わたしはだんだん醜くなる-3-


シグルドとディアドラの息子セリスは、シャナンにとっては弟分、オイフェにとっては主の息子として仕える対象でありつつも、やはり弟のようなものだった。
彼らは、セリスが生まれる前からディアドラの元によく通っていたけれど、生まれた後も毎日のように足を運んでいた。
あまり体が強くないディアドラは、セリスが声を張り上げて泣いていても常にそれを抱きあげることが出来るわけではない。母親といえでも一人の人間であり、どうしようもないけだるい眠りに抗えない時もあるものだ。
そういう場合はもちろん昼間雇っている乳母や女中がセリスをあやすが、時には居合わせたオイフェがその役割を担うことがある。
シャナンは『赤子の世話をするのは男の役目ではない』と思っている節があったのだが、だからといって赤子に興味がないわけではない。乳母やオイフェがあやして機嫌が良くなっているセリスにだけ声をかけるという、子供らしい「いいところどり」をしており、当然それに目くじらを立てる者はいなかった。
そもそもシャナンはイザークの次期国王であり、赤子の世話をする立場の人間ではない。それに、たとえその程度のお相手だろうが、出来るだけ多くの人々が赤子に声をかけてることは良いことだ。
声をかけるという行為は、各人なりの愛情をセリスに注ぐ行為だ。そのことをシグルドもディアドラもわきまえている。おぼつかない手つきでセリスを抱き上げるオイフェや自分より幼い赤子に興味があるシャナンに、二人は温かい眼差しを向けている。
時には運悪く、と言ってよいのか、シャナンを迎えに来たアイラが、オイフェにも手に負えなくなっている状態に遭遇することもある。子を産んだことも育てたこともない彼女はさすがに「任せておけ」とはなかなか言えない。
だからといって放置することも出来ず、アイラも恐る恐るセリスを腕に抱くこともあった。
赤子というのは不思議なもので、もっといつも面倒を見てやっているはずのオイフェより、何故かアイラの腕の中の方が安心をしているに思える。それは母と同じ性を持つ者だからなのか。
シグルドの子供であり、ディアドラの子供。
アイラにとっては『複雑な胸中』というところではあったが、赤子というものは人の心の中に潜む、芳しくない何かすら溶かす威力があるように思える。それを、アイラは実感せざるを得なかった。
腕の中のセリスを見ながら、アイラは時々ぼんやりと思う。
(いつか・・・)
いつか、この子が大人になったら。
その時に、まだ自分とシグルド達の糸が繋がっているとしたら。
(お父上にわたしが思いを寄せていたことを、この子に笑って話せる日が来るのかもしれないな)
そう思えることは、自分にとっては良いことなのではないか。
こうやって、叶わなかった己の恋心を他人に話せることは前進であり、その日が来ることを望んだり想像出来るほど、自分の心は明るいのではないかと。
ディアドラを羨む気持ちなど失せ、シグルドの血を引く赤子を素直に愛しいと思い、その子の成長についてディアドラやシャナン達と話すことを厭うこともなく。
今はまだ難しいかもしれないが、自分は本来はそうやって生きたいのだ。
アイラはそう思っていた。
いや、そう、思いこもうとしていたのだ。
 
 
シグルド達に穏やかな時の終わりを告げたのは、アグストリアのシャガール王その人だった。
シャガールはアグスティ城をグランベルから取り戻そうと、マディノで挙兵をした。
これはどうにも手に負えぬほどの愚行だと、シグルド達は皆深い溜息をつく。
そもそも、シグルドはアグスティを返還するために、グランベルの王都バーハラに何度も交渉を重ねており、このままアグスティに留まるつもりはさらさらなかったのだ。
しかし、どれほどその意向がシグルドにあろうと、グランベルから派遣された役人はアグスティを自分達で統治する気まんまんだったし、バーハラからの返答も常に、シグルドがアグスティを統治することを求めるようなものだった。
それを思えば、シグルドが思っているよりも事態は深刻で、『このまま時間を重ねてもアグスティは返還出来ないのかもしれない』と実はシグルド軍の一部も疑念を抱きだした頃だったのだ。
そのうえ、シャガールがアグスティ奪還に兵力を割いたことで、オーガヒルの海賊が混乱に乗じて動き出した、という情報もアグスティに届いた。
が、残念なことに、それを防ぐためのなんらかの策をシャガール王が講じている様子はない。
シグルドの目から見ても、シャガールが『アグスティさえ取り戻せばどうとでもなる』という強迫観念に駆られた、いささか自暴自棄に近い挙兵のように思える。
