黒い夢-2-


デューに案内されて、薄暗い岩場に囲まれた隠し通路をゆっくり通っていくと――もちろん、クロードの歩く速度に合わせてのことだったが――またも岩を横にずらすような隠し扉にたどり着いた。
その扉を開けると、彼らの目の前には小さな小屋の暗い一室が現れた。
デューが言っていたように全体的に少し埃っぽさとかび臭さがある、辛気臭いという言葉が似合う狭い部屋だ。
木の小屋らしく、壁の役割を担っている細い板と板の間からは、外の明かりがわずかに差し込んで、足元をほのかに照らしていた。
しかし、そもそも気付かれにくい場所に作ってある小屋だからなのか、思いのほかその光は黒ずんでいて、午前中の天気の光には思えない。彼らが先ほどたどり着いた入り江の洞窟の入り口の方が、余程日差しを浴びていたと思える。
外の風が強いのか小屋全体が少しきしきしと音をたてている。その程度の音は、今まで聞いていた波の音や様様な音にも慣れた彼らにとって、そうそう気になるほどでもない。
どれほど劣悪な環境だろうと、こうやって人並みに屋根のある場所で眠れることはありがたいし、たとえ床で眠ることになったって、岩の上で眠る何倍も今の彼らにはありがたい。
「あ」
シルヴィアは隣の部屋を覗き込んで声をあげた。
彼らが出てきた部屋の隣には、一応かまどのようなものが備え付けてある厨房らしき狭い場所が一つ。確かにそこには小さな井戸が設置されているようだたt。そして、その逆側には寝室らしき部屋が一つ。それぞれを区切るのに扉はなく、鋏などで無造作に切り裂いたらしい布がただ天井から垂れ下がっているだけだ。それは、カーテンなどという体の良いものではない。
「ブリギッド、ここで寝てるのね」
「うん。神父様も、そっちで寝るといいよ」
デューは荷物を降ろして、がさごそと袋から物を出し始めた。
シルヴィアが覗き込んだ小さな寝室には、固そうな背の低いベッドが二つ並んでいる。ブリギッドは入って左手に置いてあるベッドに、頭を奥側にして静かな寝息を立てているようだった。
クロードもシルヴィアの後ろから覗き込んでその様子を見て言う。
「しかし、ベッドは二つしかないようですから・・・」
「ああ、おいらは床で十分。二刻もすればブリギッドさんも起きるだろうから、そしたらシルヴィアが交代すればいいんじゃないかな」
「そうね。あたし、まだ起きていられるし。ねぇ、ここのかまどは使えるのかしら」
「多分ね。煙だしても、谷の上に上る前に風ですぐ流れるって言ってたよ。谷間だから、山間の風が上の方で結構吹いているらしくてさ。この小屋自体、谷の下の、更に岩場の内側にあるような変な場所なんだ。外に出てみてくるといいよ」
そのデューの言葉を聞いて、シルヴィアは外へ通じる扉らしい場所に小走りに駆け寄った。
がたがたと音を鳴らす扉は二重の閂で閉められていたが、それはシルヴィアでもなんとか抜くことが出来るほどの重さだった。
「よっこいしょ」
と軽く声を上げながら閂をとって壁に立てかける。
シルヴィアが横へと力を入れると、ごりごりと不快な音を立てながら扉は動いた。
「ああ、本当ですね」
ぽっかりと開いた部分から外の様子が見える。クロードは目を見開いて咄嗟に言葉を出した。
扉を開けたすぐ目の前は、薄暗い影が覆っている。それが、小屋の屋根ではなくて、小屋の上に突き出している岩のものだと気付くのにシルヴィアには少し時間がかかった。その影の向こう側には、谷間に差し込む日差しに溢れている。
少しくぐもったびゅううう、という音が彼らの鼓膜を震わせた。それは、確かに上の方に聞こえているような気がする。
シルヴィアとクロードは、ゆっくりと小屋の中から出て行った。
外の空気は新鮮で、小屋の中のどんよりしたかび臭い匂いを忘れさせてくれる。
「あー、久しぶりに、潮っぽくない空気吸った気がする!」
「本当ですね・・・体の中が、綺麗になるようですよ」
小さく微笑んでクロードは言った。彼は胸元を手で抑えて、ゆっくりと息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
それを見たシルヴィアは、早速彼の真似をして、同じように深い呼吸で外の空気を堪能する。
二人は肩を並べて暫くそのまま立っていたが、やがてシルヴィアの方からちらりとクロードを見上げて彼の様子を伺った。
クロードは静かにその場に立ったまま、谷間に見えるわずかな空を見上げている。
「神父さま」
「こうして、あなたと、こんな静かな場所にいられるなんて、なんて幸せなことなんでしょうね」
そう言ってクロードはシルヴィアを見下ろした。
彼の静かな笑みを見て、シルヴィアは胸を片手で抑える。
ずきんと小さな痛みが胸の奥に生まれた。
それは、辛いとか、悲しいとか、せつないとか。
そういった感情とは少しばかり違うように思えて、シルヴィアは自分自身に問い掛けた。
今の痛みはなに?
