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ひたむきなもの-2-

ラーナ王妃が寄越した使者――クロードとそう年齢差がなさそうな女性――から伝えられた用件は、クロードにとっては願ったり叶ったりのものだった。
彼がシレジアに来てからラーナ王妃にお伺いをたてた、たった一つの我侭。
それは、セイレーン城にある書物を読むことへの許可だ。
彼のその願いを聞いて、ラーナ王妃は一瞬目を白黒させた。
エッダ家の党首であり、また、司祭という立場であるクロードは、不自由のない生活を補償され、人々からの羨望の眼差しを受けながらそれまで生きてきただろう。そのことをラーナが知らないわけでもない。
そんな立場の人間が何を申し出るのか、という戸惑い。
その上、それは何も断る必要のないことだとラーナは思っていたのだし。
読んではいけない書物があるような場所へ、客人を住まわせるわけがない。ラーナ王妃も、それを聞いていたシグルドもそう思ったけれど、それはクロードなりの礼儀であり、通すべき筋なのだろう。
当然、一息ついた後でラーナは快く了承した。
ただし、セイレーン城にある書物はそう大した量はないはずだ、という言葉を添えて。
クロードは別段「本の虫」というほど書物を愛しているわけではない。
けれども、彼は「今のシレジアのことは、人々と接すればわかるけれど、過去のことは書物でしか知ることが出来ない」と考え、歴史書のように固いものから、その時代時代の生活が書かれているちょっとしたものまで、シレジアに関する文献を好んで読んでいた。
彼は誰にも言うことはなかったけれど、「中立国」の立場を守り通そうとしているこの国を好ましく思い、もっと深く知りたいという思いに駆られていた。それはとても穏やかで、緩やかで、心が急くこともないゆったりとした感情で、非常に彼らしい静かな波ではあったけれど。
そんな彼に、ラーナ王妃から「シレジア城の書庫整理と共に、書物をいくらかをセイレーン城に移す予定なので、選別に来て欲しい」との嬉しい申し出があったのだ。
何もこの雪の降る寒い時期にそんなことをする必要はないのでは、とクロードは首を傾げた。
が、それにはそれでやはり理由はあるものだ。
クロードがセイレーン城下町で人々にエッダ教の教えを説いていることを、ラーナは小耳に挟んだ。
そもそもエッダ教は宣教活動というものはほとんど為されないものだ。
クロードが人々に話す内容といえば、エッダの12の使徒の話、神々の体系、運命と生命を司るブラギの話なのだが、それらは単なる物語だったり、そのエピソードを通じて教訓めいたことを伝えるようなものがほとんどだ。
もちろん、そういう形でなく、他国から来た司祭が断りもなく宣教してるとなればいささか面倒な問題が起きるのだろうから、クロードにしてもラーナ王妃からしても、それらは妥当な行為だ。
そして、そういう内容だからこそ、老若男女が「お話を聞きに」集うのだろうし、家に閉じこもりがちな冬に、ひとつの楽しみを人々にもたらしているのは事実だ。
なんにせよ、聞き手が少人数だといっても、クロードがほぼ無償でそういったことをしていることを聞きつけ、あの無欲な神父に何か礼を出来ないものか。そうラーナが思っていた矢先、シレジア城の最も古い書庫の、これまた最も古い木の本棚が老朽化で壊れてしまった。それが、きっかけだ。
決してその理由をラーナ王妃が明かすことはないけれど。
寒い中天馬で飛んできた使者への労いとして、少し酒の入った温かい飲み物が振舞われ、さっぱりとした応接家具が整った部屋で二人は話していた。
「じつは、最低限整理したいと思っております、本棚もなく山積みになっている書物は、これぐらいの山で100はあろうという状態でして」
「100!山が100ということは」
「書物の数でいけば、少なくとも2000はあるということでしょうね」
そういって使者は溜息をついた。
なんでも、壊れてしまった古い古い本棚は、よりによって最も大きい本棚――最初にそれを設置した者は多分、城の蔵書としてはそれぐらいの量が最大だと信じていたのだろうが――であり、その本棚が壊れて書物が崩れた際に、両隣の本棚も巻き込んでえらいことになってしまったのだという。
