わたしはだんだん醜くなる-5-


セイレーン城の踊り場と通じる大きなバルコニーは、冬でも出られるように大きな屋根がついている。
春や夏のようにバルコニーにテーブルを持ち出して優雅なティータイムを過ごすことは出来ないが、遠くまで続く樹氷の姿を見ることが出来、それは誰が見ても圧巻だ。
今はそこから見下ろすと、子供達が楽しそうに雪遊びに興じる姿と、それを見守るアーダンやノイッシュの姿が見られる。
シレジアの冬は、白銀の世界となる期間が長い。
その『事件』が起きた日、深く積る雪が珍しくて、シャナンは飽きずにオイフェと雪の中で遊んでおり、その様子をアイラは内緒で眺めていたのだった。
「アイラ」
突然、背後からかけられた声に、アイラは過剰に反応をして飛びあがった。
「きゃっ!」
普段なら決して出さないだろう、少女のような叫び声。
人の気配に気付かないほどに自分が深い物思いに入っていたことに驚きつつ、彼女らしくなく恐る恐る振り返る。
「すまない。驚かせてしまったか」
「あ……公子」
声をかけてきたのは、シグルド。
いつもその声を聞くだけで心が騒いでいたのに、振り向くまで彼だとわからなかったなんて。
自分はいったい今何を考えてどこまで呆けていたのだろうか?
アイラは戸惑い、うまく言葉を出せなかった。
それに。
(間抜けな声を、聞かれた)
そのことを誰に言おうとも、きっと「気にするようなことではないのに」だとか「別にそのぐらいいいじゃないか」と言われる程度のこと。そう思うのが普通だろうと、アイラ自身だってわかっている。
けれども、アイラはそれを恥じた。恥じる必要がないことと頭ではわかっていても、感情がついていかない。
自分は確かに女であるが、それを強調するような言動は見せたくない。そして、そうやって気丈に振舞っているのに、本当の根っこの部分ではどうしようもないほどの『女』である自分が存在すると、彼女は十分に自分を知っている。そんな自分自身を、出来る限り誰にも知られたくないのだ。
だから、些細なことでも気にして、悔やむ。
己が発した頓狂な、けれども可愛らしい声を恥ずかしいと思い、わずかに頬を紅潮させる。
もちろん、シグルドはそんなことを知るはずもなく、呑気に笑みを向けていた。
「バルコニーの扉が少し開いていたから、誰かいるのかな、と思って。それに、なにやら賑やかな声が下から聞こえてきたからね」
「ああ、シャナンの遊び相手になってもらっているようで……ありがたい」
シグルドはバルコニーの淵に近寄って、軽く身を乗り出した。
その彼の姿をアーダンが気づいたようで、上を指差しながらシャナン達に声をかける姿が見える。
無邪気な子供達は大きくシグルドに手を振り、明るく名を呼んだ。
冬は空気が殊更に澄んでいるため、子供達の声がよく響く。
シグルドのせいでアイラの姿も彼らに発見され、無邪気なシャナンの声がアイラの耳に届いた。それへ、軽く微笑んでアイラは手を振り返す。
「ちょうどよかった。アイラに話があったんだ」
「ん?」
「ラーナ王妃が仕立て屋を呼んでくれて、もうすぐ城に来る。君とラケシスのために」
「何?」
突然の話に、アイラは軽く眉根を寄せた。
「年越しをしてから、ラーナ王妃に年始の謁見をしなければならないのだが、そこには他の城の領主や代表が来る。わたし一人が行って話が済むなら良いのだが、やはり、ラケシスと君も……という話でね」
なるほど。
他国の王族がこの国に滞在している以上は、それなりの道理を通した方が良いと、むしろラーナはシグルド軍のことを思って手配をしてくれているのだろう。
「それと仕立てと何が?着る物には困っていない」
「公の場では、シレジア風の衣類よりも自国のものが良いだろうと。各国を渡っている仕立て屋だ。ラケシスや君の注文に応えられるんじゃないか、とおっしゃっていた。アイラ、ラーナ王妃のご厚意に我々は甘えている反面、実は結構断ってもいる。面倒だろうが今回は、王妃の顔を立ててもらえないだろうか」
シグルドはそう言うと、生真面目な表情をアイラに向けた。彼は、アイラが公式の場に出ることや、そのための正装をすることがあまり好きではないと知っていたし、彼女の状況を思えば、逃亡した身分でありつつ外交に携わる、という矛盾を彼女が好ましく思っていないことも承知していたからだ。
アイラはしばらくシグルドを見つめていたが、やがて諦めたように小さく息を吐き、答えた。