「シルヴィア?どうなさったのですか」
「ううん。なんでもない。中に入って、とりあえず寝た方がいいと思うわ。あたし、その間にご飯作っておくから」
そう言ってシルヴィアは、半ば強引にクロードを小屋に戻そうとした。はいはい、と小さく返事をして、クロードは小屋に戻ろうと体を返した。
入り江から歩いてきたため、足に疲れが出たのか彼はよろける。それを慌ててシルヴィアは両腕で支えた。
「神父さま、大丈夫?」
「ああ、すみません。もう、まったく、本当にわたしの体ときたら・・・」
「だって、結構歩いたもん。疲れて当たり前だよ。ね、久しぶりにベッドで眠れるんだよ。嬉しい」
「そうですね。本当に。ブリギッドが無理をしてここに連れてきてくれて、本当にありがたいです」
シルヴィアは、触れているクロードの体の温もりを感じて泣き笑いに似た表情になったが、クロードはそれに気付いていない。
(こんなに傍にいるのに、なんだか神父さまが遠い気が一瞬したんだ)
温もりを感じているのに。
(だから、さっき)
心が痛む感触は、彼のことを不憫に思ったわけでも、可哀想だと同情したわけでもなんでもない。
ただただ、自分自身の寂しさと、曖昧な不安感。
それが胸の奥に広まったからなのだと気付いてしまい、シルヴィアは眉を寄せた。


クロードとブリギッドが寝ている間、シルヴィアは厨房でごそごそと道具を探し回っていた。
食事を作る道具はあらかた揃っていたし、材料は先ほどデューと共に運んできた。
ブリギッドは疲れて寝ているから、起きれば腹が減っているはずだ。それを思えば、彼女が目を覚ますまでには食事を作っておかなければいけない。
「シルヴィア、俺、寝る前に水汲んでおこっか?」
「あっ、ううん、大丈夫よ」
「いいって。食事作ってもらえるのもありがたいし、先に休ませてもらうのも悪いからさ」
そう言ってデューは厨房に入ってきて、小さな井戸から水を小さな桶にくみ出した。
そこには水を貯めて置く為の大きい桶が一つ置いてあり、デューは手馴れたようにざぶざぶと水を貯めていく。
「ねえ、デュー」
「うん」
「さっき、神父さま、すっごい汗かいて苦しそうに寝てたの」
「そうみたいだね」
シルヴィアは、干した野菜を切り刻みながら言葉を続ける。そして、デューもそちらを見ないで、井戸から水を汲みながら返事をする。
彼らは再会をして行動を共にするようになってから、相手をみずに自分の作業を行いながら会話をすることに相当慣れた。
何をするにも仲良くゆっくりとマイペースで・・・そんなことは、今の彼らには有り得ないことなのだろう。
「ああいうのって、助けてあげること出来ないのかな」
「子供の頃からって言ってたよね」
「うん」
「なんだろうね。確かに嫌な夢を見ることはあるけどさ・・・そんな、はっきりしてるものなのかなあ?」
「え?」
夢がはっきりしていた、などとはクロードは一言も言っていない。デューは一体何を言っているんだろう、とシルヴィアは怪訝そうな表情になった。
「みんな、子供だろーが大人だろーが、たまには嫌な夢、見てると思うんだよ。でもさ、それをさ・・・なんていうの、わざわざ子供の頃から見てるから、なんて言葉にしないだろ?ってことは、多分さ・・・なんか、今日のさ、苦しそうにしていた間の夢って、普通と違うんじゃないかな。特別なんだよ、きっと・・・」
そのデューの言葉に、シルヴィアは「へえ!」といつもより高い声をあげ、感心した。
「デューって、なんか、時々すっごい賢いのねぇ!」
「なんだよ、それ!バカにしてんの?」
「違うわよ。褒めてんの」
「そりゃどーも」
デューはそういいながら、小さな桶から大きい桶へと水を移す。きっと、体を拭いたり洗ったりするのにも使うだろうからと、今のうちに汲んで置くのだろうとシルヴィアは思う。