(それでも、エルトシャンはシャガール王を裏切ることはしない・・・エルトシャンとは戦いたくないものだ・・・)
苦悩の中、シグルドは出陣を余儀なくされた。
生まれてほどないセリスを腕に抱くディアドラは、愛しい夫のその姿に心を痛め、彼が出陣することへの不安を隠しきれない。
そんな妻の様子を見て、シグルドはシャナンを呼び出した。
出陣前に一体何の用事だろうか、と息を切らせてディアドラの部屋まで走ってきたシャナン少年は、思いもかけない信頼の言葉をシグルドからかけられた。
「シャナン、ディアドラとセリスを守ってやってくれ」
シャナンにとってシグルドからのその言葉は、生まれて初めて「誰かを守る」ことを人に託された、自分を認めてもらっているのだ、と誇りたくなるような嬉しい言葉だ。
それを嫌がる必要が彼にはあるはずがない。
シグルドが出陣するということは、オイフェも、他のシアルフィの騎士達もこの城を出るのだろうし、先ほどアイラもまた、シャナンに留守の間いい子にしているようにといわれたばかりだった。だから、彼は「自分一人がそれを任されている」のであることを瞬時に理解をする。
「うん!大丈夫だよ。ぼくがディアドラを守ってあげるから、シグルドは安心して行っていいよ」
恐れを知らぬ子供は、大言を吐くものだ。けれど、その言葉はシグルドにとってもディアドラにとってもありがたい言葉だ。
「はは、シャナンはいつも元気がいいな」
そういってシグルドはシャナンの頭を軽く撫でた。
 
 
シャナンがシグルドにディアドラとセリスを任された、ちょうどその時、アイラもまたディアドラの部屋に向かって歩いていた。
自分達が出陣している間、多分シャナンはさびしがってディアドラの元に入り浸るだろう。
それを気にして、一言「シャナンをよろしく」と言っておいた方がよいと彼女は思ったのだ。
出陣前の準備に城全体がざわついて、あちこちで人が行き交う。
その物音は、部屋に近づくアイラの足音をすっかり消していた。
角を曲がると、アイラがたずねようと思っていた部屋の扉が空き、そこからシャナンが飛び出してくる姿が見えた。
アイラは驚いて声をかけようとしたが、シャナンはなにやら浮かれているようで、アイラに気付かないまま反対側の角に向かって走り去ってしまう。
と、シャナンが閉めた扉が再度開き、シグルドらしき人物の半身がちらりと見えた。
見えたと思ったら、扉を半開きにしたままでなにやらその場から動かないようだ。出ようとしたところを引き止められた、という様子なのだろう。
「・・・!」
アイラは足を止めた。
(見なかった、ふりを、すればいいのだろうか)
扉から僅かに見えるシグルドの背中が、わずかに丸くなった。そして、その背に回るか細い手が、やけに白く浮き上がってアイラの視界でその存在を主張する。
二人の様子をアイラは推測をして、一人、心を痛めた。
(今、シグルド公子はディアドラ殿を抱きしめているのだろう)
阿呆でもわかる、とアイラは思う。
そして、それが正解だった、とわかるのは、名残惜しそうに言葉をかけながら出てくるシグルドの目線が、随分と近くに焦点があっていることに気付いたからだ。
シグルドだけをみつめていても、そこに「第三者」が立っているのだ、ということが当たり前のように伝わる。
逃げることも叶わずにその場に立っていたアイラに、扉を閉めながらシグルドは気付いたようだった。
「アイラ、ちょうどよかった」
「・・・・ちょうどよかった?何かわたしに用でも?」
わたしは何一つちょうどよくないぞ、と言いたくなったところをアイラは飲み込む。
「ああ、実はつい今しがたシャナンにお願いをして」
そういいながらアイラに近づくシグルド。
「ディアドラとセリスを守ってやってくれ、と。わたしの勝手で頼んだのだが」
「いや、それは・・・むしろ、ありがたいぐらいだ。わたしがいない間、シャナンもさびしかろう。が、いくらか意地っ張りなところもあるから・・・そうやってお役目をもらえれば、ディアドラ殿のところに身を寄せる名目にもなる。ありがとう」
そういってアイラはシグルドに微笑んだ。それを見たシグルドはほっとしたようで
「ありがとう。事後報告で申し訳なかった」
「それぐらい。わたしも、ディアドラ殿にシャナンのことを頼もうと思っていたので・・・ああ、何かしてくれ、ということではなくて・・・多分、シャナンが今まで以上に顔を出すだろうから、と」
「そうか。確かにそうだな・・・ディアドラが、わたしと離れることを怖がっているようで。シャナンがいてくれば心強い。あの子の明るさにも救われるだろう」