「……わたしは、仕立て屋にあれこれ注文できるほど、そういったことに明るくない。面倒は面倒だが、それ以前に……期待に添えそうもないのだが」
それは、仕立て屋の問題さえクリアすれば、ラーナへの謁見は行くという意思表示だ。それだけでもありがたい、とシグルドは表情を緩和させた。
「はは。でも、どういう色が好き、とか、どういった形が好き、とか。それぐらいはあるだろう?そうだ。わたしの結婚式の時のドレスも、いくつかの中からあれだって選んだのはアイラ本人じゃあなかったかな」
「ああ……そうだったな」
アイラの言葉は、歯切れが悪い。
あの時も。
思い出されるのは、シグルドとディアドラの婚礼で自分が身にまとったドレス。
式に出るのだから招待客として最低限の礼儀を、そして、アイラの姿でイザークという国が量られるのだから、と気遣ってくれたのはエスリンだ。
エーディンとエスリンがアイラのために三着のドレスをあらかじめ選び、それを部屋に持ち込まれて仕方なく一番簡素に見えるものを選んだ……と、アイラは思っている。
その実、シンプルなドレスの裾には職人が手作業で丁寧に銀糸で刺繍をほどこしていた高価なものであったことを、アイラはよくわかっていないのだが。
が、そんなことよりも。
彼女は突然やってきた「シグルドの結婚式」という忌まわしい思い出を、一瞬で記憶の片隅から引きずりだし、身震いをした。
胸の奥が痛み、大きな息の塊が飲み込まれる。
生きるために必要な酸素を無造作に胃に棄てたかのようで、その刺激に腹の底が軽く蠢いた。
喉を落ちていく音がシグルドに聞かれただろうか、とアイラは神経質な視線をシグルドに送ったが、彼は気付いていないようだ。
「あれは、正直驚いたな。綺麗でびっくりした。とてもよく似合っていたよ。アイラは、自分ではどう思っているかは別として、本当はそういうセンスが良いんじゃないかな。わたしは、もうさっぱりでどうしようもなくて、いつもオイフェにすら怒られているんだけど」
「……はは」
乾いた笑い声。
笑おう、と決めて出したうつろな声。
アイラは自分の発した笑い声を自分で聞いて、失望した。
馬鹿だ。
仕立て屋の話を聞いた時にさっさと一言「わかった」と言えばよかったのだ。
それが、なんだ。
「アイラ?」
「わかった。仕立て屋に、頼むとしよう」
そう答えたアイラをみつめて、シグルドは眉間に皺を寄せる。
「……どうしたんだ」
「どうした、とは?」
「何か、気に障ることを言っただろうか。その、仕立て屋のことではなくて、年始の挨拶に行くのが嫌だっただろうか。君ならば、シャナンではなくて自分が行く、と言うと思って、相談もなく決めたのだが。それならば申し訳ない」
的外れな言葉は、仕方がない。
アイラは何一つシグルドに自分の心の内を打ち明けてはいなかったし、それは誰に話せることでもないのだから。
「どうして、そんなに、つらそうな顔をしているんだ」
「つらそうな?それは、公子の気のせいだろう。別に、わたしは」
何も気にしていない。では、またな。
そう言って、その場を去ろうとアイラは思った。
それなのに、彼女の体は彼女の思惑を裏切って、今までの長い長い自制の時を台無しにしてしまったのだ。
(止まらない……)
体のどこかから湧き上がってきた涙は、どんなに気丈に振舞おうとしても、彼女の両眼をどんどん侵食して今にも外へ迸ろうとする。
それらと同じように彼女の心の中では、まるで無理矢理詰め込んでいたクローゼットの扉が開いたかのようにたくさんのものが溢れだす。
けれども、彼女の心のクローゼットは本当のクローゼットのように小さいわけではない。雪崩のようが激流を抑える術は彼女にはなかったのだ。
「本当に、一体、どうし……」
見たことがないアイラの様子に息を呑むシグルド。
顔を背けながら、どうにかアイラは薄っぺらな言い訳を紡ぎ出した。
「すまない、公子。その、公子の話とは、関係ないのだ。忘れてくれ」
「アイラ」
「仕立て屋のことはわかった。それから、公子には何の落ち度もない。気にしないで欲しい」
その言葉が彼女の精一杯だ。
アイラはなんとかそれだけ告げると、シグルドに背を向けて歩きだした。
「アイラ!」
早く。一刻も早くこの場を去りたい。
どくん、どくん、と心臓の音が高鳴り、その響きは胸ではなく頭の奥から聞こえているような気すらする。
 