聞きなれた波の音とは違う水音が、やけに新鮮にシルヴィアの耳に響く。
シルヴィアはその音を聞きながら軽快に野菜を切っていたけれど、不意に手を止めた。
「ねえ、デュー」
「うん?」
「本当はあたしね、神父さまのことで、一つだけ疑っていることがあるの」
きっと、シルヴィアにとってそれは大層重い告白なのだろうとデューは感じたが、あえて手を止めずに軽く返事をする。
「なんだい?」
「神父さまは、ブラギの塔でね。あたしの質問に答えてくれたの」
「どういう?」
「神父さまは、知っていたのかって」
余計な言葉のつかない質問の内容だったが、デューはすぐに意味を理解した。そして、間違えようのないその言葉の意味を、確認のために聞き返す。
「バーハラでの、悲劇が起こることを?」
「うん。そしたらね、神父さま、知っていたけれど、知っていたことを知ることが出来なかったんだって」
今度は言葉足らずのシルヴィアの説明が理解できず、デューはついに手を止めてシルヴィアを見た。
とっくにシルヴィアは野菜を切ることを放棄しており、まっすぐデューを見ている。
クロードをブラギの塔から救い出した後、逃亡と、彼の体調を気遣わなければいけないことの両立を意識して、彼らは未だに、あのバーハラの悲劇前後のことをクロードとの話題に出していない。
こうやって、ゆっくり腰を落ち着ける場所が確保出来た今日、そのことを話すことになるのかもしれない・・・そうシルヴィアは感じていたし、口にしてはいなかったがクロードにもその気持ちはあるのではないかと彼女は思っている。
だから、その前にデュー達に言いたいと思ったのだろう。
「知っていたことを知ることが出来ないって・・・えーと」
「あのね・・・ブラギの塔で、たくさんの予言をもらったんだけどね、それが頭の中に入ってきただけで・・・実際何を自分が知っているのか、神父さまは意識できてなかった、みたいな、そんな感じらしいの」
デューは眉間に皺を寄せて、シルヴィアの言葉を理解しようと考え込んだ。すっかり作業の手は二人共止まってしまい、先ほどまでほとんど気にならなくなっていた外の風で揺らされる壁の音が耳障りに感じる。
「でね、目の前でことが起きてから・・・そうだった、って気付く、みたいなこと言ってた」
「ああ・・・なんていうの?それって・・・昔似たことやった記憶を思い出した時みたいな?」
「多分ね」
「ふーー・・・ん。わからなく、はないかな」
デューはまだ眉間に皺を寄せたままで、じっくり考え込みながら切れ切れに言葉を返す。
「たまにさあ、人に言われたこと、その時はうんうんって頷くんだけど、実は半分しか意識してなくて、とかって、シルヴィアはある?」
「あー、それはあるなぁ。後で、その人から、『さっき、これこれって言ったじゃない!』って言われると、あっ、そうだったかも・・・って思い出すよね」
「それに似たことなのかな。でも、いくらなんでもバーハラでの殺戮をさ・・・予言でもらったけど忘れてました・・・って、ちょっと行き過ぎじゃないかなあ・・・まあ、俺はほら、予言を聞くってことがそもそもよくわからないから、こういう無責任なことを言えるんだけど」
そう言ってから、今の話はちょっと話題が逸れているということにデューは気付き、話を元に戻そうとシルヴィアに問い掛けた。
「で、それの何を、疑ってるって?シルヴィアは」
「うん。あのね、あたしさ・・・その話をしてくれた時の神父さまのことは、疑ってないの。本当に苦しそうで、嘘なんてつくような、そういう状態じゃないってあたし、わかったし」


――神父さまは、知っていたの――

あのブラギの塔で、シルヴィアのその問いにゆっくりと答える声。

――わたしの、この中の、どこかは、知っていました――

