わたしはだんだん醜くなる-8-


アイラは、イザークへ行かない。
シャナンの言葉の意味を把握しきれない一同は言葉を失い、幼い彼をただみつめるだけだ。
当のアイラですら、一体シャナンは何を言い出したのか、と呆然としている。
確かに、心の中では『このまま残れたら』とは少しは思っていた。
けれど、それは自分の我侭以外の何者でもないと考え、そして、シャナンのためにも諦めようとしていたのに。
しばらくの間、誰もがシャナンの言葉を待っていた。
みなの視線を集めているシャナンの表情は曇り、床に視線を落として沈黙を続けている。
自らが言ってしまったことを後悔しているのだろうか、とアイラはシャナンの様子を見つめるばかり。
「アイラ様、一体どういうことですか」
と、その静けさを最初に打ち破ったのはオイフェ。
どういうことかと言われてもわたしも、と、アイラは言いたかったが、寸でのところで何とか踏みとどまる。
オイフェがアイラにそう問うのは当然だと思うし、シグルドもまた、シャナンとアイラの間で何かを決めたのだろうと勘違いしているに違いない。
言葉というものは、恐ろしい。
一度それは口から放たれてしまえば、何をどれだけ重ねたとしても、取り返しがつかなくなるものだ。
今のアイラはまさに、「言葉にされてしまった」者だ。
実のところアイラは、この先の人生をすべて左右されるのではないかとすら思えるシャナンの言葉に、動揺し、高揚していた。
そんな自分がオイフェからの問いに対して、余計なことを口走らぬように、と自制できたことは、彼女としても驚くことだった。
「オイフェ、違う」
矛先がアイラに向いたことに気付いて、慌ててシャナンは顔をあげると、早口でオイフェにまくし立てた。
「アイラとは、話してないんだ。僕が、勝手に決めたの。ううん、そうして欲しいって、思ったの」
「シャナン」
ようやく驚きから解放されたのか、アイラではなくシグルドが彼の名を呼ぶ。そちらへ視線を向けるシャナン。
「あのねっ、あの……僕は、シグルドとの約束を守れなかったでしょう」
「……それは……」
シャナンが言う『約束』が、ディアドラを守るということだったのは、その場にいる誰もがすぐに理解をした。
だからこそ返答に困り、言葉を濁そうとするシグルド。
シャナンにはもう気にしないで欲しい、と彼はずっと思い続けている。けれども、シャナンがシグルドとの約束を守れなかったのは事実だ。
シグルドとて、本気でシャナンがいざという時にセリスとディアドラを守れるとは思っていなかった。が、だからといって、それをまるで『どうでも良い約束』だったことには彼には出来ないのだ。シャナンのためにも。
「ディアドラが連れ去られたのは、僕のせいだ」
はっきりとした声音で言い切るシャナン。その表情は辛そうに歪む。
時が経っても癒えぬ傷というものはある。未だ塞がろうとしない、少年の彼が抱える大きくて深い傷。
シャナンは、まるで自らのその傷口を見つめながら言葉を紡いでいるのかもしれない、とアイラは感じる。少年の瞳に、最早惑いはなかった。
「ほんとは、僕がセリスについていくことは、あんまりよくないことなんだって、僕は知ってるんだ。エーディンとお話したの」
「エーディンと」
アイラとシグルドは目配せをしあう。
エーディンもまた、セリスと共にイザークへと行く予定になっている人物。
シャナンがそれをかぎつけたのか、偶然その話になったのか、で言えば、きっとそれは後者であろうと思われた。
「セリスまでなら、まだそんなでもないけど、エーディンもイザークに行くことになったら……グランベルの人達は、イザークのことを悪く言うかもしれないんでしょう。シグルドは、なんていうの。グランベルの人からこうやって戦いを挑まれちゃう立場にあるし、エーディンだってそこに一緒にいる人間だけど、でも……見方を変えたら、僕がエーディンとセリスと一緒にイザークに戻るのって、イザークの人間がグランベルの人間を誘拐したみたいな」
「ああ……うん、確かにそれは、多少は心配をしていたんだ。シャナン。それを考えれば、多少の危険はそのままでも、シャナンはアイラと共にわたしとバーハラに行って欲しいと思ってね」
シグルドはそういって、ちらりとアイラを見た。
「わかるかな。言っていることが」
「……多分……我々イザーク人が、混乱にまぎれて、グランベル公女とシアルフィ公爵の愛息子を連れ去った、なんていう風に吹聴出来る、そういった種を自ら撒く事は危険だ、ということだろう」
「そう。今のグランベルは何をどうしたいのか、何をしでかすのかがよくわからない。今の状態ではこれ以上酷な思いをイザークが味わうことがないと思われるが……そこに我らが火種を入れてしまう可能性もある」
