わたしはだんだん醜くなる-9-

一日の中でシャナンと接していたはずの時間がぽっかりと空き、その分1人でいる時間が増える。
城にとどまっている時ではなく進軍途中であろうとそれは一緒だ。
わかりきっていたことだけれど、ふと気付いて改めて思い知らされたこと。
移動の歩みを止めて休憩をする時や、食事を摂る時。
何かしらの行動が変わった時に、いつも自分はシャナンの姿を探し、あるいは、シャナンが自分の姿を探し、お互いを確認しあって声をかけあっていたのだと再認識をした。
目で追うものがなくなるというのは、こんなに寂しいものなのか、と初めての感情にアイラは苦笑をする。
なるほど、これがよく言う親離れ子離れといったものなのだろう、と。
今頃シャナンはどうしてるだろう、オイフェとうまくやっているだろうか、エーディンの手を煩わせていないか、敵兵に見つかったりしていないだろうか。
空いた時間に心の中に湧き上がってくる心配事。
それはただの心配であり、彼女が何を考えたからといって解消するわけでも、本当のところを知ることが出来るはずもない。
それでも、アイラは都度シャナンへ思いを馳せ、それを振り切ろうと自分に言い聞かせると、次はシグルドのことを思う。
まったく、よくよくの阿呆だと彼女は自分に呆れ果てていた。
だからといって、それらのことをすぐに止めることなぞ出来ない。
(それに、シグルド公子のことを考えるのは、今に始まったことではないし)
だからこそ、悲しい。
それに思い至って、アイラは小さく息を吐いた。
砂漠での休憩は、日影が欲しい。
イード砂漠はオアシスとオアシスの間が相当に離れており、昼の移動は過酷だ。
夜は夜で冷え込むため、それを凌ぐための荷も必要になってしまい、余計に体に負担をかける。
仲間達はかなり体に堪えているようだったが、アイラはイード砂漠越えの経験者だ。
それでなくとも初回はイザークからの逃亡だったから、今ほど備品もなく、頼る相手もいなかった。
だから、いくらか、いや、相当にシグルド軍の中では気持にも余裕があるのだろう。
(余裕があるから、阿呆なことをこんな時でも考えられるのかもしらん……)
アイラは、馬のために日よけの布をかぶせている騎士達を見ながら、わずかな岩陰でじっとしていた。
まるで、他に関心事がないかのように、またも彼女はシグルドのことを考える。
確かに今までも、ひとりになれば彼のことを考えていた。それは、恋という病であればよくあることで、誰もそれを止める事は出来ない。本人ですら。
ただでさえそんな状態なのに、今はまた、ついつい彼女がシグルドのことを思ってしまう理由がもう一つ増えた。
シャナンのことを考え、心配し、そうすれば嫌でもセリスやオイフェのことも共に考える。そして、『公子もまた、わたしと同じように心配しているのだろう』と彼の存在を嫌でも思い出させてしまうのだ。
それを言えば、シャナン達と共にエーディンもイザークに向かったわけだが、子供達への心配とはまた違う。
かくして、一日の隙間隙間にシャナンを思い、そこからまたシグルドのことを思い、砂漠の熱がさらに彼女の頭をぼうっとさせているのか、繰り返し同じことばかりを脳裏に思い浮かべる。
シャナンへの思いはいつも同じ心配事だし、シグルドのことは。
多分、今までもそうだったに違いない。
アイラは無意識で、『一番最後に交わしたやりとり』を思いだし、あの時ああ言えばよかった、だの、あの言葉は正しく伝わっただろうか、だのを考える。
それと共に、自分に向けられた彼の言葉やその時の彼の表情、それらを愛おしむ。
そうだ、彼は、シャナンから別れの決意を聞いた日に、もう一度改めて自分に話しかけてくれたのだ、と思いだす。
 
 
「君がイザークにシャナンと共に行かずにどうするんだ、と思っていた。シャナンを守ると君が誓っていると知っているからね」
耳に柔らかく響く、優しい声。
シグルドのその言葉は、アイラを糾弾するものではない。