 
追いかけて。
追いかけないで。
早く行かなくちゃ。
 
バルコニーから室内に戻り、アイラは早足で歩き出した。
途中で『バルコニーと踊り場の間の扉を閉めただろうか』という思いが脳裏をよぎったが、どちらにしても彼女には『戻る』という選択肢はなかった。
ぐるぐると回る、あてどもない言葉達。
答えのない問いや、希望があるはずのない期待。
 
追いかけて。
追いかけないで。
誰にも会わないうちに部屋に戻らなきゃ。
 
階段を登って、自分の部屋に向かう通路を一気に駆け抜ける。
人々に気付かれないように音を出来るだけ立てぬように。
誰の部屋の扉が開こうとも足を止めない、と心に決めて、前へ前へ。
 
追いかけて来たら。
もし、彼が追いかけて来たら。
 
そんなことがあるわけがない。そして、仮にそんなことがあったら。
その先にあるのは、愚かな期待と恐怖であり、最早今の自分にはそれへ抗う術がない。。
だから。
追いかけてくるはずがない人が、追いかけてきても振り払えるように、走って。
そうすれば。
 
追いかけてくるはずがない人が、本当に自分を追いかけてくれなくとも。
そんな悲しい真実を確認せずに、部屋へと逃げることが出来るのだ。
 
 
 
馬鹿なことをしてしまった。
アイラは部屋の隅で一人、まだ止まらぬ涙をぬぐいながら考え続けた。
(どうして我慢出来なかったのだろう)
答えはわかっている。
シグルドの口から彼の結婚式のことを語られたこと。
社交辞令だとしても、その時のアイラの装いについて言葉を与えられたこと。
それが、彼女の心に残されていた最後の砦を、あっけなく崩し去ったのだ。
忘れていたわけではない。彼が結婚をしている身の上であることを。
たとえ、今ここに妻であるディアドラがいないとしても。
それでも、彼の口から、彼が人のものとなるところを見守るしかなかったあの日のことを語られれば心は痛む。
そして、ディアドラ不在の今、幸せな日々の断片を彼に思い描かせてしまったことも、申し訳ないとすら思う。
「ああ……」
アイラは目をこすりながら、ため息のような声を出した。
人に説明なぞ出来ぬほど、たくさんの感情。
持て余してしまい、処理することも出来ぬままに閉じ込めた思いが、堰を切ったように溢れてしまったことへの恐れ。
 
