わたしはだんだん醜くなる-2-


アイラがシグルドと共にアグストリアからの使者と会うことになったのは、それから更に数ヶ月を経てのことだった。
アグスティを初めとして、アンフォニーやマディノなど、アグストリアを支える王国はそれなりの数がある。
たとえば、ハイラインもアグストリアを構成する一つの国ではあったが、王子エリオットがノディオン王国のラケシスを妻にしたいがために戦をしかけた際、シグルド達が仕方なくそれを討つこととなった。
そのせいでノディオンを守ったシグルド軍は一方ではアグストリアの一部を守り、一方では攻め込んだ形にもなってしまい、相当に難しい立場に陥ったことは事実だ。
とはいえ、どちらにしてもエリオット王子を失ったハイラインは「王子がいなくなったので、アグストリアの王であるシャガールに全ての権限を委ねる」という形にするわけにもいかなかった。
ハイラインでエリオットの元にいた臣下達は、誰もが阿呆だったわけでもなく、自分達がこの先生き残るには、シャガール王に従うことが得策だとは誰も思わなかったし、それはハイラインに限ったことでもない。
一言でアグストリア諸国連合といっても、それを構成している国それぞれの立場はまったく同じではない。
連合の王であるシャガールがどんなひととなりであろうと忠誠を誓うエルトシャンのような者もいれば、自分達の国の王子に振り回されるだけ振り回されてしまったハイラインの臣下達のように「同じ轍を踏みたくない」とシャガールに対して忠誠を誓いきることが出来ない者がいることは当然といえば当然だ。
そういった者達がグランベルとの関係を悪化させたくないと思ったり、少しでも他国と繋がりを持ちたいと考えることはおかしくもない。
アグストリアで生き残っている王族はシャガールだけではあったけれど、それぞれの地域はシャガールからの支配を受けているわけでも恩恵を受けているわけでもなかったので、余計にその傾向に拍車がかかっているのは事実だ。
そんな状態で、今回シグルド達に接触を求めてきたのは、マッキリーでクレメント司祭亡き今なんとか自治を保つために中心になっている貴族だった。
マッキリーの領主であったクレメントは先の戦いで死亡していたが、その際の挙兵は「アグストリアを侵略するグランベル兵を討つ」という名目であったため、マッキリーの人々のほとんどは、クレメントに対しては多少は同情的に見ていた。
とはいえ、マッキリーはアグスティと並んで魔人狩りが行われている大都市であったため、同情的だからといってグランベルをうらんでいるかといえばそれも多少違うようだ。
建前はどうであれ、イザークとグランベルの関係がこじれていることを確認したいのかもしれないし、アイラの存在がグランベルの手中にあることを確かめたいのかもしれない。
本音を完全に知ることは出来なかったが、グランベル側からしても、他国からのアプローチを何もかも跳ね除けることは出来なかったし、アグストリア諸国連合との水面下の対立は未だ緩和していないことを加味して、シグルドは今回のことを断りきれなかったのだという。



「それでは、行って来るよ。大事な時期に申し訳ないな」
出かける前にディアドラに会いにきたシグルドは、愛しい妻に軽く口付けた。
ディアドラの腹部は相当に大きくなっており、出産が近づいていた。
城付きの医師や産婆はずっと傍の部屋に控えており、産まれた赤子のための道具も何もかも既にそろっている。
とはいえ、シグルドが留守にする数日はまだ時期が早く、戻ってきてからの出産になるだろうと医師は予測していた。
そんな時に何日も妻の傍から離れることは、シグルドにとっても本当は避けたかったことなのだろうが仕方がない。
「お気をつけて。お帰りをお待ちしております」
「うん。くれぐれも、心配しすぎないように。ディアドラは、心配症だから」
美しい妻が、夫と離れることを極度に怖がっていることをシグルドは知っている。
こういった務めの際は仕方がないことなのだが、時期が時期だから尚更のこと。
シグルドはシアルフィの騎士達とオイフェを伴っていく予定だったがそれを止めて、城務めの兵士数名を引き連れていくことにした。
それは、少しでもディアドラの傍に近しいものを置いて、彼女を安心させたいという気持ちからだ。
アイラがシャナンのことを心配していることもあって、オイフェを連れて行くことも止め、アイラ不在の間のシャナンの世話を託した。