「代々の王族の方々は、読書家が多かったのでしょうか」
「聞くところによりますと、この国の建国の後どれほどの後か、天馬騎士団を編成した頃の王が大層様様な書物を作らせたり、他の国を回ってきた商人から書物を買い取ったりしたのが、蔵書の始まりだったようですね」
思いのほかすらすらと使者が答えたものだから、クロードは素直に感心した。
実際、彼女はシレジアの歴史について造詣が深く、そういう人間だからこそラーナ王妃が使いとして送ったのだが、そんなことはお互いに知る由もない。クロードがやたらと好奇心旺盛な人間であれば、ここぞとばかりに彼女にあれこれ問うて絶好の機会だったのだろうが、むしろ彼は、彼女の「お役目」に対して敬意を払い
「では、わたくしがシレジア城へ訪問すればよろしいのでしょうか」
と、用件に対してまっとうに話を進めた。
「はい。ただ、それだけの書物を整理して選別するとなると時間もかかるだろうということで、数日シレジア城に滞留していただくことになるかと思います。クロード様にもご予定などおありでしょうから、ご都合の良い時にフュリーにでもお声をかけていただければ」
「ああ、それでしたら心配はご無用です。明日にでも、そちらにお伺いいたしましょう」
「わかりました。それでは、ラーナ様にそのようにお伝えいたします。何かシレジア城でご所望のものがあれば、先にお伺いいたしますが」
「いえ、いえ、何も。それどころか、シレジアの文献に触れる機会を与えてくださっただけで、感謝してもし足りないというところですので」
クロードは困ったように微笑を浮かべた。
使者はそれ以上はとりたてて追及せず、事務的な話を一通り終えると立ち上がり、丁寧に一礼をして退出していった。
礼儀正しい女性を見送ると、クロードは半分も口をつけていなかった飲み物に手を伸ばす。
シルヴィアの部屋で茶を飲んできたので、喉は潤っていた。
とはいえ、彼のためにも運んでくれた女中に申し訳ないと思い、一口。
「・・・暖炉があっても、室温はあまり高くないものですね」
そう長話でもないと思ったけれど、カップの中身は既に冷えており、ひんやりとしたカップの縁の感触にも彼は驚いた。
いつも通り、少しばかり呑気に。


夕食は、シグルド軍で時間が合う人間だけが共にする。
その晩はセイレーン城下町に出ていた者は城下町の酒場で一杯飲んでくるらしく、アーダン達の姿は見えなかった。
クロードは、食事の席にちょうど良いとばかりシグルドの側に座って、使者からの申し出について話した。
「では、明日からシレジア城へ?」
「はい。そのつもりです。まあ、3、4日で戻ってこられると思うのですが。選別とはいえ、この城の書庫で空いている棚もそうそう多くはないですし。もし、何か公子がご入用な書物などがあれば、教えていただけると」
「ああ、それは助かります。いや、わたしもそうそう本が大好きという人間ではないのですが・・・」
それでも、シグルド軍にいる人間の中では、シグルドは比較的読書を好むほうだ。
息子のセリスは乳母代わりの女中が主に世話をしているけれど、それなりにシグルドも父親として子育てに参加をしている。
そんな風に子供のリズムに合わせた生活を豊かにするのに、本はうってつけと言えた。
毎日決まってある程度の大きな時間を、彼は騎士としての鍛錬に費やしている。となれば、それ以外の時間はみな切れ切れになってしまうからだ。
「神父さま、明日からいなくなっちゃうの?」
食事の席だというのに、軽く声を荒げるのはシルヴィアだ。
それを聞いてシグルド以下数名は「クロード神父は、シルヴィアに先に話していなかったのか」と内心苦笑いをする。
「あっ、はい」
本当ならば「あなたには後で直接説明に行こうと思っていました」という言葉を出したいところなのだろうが、クロードは相当にそういったことに不器用で、人前で自分達が恋人同士である、と思われる会話をすることが下手だ。
「なんだぁ、教えてくれてもいいのに!」
一方のシルヴィアはあっけらかんとそういって、軽く膨れた。
その隣に座っていたフュリーが助け舟を出して