綺麗で、びっくりした。
 
たったそれだけの言葉に、ぐるぐると回るたくさんの思い。
びっくりしたとは、どういうことだ。
わたしのことを、普段どういう目であの人は見ているのだろう。
違う。あれは、褒め言葉だ。
綺麗と言われて喜ぶ自分もいて、また、落胆する自分もいて。
それのみならず、シグルドのその言葉が「女」に対して発されたものだと彼女は一瞬で感づき、それを拒みたかったのだ。
彼を想う気持ちを誰にも気づかれたくない。
彼を想うような人間ではないと、人を騙したい。
それは、いつしかアイラの心のうちでは形を変え、以前にも増して、女性として扱われることへの抵抗へと転化した。
もちろん、彼女は間違いなく女性であり、のみならずイザークの王女だ。
殊更に「特別な女性」と人に扱われてもおかしくない立場。
だから、仕方がない。仕方がないとはわかっている。
だって、自分が女であることは、誰よりも自分がよく知っているのだから。
(違うものに、なりたい)
心が揺れない強いもので。
あの人が、大切にしてくれるもので。
女ではないもの。
――そして――
思い起こされるのは、婚礼衣装に身を包んだ幸せそうな二人。
今は一時的に失ってはいても、その心はまだ寄り添い合い、決して離れることがないであろう、運命の出会いを得た二人。
(奥方と、比べられぬもの。他の女性と比べられないもの)
そうでなければ、自分はもう彼の傍にいられないのではないかとアイラは思った。
(綺麗だと、あの人は言ってくれた。でも、そんなものは。わたしはあの日のディアドラ殿がどれだけ美しかったかを覚えているし、それは公子も同様だ。あんな、あんな美しくて幸せな女性を知りながら、わたしなぞのことを)
「馬鹿な……!」
アイラは、だん、と壁を叩いた。
微笑めばよかったのか。
ありがとう、公子、といえばよかったのか。
それとも、ディアドラ殿のことを思い出させて申し訳ないと言えばよかったのか。
無理だ。そんなことはどれもこれも。
ありがとうと言って喜びを見せられるほど、あの日アイラが美しく装った心境は単純ではない。
自分が好意を寄せている男の婚礼。
心が重いそのような場にいた時の姿を褒められて、手放しで喜べるわけがないではないか。
それに。
ディアドラのことを謝れば、あの優しい人は逆にアイラに気を使わせたと思って、申し訳なさがるだろう。
自分は、何も出来ない。ただ、そこにいて、あの人の声を聞いて一喜一憂をして。見抜かれように心を抑えつけるだけで。
抑えつける、だけで。
「……っ!」
何かが、言葉になって、外に出ようとしている。
それが一体何なのかをアイラは気付いている。
瞳から溢れる涙だけでは、もう、体の中にしまっておくことが出来なくなってしまった、何か。
出してしまったら。
言葉にしてしまったら。
自分の喉に手をやって抑えれば、その言葉をねじ伏せる事が出来るのだろうか。
アイラは咄嗟に己の手で喉を絞めた。その瞬間、ごくり、と唾液が喉に落ちていく。
突然空気の通り道が閉ざされたことに驚いたように、即座に彼女はむせ込んだ。閉じた喉に流れ込んだ唾液のせいもあるのかもしれない。
アイラは床に四つん這いになって、涙をぬぐうことも出来ぬままむせた。
強く咳き込み、体の節々が軋む。
なんだこれは、と、彼女はむせながら思った。
空気を無理矢理外に押し出そうと咳き込むと、体中が痛む。これだけのことで、自分の体はあちらこちらの筋肉を使って必死に押し出そうとするのか。
それでは。
心の奥にしまっていたことを外に送り出そうとすれば。
自分の心は、一体どうなってしまうのだろう。
げほ、げほ、と苦しみながら、アイラの両眼から涙が飛び散った。
それは、むせたための涙であって、先ほどまでの涙とは違う。違うけれども、その姿は同じものだ。
と、その時。
「……!」
小さな、ノックの音。
まだ小さく咳き込みながら、アイラは顔をあげた。
訪問者が誰なのかを確認する勇気が出ないまま、アイラは扉を見る。涙で滲んだ視界には、その扉がまるで夢のものであるかのように、ぼんやりと見える。
彼女のそんな気持ちなぞお構いなしに、扉の外からは心配そうな声が聞こえた。
「アイラ、大丈夫?調子が悪そうだってシグルドから聞いて、その、今日の稽古は、なしにしようって、言おうと思って」
「シャナン……」
そうか。
その時、ようやくアイラは今日のこれからの予定を思い出した。
シャナンと剣の稽古を。
そこまで気が回らなかった自分にがっかりしつつも、彼女は動くことが出来ない。まだ、気管に何かが残っているようで、けほん、けほん、と二度ほどアイラは咳き込んだ。
アイラの容態を思いやってなのか、シャナンは扉を開けずに言葉を続けた。
「大丈夫?風邪?お医者さんを呼んでもらう?それとも」
「だ、大丈夫だ。すまない……少し。夕食までの間、休ませてもらうと、そう、公子に伝えて、くれ」
掠れ声でなんとかそれだけ搾り出すと、扉の外でシャナンの返事が聞こえた。
心配そうな、労りの気持ちが篭ったシャナンの声。
申し訳ないと思いつつ、アイラはそのまま床に横たわった。
絨毯が敷いてある床に耳を付ければ、シャナンの足音が遠ざかる様子をかすかに聞き取ることが出来る。
「かふっ……」
もう一度むせてから、アイラは傍らにあるベッドに腕を伸ばした。
ベッドに置いてある毛布の端をつかむと、それをずるりと引き摺り下ろし、床に横たわったまま無造作にそれに包まる。
もう、動きたくない。
これ以上動くと、何かがまた自分の中で蠢いて、それを抑えることが出来なくなる。
アイラは明確にその己の意思を把握しているわけではなかったけれど、ただ「動きたくない。このままでいたい」とは明確に感じていた。
まだ頬に残っている涙が髪に張り付くのが不快で、軽く頭を振る。
(公子が、気を使ってくれた、のだろう)
それをまた申し訳ないと思う反面、そんな風に気を使ってくれるならば、追いかけて、どうしたんだと問い詰めて欲しかった、という我侭な感情が湧き上がってくる。
アイラは、まるで泣き疲れた子供のように、いつしかそのまま寝入ってしまった。
本当に休めたかったのは、体ではなくて心だったのかもしれない。
考えることを放棄したように、感じることから逃げようとしているように、彼女は床にうずくまって眠りの世界に逃避した。
結果、彼女は本当に風邪をひいて数日寝込んで。
次にシグルドに会った時は、風邪の調子を尋ねられ、労わられて。
お互い、それ以降、あのバルコニーでの出来事について、口にすることはなかったのだ。
それはきっと、彼なりの思いやりだったのだろうとアイラは思う
そう思う以外、どうにもしようがなかったのだ。
 