そして、レックスやアゼル、それからシアルフィの騎士達には、いざというときの指揮系統についての指示も出した。
彼らが現在駐屯しているアグスティ城は、本来グランベルの領地ではない。
先の戦いの後、何度もシグルドはグランベル中枢部に対して、アグストリアへの介入を阻止すべく、自らの撤退を願い出ていたが、それが叶わぬまま滞在することになってしまっていた。
それを思えば、出かける自分達の身の上も心配ではあるが、城を何日をあけることもシグルドにとっては不安なことだ。
アグストリア側からすれば、指揮官であるシグルド一人を捕らえようが、今は実質何の力もないイザークの王妃を捕らえようが、自分達の立場を打破出来るとは思わないだろうから、罠ではないと彼は判断していた。
その見解は、シャガールを知るラケシスも後押しをするものだったから、彼は今回の謁見を少人数で行くことに踏み切ったのだ。
むしろ、大人数で行けばもっと問題になるだろうとも思っていた。
しかし、自分達を捕らえる目的ではなく、指揮官不在をいいことにアグスティに誰かが兵を向ける可能性がある。
シグルドからすればそちらのほうが問題だ。
そういうわけで、アイラはともかくシグルドは出発までにもあれこれとやることはあったし、けれどいざとなればイザークの王妃を守らなければいけない、というまことに面倒な状況に内心相当疲れていたに違いない。
それでも、彼はそうであることを少しも顔に出さない。そういう男だった。
彼はいつもと変わらぬ笑顔でディアドラにもう一度口付け、既に準備が出来て待っているアイラ達のもとへと向かった。



二人が招かれたのは、アグスティ城とマッキリー城の中間にある小さな町で、貴族の別荘らしきものがいくつもあるという噂が前々からあった場所だ。
はるばる足を運び、謁見そのものにも時間がかかった割に、内容はとりたてて実りがあるものでもなかった。
初めに話をもってこられた時から数ヶ月も時間が経ってしまったことがその要因なのか、それとも、やはりシグルドをアグスティ城から離すことが目的だったのか、その辺りは二人には量りかねた。
が、マッキリー城とアグスティ城の中間にある場所を選んでもらったことを考えれば、相手方にはそこまでの悪意はないのではないかと思う。
どちらにせよ彼らがわかったのは、今のアグストリアはやはりグランベルのことをよく思っていないということ、かといって、シャガールのように血気盛んにグランベルに噛み付こうとしている人間ばかりではない、ということ。その、彼らが「そうだろうな」と常日頃思っていることが、当事者の口からそのまま語られた、ということだけだった。
その会話からはイザークに対する思いは特に感じられなかったが、グランベルやアグストリアでは珍しいアイラの黒髪をしきりと褒め称えていたのは、どうも社交辞令ではないようにシグルドには思えた。もちろん、それとて何もそれ以上意味をなさないことではあるが。
シグルドは晩餐の誘いを断ろうとしたが、先方の見栄があるのか、すでに人数分調理をしているとかなんとか言いくるめられてしまった。
シグルドもアイラも「こちらには関係がない」とそれをねじ伏せるほど、理不尽な権力の使い方が出来ない人間だ。
晩餐に付き合えば、次は夜遅いから泊まって行け、という話になってしまうだろう。
確かに、シグルド達は夕方頃にその町を出ても、どこかで宿を一泊とるか野宿をしなければいけなかった。それを考えれば、相手方の申し出はむしろ当然であり、アイラの地位を考えれば「少人数で野営など、とんでもない!」と逆にたしなめられてもおかしくはないほどだ。
しかし、謁見が長引いたら宿泊もありか、といくらかの覚悟があってきたものの、正直なところ二人はそれを避けたいと思っていた。
夜、馬を走らせることはあまり望ましくないこともわかってはいる。それに、正式な謁見ではないため、何もかも計画的に時間を使うわけではなかったから、どこで宿をとるのかすら彼らは手配をしていない。
とはいえ、明け方まで、敵とも味方とも完全に把握しきれない人物がいるところにいるのは、いささか心許無いというのも本音だ。
少人数の野営の危険性を差し引いても、真意もわからぬ者の領域に長くいることは避けたい。それでなくともここはアグストリア領内なのだし。
二人は、晩餐までの間個室に案内された。
