黒い夢-1-


夜の海に、何度漕ぎ出したことだろう。ふとそんな疑問を持っても、彼らの誰からも明確な数字はすぐに出てこない。
彼らにとって必要なことは日数ではなく、どれほど遠くへ移動したか、ただそれだけのことだったからだ。
ゆらゆらと波にゆられながら、ブリギッドは毎晩毎晩力強く櫓を漕ぎ続けていた。
弓使いである彼女はもともと腕力には自信があったし、他の誰に教えて漕がせるよりも自分、一人で漕ぎ続ける方が間違いないと割り切っていた。
彼らは日が落ちる頃にそっと入り江から出て、日が昇るよりも早く次の隠れ場所に移動をする。時には日が落ちてなくとも、天気が悪い薄曇りの夕方ならば大丈夫と判断して、早く出発する日もあった。
夜半までは共にシルヴィアが起きているが、月が真上よりも傾いた頃からはデューが起きる。それが、彼らの逃避行のパターンだった。
ブラギの塔からクロード神父を連れ出すことに成功した三人は、ブリギッドの過去の庭である海に漕ぎ出し、ぐるりと西海岸沿いに小舟での決死の航海を毎晩繰り返していた。
過去のブリギッドはこの界隈の海賊の頭だった。
近海は彼女にとって馴染みの場所だったし、もちろんあちこちにちょっとした隠れ家も――とはいっても、それは本当の意味の家でもなく、岩に囲まれた入り江の洞窟ばかりだが――ある。
数年前にシグルド軍がアグストリアより北上した時、ブリギッドが仕切っていた海賊達が反乱を起こした。その際に彼女の手下達はほぼ一掃され、この地から海賊はいなくなったようだ。
そのおかげで、ブリギッドが知っていたその隠れ家達は、誰も使うことがないまま、隠れる主もいないまま放置された。
「とはいっても、小舟で行ける範囲だから、そうそう遠くまではないんだよ。10日やそこらは、ゆっくりと夜の移動で南下して隠れ場所には困らないけど・・・問題は、その先だね」
「完全に陸の移動になったら・・・だよね」
ブリギッドとデューはあれこれと計画を練っていた。
この付近の地理にシルヴィアはあまり明るくない。
ただ、彼らからの要請があれば、自分が出来ることならばなんでもやる、と彼女は決めていた。
一晩で、舟が移動出来る時間は短い。
シルヴィアは舟の上で眠って、朝は早くから起き、「今日の隠れ家」付近を探索する役割をかってでた。
午前中はブリギッドをゆっくりと眠らせたかったし、体力が低下しているクロードには海の移動そのものがかなりの負担だ。
一番不規則に起きたり寝たりしているデューにこれ以上負担をかけないように、とシルヴィアは出来る限りのことを自分に課した。
あまり得意ではなかったけれど、ブリギッドが作った仕掛で獲れる魚介類で料理を作る術も教わった。
それから、入り江に近いところに住んでいる人々の様子を伺いにいったり、グランベルの追っ手にばれないように変装しながら、必要なものを入手することに日々の時間を費やした。
つらいとは思わなかった。
相変わらずクロードの体調は思わしくなく、4人全員が起きている時間でも、あまり多くのことを話せない状態だったが、それでも彼が今自分の隣にいる。それだけで、シルヴィアは自分が何でも出来るような気がした。
残してきた娘リーンのことを考えれば余計に彼女には力が入り、それと共に「一人でもリーンを育ててきたんだもの」という思いが湧きあがり、少しでもみんなの力になりたいと強く願った。
さすがに舟を漕ぐことは出来ない。
踊りを踊って路銀を稼ぐことも、今は控えなければいけない。
もどかしさは確かにあったけれど、こんな風に「仲間」のことを考えて何かをしようと思える日がまた来るなんて。
その、少しばかり気恥ずかしさのある充実感は、彼女の心の奥底に満ちていた。
そして、多分ブリギッドにも、デューにも、それがあるのだろうと彼女は気付いていた。
人のための苦労は、苦労ではない。
それは、喜びなのだ。
自分と血の繋がっていない人間のために、本気で何かをしようと思うことはエゴだとも知っていたけれど、それを否定しようとは彼女は思わない。
命を賭けた逃避行だと知りながらも、毎日疲労が重なってはいたけれど、それでも、なんと今の自分は幸せなのかとシルヴィアは感じていた。


