ひたむきなもの-3-

天馬に乗っての移動と慣れない城でのもてなしは、クロードをへとへとに疲れさせた。
彼はあてがわれた客室で、女中が持って来てくれた温かい茶を飲んで、いつもよりはだいぶ早い時間に床についた。
それでも翌朝は早起きすることもなく、いつもとまったく変わらない時刻に目覚め、摘む程度の軽い朝食を胃に入れた。
ラーナはすでに朝から務めがあったらしく、クロードが目覚めた時刻には既に城にはいなかったという。
彼が朝食後すぐに書庫にこもったのは、そのラーナの多忙さに触発されてのことだ。
クロードは、自分が読みたいと思っている内容の書物と、シグルドから頼まれていた種類のものを、ひとまずより分けた。
直接持ち帰ることが出来る書物は限られており、ほんの10冊にも満たない。クロードはひとりで天馬に乗れないのだから、必ず二人乗りになる。
荒れやすい冬のシレジアの気候で、天馬の二人乗りで運べる重量は限られている。
残りの物は、後から天馬騎士達によってセイレーン城へと運ばれることになっていた。
(まずは、シグルド公子が一番好みそうなものと・・・)
シグルドはクロードがシレジア城に行くことを快く承諾してくれた。そんな彼に頼まれていた物を二の次には出来まい。
この書物達を誰が管理をしていたのかは不明だが、驚くほどそれらは雑然としており、分類されて整理されていたような形跡がまったくない。
はじめはそれに戸惑い悩んだけれど、むしろ、普段自分が目を通すはずもないようなものに触れられる良い機会だとクロードは思うことにした。
中にはシレジアの古い言葉ーーシレジア自体はそう古い国ではないはずなのだがーーのようなもので記されているものもあり、それはクロードが完全に読むことなぞ出来ないものだった。
「おや・・・」
中には、シレジアでかかれたものではない書物もあった。
明らかにアグストリア近辺で書かれた思われるようなものや、グランベルの昔の語り部の口頭伝承を綴ったものなど、誰がどこから入手したのかもわからないもの達。
その中に、ブラギについて書かれている書物を、彼はみつけた。
「不思議なものだ」
一生来るはずもないと思っていた、この地で。
司祭である自分が、ブラギについて書かれている本を、興味深そうにめくっているなど。
それもまた、神の導きか、大いなる力が示す道しるべの方角か。
そう思えば、この地で自分ができること、なすべきことがあるのではないかとクロードは思う。
なのに、実際はどうだ。
自分は何をするわけでもなく、人々の温情に甘えて、この国に身を隠しているだけだ。
ならば、なおのこと、自分の話に耳を傾けてくれる人々から、何の報酬も受け取るわけにはいかないではないか。
クロードは次の本を手にした。
シレジアで昔から伝わる保存食の作り方が書いてあるものだった。
冬が長いシレジアでは、冬に入る前にうんとたくさんの保存食を作っておくのだと聞いたことがある。
吹雪が長くなれば食料品を買いに行くこともままならなくなるからだ。
中には、干し肉や干し魚だけでなく干し野菜の作り方、それからたっぷりと砂糖を使った焼菓子やジャムの作り方まである。
(そういえば、ベルさんも言っていたな・・・今はまだ冬の始まりだから、たくさん保存食を作るって)
仕立て屋のベルだけではない。
セイレーン城下町でクロードの話を聞きに集まる時に、交代で焼菓子を持ってくる女性達は、きっとみな、保存食として今作り置きする焼菓子を作っていて、それのついでにクロードにくれるのだろう。
そう思えば「ついで」のものを貰っているのだから、こちらが恐縮し過ぎるのもいけないか・・・という考え方もある。
けれど、やはりクロードにはそうは思えないのだ。
厳しい冬を越すための大事なもの。
それを貰うに値するものを、自分は彼らに与えてはいないだろうと思うし、どこかで「シレジアの民への申し訳なさ」を感じている自分もいる。
何故だろう。何故、こんなにも申し訳ない気持ちで、自分はいつも苦しくなるのだろうか。
と、彼は開いていた本をぱたんと閉じて、自らの瞳をも閉じてうなだれた。
頭が、痛い。
それは、初めて感じる痛みではない。
シレジアの厳しい寒さに負けたわけではない。
確かにクロードは体力も筋力もなかったし、食も細い。けれども、それと体が弱いということは同じではない。
痛い。
何かを。
何かの「ほんとう」を探ろうと思考を動かすと、いつもどこかで「それ」は彼を苛む。
ゆっくりと顔をあげ、ゆっくりと瞳をあける。
痛むこめかみに指を押しつけて、彼はそれをゆっくりと揉みほぐした。
日々、その頭痛と睡眠不足に彼が戦っていることを、誰も気づいてはいなかった。