そこではどちらともなく、いつもよりはいくらか声量を抑えて会話を交わす。シグルドもアイラも、お互い話がわかる――個室だからといって、気を抜きすぎてはいけない状態だと理解している――相手でよかった、とそれひとつとっても信頼を深めていた。
「公子。食事を終えたら、無理をしてでも帰ってはどうだろうか」
「うん。わたしもそう思ってはいるのだけれど・・・他の者が」
「ん?」
「夜、馬を走らせることが、あまり得意ではなさそうだ」
シグルドはそう言って肩をすくめてみせた。
「しまったな。晩餐に招かれるような時刻に食い込むとは。多少は考えなかったわけでもないが・・・ううむ」
「こちらについた時刻を考えれば、夕方にはこちらを発つつもりだったしな。公子も出来る限り早く奥方の元に戻りたかろう・・・それにしても、グランベルやアグストリアの貴族とやらは、回りくどい者が多いのだな。こんなどうでも良い内容の謁見にあれだけ時間を使って、しかも、まだ体裁を整えようというのか」
アイラは客用のソファに身を沈めて、愚痴らしい愚痴を口にした。
彼女がそのような、体の力を抜いた姿勢になることは珍しい。
「申し訳ないな。それは確かに、わたしもあまり得意ではないから、アイラの気持ちはわかるんだけれど」
「・・・あ、違う。公子のことでは、ないからな。申し訳ない」
アイラは「グランベルの貴族」にシグルドが含まれていることも気づき、己の失言を訂正しようと身を起こした。
と、思ったよりも柔らかいソファに翻弄されて、「わっ」と小さく声をあげると、そのまま再びソファに埋もれてしまう。
「ははは、大丈夫かい。疲れただろう?慣れない馬にも乗って、慣れない場所で慣れない謁見。食事まで、休んでいると良い」
「公子こそ・・・」
「わたしは大丈夫だよ」
実際、慣れぬ乗馬と慣れぬ渉外行為での疲れがないといえばそれは嘘になるが、シグルドが言うほどアイラは疲れてはいなかった。
「公子がいてくれるおかげで、大分気持ちも体も楽だ。ただ、ちょっとだけ、この服が」
「ああ、それでも動きやすい服にしたはずだが」
「いや、そうではなくて・・・滑るのだ」
「なるほど、はは、そうか」
アイラは一応はそれなりの恰好を、ということで、艶やかな材質のひざ上ぐらいのチュニックと、これまた艶のある素材の裾広がりのパンツを着用していた。それが、布張りのソファとの相性が良いやら悪いやらで、つるつると滑って体をうまく起こせなくなってしまうのだ。
シグルドは声をあげて笑った。
アイラは観念したようで、情けない恰好ではあるがソファにそのまま再び身をうずめた。
と、その時、ばたばたと通路を走る音が二人の耳に入る。
その足音が、自分達の部屋の前で止まったことに二人は気付いた。
コンコン、と、少しばかり焦ったような、詰まったノックの音。
シグルドが返事をすると、部屋の外から取次ぎの者が「シグルド公子に早馬が」と返事をする。シグルドの表情が曇る。
「どこからかな。入ってくれ」
入室の許可を伝えると、すぐさま一人の小姓がおずおずと扉を開き、用を伝えた。
「失礼いたします。シグルド公子、グランベルより早馬で使者がいらしてます。お通ししてもよろしいでしょうか」
「通してくれ」
「はっ」
アイラは体を起こした。取次の者が慌てて出ていく姿を見ながら、声を潜める。
「公子、わたしは席をはずそうか」
「いや、大丈夫だ。あまり、離れない方がよいから」
「・・・わかった。ありがとう」
アイラは素直にシグルドに従った。
共に来た兵士達は、身分が違うということで別室で待たされている。
その上、シグルドとアイラの二人まで別動することは、あまり良いことではない、というシグルドの判断だ。
そもそも、早馬でなんらかの使者が来たとしても、アイラに伏せなければいけないことである可能性の方が低いのだし。
やがて、急いた様子のノックが響き、シグルドが入室を促すと、息を切らせた使者が室内に入ってきた。
「アグスティ城より、参りました」
「ああ、君は見た顔だ」
「シグルド様に、緊急のお知らせです」
「うむ」
「ディアドラ様が」
「何?」
「奥方様が、お産に入りました」
「!」
シグルドの顔色は明らかに変わり、動揺が見えた。
「何。早すぎる。確かにそろそろとは話していたが、今日明日はあり得ないと」
「は・・・順調な経過だったご様子ですが、突如。ディアドラ様は、公子には知らせるなとおっしゃっていましたが、事態が事態なので、医師の判断で参りました」
