ手が探索しても、すぐにはばれないように、という配慮だ。
小舟は5,6人が乗ればいっぱいになるほどの大きさのもので、後ろに櫓(ろ)が縄で舟についている。
「出るよ」
の一声をかけただけで、誰からの返事も待たずにブリギッドは舟の後ろに行って櫓を取り、力を入れる。水がざざっと揺れる音が舟の近くで大きく聞こえ出す。海賊育ちは伊達ではないブリギッドが漕ぐ舟が、夜の闇に紛れて短い航海を始めた。
「デュー、まだ気を抜かずに辺りを見ていてくれるかい」
「あいよ」
「神父さまは、身を伏せておいた方がいいかもしれない。酔うかもしれないけど、そう長くはならないから我慢しておくれ」
辺りを見ながら櫓を漕ぐため、ブリギッドは視線を合わせずにクロードに言った。少しばかりのそっけなさをクロードは感じたけれど、何も言わずに素直に返事をした。
「わかりました」
ごそごそと彼は大人しく体を出来るだけ横たえた。座っているシルヴィアの足元に頭がくる体勢になったところを、上から薄汚い毛布を被せられる。
「神父さま」
足元に柔らかい体を折り曲げ、そっと小声でシルヴィアは囁いた。
「はい」
「内緒よ」
「え?」
「ブリギッド、涙ぐんでいるの」
クロードはそれを聞き、目を見開いた。体を起こそうとするが、優しくシルヴィアはそれを手で抑えた。それは、余計なことなのだ。
「見ないであげて。色んなこと、ブリギッドも考えていたから。一休みしたら、話を聞いてあげてくれる?」
「・・・」
言葉を出さずに頷いて、クロードは毛布の中で瞳を閉じた。この前からずっとこうやって横たわって移動する何かに揺られている気がする。
けれど、今、彼を包んでいるのはがたがたという不快な音と振動ではなく、体があまり知らない、波の歌だ。
一気に緊張の糸が解けたのか、彼はそのまま波の音に抱かれたままに深い眠りにと落ちていく。その様子を愛しげにシルヴィアは黙ったままみつめ、何度も何度も口付けたい衝動を必死に抑え続けていた。
ブリギッドはただ黙々と櫓を漕ぎ、星があまり見えない夜でも方角を間違えずに進んでいく。
不思議な緊張感が3人を包んでいた。
少しでも早く隠れ家に着き、少しでも早く朝が来てくれれば。これが夢ではないとわからせて欲しい。
クロード神父が消えてしまわないように。本当に再会出来たのだと、もっともっと実感させて欲しい。
そんな彼らの願いを乗せたまま舟はゆらりゆらりと動き続ける。
そっと陸地を目で追えば、彼らの運命を大きく揺るがしたブラギの塔の姿は、ついに見えなくなっていた。