たとえ、グランベル側の謀略の真相が明かされるまでの時間が、今からそうかからないとしても。
情報がひとつ捻じ曲がれば、捏造された話が飛び交う可能性がある。
そして、シグルドが懸念していたことは、イザークとシレジアの国位置だ。
ただでさえ、先日のシレジア内乱にグランベルが咬んでいたというのに、これ以上シレジア付近の国でごたごたが続けば、余波が更に広がるのではないか。そう考えた彼は、敢えてシャナンやアイラにイザーク行きをはっきりとは頼まなかったのだ。
が、シャナンからの申し出を即座に断らなかったのもまた、シグルドの心遣いであり、心の奥底に潜んでいた本音がそれでもあったからだろう。
「そっ、そうだったの、ですか……思慮が足りませんでした……」
オイフェはそういうと、頬を赤らめた。
聡い彼は、単純にシャナンの言い分を支持した自分を恥じているに違いない。が、それはオイフェもまた若い証拠であり、いたし方がないと言えよう。
(思慮が足りないのは、わたしの方だ)
アイラはオイフェにそう言ってやりたくなったが、そこは堪えて話を続けた。
「それを知りながらも、シャナンはイザークに行こうと思ったのだな?」
「うん。それでもエーディンは、もし、僕が一緒に行くなら心強いって言ってくれたし、何より僕は……ディアドラを守れなかったから、セリスだけは僕の力でなんとか守りたい。イザークの人達へのグランベルの風当たりが強くなっても、僕がいることでセリスやオイフェ、エーディンを守れるかもしれないし」
「そうか、シャナン、ありがとう。そこまで考えて言ってくれたとは、正直わたしも気付かなかった。君は、立派なイザーク王になるね」
そういうと、シグルドはシャナンの前でしゃがみこみ、下から見上げ、少年の手をぎゅっと両手で握り締めた。
「シグルド、立って。僕、シグルドにそんな風に思ってもらえるほど、何もしちゃいないんだから」
シャナンは首を横に振った。その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいるように見える。
彼の言葉を受けて、シグルドは微笑を浮かべてゆっくりと立ち上がった。
「だから、その、余計な噂を出来るだけ流されないように、アイラはまだシグルド達と一緒にいたほうがいいと思ったんだ。僕の自分勝手だけど……僕、今までアイラにずっと守ってもらっていて、なんていうの。政治的ななんかで僕が首をつっこまなくていいように、いっつもアイラはシグルドと話を決めてくれてたでしょ。でも、ひとつぐらいは、僕は、イザークの次期国王としてね……この戦いの中で、自分で決めなきゃいけないって思ったんだ。それがこれだったら、アイラは僕のこと、怒る?笑うかな?」
「そんなことはない……シャナンは、立派だ。怒るはずも、笑うはずもないではないか」
「ほんとに?だったら、僕は嬉しいな……それにっそれにね。僕らがイザークに行けば、イザークの人達は僕を助けてくれると信じてるの。何をのこのこ帰ってきたんだ、とは言わないと信じたい。そしたら、向こうで僕はたくさんの味方を手に入れるでしょう。だけど、シグルドは違う。キュアン達以外、きっとこの先力を貸してくれる人が増えなくて、シレジアの天馬騎士とももうお別れでしょう。だから、アイラに、全部僕は託そうと思って。ごめんね、アイラに話そうと思ったんだけど、心が決まったのがついさっきだったの。でも、これは僕一人で決めたいって思ってたから。勝手なことを言っても、アイラならわかってくれると思って」
「……いや、大丈夫だ」
「あのね、僕、アイラに言わなくちゃいけないことがあるんだ」
一気にたくさんのことを話したせいか、シャナンは深呼吸を何度かした。
「シャナン、少し、休んだほうが」
気遣ってそう言うシグルドに、いくらか乱暴にシャナンは返事をする。
「いいの。今じゃなきゃいえないからっ。僕、普段こういうの恥ずかしくて言えないしっ」
「なんだ?わたしに話とは」
「あのね……僕、国で何度もね、イザークの国民を守るのが僕の役目になるって言われても、あまりよくわかってなかった。今だって、わからないよ。わかることは、それには全然まだ力が足りないってことだけだし……」
「うん」
「国から出てからも、僕はアイラに守られっぱなしで、国にいた時と変わらない……守られる側にずっといた。それは、当然だってアイラは言うかもしれないけど、そうじゃなくて……何かを守るための、なんていうの?心掛け?力以外の気持ちっていうの?そういうの、全然足りてなかったんだって思う。僕、ディアドラが取り返しつかないことになって、その時やっと、守る側がどんなに大変なのか、わかった気がしたんだ」