アイラは、一見おおらかに見えるシグルドが、実は案外と繊細な男性であるということを既に知っている。
彼は今、意識して優しい声音にしているのだ。
それは、アイラの中にある負い目を見透かしているというわけではなく、アイラだってシャナンと別れることは辛いだろうという思いやりゆえのもの。
通路での立ち話では、誰に聞かれてもいいような受け答えしか出来ない。
が、それが逆にありがたいとアイラは思う。
「ああ、死んだ兄に約束したからな……だが、公子、シャナンは立派だっただろう?あれだけの決断を、わたしに相談せずにシャナンはやり遂げたのだ。もう一人でも立派に生きていける。わたしの務めは終わったのかもしれない」
「しかし……」
「ああ、勘違いしないで欲しい。イザークにはもちろん帰る。この戦いが終わってから」
未だ申し訳なさそうな曖昧な笑みをアイラに向けるシグルド。
それへ言い聞かせるかのように、アイラは力強く言葉を紡ぐ。
「そして、シグルド殿、その時はあなたも一緒だ。ご子息を迎えに行くのだろう?オイフェとの約束を果たせねば」
視線をそらさずにまっすぐシグルドをみつめるのは、彼の口から肯定の言葉を聞きたいからだ。
彼女の視線を真っ向から受け止めたシグルドは、息を止めたように表情を引き締めた。それから、鮮やかな笑顔に緩和する。
先ほどまでとは違う、はっきりとした意志を持つ笑みに、アイラの頬も僅かに綻んだ。
「ああ、そうだな。アイラが一緒なら心強い。そう思えば、オイフェもシャナンが一緒で心強いのは当たり前なのだろう。シャナンには礼を言わなければ。彼らを迎えに行くことを考えれば……余計、君がここに残ってくれたことはありがたい。まだまだ、世話になるよ」
「それを言うならば、わたしの方こそ」
「これからも、よろしく」
そう言ってシグルドは手を差し伸べた。「こちらこそ、よろしく」と告げながら、アイラはその手を握る。
あっさりと手を重ね、あっさりと握り、そして、あっさりと手放して。
きっと、シグルドからすればそう思えるだろう、淡白な握手。
その一瞬一瞬に、いかほどアイラが集中をしているのか、シグルドにはわかるはずがないのだ。
彼の手に触れた瞬間の喜び。
最初に触れた指先が、彼の掌で滑るように差し込まれ、そして、手のひら同士が触れあい、指は彼の甲を広く掴む。
ごつごつした男性の甲を指先に感じ、彼の体温を手のひら全体で感じ、そして。
彼の手によって包まれて力を込められるその一瞬。
握手は手と手の抱擁だ。
そこにまったく性的な意味がなくとも、いくらでもそれらを艶かしく感じ入ることが出来る。
恥ずかしいという思いが湧けば、その思いを彼に悟られたくないという自制が強く働き、僅かな甘い時間を無理矢理淡白に仕立てようとする。
そして、一見どれほどあっさりとした行為であろうと、何度も何度も思い巡らせ脳が反芻すれば、それは濃厚な時間として彼女の中に残るのだ。
 
 
僅かにあった隔たりも、シャナンのおかげで嘘のように消え失せ、自分は以前と同じように公子に接することが出来たのではないか、なんて考えるのは、まったく頭がいかれている、とアイラは苦笑をした。
片思いというものは、情けないほどに無意味な時間を過ごさせる病だ。
アイラ自身自分がそういう状態であることはわかっていたし、漏れなくその時間は愛しくても自己満足にすらならない無意味な時間だと理解もしている。
それでも、やめられない。
ある日気がついたら風邪が治っているように、ふと『そういえば最近公子のことを考えなくなった』と気づくような、それに気付くことで靄が一瞬にして晴れるような、そんな日が来るのだろうか。
そんな、近いような遠いような自分の未来を思い描こうとしても、アイラにはそれが難しくて出来ない。
彼を思わない自分。
それはいつまでこの世に存在して、そして、今後存在するのであろうか。
(その日が来ることが怖くもあり……)
そして、それへ相反する感情は、ここに存在するのだろうか?