事の顛末を一通り聞いたアルヴィスは、眉間に皺を寄せた。その苦々しい表情のままで、クロード神父探索の続行を命じ、兵士を執務室から退出させた。
大体のことはわかる、と思う。
彼は見たことがないけれど、ブラギの塔の祈りの間に入るには、ブラギの血族が石に秘めた力を発動するのだと聞いたことがあった。その力をそんな風に使えるとは思っていなかったが、報告から推測すると、それしか考えられない。クロードは、石の力を発動して逃げたのだろう。あるいは、返事をしないだけで、まだ祈りの間で祈っているのか。どちらかだ。どちらかだとしても、クロードが祈りの間に入ってから一晩がたち、朝が来て昼が来て、また夜が来て。その間なんの音沙汰のないまま祈れるはずがない。後者は現実的な話ではない。
とはいえ、あの男は、たとえ逃げられるとしても、そこで逃げるような男ではない。
アルヴィスはそう思っていたし、実際クロードにそう言えば「そうかもしれません」と素直に認めるに違いない。
では・・・。
なるほど、シグルド一味の残党がまだまだこの付近にはいるらしい。彼の心を動かすような。
レンスターにノディオンの姫ラケシスが逃亡したこと、シレジアにフリージ公女ティルテュが身を寄せていたこと、レヴィン王子の子供が生まれたことを彼は把握していたけれど。
(アゼルか?いや、アゼル1人でどうこうあがいたところで、やつには何一つできやしない)
ならば、答えはひとつだ。
あの時、アイーダが逃した、イチイバル継承者と言われるブリギッド公女と、その連れらしき少年だろう。
彼らもまたレンスター方面に逃走したとの情報が入っていたが、グランベルに戻ってきたか。
その2人であれば、合点がいく。そして、これはなかなかいい情報だ、と彼は考え込んだ。
「イチイバルを、取り戻した方が良いのかもしれないな・・・」
アイーダの話では、三年前のあの時、逃走したブリギッド公女は身ごもっていたという。ならば、既にイチイバル継承の新たな血筋が生まれていてもおかしくない。
そして、3年経ったとはいえ、その頃の子供であれば今はどんなに大きくとも3歳未満。
危険な旅に連れまわせる年齢ではない。
「信頼出来る人間に預けたか、孤児院か・・・教会のような場所か・・・」
いずれにせよ、クロードが東の塔から出たことを知るためには、この付近で動向をうかがっていたに違いない。様様なパズルのピースが埋まっていく感覚に、アルヴィスはなんだかおかしくなって小さく笑い声をもらした。
上質な革張りの椅子の背にもたれ、独り言をぼそぼそと呟く。彼がこのように言葉に出すことは大層珍しい。
「まいったな。煩わしいことは嫌いだが・・・なかなかいつまでも楽しませてくれるものだ」
(イチイバルを手に入れるか。継承者を捕獲するか。それとも、ブリギッド公女を捕獲するか。ブリギッドは何の役に立つわけでもない。シグルド軍の残党だ。が、もし継承者が生まれていなかった場合は、イチイバルと共に手にいれたいものだな・・・)
もしも、何故かと問われれば。
クロードの力で、彼が確認したかった、3年4年・・・いや、もしかしたら、10年以上未来のために。
結局クロードはアルヴィスのもとに戻らなかったが、彼にとってはそれでも充分だった。
もし、自分が、グランベルが、なんらかの悪しき方向へと動く未来を見たならば、クロードはきっと戻ってきて自分を諌めるだろう。
このまま、皇帝として君臨し、栄華を極めるとしたら。それもまた、クロードは戻ってきて、犠牲の上で成り立つその栄光について、彼を説こうとするだろう。神父らしくもなく罵るかもしれない。
そして、もしも。
アルヴィスが今最も畏れていることが起きるとすれば。それをクロードが見たとすればやはり彼は戻ってきて彼に告げるに違いない。
「アルヴィス卿。どんなに黙っていても、いつの日か、あなたが愛する女性は知る日が来ますよ。あなたが知ってしまったように。あなたと彼女は・・・」
と。
クロードは、たとえアルヴィスを嫌っていようが嫌っていまいが、「見た」「知った」以上は必ず戻ってくるとアルヴィスは思っていた。それは今でも間違っていないと思う。そういう人間だから、こういうやり方で牢から出した。
そして今、クロードが戻らないと言うことは。
彼には未来が見えていない、あるいは、アルヴィスに何かを伝えるような必要がない未来しか見えていないのだろう。
初めからそれは考えていたことだ。
ならば、もはやクロードの力そのものには用事はない。
あの男は、声高にアルヴィスを糾弾するような柄でもないし、既にグランベルでは死亡したことになっている男だ。ただ気がかりなのは、彼が使うことが出来る蘇生の力を持つバルキリーの杖、そして新たなブラギの血筋が遠くで生まれたら・・・ということだ。
「聞きたいことを教えてくれぬ神の声なぞ、必要ない。馬鹿馬鹿しい・・・」
実際に、レプトールとランゴバルトの企てを知っても、それ以外の更に深い深い謀略を、あの神父は見抜いていなかったではないか。
それに、もし必要があって捕らえようと思えば、間違いなくそうそう難しくなく探せるに違いないのだし。
と、その時、ノックの音が聞こえた。
控えめで、けれど澄んだ音。
同じノックでも、人によってこうも音色が違うのか、と彼が初めて気付いた、柔らかな女性の手が心を込めて叩くその音が彼は好きだった。
「・・・ディアドラか。入れ」
きい、と控えめな音をたてて、執務室の扉が開いた。長く柔らかな銀の髪に、薄紫色の瞳。ドレープが美しい一枚布のドレスを身につけ、無駄な装飾品をまったく身につけていない清楚な姿。アルヴィスが誰よりも大切に、誰よりも愛している女性が姿を現した。彼女は「入れ」と言われても、必ず次の一言を言わずには室内に踏み込まない。
「アルヴィス様。お仕事のお邪魔にはなりませんか?」
「ああ、大丈夫だ。ちょうど今一息ついていたところだ」
ほっと胸をなでおろす、安堵の表情。一歩だけ室内に踏み入れ、お伺いをする。
「よかった。もしよければ、お茶をお持ちしますので、ご一緒にいかがですか?」
「そうだな・・・ああ、いや、わたしがそちらに行こう。ユリウスは眠っているのか。乳母のところにいるのか」
「つい今眠ったところです。では、お待ちしておりますね」
控えめな笑みを見せてディアドラは一礼すると部屋から出て行った。
ぱたりと閉じた扉をアルヴィスはまばたきをせずに見つめていた。
彼は、この三年で、知らなかった真実を知ってしまった。そして、それを、自分が愛する妻が知ることを畏れている。
(わかっている。わたしは、彼女のことになると、神とやらの声すら信じたくなる、おおうつけものだ)
もっと具体的にクロード神父に言えば、きっとブラギ神も答えてくれたのだろう、と彼は思う。
そう。シグルドとその父バイロン卿の無罪をクロード神父が確認をしたときのように。
−−わたしの妻は、わたしと自分が、異母兄妹であると知ってしまうのだろうか−−
そんなことを口にしてクロードに告げてまでも、神の声を聞きたいとは到底思えなかった。
アルヴィスは椅子から立ち上がり、扉に近付いた。
取っ手を握って開けると、当たり前のように通廊に繋がる扉が開き、当たり前のように床の感触を足底に感じられる。
ほんの一瞬。
足元にぽっかりと穴があき、そこに吸い込まれるような感触に、アルヴィスは身を震わせ、鳥肌を立てた。
「・・・」
一呼吸をおいて、アルヴィスは顔をしかめ、その感触を振り払うように荒々しく歩き出した。
神の声を聞く男。それを、この時期に手元から失ったことを、アルヴィス自身が想像も出来ない未来に後悔をすることになる。が、当然今の彼は知る由もない。
そして。
ブラギの塔がもう一度、あの神父を受け入れて。
真に優れた代弁者を手に入れることになるのも、もう少しばかり後の話となるのだった。

Fin

←Previous
 



モドル