シグルドもアイラも、オイフェも。
この少年の抱いた傷の深さと、それによって齎された自覚を思いやり、心を痛める。
「イザークの国から離れることが、僕にはとても辛くて、意味がよくわからなかった。でも、大切なものを置いていってでも、守らなくちゃいけないことがあるってことを、アイラは僕に教えてくれた。だから、僕も、ひとつ大切なものをシグルドに預けて、セリスを守ることと、僕が生きているってことをイザークの人たちに伝えて希望を持ってほしいと思ったんだ」
そこまで一気に堰を切ったように話すと、シャナンはぼろぼろと大粒の涙を零した。
毅然とした態度で最後まで話そう、と健気にも声を堪えるが、既にそれは叶うことなく、うっ、と小さな嗚咽が時折口から漏れる。
子供の、本当の覚悟の姿だ、と、アイラはその様子に心打たれ、手を伸ばすこともなく静かに問いかけた。
「大切なもの?」
「アイラのっ、ことだよっ…・・・」
「シャナン……!」
「アイラ、お願いっ。シっ……シグルドの力になってあげて。それで、それで、イザークのみんなの……父上やおじい様の無念を晴らすために、本当のことをグランベルの人達から聞いてきて。僕もイザークで頑張って、待ってるからっ……それからっ、シグルド!」
「ああ」
「アイラのこと、僕のところに、連れてきて……ジャムカと一緒に、エーディンを迎えに来て、それから、オイフェが言うように……シグルドが、迎えに来て……絶対に、シグルドじゃなきゃ、嫌だからっ……」
「わかった。約束しよう、シャナン」
そういってシグルドは手を出した。
シャナンは小さな手で精一杯握り返す。と、次の瞬間、最早耐え切れなくなったように部屋を飛び出していった。
話の途中なのに、とか、そんなことを言う者はそこにいるはずもない。
「すまん、公子、後で……」
「アイラ様、待ってください!」
後を追おうとしたアイラを、オイフェが止めた。
「多分、アイラ様が今行っても、余計にシャナンは泣いてしまいます。わたしが行きます」
「しかし……」
「アイラ、オイフェに任せてやってくれ。彼らの友情は深い。それに、今君が行くと、シャナンの心は揺れるだろうから」
「公子」
「君と離れる覚悟なぞ、本当は彼にもきっと出来ていないんだよ。それを、口にしてしまったのだろう。その覚悟を無駄にすることになるかもしれないし、君自身も揺れる」
シグルドのその言葉を聞いて、アイラは突然全身の力がぬけて、床にへたり込んだ。
その目の前で、オイフェはシグルドに一礼をして部屋から出て行く。
(本当は、公子と共にいけることは、ありがたいことだったはずなのに……)
突然のシャナンの決断に、アイラは驚き、衝撃を受けていた。
最後までとにかく話を聞こうと務めて、それだけに集中をしていた。
けれども、話を聞けば聞くほど、シャナンのその思いを覆すことが失礼なことだとアイラには思えたし、そして何より、あの少年の決断は、悪くない話なのだ。
離別が必要だという点以外には。
自分は一体何だ、とアイラは呆然とする。
公子と共に行きたい。しかし、ここでイザークに行くべきほうがシャナンの身の安全は確保出来るだろうし、それには自分も共に行かねばとも思っていた。
しかし、蓋を開ければ、もっと深くて、もっと凛とした決断をシャナンが下したではないか。
自分の薄っぺらい、恋心に振り回されるだけの思考が、どれほどにどうしようもなく、情けないものなのか。
それに打ちのめされたアイラは、そこにシグルドだけが残っていることすら忘れ、呆然とする。
「アイラ」
「公子……あ、す、すまない。情けない姿を」
「いいや。驚くのも無理はないし……いいんだ。そのままで」
シグルドの柔和な微笑みには、いくらか哀れみが含まれているようにアイラには見える。
それが、シャナンからの告白で離別の覚悟を突きつけられたアイラへの労りであっても。
いいんだ、そのままで。
それが。
それが、自分の抱く恋情に対しての言葉ならば、どれほどに救われるのだろうか。
アイラは、うっすらと微笑を浮かべた。
それは、自嘲の笑みだ。
「大丈夫だ、確かに、少し驚いたけれど」
シグルドには、きっと伝わらないであろう、その微笑の奥に蠢く感情。
「考えもしなかったんだ。シャナンと別れることなぞ」
「そうだろうな」
「……ああ」
アイラはゆっくりと立ち上がりながら、口端を歪ませた。
(公子。わたしは、あなたのことは、別れのことばかりを、考えているのだけれど)