シグルドのその言葉には、アイラは曖昧な笑みを浮かべ、出陣の準備がまだあるから、と告げて背を向けた。
彼もまた、シャナンが走り去った方向に歩き出し、急ぎ足で角を曲がっていく。
その気配を背中越しに感じつつ、アイラは唇を軽く噛み締めた。
口を抑えていないと、何かが体の中から飛び出てしまいそうになる。
シグルドとディアドラの抱擁を完全に見なくてよかった、という気持ち。
シグルドが見せるディアドラへの優しさ。
羨望や嫉妬、彼が彼らしいことへの安堵や愛しさ。
また、共にシグルドといられないディアドラへの僅かな憐憫と、僅かな優越感。
(わたしは、ディアドラ殿のように公子には愛されない。ディアドラ殿と二人きりでいるときの公子を知ることは出来ない。けれど、わたしは、わたしの剣で、シグルド公子の力になるために傍にいることが出来る)
不謹慎とは知りつつ、この出陣を僅かに喜ぶ自分がいることもアイラは知っている。
誰にそれをそしられたとしても、自覚がある以上は素直に頭を下げる気持ちもある。
けれども、どこかで『少しだけは許してもらえないか』と己に甘く思うのも事実だ。
アイラは自分の部屋に戻って扉を閉めると、その扉に背をつけて瞳を閉じた。
扉越しに通路を行きかう人々のざわめきが聞こえる。
戻ってくる間に誰とすれ違ったのか、誰と軽く挨拶を交わしたのか、彼女はまったく覚えていない。
「どうしようもない・・・!!」
口から出てしまった、苦悶の声。
それが、ずっと彼女が耐えていた『湧き上がる何か』だ。
どうしようもない。
自分は、どんな事実を突きつけられても、何故かあの男への思いをなかなか消すことが出来ないのだ。
美しい妻を娶って。
可愛らしい世継ぎを授かって。
あんなふうに抱きしめて、慈しんで、思いやって。
それを目の当たりにしても、諦めろ、という声が自分の脳裏にはもう浮かび上がってこない。
それどころか、自分がディアドラと違う形で、あの男にとって「大事な人」となるために戦を求めてしまうとは。
これを、「どうしようもない」といわずして、何をそうだと言うのだろうか。
(わたしが剣を振るうのは、そのためではない・・・わたしの剣は、イザーク王家の剣は、そんな、色恋のために振るわれるものでは・・・)
自分は、シャナンに剣を教える資格なぞないのかもしれない。
アイラはそんなことを思いつき、腰に下げた剣に手をかける。
(剣を持つときは、剣を振るうときは、剣に誠実であれ。剣を持つとき、剣を振るうときは・・・)
瞳を閉じたまま、繰り返し繰り返し、まるで自分に言い聞かせるように何度も唇が動いた。
3回、4回、そして5回。
ついにアイラは瞳を開け、出陣の準備を始めた。
それは、彼女の強さだ。
けれども、もしも彼女にその強さがなかったら、もっと早いうちに彼女は救われたのかもしれない。
それに気付く者はここにはおらず、彼女自身も一生それに気付くことは出来ないままだった。
 
 
シグルドはマディノ城からの進軍を食い止め、使者を送って出来る限りシャガールとの衝突は避けて説得を試みようと考えた。そうは言ってもシャガール王のひととなりを考えれば、きっとシグルドの何の言葉も耳を貸さないだろうと思える。
しかし、シグルドは親友エルトシャンに「アグスティを必ず返還する」と約束をしており、それはシャガールと戦を交えることとはまったく相反することだ。それを思えば、出来うる限り戦は避けなければいけないのだ。
そんなシグルドの思いをシャガールは知るはずもなく――いや、知っていても、そもそも人を信じるような男ではないのだが――完全な戦闘態勢に入り、強固な姿勢を見せた。
アグスティ城はもともとアグストリアの城であり、当然城下町に住んでいる者達はアグストリアの住民だ。
その住民がいる城を攻めるということは住民へ戦火が及ぶということだ。
それをシャガールは「必要経費」と考えているのか、そもそも住民のことなぞ考えていないのか、お構いなしにアグスティを攻めようとしている。そんな人間のもとに使者を送っても、何の効果も得られぬだろうことはわかりきった話だ。
最早シグルドには、シャガール王がいるマディノ城まで攻めあがり、使者ではなく自らが説得する道しか残されていなかったのだ。
このシャガールの挙兵とシグルド軍の出陣が、アグストリアの命運を大きく揺るがすこととなる。
 
 
「アイラ!」
先に走っていったはずのレックスが、何故か引き返してきてアイラに声をかけてきた。
その様子からは切羽詰ったようなものは感じなかったし、戦況が変わって伝令が走るにはまだ早すぎたため、アイラは冷静に返事をした。