怖くもあり、嬉しくもある、のならば、まだ自分は救いようがあったに違いない。
「アイラ、疲れたのかい?」
熱い砂を踏みしめながらブリギッドが近寄ってくる姿に、アイラは顔をあげた。
ブリギッドはアイラの血筋を知っていても、敬称をつけずに気軽に声をかけてくれる珍しい人物だ。
とはいえ、ブリギッドは『おっと、アイラ、様、とお呼びするべきだったんだよね、申し訳ない』とアイラに謝罪をしたことがある。
もちろん、それをいちいち咎めたり、どっちがいいだの悪いだの、アイラにはそれらのことへの興味が特にあるわけでもなかった。
敬称をつけて立場をお互いに知らしめたければ勝手に敬称を付ければよいだろうし、敬称がいらないと思われたからといって、それは軽んじられているわけではないとアイラは思う。
シャナンの立場が立場であっても、皆は気軽に近しい者としてシャナンの名を呼んでくれるのだから、それと同じだと思えば、何の問題もなかったからだ。
「あ、いや、大丈夫だ。わたしより、ブリギッドの方が、慣れていないだろう?」
僅かな日陰をブリギッドのために譲ろうとすると、ブリギッドは手をひらひら振ってしゃがみこんだ。
前かがみになれば頭だけが日陰になるので、それで十分ということだろう。
「まあね、砂漠は、もううんざり。でも、他のみんなよりはずっと、体力勝負の生活してきたからね」
そう言って笑うと、ブリギッドはアイラが被っている布をぱたぱたとつまんではためかせ、わずかな日陰でほんの少しぬるくなった風をアイラの顔に送った。
「そうか、海賊暮らしだったとか言ってたかな?」
「まあね。と言ってるアイラは、ずっとお姫様生活をしていたのに、シャナンを守ってこの砂漠を渡ったんだって?そっちの方が、驚きだよ」
「自分でも驚きだったかな。でも、人間、守らねばならぬものがあれば、どうとでもなるものだと知った」
そういうと、アイラは苦笑を浮かべた。
以前は、ここにシャナンがいた。そして今、彼女にとって守るべき対象は。
「確かにそういうものなのかもね」
「わざわざブリギッドの方から来て、わたしに話しかけるのは、珍しい。そんなにわたしは疲れたように見えたかな?」
「そうじゃないよ。ただ、シャナンのことを考えてたんじゃないかと思ってね」
そういうと、ブリギッドは軽く肩をすくめた。
「わたしも、これでもエーディンのことをちょっと考えてたからね。わたしが考えちまうんだから、ジャムカはもっとだろうし、シグルド公子も、アイラもそうじゃないのかと思って」
「……妹君のことを、心配するのは当然だ。この砂漠越えが大変であれば大変であるほど、砂漠に隔てられた国は遠くに思える。イザークが祖国であるわたしですらそう思うのだから、イザークを知らぬブリギッド達にとっては、もっと心配に違いない」
「そうかもね」
今度は、ブリギッドが苦笑を見せた。
「大丈夫だ。シャナンがついていれば、なんとでもなる。わたしとシャナンが逃げてきた時とイザークの状況は違う。城は完全にグランベルの手の中で、城下町も完全に占拠されているが、地方に行けばかなりの手薄で、グランベル側の兵の補充もままなっていないという。そこへ、我々の討伐やら何やらだ。今のタイミングで地方に身を寄せれば、それなりの生活が出来るだろうと思う」
「うん。アイラがシャナンと別行動をとって、シャナン一人で行かせたってことは、ある意味心強い。アイラがそう判断したってことはさ、アイラが行かなくとも、なんとかなる状況だってことでしょう」
「心配は心配だが、イザークの民は自分達の同胞を決して売らない。金をいくら積まれても」
「……あたしも、自分の仲間がそういう仲間だって信じて、でも、裏切られた。だからといって、アイラの言葉を疑おうとは思わないよ」
「ありがとう」
アイラはそう言うと立ち上がり、日陰の大部分をブリギッドに譲った。
自分は、もうゆっくり休んだから、と。
ブリギッドからの感謝の言葉を背に、アイラはゆっくりと砂を踏みしめながら歩き出した。
本当は、ブリギッドはもっと話したいことがあったのかもしれない。
が、それを続けることはどうも難しくアイラには感じられた。
ブリギッドとは話しやすい。けれど、それとこれは別だ。