気づかせたくなくて、あの可愛らしい少女が望むような形で、冬の夜を過ごすことも拒んでいる。
もしかしたらこれは、身の程も知らず真実を知ろうとした自分への戒めではないかと時折思う。
シグルド達のために、国のために、グランベルを襲っている潜んでいる狂気の真実を知るため、彼はブラギの塔に赴いた。
真実を知ることが出来る、神に最も近い、選ばれた男。
そう呼ばれ、そう信じられてあの塔へ行った自分に、確かにブラギ神は神託を与えてくれた。
けれど、それは分不相応なもので、引き替えに自分はその戒めを与えられたのではないかと思う。
その戒めに苦しむ姿を、あの少女には見せたくない。
夜、彼女の部屋に行ってしまっては、彼女はきっと自分の手をそっと掴んで、悲しそうな顔をするだろう。
彼女らしく怒ってみても、その瞳は陰っており、本当は怒りではなくて悲しみの方が深いことを、彼はもう知っている。
(わたしは、彼女を悲しませたり怒らせたりばかりしている)
不甲斐ないとも思うけれど、それもどうしようもない。
自分一人では彼女を喜ばせることも出来ず、もらった焼き菓子を口実に会いにいくことが精一杯だ。
そんな自分が、彼女が得た報酬で、何かをもらうわけにはいかない。
自分は、彼女が欲しているものを何一つあげられないというのに。
「・・・おや」
少しだけ頭痛が収まり、ふっと目を開けると、部屋の隅にまだ重なったままの書物の山が目に入る。
美しい色使いの表紙。
それは、薄暗い灯りの中でもそれとわかるほどの、優しい色をふんだんに使ったもので、ほかの書物に紛れていることが不自然なものだった。
目を引いたら、無視することが出来ない。
クロードは苦笑をした。
まるでそれは、あの少女のようではないか。
彼は立ち上がって、手を伸ばす。
部屋の隅に積まれていたその本は、温かな色使いとは裏腹に、当然のように冷えきっていた。


何度も何度も、繰り返して書く、好きな人の名前。
紙に書き続けたその文字の形は、もともと文字の読み書きが出来る人間が見れば、伝達のための、どうということのない記号にしか見えないだろう。
けれど、もともと文字をよく知らないシルヴィアにとって、その形は彼そのものを表す大切なものとして、とても愛しく感じられる。
クロードに最初に教えてもらった文字の見本はあるけれど、何度自分が真似をして書いても、どことなく違う気がしてならない。
その「違う」が、他人から見た時に、紙に書いたその文字が「彼の名前」であると理解してもらえる程度なのか、それを判断することは彼女には難しい。
彼女は、暖炉の側に持っていった小さなテーブルで文字を書いていた手を、ふっと止めた。
(でも、もし、あたしが書いたこの文字が)
あの優しい人の名前に見えない、と言われても。
今の自分にとっては、これが彼を表す精一杯。
(他の人が知ってる神父さまと、あたしが知ってる神父さまは、きっと違うんだ。だから、これで、いい。きっと神父さまはわかってくれるに違いないんだもん)
彼女のその思いを誰かに告げれば、「文字というのはそういうものではない」ときっと言うに違いない。
けれども、彼女はそれを誰に告げることもなかったし、当然ながら彼女を諭そうとする人間もここにはいない。
シルヴィアは、練習用の黄ばんだ紙をどけて、淡い水色のカードを自分の前に置いた。
何度も練習を繰り返して彼女が気付いたことは、文字を丁寧にゆっくりと書こうとしすぎても、なんだかぎこちない形になってしまうということだ。
水色のカードは、二枚しかない。
シルヴィアは暖炉に手をかざして軽く温めて、それからカップに入っている冷めた茶を一口飲んだ。
「うー!普段っ、こんな、緊張しないのにっ!」
ぶつぶつと独り言を呟く癖は、以前からのものだ。
彼女は物心がついたときから、あまり恵まれた環境で生きてこなかった。
うんと小さい頃の記憶は彼女にはない。
どうにか思い出せる記憶を辿っても、いつも自分は誰かといて、けれども明らかに「一人」ぼっちだったように思う。
旅芸人の仲間と旅をしていても、一人で町を点点と歩いても、いつでもそこには同じ孤独があった。
好き、とか、可愛い、とか、彼女を舞い上がらせる言葉をくれた男と一夜を共にしても、それは続く夢ではなかったし、彼女自身その孤独を知っていたからこそ、ゆきずりの男に簡単にほだされてきた。
踊る彼女にいい寄る男のほとんどは、踊り子が簡単に男と寝ると思い込んでいる下卑た人間だった。
もちろん、それに気付かないほど彼女は阿呆ではない。
相当に子供のうちに、彼女はそれを感づいていたし、自分より年上の踊り子が泣いている姿もあちこちの町で見てきていた。