「レックスか・・・何か、用か」
「いいものを手に入れたから、お前にやろうと思ったんだ」
そう言ってレックスは手馴れた動きで馬から降りた。
アイラは眉間を寄せる。
彼女は人から物をもらうことは慣れていなかったし、男性が女性に何かを贈るのはその女性の気を引きたいからだということを、さしもの彼女も知っていた。
とはいえ、彼女は自分が「そういう対象」として見られてもおかしくない、という認識はなかったし、それとは矛盾した思いとして「グランベルの男に」何かをもらう、ということに幾らか嫌悪感を持っていたのも確かなことだ。
「贈り物なら他の女にやれ。わたしはそんなものに興味はない」
「おいおい」
すげなくそういって立ち去ろうとするアイラを引きとめ、レックスは手に持っていた細長い布包みを突き出し、はらりと布を取り去った。
「これでもか?」
「ん?」
レックスの手に握られているものが剣であることは一目でわかった。
そして、あまり慣れていない手でレックスはその剣を鞘から抜く。
「・・・それは・・・!」
「勇者の剣と呼ばれる名剣だ。名前ぐらい、聞いたことあるだろう?」
「これが・・・勇者の剣・・・」
しばしアイラはその剣の美しさに心を奪われたように見入っていた。レックスが言うように、アイラもその名を聞いたことはある。剣を振るうものならば一度は手にしたいと思うだろう憧れの剣だ。
柄にほどこされた装飾よりも何よりも、歪みひとつない刃、普通の剣とは異なる、曇りひとつない輝きは、その名を知らない人間でも名剣であることを理解出来るほどの説得力を持っている。
その一瞬の夢見心地を断ち切るように、レックスは剣を鞘に戻し、アイラに突きつけた。
「気に入ってくれたようだな。じゃ、受け取れ、ほらよっ」
思いもよらず、ぎゅっとそれを腕の中に押し付けられて、ついアイラは剣を受け取った。
レックスは軽い身のこなしで馬に乗ると、呆然としているアイラを置いて「先行くぞ!」と声をかけて馬を走らせる。
「あっ、待ってくれ、レックス!」
追いかけようとしても、いくらアイラの足が速くても馬には追いつけるはずがない。ふと周囲を見ると、ジャムカとアゼルに守られながらエーディンが合流しようと走ってくる姿が見える。
(ああ、そうだった、わたしもエーディンを守りながら進んで、エーディンと弓兵が配置についたら離れて・・・騎馬隊の近くに合流するように、と・・・)
先に陣形を整えるためにシグルド率いる騎馬隊が進んでいる。そこから離れてレックスはわざわざ剣を渡しに来たのだろう。
(城から出る前にでも、渡してくれればよかったのに)
アイラはその程度しか考えず、ありがたくその勇者の剣を背負った。
どうして彼がそんな名剣をくれたのか、ということは本人に確認する以外、彼女の想像ではまったく理解出来なかったので考えないことにした。
新しい剣をすぐに戦場で使う気にはなれないので、一息ついたときにでも振るってみようと思う。
それは久しぶりに彼女にとって「楽しみ」をもたらしてくれたようだった。
これは、マディノ城制圧までの間の、余談である。
 
 
シグルド軍は難なくマディノ城まで進軍し、ひとまずシャガールと話をしようと試みた。が、シグルド軍の勢いに圧されたシャガールは、既にシルベール城へ撤退していた後だった。
エルトシャンと衝突することなく、シャガールと衝突することなく戦が終わったことは、一瞬人々に安堵の息をつかせる。が、実のところそれは両手をあげて喜べることではなかった。
シグルドはがすぐにマディノ城からアグスティ城に撤退することでそれなりの誠意を見せようと思っていた。が、オーガヒルの海賊の件以外にも、それが出来ない事情が一つ増えてしまったのだ。
タイミングよく、なのか悪く、なのか、マディノ城を制圧したシグルド達のもとに、グランベルのエッダ家のクロード神父とフリージ家のティルテュが訪れた。
彼らはシグルドにとって不運な知らせを伴ってきており、クロードはその内容について疑念を抱いているとのことだった。シグルドは大層驚き、クロードの「疑念」に対して共感をした。
クロードが持ってきた情報は彼にとってはとても信じがたい内容で、どこかで何かの謀略がうごめいているとしか思えないものだったからだ。
クロードは、ことの真実を知るために北西の島にある「ブラギの塔」に足を運ぶつもりだという。
彼はブラギの塔でブラギ神の声を聞ける、というエッダ家直系であり、彼がそれを行うことで、シグルドにとっては多くの疑念が晴らされるのではないかと思われていた。
