わたしはだんだん醜くなる-1-


自分が恋している相手が自分ではないパートナーと幸せな日々を過ごす姿。
それを見続けなければいけない人間は、この世界にどれくらいの人数いるのだろうか。
そして、どれくらいの人数が、その思いを己の中に封じたままでいるのだろうか。
アイラは「幸せな二人」に曖昧な笑みを見せながら、時折そんなことを考える。
たとえ、自分と同じ立場の人間がいるとしても。
そして「この人がそうだ」とわかったとしても。
きっと、自分はその人間とは仲良くはなれないだろうとも思う。
何故なら。
こんなにも浅ましい自分の思いを、その相手はよく知るのだろうから。
自分のそんな部分を根こそぎ理解出来るような人間と、自分は面と向かっては接することは出来ないだろうから。
多分、自分はまだそこまでの強さは手にしていないのだ。悲しいことに。


シグルド公子が美しい妻――ディアドラ――を娶ってから、その懐妊が発表されるまでには、そう長い日数はかからなかった。
彼を取り囲む仲間達は、二人の婚礼時に負けないほどに誰もが我先にとそれを祝福した。
明るいニュースらしいものがあまりなかった彼らにとっては、こんなに手放しで大騒ぎが出来ることなぞ、なかなかになかったから尚のことだ。
シグルドの妹であるエスリンは「ようやくわたしも叔母さんになるのね」と笑って二人を祝福し、父親としてはシグルドの先輩になるキュアンは「わからないことがあればなんでも聞いていいからな」と恩着せがましく彼に言ったものだ。
イザークの王子であるシャナン少年は、自分より年下の者と接することは経験していたが、それまで知っていた女性が子供を宿した様子を見たことはなかった。そして、これから生まれてくるであろう子供に対して、何かしらの期待を寄せることも、彼の人生では初経験のことだ。
彼は何度もアイラに「いつディアドラの子供は産まれるの」「どれくらいお腹は大きくなるの」などと聞いては、アイラに「そういうことは本人に聞けば、喜んで教えてくれるものだ」と言われた。アイラのその言葉は間違っておらず、シャナンの素直な問いかけはディアドラにとって何よりの「宿した子供への興味と祝福」であり、いつでも彼女は優しくシャナンに応える。
彼は、親族の中でも自分より年下の者を知らなかった。
イザークがあの平和な以前のままの姿でアイラの兄が生きていれば、ちょうどシャナンにも弟ないしは妹がそろそろ生まれていてもおかしくはなかったのだが、それは叶わない話だ。
そしてアイラもまた、あのままのイザークで年齢相応に婚礼をあげていれば、今のディアドラの立場と同じようになっていたのかもしれない。
王族という立場を考えれば、アイラは年齢的に既に伴侶を決めてもおかしくはない。
話はいささか逸れるが、イザークは他国よりはよほど政略結婚の少ない国だ。
彼女がイザークにいた頃は、既に彼女の兄が世継ぎをもうけていたため、年齢の割りにアイラはあまりあれこれ言われなくて済んでいた。
だが、実際にそういう話を進める動きになれば、いくら政略結婚の少ない国とはいえ、アイラほどの立場になれば完全な自由があるわけはなく、彼女に与えられる「自由」は、限りなく不自由なものだ。
彼女の意思すべての尊重は叶うはずはなく、「自由に選ぶがいい。ただし、この中で」と、候補を絞られてからの決定権を与えられる程度の自由しか得られない。それが当然の立場なのだ。
当時のアイラは、自分の婚礼について深く考えたことがあまりなかった。
そもそも婚礼などに興味はなく――正確に言えば、仕組まれる婚礼には、だが――望まぬ男と結婚をすることなぞ考えることも出来ない、というのが彼女の本音だ。
また、伴侶となる男であれば、自分よりも剣の腕が立つ者、あるいはその他、自分が尊敬を出来る何かを持っている男が良いと思えた。
王や臣下達の思惑はさておいて、彼女にとっては家柄などよりも格段にそれが重要なことだったのだ。
アイラがイザークにいた頃は、彼女は「自分より弱い男なぞ認めない」と強気に出るほどに、今よりもずっと男女の性差について単純に考えていたし、環境に甘やかされもしていた。
国を出てシャナンを守りつつ過酷な旅を越えてきた今の彼女は内面的な成長が著しかった。それは、彼女自身、己の変りように気付くほどのものだ。