それでも、時々彼女はいい加減な恋愛にうつつを抜かしていたし、事実シレジア王子レヴィンを追いかけていたのだって、彼が彼女を「可愛い」と言ってくれたからだ。そして、たまたま彼の造作が彼女好みだった、それだけの理由といっても過言ではない。
クロードは、簡単に彼女に「可愛い」とか「好き」とか、彼女が喜ぶ直接の言葉を口にしない。
シレジアに来てから交流が深まり、いつしか関係が変わってからも、変わる前からも。
それが最初は物足りなくて、何度も「ねえ、神父さまは、あたしのこと好きなの?」と問いかけたものだった。
いつも、その答えは「はい」の一言。
あっさりとした肯定に、彼女は更に苛立って、彼を疑ったりもした。
レヴィンと恋仲になったフュリーを少しだけ羨んだり、クロードを好きになってしまった自分を怨んだりも少しだけした。
けれども、彼女は元来頭の良い人間だから、ふとした拍子に気付いたのだ。
彼女は、クロードが好きだ。では、どこが好きなのかと問われれば、それを説明することは難しすぎる。
今まで自分が知らなかった、言葉に出来ないもっともっと深い、見えない何か。
人を好きになる気持ちには抗えないように、愛しさの理由とは簡単に言葉に出来はしないのだ。


シレジア城からセイレーン城にクロードが戻る予定だった日。
城の外に視察に出向いていたラーナが城に戻る時刻がずれ込んでいた。
天馬騎士はクロードに出発を促したが、さすがにラーナに一言も礼を言わないまま去るわけにはいかない、と彼はぎりぎりまで待った。そして、その結果セイレーン城に到着するのが、予想以上に遅い時刻になってしまった。
シレジアの冬は、夜の到来が早い。
送ってきてくれた天馬騎士をそのまま帰すのも申し訳ないほど、空は暗く、そして外気は既に真夜中ではないかと思えるほどの冷たさになっていた。
結局、フュリーが気を利かせて天馬騎士が一泊できる部屋を用意してくれたおかげで、クロードもほっと一安心できたのだが。
クロードは、夕食を終えて自室に戻ったばかりのシグルドの元に行き、2冊書物を手渡した。
シグルドはクロードへ労いの言葉をかけ、早速寝る前に一冊読もう、と一言添えた。きっとそれは本当のことだろうが、その一言はクロードに対するアピールでもあるに違いない。
案外とシグルドは如才ない、とクロードは内心思ったが、それは悪い意味で捉えているわけではない。
「クロード神父」
シグルドの部屋から退出して自室へ戻ろうと歩いていたクロードは、通路の先の角を曲がってきたベオウルフと出会った。
「ああ、今日が帰りだったのかい。お疲れさん。寒かっただろ」
「さすがに、この時間空を飛ぶのは体に相当堪えますね。ああ、ここ数日の留守、ご迷惑をおかけしました・・・といってもわたしがいなくとも困ることはなかったでしょうし、留守の間の礼を言うのも、おかしいことかもしれませんね」
そう言ってクロードは軽く頭を下げた。それへベオウルフは
「そーでもないぜ」
と小さく笑みを見せる。その言葉に戸惑って瞬きをするクロードに
「あんたの大事な踊り子ちゃんが、ここ最近踊りに来てくれないって、酒場の親父にごねられた」
「え」
そのベオウルフの言葉は、まったくクロードにとっては予測不可能なもので、そして、それと自分の留守に何の関係があるのかを思いつくことだって出来やしなかった。
「それは・・・えっと・・・」
「まあ、別にいつも酒場に出入りしているわけじゃねぇし、たまには城にこもって何かやりたいことだってあらあな。ただ、なんての。普通は逆かなあ、とも、思うんでね」
「普通は逆・・・」
ベオウルフのその言葉も、クロードにはうまく伝わらない。
彼は「普通は、恋人がいれば城から出なくて、恋人がいなければ遊びに出るんじゃないか」と言いたかったのだが、とりたててそれをクロードに説明しようとも思わなかったらしい。
まっ、いいや、と軽く言ってベオウルフは肩をすくめた。
クロードの方もそれを追求する気にならなかったようで、ただ単に(シルヴィアはずっと城にいたのか)とぼんやりとそのことを思うだけだ。
「あっ、それからな、昨晩、酒場で鍛冶屋のターウィンに会ったぜ」
「ああ、ターウィンさん」
「息子が、あんたの話を聞くのを楽しみにしてて、あんたから話を聞いた日は、家でそのことをよく話してくれるんだそうだ」
鍛冶屋のターウィンの息子は、先日城下町で会ったデューカスだ。
クロードは小さく口端をほろこばせた。
「大した話はしておりませんが、そう言っていただけますと嬉しいですね」