 
戦の準備をほぼ終えて、アイラは靴を履き替えた。雪の中の行軍には、それ用の靴が必要だ。
数回足踏みをして靴の調子を整えてから、部屋を出ようと歩き出す。
と、ドレッサーの前を通り過ぎようとして、アイラはその足を止めた。
彼女は滅多に姿見で自分の顔を映すことはなかったが、静かにそれに近寄り、まじまじと覗き込む。
(心なしか、生き生きとしている)
ここ最近見なかったような自分が、姿見の中にはいる。
(戦というものは、どんな場合でも喜ぶべきものではない)
なのに。
心が逸っている自分がいることを、アイラは気付いてしまったのだ。
「醜いな」
アイラは、映し出された自分に蔑むような笑みを浮かべ、吐き捨てるように呟いた。
それは、外見の美醜ではない。
誰がわからなくとも、その姿身に映っている自分の心が捻じ曲がっていることは、自分がよく知っている。そう思いつつ、アイラは部屋を出た。
シャナンがいるであろうセリスの部屋へと向かうと、案の定、前からシャナンが走ってくる姿が見えた。
「アイラ!」
シャナンも、アイラに会うために走ってきたのだろう。
「シャナン。話は聞いているか」
「うん。戦になるんでしょう?」
「そうだ。シャナンはここで、セリスを守ってくれるだろう?エーディンもレスターと共に残るはずだ。彼らのことも気にかけてやってくれ」
「うん。もちろんだよ。でも、そんなことにはならないって、信じてる」
アイラは、ぴくりと眉を動かした。
シャナンは、少しだけ大人になった、と思う。
以前ならばそこで「任せといて!」と、子供らしい軽口を叩いていたというのに、今はそうではない。
シャナンが身を呈してセリスを守らなければいけない状況というのが、どういうことであるのか。それを幼い彼も理解しているのだ。
「ああ。城を開けるが、アーダンが当然守ってくれるし、わたし達もいつだって気に止めているからな」
「うん。アイラも、気をつけてね」
「ああ」
心配そうに見上げるシャナンの頭に、アイラは手を伸ばして軽く撫でた。
ふと、『そのうち、こんなことも照れくさい、と嫌がられる時がくるのかもしれない』なんて思いがアイラの脳裏をよぎった。と、その時
「ああ、アイラ、出陣の準備をしてしまったのかな?」
シャナンの背後に、シグルドの姿が見えた。シャナンがそちらから走ってきたのだから、当然シグルドの部屋もその方向であるし、なんら不思議はなかった。
彼は二人に近づいて来て、シャナンに話しかけた。
「セリスが目を覚ましたようだ。オイフェが席をはずしているから、戻って様子を見ていてくれないか?今から、みなと戦の話をするから」
もちろん、その申し出をシャナンが断るわけがない。
彼は心得た、とばかりに頷いて、アイラに二言三言言葉をかけてから、戻っていく。
アイラは慌てて走っていくシャナンの後姿を見ながら、それがシグルドの人払いだと気付いていた。
確かにシグルドは既に出陣の準備を終えているように見えたし、皆が集まるだろう広間へ向かうつもりなのは間違いない。
けれど、それにシャナンが同行してはいけない、ということは本来ないはずだ。
「わたしが、出陣の準備をしてはいけなかったのだろうか?」」
「いや、そういうわけではないんだが……君にはすぐにトーヴェに向かってもらうつもりはないんだ」
「え?」
「騎馬隊だけでトーヴェへ向おうと思っている。歩兵である君達が移動するにはトーヴェへの距離は遠い。それに、各城にはそれぞれ天馬騎士の部隊がいるため、我らがトーヴェへ向かう間に奇襲をされては、天馬の機動力にこの雪の中、騎馬隊でも敵わない。この城にいる天馬騎士は、伝令用の者達ばかりだし」
「歩兵は、城に残る、ということか」
「待機してもらえるとありがたい。そうすれば、我々も迷わずトーヴェへ攻め上ることが出来る。ザクソンのダッカー公の動きも怪しいと、以前からラーナ王妃もおっしゃっていた。内乱に乗じて、何をしでかすかわからないからな」
「シレジア城の守りは大丈夫だろうか?ダッカー公がザクソンからこちらに来るならば、その間にシレジア城があるではないか」
「シレジア城には、マーニャ殿が率いる天馬騎士団がいる。ダッカー公のもとにいる天馬騎士団には遅れをとらぬと聞いた。いくら内乱に乗じて、とはいえ、真っ向からシレジア城に攻め入ることもないだろう、とは思うが……」
「では、何故公子は、この城が奇襲に合うと?我らこそ、攻められるいわれはないと思うのだが」
アイラの言葉は正論だった。そして、問われているシグルドもまた、そのことを知っていた。
彼は、ふ、と小さく苦笑を見せ
「気にしすぎ、なのだとわかっているのだけれどね」
「公子」
「自分がいない間に、もう、何かを失うことは、ごめんだからね。その上、シレジアは我々が有利に戦える場所ではない」
「……」
なるほど。
この言葉は、シャナンがいる前では彼が発することが出来ないものだ。
アイラは、先ほど彼がシャナンをこの場から去らせた理由に気付いた。
「わかった。だが、歩兵を残すということは、レヴィンやジャムカもいるのだろう。天馬騎士に対するに、弓兵をミデェール一人とするは、公子達の騎馬隊にはいささか負担がかかりすぎるのではないか?」