いつも通り、ごつごつとした岩に囲まれた入り江の洞窟に舟は入っていった。
もうすぐ、朝が来る。
昨日は大雨が降ってしまったため、移動が出来なかった。
今晩は少し波が荒かったけれど、これ以上待つわけにもいかずにブリギッドは無理をした。
何故か彼女は一大決心をしたように、いつもより早く、月が昇る時間より前に夕闇に紛れて舟を出した。それ自体が賭けだったのだが、更に波は荒くて月明かりも薄く、かなり誰もが不安に思う夜だった。
波が荒い夜は、ブリギッドはもちろん、誰もが気を使う。
三年間塔の上で拘束されていたクロードは、馬車でも船でもなんでも、体が揺らされることから遠ざかりすぎていた。それ故に、この移動が始まってから何度も嘔吐を繰り返している。
その痛ましい様子は見ている方がつらく、彼が舟に乗る直前ぐらいに眠くなるように、と誰もが祈っていた。
ここ数日は、デューが手に入れた眠りを誘導する香を焚いたりもした。しかし、それもあまり使いすぎると依存癖がつくという一種の麻薬らしく、「どうしようもない時にだけ使うように」とデューはシルヴィアに託した。
西海岸を南下して陸にあがり、どういう形だろうが宿屋で一晩二晩休めれば、それはかなりクロードにとってありがたいことなのだと誰もが考えていた。だから、ブリギッドは無理をして、波が荒いと知りつつも漕ぎ出したのだろうと皆は思っていた。
「神父様、大丈夫かい?俺に掴まって」
「ええ・・・本当に、あなた方には、迷惑を」
「いいよいいよ、ほんと。そういうの、なしにしよう」
夜半過ぎから起きていたデューは、舟が入り江につくとクロードに肩を貸した。
ブリギッドに起こされて、シルヴィアは飛び上がって舟から降りる。手早く毛布を舟から下ろしてクロードが横になれる場所を作るのが、シルヴィアの朝一番の仕事だ。
その間にブリギッドは小舟に括りつけておいた仕掛を確認して、短い航海の最中にとれた小さな魚介類を取り出す。そして、その晩の航海のために仕掛の手入れをする。それが、彼女の朝の最後の仕事だ。
「ブリギッド、どうする?食べてから寝る?先に寝る?いつもより早い時間みたいだけど・・・」
「うん、今日はまだやらなきゃいけないことがあるんだ。それに、食事も、ここじゃあなくて・・・」
「え?」
ブリギッドは岩場の奥に歩いていって、毛布の上に横たわっているクロードの傍まで近づいた。
「ブリギッド?」
「神父さん、ちょいとごめんよ」
そう言ってから、岩壁をあれこれ触って、ブリギッドは何かを探す素振りを見せる。
と、岩の一箇所が突然ぼこんとへこみ、人の腕が一本入るだけの隙間が突然出来た。
「ああ、あったあった」
「ブリギッド、それ・・・」
「無理して危ない思いをしてこの入り江に来たのには、それなりに理由があってね・・・期待させたくなかったから黙ってたんだけど」
開いた穴に腕を差し込んで、ブリギッドは難しい顔で何かを探っているようだ。
シルヴィアはぽかんと口を大きく開けたままその様子を見ていた。クロードも半身を自力で起こして、ことの成り行きを見守っている。唯一、デューだけが舟から荷を下ろして動いていた。
「よいしょ!」
ブリギッドは声にあわせて、重い何かを引く動きを見せた。
すると、その岩から少し離れた岩壁が、がくんと突然大きくまたへこむ。ブリギッドは一同ににやっと笑みを見せて
「ここの岩、扉に岩を貼り付けてあるんだよ」
と説明をしながら、へこんだ岩壁を更に自分の手で押した。そうすると、奥に一度沈んだ岩壁は横にスライドして、奥に隠していた狭い通路の姿を皆に見せる。
「う・・・わあーー!何、それ!でも、ほんと、言われないと・・・奥だから光が届かなくて見えないし、これ、バレないよね」
「うん。ここだけでもかなり見つけにくい場所で隠れ家になるんだけど、見つけにくいってことは、ここから陸にもあがりにくいってことだろう?だからこうやって、通路を作ったらしいんだ。この先には、すごいちっちゃいけど小屋があってね。谷間の岩場と岩場の間だから、鳥にでもならなきゃ見つけられないような場所さ。そこなら、海水じゃない水も汲める小さな井戸が小屋の中にあってね・・・ひとまず、すぐに移動するのは神父様にはつらいだろうから、もう一眠りしておくれ。あたしとデューが様子を見てくるから」