彼らが持ってきた話の概要は、容易に漏らして良い話ではない。当然シグルド軍全員が知るところではなく、あくまでもクロード神父がブラギの塔から戻った後にシグルドから話されることとなった。
とはいえ、シグルド軍の面々は内容を知らなくとも、シグルドの表情が険しいことに気付いている。
逃亡したシャガールがこのまま引き下がってくれるのか、また挙兵しては親友エルトシャンと戦うことになるのでは、という懸念ゆえ、と思うことも出来たが、日々ひとつ屋根の下に生活をしていた彼らは、「それだけではない」と誰もが感じ取っていたのだ。
少しでも早く真相を知りたいと考えたシグルドは、マディノ城からアグスティ城への撤退を見送った。オーガヒルの海賊に対して、やはりシャガールは何も動きを見せないし、クロードとティルテュを放置して自分達が根城に帰るわけにはいかないと判断したのだ。
結果、シグルド軍とシャガールとの間には、一触即発の状態が継続されてしまった。
そんな中、シルベール城に対して監視を行っていた斥候が、素早い伝令をマディノ城へ送った。
こういう状況での伝令が、あまり芳しくない内容を伝えるということを、誰もが理解をしている。
その伝令は、やはり当初の懸念どおりシャガール王はエルトシャンを煽って出撃を促したとのこと。つまり、ついにシグルド軍と対峙するために、エルトシャン王がクロスナイツ達を率いて出陣することとなったのだ。
誰もが「せめてそれだけは回避したい」と願っていたことにも関わらず。
ついに、マディノ城制圧後、彼らは一息つくことも出来ぬままそれを迎え撃つこととなり、正念場を迎える。
憔悴しているシグルドを思いやるように、人々は彼に声をかけ、同時に実兄と敵対することになったノディオンのラケシス姫をも気遣いつつ出陣をした。
 
 
エルトシャン率いるクロスナイツは、各国にその名を誇る騎馬隊だ。
そして、率いているエルトシャン本人、ヘズルの直系であり神器と呼ばれる魔剣ミストルティンの所有者だ。
シグルドの『出来る限り戦いたくない』という思いは『友と戦うこと』に対する悲しみだけではなく、実際にはエルトシャンという人間の圧倒的な強さを知るが故のことだった。
シアルフィから自分を信じてついてきてくれた騎士達。
グランベル貴族でありながら、自分に力を貸したがゆえにここまで共にくることとなったレックスやアゼル。
その他、シグルドにとっての自軍は、どれほど感謝をしても足りぬほど「シグルドに力を貸そう」と思う者達、人の善意によって成立している。
その人々にエルトシャンのミストルティンが向けられると思うと、額に妙な汗が浮かぶ。
もちろんそれだけではない。
自分がエルトシャンと剣を交えたら?
勝てる気がしない、と残念ながら思う。
ジャムカやミデェールの弓矢、アゼルが操る魔法。
それらはエルトシャンに有効なのかもしれないが、相手は騎馬隊。うかつな場所から仕掛ければ、エルトシャンを倒せてもクロスナイツ達に囲まれてしまうに違いない。
「シグルド公子、わたしが、兄を説得してまいります」
気丈にもラケシスがそう申し出てくれたが、ラケシスをクロスナイツに近づけることは危険なことだった。
シグルドは渋って「わたしが説得をする」とそれを一度断った。
が、ラケシスは一歩も譲らずに
「あなたがどれほど兄の信頼を得ていても、今となっては力及ばなかったグランベルの人間。わたしは、そんなあなたがどれほどアグストリアに対して尽力してくださったのかを、間近で見ていたノディオンの女です。それに、わたしが知っている兄も、あなたがご存知の兄も、どれほどの忠義の下ですら、実の妹にミストルティンを振るような人間ではないはずです・・・いえ、わたしがそう信じたいのです」
と言い切ると、シグルドの静止をふりきって馬を走らせた。
シグルドは慌てて騎馬隊を集めてラケシスの周囲を守らせ、ミデェールをラケシスの背後に配置するように命じた。また、シレジアの天馬騎士フュリーに、クロスナイツとの距離とラケシスの距離を把握して、上空から指示を出すようにと伝える。
アグストリアの地に響くひづめの音。
騎馬隊同士のぶつかり合いでは、アイラやホリンといった剣士達は距離をとらねば目線を通常よりもあげて戦う必要があるため、心労も相当なものだ。しかし、シグルド軍にいる彼らは百戦錬磨というほどではなくとも、このご時勢の割には実戦経験が豊富であるため、騎馬同士の混戦でも自分で判断をして動くことが出来る。それをシグルドは知っていて、歩兵には多くの命令を出さなかった。