「つい先ほどの使者からの話ですよね?決まったばかりのお話なのでしょう?」
と、クロードの援護をする。
とはいえ、シルヴィアも大して怒っているわけでもないのだけれど。
曖昧に「すみません」ともごもごクロードがシルヴィアに謝ると、シグルドはさらっとまた話を書物の件に戻してしまう。
クロードは少しばかりシルヴィアのことが気がかりに思ったが、何かフュリーがこそこそとシルヴィアに囁いている様子をちらりと視界に入れ、とりあえず大丈夫そうだと曖昧に安堵した。


夕食後、クロードはシルヴィアの部屋に行って説明をしようと考えていた。
本来なら夕食を終えた時にでも声をかければよかったのだが、シグルドと本の話をしている間にシルヴィアの方が先に退出してしまい、クロードが取り残された形になってしまったのだ。
一度部屋に戻って、さて、あの繊細な子になんと言って説明をしようか、とクロードは小さく息をついた。
きっと彼女は彼がシレジア城に行くことは、特になにとも思っていないだろう。
問題は、それをすぐに彼女に言わなかったことなのだ。
以前のクロードであれば、そういうことに対しても呑気なものだったが、シルヴィアと「おつき合い」というものをはじめてからは、多少なりとも彼にも経験値が積まれてきた。
すぐに、言えばよかった。
けれど、「後で言えば良い」と彼が思ったのは、別段シルヴィアをないがしろにしたことではない。
もともとの自分の気質がそうだから、こうやってちょっとのことでシルヴィアに誤解を招くのだ。彼はそれをよくわかってもいた。わかっていたからといって、その気質が治るわけでもないのだが。
(あの子は、いつもどこかで、わたしがあの子を好きなのかどうかを内心疑っている)
それは、仕方がないと思えた。
なんにせよ、クロードは恋愛に関しては本当に、どうしようもないほどの晩生であったし、今だって「わかっていても、大丈夫だと思って」しまうのだ。
まあ、それを今更くよくよしても仕方がない。
そう思って、部屋を出ようかと思った時
コンコン、と小さなノックが二つ。
「あ、はい!どなたですか」
「神父さま。あたしっ。シルヴィアよ」
ドアの外から聞こえるその声音は、いつもと同じく少しだけ浮き立ったような、朗らかな声だ。
彼女から来たことに驚きながらも、その声音にほっとして、彼はドアを開けた。
「シルヴィア、あの」
「ねっ、神父さまに、教えて欲しいことがあって!」
「わたしに?」
「うん。入っていい?」
「どうぞ」
シルヴィアは、手に何かをもって部屋にするりと入ってきた。
先ほどのことを説明しようとクロードの心は焦っていたが、それよりもシルヴィアの方が自分の用件に急いていた。
「ねえ、神父さま、文字を教えて!」
「おや、あなたは字を書けるのではないですか」
「ちょっとだけよ。自分の名前が書けるだけ、読めるだけだよ」
そう言ってシルヴィアは肩を竦めた。
彼女は部屋にある簡素なテーブルセットの椅子に勝手に座った。それは、彼女がこの部屋に来るときに、当たり前のように与えられる自分の場所だった。
「字を覚えたくなったのですね」
穏やかに言って、クロードは小さく微笑んだ。
彼からすれば、この踊り子がそういった「お勉強」らしきことをしたいと申し出ることは、相当に嬉しいことだ。
彼女は、まったくそういったことに興味を持たず、彼のことを好きだと言ってはいるけれど、なにの接点もない。
そしてまた、クロード自身も、彼女を大切に思ってはいても、彼女のように自由奔放な考え方はできないし、彼女の真似をして踊るわけにもいかない。
彼らは、同じ屋根の下に暮らしながらも、まったくもって共通点がなく、話題といっても人の噂やら今日の出来事しかない。
だからこそ、このシルヴィアの発言にクロードは驚き、そして素直に喜んだ。
それに、文字の読み書きが出来れば、この先の彼女の人生も豊かになるのではないかとも思えたし。
「神父さまの名前も、書けないの」
「わたしの名前ですか。よくある名前ですよ」
「ね、教えて」
シルヴィアが手に持って入ってきたのは、文字を書く為の道具だった。彼女は既に準備万端で、練習とばかりに自分の名前を何度か紙に書いていた。