ただひたすら、それが遠いことであってくれれば、と。
それを願いながら自分が日々を過ごしていたことに、今更ながら気付いてしまった自分を、アイラは哀れむ。
彼女のそんな気を知るはずもないシグルドは、気を取り直したように地図を手にしてアイラに声をかけた。
「アイラ、イザークで身を隠す先の話をしたいんだが……イザーク方面からの情報を天馬騎士からもらって、おおよその見当はつけたんだけれど、最後の相談に乗ってくれるかな」
「ああ、もちろんだ。わたしでわかることならば」
「うん。アイラがわからなければ、誰もわからないだろう。ベオウルフもイザークまでは傭兵に行った事はないと言っていたし、ホリンがいくらか詳しいようだったけれど、候補にあがった地域のことは知らないらしくて」
ローテーブルに地図を広げるシグルド。
万が一の大事を考えて、地図には印などを付けていない。シグルドは指でイザークの国境近くを指差し、アイラに行路を説明をした。
逃亡先として考えられている場所は二箇所ほど。
そのどちらも、アイラにはあまり馴染みのない場所であり、アイラが馴染みがないということは、首都側からすれば監視がしづらい地域ということだ。
とはいえ、彼女にとって馴染みがないからといって、その地域のことをまったく知らないというわけではない。
彼女は剣の腕に長けた女性としてのみ見られることがほとんどで、イザークに居た時も政治に関して携わったことがあまりない。けれど、王族の一員としての教育は幼い頃より受けていたし、遠方への視察を代理で務めたことも多少はある。
アイラは椅子に座らず、ローテーブル前に膝を折って床に座り込んだ。
それに対して、シグルドはわざわざ椅子やソファを勧めない。地図を覗き込むアイラの集中の妨げになるのでは、と思ったからだ。
彼は、何も言わずに、アイラに付き合うように床に腰を下ろした。少し背を伸ばせば、地図を覗き込むのに不自由はない。
「……どちらかといえば、こちらの方が良いかな。どちらも自給自足を旨としている地域で、基本的には流通も盛んではない。ならば、人口が増えたところでその自給自足の生活に馴染めば、周囲の者達にも迷惑をあまりかけずに済むだろう。今の時期に入るならば、こちらだ。こっちの地域は春先のみ収穫で忙しくなる果物を作っている。ということは、唯一の繁忙期であり、唯一流通が増える頃に行くことになるだろうし、そうすれば地域外の人間にバレる可能性も高くなる」
「そうか」
「もちろん、イザークに派遣されているドズルの人間とやらが、その辺りも把握しているかもしれんが……」
そこまで言うと、アイラは軽く息を呑んだ。
ローテーブルの地図を覗き込む、シグルドの顔と自分の顔の位置が近い。
端正な顔立ちに目を奪われ、一瞬呼吸が止まる。
目頭が熱を帯びて、鼓動が僅かに早まるのを感じて、アイラは動揺を隠そうと必死になった。
(ここで、なりふり構わず、言ってしまったらどうなるんだろう)
ちらりと胸の奥に生まれる、駆け引きの芽。
シャナンの決断には驚いたけれど、あなたとまだ一緒にいられることが、嬉しいのだと。
(駄目だ)
言っては、いけない。
「アイラ?」
「いや……ちょっと、考えて」
これ以上近くにいたら、過ちを犯してしまう。
その思いが彼女を臆病にして、身を引かせる。
(あなたと一緒にいられて嬉しい。ただそれだけの言葉であれば取り返しが付くけれど)
一つを言葉にすれば、そこから全てが流れ出してしまうかもしれない。
アイラは軽く下唇を噛み締めた。
今は、そんなことを考えているときではない。
シャナンの、オイフェの、セリスの。エーディンやその子供の無事のために、真剣に考えるべき時であるのに。
どこまで、自分がシグルドへの恋愛感情に何もかも翻弄されているのかは、相当前から自覚があった。
けれども、いくらなんでもここまでとは、とアイラは己を叱責する。
一つ間違えれば、シャナン達に身の危険が降りかかるという時にまで、なんという体たらくだ。
と、その時、脳裏にレックスの言葉が浮かんできた。
 
――俺は、お前のろくでもない恋愛なんかには興味はない――
――だけど、そのせいで一生を間違えたり、そのせいで失わなくてもいいものを失うんだったら、耳に痛いことを言ってやる――
 
(レックスは、わたしよりも、わたしのことをわかっているのかもしれない)
アイラは気を取り直すと、何事もなかったかのように告げる。
「……この地域に入るならば、北西の森を迂回しない方がいい。北からの風を防ぐために植えられている木々だ。迂回をしようとすれば、慣れぬ気候で体調を崩す可能性も高くなる。特に、幼子は」