今、もしもこれ以上話せば、アイラはいたたまれなくなって己を責めてしまうに違いないのだ。
それから、逃げた。
(シャナンを一人で行かせても良いとわたしが判断をしたということは……か)
ブリギッドの言葉は確かに理解出来る。
理解出来ないのは自分自身。
一体あの選択の中で、どこまでが正しい選択で、どこまでがシグルドを思う女にとっての都合の良さで選ばれたものなのか。
それを判断出来る者なぞ、この世には誰もいないのだろう。
自分の心は自分が一番近くで見れるのに、それを正しく認識することは難しい。
だからといって、わからないからしょうがないよね、と明るく自分をねじ伏せるわけにいかないのだ。
一度考え出せば、終わりがないとわかりつつ考え続けてしまう、迷路のような思考に囚われる。
それから逃げようと、じりじりと焼けた砂を足裏で踏みしめるアイラ。
早く、目的地に着きたい、と思う。
こんな、体に過酷な場所では心も弱るし、イード砂漠にいる間はシャナンのことを毎日でも思い出すに違いない。
そのたびに己を糾弾し続けるなぞ、想像しただけでぞっとする。
止められない自虐から逃げようとすることは、悪いことではない。
本当は、その自虐を止めることが出来れば一番良いことなのだろうが。
 
 
思いもよらない訃報が彼らの元に届いたのは、砂漠のオアシスであるフィノーラでのことだった。
砂漠を北上をしようとしていたレンスターの槍騎士部隊が、飛行部隊――トラキアのドラゴンナイト達だろうと推測される――に襲われて全滅したという。
編成人数などの詳細がわからずとも、『レンスター軍には若い女性がいた』という明確な情報は、シグルド達を失意のどん底に陥れるに十分だ。
それはどう考えてもエスリンのことであり、エスリンがいたとなればキュアンがその場にいないはずがないのだ。
キュアン、エスリン、フィンは『本国に戻って状況を説明し、改めて援軍を募ってシグルド達と合流する』と約束をして、シレジアから一足先にレンスターへと帰っていた。
きっと、シグルド達がシレジアを出たことをなんらかの報告で知り、砂漠で合流をしようとしたのだろう。
騎馬隊は砂漠では身動きが取りづらい。
本当は砂漠を越えたところでの合流が望ましかったのだろうが、あまりグランベルに近い位置で待機をすることもレンスター王国にとっては都合が悪かったのだろうし、友の元へと逸ったキュアンの気持ちもわからなくもない。
けれど、何故、とシグルドをはじめとした一同は打ちひしがれた。
もしかしたら間違いの可能性も、という期待は、彼らの中には残念ながら微塵も生まれなかった。
相手がトラキアの竜騎士部隊であるということは誰もを納得させたし、位置から考えてレンスター軍であることも当然に思えたし、なんといってもイード砂漠付近で若い女性を伴う部隊なぞ、シグルド達を除けば他に考えられなかったのだ。
砂漠付近は、砂漠に足を踏み入れる者以外が近寄る場所ではない。
「現地に行くまでは、希望は捨てたくない」
とシグルドは沈痛な面持ちでみなに告げたが、そう言った彼の表情は強張り、彼の言葉はあまりにも空虚なものに誰にも感じられた。
アイラもまた、周囲と同じように『きっと、キュアン王子とエスリン殿のことだろう』という思いから解放をされることはなかった。
シグルドのため、自分達のため、それは誤報であって欲しいと素直に思う。
だからといって、それを明るく『きっと何かの間違いに決まっている』と言えるほど無責任にはなれない。
父バイロン卿を失ったシグルドに、更に過酷な現実が立ちふさがり、彼らの間に漂う空気は重苦しかった。
それでも、フィノーラの長の厚意によって無償でもらった食事をみなは食べなければいけなかったし――砂漠横断で体力をつけなければいけないからだ――夜になれば疲労で体を横たえたし、心の奥底で絶望をしても自分達の一日の時間をつつがなく過ごすしかなかった。
フィノーラから更に南下をすることが怖い。
ここで覚悟を決めて南下して、キュアン達の訃報が本当だと思い知らされることが怖い。
早く真実を知りたい気持ちと相反する思いは誰の心にも生まれ、アイラもまたそれの漏れなかった。