クロードは自分の分として、近くにあった羽ペンとインク、便箋を手にとった。
彼女の隣に椅子を持っていって、肩を並べるように座る。そして、さらさらと自分の名前を書いた。
「わたしも、綺麗な字ではないですが。これがわたしの名前です」
「貸して、それ」
シルヴィアは彼が書いてくれた文字を手本にして、自分が持ってきた紙にぎこちなく、書き順も間違ったままで写そうと書き出した。
「文字の基礎を教えてからにしましょうか」
そう彼が言うと、彼女は首をふって
「いいの、まずは神父さまの名前から。覚えたい」
と、頑なに拒み、ゆっくりとその手を動かす。
クロードは、そんな彼女に謝ることも忘れ、文字の書き順を丁寧に教えた。
初めは「書き順なんてどうでもいいじゃない」と言っていたシルヴィアだったが、彼が言うとおりの順番で手を動かすと、手本の形と似せて書きやすいということが理解出来たようだ。
彼女の字は、お世辞にも綺麗とはいえない。
文字の書き方を知らない人間が書くと、こんなにも「共通」と思っていたものが、暗号めいて見えるものかと、クロードは内心驚いた。もちろん、口にはしなかったけれど。
繰り返して、大体20回ほど書いた頃、独特のくせ字ではあったが、ようやくぱっと見て読めるような文字になったようだ。
「ああ、上手になりましたね。じゃあ、次は何か他の・・・」
「ううん、今日はこれだけでいい。いっぱい覚えてもすぐ忘れるから」
あっさりとそう言われては、強く言うわけにもいかない。
クロードは「そうですか」とだけ言って、自分の筆記用具を片付けた。
その背に向けて、シルヴィアは尋ねた。
「明日からシレジア城に行くの?いつ戻ってくるかは、わからないの?」
「多分、3、4日というところだと思います。次に城下町に行くのが、ええっと・・・4,5・・・6日後の約束なので、それに間に合うようには戻ってきたいと思っているのですが」
「そっか、わかった」
クロードは振り返って、申し訳なさそうに声をかける。
「あの、シルヴィア。あなたに言うのが遅くなってしまって・・・申し訳ありませんでした」
「・・・んーん、いいの」
「え?」
まだ、何度も何度もクロードの名前を書き続けていたシルヴィアだったが、手を止めてまっすぐとクロードを見た。
「なんで、謝るの、神父さま」
「え・・・その、明日からシレジア城に行って、ここを留守にすることを、あなたに最初に伝えた方がよかったのかな・・・と」
「どうして、あたしに最初に伝えた方がいいって、思ったの」
「・・・それは・・・その」
答えは簡単だ。
クロードとシルヴィアは、恋人同士だからだ。
それは、他の誰が聞いていても簡単にわかる、初めから答えが目の前にある問い掛けだ。
しかし、情けないことに、その素直な答えを口にするのが、クロードにはたいそう難しく思える。
わたしと、あなたが恋人同士だから。
それで話は終わるはずなのだが、そんな風にシルヴィアに問われては、クロードは「では、何故恋人同士だと、自分の所在を最初に恋人に伝えなければいけないと思うのだろう」と、深追いをしてしまう。
きっとそうシルヴィアに言えば、それへの答えは簡単に返って来るはずだ。
うまく答えを見つけられないクロードは、困ったようにゆっくりと言葉にした。
「・・・あなたが、わたしのことを、一番たくさん思ってくださっているから、でしょうか」
その彼の答えに、シルヴィアは軽く目を見開いた。
いつもならば、彼が何かを言えばすぐに、ぽんぽんと言葉を返す彼女だが、一瞬の間を開けて彼を見つめる。
「あ、その・・・おかしい、答えですよね。すみません。何を持ってして、一番とか、そんな優劣をつけるようなことを」
クロードは、しどろもどろになった。
そもそも彼にしてみれば、人の心を計ったような、そんな言い方には慣れておらず、それをついついしてしまったこと自体が十分にシルヴィアを意識して、十分にシルヴィアのことを特別に思っている表れと言える。
シルヴィアは苦笑を浮かべて「ふふっ」と声をあげた。
「いいや。その答えで。少なくとも、あたしが神父さまのことが好きってこと、神父さまはわかってくれてるってことだもんね。よかった」