ブリギッドの話の内容で、最も大切なものは「海水以外の水が汲める」ことだった。
それは、顔を洗ったり髪を洗ったりといった、人並みのことが出来るということだ。
ブリギッドは更に説明を続けた。
「この辺りは、ぽつぽつと民家があるけど、あんまりグランベルをよく思っていないみたいだから、もしグランベル兵が来ていてもそうそう密告はしないと思う。だから、昼間もいつもよりちょっと動いても良いんじゃないかなって思うの」
「へえ、そうなの」
「というわけで、小屋の様子を見て大丈夫そうならそっちに移動して・・・大体歩いて半刻くらいの距離だから、神父様となら一刻ぐらいかな。そんで、一眠りして起きたら情報収集も出来ると思う」
そう言いながら、後ろに一つに縛っていた髪を下ろし、首をぐるりとまわすブリギッド。
情報収集はデューとシルヴィアがいつも昼間動いてしていることだ。ブリギッドは神経も体力も使う夜に備えて、あまり昼間は動き回らず、二人がいない間クロードの護衛をしている。
「小屋の様子を見てくるまで、シルヴィアにここを頼んでもいいかい?」
「えっ、い、いいけど、二人共疲れてるでしょ?それに、あたし、剣も下手っぴだし・・・」
「大丈夫よ。ここは、今までの洞窟ん中じゃあ、一番わかりづらい所だから。ここなら、かなり気を楽に出来ると思ってさ・・・それもあって、無理してでも早くここに来たかったのよ。小屋が使えないようになってても、ここは今までのところよりも過ごしやすいからね・・・神父様にゃあ、ちょいと酷だったけど。悪かったね」
そのブリギッドの言葉を聞き、洞窟の奥で毛布に横たわったクロードは微笑を浮かべた。
「いえ。迷惑をおかけてしているのはこちらなのですし。それに、そういう話ならば、その小屋が使えれば今日は少しは羽根を伸ばせるのでしょう?特に、あなたは最近昼夜逆転なさっているのだし、日の光にあたる良い機会ですね」
「日の光にあたってないのは、神父様の方じゃない?」
ブリギッドはそう言って苦笑を見せたが、クロードも負けじと苦笑を返した。
「わたしの方は、昨日今日ではなくもう三年もあたっていませんから。むしろ、昼間動かない方がありがたいくらいで」
「早く落ち着いて・・・体力、つくといいね」
ブリギッドは優しい声音でそう言うと、「着替える」と岩陰に隠れた。
荷物からデューがブリギッドの服を出して、ぽいぽいと岩陰に投げる。
そのぞんざいさがおかしくて、いつもついついシルヴィアは笑ってしまうのだが、そんな光景はブリギッドとデューの仲睦まじさの表れだ。
「デュー、あと一刻ぐらい動く元気あるかい?」
着替えながらブリギッドが声をかけると、デューは苦笑を隠さなかった。
「大丈夫だよ」
その苦笑は、彼もまたブリギッドのその目的をまったく聞かされていなかったことを物語る。
けれど、彼はそれをどうこうと言わず、出かける準備を済ませていた。
「ブリギッドさん。乾パン、ちょっと食べて行こうか」
「ああ、そうだね。シルヴィアも、神父様も、ちょっとつまんだら?」
その乾パンは、食糧が調達できない時用に、大事にとっておいたものだ。
ここ数日は順当に魚介類が手に入ったし、そこに他の乾物も加えて凌いでいた。
ブラギの塔からクロードを救い出して以来、一度もその乾パンには手をつけていなかったことをシルヴィアも思い出した。
「そうね。貰おうかな〜。ブリギッド達が帰ってくるの待ってたら、絶対おなかすくもん」
「神父様、固いもの食べられる?」
「ええ。大丈夫ですよ」
デューはわずかな飲料水と共に、布に乗せた乾パンをシルヴィアに渡した。シルヴィアはそれを持って、クロードの枕もとに座った。
「じゃ、行ってくるよ。ここは日が昇ってもほとんど日差しが入り込まないし、陸地側からは覗けない場所だから、気を楽にするといい」
ブリギッドは何度もそう言ってシルヴィア達の安全を保障した。
ここ数日はみなぴりぴりとした空気で、グランベル兵の追っ手にいつ見つかるか、と神経を張り詰めていた。