少数での戦では、時に、馬に乗った者からの目線で出した命令が歩兵にとっては無理難題であったりむしろ愚考となる場合もある。アイラやホリン、そしてジャムカやデューなどの歩兵達は決してシグルドが把握できぬ行動はとらなかったし、戦慣れしていないシレジア王子レヴィンや踊り子シルヴィアに関しては聡明さを持ち合わせていたため、シグルドは相当に助けられていた。
「兄上!わたしです、ラケシスです!!もう無意味な戦はおやめください!!」
ついに、クロスナイツとシグルド軍がぶつかり合った時、先頭となって走ってきたエルトシャンにラケシスが接触をすることが出来た。
敵となった兄の姿を見た瞬間、ラケシスの両眼には涙が溢れ出て、叫ぶ声が上ずる。
彼女を守るために周囲にいた者達は、その声をかすかに聞きつつも、手を緩めぬクロスナイツ達との戦いを余儀なくされた。
混戦の中、ラケシスとエルトシャンの会話を把握できた者は誰もいない。
ほんの数十秒、いや、それ以上だったか、二人は言葉を交わし、エルトシャンは馬を引き返してシルベール城に向かって走っていった。
しかし、彼はクロスナイツに何の指示も出さぬままであり、クロスナイツからの猛攻はまったく止まない。
「剣をお引きなさい!エルト兄様は、シャガール王の説得にシルベール城へ戻りました!」
泣きながらラケシスが叫んでも、クロスナイツ達は剣を収めなかった。
一人のクロスナイツが、ラケシスから僅かに離れた場所から、剣を構えたまま話しかける。
「ラケシス様。エルトシャン様がこの場を離れたからとはいえ、我々は命令を無視して戦をやめるわけにはいかぬのです」
「何を言うの!あなた達を率いた兄様が撤退したならば、あなた達も・・・」
「ここで戦をやめれば、すぐにでもシャガール王に勘付かれ、エルトシャン様は裏切り者として謁見すらしていただけないかもしれませぬ」
「!」
「我々は誇りあるクロスナイツ。いくらエルトシャン様が戦を止めることを本意としても、それが命令としてまかり通らねば戦を止めることは出来ません。そして、どんな状況であろうと、クロスナイツとして選ばれている以上は、手を緩めて偽りの戦いを演じるようなことは出来ぬのです。それは、アグストリアの民を裏切る行為であり、シャガール王を裏切る行為でもあります」
「・・・何を・・・何を言っているの!?兄様は、兄様は命をかけて、シャガール王を説得に行かれたのに、あなた達は・・・!」
叫んだラケシスの横に、レックスが馬を走らせた。
「ラケシス、下がれ!シグルド公子が状況を知りたがっている!エルトシャンは離脱したのに、こいつらはどうして・・・っと!」
ラケシスと話をしていたクロスナイツの一人がレックスに向かって切りかかってきた。
この状況を誰よりもわかっているはずのラケシスは、まるで何もわからない阿呆のようにその場に固まったまま動くことが出来ない。
「何をしている!」
騎馬戦の最中に、迂闊に馬に乗ったまま立ちすくむことは危ない。
主からの命令がないまま、馬同士が接触するだけでも振り落とされる可能性もあるからだ。
それに、馬上で止まっていれば弓兵からの恰好の的になってしまう。
呆然としているラケシスの足を、馬の横に走ってきたアイラが掴んで、無理矢理馬から引き摺り落とした。
小柄なアイラが引っ張ってもずるりと馬から落ちるほど、ラケシスは呆けていたのだろう。
共に近づいてきたホリンがラケシスの体を受け止めてから、アイラに「任せる」と言ってラケシスを引き渡す。
ホリンは、ラケシスに切りつけてきたクロスナイツに剣を向けた。
「ラケシス、一体、どうなっているんだ。エルトシャン王が立ち去る姿は皆が見ていたが、何故・・・っ!!」
人一人を庇いながら戦うことは、なかなか容易ではない。アイラは襲い掛かってくるクロスナイツの攻撃を交わして、ラケシスを無理矢理引っ張って少し離れた場所へと避難をした。その様子を見て追おうとしたクロスナイツに、ジャムカが放った矢が刺さる。
ラケシスは、まだ呆然としたまま、ようやくぽつりぽつりとアイラに呟く。
「兄様は、シャガール王を説得に・・・クロスナイツは・・・エルト兄様からの正式な撤退命令がなければ、本気で戦い続けると・・・自分達が戦をやめれば、すぐにでもエルト兄様が・・・疑われるから・・・止められないのだと・・・」
泣きながらようやくそこまで伝えると、ラケシスはくっ、くっ、と喉を苦しそうに鳴らした。
彼女とアイラの目の前で、ホリンとレックスが数人のクロスナイツを屠る姿が見えたからだ。
アイラは唇を噛み締めた。
ラケシスから得たそれだけの情報で、何が起きているのかおおよそはわかったからだ。