最も顕著に現れたのは、他人に対してはもちろんであるが、自分自身に対しての「気付き」だ。
以前の彼女は相当に己の心情に無頓着であったけれど、おかげで今はそうではない。その変化は彼女にとって良いことも悪いことももたらしているのだが。
大分話が逸れたがともかく、アイラはシャナンにとっての弟分妹分を産むことなぞ到底考えることが出来なかったため、此度のディアドラの懐妊は、シャナンにとっても「初めての出来事」だ。
シャナンは、日々大きくなっていくディアドラの腹部に生命の神秘を感じ取っていた。
素直なシャナン少年は何一つひねたこともなく感心し、憧れ、新しい生命が自分達のもとに生まれ出てくることを心から待ち望んでいた。
毎日のようにディアドラのもとへ行き彼女の許しを得ると、彼女の体の一部である、新しい命の寝床にそっと手をあて耳をあて、語りかける。
シグルドやオイフェが見守る中、何度でもシャナンは「いつ頃生まれるの」と問いかけ、何度でも「僕もオイフェもお兄さんみたいなものだよね」と己の所在を確認し、何度でも「男の子かなあ、女の子かなあ」と呟く。
時には彼女の腹部に耳をあてたまま、彼もまたうたた寝をしてしまうこともあり、心得たようにオイフェがベッドに運んでやることもあるほどだ。
その日も、「ディアドラのところに行って来るね!」と元気よく部屋を出たシャナンがいつまでたっても戻ってこないため、仕方なくアイラはディアドラの部屋に足を運んだ。
扉の前で一瞬だけ息を整えて、アイラはノックをして名乗った。中から「どうぞ」とシグルドの声が返ってきた。
(公子、いたのか)
彼の声に僅かに動揺をしたが、間をあけるのもおかしい、とアイラは腹を決めて扉を開けた。
「失礼する」
その部屋にはいかにも貴族が好きそうな絨毯が敷き詰められており、6人用の応接セットに、部屋を分断するための折りたためる木製のスクリーン、そして、カウチと小さなサイドテーブルが奥に置いてある。寝室に繋がる扉がカウチのすぐ近くにあった。
現在、彼らはひとつの城で家族のように生活をしているけれど、各人のあてがわれた部屋はそれなりに身分相応の部屋であり、アイラとシャナンは何不自由のない客室を使わせてもらっている。しかし、ディアドラが今いる部屋はアイラ達の部屋とは違って「明らかに城主の部屋」であり、本来シグルドが使うべき部屋だ。
もともと狭い部屋を好むシグルドはその部屋をディアドラに譲り、自分はその近くの書斎のようなこじんまりとした部屋で過ごし、夜になればディアドラの寝室に足を運ぶ、といった風に使っているらしい。
相変わらず広い部屋だ、とアイラが思うのと同時に、来客用の一人用ソファに腰をかけていたシグルドが立ち上がった。
「アイラ、今ちょうど君に」
声をかけにいこうと思っていたんだ。
シグルドはその言葉を飲み込んだようで、扉から入ってきたアイラに対して「しぃっ」と、唇の前に人差し指をたてた。
「ああ・・・寝てしまったか、シャナンは」
囁き声でアイラは苦笑を見せる。
部屋の奥のカウチには、ディアドラが体を斜めに横たえている。そして、シャナンはどうやら、その膝の上にもたれかかるように眠っているようだ。
ディアドラがアイラに気付いて慌てて身を起こそうとしたが、それへアイラは軽く手の平を向けて「必要ない」と制する。
「剣の稽古は終わっているのだが、勉強をアゼルに見てもらう約束をしていたんだ」
「おや、じゃあ、アゼルは待ちぼうけかな」
「いや、おおよその予想はしていたようで。今日はいつでも時間があるから、二刻ぐらいしたらまた来てくれると。ありがたいことだ」
アイラの言葉を聞いて、シグルドは小さく微笑した。
「ん?なんだ?公子」
「いや、君は」
「うん?」
「・・・最近よく、感謝の言葉を口にするようになったと思って。いちいち感謝されるのは煩わしいものだけれど、君のそれは、なんだか・・・快いと思えてね」
シグルドのその言葉を聞いて、アイラはじっと彼をみつめた。それから、かすかに首を横にかしげて
「意味がよくわからない」
と、返す。
「はは、いいんだよ。どれ。わたしがシャナンを運んで行こう。あいにく、いつも運んでくれるオイフェは、エスリンとフィンと一緒に遠乗りに出かけてしまっていてね」
そう言いながらシグルドは、ディアドラの傍で眠っているシャナンに近づいて行った。それをアイラは慌てて追う。
