わたしはだんだん醜くなる-4-


シャナンがシグルドのもとにもたらした報告は、信じがたいものだった。
シグルドに会いに行こうと単身城を出たディアドラが行方知れずになっている、という、想像を遥かに超えた事態に、シグルドは衝撃を受けた。
あれほどに大切にしていた妻が、何故。何故、自分の帰りを待てなかったのか。
深い森の奥に閉じ込められていた彼女の境遇を考えれば、幼いセリスを置いてでもシグルドの傍に行こうとした彼女の気持ちがわからなくもない。
けれども。
最初は止めたのだ、とシャナンは言った。その制止を振り切って城を出たのはディアドラだが、最後にはディアドラに根負けをして、それを拒み続けられなかったののだということも打ち明けた。
その場にいた誰もが言葉を失わずにはいられず、ただ「ごめんなさい」と繰り返しシグルドに縋るシャナンの声が、通路に届くだけ。
シグルド、ごめんなさい、ごめんなさい、と、何度もシャナンは繰り返し、みなが「大丈夫だから、シャナン」と声をかけても、それしか言葉に出来ぬようにシャナンは謝罪を繰り返した。
自分がディアドラを、セリスを守る。
シャナンはそうであろうと強く思っていたし、敵がくればいつでも身を挺して彼らを守ろうと思っていた。
なのに、実際は。
ディアドラに迂闊な外出を許し、そしてそれっきり。
ひとつの選択が間違えば、どれほどのことになるのか、幼い彼はわかっていなかったのだ。
子供心にシャナンは「もっと自分が止めていたら」と後悔をし、もう、何一つ後悔したくない、セリスだけは守り抜いてみせる、と心に誓ったのだろう。
セリスとひとときも離れることなく、危ない早馬に乗っている間にも目を離さずに神経を張り詰めた様子で来たらしい。
彼の悲痛な声はしばらく続いたが、アイラがフュリーに事を聞いてかけつけた頃は、シャナンはシグルドの部屋を出た後だった。
「アイラ様」
「ああ、オイフェ、えっと・・・シャナンは・・・」
通路で声をかけられ、アイラはうまく言葉にならずに口を開けたまま止まった。
「シャナンは、部屋をひとつ与えて、そちらに案内しました」
「そうか。で、一体・・・」
「実は・・・」
オイフェの説明に、アイラは眉を潜め、強く拳を握った。
信じられないという思い。
シャナンは何故止めなかったんだ、という思い。
けれど、それとは別に、シャナンに同情をする気持ち、シグルドのことを思う気持ち、様々な感情がないまぜになって、アイラは深く息を吐いた。
「なんということだ・・・探しては、いるのだろう?」
「そのようですが・・・ディアドラ様が城の外に出ようとしたのを止めた兵士がいて」
「うん」
「二名ほど、無理を言ってディアドラ様の護衛について出て行ったらしいのですが、その二人の遺体がみつかったそうです」
「・・・!」
それでは、生きている。
ディアドラが兵士を殺すはずがない。
何者かに連れ去られたという線が濃厚だ、とオイフェはアイラに説明をした。
「追って、みなにも説明が行くと思いますが、今はシグルド様が憔悴なさっていて・・・ノイッシュさんがキュアン王子やレックス公子に連絡に行ったようです。アイラ様、シャナンは泣き疲れて眠っていると思います。シャナンのこと、責めないでいてあげてください」
「・・・ああ・・・ありがとう・・・」
アイラはオイフェからシャナンの部屋を聞き、そちらに足を運んだ。
その足取りは重く、数歩進むたびにため息が漏れる。
もしも、ディアドラがいなかったら。
そんな想像を今までしたことがなかった、とは彼女は言いきれない。
自分はシグルドの隣に立つのに足りた人間だとは思わない。だから、たとえディアドラとシグルドが出会っていなくても、自分の恋は成就しなかっただろう。アイラは、心からそう思っていた。
けれど、それでも。
わかっていても「もしも」の世界を思い描けば、今よりはもう少しでも、彼に近づけたのではないだろうか。今のように苦しい思いをしていなかったのではないか。
そう思わなかったわけではない。
そして、自分のその想像は「ディアドラがいない」シグルド軍の想像であることを、アイラは重々わかっていた。
(・・・なんという・・・なんという申し訳ないことを・・・!)
アイラは、通路の壁に体を寄り掛からせた。
ふと違和感を感じて前髪をかき分けると、わずかに額に脂汗が滲み出ている。
戦で与えられた傷を耐える苦痛の時にしか、そんなものを意識したことなぞない。
彼女は驚愕して慌ててそれを拭った。
(違う。わたしのせいではない。わたしが、そんなことを考えたからといって・・・ああ、でも・・・でも・・・!)