そこへ、フュリーの天馬が急降下して近づいてくる。
「フュリー、ラケシス姫を安全なところへ」
「はい」
「大丈夫・・・わたし、戦えるわ・・・」
「いい。ラケシス。たとえ自分に剣を向けたのだとしても、自分の兄君が率いる騎士達と戦うのは辛いだろう」
アイラはそういい残して走り出した。
レックスが先ほど言っていたように、シグルドは状況が飲み込めていない。
それを伝えに行かなければいけないのだ。
砂煙の中、アイラは馬と馬の混戦状態をすり抜けて走った。
攻撃を避けること、馬に蹴られぬことだけに集中をしていれば、この混戦状態でもなんとかシグルドに近づくことが出来る。
それはクロスナイツが相当訓練されている騎士団であり、剣を向ける者には剣を向けるが、その意志がないものは後回しにすることが当然と身に染み付いていたからかもしれない。
「公子!」
「アイラ!?」
「エルトシャン王は、シャガール王を説得に行った!」
「それは、わかっている!」
「が、クロスナイツには、撤退の命令が出ていない。彼らは、エルトシャンから命令がない限りは、本気で戦い続ける!」
「しかし・・・!それでは、我々は!」
本気で戦うクロスナイツ相手に、ゆるゆるとそれをいなすだけの行為が出来るほどクロスナイツは甘くない。
「無理なんだ、公子。彼らには彼らの、誇りというものがあるのだろう」
アイラを見下ろしたシグルドの表情が、苦悶に歪んだ。彼にはきっとアイラの言葉が正確に伝わったのだろう。
が、彼は「わかった。ありがとう」と呟いてすぐさま目の前の戦いに意識を戻す。それを見て、アイラもまた己が伝令役を果たしたことを理解してその場を離れる。
シグルドのその表情を見た瞬間、アイラは、胸の奥で傷みが広がる感触を味わった。それは、彼への同情だけではない。。
自分は戦でシグルドのために剣を振るい、彼の役に立つことだけを考えて出陣した。
けれども、「彼の役に立つ」こととは、この戦いではそれではないのだろう。
彼にあんな表情をさせるような報告を届け、そして、本当は彼の本意ではない戦を続けるしかないなんて。
自分はどこまで。
どこまで、彼に何も与えることが出来ない、ちっぽけな人間なのだろうか。
いついかなるときでも、彼に何かを出来る自分でありたいと思うのに。
(すまない、ラケシス。わたしは、こんな時でもシグルド公子のことしか考えられない阿呆なのだな)
それでも、やはり今自分に出来ることは、シグルド軍にこれ以上の負担をかけぬよう、剣を振るうこと、それだけなのだと彼女も重々承知をしている。
エルトシャンを待つために長引かせなければいけないのかもしれないが、彼女もまた剣に誇りを持つ者。
クロスナイツに対して、全力を持って迎えなければいけないのだ。
 
 
悲しいことに、妹ラケシスからの説得を受けて再度シャガール王へ進言を試みたエルトシャンは、王の怒りをかって帰らぬ人となってしまった。
そして、まるでそれを知っていたかのように、クロスナイツ達も全力でシグルド軍にぶつかり壊滅をした。それを犬死と言える者は、シグルド軍の中にはいない。
シャガール王はアグストリアの誇りを既に失っており、トラキア王国の竜騎士団を金で雇っていた。それは、エルトシャンに対してシャガールが真実の信頼を寄せていなかったことの証明であり、それを考えれば誰もが、エルトシャンの忠義が痛ましく思える。
竜騎士団の姿を見た瞬間シグルドの心に湧き上がったのは、まさしくシャガールへの怒りではなく、自分の親友が貫いた、融通の利かぬ騎士道への尊敬と悲しみだったのだが、彼はそれを誰に言うことも決してなかった。
「エルト兄様が・・・?シャガール王に・・・?」
エルトシャンの訃報を受けていたシグルドは、戦の最中にはラケシスに知らせぬように己の心の中にしまっていた。それが、どれほどの気力を要するのか、彼の心中を思えば周囲は同情せざるを得ない。
シルベール制圧後にそれを知らされたラケシスの方は、シグルドのおおよその推測と違わず、大きな衝撃によって茫然自失だった。
「・・・どうして・・・どうして・・・」
と、まばたきを忘れたように瞳を見開き、何度か何かを呟いた後、ラケシスはその場で意識を失った。
まるで、真実を受け入れることを拒むかのように。
 
 
意識を失ったラケシスは、シルベール城の一室に運び込まれた。
こんな状態で意識を取り戻しても、きっと周囲も気を使うことになって面倒だというのが人々の見解だ。それに、エルトシャンの実妹であるラケシスの悲しみはもちろんであったが、エルトシャンの親友であったシグルドとキュアンもまた深い悲しみに暮れていて、彼らもまた『いっそ意識を失うことが出来れば、どれほど楽か』と思わずにはいられぬ心の痛みを負っている。