「シルヴィア」
さすがのクロードでも、シルヴィアのその言葉で、自分が何か間違った答えを言ってしまったのではないか、と焦った。
けれど、彼はそれ以上の答えをうまく言葉に出来ない。
彼にとっては、先ほどの答えを言葉にするだけでも、相当な勇気が必要だったのだし。
そんな彼を安心させようとしてか、シルヴィアはいつもの調子に戻って明るく振舞う。
「シレジアから戻ってくるの、待ってるね。それまで、もうちょっと、上手に書けるように練習してる」
彼女はそう言いながら立ち上がると、練習していた紙をがさがさかき集めて小脇に挟んだ。
「シルヴィア」
「教えてくれて、ありがとうねっ、神父さま」
何か、言わなければいけないことがある。
クロードはそう思ったけれど、それが何なのかどうしても答えをみつけられず、心の中で降参した。
「どういたしまして。いつでも、来て下さい。えっと、明日から数日はいないですけれど・・・」
「わかってるって。明日早いんでしょ?あたしも、もう部屋に戻るね」
「そうですか・・・おやすみなさい。温かくして眠ってくださいね」
「うん。神父さまも!おやすみ!」
そう言って軽く手を振るとシルヴィアは、何の未練もなさそうにさっさと部屋を出て行った。
ぱたん、と閉められたドアを見つめながら、むしろこちらの方が未練があるように、クロードはしばらくの間その場から動かず、ぐるぐると考えていた。
それは、自分でも何を考えているのかまったくはっきりしないもやもやとした思考で、結局何の答えも出ないままだった。


翌朝、クロードがシレジア城に行く時刻になっても、シルヴィアは姿を現さなかった。
前日の夜に城下町で、彼女が言うところの「営業」をしていたならばそれも合点が行くけれど、実際は違う。昨晩は字をクロードに習った後は、どこにも外出していないはずだ。
朝食の場にもシルヴィアの姿はなく、クロードは心配した。
出かけに彼女の部屋に寄ろうかとも思ったが、寝ているところを起こしても申し訳ない、ただ、彼女の体調が悪いということがなければいいのだが・・・と、クロードはフュリーにシルヴィアのことを頼んだ。
「シレジア城から戻ってからで良いのですが・・・シルヴィアの様子を、見てもらってもよろしいでしょうか」
フュリーは彼をシレジア城に送ったら、トンボ帰りでセイレーン城に戻ってくる。
とはいえ、それにはそれなりの時間がかかるので、クロードは慌てて
「あ、その、シルヴィアの姿が見えなければ、で」
と、妙な断りを付け加えた。
フュリーは「わかりました」と手早く答えた。
今日はありがたいことに昨日に引き続き、外は晴れている。セイレーン城門前に天馬を待たせて、二人は出発の準備をする。
空模様を見ると、当分晴れ間は続きそうだとフュリーは言う。
「今晩あたりは、降りそうなんですけどね。明日はきっと、みんなで雪かきをしないといけなくなりそうです」
「そうですか」
「神父さま、これを羽織ってください。その格好では、天馬が切る風の冷たさに耐えられないでしょうから」
「ありがとうございます」
「帰りにも着ていただくことになりますから、そのままシレジアでお持ちくださいね」
さすがにフュリーは自国のことは詳しい。
クロードは彼女に迷惑をかけることにならないように、と渡されたポンチョを素直に着込んだ。
頭からすっぽりかぶる形のそれは、どちらかというと女性が好んで着ているような形だ。
しかし、フュリーの後ろで何をするでもなく掴まっているだけの彼にとっては、体全体を覆って着脱が簡単なそれは最も楽な防寒着に違いない。
聞けば、冬に天馬の相乗りをする場合は、大体後ろに乗るものはそれを着るのだと言う。
通常の防寒着として女子が着るものと違うのは、あまり幅が広くないこと。
風の抵抗を少なくするための配慮だと、彼女はすらすらと答えてクロードが天馬に乗るのを手伝った後、自分も慣れたようにまたがる。
「寒さに耐え切れなくなったら、教えてください。声が聞こえない時がありますから、その時はこのベルトを何度かひっぱっていただければ速度を落としますね」