――この中の、どこか?――

――けれど、悲しいことに、わたしは、自分が「知っているということを知る」力がなかったのです――

ゆっくりと、まるで懺悔をするように彼はせつせつと言葉を紡ぎだした。

――バーハラで、アルヴィスの言葉を聞いたとき、ああ、これは、知っている。そう思いました。
砂煙の中レヴィンが倒れた瞬間、彼だけは逃がさなければいけない・・・シグルド公子のご子息、セリスのために。何かがわたしに訴えかけてきました。多分、それは、この中にしまわれた、この祈りの間で見たはずの、知っていたはずの記憶がそう訴えかけたのだと思います――

それらの言葉を疑いたくない、とシルヴィアは思っていたし、むしろ、どんなに疑おうと思っても自分の心の中に、強い猜疑心なぞこれっぽちも出てこないことに彼女は気付く。
それでも、あえて「疑っている」と口にしなければいけないのは、自分だけが聞いていたクロードの言葉が記憶に鮮やかに残っているからだ。
「デューにさ、ブリギッドのところに連れて行ってもらった日に、ブリギッドと話したの。神父さまは、多分知ってたんだろうねって・・・だから、バルキリーの杖を置いていったんだろうって」
「それは・・・バルキリーの杖を置いていっても、みんなを救えないって思ったから・・・ってこと?」
「んー。それもあるかな。多分、あの時・・・バーハラでは、バルキリーの杖を振るっても、その間に誰かがまた死んで・・・の繰り返しになっちゃってたかもしれないし、そういうことなのかな。理由はわかんないけど、とにかく、きっと、神父さまは知ってたんだって思ってたの」
「でも、神父様は、そうは言わないんだろ。知ってたけど、知らない。意識の外で知っていて、それを意識できるのは、それが目の前で起こってから・・・って感じなんだろ?」
「そう」
バルキリーの杖を自分達に託した時のクロードは「知っている」状態だったのだろうか、とデューは考え込む。それを見透かしたのか、それともただタイミングよく口にしただけなのかはわからないが、シルヴィアはバルキリーの杖のことを再度口にした。
「あの時神父さまはね、バルキリーの杖がないことにあたしが気付いたらね・・・デューに預かってもらったんだ、って言ってたの。それでね、その理由は・・・その方が、いいような気がしたからで、それだけだから、あたしが理由を聞いてもそれ以上答えられないって言ってた」
そのシルヴィアの言葉を聞いて、デューは何と言えばよいのかわからない、といった複雑な表情を彼女に向けた。二人の視線が絡む。
それだけで、シルヴィアが気になっているのがその部分であり、そして、デューもまたなんとなく心にひっかかりが生まれた部分なのだとお互いに分かり合う。
クロードは、嘘をつくのが得意な男ではない、とシルヴィアもデューも知っていた。
それでも、疑わずにはいられないのは、クロードがどういう人間なのかを知っているがゆえのことだ。
あのクロードが「その方がいいような気がしたから」という理由でバルキリーの杖を人に託すだろうか。
その会話をした時に、それはとてもクロードらしくないとシルヴィアは感じた。
けれど、それ以上追求しなかったのは、珍しく彼が「それ以上答えられない」とはっきりと言ったからだ。
「今考えると、それ自体が神父さまらしくないの」
「・・・そうかもしれないな」
「でも、だからって、神父さまがわかってて・・・みんなが死ぬのがわかってて、バーハラに行ったんだとは思えないの」
「だけど、それじゃ矛盾してる」
「うん」
「俺、思うけど・・・」
デューは言いづらそうに、彼にしてはもごもごと自信なさそうな様子で言葉を選んでいた。