「医師の判断で・・・もしや、危ういのか!?」
「公子もご存じの通り、予定より大分早いため・・・もしかすると、奥方様と赤子の両方の命を保証出来なくなる可能性があり・・・今からお戻りになっても、途中で出産は終わると思われます。何かしら事態が変われば再度早馬を出す手はずになっておりますが、まずは城までお戻りくださいませ!」
シグルドとアイラは、顔を見合わせた。



そういうわけで、ディアドラが産気づいたという知らせのおかげで、シグルド達は解放されることが可能になった。さすがに、それを諸手をあげて「ありがたい」とはお互い口にすることは出来なかったけれど。
まるで、ディアドラとその赤子が共に、シグルドを自分達の元に呼び戻そうとしているようだ、とアイラはちらりと思う。そしてすぐ、そのような想像をしてしまった自分を恥じた。
シグルドは最初、共に護衛でやってきた兵士達をおいて、一人で戻ろうと考えた。それは、彼一人で馬を夜通し走らせる方が、護衛兵士を気遣うことなく早く走れるからだ。
実際、護衛についてきた者達は、シグルドやシグルドの部下達ほど遠乗りには慣れておらず、シグルドの方が彼らを気遣うぐらいだったのだ。
だから、兵士達だけを明朝帰すよう願い出て、自分は一人で・・・。
それが、シグルドの思いつきだった。
けれども、その思いつきには問題があった。
アイラの存在だ。
アイラを兵士と一緒に残していくとなると、アイラが一人でこの面倒な晩餐に付き合い、何を画策しているかわからない人物の監視下で一晩を過ごさなければいけなくなってしまう。
それに、アイラの性格をわかっているとはいえ、相手は一国の王妃。
シグルドならばまだしも、何の位もない一般兵と馬を相乗りさせるわけにもいかない。
(ディアドラを心配して、ノイッシュ達をおいてきたのが、仇となってしまったか)
困り果てているシグルドに、アイラははっきりと提案をした。
「公子。急ごう。面倒で悪いが、わたしも付き合う。今すぐここを出よう」
「しかし、アイラ・・・わたし一人で戻る方が」
「わかっている。いくらわたしが乗馬が得意ではないとはいえ、ここに来るまでの道程で、共に来た者達の腕前ぐらいは理解しているつもりだ」
そういいながらアイラはソファから立ち上がって体を伸ばし、腕や足を軽くほぐした。
「かといって、公子一人で夜通し走り、公子の身に何が起こるやもしれない。それに、もしもわたしがディアドラ殿であれば、公子に早く会いたいと思う反面、公子が無理をして何かあることの方が怖い。そもそも、ディアドラ殿は、公子に知らせないようにと思っていたのだろう。それを考えれば、公子は公子で無茶をし過ぎて何かあった時に、奥方はご自分を責めるに違いない」
「そ、れは・・・」
「わたしがいれば、公子の無理に歯止めもかけられよう。それに、わたし一人の相乗り程度は、他の兵士をつれて帰るよりは、余程楽ではないか?」
アイラのその提案は、正しかった。
事実、アイラは小柄だったため、筋肉質でありながらもそう体重が重くなく、相乗りをしても馬に負荷が掛かりすぎなかった。
それに、シグルドが馬を操るのに何の邪魔にもならないことは、来る際にわかっていることだ。
「しかし、アイラ、夜通し走ることになるやも」
「誰に向かって言っている?公子」
アイラは、少しばかり挑戦的な表情で笑みを見せた。
「わたしは、シャナンを一人で守りながらイード砂漠を抜けた女だ。一睡も出来なかった夜なぞ、数え切れぬほど。今、公子のもとにいる者達で、わたしよりもそういう経験が多い者は多くなかろう」
「確かに、そうだ。確かに・・・アイラ、ありがとう。君が聡明で決断力に優れている女性で、本当に助かった。すべて、君が言う通りだ」
「決まりだ」
アイラが淡々とそう答えると、シグルドはふっと安堵の息を漏らした。
「気が急いているせいで、冷静になれないな」
「当然だ、公子。だから、一緒に戻ろう。こういう時は一人よりも二人でいる方が良い。シャナンと二人きりで砂漠を渡ったときも、わたしがシャナンを守ったのではなく、わたしがシャナンに生かされていたのだ。少しでもわたしが、役に立てるだろうと思う」
先ほどの挑戦的な笑みからは想像つかないほどに、アイラの声音は優しい。
シグルドは彼女の言葉に勇気づけられたように、「ありがとう」と答え、ようやく彼らしい笑みを見せた。



アグストリア領内の地理は、いくらシグルドといえども明るいとは決していえなかった。