眠りにつくまでの時間は濃厚な葛藤と、今それを考えてもしかたがない、という強い自制がないまぜになる。
フィノーラ城の一室で、毛布にくるまりながらアイラは強く目をつぶった。
耳の奥には、今は聞こえないはずの砂嵐の音がぼうっと蘇る。
あんな砂漠の中で命を失っては、砂が何もかも覆い隠してしまうだろう。
シレジアで命尽きていた天馬騎士の遺体も、運が悪ければあっという間に雪がその体を包み隠し、まるでその大地には何事もなかったかのように、それがもともとの姿のように地面を白く塗り替えていく。
まさか、キュアンが、エスリンが。フィンも、一緒だったのだろうか。
あの優しかった三人が。
シグルドから話を聞いたときの衝撃が形を変え、今度はぬるぬると胸の奥から痛みや息苦しさをアイラに与えようとする。
(……まただ……)
アイラは、瞳を強く閉じた。
キュアンのこと、エスリンのこと、フィンのこと。
砂漠のこと、シレジアのこと。
それらを思っていたはずなのに、必ず最後にはシグルドのことへと転化されてしまい、それが自分自身を苛む。
シャナンをイザークに行かせたことの、どこまでが正しくて、どこまでがエゴゆえのものだったのか。
それと同じく。
キュアンを、エスリンを、フィンの生死について、生きていて欲しいと思うことは。
それは、自分が彼らを好いていたからだろうか。それとも。
(嫌な夢を見そうだ)
それとも、これ以上自分が愛しい男が苦しむ姿を見たくないからなのか。
いかほど、自分は他者を愛して、他者の身を正しく案じているのか。
一体いつからだろうか。
こうやって、何をしようといつも、それが自分のシグルドへの思いゆえのものではないか、と自問するようになってしまったのは。
片恋というものは、こういうものなのだろうか。
ならば、世の人々はなんと浅ましく、多くの人を思いやる振りをしながら唯一の者を慈しんでいるのだろう。
(それとも……わたしが、どこか、おかしいのだろうか)
寝付かれず、アイラは腹を括って一度起き上がった。
砂漠の数少ない井戸でくみ上げられる水や、オアシスとしてその地を成立させている小さな水場などは、相当に貴重なものだ。
それとわかっていても、温かい飲み物が欲しい、とアイラは思った。
眠れないのは、微妙に肌寒い気温のせいもあると考えたからだ。
イード砂漠は東に海岸があっても、俗に海岸砂漠と呼ばれるものではない。
むしろ、近くの山からの風に影響されたものらしい。
アイラはそれらの知識に乏しいため、何故海に比較的近い場所なのに水がないのか、と不思議に思いながら通路を歩いていく。
来たばかりの城では、どこに何があるのかがまったくわからない。
それに、食事は城で誰かが炊き出したわけではなく、オアシスを守る長が指示した女性達が煮炊きして運んでくれたものだ。
城のどこが厨房で、どこに行けば水が手に入るのか、実はわからないまま夜になってしまった。
アイラは、昼の砂漠の暑さからは考えられない、熱が完全に冷めてしまったことによる冷えに体を縮こまらせた。
と、通路の角を曲がると、その先に人影が見えた。
人影は、アイラがその人物を確認するよりも先に、アイラに声をかけてくる。
「アイラ様」
「アレク?」
「どうなさったんですか?こんな時刻に。みんな、寝入ってから結構時間が経っていると思いますが」
「アレクは、夜番か何かで?」
そう尋ねながら、アイラは内心『ああ、どう見ても気楽な恰好なのに、間抜けなことを聞いた』と思いついた。
目の前のアレクは、不測の事態を考えてか帯剣はしているけれど、気楽なシャツ一枚だったし、外で頭に巻いているターバンのような布も取り払っている。
「あー、いやいや、わたくしめはどうも繊細なたちらしく」
そう言ってアレクは軽く肩を竦めて見せた。
それは、彼もまたアイラのようにうまく眠りにつけない、ということなのだろう。
「そうか。わたしは、少し肌寒くて……温かいものを飲みたかったのだが、どこに行けばいいのかわからなくて」
「ああ、じゃあ、ご案内しましょう。さっき、夜番のやつらにフュリーが茶を入れてくれたんで、水の場所とか聞いてますよ」
「助かった!」