「この国は、冬になると人々が集う場所が減る。大人は寒くとも、夜酒場でくだをまけばいいが、子供達はそういう場所が教会ぐらいしかない。ターウィンとこのガキは、教会が苦手らしいが、あんたのことは好きなようだ」
ベオウルフはそう言って、軽く手をあげて「じゃあな」とその場を去った。
彼はクロードに特に返事を求めていなかったし、クロードもまた、この寒い通路での長話を望んではいなかった。会話をしていたお互いの言葉は、常に白い息として目に見えるほどだったし、クロードは城に戻ってからまだ一度も、しみじみ暖炉にあたることも叶っていない。
それに、ベオウルフはベオウルフで、シルヴィアのこと、デューカスのこと、それぞれを間違いなくクロードに伝えており、彼としては十分過ぎるほどの伝言役を果たしている。これ以上の会話は必要ないことは明白だ。
(それにしても、シルヴィアは城で何をしていたんだろう。あの子は、この寒い中でも結構出歩いていたけれど・・・)
酒場でみんなが自分の踊りを見てくれるのが楽しいのだ、とはっきりと彼女は言っていた。
シレジアでは冬の夜の深さがグランベルの比ではないため、酒場に出入りする人間も、早い時刻から飲みはじめ、早い時刻に帰宅をするらしい。
だから、シルヴィアもその時間に合わせて遊びに出向き、時々踊っては思いのほか早い時刻に城に戻ってくるのが常だった。
彼女は酒を飲むことが好きというわけではないことを、クロードは知っていた。
時には酒を飲んで高揚した気分で踊ることも楽しいが、彼女の本当の舞はそういうものではないと、彼は理解をしている。
戦場で舞う彼女の姿は、酒場で人々を盛り立てるそれとはまったく違う。
酒場での明るい彼女の踊りは収入源ではあるが、本当にシルヴィアがその小さな体で表現すべきものは、それではないのだと常々クロードは思う。
(あの子は、選ばれてしまっている。何者かに。それを自分では気づいていないけれど)
クロードは自室に戻って、テーブルの上に置いてある本を手にして再び部屋を出た。
(人々は、わたしを「ブラギに選ばれた者」だという。けれど、真実は違うのだ。選ばれるということは、そういうことではない。真に「選ばれてしまった」人間は、自分がそういった存在であることを知らず、そして、選ばれただとか選ばれないだとか、そんなことは関係なく、ただただ『自分自身である』ことに忠実なのだ。それが、選ばれて、そういった存在でい続けるための素質だ)
彼が信じる神とは唯一無二のものというわけではなく、また、人間に対してもみな久しく何もかも平等に与えるものだとは考えられていない。
彼はブラギの塔の祈りの間に入ることを許可されており、それは彼の中に流れる聖戦士の血によるもので、それだってある意味初めから選ばれていると言える。
けれど。
真に選ばれた者とは、血によるしがらみで得たものではなく、その固体に与えられた生まれもっての力をもつものだと彼は思う。
シルヴィアという存在を知ってから、その思いは彼の中で膨れ上がり、いつだって彼の前で彼女は光輝く存在だった。
そう。
自分を好きだと言ってくれる彼女に、自分が応えたことが正しかったのかと、何度も思わずにはいられぬほどに。
恋愛にそもそも晩生な自分にとってシルヴィアという恋人は、色んな意味でなかなかに荷が重くもある。
彼はあまりにも彼女への思いを外側に出すことに臆病で、また、自分自身で意識的に自制をすることも多い。だから彼女は不安で、時折彼女の感情をまっすぐと彼にぶつけてくる。
それを受け止める器量は彼になかったし、彼は彼女を傷つけてしまうことも恐れ、そしてまた、自分の苦しみを知られることを恐れ、彼女にすら一線を引いたまま今日まで来た。
それでも、彼は本を手にしてシルヴィアの部屋に向かった。今日は、彼女に会いに行く口実がはっきりとあるからだ。
いつだって彼女はクロードを待っている。それを彼は知っている。
彼らを囲む人々の中には、恋仲同士で一つの部屋で、この寒いシレジアの冬を越す者もいる。そして、本当はシルヴィアも彼とそういう間柄になりたいのだろう。
そんな彼女の気持ちを、クロードは叶えてやることがどうにも出来ない。
(もしも、ここがエッダならば。自分の領地であれば。頭首であるわたしが、踊り子である彼女と恋仲になることも、許されなかったことだろう)
そして、体を重ねる間柄になったとしたら。きっと、自分を囲むグランベルの人間はみな、「エッダ家頭首ともあろう者が」とか「聖戦士の血をひく者が踊り子風情などと」なんていう冷たいことばでクロードを叱りつけるに違いない。