「そうか。森を通ると隠れられる反面獣の心配もあるんだが……」
「人の手で植えられた森だ。小動物は住み着いているだろうが、人を襲うほどの獣がいるとは思えない。確か、この森の東に、ひとつ集落があったような気がするんだが……それも、5年ほど前に話しに聞いただけだから実態はわからないが、獣が出る森の近くには、そういう集落を作らないのが基本だ。自給自足をしていればなおのこと、この森には畑を荒らすような動物もあまりいないということだな」
「ふむ……やはり、イザークのことは、イザークの人間に聞かないとわからないな」
シグルドはそういうと、僅かに笑みを見せた。
それへアイラも微笑を返す。
口端を歪めた、自嘲気味の笑みにならぬように、細心の注意を払いながら。
 
 
それから数日後。
オイフェ達がシグルドの元を離れる日がやってきた。
オイフェとシャナン、セリス、エーディン。エーディンとジャムカの息子であるレスター。そして、護衛騎士数名。
城から出る様子が目立ってはいけないと、出発はかなりの早朝だ。
イザーク国境付近までは、ここまで力を貸してくれたシレジアの天馬騎士達が護衛につき、その後彼女達は帰国することとなる。
セリスはともかくとして、ここまでの道のりで彼らは誰もがそれなりに旅慣れていたし、イード砂漠を越えるシグルド達に比べれば余程移動は楽な平地が多い。それだけに発見されやすいという短所もあるのだが、背の低いイザーク特有の森などを使えば、イザークの首都から離れた田舎には入りやすいという話を信じて、そのルートをとることに決めた。
金髪では目立つから、と髪をまとめてその上から筒状の布帽子をかぶっているエーディンの姿は、いつもの彼女とあまりに印象が違いすぎて、誰もが驚くほどだ。
「エーディン。赤子のみならず、幼子を連れた旅で申し訳ないが」
城のエントランスに人々は集まった。早朝ということで肌寒く、寝巻きのものは厚手のコートを羽織っているぐらいだ。
「大丈夫。オイフェはもう分別のある年ごろで目を離していても大丈夫だし、シャナンはセリスの世話で遊んでる暇もなくなるでしょうし。護衛もつけていただいているから、国境までは大分気が楽だわ」
エーディンのその言葉は本音だろう。
イザークという地で、グランベルの成人女性がどう受け入れられるのか、不安がないわけがない。
エーディンの心労は、むしろ国境を越えてからあるといっても過言でないだろう。
「エーディンの子供達がジャムカ王子の子供であることは、公にするんだって?」
「ええ。隠しておいて後から問題が起きるよりは、公言した方がよいかと。イザークのお国柄では、どちらが好まれるかしら?」
それを聞いたアイラは、強く頷き返す。
「……間違いなく公言した方がいいな。それに、イザークは別段ヴェルダンに偏見はない。遠い場所にある、あまり関係のない国、としか認識していない。ジャムカ殿には悪いが」
その言葉にジャムカは軽く「いいや」とだけ応える。
「でしょう?わたし達の子供は普通の子供として扱ってもらうつもりよ」
「そうか」
普段寡黙なジャムカは、それに関してははっきりと言い放つ。
「その方が良い。他国の王族であろうと、それを主張したところで子供達のためになるとは思えない。イザークの人々のいうことをよく聞くようにな。郷に入らば郷に従うが礼儀というものだ」
「ええ。わかっているわ」
微笑むエーディンの表情は、僅かに強張っている。
気丈に振舞ってみせていたけれども、いざ自分の夫との別れと思えばそうなっても仕方がないだろう。
ジャムカはエーディンを引き寄せて強く抱擁をした。
それに身を預けて、己もまたすがり付くように彼の背を強く抱くエーディン。
シグルドはレヴィンやフュリーを交え、天馬騎士達がシレジアに帰るルートまでも最終確認している。
オイフェは他グランベルの騎士達から声をかけられている。
エーディンとジャムカの抱擁を見たシャナンは、なんだか落ちつかない様子でそわそわしていた。
「どうした、シャナン」
アイラがそう声をかけると、シャナンは『なんでもない』と言って、近くにいたホリンに声をかけ、アイラを無視するように話を始める。
その様子を不思議に思うアイラに、傍らにいたシルヴィアがにやにや笑いながら囁いた。
「察してあげなさいよ、アイラ」
「ん?男女の抱擁に照れているのか」
「バカねぇ。シャナンは、アイラに抱きしめて欲しいのよ。子供っぽいと思われたくなくて、我慢してるんじゃない?」
そのシルヴィアの発言にアイラは少し驚いた顔をみせ、彼女を見つめた。
「なによ」
「シルヴィアは、わたしよりシャナンのことがよくわかるようだ」