アイラは、自分の中の何かと戦っていた。
どこかで自分は、ディアドラが行方不明と聞いて喜ばなかっただろうか。
みつかって欲しいと思うと共に、でも、少しだけそのままで、なんて、意地の悪いことを思わなかっただろうか。
実のところ、アイラは微塵もそのようなことを思っていなかった。
ただただ驚き、心配し、シャナンのことを思い、シグルドを思い。
それが話を聞いた時の彼女のすべてだ。
だというのに、アイラはまるで自分で自分を責めるように、粗を探るように、ないはずの悪意を掘り起こそうとしている。
それは、過去に一度でも、「ディアドラ殿がいなければ」と思ったことがあるのだと、自分自身だけは知っているからだ。
「駄目だ・・・!」
アイラはうめき声をあげ、壁から離れた。
自分が今しなければいけないことは、そんな呪縛に足を踏み入れることではない。
泣き疲れて眠ったシャナンの部屋に急ごう、とアイラは再び歩き出した。
シャナンだって、子供なりに傷ついているに違いない。
責任を全うできなかったことの辛さ、ディアドラを失った悲しみなどが、彼の心を歪めぬように、自分は彼の傍にいてあげなければいけない。
アイラはシャナンのために、と心を奮い立たせたが、それは奇しくも、シャナンのおかげでアイラ自身が助けられているということなのだろう。
 
 
その後、シグルド軍は近隣の村を荒らすオーガヒルの海賊討伐に再び出陣。
アグストリアの最北端まで移動をした頃、なんとシグルド達を「反逆者」として追うグランベルの大軍が姿を現した。
シグルドの父親、バイロン卿がグランベルのクルト王子を殺害して、親子共々グランベル王国を掌中に入れようと画策したという濡れ衣。
レックスの父親であるランゴバルト、ティルテュの父親であるレプトールという早々たる面々が全力でシグルドを捕獲しようとアグストリアまで足を運んでいるのだ。どれほどにそれが本気なのかが伺われる。
親友を失い、妻の行方も知れぬまま、シグルドは苦渋の選択を強いられた。
戦うか、投降するか。
そんな彼に手を差し伸べたのは、中立国シレジアのラーナ王妃。
天馬騎士団長マーニャがシグルドのもとに駆けつけ、海を渡ってシレジアに向かう手はずを整えてくれたのだ。
後方に迫るグランベル軍になすすべもなく、シグルドは苦渋の選択をするほかに、何も手立てはなかった。
 
 
シレジアに向かうため、彼らは天馬部隊が用意してくれた三隻の船に乗り込むことになった。
シグルド軍全員を乗せて一気に飛んでいけるほどの天馬の量は確保していない、とのことで、その代わりに、とその船を囲んで天馬騎士達は飛んで護衛についていた。
小型船とはいえ水夫は30人以上はおり、常時漕ぎ手が左右で10人ずつ、他数名が進路確認その他に携わっている。残りは当然櫓の交代まで休憩している。
もちろん、客室が用意されているような大層なものではないため、みなは身分も関係なく、男女でわかれた大きな部屋でごろりと横になって眠ることになった。彼らは「客員」ではなく「荷物」とほぼ変わらぬ扱いだ。食料を積んだり人員を増やしたくなかったのか、水のほかには乾パンと干し肉、干し果物と木の実などが各種何種類かずつあるだけで、調理用の食料は一切ないと言う。
とはいえ、エルトシャンの死によって相当に衝撃を受けたラケシスは体調を大きく崩したため、ひとつだけの客室――それだって、ベッドと椅子があるだけの簡素なものだ――を与えられていた。
ディアドラの失踪の件と、ブラギの塔の話、そしてグランベル側に対してどうするか・・・そういったことを話し合いたくとも、今は船でみながばらばらに移動をしている。
シグルドは腹を決めて、とにかくシレジアに行くまでは何の話し合いが出来るわけではないから、ひとまず自分の頭の中だけは整理をして、あとは体を休めようと皆に伝達をした。
船と船への伝達は、天馬騎士が定期的にやってくれる。
天馬はシレジアまで無休で飛ぶわけにいかないので、日に数回は船の甲板に交代で休憩をする。そのタイミングでの伝言を依頼することが出来るのだ。
シグルドは、自分と同じ船に乗れなかったラケシスの容態を心配していた。また、仲間になったばかりで、あまり込み入った話も出来ていないブリギッド――オーガヒルの海賊の頭だった女性だが、実はエーディンの姉だということが判明していた――のことも気にかけているようだった。
アイラは、シグルドと同じ船に乗ることになった。