「公子、大丈夫だ。わたしが運べる。公子は奥方の傍にいてあげればよい」
「アイラ様、良いのです。日がな一日一緒にいる必要はありませんし、わたしも少しうとうとしてきたので、今から眠るつもりなんです」
そう言ってディアドラは優しい笑みをアイラに向けた。彼女の言葉を聞いている間に、シグルドはさっさとシャナンの体を抱き抱えている。
ディアドラにそのように言われては意地をはるのも申し訳ない、とアイラは譲歩した。
「そうか。では、申し訳ないが公子にお願いしよう。ディアドラ殿も、お腹のお子のため、ご無理はしないように、お休みになられると良い。ありがとう」
そういってから、アイラは退出の挨拶ももう一言添えた。
シグルドはもうこの部屋に戻るつもりはないのか、シャナンの体を抱きかかえたまま「じゃあ、おやすみ」と軽くディアドラに言い、それへディアドラは「少し休ませてもらいますわね。おやすみなさい」と優しい声で答える。
その仲睦まじい様を見ることはアイラには初めてのことではなく、むしろ「もう慣れた」と言い切ってもいいほどのことだ。
それでも、いつも彼女は思うのだ。
今、自分はどんな顔をしているのだろう、と。


アイラは、シグルドとディアドラの様子を見て、時々曖昧な笑みを浮かべる。
残念なことに――それを残念と言ってよいのかはわからないが――アイラは、シグルドへの恋心を心の中に秘めている。
そして、それはディアドラとの婚礼を経ても、懐妊を経ても、まったく消えずに彼女の中に間違いなく「ある」のだ。
彼女はそれに気付くたびに「諦めるということと、思いを消すということは、同じことではないのだ」と痛感せずにはいられない。
ディアドラ懐妊の知らせを受けた時、何故かアイラの心は大きくは揺れなかった。
夫婦なのだから、子供を授かるための営みを行っているのは不思議ではない。いつか来るとわかっていたことだ。
それが少しばかり早い、とは思ったけれど、彼女は「そうか」と静かに心の中で呟くだけだった。
彼女は、自分がもしもシグルドの妻に選ばれたならば彼とそういう営みが出来たのだろうか、と自問した。
それに対する答えは、否、だ。
アイラは己の立場を決して忘れることはない。
今の時点では母国の仇と思われる立場のグランベルの貴族とどれほど愛し合おうが、体を重ねることが出来るはずもない。
もちろん、恋の始まりにそんなことを考えたことはなかった。
突然シグルドに対する恋心に気付いたアイラには、己のその感情から目を逸らして逃げようとすることが精一杯で、そんな具体的なことを考える暇なぞほとんどないままだった。
ようやくその思いにある程度向かい合えるようになった頃には、シグルドは既にディアドラを妻にすることを既に決めていたのだし。
アイラは、ディアドラ懐妊を知ってから、自分がディアドラの立場になったら、としみじみと振り返ってみた。
もし、シグルドが自分を求めてくれたら。もし、妻にと選んでくれたならば。
その想像の終わりは、彼の手をとることが出来ずに立ちすくむ自分の姿だけだ。
仮に差し出す彼の手に自分の手を重ねたとしても、愛し合う男女にとって当然である体の交わりはきっと自分には成しえない。
そう思い至ったことの方が、彼女にとっては余程衝撃的なことだった。
自分はなんと不自由なのだろう。
自分にはイザークの国民に応える義務があり、それは決して足枷だと思ったことなぞ今までなかったのに、間違いなくいとおしむべきそれらは彼女を縛り付けている。
それが、王族の性であることを、彼女は痛感した。
ディアドラはずっと森に閉じ込められて、人との接触を避けて暮らすようにと言われていたという。
それに手を伸ばし、彼女を解き放って歩き出すことを促したのはシグルドだ。
ある意味で、アイラもまたシグルドに解き放ってもらった立場ではあったけれど、それはとても表面上のことだ。
アイラはディアドラのように彼の横にひっそりと寄り添って歩くことは叶わない。
イザーク王族という立場はアイラの足を止め、いつまでも同じ地点から彼を見つめることだけを許す。
だから、愛しい人と体を重ねることが出来るディアドラを、そういった意味では羨ましいとは思う。選ばれなくても、たとえ選ばれたとしても、それはアイラには手に入れることが出来ないことだからだ。