「神父様はさ・・・恐くないのかな・・・ブラギの塔にはさ・・・シグルドの旦那の無実を晴らすためだけに行ったんだろ?もしそうだったら、その当時言ってたようにさ・・・レプトールのこととかランゴバルドのこと、それから、アルヴィスのことあたりだけを知ればよかったんだよね?なのに、神父様の中には、未来のこととか、バーハラでのこととか、そういうことが頭のどっかにあれこれ教え込まれてるんだろ?」
「そうみたいね」
「俺だったら、気が、おかしくなるなあ」
「デュー」
「・・・いや、そのさ、別に神父様の気がおかしいとは言わないけど・・・だってさ、知ってるのに、何の役にも立たなくてさ・・・仲間が死んでくの見て、それを知ってた、なんて認識して・・・一体どうして自分はそれを知ってて、知ってるのに何も出来なくて、もう、なんだかやるせなくなるよな」
「きっと、そうよね。だから、神父さま、ブラギの祈りの間で・・・懺悔するみたいに、苦しんでた」
「でも、多分、それは懺悔して楽になることじゃないんだよ」
デューはきっぱりと、クロードを擁護するシルヴィアに言い放った。
「だって、一生それが続くんだよ。もしかして。ある日突然さ、もう大丈夫だよ、って神様が言いに来てくれるようなもんじゃないだろ。俺、そう思うと・・・何も、神父様にはさ、根掘り葉掘り聞けないっていう気持ちになる」
「・・・そっか」
「本当はさ・・・俺達、神父様にあれこれ聞くのはやめようって決めたんだ。 聞いても、もう、現実はどうしようもないし、俺達が知ってる神父様なら、間違いなく俺達を裏切ったりするはずが無いし」
「裏切る?デューが言うそれって、どういう意味での?」
言いたくない、という顔をデューがしていることをシルヴィアは気付いていたが、それでも、一度彼の口から出てしまったその言葉を、彼女は見逃すわけにはいかなかった。デューは顔を背けて、ばつが悪そうに自分のつま先をみながら言葉を続けた。
「・・・あの悲劇をさ・・・わかっていたのに、バーハラに連れて行った・・・とかさ。ちょっとだけ、考えた。 俺達にバルキリーの杖を残していったのは、せめて、俺達だけでも逃がしたくて・・・ある意味、罪滅ぼしみたいな意味が あったんじゃないかって、いっときは疑った」
「デュー」
きっと、それはクロードには言えないと思っていることだったのだろうし、そして、こうやってシルヴィアに言うつもりも彼はなかったのだろう。デューは、やはりシルヴィアを見ることが出来ない。
「ごめん、シルヴィアが聞きたくない嫌な事を言っちゃったって、わかってる。でも、普通だったらそう思うじゃないかな」
「デュー」
二度目のシルヴィアからの呼びかけ。
それは、彼に対して制止をしている声なのか、それとも続きを促す声なのか、デューにはわからなかった。どちらにせよ、一度話し出した以上、デューは思いのたけをシルヴィアに言わずにはいられなかったし、ここで止めてもいつかは彼女から続きを促されるだろうと彼は感じていた。
「最初から神父様は、自分だけは助かるって知っていて・・・」
「デュー」
三度目の呼びかけ。
そこで初めてデューは、シルヴィアが彼を呼ぶ声がとても平坦で、彼女が感情に任せて彼を制止しているのではないと気づいた。はっとシルヴィアに視線を戻すと、彼女はとても穏やかな表情で、何の怒りや動揺も見せていない。そして、静かに彼に告げる。
「デュー、あたしも、同じことを考えていたの。やっぱり、何度考えても同じ場所にたどり着くの。考えれば考えるほどおかしいの。でも、いつ、何を神父さまから聞いても、神父さまは嘘をついていないの」
嘘をついていないなんて、どうやって分かるの。デューはそう言おうとしたが、寸でのところでそれを止めた。