オイフェとセリスがシグルドと共に乗ることは誰にも明白だったが、更にはシャナンがどうしてもセリスの傍を離れたがらなかったのだ。
船に乗り込む際にアイラはそのことをノイッシュから聞いた。
いつもならば何よりもアイラのもとに駆けつける、あるいは、アイラを探すはずのシャナンが自分の意志でセリスとの同乗を選んだのだという。
それはアイラにとってはいくらかショックなことではあったが、ノイッシュに礼を言って同じ船に乗り込むことが出来た。
とはいえ、アイラが顔を見せた途端、シャナンは半泣きでアイラのもとへ駆け寄ってくるほど、突然の事態に混乱して本当は怖がっていたようだが。
天馬は決して夜行性ではないが、夜でも目が見える。
天馬騎士達からしても、母国を離れての任務は出来るだけ早く遂行したいと考えているため、船は延々と進み続けていた。
誰かは常に天馬騎士達と連絡をとれる状態にしておこう、ということで、夜でも必ず一隻に一人シグルド軍の誰かが起きていることになった。
出発をしたその日の夜、あと二刻弱で夜が明けるだろうという頃にアイラはノイッシュと交代をした。ノイッシュは深夜番で、彼よりも先にはアーダンが番をしていたという。聞けば、ノイッシュとよくコンビを組んでいるもう一人のシアルフィの騎士アレクは、仲間になったばかりのブリギッドを船に誘導したため別の船に乗ったのだという。
彼らの船はオイフェ、セリス、シャナンが乗ってしまったため、こういうときに頼りになる人員が少ない。シグルドはそういう夜の番を女性にやらせたがらないことが多いのだが、だからといって他に誰がいるか、と言えば、クロードとティルテュという新参者二人だ。
それは、今後のことを考えるためにシグルドがせめてクロード神父は同じ船に、と頼んだからだということをアイラは知っている。
(ラケシス姫が乗った船は、男性が多いから夜番を誰にでも任せられそうだな・・・キュアン王子とフィンと・・・レヴィン王子と、ベオウルフ、それから・・・)
レックス。
夜の甲板に向かいながら、アイラはふと一人のグランベルの男性のことをふと思い出した。
(どこから勇者の剣を手に入れたのだろうか。わたしの武器なぞより、自分の武器を良いものにすればよかろうに)
そのアイラの物思いは、甲板に出たところであっという間に遮られる。
「アイラ様、申し訳ないのですが」
船倉から階段であがったところで、ノイッシュがちょうどアイラに声をかけてきた。
「うん?深夜番、ご苦労だったな」
「はい。ありがとうございます・・・ええと・・・声をかけにいくのが遅くなって申し訳ありません。その・・・シグルド様が、代わりに早朝番を務めるということなので、アイラ様はもう一度おやすみになっていただいて大丈夫です」
思いもよらないノイッシュの言葉に、アイラは一瞬言葉を失った。とはいえ、そういわれて簡単に納得出来ることではない。
「・・・しかし、シグルド公子には出来るだけ休んでもらおうとみなで相談したではないか」
「そうなのですが・・・多分、落ち着かれないのでしょうね」
ノイッシュは困ったように苦笑いをアイラに見せた。
アイラは彼のその表情から、「わかってはいるのだが」という困惑と、シグルドを思う優しい気持ちに気付き、「そうか」と呟く。
「わかった。実は、シャナンの・・・ディアドラ殿の件で、シグルド殿にきちんと謝罪をまだしていないので・・・それだけ話して、もう一度寝させてもらおう。ありがとう。公子は、どちらに?」
「甲板の、あちらに。天馬騎士に、既に早朝番が自分であるとお伝えしてしまったようです」
「そう。ありがとう」
「では失礼します」
ノイッシュは一礼すると、アイラが登ってきた階段をゆっくりと降りてゆく。
アイラがノイッシュに告げたことは本当だ。
ディアドラが行方不明になったことで、誰もシャナンを責める者なぞいない。それはわかっていても、アイラの立場上知らぬ振りをするわけにはいかない。
シャナンはディアドラにセリスを託された。それがディアドラとの最後の会話であり、それっきり誰も彼女のことを知らないのだ。
話によると、城の兵士二人が彼女の護衛を申し出て共に城を出たようだが、その二人すら戻っていない。
結果、今シグルド達がわかっている情報で、一番最後に会話をしたのは間違いなくシャナンだ。
それを、シャナン本人は深く気にしている。