心底嬉しい、と手放しでアイラは笑みを浮かべた。
すると、アレクは彼にしては珍しく、眉間に皺を寄せる。
「アレク?」
「……あ、いや、アイラ様の笑顔は素敵だなあと」
「何を言っているんだ、またそんな軽口を。それに、顔と言葉があってないぞ」
「いや、そうじゃなくてですね……そんなに素敵なのに、その笑顔を見たら……あれ、最近、アイラ様が笑ってるところを見てなかったかも、と、ふと思いついてしまったものでして。騎士とは、美しい女性の微笑みを守るのも務め。それを疎かにしていた自分を叱責せねば、と思いまして」
アレクのその言葉の意味が、最初アイラにはよくわからなかった。
一拍の間を置いて、アレクがアイラの気を悪くしないように、とそういう遠まわしの言い方をしたことにようやく気付き
「もともとわたしは、そう、笑うたちではないかもしれないが」
と反論にもならない反論をアレクに投げかける。
「いえ、多分」
アレクは一瞬目を細めてから、苦笑を浮かべた。
「シャナン王子が、オイフェやセリスと過ごす時間が増えて、あまりご一緒ではなかったからかな、と。シャナン王子と一緒にいらっしゃるアイラ様は、よく笑っていらした気がします」
「……そうか、ああ、そうかもしれない。まいったな」
「まいることは、何もないでしょう」
小さく笑い声を漏らすアレク。
が、その表情がいくらか精彩を欠いていることをアイラは気付いている。
そのまま二人黙ったまま通路を歩き、城の厨房近くに出た。
厨房にはほのかな明かりが灯っており、誰かがいることは明白だった。
「フュリー、まだ、起きてたのかい」
先に入ったアレクが、中で食器を片付けていたフュリーに声をかけた。
「ええ。ああ、アイラ様も」
「温かいものを飲みたくて。水はどこだろうか」
「水は、そちらの樽に貯めてありますが、よければわたしがお茶をいれましょうか。アレクさんも?」
「いいのかい?」
「もちろんです」
ちょうど片付けていた食器を、再び棚から出すフュリー。
城の厨房といっても、今まで彼らが訪れたことがある城の中では、もっとも狭い造りになっているようだ。
かまどと食器棚が近くにあるような厨房を見るのは、三人とも初めてのことだった。
フュリーは『この方が手軽なんですけどね』と小さく笑う。
湯沸し用の釜に水を注ぎ、油を燃やして点している灯りから火をわけ、かまどに火をつけるフュリー。
アイラもそれぐらいは出来ないこともないけれど、フュリーの方が手馴れていることは事実だ。
「アレクさん、さっき、シグルド公子の部屋の前を通ったんですけれど」
「うん?」
「灯りが漏れてました。疲れているはずなのに、やっぱり眠れないのでしょうか」
「かもね」
「何か、お持ちしましょうか」
「……いや」
アレクは、少し考えたように間を置いて答えた。
フュリーもアイラも、彼がそう答えた理由を知りたいと思い、彼の次の言葉をじっと待っている。
女性二人の視線に、アレクはどうしたものか、と軽く肩をすくめて見せた。
「キュアン様達のことは、まだ完全には確定してない。確定していないことに気を落す必要はないかもしれないけど……本当にそうだとしたら、それに直面するのには、覚悟がいるだろう」
「それは、そうでしょうけれど」
「起きてるシグルド様を気にして茶の一つでも持っていけば、みんなに心配をかけてはいけない、とあの方は気を張ってしまう」
アレクはそう言いつつも、あまり深刻になりたくないのか、無理に笑って見せた。
とはいえ、彼の眉根は寄せられており、なんとも情けない表情になってしまったのだが。
「確かに……アレクがそうおっしゃるなら、きっと、そうなんでしょうね」
「茶を持っていってやろうってのは、思いやりだ。でも、今はやらなくていいんだと思う。それは、自己満足だ。シグルド様には、自分しか存在しない時間ってのが今はきっと必要なのさ。オイフェもいないことだし、バイロン様もお亡くなりになった今、心労は計り知れない。下手に刺激して、しっかりしなきゃだとか、こんな情けないことでどうする、とかさ……もう、肩肘張るのにも、疲れて当然だと俺は思うんだよね」
そういいながらアレクは椅子に座って、小さく息をついた。