彼は、職業に貴賎なし、と誰もが思っているわけではないと知っていた。たとえシルヴィアの舞いを見て、その素晴らしさを知ったとしても、踊り子とエッダ家頭首の立場は相当に離れていて、歓迎されるものではないことも理解していた。
(けれど、本当はそうではないのだ。本当は、その立場は、真逆のものだ)
物思いにふけりながら歩いたクロードは、あっという間にシルヴィアの部屋の前に着いた。
ドアの足元には、僅かに灯りが漏れている。
コンコン、とノックをすると、中から「はあい」という可愛らしい声が聞こえた。
「シルヴィア。わたしです。クロードです。夜分に申し訳ありません」
彼の言葉が終わる前に扉は開き、部屋着に身を包んだシルヴィアは有無を言わさずにクロードの手をひいて、部屋の中に引きずり込んだ。
「お帰りなさいっ!待ってたのよ!」
「遅くなって、申し訳ございませんでした」
クロードはもう一度謝った。
室内は大きく燃え盛っている暖炉の火のおかげで相当に温かく、クロードは自分の体温がじわじわと上がっていく様子を感じ取る。
「暖炉の側に、座って。まさか、顔見せて、それで終わりっていうわけじゃないでしょっ?」
「あ、はい。じゃ、失礼しますね」
クロードは扉の側のチェストの上に本をひとまず置いて、暖炉近くの椅子に腰掛けた。
シルヴィアは嬉しそうに笑顔を見せて、いつも以上に手早くクロードに茶を淹れ、いつも自分が使っている膝掛けを彼の膝にかけた。
「あの、シルヴィア。実は」
「待って待って。神父さまのお話は聞くけど、その前に今日はっ、あのね、あたしからっ」
彼女がクロードの言葉を強引に遮る時、いつも彼は口を閉ざして静かに彼女に「番」を譲る。
今日もまたその通りであり、シルヴィアはまるでそれが当然の権利のように、自分のペースで言葉を続けた。
「本当は、神父さまが出かける前にあげられたら、丁度よかったんだけどさ。空飛ぶのって、寒いじゃない?って、想像だけど。これ、えっと、今度城下町に行く時にでもさ・・・はい」
「え?」
シルヴィアは、彼が座っている横から紙袋を差し出した。
両手に余るぐらいの大きさの袋をクロードは受け取り、不思議そうにシルヴィアを見上げる。
「ここで見られるの、ちょっと照れ臭いけど。でも、見てもらえると、それはそれで嬉しいなっ」
「あ、はい。見て・・・いいでしょうか?」
「見て、って言ってるのよ」
戸惑っているクロードを急かすように、シルヴィアはそう言った。が、自分では「見ろ」と言っているくせに、不意に恥ずかしくなったのか、彼女はクロードの脇を離れ、勢いよくベッドに腰掛けた。
もともと彼女は動きが大きい方ではあるが、こんな風に粗雑な動きをする性質ではない。普段のクロードなら、それが彼女の照れ隠しとわかるのだろうが、今は彼もまたいくらか尋常ではない状態だったため、気付くことは無かった。
袋の口を開けて、最初に彼の目に飛び込んできたのは小さな水色のカードだった。
(わたしの、名前だ)
名前しか書いていないカード。
知らない人間が見れば、それはあまりにもそっけなく、カードとしての役割を果たしていないのではないかと思うだろう。これはプレゼントに添えたカードではなく、ただの名札だ、と。
しかし、そうではないことをクロードはわかっている。
「これを、書いてくれたのですか」
「う、う、ん」
カードを袋から出して、クロードはシルヴィアを見た。
いつもの彼女の陽気さはそこにはなく、どうしようもない居心地の悪さに、自室だというのに彼女はきょろきょろと辺りを見回した。
「その、あんま、うまく書けなかったけど、でも、それが今のあたしの字では、一番、うまく出来たほうかしら」
「ええ。上手になりましたね」
「・・・ほんとっ!?」
「はい」
クロードは、水色のカードにシルヴィアが書いた彼の名前を見つめた。
あまり、上手ではない。しかし、初めに教えた日よりもかなり上達していることを彼は知っている。
一所懸命練習したのだろう、と想像するだけで、クロードは頬が緩んでしまう。なんとなくそれを耐えようと唇を引き結んでみるが、嬉しい気持ちというものはなかなか抑えることが難しいようだった。
(これを書くために、わたしに)
「神父さま、あの、さ、カードだけをあげたくて、それ、えっと、袋。あげたわけじゃないんだから」
「あ」
じんわりと嬉しさに浸っていたクロードは、慌ててカードをテーブルの上に置き、袋の中身に手を伸ばした。
袋に入っていたのは、柔らかなもの。温かなもの。
がさがさと音をたててそれを出すと、クロードは声をあげた。
「どうしたんですか、これは」
「うん、それ、神父さまに、あげようと思って」
「・・・買ってくださったの、ですか。あ、いえ・・・違い、ますね」