どうしてもっとディアドラを止められなかったのか、いや、せめてどうして自分がついていかなかったのか、と。
アイラからすれば、もしもシャナンがディアドラについていったら、護衛兵士と同じように行方が知れないままになったのではないかという危惧があるため、そうしなかったことに心からよかったと思う。そして、それを「よかった」と思ってしまうことを申し訳ないとも。
(シャナンは、本当に人を守るということ、その責任を負うということを、知ったのだろう)
それにしては、痛すぎる代償だと思う。
アイラはノイッシュに言われた通り、甲板の先へと歩いていった。
アイラ達を乗せた船は他の二隻より先に進んでおり、夜の闇の中ではその後続の二隻の灯りがかすかにしか見えない。
それを安心させるかのように、視界には船の前後左右に飛んでいる天馬騎士が僅かに見える。
「公子」
「ああ、アイラ」
ざざ、という耳慣れぬ波の音。それが繰り返し繰り返し耳に届く。
船に乗り込んでしばらくは落ち着かずあれこれ皆で話していたし、夜と同時に船倉に入ってしまったのであまり気付かなかったな、とアイラは思った。
「ノイッシュから聞かなかったかな?わたしが早朝番を代わるから、君は戻って眠っていて構わない」
「あ、いや、話は聞いている。ただ、わたしも公子に話したいことがあって」
「うん?なんだろう?」
薄暗闇の中、甲板で肩を並べるシグルドとアイラ。
シグルドの表情は疲れている。けれど、無理をして微笑もうとしている。それがわからないアイラではない。
本当は彼は体も心も疲れていて、眠りたいのだろう。けれど、どうにもそれが出来ず、ここにいるに違いない。
シグルドは、あてがわれた客室のベッドにオイフェを寝かせ、その足元にゆりかごに入ったセリスを、更にシャナンが床に眠ることを許可していた。
オイフェはそれを何度も拒んだが、シグルドは何かにつけ忙しいため客室に閉じこもるわけにいかなかったし、誰かはセリスの傍につけたい、けれどシャナンだけでは扱いかねるだろうから、と説き伏せた。
が、それがシグルドの優しさなのではないかとアイラは考えていた。
「申し訳ない。シャナンのわがままで、ご子息の傍につけてもらって」
「・・・ああ、それは・・・そういうわけではないよ、アイラ。ああやって三人でいてもらえると助かるし、セリスはわたしの息子だけれど、実はオイフェやシャナンがあやすほうが笑ってくれるんだ。まいったね」
そういってシグルドは無理に小さく笑った。
が、その力ない笑い声は船がかきわけていく波の音でかき消される。
アイラは眉根を軽く寄せて、けれど、彼の精一杯のその言葉に笑みを見せようとした。が、元来そういうことが苦手なアイラは、うまく笑顔を作ることが出来なかった。
「アイラ、申し訳ないのはわたしの方だ。あんな幼い子に・・・シャナンに、あそこまでの罪悪感を与えてしまって、本当にすまないと思っている。申し訳なかった・・・わたしが、軽率だった」
そういってシグルドはアイラに頭を下げた。
アイラは目を見開き、慌ててシグルドの両肩に手を置いて
「公子、そんなことを公子がする必要はない。頭をあげてくれ・・・お願いだから」
まるでアイラの言葉を無視するように、シグルドは頭を下げたまま両手で自分の顔を覆い、苦しそうな声音で続けた。
「申し訳ない・・・ディアドラのことで初めは頭がいっぱいだったのだが・・・それをわたしに打ち明けたときの様子を思い出して、わたしは何ひとつシャナンを安心させるようなことを言えなかったことに気付いたんだ。あんなに、縋りつくようにわたしに謝っていたのに、わたしは」
「公子」
「申し訳ない」
シグルドは頭をあげない。その大きな手で覆われた顔は、苦渋に満ちた表情だと誰もが容易に想像がつくだろう。
アイラは彼の肩から手を離し、甲板の上にぺたりとひざをついた。
シグルドを下からそっと覗き込むように、顔を覆う彼の手に、アイラの細い指先が向かう。
(優しい人なのだ。この人は)
それは、知っていた。
知っていて、好きになった。
アイラのことも、シャナンのことも、まるで自分のことのように親身に考えてくれる人。
決して人の過ちを頭ごなしに責めない人。
いつでも、自分が選ぶべき選択肢が何だったのかを振り返り、同じ轍を踏むまいとする。目を逸らしたいことから決して目を逸らさない強い男。
(本当はエルトシャン王のこと、奥方のこと、グランベルのこと、アグストリアのこと・・・もっと他のことで心を痛めているだろうに)