それがブリギッド本人からも緩和していることに皆気付き、彼女が言っていることがその場しのぎのことではないということがわかる。
それを感じて、シルヴィアは笑顔を見せた。
「うん。ありがとう。二人共、気をつけてね」
「あいよ、行ってくるよ」
ブリギッドとデューは軽く手を振って、深い闇に包まれている岩壁の通路へと姿を消した。


波の音。潮の香り。
そして、少しずつ少しずつ朝に近づいている、変わり行く外の色。
洞窟の奥には光が差し込まないが、それでも時間の変化を感じ取ることが出来る。
「いつもより、早い時間にここまで来られたのですね。ブリギッドに感謝をしないと」
半身を起こして岩にもたれながら、クロードは微笑を見せた。
朝が近づいているおかげで、灯りがなくともうっすらとお互いの顔が見られる。その時間が来ることを、毎日シルヴィアは待ち焦がれていた。
体調が整わないクロードの睡眠時間は長い。
それに、彼が起きている間にシルヴィアが起きているとも限らなければ、お互い起きていてもシルヴィアが偵察に出ていることだってあるのだし。
いつも、次の隠れ場所に到着するたびに、ようやくクロードと話が出来る、とシルヴィアは嬉しくなる。
それが、ほんの僅かな会話でも、二人きりになれなくても。
会えなかった長い時間を埋めるように、あれもこれもと報告をしているわけではない。彼らにとって大切なものは、今ここに一緒に存在する時間だ。
今日の調子はどう、とか、天気が良いよ、とか。
恋人同士らしい会話が出来なくても、それでもここにクロードがいてくれることが、シルヴィアにとってはなにものにも変えがたい喜びなのだ。
夜、舟に乗って出発する時、出来る限りクロードは眠るようにしている。その時に、必ずシルヴィアは「おやすみなさい」と共に「また明日ね」と言葉を添える。
誰の人生でも、完全に翌日を約束されることなぞ有り得ない。
人の命の灯火は目に見えるものではないし、突然何かに奪われることもあれば、突然寿命を向かえる場合もある。
それを知らないシルヴィアではない。
けれど、彼の眠りの前にそう言って明日の約束をすることで、自分と彼の翌日が保障されるような気がしてシルヴィアは言い続ける。いや、保障されるような気がするのではない。保障して欲しい、という強い願いなのだろう。
「神父様、乾パン食べよう」
「ええ。あなたも、食べるのでしょう?」
「うん。いっただっきまーす」
わざと明るく振舞うように、シルヴィアはおどけた声を出した。
冷たい岩の上にぺたりと座って、膝の上に布を敷く。
彼女は踊り子らしくいつもは薄布のわずかな衣類を着ているが、この小舟の移動を始めてからはさすがに丈の長い、裾の方へふんわりとひろがって足首できゅっとすぼまるパンツを履いている。そのおかげで、こうして岩の上で直接座っても必要以上に冷えるということがない。
「いただきます」
目を細めて彼女のその様子を見てから、クロードは食事前の印を指で軽くきって乾パンに手を伸ばした。
クロードの食は細い。
以前からそう食べる方ではないと知っていたけれど、ブラギの塔からの脱出後、つくづくシルヴィアは彼の体の衰えを知って胸を痛めていた。
長い長い幽閉の期間。
それは、彼の体から、もともと多くなかった筋肉を更に削ぎ落としたのだろうし、食事の量も脂肪を蓄えられない程度だったのだろう。
頬はうっすらとこけ、腕も足も細くなり、特に足首などシルヴィアの手ですらつかめそうだ。
目の辺りがまだくぼんでいないおかげで、顔を見ている限りにはそこまでとは思えないけれど、どれほど体重が落ちたのか、と心配せずにはいられない。
シルヴィア達に心配をかけまいと少しでも食事をとろうとしている姿は、明らかに無理をしているようだ。
濃い味のものを食べることが苦痛のようで、保存用の塩漬けの肉や干し肉はいっさい口にすることが出来ない。
シルヴィアは、出来る限りその日その場で、薄い味付けのスープを作ったり――とはいえ、火を起こせない場合が多いのだが――彼に合わせた食事を作ることに頭を悩ませていた。
「どう?神父さま。乾パンは食べられる?」