それもなんとなく、分かる。 クロードは基本的には人に嘘をつくことが出来ない人間だ。 そして、そんな彼が「今まで一番嘘を多くついた」相手は、きっと、この目の前に居る踊り子なのだろう、とデューは思う。
(いやだな、おいらも、大人になっちまったんだなぁ)
「・・・嘘をついていなくても、何かおかしいっていう気持ちはあるんだろ?そりゃ、本当のことを知りたい気持ちもあるけど、俺とブリギッドさんは神父様に助けてもらったから・・・だから、問い詰めるようなことは出来ない。何を言われても、許す心構えはあるけど」
それは、「本当は問い詰めたい」の裏返しの言葉だ。シルヴィアはそのことを正しく理解していたが「そうね」と呟きを返すだけだった。
それから、中断していた作業をデューは再開した。その話の終わり方はシルヴィアの本意ではなかったけれど、これ以上話をしていても、ただの想像に過ぎないことを口にするだけで、何も実りはないのではないかと無理に納得をした。
再び、とん、とん、と野菜を切る音。
ざばあっと大きな桶に水を貯める音。
お互いに、クロードを疑ってどうするというわけではないと知っていた。
そもそも、クロードがそう簡単に疑われるような人間だったら、彼らは危険をおかしてまで助けようなどと思うはずがない。
しかし、だからこそ、そんなクロードの変化だとか、過去の矛盾がやたらと気になる。
どこまでクロード自身はわかっているのだろうか。
そのどれもが自分達では答えは出せず、そして、クロード本人に追求してもきっとわかりようがないのだと薄々二人は気付いていた。
野菜を切る音。
水を桶で汲んで移す音。
室内に響くその音は、人の動きに合わせた生活音のはずなのに、やたらと無機質に感じる。
眠っているブリギッド達に気を使うことが出来ずにそれぞれの作業の音を響かせるのは、ただ自分が冷静になりたいだけなのかもしれない、と二人は各々同じことを思った。
まるで、足がつかない底なし沼にはまり込んだことに気付かぬ振りをするように、二人はそれきりクロードのことを口にせずに作業を続けるのだった。


デューが言ったように、二刻を過ぎた頃にブリギッドは目を覚まし、寝室から出て姿を現した。
「シルヴィア、大丈夫かい」
「あっ、起きたの?」
隣の部屋の床に座り込んでいたシルヴィアはうとうととしだした時に声をかけられた。
よかった、もう少し遅かったらうたた寝しているところをみつかったところだ・・・そう胸を撫で下ろす。
「ご飯作ったの。食べるでしょ?」
「ああ。あんたは食べたのかい?」
「あたしは、神父さまが起きてから一緒に食べる。だから、神父さまが起きたら、あたしのことも起こしてくれる?」
「それじゃ、あんたの睡眠時間が足りなくなる」
「だって、今日は夜もここで寝るんでしょ」
「ああ、そうだった・・・だから、仮眠程度で大丈夫なんだよね。なんにせよ、また明日からは夜動くから、体のリズムをあんまり崩さないようにしないとね」
ありがたいことに、彼らにはまだ若さが十分あり、不規則な生活でもどうにか順応できる強さを持っていた。残念ながらクロードはというと、いつだって眠りたい時にはうまく寝付けず、突然深く眠りにはいってしまったりと、相変わらず自分の睡眠制御すら難しい状態なのだが。
「今、スープ温めてくるね」
「ああ、いいよ、自分で出来るから。疲れているんだろ。早く寝るといいよ。ちょっとかびくさいベッドだけど、それでも、ここ最近じゃあかなり上等なほうよ」
「うっふふ、嬉しい」
シルヴィアは、あえてデューとの間での会話をブリギッドにはしなかった。
それは、自分から言うことではなく、デューから話してもらうほうが間違いがないからだ。
少なくともデューとブリギッドの間では、クロードのことについては共通の見解やお互いの約束事があるようだし、それをわからない自分があれこれ言うよりも、余程良いと思えたからだ。