それとは別にもうひとつ。予想もしていなかったことに、アイラは自分が傷ついていることに気付いて愕然とした。
ディアドラの懐妊後、「アイラに対するシグルドの態度が変わらない」という当然のことに、彼女は少なからず胸の痛みを感じていた。
そして、その当たり前のことすら受け入れることが出来ない自分、というものを、アイラはもてあます。
何も変わらない。
それは、シグルドがアイラに対する気持ちは、ディアドラを娶ったからといって変化をするような、異性に対する感情をまったく含んでいないということではないか。それは、わかっていた事実だ。今更誰に言われても、シグルド本人の口から言われたとしても、「わかっている」と彼女は言うしかない。
それでも、心の揺れというものは、本人の意思とは裏腹だ。
彼女は、ディアドラとシグルドが体を重ねていたことを考えるよりも、そのことに安堵と失望の混じった複雑な思いを抱かずにはいらなかった。けれども、それはもうどうにもしようがないのだ。
シグルドはディアドラを愛して、ディアドラもまたシグルドを愛している。
その事実の前では、アイラは無力だ。
もし、愛情というものを測るための秤があったとしても、アイラは、その片方に自分の思いを乗せたいとは思えなかった。
気付くことがあまりにも遅かったシグルドへの思いは彼女の心の中にくすぶり続けていたけれど、それはもうどうすることも出来ない。
だからといって、それはディアドラと争うものではない。
ただ、そこに。
自分の胸の中に、それがある。
目を背けて気づかないようにと逃げていたその感情と、ようやく少しずつアイラが向かい合えるようになった頃。
それが、ディアドラ懐妊の頃合いだったのだ。
何もかも、遅かったのだ。
アイラは自分にそう言い聞かせることで、出来る限り己が傷つかないようにと、その身を心を守ろうとした。
無邪気なシャナンの問いに傷つかないように。幸せそうな二人の姿に傷つかないように。
彼らを、新しい生命を祝福する声に傷つかないように。
羨んだり妬んだり嫉んだり、そんな感情に振り回されないように。
それから、自分の愚かさとか、選ばれなかったことへの悲しみとか、何もかもから。
朝起きてから夜眠るまで、彼女を苛む何もかもから自分を護るため、彼女は自分に言い聞かせ続けた。
遅かったのだ、と。それは、仕方がないことなのだ、と。
呪文のように繰り返すその言葉、思いが、どれほどの効果があるのかはわからなくとも、彼女はそれにすがり続けるしかなかったのだ。


すやすやと熟睡しているシャナンを運びながら、シグルドは真面目な話をアイラにもちかけた。
「・・・というわけで、グランベル側からの君たちへの追求は避けたには避けたんだが、一度アグストリア側の使者にも面通しをして、本当にイザークの王族をこちらに保護しているということを再確認させる必要が出てきてしまってね」
通路を歩いていると偶然エーディンが通りがかったが、特に秘密の話というわけでもないらしく、シグルドは話を続ける。
「しかし、アグストリアといったら、今はグランベルが・・・」
「うん。まあ・・・とはいえ、国という形がなくなっているわけではなく、あくまでもアグストリアはアグストリアだ。そして、アグストリアは一国だけで成立しているわけではないから、一人が確認をするだけでも揉め事になるようでね。エルトシャンは君がここにいることをよく知っているけれど、ノディオンだけが確認した、ということはよろしくないようだ」
「・・・アグストリアの人間からすれば、われらイザークのことなぞ何も気にするほどのこともなかろう。我々がここにいるからといって、何か問題があるのか?」
「ないと思うよ。あちらからは国の面子みたいなもので、お目通りを、と言っているけれど・・・本音は、多分、グランベルに対してなんらかの動きがあったときに、国としての立地は遠くても、同盟を組む可能性もあると踏んでるんじゃないかな」
アイラは「わからない」という顔でシグルドを見上げる。
「つまりね。イザークとアグストリアは、まったく立場も場所も違うけれど、グランベルに対してよくない感情を持ってることは、今は間違いなく同じだろう?それに、こういう機会でもなければイザークの王族と会うことなぞなかっただろうし、というついでだね。更には、それをグランベル側がどう思うか、っていう様子見もあるかもしれない。面倒なことだとは思うよ。でも、君達には断る権利が、残念ながら今はなさそうなんだ」