さすがに空の旅初心者を乗せることも慣れているようで、ひとつひとつの指示が的確だ。彼女と一緒ならば心強い、とクロードはほっと安堵の息を漏らす。
フュリーは天馬の首筋を何度か撫でた後、「行きますよ」と手綱を握り直した。


さて。
当のシルヴィアはといえば、クロードがシレジア城へと飛び立った頃、まだ夢の中にいた。
彼女がのっそりと体を起こしたのは、昼食の頃。
もちろん、まだフュリーが戻ってきているはずもない。
「あぁぁ〜・・・ちょっと、夜更かししすぎちゃったかなあ」
彼女はベッドの上で上半身を起こすと、時刻を確認することもなく体感でそう呟いた。
昼頃と朝では、室内の気温がまず違う。
きっと、少なくともクロードはもうシレジア城に向かっているはずだ。
ベッドから降りると低い室温に負けずに、えいやっと寝間着を脱いで手早く着替える。
髪を結うのも面倒に思えて、手櫛で整えたままで伸びをした。
ドレッサーの上に置いてあるのは、身支度を整えるためのものではない。
布袋の中には、彼女が城下町で買ってきたとあるものがいくつか入っている。
それは、酒場で踊りを見せた時に仲良くなった男性――といっても、50代で、妻子のあるまっとうな人間だ――が営んでいる雑貨屋で、特別に安くしてもらって買ってきたものだ。
彼女もクロードと同じく、人の縁で人に優しくもしてもらっている。
その男性は、若い頃にはアグストリア辺りを旅していたこともあり、シレジアの踊りとは違うシルヴィアの舞を見て、当時のことを思い出して、いたく感激してくれたのだ。
(これくらいなら、神父様も、許してくれるよね・・・許してくれますように)
そっと袋に手を伸ばして、優しく触れる。
その中身のおかげで、彼女は昨晩夜更かしをしてしまったのだけれど、当然そんなことをクロードは知るはずも無い。
「よっし、まずはご飯食べて。神父様が留守の間は、踊りにも行かないで、頑張ろう!」
気合をいれるために声に出して自分を励ますシルヴィア。
彼女が何を「頑張る」かは、今まさにクロードと共にシレジア城に向かっているフュリーだけが知っているのだが、もちろん、フュリーの口からその内容がクロードに伝わるわけもないのだった。


シレジア城に着いたクロードは、ラーナへの挨拶を終えた後、夕食まで時間もないということで早速書庫にこもった。
そう広くも無い部屋にはテーブルがひとつ、椅子が二つ。そして壁を覆う天井までの高さがある本棚と、更に三列ほど大きな本棚が並んでいる。
テーブルの周囲には、本棚から溢れている書物が山積みになっており、それがクロード見るべきものだとすぐにわかった。
普段人の出入りがない場所だけに相当に寒かったけれど、女中が気を利かせて簡易ストーブ――大きなランプのようなものだ――を用意し、定期的に暖かい飲み物を持ってきてくれたおかげで、どうにか耐えることも出来た。
暖炉はあるのだが、その暖炉は本棚でふさがれてしまっており、使えるはずもない。
(城内にいるというのに、外で作業しているようなものだな)
と最初は辛く感じたが、誰も来ない部屋に本に囲まれて一人でいる、という状況は彼には快適なものだ。
作業をお願いするのだから、とラーナはクロードに対価の支払をほのめかした。
それへ、クロードは「自分の知識となる書物を選ばせていただくなど、これ以上の恩賞がありましょうか」と穏やかに断る。
ラーナは自分が断ることを見越していたのだろう、とクロードは思う。
彼は、彼女が無理にクロードへ、いや、シグルド軍へ「ほどこし」として援助をしようとしているわけではないことを承知していた。
それでも、申し訳ないと思いつつも、その気遣いも余計なことだと思う。
(正しく働いて金銭を稼ぐことが出来ない人間は、その無力さを思い知るべきだし)
と、彼は静かに思っていたし、シレジアでの滞在で、既に彼らは一生かかってもラーナに返すことが出来ない恩と、一生かかってもシレジア国民に返すことが出来ない国税分を背負っていることも承知していた。
そのことに気づかない者もいれば、気づいていても「別にいーだろ」とあっさりと答えるベオウルフのようなものもいる。
そこまで考えていても稼ぐために何をすべきかを彼は知らなかったし、積極的にそうしようと思えない。