そういうわけで、ラケシスが意識を自然に取り戻すまではそっとしておこう、ということになり、彼女が運びこまれた部屋の扉の傍で、アイラは警護についているかのように見張りを任せられた。
アイラはラケシスにかける言葉を持たない。
今は一人にしてやることが必要だとわかっているが、制圧直後の城には、まだどこに敵兵が潜んでいるのかわからない。そんな時にこんな状態のラケシスを放置するわけにはいかないのだ。
それに、ラケシスはノディオンの姫であり、そんな人物がグランベルの軍に加わっていたことをよく思わぬ人間が必ずいるに違いないのだ。
「アイラ、ラケシス姫は、どうだ」
ラケシスを寝かせている部屋の前で待機していたアイラのもとに、剣士ホリンがやってきた。
「まだ意識が戻っていないと思う。物音ひとつしない。もうすぐ一刻も経とうとしているのだが・・・」
「そうか・・・意識が戻ってからのほうが、大変なことになるだろうな」
「わたしはアグストリアのこともグランベルのこともよくわからぬが・・・エルトシャンという御仁が大層素晴らしい人間であることは聞いていた。が、そういう人物であるがゆえに覚悟をした死というものがあると、それは痛いほど理解が出来る。きっと、エルトシャン公がもっと・・・言い方は悪いが、評判よりも劣る人物であれば、命を守れたのだろうな・・・」
その呟きにホリンは同意するように、かすかに三回無言で頷いて見せた。
「代わってやりたいが、女性の方がよいだろう。そうかからず意識を取り戻すだろうし」
「ああ。わたしは何をどうすればいいのか少しばかり経験不足だが、あまり・・・グランベルの人間ではないほうが、良いみたいなので」
ラケシスを心配したエーディンが「わたしがお傍についていましょう」と申し出たのだが、ジャムカがそれを引き止めたのだ。ジャムカの言い分は誰もが納得できることで、いくらシグルド軍に属していたとしても、エルトシャンの死はグランベルがその一因を担っているのは事実だ。だから、出来ればグランベルの人間ではないほうが良いのではないか、という意見だった。シグルドの妹であるエスリンは、今はレンスターの人間とはいえ、もともとグランベルシアルフィの血筋。その上、実兄も夫も憔悴している今、手を離すことも出来まい。
シルヴィアはそもそも見張りに適していないし、シレジアの天馬騎士フュリーはその特殊な兵種ゆえ、制圧後の城周辺の斥候を申し付けられることが多い。
こういう形で『イザークの人間』という立場を使われることは、アイラにとっては別段どうでも良いことだった。
それに、フュリーと違って、城を制圧した後の雑務などは正直アイラには出来ることがほとんどなく、落ち着かぬ城の中で時間をもてあましてしまっているのが本音だ。
目覚めたラケシスがどんな状態になるのかはわからないが、もしも自害を決意した場合は止めなければいけない。
それだけはアイラにもわかっている。
と、そんな彼女――とホリン――のもとに、偵察に出ていたはずのフュリーがやってきた。
「アイラ様、わたしが交代いたします」
「うん?しかし、フュリーは他にやることがあるのでは・・・?」
「マディノから早馬の兵士に乗せられて、シャナン王子がいらしています。たまたま斥候の足を伸ばしたところ、その様子が見えたので、わたしの天馬に乗せてここまで飛んできたのですが」
「シャナンが!?」
「シグルド公子に話があっていらしたようなのですが、セリス様まで連れてこられていました。産まれたばかりの赤子を馬車にも乗せず早馬に抱きかかえて乗るなんて、尋常ではないと思われます。アイラ様が是非シャナン王子のもとへ行って差し上げればどうかと」
「わかった・・・ありがとう、フュリー。疲れていないか?申し訳ない」
「大丈夫です。一息ついて、茶の一杯もいただきましたから。シレジアの寒空に比べれば、アグストリアの気候は飛ぶのに楽で仕方がありません」
それは本音もまじった言葉なのだろうが、アイラを安心させようとしていることも明白だ。
フュリーにもう一度礼を言ってから、アイラはその場を立ち去った。
嫌な予感ばかりが胸の中に広がる。
シャナンが、セリスを連れて。
それでは、ディアドラは。
アイラだけではなく、誰もがそう思わずにはいられないだろう。
そして、その嫌な予感は、当たり前といえば当たり前に的中をすることとなった。
 
 

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