「バカねぇ、アイラったら」
なんという馬鹿正直な言葉か、とシルヴィアは吹き出した。
彼女の横にいるクロード神父もそれに苦笑を見せたけれど、敢えて言葉はかけない。
「シャナンもバカよ。大人だって、抱き締めて欲しい時ってあるものよ。ここでアイラに抱きしめられたからって、誰も子供だから、なんて思わないわ。もちろん、アイラもよ」
「……離れがたくなる」
アイラはばつが悪そうにそう呟いた。
それもわからないわけでもない、とシルヴィアはそれ以上アイラをけしかけなかった。
が、アイラは一歩踏み出して、シャナンの元へと近づく。
「シャナン」
「アイラ」
「……おいで」
シャナンは驚いてアイラを見上げた。
彼の知っているアイラは、彼が甘えれば抱きしめてくれるけれど。
彼女は、人前で自分の方からそうやって手を差し伸べることを、あまり得意としない女性だ。
それが、今。
きっと、この場にいる誰も、それがどれだけのことはをわかるはずはないだろう。
誰に言うこともないけれど、実は昨晩シャナンはアイラに甘えて、彼女のベッドで共に寝ることをねだった。もちろん、彼女はそれを拒まなかった。
旅の間に、そうやって温かなベッドに二人で寝ることなぞはほとんどなかった。
二人で逃亡している時は常にアイラは起きているといっても過言ではない状態で、二人が二人とも深い眠りにつくことなぞなかったのだし。
シグルド達に助けられて、二人はようやくベッドで眠ることが出来たのだ。
そして、まだその環境に馴染めなかった頃に、不安で仕方がなかったシャナンを思いやって、アイラが同じベッドで眠ってくれたことはあった。
アイラは、その時以上の不安で押し潰されそうなシャナンを、昨晩甘やかしてくれたのだ。
けれど。
こうやって人がいる前でアイラから手を差し伸べること、それが、どれほどに珍しいことなのかはシャナンが一番よく知っている。
知っているがゆえに、この別れの日がどれほどに大きな意味を持つのか、シャナンの胸の奥はざわめいた。
そして、そのざわめきに背を押されたように、シャナンはアイラの胸の中に飛び込む。
「アイラ……アイラ、絶対、迎えに来て、絶対」
「うん」
シャナンを強く抱きしめ、アイラは少年の髪に顔をうずめて何度も頷いた。
シルヴィアはそんな二人を見て、傍らのクロード神父に声をかけた。
「たくさんの言葉より、人のぬくもりの方が大切なことってあるの。神父様も、忘れないでね」
「シルヴィア?」
何を言っているのか、と不思議そうなクロードに、二人のやりとりを小耳に挟んでいたティルテュが苦笑をする。
「たまには、抱きしめて頂戴、って言ってるのよ、シルヴィアは」
「そっ、そういう、意味ですかっ……」
そんな外野の会話なぞ、まったく耳に入らぬようで、アイラは一心にシャナンを抱きしめ続けた。
腕の中のシャナンが、もうアイラから離れよう、と体を僅かに動かすけれど、アイラの方はその腕を解くことが出来ない。
(このまま、この腕を放せばいつか、後悔する。きっと)
シャナンを抱きしめながら、アイラは己の選択――それはシャナンが決定した選択ではあったけれど――を心底恨んでいた。
(後悔しなくてすむには、何がなんでもグランベルでイザークの無罪を認めさせて……公子と共に、イザークに行く、それ以外にわたしには道がない。わたしに様々な覚悟を突きつけたのは、公子ではなく、シャナンだ。わたしは、今までイザークの民をどこかで裏切っていた。もう一度シャナンと出会って、こうやって抱きしめられたら、それが贖いになるのではないか)
「アイラ」
「……気をつけるんだぞ。剣士としての判断はシャナン自身で行えども、それ以外の判断は、エーディンとオイフェとよく相談をするんだぞ」
「うん。何度も同じこと、言ってるね、アイラ」
「……何かを言い続けていないと、いてもたってもいられないようで、な」
アイラは自嘲の笑みを浮かべると、シャナンから体を引いて床に膝をついた。
「シャナン王子。わたくしは、あなたからの命をうけ、グランベルへと向かいます。ですから、御身もまた、無事でありますように……」
そう言うと、アイラは片手でシャナンの手を握り、もう片方の手で宙に印を切って何かを唱えた。
シャナンは黙ってそれを受けると、小さく笑う。
「イザークを出る時、リンザーがやってくれた」
「ああ。そのおかげで、ここまで生き延びた。だから、今日はわたしが」
「ごめん、僕、それのやり方を知らないんだ。だから、アイラにやってあげられない」
「シャナンはこれを唱える立場の人間ではない。大丈夫だ」