「ええ。おいしいですよ。歯ごたえがあるものを食べるのは久しぶりですが・・・ありがたいことに、歯や顎は、弱っていないようですね」
「ああ、よかったあ」
薄暗い牢の中で、時折わずかではあるが声を出して経典を読んでいたことが、いくらかは彼の体のためになったのだろう。
クロードが「牢を出た頃は話し方をいくらか忘れていたようで、喉の使い方すら悩んだ」と言えば皆は笑ったけれど、それは、笑わなければいられないほど痛ましい話だ。
「少しずつですが・・・歩くことも苦にならなくなってきた気がしますし」
「ほんと?」
「ええ。正直、ブラギの塔の昇り降りが一番辛かったですね」
「そうよね。だって、あの塔の階段、長いんだもん。よく神父様昇り降りしたよ!」
「ゆっくりでしたよ。おかげで、見張りの人々に嫌な顔をされましたし」
シルヴィアは肩を竦めて笑った。
「あたしだって昇る時弱音はいて、デューに嫌な顔されちゃった」
「ふふ。あなたらしいですね」
「でも、こんなあたしでも、リーンのこと抱いていっぱい歩いたりするんだから」
そう言って、乾パンをがりがりとシルヴィアはかじった。
改まって自分とクロードの娘のことをあれこれとシルヴィアは言わないけれど、会話の合間合間にこうやってリーンの名を出すことがある。そして、その都度、それを聞いたクロードの顔色をちらりと伺う。
いつもクロードは穏やかにその名を聞いている、とシルヴィアは思う。
リーンが、自分の娘だって自覚はあるのかしら。
それがシルヴィアの一番の懸念だったけれど、面と向かってそれを言うことは未だに出来ない。
「ごちそうさまでした。残りは、あなたが食べてください」
「えっ。もういいの?」
「ええ。また後で、みんなで食事をするのでしょうし。空腹で動けなくならないために、少しお腹にいれるぐらいが丁度良いです」
「そっか。じゃ、あたしもこれぐらいにして、とっておこ。後で、歩いてる時にお腹減ったらつまもう」
クロードは微笑むと、ゆっくりと体を横たえた。それに合わせるようにシルヴィアは彼の横に体を近づけ、顔を覗き込むように背を丸めた。
磯の匂いがする自分の髪が嫌だと思えて、慌てて髪を後ろで束ね直し、クロードの顔に顔を近づける。
「神父さま、ひと眠りする?二人が帰ってくるのは、一刻後だし・・・」
「ええ、申し訳ないのですが」
「わかった。起きたら歩かなきゃいけないから、もう少し休んでいて。起こしてあげるから安心して」
そう言って、シルヴィアは軽くクロードの唇をついばんだ。
彼の唇は乾いていて、ところどころひび割れている。
必要な栄養を体がとっていない証拠だと、ふとシルヴィアの脳裏をそんな思いが掠める。
シルヴィアが体を離すと、少しばかり困ったような笑みをクロードは見せた。
「駄目ですよ。その・・・今は、そう、清潔でもないですし」
「神父さまって、頭がいいのに、駄目ね」
「え?・・・す、すみません」
「世界には、いっぱいいっぱい、清潔な生活なんて出来ない人たちが山ほどいて・・・なのに、そこでも子供が生まれて、みんなに愛されているものなのに。ああ、そういうことを知らない神父様のこと、嫌いじゃないのよ。だけど、こういうこと考えると、あたしって汚れてるんだなーってたまに思う」
「いいえ」
クロードは、今の彼にしては強い声音ではっきりとシルヴィアの言葉を遮った。
「あなたは、綺麗な人ですよ」
「そんなことないよ」
「いいえ。本当です。信じてください」
シルヴィアは、クロードを見つめた。
信じてください。
そんなことを、彼が言うことをシルヴィアは聞いた事がほとんどない。
「・・・ありがとう、神父さま」
それだけどうにか返して、シルヴィアはクロードから体を離す。それから、彼の体にかかっている毛布の端をひっぱって、彼の肩を覆うように掛け直した。
毛布にくるまるクロードは、微笑を絶やさずに言葉を続けた。
「少しだけ、寝ます。すみません」
「うん。あたしなら、大丈夫よ」
クロードは、小声で「ありがとう」と言うと、そのまま瞳を閉じる。
舟の上でも、陸の上でも、横たわっている時間だけは長い。けれど、その中の何割の時間が彼の体を癒しているのかは謎だ。