何故ならば、そこには間違いなくラーナ王妃その人の体面もが関係してもいるからだ。
たとえば、レックスはドズル家の者ではあるが、次男だからなのかもともとの気質なのか、城下町に稼ぎに出てもあまり噂にはならない。それは、ヴェルダン王家のジャムカもそうだ。彼こそ正統な王家の人間であるから、他国で「働く」ことが本来許されぬはずの人間。それでも、彼の性格その他のおかげで、冬の狩りの手伝いに行っても人々に溶け込み――決して人懐こく打ち解けるタイプではないのに――容易に労働をこなす。
しかし、これがシグルドとなると、立場上「ラーナ様のお客様であり、その人々の中で最も偉い人」とシレジアの人々に認識されている以上(相当に大雑把な認識ではあるが)その人物を働き手として雇うことが出来る人間なぞ、いやしないのだ。
それと同じく、たとえラケシスが働こうとしても、彼女の気質以前に彼女が持ち合わせている独特の王族の雰囲気とでもいうものが弊害となる。
国税の無駄遣いを気にする民がいる反面、ラーナ王妃の賓客を雇うことを嫌がる民だっているし、一方のラーナにしても「お客様を働かせる」ことを完全に喜ぶはずもない。
彼らの立場は非常に微妙であり、難しい。
もっと厳密に言えば、稼ぎに行くのではなく「養ってもらっているので、たまにはお手伝いします」という形で城下町に行くべきだと考える者だっているのだ。
傭兵であるベオウルフは、小遣いが欲しければ自分で稼ぐさ、と軽く言ってのける。
デューなどは、むしろちょこまかと小遣い稼ぎをする方が性に合っているようだ。
そして、シルヴィアは。
自分の踊りに対価が支払われることは当然であり、それを拒む必要など何もない。
彼女はシグルド軍に属しているけれど、彼女が踊るのは「シグルド軍に属しているから」ではないのだから。
(だから、本当は、彼女が稼いだ金は、彼女が好きに使えばいいのだ。シグルド公子の元に持って行く必要なぞ、本当はない)
けれど。
好きに使えといえば、彼女は質素な毎日を送ろうとしているクロードに、何かを買おうとする。
その上、稼ぐことが出来ないラケシスやティルテュのような立場の人間の前で、好き勝手に金を使う姿を見せるわけにはいかない。
だから、自分はシルヴィアを少しばかり抑えてあげなければいけないと思っている。
(うまく行かないものだ。本当は、あの子の好きなようにさせてあげたいのに。あの子はわたし達と違って、どこで生きていくことも出来れば、戻りたいと願う場所もないと言っていたのだし)
きっと、シルヴィアは理解が出来ないだろう。クロードがわざわざ我慢をして、多少の不自由はそのままにして生活をしていることが。
クロードは、寒さにぶるりと震えた。
床に積まれた書物の山をテーブルに乗せ、それを一つずつ確認して選別していく作業は問題ない。
ただ、足がとにかく寒い、と思う。
「ああ、そうか」
温かい空気は上に昇るのだから当たり前だ。
クロードは非力ながらもテーブルと椅子の角度を変えて、足をストーブの近くで温められるようにと動かした。
椅子に座り直して、次の一冊に手を伸ばし、そこで小さく溜息をついた。
どんなに多くのことを考えていても、自分は根っこのところではシルヴィアが言うところの「お貴族様」であり、それを覆すほどの気力は持っていないのだろうか。
クロードは本を丁寧に捲りながらも、頭の片隅でぐるぐるとそんなことを考えていた。
自分は、変わることが出来ないのか。あの踊り子の生命力、力強さを間近で見せ付けられても。
ラーナ王妃のことや、自分達の立場のこと。あれこれ考えている振りをして、でも、最後には自分にとって都合がいいところに収まろうとしているのではないか。働かなくていいように、と。
いや、そうだったら、まだいい。
(こんな風に、シレジアに、ラーナ王妃に対して、申し訳なさをいつまでも引き摺るのは・・・わたしの中に、何か、理由があるのだろうか)
きっと、それは考え続けてもわからないことだ。
クロードはそう思い、本の選別に集中をするために心を落ち着けようと深呼吸をした。
冷たい空気が一気に体の中に満ちて、目が覚めるようだ、と彼は思った。