それでも、夜を通して走ってでも彼が愛妻のもとに一刻も早く戻りたいと思う彼の気持ちは、アイラにも痛いほどわかる。
シグルドは、速度をあげるから、と、アイラを自分の体の前に乗せた。
その体勢で長く走ることは、シグルドにも相当負担をかけることをアイラも知っている。
アイラは出来るだけ彼の負担にならないように、馬の首にもう一つかけた、相乗り用の手綱――それは当然馬を制御するためのものではない――をしっかりと掴み、前傾体勢になった。
馬を操るシグルドに体を預けるようにすれば彼女は楽なのだが、さすがにそうは出来ない。また、シグルドの後ろに乗ると、いつもより荒くなる馬の走りに振り回されてしまう。
だから、少しでもシグルドに迷惑をかけないようにとアイラは腹に力を入れて出来る限り自分の力で座り続けるように努めた。
「アイラ、疲れたら言ってくれ。あと、前のめりになって寝られると危険だから、その時も正直に言ってくれ」
「わかっている。まあ、後ろに乗っていて寝てしまうほうが余程危険だが。それに、眠れるほど悠長な走りでいくつもりではないだろう?」
シグルドは「はは」と小さく笑う。
彼らはアグスティ城に向けて、街道をひとまず走った。
あまり月が明るくない夜で、星明りだけが彼らの頼りになる。
が、それはむしろありがたい。何故なら、地理に不慣れな土地での夜は、最後にはきっと星に頼ることになるに違いないからだ。
シグルドはアイラに気を使いつつも、やはり普段の彼らしくなく、いささか馬の扱いがぞんざいだ。
半刻も走った頃、それを馬上のアイラは気付いた。
「公子!」
「うん?」
「急ぐのは、わかるが、馬は」
「ああ、わかっている!この街道を抜けるまでは、一気にいくつもりだから・・・」
その後は、ペースを落とす、という意味だろう。
半刻もの間、アイラは必死に馬にしがみついていたし、シグルドもまた、アイラを庇いつつ馬を走らせており、どちらからとも会話はなかった。
それで良い、とアイラは思う。
何度も彼に「大丈夫かい」などと聞かれる自分でありたいとは思わない。むしろ、こういった時に粗雑に扱われる方が良い、と思う。
女性扱いされたいという気持ちがないわけではない。
事実、いつもシグルドは気にかけてくれて、他の女性相手と同じくアイラに声をかけてくれる。
けれど、こういう時は、違う者になりたいと思えるのだ。
女性としては問題があるかもしれないけれど、シグルドが気兼ねなく振舞える、同等の立場でいたい。
エスリンのように共に馬を走らせられる力がないならば、せめて、少しでも迷惑がかからぬように、シグルドに余計な気を使わせぬように。そして、何もかもを彼に委ねるわけではなく、自分でも星を見て方角を確認して。
(公子のために、何かを出来る存在でありたいのだ、わたしは)
そう望むくらいは、許されるのではないか。いや、許されたい、と思う。
アイラが黙りこんでいたのはもちろん、馬に掴まることに集中しているからだけではない。
アグスティ城から護衛兵士と共に走っていた時は、周囲の目もあったし、何よりも外交が絡んだ謁見に向かうということでアイラは緊張をしていた。
自分が思いを寄せる男性と相乗りをしているからといって浮かれた気持ちになるよりも、謁見への憂鬱な気持ちがいささか勝っていたのかもしれない。
けれど、今は違う。
ここには自分とシグルドとの二人だけ。
たとえ、彼が馬を走らせる理由が彼の妻のためだとしても、それはこの際構わないと思った。
(ディアドラ殿、申し訳ない)
自分は、愚かだ。
アイラはそう思いつつ、ぎゅっと手綱を握り締める。
ディアドラの身を、生まれてくる赤子の身を心配していない・・・わけではない、とアイラは思う。いや、もしかしたら「そういうことにしたい」だけなのかもしれない。
自分は間違いなく、シグルドと二人きりになっていることを嬉しいと思っている。
もう、それから目をそらすことが出来ない。
どこか後ろめたく思うのは、ディアドラが早めの出産に入り、きっと大変な思いをしているだろうとわかっているから。
もし、ディアドラの身に何もないとしても、きっと自分は後ろめたく多少は思う。
それが、このような状況では尚更だ。
(後ろめたさというのは、自己中心的なものだ・・・後ろめたいという思いの逆には、自分の欲求を満たそうという気持ちが働くのだからな)
今までアイラはそんなことを考えたことがなかった。