「レッグリングを装備したシルヴィアと、レヴィンに同行してもらう。彼ならば雪道も慣れているし、レッグリングの力があれば、シルヴィアの移動も助けられるし、彼女の力は更にレヴィンの移動を助けるだろうから、騎馬隊との行軍も問題ない。置いていく弓兵はジャムカとブリギッドの二人がいれば、何があっても十分すぎるだろう。まあ、懸念といえば、フュリーも共に行くから、斥候役がいなくなることと、攻撃魔法を使える者がティルティのみとなる」
「ああ、アゼルは今は馬に乗っているのだったな……でも、特に問題ないな。魔法を使わなくとも、ジャムカとブリギッドがいれば」
「残る歩兵は、ジャムカにまとめてもらうつもりだ。回復役はクロード神父に……と、そういう細かい話はみなの前で話すから、今は良いか。折角出陣の準備をしてもらったのに悪いな」
「いや、問題ない。戦が始まることに変わりはないのだし」
「それに……先ほどアイラが言ったように、シレジア城のことも。完全に安心はしていないんだ。が、我々はラーナ王妃からこの城を任された以上、この城、城下町の人々をないがしろにするわけにはいかない。事態の進展もないまま、シレジアを心配してこの城を空けるわけにはいかないからね」
そういいながら、シグルドは歩き出した。それに合わせてアイラも歩き出す。
「シレジア城で動きがあれば、こちらに連絡が来るだろう。その時は、オイフェとジャムカと相談して、君達の判断で動いてもらえないだろうか。実質、弓兵を前線に出すわけにいかないから、何かあれば君とホリンが先頭に立つことになってしまうが……アーダンは、城の守りに徹してもらうつもりだし」
シグルドの言い回しを少しばかり気にして、アイラは尋ねた。
「……公子は、不安か?」
「え?」
「わたしとホリンが……いや、わたしが、先頭に立って戦うことが」
「不安、というより、申し訳なく思う。君のような立場の人に。今までに、こんなあからさまに、兵を分断して動かすことは少なかったし。何かことが起きれば、ちょっと君には無理をさせてしまいそうで、ね」
「そんなことは、無用な心配だ。公子、わたしは、公子からうけた恩を返し終わったとも思っていないし、公子のもとで戦う以上は、わたしは公子の信用に足りる剣でありたいと思っている。それで、いいだろう?前から言ってることだ。今更な」
そういって、アイラは小さくシグルドに微笑みかけた。
シグルドはそんな彼女の表情を見て、苦笑いを浮かべる。
「まったく、アイラはわたしに甘いと思うぞ」
「そうかな?それは……もし、そうなのだとしたら、それはわたしだけではなくて、みんなではないかな」
通路から階段に出ると、ちょうど反対側の通路から同じように歩いてきたシルヴィアとフュリーの二人に出くわした。
「何何、何がみんなですって?」
シルヴィアは耳ざとく聞きつけて、いささか強引に、これから戦だというのに明るく話に入ってくる。隣のフュリーは、いかにもそのシルヴィアの言動をたしなめたいようで、困惑の表情を浮かべていた。シグルドは階段を降りながら、これまたこれから戦だとは思えぬほど穏やかに
「みんなが、わたしに甘いという話だよ」
と言えば、高らかにシルヴィアは声をあげて笑った。
「それは確かにそーだと思うわ!」
「ちょっと、シルヴィア……」
その歯に衣着せぬ物言いに、やはりフュリーは困ったように声をかける。あまりの彼女のあっさりした言葉に、アイラも苦笑をせざるを得ない。
「やっぱり、そうなんだよなぁ……」
「でも、それがどうしてなのか、シグルド様は知らないでしょ」
シルヴィアは、アイラの一歩前を歩いて降りているシグルドの前へと、アイラの脇をすり抜けるように降りて行った。階段の途中で危ない、とアイラは思うが、そんなことはおかまいなしでシルヴィアの身のこなしは軽い。
「知らないな。どうしてだろう?」
「それは、シグルド様がみんなに甘いからよ!」
シグルドは、驚いたように足を止めた。おかげで、一歩後ろから降りていたアイラは、シグルドの背に軽くぶつかった。
「あ、アイラすまない」
「いや、いや、大丈夫だ」
慌ててシグルドは振り向いたが、ぶつかったアイラはくすくすと笑う。
「シルヴィアは、良いことを言うんだな。きっと、それが当たりなのだと思うよ、公子」
それだけ告げて、立ち止まったシグルドの脇を、今度はアイラがすり抜けるように階下へと降りていく。
その背後でシルヴィアがまだ『ほーら、アイラもああ言ってるし、あたし、こういうことはよーーーっくわかるんだからね!』と話を続ける声、フュリーがそれへ『今はそんな話を……』などと、我慢出来なくなって制止する声が聞こえる。
そして、その後で、何と言っているかはわからないが、シグルドの声。
アイラはそれらを聞きながら、ほっと胸を撫で下ろしていた。
それで良い。
自分の真剣な告白は、シグルドにとって重いものでない方がありがたい。
そんなことを思いながら広間に入ると、既に多くの仲間達がそこに集まっていた。
(シルヴィアに助けられた)
気を抜くと、言いたくないことも、時々口から出てしまいそうになる。特にここ最近、レックスが言うようにシグルドと面と向かった会話をしていなかった。
だからこそ、少しの会話が嬉しくて、けれども箍が外れることも怖くて。
どうしてシグルドに甘いか?そんなことはわかっている。アイラが、シグルドを想っているからだ。それが本当の答えだ。
自分のはぐらかしをシルヴィアが聞きつけてくれたことにアイラは感謝する。
あれで、いいのだ。
自分の決意を言葉にしたのは、シグルドのためではなく、自分のためなのだから。
 