アイラは、愛しい男の手首にそっと触れた。
びくり、とそれに驚いてシグルドの手が彼の顔からそっと離れる。
彼の手首を掴む、アイラの指。それに軽く力が入った。
「公子。大丈夫だ」
眉根を寄せて、シグルドはアイラを見下ろす。
「わたしは、公子がどれほど優しい人なのか、身にしみている・・・だから・・・公子は人にそうであるように、もう少しだけ自分に優しくしてやってくれ。後悔は消えないだろうが・・・そんなふうに、自分に追い討ちをかけなくていいんだ。大丈夫だ・・・わたし達がいる」
ゆっくり、途切れ途切れに言葉を紡ぎだすアイラ。
見上げた愛しい男の表情がさらに歪み、瞳が閉じられる。
ざーん、ざざーん、と響く海の音。
その音は、下からなのか、それとも上から、前後左右からなのかわからないように、彼らの四方八方を満たして、まるでそれ以外の音の浸食を許さぬようだった。
船を護衛して飛んでいる天馬は高く飛び、そのはばたきを聞かせない。
甲板の隅で休んでいる二体の天馬は遠く、みじろぎひとつしたところで、二人が覆われている音の洪水をかきわけてくるはずもなく。
それ以上は与える言葉を思いつかずにシグルドを見上げたアイラも、再び瞳を閉ざしたシグルドも、ただ波の音に何もかも支配されたままで、時が止まったように身じろぎひとつすることが出来ない。
(ああ・・・)
泣いてしまいそうだ、とアイラは唇を噛む。
彼女は「何かを言わなければいけない」と、沈黙に抗おうとした。
けれど、触れてしまった愛しい男の手首から手を離すことが出来ず、指先で感じられる彼のぬくもりに鼓動が早くなる。
そんな自身にも戸惑って、どうしてよいかわからない。
(離さなければ・・・この、手を・・・)
アイラは、手の力をわずかに抜いて、視線をふと逸らした。
緩めた手の中を、シグルドの男らしい手がゆっくりと降りていく。その様子を、焦点の合わぬ目でアイラは辿っていた。
シグルドはすぐに自分の手を引かず、まるで手に持っていたものがスローモーションで床に落ちるように、垂直に手を落とした。
彼女が愛しく感じたそのぬくもりが動いた次の瞬間。
「!!」
「アイラ、ありがとう。すまない。もう大丈夫だ」
シグルドの手は、アイラの手を軽く握り締める。
アイラは、その手を握り返してよいのか惑い、それから、ゆっくりと力をこめた。
「君は、強くて、優しい人だな。どれほど、君に命も心も救われたことか」
「・・・!」
強くて、優しい。
アイラは、飛び出しそうになる自分の言葉を必死に抑えようと努力をした。
違う。
それは。
(それは、あなたではないか、公子!わたしは、そういうものではない。わたしは、あなたがこんなに傷ついているというのに・・・)

あなたが、傷ついて、苦しんでいるのに。
あなたの奥方は行方知れずで、あなたの親友は死に、あなたが国を追われているのに。
それなのに、わたしは。
こうやって、二人でいられるこの瞬間に、幸福というものを感じているのだ。

そんなアイラの思いを知ることなぞなく、シグルドは苦笑いを見せた。
「立ってくれないか。イザークの王女にひざをつかせるなんて、わたしは打ち首ものだろうか?」
決して乱暴にならぬように、静かにアイラの手を引くその気遣い。
アイラはゆっくりと立ち上がると、力を抜いたシグルドの手から逃げた。
「そんなもの。公子はわたしとシャナンの恩人だ。位に縛られる間柄だとは思っていない」
「はは、光栄だ・・・アイラ、空は、すごい星だ」
「ああ・・・もうすぐ朝がくるだろうに、海の上というものはこんなにも凄まじいのだな」
暗闇の中、光り輝く満点の星。
二人は空をしばらく黙って空を見上げた。
(吸い込まれていきそうだな・・・)
繰り返される波の音。
気付けば、波を掻く音や、船が僅かにきしむ音も耳に届く。
それらは当たり前の音。
先ほどの波の音の洪水は、自分の気がおかしかったのだろう、とアイラは眉根を潜める。
もし、今この星空を見ながら、聞こえてくる音が波の音ばかりであったら。
気が違って泣き叫びそうだ。たとえ、ここにシグルドがいてくれるとしても。
あまりにもちっぽけで、欲望に塗れている自分に耐えられなくて。
アイラはぼんやりとそう思い、甲板の端で目覚めた天馬がたてた音を聞いて、それを「ありがたい」と感じた。
何かに縋りつかなければ、何かに正気に戻してもらわなければ、どうにかなってしまいそうだったのだ。