彼が寝るのは眠いからなのか、疲れを感じているからなのか。
ふとシルヴィアは嫌な考えに行き着いて、眉根を潜める。
(起きていることが、つらいほど何かに患っていたら)
だから、眠りに逃げたいのだとしたら。
いいや、そういう悪い想像はしないようにしよう、と彼女は自分の考えを振り払った。
ごつごつしている岩場の上でどうにか眠りについたクロードは、しばらくすると規則正しい寝息を立て始めた。
それにシルヴィアはほっと胸をなでおろし、小声で「おやすみなさい」と呟くと、飽きずに愛しい男の寝顔を見つめ続けるのだった。


一刻もしない頃、彼らが待つ入り江に戻ってきたのはデュー一人だった。少しうとうとしかけたていたシルヴィアは、デューの気配にびくりと跳ねあがって目を覚ます。
「あれっ、どうしたの?ブリギッドは?」
「うん。相当疲れていたらしくてね・・・。可哀想だったから、先に眠らせてきたんだ。小屋は問題なく使えるし・・・つっても、すっごい蜘蛛の糸とか埃とかそれなりに問題はあったんだけど、あらかた綺麗にしてきたし・・・だから、移動しよう」
デューは息を切らしている。
きっと、ブリギッドを一人にしておくことが心配でならないため、全力でここまで走って戻って来たに違いない。
そう思えば、きっと小屋までの道は足場は悪くないのだろうとシルヴィアには想像出来た。
「ベッドが二つあるから、久しぶりにちゃんと眠れるよ。ほんと、休むためだけの場所だから、テーブルとか椅子とかはないんだけどさ・・・ずっと誰も外からも入ってきた形跡がないから、本当に見つかりにくい場所なんだと思う。ブリギッドさんが言ってたようにさ、無理して来て、ほんと、よかったよ」
「そうなの。じゃあ、今日はゆっくり出来るわね。でも、夜にはまた次のところに行く?」
「いや・・・水は補給出来るし食糧はそれなりにあるけど、それより、この先のことを決めるのに情報を得ないといけないから、今晩は小屋で一泊するんじゃないかな。その方が、神父様にとっていいんじゃない?」
そう言ってデューは、まだ寝息をたてているクロードをちらりと見た。
当然のことながら、舟の上で寝ているよりも随分深い眠りについてしまったように見える。それを起こさなければいけないことが申し訳なさそうに、デューは困った表情をシルヴィアに向けた。
クロード本人も、少し寝てすぐに起きるつもりで眠りに入ったことを、シルヴィアは重々知っている。
こんなに深く、規則正しい寝息で眠ってしまうつもりはなかったに違いない。
「まあ、いいか。俺、もうちょっと舟をこっち側に固定してくるから、シルヴィアは荷物ちょちょっと整理して、持っていけるようにしてくれるかい?」
「あ、うん」
「それまで、神父様、寝せてあげようよ。向こうに行けばベッドがあるから、もっと気持ちよく眠れるんだろうけど・・・それでも、やっぱ可哀想だしね。今起こすのは」
「でも、デューも」
シルヴィアは、走ってきたデューの表情がかなり疲れていることに気付いていた。
本当は、デューも少しでも早く戻って眠りたいのに違いない。
日々の疲労を回復出来ないままの移動。
みな「ブリギッドが一番大変だから」とは思っているが、お互いに、誰かが楽をしているとは思っていない。
だからこそ、お互いの様子を伺い、少しでも負担を減らしてやりたいと思いやるのだが、とりわけデューがあれこれと背負うことが多くなっているとシルヴィアは感じていた。
「いーんだよ。だって、今日ゆっくり出来るってことが確定したから、それだけでかなり気持ちが違うし。神父様、どれだけ寝ても今は体がついていかないんだしね。ちょっとでも今長く寝て、自力で歩いて行ってくれる方が俺は楽かな。変に起こして調子悪くされると・・・背負っていく羽目になっちゃうからさあ」
「そっか。じゃ、もうちょっとだけ寝かしてあげとくわね」
デューの言い分もわかるな、とシルヴィアは納得をした。
それからシルヴィアは、到着した時にデューが降ろしてくれた荷から、ここに置いていく物と持っていく物を分け始めた。その間にデューは舟を繋いでいる縄をもう一本増やし、岩場の間に立っている杭にしっかり縛り付けた。