それから一刻ほど過ぎた頃、ラーナ王妃が呼んでいる、と女中がクロードに声をかけにきた。
食事の時刻であることは明白で、ラーナの元に行くと案の定夕食を是非一緒に、と誘われる。
彼は恐縮して断ろうとしたが「今日だけでも」と先に言われてしまい、断るわけにもいかなかった。
クロードは、もともと食が細い方だ。
もし、客人としてもてなそうとラーナが考えているならば、自分の食べっぷりを見てきっと彼女は残念がるに違いない。
そう思ってクロードは、今度は彼から先に「食事は元々多くとらないので、成人男性の半量で十分です」と告げた。
とはいえ、彼がそういったからといって、彼の皿だけぽつりと少量盛った状態で並べることも出来まい。
けれど、きっと聡明なあのラーナであれば自分の気持ちをくみ取って、無意味に豪華な夕食を振る舞うことはしないだろうと思えた。
ありがたいことに彼のその予想は的中し、夕食の席には鍋がいくつか運び込まれ、ラーナとクロードそれぞれの近くで女中が適量を聞いて盛りつけるという、一風変わった形式がとられた。
クロードが案内された部屋には、あまり大きくないテーブルと四人分の椅子が並んでいた。これは、一国の頂点に立つ者が食事する場所にしては、驚くほど狭い。が、聞けば、いつもここで食事をしているのだという答えが返って来る。
「シレジアは冬が厳しいですから、どんな用途の部屋でも必要以上に広くは作らないのですよ。ああ、もちろんまったくないというわけではありません。けれど、集会用の広い部屋では暖炉をいくつか焚かなければいけませんからね」
そのラーナの答えにクロードは好感を持ったし、納得させられた。
クロードの隣に運ばれた鍋の蓋を女中が取ると。湯気がもわっと立ち上って食欲をそそる匂いが広がった。
「シレジアの冬は、煮込み料理をたっぷり作って、何日にも分けて食べるものです。この夕食に食べたものがきっと明日の昼食にも一部でると思いますが、ご理解くださいね」
女帝はそう言って微笑んだ。
きっと彼女が言うことは、いくらかは真実かもしれないが、その真実を前提としてのクロードへの配慮に違いない。
その厚意にクロードは甘えて、野菜がごろごろと入った香辛料が使われているシチューを少しと、何の肉かはわからなかったけれど、ほろほろと崩れるほど柔らかく煮込まれた肉にゆでた青菜を添えたものを、それぞれ少しずつよそってもらった。
「どうですか。本の方は」
「話にはお伺いしておりましたが、なかなかの量ですね」
「そうでしょう。残念ながら、今この城には、長時間ああいった書物と向き合えるような質の者がおりません。あなたが来てくださって、本当にありがたく思っているのですよ」
ラーナはそう言うと、クロードが遠慮をした黒シチューを一口すすった。
食事をしながら、ラーナはクロードにセイレーン城のこと、城下町のことなど、それからシグルド軍に所属している息子でありこの国の王子であるレヴィンのこと・・・思いつくことをあれこれと尋ねた。
食事の量自体クロードの方が少ないため、彼は懸命に彼女に返事をした。そうでもしなければ、彼はあっという間に食事を終えてしまい、彼女を待たせてしまうことになるからだ。
やがてデザート――これもまた、果実を酒で煮たもので、体が温まるような料理だ――が運ばれた頃、ラーナからの問いはかなり個人的なものになっていた。
「不自由があれば、なんでも申しつけくださいね。セイレーン城の者から、あなたは何一つ要望を口になさらないとうかがってます」
「あ、そ、んなことは」
ないと思う、とは言えなかった。
彼は彼にしては珍しく「余計なことを」と内心わずかに苛立った。
が、客人をもてなすようにと言われているセイレーン城の女中達が、その客人について主にあれこれ報告するのは当然のことだ。
「何も申し上げることがないほど、セイレーン城ではよくしていただいておりますから」
その答えは普段ならば悪くないものだ。けれど、ラーナは戸惑ったような、苦笑とも感じられる微笑を浮かべて
「そうですか」
と、声の調子を少し下げて返事をした。


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モドル