「俺達もさ……ノイッシュやアーダンや。俺達も、シグルド様に何かお声をかけたい気持ちはあるんだよな。でも、何を言っていいのかわからないんだ。無責任に、きっと大丈夫、なんて言いたくないし。気がつけば自分達だって、砂漠南下すれば真実がわかるから、なんて思いながら、その真実を聞くために覚悟を決めようとしてる。だったら、シグルド様なんて尚更だ。何か、声をかけるのにいいセリフでもあるんだったら、いくらでも俺達も声をかけて、あの方の心労を軽くしてさしあげたいんだけどね」
アレク達シアルフィの騎士達が、まっすぐにシグルドに付き従い、どんな時もシグルドのことを思いやってきていることは、アイラもフュリーも、ここにいる仲間達すべてが知っていることだ。
そして、故郷から部下達がずっと自分についてきてくれていることはシグルドにとっては心強くもあり、巻き込んでしまったという自責の念もまたそこには存在する。
アレクが言うには、シグルドはその『自分のせいでノイッシュ達を巻き込んでしまった』という思いも、なかなか拭い去ることが出来ず、ずっとわだかまりになっていたのだという。
シグルドは強い心の持ち主であるが、それと共に優しい男だ。
今もまたきっと、キュアン達が本当に死んでいたら、それは自分のせいではないかと苦しんでいるのに違いない。
けれど、それを救う言葉は誰も持たないし、何を言ってもキュアン達の代わりにはならないのだ。
だからせめて、真実と向かいあうための覚悟を持つために、今はそっとしてあげよう。
今自分達が出来ることはそれだけだ、とアレクは言い、最後に明るい調子で『で、フュリー、茶は?』と急かした。
慌ててフュリーが茶を入れる準備をする。
室内に小さく響く陶器の音を聞きながら、アイラは静かに微笑んだ。
「アレクは、シグルド公子のことを本当に大事な主と思っているのだな。わかっていたつもりだったが、つもり、だったらしい」
「いやいや、そんな。俺だって、シアルフィの騎士ですからね。まさかこんな数奇な運命に自分が立ち会うとは思っちゃいませんでしたが……だからといって、それはシグルド様のせいじゃあないですし、ここに一緒にいるのも俺が自分で選んだんですからね。後悔もしていない。それをシグルド様にお伝えしたいけれど、今はその時じゃない」
「わたしも、後悔はしていない。それは、ずっと公子に伝えてきたことなのだが……それを思い出して、僅かでも公子の心の糧にしてもらえることがあれば、嬉しいのだが」
そのアイラの言葉に、手を休めることなくフュリーも『わたしもです』と、言葉少ない同意をする。
アレクは軽くそれに頷くと
「つっても、きっと今日眠れない夜を過ごしてるのは、公子だけじゃないと思いますよ。フィノーラから南下すりゃ、次はティルテュ様のお父上のレプトール卿と戦わなくちゃいけない。レックス公子だって、お父上をリューベックで倒したからといって、それでお父上がやってきたことが清算されるわけじゃあないですからね……でも、立ち止まるわけにはいかないですから」
「そうだな……ティルテュには酷だが……嫌な言い方ではあるが、キュアン殿達の訃報が本当だったとしたら……少なくとも、直接手をくだしたのがティルテュのお父上ではなくトラキアの竜騎士であることは、わずかな救いかもしれないな」
「ま、裏で糸をひっぱってるのがレプトール卿かもしれないですけどね。それでも、それが判明するまでは、幾分猶予がある」
かちゃり、とフュリーが湯気のあがるティーカップをアイラとアレクの傍に置いた。
どこから仕入れてきたのかわからないけれど、今まで彼らが飲んできたものをあまり変わらぬ茶葉の香りが漂う。
「どうぞ」
「ありがたい。悪いね、フュリー。さっきも夜番に淹れてもらったし」
「いいえ。わたしもちょっと、何かしてないと気がまぎれなくて……さすがにもう寝ようと思いますけど、その前にご一緒にお茶を飲んでくださる方がいて、ありがたいです」
「気が紛れる、か」
アイラがフュリーの言葉を繰り返すと、苦笑を浮かべるフュリー。