「アイラ、ありがとう」
もう一度、シグルドはアイラに礼を言った。
それがアイラには、なんだかとても遠くからの言葉に聞こえた。
 
 
一行はグランベルの追っ手を振り切って、問題なくシレジア国に辿り着いた。
シレジアのラーナ王妃の厚意により、彼らはラーナ王妃が別荘のように扱っているセイレーン城を与えられ、しばし心と体を癒す時間を手に入れた。
相変わらず、エルトシャンの死からラケシスは立ち直れないようだったが、それは時間が必要なのだろうとシグルドは皆に告げた。
そんな風に他人のことを心配している余裕が本当は彼にはないことを、シグルド軍の誰もが知っている。
が、シグルドは心がどれほど逸っても、ディアドラ失踪の場に戻ることも出来なければ、まったく彼の力が及ばぬ異国に地にいるわけで、ひたすらラーナ王妃がグランベル上層部に対して送った書状の返事を待つしかなかった。
「暗くなっていても仕方がないからね。シレジアの人々の生活を、学ばせていただこう」
そんな風に言うのはシグルドらしいかもしれなかったが、強がりではない、と断言するには、まだ日が浅いと誰にも思えた。
 
 
「アイラ様」
セイレーン城には、みなが集まる広間があった。
その前を通りがかったアイラを、広間の中で茶を飲んでいたエスリンが声をかける。
そこには、彼女の夫であるレンスターの王子キュアンと、見習い騎士であるフィンもいた。
「ああ、エスリン殿。どうなさったか?」
「天候の予測が変わったので、出発が明日に早まったんです」
「そうなのか!三日後と伺っていたのだが・・・それは急な」
エスリンから話を受け継いで、キュアンがそれへは答えた。
「慣れぬシレジアの地を横断するのには、出来るだけ天候が良い頃合に出たかったのだが、少し遅れれば天候が崩れる時期になるということでな。本当ならば、一度イザーク方面の様子を探れれば良いのだが」
アイラは、それへ小さく礼を言った。彼のその気持ちはありがたかったし、そして、それが無理難題であることも彼女は知っている。
そもそも、キュアンはグランベルイザーク間のいざこざにこれ以上深入りしてはいけない立場であったし、それよりも何よりも、自国であるレンスターのことが気がかりなはずだ。
レンスターと常日頃対立関係にあるトラキアの竜騎士達がアグストリアにまでやってきて傭兵として雇われていたこと。それは二種類の考え方が出来るのだとアイラは聞いていた。ひとつは、レンスターに対しての干渉を緩めて、自国を豊かにするために遠方の国で稼ごうとしているということ。そしてもうひとつは、むしろレンスターへの干渉を強めるための資金繰りをするために、アグストリアに雇われたのだと。
どちらにせよ、トラキアはこれまでといささか違った動きを見せている。それをキュアンもエスリンも心配をしているのだ。
そうであれば余計に、こうやってアイラのことをイザークのことを気にかけてくれるということが、どれほどのことは彼女にもわかる。
「ありがとう、キュアン王子。そのお気持ちだけで十分だ。イザークのことは心配ではあるが、それを気にしていても、陥れられたイザークの汚名が晴れるわけではない」
「君のその気持ちと、シグルドの思いが実るように、ラーナ王妃の尽力が良いほうに向くよう、我々も願っている」
「重ね重ねありがとう。あなた方の旅の無事を、わたしもここから祈ろう」
そういってアイラは手を差し出した。キュアンと握手を交わし、エスリンと握手を交わし。
そして、黙ったまま立っていたフィンにも手を差し伸べると、フィンはひどく焦って恐縮をしたものの、ためらいがちにもアイラの手を握り返した。
お互いを思いやる、穏やかな別れの挨拶。
まさか、これが彼らと交わす最後の時になろうとは、その時には誰一人、想像することもなかったのだ。
 
 
シレジアに滞在をしてもうすぐ一年という頃。
ラーナ王妃がグランベルのアズムール王に対して、シグルド達の無罪を訴える書状を送り続けても、一年。
まったくそれへの返事が届くことなく、ただ、亡くなったクルト王子には娘がいたということが発見され、グランベル王家の存続問題が片付いたという報告だけがもたらされた。
シグルドを初めとしたグランベルの人々は、それに対して複雑な思いを抱きつつも「なんという幸運か」と、それを朗報としてとらえていた。