「わかっているが・・・イザークは、今は国としての機能を保っていない。その国の王族と会ったところで、アグストリアには何のメリットもなかろう」
「政治は、どうも先々のことを見据えてやったもの勝ちのようだからね。シャガール王ならば短絡だから、イザークには今の時点では・・・大変申し訳ないが、手を組む価値がないと思うのだろうが、他の諸国はそうは思っていない。むしろ、隣国であるグランベルをよく思っていない者や出来うる限りの平和を目指す人物にとっては、君達に今回会うことが、いつか何かの布石になるかもしれないと考えるだろう」
「ふうむ。理解しがたい。そもそも、イザークを蛮族の国と見下すのは、グランベルだけではないと我々は知っている。だというのに?」
「国家間の均衡が崩れてきているからだとキュアンは言っていたな。もしもレンスターが似た立場であれば・・・レンスターとイザークは、イード砂漠によって隔たりがあるから、実際はほぼ面識がないだろう?それでも、砂漠を介さずにすむグランベルの東部付近にイザーク王族が滞在している、となれば会いたいものだと思うと言っていた。通常、他国に政治的な遠征をしている場合、そこへ第三者であるほかの国が首を突っ込むことはありえないが・・・」
「今のわたしとシャナンは、そういう立場ではないからな」
そういえば、とアイラはふと思い出した。
レンスターのキュアン王子と、アグストリア諸国の一国であるノディオンのエルトシャン王、そしてこのシグルド公子は親友同士だと聞く。
となれば、既にキュアン王子は、アグストリアにもグランベルにも当然のように何度も足を運んでいるだろうし、政治上これまで仲違いをすることもなかったのだろう。
イザークはイード砂漠を越えなければいけないという地理的な問題により、グランベルだろうがレンスターだろうが、どの国からも政治に介入することされることなく独立していたが(西のシレジアは中立国であるから、この際考慮にはいれなくとも問題はないだろう)グランベルとアグストリアに面したヴェルダンはどうだろう。
(ヴェルダンもまた、ある種蛮族の国と陰口を叩かれていたという。第三王子のジャムカ殿を見ると、そうとは思えぬが・・・ヴェルダンが他国から政治的に何かしらアピールをされていたとか、同盟を組む組まないといった話を聞いたこともない)
ヴェルダンはヴェルダン特有の問題があるのだが、アイラは勝手に「お上品な国はそういう国同士で仲良くするものなのかもしれない」などと、結論づけた。
「そういうわけで、まだ日程は決まっていないが、そのうち出かけることになると思う」
「え?この城で会うわけではなく?」
「ああ。馬は、乗れたかな?」
「グランベルの馬は背が高くて、わたしにはまだ難しい」
「そうか。会談に赴くことになれば、馬車ではなく馬に乗っていくことになるだろう。申し訳ないな。本来ならば一国の王族をお連れするのは馬車であるべきなのだろうが・・・あまり、国と国の状態がよろしくないから、出来れば何かが問題があることを想定して」
馬車では、機動力が低いのだ。
そうアイラは理解して、軽く頷いた。
「もっと乗馬も、練習しておいた方が良いかな」
「あ、いや。大丈夫だ。ノイッシュ達に護衛を頼むつもりだから、アイラとシャナンさえよければ、そこに相乗りという形で」
「・・・公子。出来れば、シャナンは連れて行きたくないのだが。それは無理だろうか」
話しながらあっという間に二人は部屋にたどり着き、アイラは扉を開けた。
シグルドは室内に入り、ベッドに寝かせたほうが良いか、ソファに寝かせたほうが良いか小声で尋ねた。
「ソファで良いかな。ベッドでは、眠りすぎるだろうから」
「そうだな」
シグルドは、熟睡しているシャナンの体をゆっくりとソファに横たえた。そこへ、ベッドから持ってきた毛布をアイラが優しくかけてやる。
シャナンを起こさないように、とどちらともなく二人はソファから離れ、扉の近くで話を続けた。
「もしかしたら、そう言うかな、とは思っていたよ」
シグルドのその言葉には、いたわりの気持ちがこもっているようにアイラには感じられる。
「アイラが思うとおり、今のシャナンを政治的な場所に連れ出すのは少し酷だとは思っている。先方に最初からシャナンを連れて行けないと断りをいれるより、当日体調を崩したことにしたほうが良いだろうな」