――公子のもとで戦う以上は、わたしは公子の信用に足りる剣でありたいと思っている――
 
(そうであれば、何の間違いも起きようがない。わたしは、あの人の力になれるモノになれれば、それは本望で、そして誰の心も傷つけることも傷つけられることもなくなるのだろう)
これは、イザークの民への背徳かもしれない。
それでも、自分が心を律してシグルドと行動を共にすることは、イザークの無罪を晴らすために必要なことなのだと、自分を騙したい。
あの日から彼女が幾度となく考えて、出した結論はたったひとつ。
ずっと思い描いていたもの。
それは、心が揺れない強いもの。
どうしても想いを捨てることが出来ない、大切なあの人が大切にしてくれるもの。
答えは、『強い女』なのか。
否。
悲しいことに、自分は女ではないものになりたいのだ。
女ゆえに寄せるその想い。その想い故に封じたい女である自分。
矛盾は重々彼女も承知している。
女性でなければ、他の女性と比べられることもないだろうし、これ以上の醜い心の動きを、彼は気付かないでいてくれるのではないか。
そんな、浅はかな願い。
自分は、彼にとって、信頼出来る剣でありたい。
そうであれば、彼は自分に何かを求めて欲してくれるのではなかろうか。そして、自分はそれに応えることで、己の欲望を満たすことが出来る。
なんと都合がいい間柄になれるのだろうか。
結局、彼女が選んだことは、恩返しとして自分がそうであろうと思い続けてきたその立場を、より一層己に言い聞かせることだけだ。
どうしようもなく持ち続ける恋情、諦めているのに捨てることが出来ないその思いは未だに、外に出たい、外に出たいと彼女の内側から扉を強く叩き続ける。
それをねじ伏せるには、強い思い込みが必要であり、アイラは他の自制の手段を得ることは出来なかったのだ。
(愚かなことはわかっている。自分を偽ったり、シャナンをだしにしてみたり、イザークの誇りである剣の道を色恋に利用しようとしたり。本当にわたしはどうしようもない。その上、自分があの人にとって必要にされるのが戦の時だなんて。それを待ち望んでいるなんて)
今まで幾度となく、揺れた心を誤魔化すために剣を振るい、鍛錬をしようとし、その都度、『そのような逃げ場を、剣に求めるのは間違っている』と彼女は己をたしなめ続けてきた。
けれど、その剣に己の存在を見出す以外に、彼女はシグルドの傍らで自分を見出す術が今はない。
それは、間違っている。わかっている。わかっているけれど。
アイラは、広間の壁に背をつけ、僅かに遅れてきたシグルド達が入ってくる様子をぼんやりと見つめるのだった。
 