「食べたらちょっと外に出てくるよ。ああ、裏技があってね、外から閂は出来るから、安心して寝ていいよ」
「そんなこと出来るの」
「海賊でも手先が器用なやつが昔はいたようで、仕掛があるのよ。あとで教えてあげるわ」
「うん。じゃあ、寝るね」
「あいよ。ごゆっくり」
シルヴィアは軽く手を振って、隣の部屋へと移動した。
ブリギッドが厨房で鍋の蓋を開ける音がかすかに聞こえたが、隔てる薄布が思いのほか防音の役目をしているようで、その先は厨房の音が聞こえなくなった。
寝室では相変わらずクロードがベッドで寝ており、デューは床の上で毛布にくるまっている。
今までブリギッドが寝ていたベッドにあがろうとシルヴィアが靴をぬぎかけたその時
「・・・う・・・」
かすかに漏れた声。
それは、クロードの声だ。
いつもならばかすかな音でも異変を感じると、デューは起きてしまう。けれど、余程疲れていたのか、屋根の在る場所に安心したのか、デューは珍しくいびきをかきながら眠っている。
その音に消されそうな、クロードの呻き声を、シルヴィアは聞き逃さなかった。
「・・・神父さま?」
薄暗い部屋の中を歩いて、シルヴィアはクロードの枕もとに近づき、床にぺたりとひざをついた。
また、脂汗が出ているのかもしれない。
彼女はそっと手をのばし、クロードの額に触れた。
(汗は、寝汗ぐらいかしら)
以前、彼は表情に乏しい、と誰かがシルヴィアに言ったことがある。確かに、彼は困っている時なども、どこかしらうっすらと笑みをたたえているように見えるし、怒りを露にする人間でもなかったし、「穏やかな人間」だと他人にはいわれがちだ。
けれど、今彼女の前で、苦しみながら眠っている彼は。
眠っているのにそんなに力を入れていては、疲れてしまうのではないか。
そうシルヴィアが思わずにはいられないほど、歯を強く噛み締め、わずかに口を開けて、強く眉根を寄せ。
「神父さま。歯・・・血が・・・出てる・・・」
強く噛んでいるせいなのか、彼の前歯の下側の歯茎から、わずかに血がにじむのが見えた。
歯をかみしめながらも唇が開いている状態なぞ、普段は有り得ない。
その苦悶の表情は、まるで死を恐れる人間の瞬間的なものにすらシルヴィアには思えた。
と、その時、彼の額に触れていたシルヴィアの手首を、誰かが強い力で掴んだ。
「・・・っ!」
シルヴィアは驚きで声をあげそうになったが、傍でデューが眠っていることを一瞬で思い出し、奇跡的に声を押し殺すことが出来た。
それに、この場で彼女の手を掴める人間なぞ、決まっている。クロードしかいるはずがない。
「・・・し、んぷ、さま」
反射的にシルヴィアは手を引いたけれど、その手首を掴む力強い手によって引き戻される。あんなに衰弱していた彼のどこに、こんなに強い力があったのかとシルヴィアは驚いた。
眠っていたクロードの瞳がゆっくりと開き、自分の顔を覗き込んでいる、自分が手を掴んだ相手がシルヴィアだったことを確認したようだった。
「ああ・・・あなたが、助けてくれたのですか・・・」
「え?え?何・・・」
「少しだけ・・・力を、貸してください」
「神父さま?」
シルヴィアの手首を強く掴んでいたその手はふっと緩み、彼女の指に自分の指を絡ませる。なすがままのシルヴィアは、絡んだ手を大切そうにもう片方の手で覆い、彼の枕もとに置いた。
「こうやって・・・少しだけ、触れていてください」
横たわったままのクロードは、彼にしては珍しく、その表情から柔らかさを失っていた。
先ほどの呻き声の延長にいるように、眉を寄せ、目を細めてシルヴィアに訴える。
と思うと、彼は再び瞳を閉じて、眠りに入ってしまった。
「神父さま?」