「ああ。まだ、それを言っても通る年齢だろうし」
「そうだね。アイラは大丈夫かい?」
「わたし?わたしは・・・」
確かに自分はイザークにいたときも、政治の場に足を踏み入れることはなかった。
アイラはシャナンを守ることに夢中で、そのことをすっかり忘れてもいた。
が、ここで弱音を吐いたところで自分の立場が変わるわけでもないし、立場上この会合を拒否出来ないとも知っている。
「なんとかなるだろう。誰でも初めての時というものは等しくある。むしろ、甘える身内がいない分、緊張感があってよいかもな」
アイラはそういって小さく笑って見せたが、シグルドは笑みを返さなかった。
「会合では、わたしは退席しないように努める。わたしの身分では本来分不相応なのだけれど、今は君を保護している身の上だからね。きっと許されるはずだ」
「公子・・・ありがとう。そういってもらえると心強い」
「こちらこそ。もう少しアイラはごねるかと思っていたから、ありがたかった。力及ばず申し訳ない」
シグルドの言う「力及ばず」とは、会合を避けることが出来なかったことについてだ。それにアイラは気付いて
「それは公子が謝ることではない。むしろ、煩わしいことに巻き込んで申し訳ないのはこちらの方だ。公子が共に行ってくれるならば・・・本当に心強い」
そのアイラの言葉で、ようやくシグルドの頬は緩み、微笑を見せた。
少しだけ照れくさそうに見えるその笑みに、アイラもまた小さな笑みを返すのだった。


シャナンを部屋に寝かせた後、アイラは簡単な書置きをして部屋を出た。
二刻後に起こすつもりではあるが、もしもそれより先に目覚めたらシャナンの方からアゼルを探しに行くようにという内容だ。
それから彼女は、剣を持って城の外に足を運んだ。
城の南側にある林の中で、鍛練をするのにうってつけ(というより、単純に気に入っているというだけなのだが)の場所がある。
わずかな木々の切れ間の中、光が柔らかく降り注ぐその場所にいると心が落ち着くと彼女は感じていた。
そういった場所をみつけるには相当時間が必要で、ずっと彼女は自分自身が落ち着く場所というものが、あてがわれた部屋の中だと思い込んでいた。
だが、実際その部屋はなにもかもがグランベル風であり、彼女自身が求める空間とはほど遠いものだ。
こうやって自然の中にいれば、たとえ周囲を覆う木々がイザークには決して自生出来ない種類のものであろうと、「ここはグランベルだ」とそれらは主張しすぎず、彼女の心に波風を立てない。
イザークでは知ることのなかった内陸部特有の気候や暗くなりすぎない空、背の高い木々。
それらへの違和感は、既にアイラの中から薄れている。
そのことに気付けば悲しい気持にもなるが、あのまま国にいれば知ることが出来なかったことを自分は見聞き出来るのだ、と前向きに思おうと心掛けた。
木々の中でまっすぐ立ち、彼女は己の体の中に一本通っている芯を意識した。
己の体を支える足裏は、大地を踏みしめ、遠く遠くの故郷と繋がる。
どの空の下にいても、己が正しく地の上に立つことでイザークの民と繋がることが出来るのだ、とアイラは信じたかった。
それを信じて彼女はここに立ち、呼吸を整え、鳥の声や木々のざわめきに耳を傾ける。
(ここ最近、こうやって心を落ち着けることが増えている気がする)
彼女はふと気付いて、眉根を寄せた。
本来ならば、落ち着いたところで剣の鍛練を始めるのだが、彼女はその場で立ちつくし、目の前に立っている木をぼんやりと見つめる。
(・・・揺れていない、と思っているのは、自分だけか)
こういう日は、剣の鍛練に打ち込めば忘れられる。
イザークにいた頃は、そんな無茶をしたこともあった。
心が乱れている時に「忘れるために何かに没頭しよう」と安直に逃げを選ぶことは、人であれば誰しもあることだ。
けれども、それは己の剣を汚すことだと彼女は思う。
だから、今は剣を握らない。
自分の剣はイザークの誇りである王族の剣であり、何かから目を背けたり何かから逃げるための場所を作るものではない。
自らが自らの剣を貶めることは、彼女には許せない。
(逃げたくなるほどに、心の奥では)
何かがさざめいている。
アイラは大きな木の根元にゆっくりと腰を下ろし、木々の間から見える空を眺めた。