「わたしなぞ、みなさんのご心労の足元にも及ばず、ただただ心配しているだけですが……そう思えば、どれほどシグルド公子やみなさんが深く心を傷めていらっしゃるのか、と想像の域を超えなくとも考えてしまいます。わたしに出来ることはこんなことぐらいなので、いくらでも使ってください」
「じゃあ、朝になったら、俺の部屋に茶を一杯差し入れてくれるかい?」
「それは、お断りいたします」
「なんだ、残念!」
ぴしゃりとフュリーにそう言われて嘆くアレク。
その様子にアイラも、フュリーもまた小さく笑った。
みんな、こうやって茶を飲んで、たわいない会話をして、『日常』と各々が思っている時間を少しでも過ごしたいのかもしれない。
アイラはそう思ったけれど、それを口に出すことはなかった。
きっと、それは口に出さずとも、二人もわかっているのだろうと思ったのだ。
 
 
厨房でのささやかなお茶会を終えて、与えられた部屋に戻るアイラ。
毛布に包まって瞳を閉じ、今度こそ眠りにつこうと集中をする。
眠ろうと思えば思うほど、聴覚はなんだか研ぎ澄まされていくような気がする。
まだ鼓膜の奥では、砂漠の砂嵐の音が聞こえるようにも思えたし、一緒に寝なくなってかなりの期間がたっているのにシャナンの寝息が聞こえるような気もする。
自分でもぞりと動いた音なのに、なんだか誰かが寝返りをうっているようにも思え、落ち着かない。
かといって動かないように、動かないように、と思えば妙に意識がはっきりとして、眠りの淵がなかなか近づいてこない。
これが、眠れぬ夜というものか、とアイラは嫌気が差してわざと大きく溜息をついてみた。
けれど、それは何の解消にもなっていない。
(アレクが言う通り……何か公子に声をかけようと思うことも、自己満足だ)
やはり、考えるのはシグルドのこと。
が、今のアイラは、それを『まただ』などと制止をしようとは思わなかった。
アレクの口から語られた『シグルド公子』という存在に思いを馳せることは、彼女にとってはいくらか新鮮で、ちょっとした間違い探しをしているような楽しさもあったからだ。
アイラが知っているシグルドと、アレクが知っているシグルドは、同じであって同じではない。
それと共に、シグルドが求めているものも、個々人によって違って当然だとも思う。
(わたしは、剣としてあの人の力になりたいけれど、本当はそれはアレク達の役目なのだろう。でも、アレク達とは違う、忠誠やら組織やら、そういったものと無関係の、一対一の同等な立場で、わたしの力を求めて欲しい)
それに。
本当にキュアンやエスリンの訃報が真実であれば。
自分達はこれ以上の戦力を得ることなく、レプトール卿と対峙することになるのだろう。
リュベーク城でレックスの父親であるランゴバルト卿と戦うにあたって、聖斧スワンチカがあまりにも厄介であり、ランドバルトの戦闘能力と共にみなに恐れを与えていた。
レプトール卿もトードの直系の聖痕を持つものだけが使える、雷魔法トールハンマーの使い手だ。
威力だけではなく、術者の術硬直を軽減して俊敏に行動出来る効果すらも与える魔道書だという。
それに対峙するのに、心が揺れてどうする。
(リューベックに攻め入る時は、確かにシグルド公子のお父上がお亡くなりになったことで一時公子が精彩を欠いていたが……最終的には、弔い合戦のような形で士気もあがっていた。が、さすがに今回は……)
親しき者の続けての訃報。
セリスやオイフェも傍にはいないこんな時に。
(わたしに……何か、出来ることがあれば……)
何か、ないだろうか?
ぐるぐると考えるけれど、納得の行く答えを得られるまま、眠れぬ夜の時はどんどん過ぎていく。
何を出来るだろうか。
何か声をかけることで役立てないだろうか。
それは、その夜の議題に留まることなく、翌朝朝食時にシグルドを見ては思い、アレクを見かけては思い。
けれども、あれほど近しくしているアレクやノイッシュが、彼らの領分を越える何かが出来るわけでもなく、シグルドを見守る以外何も出来ぬように。
日数をかけて砂漠を南下し、訃報の真実を知っても尚、アイラには、何一つ自分が出来ることを思いつくことが出来なかったのだ。
 
 
 

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モドル