けれども、シグルドと会話もなく、やることといえば彼の負担にならないように自分の力で馬にしがみつく、ただそれだけ。
そうであれば、このような繰り言をぐるぐると考えてしまうのも仕方がないだろう。
シグルドが少し体を前傾すれば、アイラの背に彼の体が密着する。
時折のそのわずかな刺激ですら大切に思える自分は、あまりにも女々しい、とアイラは思った。
夜の冷え込みを防ぐために着込んだ防寒着は、アイラとシグルドがお互い触れ合っても、その体温を伝えることはない。
まるで、アイラの決して叶わない恋情を象徴するかのように。
彼が時々アイラに触れる姿勢になるのは荒く馬を繰るせいと疲労によるものだ。
そして、それは誰のためかといえば、ディアドラのため。
つきん、とアイラの胸の奥が、強く痛む。
胸の痛みというものは体の痛みと違い、感じた途端に何かが体内に広がるような、不可思議な痛みだ。
それをアイラが初めて意識したのは、シグルドとディアドラの婚礼の日だった。
今はわかる。
叶わぬ思いを捨てることはとても難しく、人は誰もが折り合いをつけて生きようとしている。
それでも、どうにも折り合うことのない感情は、こうやって己を傷めつけて、胸の奥の痛みを感じるたびに、自分の中に何かを広げていくのだろう。
(痛いのではない。これは)
悲しみに似ている。
アイラはその答えに思い当って、眉根を潜めた。



風に煽られながら馬は走り続け、ようやく街道を抜けた頃には月は頂点に達していた。
馬の疲労も相当に蓄積しているようだったので、二人は頃合いを見計らって野宿を決めた。
野宿といっても、一刻ずつの仮眠をとるだけのものだ。
木々がまばらに立ち並ぶ平野で、馬を木に繋ぐ。
仮眠をとるだけ、と最初から決めていたため、野営用の道具など何も持っては来てなかったし、薄い毛布一枚とわずかな食糧と水だけが彼らの持ち物だった。
「公子、先に眠ってくれ。わたしは大丈夫だから」
「すまないね」
夜露に湿った草の上で、それまで着ていた外套を広げて寝ころぶシグルド。
馬はとっくに足を折って眠っている。
二刻という時間は馬にとっては短い睡眠時間であり、それより更には草を食べている時間の方が普段は長いのだが、それでももう少し頑張ってもらうしかない。
もう少しアグスティに近づいたところで、どうにかして馬を乗り換えられれば、とシグルドは考えているようだ。
そうでなければ、一頭で休みなく走り続けることなぞ出来るわけがない。
「アイラ、寒くないか」
「大丈夫だ」
「寒ければ、足だけでも毛布にいれるといい」
「・・・ああ」
シグルドの傍で腰を下ろしているアイラは、曖昧に返事をした。
火を焚くにはそれなりに準備が必要だし、折角焚いても休息時間は短い。
だから彼らはとにかく少しでも早く睡眠を取ろう、ということで火を起こさなかったのだが、確かに何もしないでいればいくらか涼し過ぎる。
シグルドに他意はない。
本当に彼はアイラを心配してそう言っただけだし、彼はいつだってアイラを他国の王妃として過剰に扱ったりはしないから、それは彼らしいと思える。
それでも、シグルドの寝息が規則正しく聞こえるようになるまで、アイラは身動きひとつせず、静かにしていた。
自分達を囲むのは、まばらな木々、平坦な草原、星灯り。
触れるものは冷たい夜露。
聞こえてくるのは、夜の虫の声、時々思い出したように鳴く夜の鳥の声。
それから、彼の寝息。
しばらく様子を見ていると、それまで静かだった彼の寝息は軽い鼾に変わる。
余程、疲れていたのだろう、とアイラは小さく笑みを口端に浮かべた。
野外でこんな状況で、それぐらい深い眠りにつけるのは、豪胆な証拠かもしれない、と良い方へとアイラは解釈する。
(どうしよう。わたしも、眠ったらもしかしたら)
変な音をたてないだろうか。
まさか、歯ぎしりなどはしないと思うけれど。
「・・・はは・・・」
こんな状況で、そんな幸せな悩みとは。
恋愛というものは、まったくもって馬鹿馬鹿しいものだ、とアイラは肩をすくめた。
それから靴を脱ぎ、シグルドの毛布の端からそっと足を入れる。
本当ならば、そんなことは絶対しない。
何かがあった時に、靴を履くところから始めなければいけないほど、野外で無防備になることは彼女は決してない。
それでも、少しだけ。
鼾も治まって、シグルドの寝息は静かに戻った。
アイラはその寝顔を静かに覗きこむ。