空を見るだけならば、城でも出来る。
一人になるだけならば、城でも出来る。
けれど、この行き場のない気持ちを静めることは、もはや城の中では無理なのだ。
彼が彼の愛しい妻と生活をしている、あの空間では。
恋の始まりを彼女はよくわかっていない。
彼女のその「気づき」は、あまりにも深入りしてしまった恋への自覚だった。
些細なことで悩み浮かれる片恋特有の高揚感を、彼女はほとんど知らないままだ。
彼女が自覚をしたその時は既に遅く、深みにはまっていた己に呆れ、一方ではひたすらに戸惑い、その戸惑いを嘲るような感情の激流に押し流されないようにもがくことが精一杯だった。
瞳を閉じて太陽のぬくもりを感じていても、時々湧き上がってくる感情と彼女はせめぎ合う。
それは、報われぬ相手に寄せたせつない思いでも、叶わなくとも一緒にいられることへのささやかな喜びでもない。
ディアドラへの嫉妬でもなければ、アイラを女性として愛してはくれないシグルドへの恨みつらみでもない。
いや、それらはすべてアイラの心の中には存在して、とっくに根を張って広がっている感情なのだろう。
けれども、アイラがより強く持て余している感情はそれらではなく、己への叱責だ。
彼女は自分の恋心を責め、苛み、わずかでもそれを許せなくなっていた。
通路で肩を並べて歩く間、間違いなく自分は喜んでいた。たとえ、話す内容が政治的なことでも。
自分はあの時、どんな顔をしていたのだろうか。
彼の腕に抱かれるシャナンを見て、少しばかり羨ましいと思ったのは、事実だ。
何を自分はおこがましいことを考えていたのだろうか。
普通の少女達が一喜一憂しつつ、その感情に揺れるに任せるところを、アイラは何もかもそれを「受け入れ難い」と感じていたし、情けない、みっともない、と後から自分を責める。
人に言えば「色恋は仕方がない」と言うことだろう。
事実、色恋について明るくない彼女でも、もしも他人が似た状況になれば、そう言うに違いない。
人を好きになる気持ちは抑えられないし、捨てようと思っても簡単に消えるものではないだろう、と。
この手の問題が「頭で考えても仕方がないということを、頭でわかっていてもどうしようもない」ということぐらい、彼女にだってわかる。
だからこそ余計どうしようもなく、彼女は時折こうやって自分をもてあまし、何かにすがるようにここにやってくる。
誰に話すことも出来ないし、誰に言いたいとも思わない。
自分自身の問題なのだから、ひとりで解決をするしかないのだ、と思う。
(・・・遠乗りから戻ってくる音か・・・)
それでも、遠くから近付いてくる蹄の音が耳に入ってくれば、一瞬彼ではないかと心が躍る。
そんなわけはないのだ。
彼は今城にいるし、何人かが遠乗りに行ったことも彼女は知っているのだし。
他に近づいてくるならば、敵か、あるいは伝令のための早馬だ。
わずかでも心が動いた自分をたしなめ、彼女は瞳を閉じ、体内に吸い込む空気を感じ取ろうとした。
(蹄の音に心が揺れるのは、仕方がない。だって、あの日)
朝早くに剣の鍛練を行っていた彼女の前に、シグルドが朝靄の中馬を走らせてきたあの日。
恋の自覚を促す一歩が、彼女の中で動き出したのだから。
あの日以来、蹄の音を聞いて「もしかして公子だろうか」と、偶然の出会いが再び来ないかと願ってしまう自分に、アイラは気付き始めた。
そして、それがどういうことなのかと自分の感情に目を向けた途端、まるで真綿で首を絞められるようにじわじわと、己を苛み続ける日々が始まったのだ。
(気持ち悪い。公子は既にディアドラ殿を娶り、生涯の伴侶を手に入れたというのに。わたしはこんなところで何をやっているのだ)
アイラは瞳を開けて立ち上がった。
駄目だ、今日は。
心を落ち着けようとしてきたけれど、あの蹄の音がまた彼女の心を揺らし、ちっとも彼女に平穏を与えてくれやしない。
「・・・!」
蹄の音に気を取られていた。
アイラは機敏な動きで立ち上がり、腰につけた剣の柄にそっと手を伸ばす。
誰かが、近づいてきている。
林の中は様々なものが足もとに落ちており、何者かが近づいてくることを彼女の耳に知らせてくれる。
その足音は無防備で、ここにアイラがいることを知る人間がそっと気配を消そうとしているものではないと彼女にはわかっている。
それでも気づくのが遅かった、とアイラは心の中で舌打ちをした。