「う・・・」
デューが戻ってくるまで静かだった場所が、突然ざわざわしてきたのにクロードは気付いたのだろうか。
寝ていたクロードの規則正しい寝息が乱れ、体が動いた。
それにシルヴィアは気付いて、顔を上から覗き込む。
今起きるなら起きたでありがたいと思える。
「・・・神父さま?」
小声で呼ぶが、まだ目覚めには遠いようだった。
「・・・う、う」
小さく、搾り出された声。体を動かしたせいで、肩までかかっていた毛布がずれる。
そんなクロードの様子を見て、シルヴィアは眉間を寄せた。
「神父さま・・・?どこか、苦しいの?」
眠っているクロードの唇が、僅かに開いた。
冷たい海風にあたって、鼻が詰まってしまったか?とシルヴィアは思ったが、彼の唇と唇の間から見える歯を見て、更に強く眉根をしかめた。
(噛み締めてる)
噛み締めた歯と歯の間から、また小さな呻き声が聞こえる。
「神父さま、どこか、痛いの?苦しいの?」
声をかけながら、シルヴィアはそっと彼に手をのばして、毛布からはみ出した肩をゆすった。しかし、クロードからの応えはない。
「熱でも、出てる、とか」
そっと彼の額に手を伸ばす。そして、その額に触れた瞬間、シルヴィアは息を呑んだ。
熱は、出ていない。そこまでは熱くない。
けれど、彼の額には。
(薄暗くて、そこまではっきりわからなかった・・・全然気付かなかったわ)
「神父さま、神父さま」
ついに、シルヴィアは強くクロードをゆすって起こそうとした。
彼の額には、汗がびっしり浮かんでおり、それは熱さのせいではないことを彼女は知ったのだ。
「どこか、痛いの?」
痛みを我慢する時に浮かぶような脂汗。
それをシルヴィアは知っていた。
眠りながら、彼は何か苦しんでいる。
それが、体の痛みから来るものなのか、それとも、心の傷から来るものなのかはまったくわからない。
けれど、みすみすこのまま彼を、その苦しみに晒しておくことは出来ない、とシルヴィアは思う。
「神父さま・・・神父さま、起きて!」
その彼女の声に、舟を結び直していたデューが気付いたようで、何が起きたかと焦った様子で駆け寄ってきた。
「シルヴィア?どうしたんだい」
「神父さまが・・・苦しそうで・・・」
と、その時、クロードの瞳がゆっくりと開き、噛みしめていた口元が緩和し、ふうっと小さな息を漏らした。
「・・・おや・・・デュー・・・帰ったのですね」
「神父さま!」
少しだけ、まだぼんやりとしている様子でクロードはデューに声をかけた。
それから彼は手で目を軽くこすって、ゆっくりと体を起こす素振りを見せた。シルヴィアはそれにすぐに気付いて手を伸ばし、起き上がろうとする彼の上半身を支えた。
「神父さま、どこか、痛かったり、苦しかったり、してないの?」
「え?」
シルヴィアの言葉に、クロードもデューもどちらも驚きの声を軽くあげる。
ようやく上半身を起こしたクロードに、シルヴィアは下から顔を覗き込んで不安そうな表情を見せた。けれど、クロードは、何故彼女がそのようなことを言い、そのような表情を見せるのか、心当たりがまったくないようだった。
「あのね、神父さま、額」
彼女のその言葉で、素直にクロードは自分の額を手で触れる。
そこには、まだ先ほどの脂汗の名残があり、指先の感触に驚いた彼は、体をわずかに震わせた。
が、次に彼はその手をすっと降ろし、シルヴィアを見て、それからデューを見る。
「大丈夫です。少し、夢見が悪くてうなされたかもしれませんが・・・心配してくださったのですね。申し訳ありません」
「ほんと?どこも、痛くない?何か、病気とかじゃなくて?」
「ええ・・・大丈夫です。時々、嫌な夢を見るときがあって・・・それは、子供の頃からなので、今だからというわけではないのですが。デュー、ブリギッドは?」
「あ、うん、ブリギッドさんは・・・」
デューは、先ほどシルヴィアに話したことと同じことを口にし、クロードに事の概要を伝えた。
その間もシルヴィアはクロードの横顔を見つめ、心配そうに眉を寄せているのだった。


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