シルヴィアが彼に渡したものは。
毛糸で編まれているあまり長さが無い、木のボタンで留めるマフラーのようなものだった。
落ち着いた緑色の毛糸と茶色の毛糸が交じり合っているそれは、ちくちくとした感じもなくとても柔らかで温かいけれども軽い。クロードが見たことの無い編み模様で作られている。
初めは買ったものかと思ったが、その編み目の不揃いさや端と端で幅が違っていることに気付き、まさか、とクロードは声をあげた。
「あなたが、作ったのですか。これは」
「・・・だって、しょうがないじゃない。買ったら、神父さまもらってくれないでしょ。毛糸だって、普通に買ったんじゃないんだから。それは、えっと、去年の残りで、中途半端な分しかないから引き取ってもらいたいって、そういわれて、びっくりするほど安くしてもらったの。ほんと、驚くくらい。ほとんど、タダでもらったのと変わらないぐらいだから、その、神父さまが焼菓子くれるのと一緒で・・・だから、いいでしょ?」
非難の問いではなかったのに、シルヴィアは言い訳をするようにそう言った。
回りくどい回答ではあったけれど、どうやらこのマフラーらしいものをシルヴィアが編んだことに間違いがないらしい。
「あたし達には、ちょっと珍しい感じでしょう?シレジアでは、そういう編み地が多いんだって。フュリーがさ、教えてくれたの。そんで、自分の分作ってみたらまあまあうまくいったから、そしたら、神父さま、城下町行く時・・・いっつも薄い春用みたいなのしてるから・・・寒い日は、これつけてくれたら・・・みんな神父さまのこと待ってるみたいだしさ・・・また焼菓子もらって来てくれたら、あたし、嬉しいし・・・いつも、あたしだけにくれるでしょ。だから・・・その・・・ね」
ベッドの端に座って足をぶらぶらさせながら、シルヴィアはべらべらと勝手に話していた。
それは、話続けなければきっとクロードが何かを言うに決まっていて。それがなんだか怖くて先延ばししたい気持ちの表れだ。
無理に「それから、それから」と彼女は言葉を続けようとした。
が、突然はっと気付いたように
「もしかして、気に入らない!?その、毛糸の色、あんまりなかったから選べなくて・・・あっ、それとも・・・やっぱり、あんま、上手じゃないから嫌、かな?」
「いえ、いえ。嫌なんてことはありません。シルヴィア」
ありがとう。嬉しいです。
そう言おうとして、クロードは一瞬喉の奥で言葉が止まる、もどかしい感触に苛立った。
まただ。
また、どこかで。
自分の中の何かが、彼を止めようとする。
(彼女に、こんな風に思ってもらうなんて、なんと申し訳ない。自分は、取り返しがつかない恋に落ちているのではないか)
たくさん、シルヴィアは妥協したのだろう。
彼女は、焼菓子を持ってきてくれるクロードに、何かを返したいと思っていたに違いない。
けれども、クロードは彼女が彼に何かを買うことを拒んで。
それに、彼からすればそもそも焼菓子は人から貰ったものであり、彼一人では消費出来ないのが事実だ。もちろん、そればかりではなく、彼がシルヴィアに会いにくるための口実――それは、彼自身への――ともなってくれるものだから、こんな風にシルヴィアに感謝されて物を返されるいわれはないのだ。
だから、いらないと頑なに拒んでいたのに。
それでも彼女は何かを彼に渡したかったのだろう。
「ほんとに、嫌じゃない?大丈夫?あたしが作ったものでも、神父さまは、受け取ってくれる?」
「・・・!」
そのシルヴィアの言葉に、クロードは息を呑んだ。
そして、自分がどれほど彼女を不安にしているのか、どれほど利己的なことをしているのかに改めて気付き、深い溜息をついた。
「神父さま?どしたの」
怯えの見える声音。
そうさせてしまっているのも紛れもなく自分なのだと知りつつ、クロードは穏やかに礼を言った。
「シルヴィア。ありがとうございます。今度出かける時には、ありがたくこれを使わせていただきますね」
「ほんと?」
「ええ」
編み目の揃わないマフラーを首にまいて、鎖骨の間あたりのボタンで留める。
まきこんだ髪の毛を軽くはらって、クロードは予想以上の襟元の暖かさに笑みを見せた。
「ああ、これは温かいですね。軽いのに、これ一枚で大分凌げる寒さが違うように感じます」
「だといいんだけど。なんか、この編み目だとさ、結構なんていうの。ぎゅっとしてるから、軽い毛糸で編むのがいいんだって言われてね。でも、軽い毛糸って高いから・・・自分で、玉も巻いたのよ」
クロードには、シルヴィアがもごもご最後の辺りに言っていた意味が初めわからなかったが、なるほど、毛糸を玉状にするという作業があるのか、と後付けで気付く。