(シャナンと二人きりの時は、もっと敏感だったのに・・・)
それについては、彼女もまた自分を責める必要は本当はないのだ。
彼女はイザークの姫であり、本来守られる立場だ。
剣の訓練は受けていてその素質は見出されていたけれど、だからといって諜報員まがいのことや軍隊まがいの訓練を受けているわけではない。
人の気配に彼女が気づかなくとも、誰もそれを責めないだろう。
「あれ?アイラ?」
がさ、と背の低い茂みをかき分けて、そこに姿を現したのはレンスター王子であるキュアンだった。
彼は簡素な服を着ており、一枚さらりと来たシャツの袖をまくりあげている。その様子が珍しくて、アイラは眼を丸くした。
「キュアン王子」
「どうしたんだ、こんなところで」
「いや、ここでよく剣の練習をしているので」
「そうなのか。知らなかった」
「王子こそ、どうした」
「あ、いや、エスリン達と一緒にこの先にある木になっている果物を摘んでいたんだが、かごが足りなくなって。城に取りに行くのにここを通ったら早いかと思ったら、迷ってしまった」
「はは。ここまで来れば、あとはあちらにまっすぐ抜ければ良い」
「ありがとう。助かった。実はここまで来ても、いまひとつぴんとこなくてなぁ。俺はそう方向音痴でもないと・・・思ってるだけだったのか」
そのキュアンの言い草にアイラは小さく笑い声をあげた。
「アイラもどうだい、一緒に。採った果物は城に運んでジャムにするらしいが、その前に俺たちはつまみ食いする権利もある」
「はは、楽しそうだが、今日はやめておく。もう少ししたら、シャナンの勉強会を覗かないといけないから」
「そうか。残念だ。じゃあ」
「気を付けて」
キュアンは軽く手を振ると、アイラに言われた方向に歩きだした。
がさがさと茂みをかき分けて数十歩ほど歩けば城の姿が見えるはずだ。
キュアンもまた他国に滞在する身ではあったが、アイラとは有り様が違う。彼にとってはグランベルはかつて知ったる場所でもあり、親友もいて、妻の故郷でもあり、とても近しい国なのだろう。
アイラはキュアンを見送った後、小さくため息をついた。
人々に馴染んでいないわけではないと思う。
けれど、こういう時に「楽しそうだな。ではわたしも」と容易に誘いに乗れない自分の性格が少しばかりうらめしい。
シャナンのことは、断るための方便だ。誘いに乗れば、きっと楽しい。
それでもアイラはこの異国の地で、手放しで自分が楽しんだりはしゃぐことを出来るだけ避けたいと思っていたし、そうでなければあまりにイザークの民に申し訳ないとも思っていた。
その考え方がかたくなであることも、彼女は自覚している。
せめて。
この、色恋に心を惑わされさえしていなければ、せめて。
(わたしは、グランベルで何をしているのだろうか)
今は祖国のために「待つ」時なのだとわかっている。
だからといってその間、「楽しまなくちゃ損でしょ!?」なんて言うシルヴィアのように振舞うことは彼女には出来ない。
(なるほど、わたしは自分が思っているより、融通が利かない人間だったのだな)
他人事のように呑気にそう思った直後、考えたくない、考えても仕方のないことを彼女は突然思い描いてしまった。
そうだ。自分は融通の利かない人間なのだ。
だから。
だからきっと、何度過去に戻ろうとシグルドは自分には振り向かないだろうし、自分も彼への想いを早く気づくことはないだろう、と。
やはり、遅かったのだ。
こんな気持ちになる前に、もっと早く気付けば引き返せたのかもしれないのに。
(・・・いや)
早く気付いたとしても、きっとこの恋は成就などしなかったし、アイラ自身がそれを拒んだに違いない。けれども、シグルドを好きな気持ちを捨て去ることとそれとは、やはり別のことだと思える。
(では、何故公子を好きになってしまったのだろうか。本当に、わたしは阿呆だ。いっそのこと、「助けてくれたから好きになった」なんていう単純な子供じみた薄っぺらい恋心だったらよかったのに)
彼女のその思いは相当に乱暴で、自分の恋愛感情を軽んずるようなものだ。
けれども、そう投げやりに思わずにはいられぬほど、アイラは自分の心の奥底にある恋情に怯えていたのだ。


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