 
肌を突き刺すような外気の中で、シグルド達は出陣をした。
シレジアで冬を迎えてから、騎馬部隊はベオウルフのアドバイスに従って、雪道での戦に備えた訓練を行っていた。
それの成果を見せる日がこないこと、それを誰もが願っていたというのに、まさかこういう形で。
誰もがその思いを胸に抱きながらの戦であった。
シグルド達は順調にトーヴェ城に向かい、アイラ達歩兵はシグルドの命令通りセイレーン城に待機をしていた。
事態が動いたのは、シグルド達がマイオス公を倒し、トーヴェを制圧した直後だった。
ザクソンのダッカー公が、シグルド達の留守の隙を狙い、シレジア城に向けて兵を放った。
それは、いくらかシグルドも想定していたことだったのだが、問題はダッカーの手駒だ。
ダッカーは私兵である天馬騎士団だけに頼らずに、傭兵を雇った。
その上、あろうことか、シレジア城の天馬騎士団を倒すため、なんとグランベルのユングヴィ家長男アンドレイが率いるバイゲリッターを呼び寄せていたのだ。これは、さすがに誰も予測不可能なことだ。
流れの傭兵はともかくとして、他国の騎士団の手を借りるとなれば、それは内乱の域を超えている。しかも、バイゲリッターは弓騎士団。つまりは、天馬を射るためだけに呼ばれたのだということだ。
もちろん、シグルドもセイレーン城に残っていた歩兵達も、そんな詳細を知ることは出来なかった。
シグルド達は未だそれを知らず、トーヴェ制圧の知らせを伝令役であるセイレーン城付きの天馬騎士が持って帰ってきただけだ。
アイラ達が事の次第を知ることとなったのは、シレジア城から命からがら、天馬に乗った少女が一人逃げてきたからである。
まだ大人になっていない小さな天馬は、その小さな体よりも更に小さな少女を背に乗せていた。
どう見ても、この寒空の下、天馬に乗る服装とは思えぬ軽装。
追撃にあったのか、セイレーン城近くで仔天馬は力尽きたように倒れ、少女は保護された。
「ラーナ様が、みんなを逃がしてくれたの。みんな、雪の中、こっちに向かって歩いてくるはずなの。お父さんが、わたしは、足が遅いから、天馬で逃げた方がいいって。わたし、ほんの少し前に、お城のお姉ちゃんに我侭言って、乗り方を教えてもらっていたから、それで。お願い、お父さん達を助けて!」
余程恐ろしい目にあったのか、少女はなかなか落ち着くことが出来ず泣きじゃくって、アイラ達の質問に納得が行く答えを返せない。
そんな要領を得ない話ばかりを繰り返していたのだが、少女が毛布にくるまって茶を二杯飲み終わった頃には、なんとかおおよそのことを理解することが出来た。
シレジア城は、ダッカーの手に落ちたのだ。そして、きっと少女が言う『お城のお姉ちゃん』は天馬騎士で。
シレジア城が本当に陥落したのであれば、きっと、その『お姉ちゃん』は、戦死しているに違いない。少女には伝えることは出来ないけれど。
もし、天馬騎士が僅かでも残っていれば、この少女が単身で乗りなれぬ天馬に掴まって命からがら危険を冒す必要はないのだ。そして、シレジア市民も少女が言うように『こっちに向かって歩いて』逃げるのではなく、きっと天馬騎士の生き残りが誘導してくれるに違いない。
ラーナ王妃という人は、自分の身を呈してでも市民を守る女帝だ。
それは、この一年世話になった彼らはよくわかっている。
僅かな天馬騎士を身の回りに置くよりも、逃した市民の安全を考え、最後の一人までもラーナは市民のために動くように命じるだろう。
が、少女の話を聞けば、どこにも天馬騎士の誘導や手伝いの姿が浮かび上がらない。
たくさんの天馬騎士が戦に出て行った。ただ、それだけだ。そして、帰ってきていない、と。
ジャムカは迅速に、シグルド達へ伝令を出した。
セイレーン城付きの天馬騎士に、トーヴェからこちらに戻って来ている途中のシグルドに事を伝えるようにと、騎馬隊が移動するであろうルートを指示する。
そして、伝令が出て行く姿を最後まで見送らず、彼は
「シレジア城へ向かおう。公子からの命令を待っている場合ではなさそうだ」
と皆に告げた。
もちろん、それに反対をする者はそこにはいなかった。
当然のことながら、そこには強く頷き返すアイラの姿があった。



←Previous Next→



モドル