シルヴィアはようやくほっとしたのか、ベッドの縁から腰を浮かせて、自分の分のティーカップを手にした。
その彼女の様子を見てから、今度はクロードが立ち上がり、持ってきた本を取りに行く。
「神父さま?」
「わたしも、土産があるんです・・・といっても、この城のものとなるので、あなたに差し上げるわけにはいかないのですが」
「何?」
怪訝そうに眉根を寄せて、シルヴィアは立ち上がった。
彼女があげたばかりのマフラーを巻いたままのクロードは、彼女に近づいて一冊の本を差し出す。
「何、これ」
明らかに警戒をしている声音。
彼女の表情からは、なんでこんなものを、という不平が既に滲み出ていたが、それはクロードの予想通りだった。
彼は穏やかに、当たり前の返事をする。
「本ですよ」
さすがにその答えにはシルヴィアも更にむっとして、唇を尖らせた。
「見ればわかるわよ。あたし、あんまり読み書き出来ないって知ってるでしょ」
「でも、綺麗でしょう?」
「・・・うん」
黄色、黄緑色、水色、青色、紫色、赤色、橙色、そして黄色。
たくさんの色が滲んだように重なり合っているだけの、「何」を描いているのかの対象物がよくわからない表紙。
古い本であることは、背表紙の割れや紙の変色でわかるけれど、それでも間違いなくその本は美しいと思えた。
「最近は木版で刷るという技術もあるようですが、それには膨大な時間と人の手が必要です。古い書物は、大体がこの世界で一冊だけのもの。しかも、これは絵師の作品でしょうね」
「えし」
シルヴィアは、彼から本を受け取り、ぱらりと紙をめくった。
それは書物の形にはなっているけれど、なるほど、彼が言うように絵師の作品であるのだろう。
綺麗な色達。
絵の上には、無造作に言葉がぽろりぽろりと単語で乗っている。
一枚の絵に、三つ、四つ。
シルヴィアが開いたページには、青色を基調としていくつもの色が重なりあい、滲んでいる「何」とも言えないものが描かれていた。
「海みたい」
「そうですね。シルヴィア、ここに書いてある字があるでしょう」
「うん」
「それが、海を表す文字ですよ。それが、海です」
「じゃあ、これは」
「これは、空です」
「これは」
「これは、夜です」
「夜?夜は、青くないよ」
「時々、空が青い夜が、あるのですよ」
「嘘」
「本当ですよ。闇夜はじっと見上げていると黒くなくて、むしろ藍色に近くて・・・そういう夜に月が明るい日は、月の周囲は青く見えるんです」
シルヴィアはぽすんとベッドの縁に再び腰掛けた。
その横にクロードも腰を降ろす。
海。空。夜。指を指しながらシルヴィアはその言葉を口に出し、初めて認識したそれらの文字をそっとなぞっていく。
それから、視線を落としたままクロードに話し掛けた。
「どうして、神父さまはこれを持ってきたの。シレジア城にあったんでしょ。もっと、色んな本があるんでしょ」
「あなたが、わたしの名前を書いてくださったので、もう少しでも文字を教えてあげられたらいいな、と思って」
「・・・だって、あたし、神父さまの名前以外、いらないって思ってたのよ」
「そうかもしれませんね」
「文字だって、その、覚えたいって思ったんじゃないの。神父さまは、その、なんていうの。貴族でさあ、なんか、そういう形式っていう感じのものがあるでしょ。あたし、何も知らないし、高いものあげようとしたって神父さまもらってくれないから、でも、あたしみたいなさ、踊り子なんかが、神父さまに物あげたらそれも困るんでしょ。だから、ちょっとでも、それっぽくしたくて。だから、別に、あたし、本当は文字なんて」
「ええ」
「あたし、これを神父さまが持ってきてくれたことも、嬉しいけど、それよりずっと」
「・・・」
「シレジア城で、神父さまがあたしのこと思い出してくれたんだって、そのことの方が嬉しい・・・」
そう言ってシルヴィアは顔をあげて笑った。
彼女の笑顔は、いつも本当に明るく屈託がなくて、人々の気持ちを盛り上げるものだ。
けれど。
ぽろりと大粒の涙がその瞳から零れ落ち、彼女の表情はゆっくりと歪みを見せた。
「シルヴィア」
「なんでもない!なんでもないの!」
「なんでも、ないわけがないでしょう」
「なんでもないんだったら!」
クロードはおろおろとシルヴィアのその様子を見て、どうしてよいかわからぬまま手を出そうとした。
が、それをシルヴィアは振り払う。
「あっ・・・」
「いいの!これ以上、幸せになっちゃったら」
「・・・」
「明日、死んじゃいそうだから!いいの!」
馬鹿なことを、とクロードは口走りそうになり、それをどうにか喉もとで留めた。