また、胸の奥に広がる痛み。
(これは、違う)
片恋のつらさだとか、せつなさだとか、そんなものを感じているわけではない。
それをアイラはよく理解していた。
彼女は今まで、自分の心の動きに相当に疎かったけれども、ここには自分と彼しかおらず、そして意識があるのも自分のみ。
まるで透明な外気が彼女を目覚めさせるように、彼女は自分の心の動きに少しだけ鋭敏になっていた。
「はは・・・なんという・・・」
なんという、幸せな夜なのだろうか。
どうにかなってしまいそうだ。
この胸に広がる痛みや感情の波紋は、幸せへの恐れだ。
決して今の自分は女としての幸せなどには向かっていないのに、この一瞬の感情の昂りは、たったこれだけのことでも自分の心を満たす。
どうしようもないほどに、浅ましい。
アイラはしっとりとした前髪をかきあげながら、自嘲の笑みを浮かべた。
そして、飽きることなく、決して自分のものにはならない男の寝顔を見つめるのだった。



彼らがアグスティ城に到着したのは、翌日の昼頃だった。 途中で雨に降られなかったのは幸運と言えるだろう。
シグルドは荒っぽく馬を乗り捨てるように降りて、門兵に馬を厩に連れて行くように指示した。その際、焦りながら軽く尋ねると
「ディアドラは、無事か」
「はっ。お子様ともども、問題ないようで」
あっさりと門兵はそう答える。
多分、シグルドのもとへ早馬が走ったことや、ディアドラの出産が時期尚早だったことを知らぬ者なのだろう。
いや、むしろ出産がつつがなく終わったことを、シグルドが知っているのが当たり前、とすら思っていたのかもしれない。事情を知っている人間ならば、こんなあっさりとした間抜けな会話が出来るはずがないのだし。
アイラはその会話を耳にして、目を見開いた。シグルドは少しばかり呆けていたので、その背を軽くアイラが押す。
「公子、早く」
「あ、ああ」
城の入り口方面を見ると、シグルドが帰ってきたのを見張り台から確認していたのだろうか、オイフェとシャナン、アーダンが出てくる様子が見えた。
まだ実感が湧かないようで、拍子抜けしたようなシグルドをアイラは見上げて、小さく微笑む。
「おめでとう。公子は、人の親になったのだな。早くディアドラ殿のもとへ行かれるがよい」
「・・・アイラ」
「わたしも行きたいが邪魔だろうし、さすがに疲れた。日は高いが眠らせてもらうぞ」
「ああ、ありがとう。ゆっくり休んで・・・それから、ディアドラに顔を見せてやってくれ」
「うん」
2人がそのやりとりを終える頃には、待ちきれないといった風に走ってきたオイフェとシャナンがシグルドに飛びついてきた。
「シグルド様、お帰りなさい!」
「ディアドラの赤ちゃんが生まれたんだよ!」
「シャナン、ディアドラ殿だけのものではないぞ。シグルド公子のお子でもあるんだ」
そう言ってアイラは苦笑を見せた。
後から、まるで保護者のようにアーダンが歩いてきて、シグルドに一礼をする。
「おめでとうございます、公子。無事に、立派なご子息がお生まれになりました。今はディアドラ様もお目覚めですので、すぐにでも是非お会いになってください」
「アーダン。ありがとう」
ようやく事の次第がよくわかっている人間からはっきりと聞けて、シグルドはほっと安堵の息を漏らした。
「シャナン、悪いが、あまり眠っていないので休ませてもらう。夕食までは放っといてくれるかな?それとも、何かあるだろうか」
「あっ、うん、疲れてるよね。あの・・・その、会談の内容とか、僕も聞いた方がいいんだよね?アイラが調子いい時に、教えて」
「そうだな。わかった。じゃあ、公子、先に休む」
「ああ。本当に助かったよ。アイラがいなければ、道に迷うところだった」
そのシグルドの言葉にオイフェは呆れたように
「どうしてですか。だって、迷うほど難しい地理ではないですよ」
「近道しようとしてね。一人では木々の間、星をみながら走らせるのは面倒だったが、アイラが星を見ながら指示してくれて助かった」
「公子の役に立てたならば、それは嬉しいな」
アイラはそう言って微笑むと、その一群を置いたまま城に先に戻って行った。



アイラは厨房で湯を洗面器にもらい、それを自室に持っていって体を拭こうと思った。
通路で出会う人々はみな「お疲れ様」とか「お帰りなさい」と声をかけてきたが、みな、どことなくシグルドのことを気にしている様子なのはアイラにもわかった。