エルトシャンの死から立ち直りはじめたラケシスや、シャナンを守りながらも未だイザークに戻ることの出来ぬアイラは、それに関してはいささか思うところがあったけれど、そのことでいくらかグランベル側の態度が軟化しないだろうか、といくばくかの期待は誰の心にも湧き上がったのは事実だ。
しかし、そんな彼らの思いは何ひとつ届くことなく、それどころかシレジアの内乱と共に、彼らは再び戦に赴くことになってしまった。
「レックス、どうした、慌しいな」
アイラは、城内の異変に気付き、ちょうど通路の先から歩いてきたレックスに声をかけた。
「トーヴェのマイオス公爵が動いたらしい。まだ、完全には確認出来ていないんだが、出陣するかもしれないぞ」
「なんと」
「剣の腕は、なまってないだろうな?」
「ふざけたことを」
アイラは心外だ、とばかりに眉根を寄せた。それへ、レックスは「冗談だ」と小さく笑う。
「アイラが、いつでも誰よりも剣に打ち込んでいることは、誰もが知っているさ」
「ほかに、取り柄がないものでな」
「まさか・・・っと、出陣前に、悪いんだけど、ここで会ったのも何かの縁ってことで・・・」
いくらか言いづらそうにレックスはそこで言葉を切り、アイラのご機嫌を伺うように彼女を見た。
「うん?」
「ちょっとこの前から気になっていたんだが。まさか、戦にそういうことをアイラが引き摺る人間だとは思いたくないんだが・・・聞いていいかな」
「なんだ?」
「怒るなよ」
レックスのその言葉を聞いて、一体何を聞こうとしているんだ、とアイラは言いそうになる。
が、アイラがそういって噛み付く前に、レックスは言葉を早口でさらりと続けた。
「お前、シグルド公子を、最近避けていないか」
「な・・・」
そう問い詰めるレックスは、まっすぐアイラを見る。
彼の視線の強さに、アイラは内心「気になっていた、どころじゃない。確信しているんだ」と気付いた。
通路を行きかう人々は場内の女中や兵士以外に、シアルフィの騎士達の姿も見える。
普段はあり得ぬほどの急ぎ足であることは、彼らの足音からアイラにもわかる。
だからこそ、ここでゆっくりとレックスと話をしていれば、それは逆に目立つことだと彼女は判断した。
「そんなことはない。気のせいだ」
「そうか。なら、いいんだけど」
「避けるも何も、そもそも、わたしは公子とそう、なんというか・・・話をするとか酒を交わすとか・・・個人的なやりとりはいつでもないんだが」
「・・・そう?」
レックスはぴくりと眉を動かし、僅かに目を細めた。
それは、今までアイラが見たことのない彼の表情で、アイラはそれへ過剰に反応を見せる。
「なんだ。何か、気にかかるようなことでも?」
「あ、いや。アイラは・・・あんまり、人を誤魔化すのは得意じゃないだろう」
「!」
「・・・まあ、いい。戦に支障がなければ。大丈夫だな?」
「何の問題もない」
「なら、いい。後で正式に出陣の通達がくるだろうから、部屋で準備しといた方がいいかもな。シャナンも、さすがにまだ連れて行けないだろ」
「そうだな。ありがとう」
「どういたしまして」
そういうと、レックスは小走りでその場から離れた。
アイラは彼の背を見送りながら、自分の鼓動が早くなっていることに気付く。
(どうして・・・ばれてしまったか・・・いや、しかし、そもそも)
そもそもレックスに言ったことは本当で、なにかしらの事件でもなければアイラはシグルドと個人的な接点はほとんどない。
シャナンがセリスのもとによく行くから、とはいえ、それは既に日常の一部になっているため、そのことについてシグルドとアイラが話をすることもない。
シグルドは騎士で馬を操るが、アイラは馬を操らない。
剣を扱う者同士でも、アイラは誰とも一緒に剣の訓練なぞをしない。それをシグルドも知っている。だから、そういうことを一緒にすることすらない。
イザークについての情報は、シグルドを介さずにラーナ王妃の使者からほんの時折もらうことがある。が、それは何か大きな動きがあるわけではなく、「グランベル兵がイザークに駐屯している」という話が続くだけで、それをもとにシグルドとアイラが話し合いをすることもない。
そう。
何もないのだ。
食事時に顔を合わせたり、ラーナ王妃が城を訪れる時だとか、城下町でなんらかの催しがあったりだとか、そういった小さな「時々」があっても、それらは一対一で発生することではない。
が、レックスの言うとおり。