シルヴィアのその口調、表情から、彼女の言葉が冗談ではないと彼は理解をする。
本当はそうではないのだ、とクロードは説明をしたかった。
自分はシルヴィアのことを毎日何度も考えるし、彼女に会いたい、彼女の姿を見たいとも何度だって思う。
彼が彼女に対して愛情をうまく表現出来ないのは彼のせいだし、彼女は何も悪くない。
彼女の性格も、その姿も、そして彼女自身が先ほど口にしたように踊り子であることも。どこで生まれ育ったのかがわからなくとも。それらは、クロードが彼女を愛しく思うのに、何の弊害にならないし、彼女を貶めるものではない。
それでも。
それでも、そのことを伝えることが難しくてどうしようもない。
自分はどうしようもなくただの情けない自分であり、そして、己を貶めずにはいられぬほどに無力で、それどころか日々何かに苛まされ続けている。人々が思っている「神の声を聞く選ばれた者」は、人々の心の中にいるだけなのだと彼は思わずにはいられない。
そんな自分が、この優しい子を。
「シルヴィア」
「あっ・・!」
クロードは、ベッドに腰掛けたままシルヴィアの体を両腕で抱いた。
シルヴィアは一瞬体を強張らせたけれど、もともと彼女はそういった異性から与えられる温もりに抗う女性ではない。
「神父さま」
「そんなことは、言わないで下さい」
「だって。だってさあ、あたし・・・何したら、喜んでもらえるか、わっかんないし・・・」
それは、こちらのセリフだ。
クロードはそう思ったけれど口には出さず、抱いたシルヴィアの髪にそっと頬を寄せた。
「明日死ぬなんて。冗談でも、やめてください。お願いですから」
「神父さま」
「あなたは、わたしを、一人にするつもりなんですか」
「・・・え」
シルヴィアは愛しい男の腕の中で、不意をつかれて間の抜けた声を出した。
そして、口走ってしまったクロードの方は、一体何故そんなことを言ったのかすらわからず驚いた。けれども、彼のその驚きには焦りがなかった。
そうだ。彼は憮然としていたが、あまりにものんびりと「どうして、そんなことを言ってしまったのだろう」と思い、また、「どうして、一人になるなんて思ったのだろう」と、決して答えがみつからぬとわかっている問いかけを己にしているような、そんな風に感じていた。
そのクロードの言葉をどう捉えたのか、シルヴィアはもぞもぞと彼の腕の中で動き、彼を見上げる。
「死なない。明日死んだりしないから、神父さま」
「はい」
「城下町に行ったら、また、焼菓子もらってきてくれる?」
「はい」
「そんで、あたしのところに来てくれる?」
「はい」
「それから、えっと・・・あの本、他の絵も・・・一緒に見て、教えてくれる?」
「はい」
まるで、他の言葉を忘れたかのようにクロードは肯定の返事を繰り返す。
いつもならばそれにシルヴィアは不満を感じて言葉で噛み付くが、今日はそれがない。
今彼女は、本当に欲しかったものをようやく彼から与えられ、この僅かな抱擁によって何もかもが報われたように感じているのかもしれない。
肯定の言葉を導くための質問が思い当たらなかったのか、シルヴィアはそこで言葉を止めた。
彼女は真剣な面持ちでクロードを見上げ、クロードもまた決して彼女から視線を逸らさなかった。
ようやく彼女が次に口にした言葉は、先ほどのような問い掛けではなく、はっきりとした意思表示だ。
「ありがとう。神父さま」
「いいえ」
「ほんっとに、ありがとう」
「いいえ」
繰り返される同じ感謝の言葉と、繰り返される否定の言葉。
クロードはどうしても彼女のその言葉を受け入れることが出来ず、彼女を傷つけてしまうかもしれないと思いながらも否定を続けた。
それでも、腕の中の彼女は、自分をようやく抱いてくれた彼の腰に腕を回して体を摺り寄せ、何度も何度も「ありがとう」を繰り返す。
きっと、シルヴィア自身、一体自分は何をクロードに感謝しているのかよくわかっていないに違いない。
そして、クロードもまた、何故彼女がそれを繰り返すのかはわからなかったけれど、その「何故」を自分から問いたいとは思わない。
ただわかっているのは、彼女が彼に対して告げた感謝の数よりも遥かに多い量、自分は彼女に礼を言わなければいけないのだろうということばかりだ。
がたがた、と夜の風に震える窓枠の音、暖炉で火のはぜる音。
それらを聞きながら、「ああ、寒くなくとも、人は寄り添い合うものなのだ」とクロードはぼんやり思い、愛しい恋人を抱きしめて瞳を閉じた。


Fin


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モドル