儀式らしき行為を終えるとアイラは立ち上がり、シャナンの髪に手を触れて整えてやる。
少年は自分から切り出した別れを許容することに必死なようで、それ以上言葉を発することなく唇を噛み締めた。
その時、シャナン達の護衛天馬騎士の声があがる。そろそろ出発をしないと日が昇ってしまう、と急かす声がエントランスに響いた。
「あまり、日が強くない、動きやすい日になりそうだね。運がいい。こういう出発は、災いから守られるよ、ラッキーだ」
空を見て外から戻ってきたデューが、わざと明るい口調で今日の天気について告げる。
まるで、それが出発の合図にでもなったように、オイフェ達は見送りの人々から離れた。
エーディンは名残惜しそうにジャムカの腕からそっと体を引き、ゆっくりと扉へと向かう。
出発をする人々はみな、オイフェにそっと視線を送った。年齢はまだ若くとも、間違いなくこの一群を率いるのはオイフェになると思われるからだ。
人々のそれはオイフェ少年を圧迫する視線ではない。
このままでは誰もが後ろ髪を引かれたまま。その状態を、申し訳ないがあなたが断ち切ってくれないか。
そんな残酷だけれども優しい思いが含まれているのだ。
「……それでは、出発いたします。みなさんのご武運をお祈りしております」
オイフェのその言葉で、出発する者達、見送りする者達、お互いの視線が交錯する。
無情と思われても仕方がない役回りを引き受け、天馬騎士が扉を開けた。
アイラの視線とシャナンの視線が絡み、最後にシャナンは頭を深々と下げた。
それは、アイラに向けてのものなのか、今まで世話になったシグルド軍のみなに向けてのものなのかは定かではなかったが、それを確かめる暇もなく、彼は背を向けて扉に向かう。
そして、まだ朝がやってきていない薄暗闇の世界に、彼らは足を一歩踏み出したのだった。
 
 
「さっきの、アレ、何だ?」
エントランスから人々が自室に戻ろうとする中、アイラにレックスが声をかけた。
「あれ、とは?」
「シャナンに、何か」
「……ああ、イザークの、まじないだ。イザークを出る時、シャナンが毎日世話になっていた女中頭が、混乱の中それだけは、とシャナンにやっていたのでな。それをやってあげれば、シャナンも安心するかと思って」
「ふうん。ただのまじない」
「だが、そのまじないを出来る人間は限られている。わたしは、父様や兄様が戦に赴く時に留守を預かり、戦に力を尽くすことが出来なかったので、あのまじないをする資格を得た」
「まじないなのに、資格」
「資格といっても、聖なる泉と言われる場所での沐浴をするだけだがな」
「……ふーん」
レックスは僅かに頬を赤らめ、それからわざとらしい欠伸を一つ見せた。
「夜番から少し寝ただけだったから、眠いな。少し、仮眠する。朝飯に出なかったら、誰かに言って起こしてないだろうか」
「わかった……ああ、そうだ、レックス、すまない、ひとつだけ」
「なんだ?」
周囲の人々はとっくに踊り場への階段を登ってしまい、後姿も小さくなっている。
階段を登りかけていたレックスは、冷たい手すりに手をかけたままアイラの言葉を待つ。
「ありがとう。レックスの言葉で、少し、救われた」
「何のことだ」
「……耳に痛いことを言ってもらえて、感謝している。わたしは……頭がおかしいのか、時々、大切なことをついつい疎かにしそうになっている。それを、どうにか留められたのは、レックスのおかげだ」
「何のこと言ってるか、わからないが」
「わからなくても、いい。勝手な言い分だとは思うが、礼を言いたかっただけだ」
「……ふざけんな」
「え」
「お前、自分が何を俺に言っているのか、わかっているのか」
レックスはいくらか怒気を含んだ声音で、アイラを睨みながらゆっくりと告げた。
思いもよらないレックスの反応に、アイラは驚いて体を強張らせる。
「……どうやら、何か、レックスの気分を害することをわたしは言ったようだな」
「それぐらいはわかるのか」
「というか……それぐらいしか、わからない」
「……俺も、身勝手だ。自分から確かにお前にそう言った。耳に痛いことを、言うって、な。でも、お前の口から言われるのは、腹が立つ」
そういうとレックスはアイラから視線を外した。アイラはそれを覗き込むように動き、彼の視線の先に自ら立つ。
「何故だ?」
アイラの視線に観念したように、レックスは嫌そうな表情で答えを返した。
「お前は……大切なもんを、疎かにするような恋愛に、今でも溺れてるんだろうが。俺に、そう言ってるんだ」
「えっ」
「そうだろう。俺に礼なんか言ってる場合じゃなかろうが。それは、礼を言ってる場合じゃ、ない。俺はわかってるつもりだ。お前、シャナンだけイザークに行くことになって、安心したんじゃないか」