もう一度シルヴィアが問い掛けるけれど、返事どころかまったく反応をしない。完全に眠ってしまったようだった。
「神父さま、力を貸すって、何?いつまで、こうしてたらいい?」
その問いにも、返事はない。
シルヴィアが彼の口元に耳を近づけると、静かな寝息が聞こえる。
一度起きたおかげなのか、彼の表情はようやく和らいだように見えた。
再び、部屋の中にはデューが発するいびきの音が響き、そのクロードの呼吸音をかき消す。
(・・・こうやって、繋がっているところから、あなたの心の中や、あなたの頭の中がわかれば良いのに)
彼が眠ったことを確認したのち、そっとシルヴィアはクロードの指から自分の指を離す。そして、まるで添い寝をするかのように、枕もとで膝立ちになって彼の胸元へ頭を近づけた。
昔、シレジアで彼の心臓の音を聞いたことがあった。そんなことを思い出しながらのそれは、少女めいた可愛らしい甘い行為のはずだった。
しかし。
どくん。
「・・・ひっ!」
シルヴィアは、今度は声を抑えることが出来ず、体をびくりと震わせる。
小さな呻き声が再び聞こえる。
それは、やはりクロードの声だ。
「神父さま・・・神父さま、起きて」
胸元に近づいていたシルヴィアの耳に、嫌な音が届く。
どくん、どくん、どくん、どくん。
それは、強く激しく打つクロードの鼓動。
シルヴィアとて、幼い頃からの放浪生活で、多くの人間の病の様子などを見てきている。
けれど、こんな病は知らない、こんな様子で眠る人間は知らない。そして、それは「知らない病」ではないと彼女は直感した。
クロードは苦しそうに歯をくいしばり、その体を硬直させている。
ゆっくりとシルヴィアは彼から離れて呆然とその容態を見下ろした。だというのに、何故か、どくんどくんと激しく打つ彼の心音が耳に響いているように感じる。
彼女は瞳を大きく見開き、息を吸い込んだ。
彼のその様は、病ではない。
強くそう感じて、もう一度彼の手をとって強く握った。
「神父さま、ねえ。神父さま。あたし、ここにいるよっ・・・ここにいるから・・・」
何かが、自分の目の前で起きているのだ。
そのことを敏感に感じ取って――それは、シルヴィアだからこそ感じ取れることなのだろう――シルヴィアは呼びかけた。
だって。
さっき神父さまは、あたしが、助けたって。
そして、力を貸してくれって。
「何と、神父さま、ねえ、何と・・・」
何と戦っているの・・・?
その言葉を続けられないまま、シルヴィアの瞳には涙が浮かび上がった。
気付かなかった後悔。
クロードが、こんなに激しく外にその様子を出したのは初めてのことだけれど。
もしかしたら、ずっとずっと前から、「それ」は繰り返されていたのではないか、という想像を抱いたシルヴィアは、妙な焦燥感に駆られた。
傍で、デューのいびきが聞こえているはずなのに、それはまったく現実感を伴わず、シルヴィアの耳に届かない。
それより何よりも、数刻前にデューから聞いたたった一言が妙に思い出されて、シルヴィアは顔を歪めた。

――俺だったら、気が、おかしくなるなあ――

「おかしくなんて、なってない。神父さまは・・・ちゃんとここにいて、そうならないように、頑張ってるんじゃない・・・!」
ぼろぼろとシルヴィアの頬を大粒の涙が零れ落ちた。
ぽつり、ぽつりとその液体が、クロードの枕もと、頬に落ちてゆく。
「これじゃあ・・・これじゃ、いくら眠ったって、元気になんてならないよ・・・ねえ、神父さま・・・どうしちゃったの。どうしたらいいの」
嗚咽の中で、シルヴィアは語りかけを止めない。
両手で覆った愛しい男の手を、自分の胸元にもっていき、まるで自分の鼓動を伝えるかのように押し付けた。


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