謁見についてをアイラに聞いてよいのかどうかも判断が難しいし、何より、やはり誰もがシグルドに祝福をしたいのだ。
それが、むしろありがたい、とアイラは思う。
「・・・っ・・・」
厨房に入った途端、アイラは足を止めた。
そこには、まったく予想もしていない人物がいたからだ。
「お?あぁ、ばたばたうるさいと思ったら、帰ってきたのか」
「・・・何故、ここに?」
女中達がいるだろうと思っていた厨房では、レックスが何故か大鍋に湯を沸かしていた。
「赤ん坊の体を拭くのに、ぬるま湯がいるんだと。あと、ディアドラがちょっと体調が悪いんで、首の後ろをあっためるのに湯を使うって言っててな」
「ディアドラ殿の調子は、悪いのか。大変だな・・・女中は?」
「この時間は、昼食の片付けも終わって、茶の時間までは交代で休憩だから手薄になってるだろ。それでなくとも、今はディアドラと赤ん坊の傍に人数割いてるからさ。湯ぐらいなら俺でも沸かせる。大したこと、男はできないんだからこれっくらいはやらないと。エスリンとエーディンは城下町に祝いの品を買いに出てるし・・・正直、俺達じゃ、祝いの品とか言ってもピンとこないからからな」
そういいながら、レックスは中腰になって薪をかまどにくべて、アイラの方を見ない。
アイラが憮然とした表情で立ったままでいると、ちょうど通路をアレクがばたばたと走ってきた。
「アイラ様、お帰りなさいませ。お疲れでしょう」
「あ、いや」
「レックス公子。ひとまず、ぬるい湯をちょっと先にいただいて行きますよ」
「おう」
アレクは小さな真鍮のバケツに湯を汲んで、慌しく走っていった。
男性陣までがこうやって借り出されるとは、なかなか出産後も大変なものだ、とアイラは人事のように思った。
レックスはようやく腰を起こして、アイラを見る。
「で、アイラは?何か飲みに来たのか?」
「実は、わたしも湯が欲しいと思って」
「そうか。もうちょっと待つか、こっちのかまどで沸かすか、どっちかだな」
「いや、いい。どうしても欲しいわけではなかったから」
そういってアイラは厨房を出て行こうとしたが、それをレックスは声をかけて引き止めた。
「待ってろ」
「いい。別にそこまで」
アイラが言い終わらぬうちに、レックスは鍋から沸騰前の湯を他の器に少しだけ移した。
それへ水を少し足し、近くにあった乾いた布巾を浸してから絞る。
「ほら」
「え」
「とりあえず、顔拭け。ひどい顔をしている」
「え。何か、汚れて・・・?」
アイラは自分の手の甲で頬や鼻の頭をこすった。その様子を見てレックスは苦笑いをして
「違う。そういう意味じゃない」
「?」
「疲れた顔・・・っていうか、張り詰めた顔ってのかな。なんだろうな。とにかく、ちょっとこう・・・もう、城に戻ってきたんだし、そんな怖い顔してないでリラックスしたらいいのに」
レックスの言葉に、アイラはぴくりと眉根を潜めた。そして、彼から受け取った温かい布巾にすぐに顔をうずめた。
熱すぎない布巾の温度と、立ち上って顔を覆って髪を湿らせる湯気。
その中でアイラはぎゅっと強く目をつぶった。
誰からも、あまり強い関心をもたれないまま、部屋に戻りたかったのに。
(泣きそうだ・・・泣いてしまいそうだ・・・!)
けれど、それは堪えなければいけない。
アイラは、あっという間にぬくもりを失っていく布巾に顔をうずめたまま、唇を噛み締めた。
レックスは、どう思うだろうか。
一瞬だけ考えたが、そんなことはどうでもいい、とすら思えた。
冷えていく布。
それでも、顔をあげられない自分。
どうすれば良いのか途方に暮れるアイラに、レックスは少しばかり優しい声音で問いかける。
「・・・何だ、つらかったのか、謁見とやらが。なんか苛められてきたのか」
なんという的外れな言葉達。
ごぷごぷ、と鍋の底から泡が立ち上っていく音がうっすらとアイラの耳に届く。
顔をあげられないアイラをどう思ったか、レックスは鍋を火から降ろし、水桶から新しい水を他の鍋に入れると火にかけた。
「ディアドラのところに持っていく。お前は、その鍋で湯がわくまで、火を見ていてくれ」
それ以上、レックスは何もアイラに聞かない。
両手鍋を持って出て行く彼の足音が遠くなっていくのを感じつつ、アイラは深呼吸をする。
彼女は、レックスが戻ってくるのを待つことは出来なかった。


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モドル