「そ、れは……」
まだ誰かがいるかも、と懸念してレックスは小声だ。けれども、その言葉は小声であることが関係がないほどにはっきりと、アイラの耳には届く。
まるで彼女を責め立てるようにレックスは言葉を続ける。
「軽蔑はしない。噂じゃ、シャナンからそう言い出したらしいしな。よかったな、と言うぐらいだ。そりゃ、俺にとってもよかったな、だ。お前がまだここにいてくれるんだから」
「レックス」
「まだお前がここにいてくれれば、お前がどうにもならない色恋からある日目が覚めて、正気に戻る時に一緒にいられるかも、とかぬるいことを考えていたんだよ、俺は。でも、どうやらまだまだそれどころじゃないようだ。シャナンと別れる別れないの時にそんなことを言い出すってことは……いくらなんでも、あんなに大事にしていたシャナンのことすら、疎かにしようとしてたんだろう」
「レックスが、それを、ほのめかしたのではないか」
「そりゃあそうだよ。俺はお前がシャナンと別れようがなんだろうが、関係ない。第三者だ。でも、お前にはここに残って欲しかった。だからそのことを先にお前に言ったんだ。だからって……俺の自分勝手だってのはわかってる。わかってるが……いい加減に……」
そういうと、レックスは荒っぽくアイラの腕を掴み、自分の胸元に引き寄せた。
突然の彼の行動にアイラは反応が遅れ、気付けば強い力で抱きしめられていた。
「レ……」
たくましい腕が背に回り、強くアイラの体を抱く。
もう片手はアイラの後頭部を掴み、無理矢理彼の厚い胸板にアイラの頬を押し付けた。
お互いの服は冷え切っているのに、耳をくすぐるレックスの吐息の熱さにアイラは身を竦める。
「本当は、お前がシャナンと共に行く方が……お前のためになるんじゃないかと思っていたのに……畜生……」
「レックス……離せっ……」
「アイラ。俺は、父親を失ったばかりだ。こんな俺でも、多少は心が痛んでいるし、どんなに覚悟をして臨んだことだって、後悔をまったくしないわけじゃあない」
「……」
「それなのに、お前のためにならないと思ってもお前がまだここにいてくれることが俺は嬉しいし、今だって、こんな阿呆になって力に物を言わせてお前を抱いている。父親が死んだことなんて、あさってのことのように、だ……お前だったら、それを軽蔑するか?」
アイラは、レックスの腕の中で抵抗を止めた。
それは、抵抗をしてもかなわないと思ったからではない。
そうではなくて。
レックスもまた、アイラの体から力が抜けたことに気付き、強く抱いた腕を緩めた。
アイラは、静かにレックスの前に立ち、彼を見上げる。その両頬は紅潮し、今にも泣きそうな表情で、けれども強い視線で彼を睨みつけている。
「いくらわたしが馬鹿でも、それぐらいのことはわかるぞ」
「何がわかるんだ」
「同じようなものなんだろう?今のわたしも、レックスも。わたしがレックスを軽蔑するとしたら、それは、わたしがわたしを軽蔑するということだ」
「……ああ、そうだろう」
「でも、そうじゃない。わたしはわたしを軽蔑しているけれど、レックスのことは軽蔑していない。わたしには、どうしてもそうは思えない」
「俺のことは軽蔑しないのか。父親が死んだのに、のうのうと、自分の父親が陵辱した国の女をおっかけて、こんな阿呆なことをしちまってる男を」
「しない」
「……だったら、お前も」
レックスは、眉根を寄せて、口を歪めながらゆっくりと言う。
「お前も、そんなに自分のことを責めるな。それは、シャナンにもシグルドにも失礼だ。でも、お前が阿呆なことをしてるってことは、間違いはない……さっきは、悪かった。抑えられなかった……すまん」
「レックス」
それだけ告げると、レックスはアイラに背を向けて、階段を登っていく。
寒さのせいなのか、いつもよりも背を丸めて肩を落としており、その背中は普段のそれよりも小さく見える。
アイラは、彼が階段を登りきる姿を下からじっと見上げた。
レックスの姿が見えなくなってから、そっと自分の体を自分の腕で抱く。
あんな風に、シグルドに抱かれたら。
そんなことを思い描こうとしたけれど、まだレックスから抱きしめられた名残があり、うまく想像が出来ない。
大きな腕、大きな胸板、熱い吐息。
わかっていたけれど。
どんなに気丈に振舞おうと、どんなに剣の腕があがろうと、何をしようと。
自分は女なのだ、とアイラはぼんやりと思い、それから、早朝の寒さに軽く身震いをした。
 
 

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