アイラはシレジアに来てからというもの、シグルドとの距離をとろうと思っていた。
シグルドに対してアイラが抱いている感情を誰が知らなくとも、それはアイラ自身が知っている。
だから。
妻ディアドラが行方不明になっている状態で、国を追われたシグルド。
その人の心に、なにかしら付け入るような行為をアイラはしたくなかった。
いや、彼女は決してそんなことはしないのだ。
それでも、彼女は自分を信じていなかったし、信じられないくらいには、未だシグルドへの思いを断ち切ることが出来ないのだ。
だから、何か自分が。
自分が過ちを犯さないように、彼の傍に行かないようにと、アイラは常にそれへ気を張っていたのだ。

(それでも、恥ずかしいほどわたしは、公子の存在に反応してしまうのだ)

彼の声が通路のあさっての方向から聞こえては、アイラは身を強張らせる。
窓の外を眺めているその視界に、彼が誰かと歩いている姿が横切るだけで、呼吸を止まらせる。
誰かが「シグルド様」と発音する、その名を聞くだけで、彼のことをいつでも思い描いてしまう。
そんな状況がシレジアに来てからというもの、ずっとアイラには続いていた。
誰にも気付かれたくない。
そのためには、彼と距離を置かなければ。
何も言わなければ、何も話さなければ、距離さえ置けば、それらから解放されるのでは、とアイラは縋るようにそう思っていた。
しかし、悲しいほどに彼女の感情は「気の迷い」とはまったく正反対のもので、更にはその気持ちは濃度を増していくようにすら思える。
異国で初めて知る、その国の四季折々の行事。
ラーナ王妃に誘われたり、城下町で開催される小さな祭りに行ったり、彼らはシレジアに馴染むために数々の場所に足を運んだ。
以前ならばシャナンが恰好の隠れ蓑になっていたのだが、今は違う。
少年ではあっても、彼はいくらかは成長をしていたし、セリスだけではなくオイフェとの仲が深まったため、シャナンと共にいると逆にシグルドの近くに行くことが多くなってしまうのだ。
だから、アイラは「子供は子供同士で」だとか「男同士の方がよいだろう」などと言って、時々シャナンを自分の手から無理矢理離そうとする。
そうした後、彼女を襲うのは自己嫌悪だ。
シャナンを守るべき立場にありながら、周囲の厚意に甘えて、自分は自分の恋愛の保身に走る。
そんな自らをアイラは許すことが出来ない。
彼女は彼女が思っている以上に、己の立場に対して潔癖であり、誠実でありたいと願う女性だった。
それが、シグルドへの恋情を抑えるためには何もかもが狂い、どちらをも立たせることが出来なくなってしまう。
少しでも悟られれば、妻と生き別れた男にイザークの王女が手を出そうとしている、などと吹聴されても仕方がない。それが、自分の立場だ。
どんなに周囲が好意的に見てくれて、恋愛は自由だろう、と理解をしてくれたところで、彼女自身はそういった甘えを自分にどうしても許せない。
もしも、たった一人にでもそんな風に思われたら。
もしかして、シャナンがディアドラを守れなかったのは「守れなかった」のではなくて・・・。
そんな風に勘ぐられては、それはシャナンにとっても不幸なことだ。
シレジアに来てからというもの、彼女の生活には時間があった。
そのおかげで、気付かなければよかったそんなことを考える余裕が出来てしまい、逆に彼女の首を絞めたのだろう。

(何故、レックスに・・・気付かれたのだろう・・・)

そんな風に自制していたアイラであったが、確かに少し前。
彼女とシグルドの間には、ちょっとした「事件」が発生したのだ。
それ以来、アイラはシグルドと話をしていないし、シグルドもまたアイラに話しかけることがない。
けれども、それはそうおかしいことではないのだ。
アイラはただ単に「シグルド公子と顔を合わせませんように」と思いつつも、いつもと同じ生活をしようと心がけていたし、シグルドはシグルドで城下町視察があったり、食事の時間が一人でずれて、皆とともにはとれなかったりしていたから、何もかも自然ではないか、とアイラは思っていた。
なのに、何故レックスは気付いたのだろうか。
アイラは頭を軽く振って、自分の部屋に戻ろうと歩き出した。
レックスが言うように、戦が始まるのならば準備をしなければいけない。
それだけは、間違いがないことなのだ。


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