あるはずのないぬくもり



冬は、本当は嫌いだった。
外に出るにも準備が必要で、何をするにも感じる不自由さには、いつでも苛立っていた。
温かい茶を飲んでも体は冷えてゆき、そこに残るのは無力感。
下ろした髪の毛先を押し上げる厚手の毛皮のティペットの温かさと不快感。
風に吹かれて痛む耳、それを防ぐために被る帽子の圧迫感。
冬によって齎されるものは、どれもこれも眉をひそめたくなるものばかり。
泣きたくなるように澄んだ空気は、研ぎ澄まされた切っ先でわたしの肌を、心をいたぶってくる。
少し我侭を女中に言った時に、いつもよりも彼女達の返事が遅いのも、冬の寒さを嫌がるからだ。
それを感じ取れば、余計に用事をいいつけてしまう自分の子供らしさも、冬の『嫌なもの』の一つ。
数え切れないほどの嫌な感情が、とりわけ冬に多く生まれるということを、ある時わたしはふと気付いたものだ。
けれど。
兄様の唇から吐き出される息の白さ。
それから、冷たくなった手を握ってくれる兄様のぬくもり。
それだけは、いつでも変わらず愛しく思えて、わたしの心を捕らえて離さず。
それから。
白銀の世界に入り乱れる、小動物の足跡の可愛らしさと、その生命力。
樹氷から突然落ちる、雪の塊の音。
寒さに負けないように、温めた酒を酌み交わして笑いあう人々の優しさ。
美しすぎる雪の照り返しに、締め付けられる胸の痛み。
あの白い国で知ったたくさんのこと。
それらが、冬に対するかたくなな気持ちを少しだけ緩和させてくれたのだ。
それから。
肌を重ねた後に、一人きりになるベッドの寒さと虚無感。
暖炉の火に全裸を晒した時の、攻撃的な熱さ。
あの人に押し倒されて、深い雪に体をめり込ませた時の安心と恐怖、表裏の感情。
それらのものすら、わたしは嫌いになれなかったのだ。あの、白銀の世界で、天馬達が飛ぶ美しい国で。
 
 
 
「ラケシス様。朝晩、冷えるようになってきましたから、こちらに替えますね」
部屋に湯を持ってきた女中は、中張りが温かな素材の室内履きを床に置きながらそう言った。
「ありがとう。そういえば、カーテンも替えたのね」
「はい。冬用の衣類もご用意しました。不足があればお申し付けください」
「ありがとう」
女中は一礼をすると、部屋を出て行く。
ラケシスは、冬用に取り替えられていたカーテンを静かに開けて、窓硝子にそっと触れた。
確かに硝子は冷たくなっているけれど、日中はまだ寒さをあまり感じない。朝晩の冷え込みだけが、冬の訪れを告げているだけだ。
初めての国の初めての冬。
その体験は、ラケシスにとっては二度目のこと。 
冬になれば見渡す限りの白銀の世界に変貌を遂げる国、シレジアから離れて月日は過ぎ去り。
ついに、レンスターで過ごす初めての冬が、もうすぐやってくるのだ。
あの遠い北の国での冬は、窓に近づくだけで冷気が体から熱を奪いつくし、暖炉の火を絶やした途端に室内は冬に支配をされ、無力な自分達は毛布に包まって小さく震えることしか出来なかった。
雪の中を飛ぶ天馬は美しかったが、それに乗る天馬騎士達の肌は傷み、指先は時に真っ赤にふくれあがり、いつもよりも大きなサイズの手袋をしなければならないことがあることも、ラケシスは知っている。
畏れながら、時に抗いながら。
畏怖と共に人々は厳しい冬を受け入れて、春を待ち望みながらもどこかで惜しみない愛情を、あの白い世界に注いでいるのだと気付くまで、彼女にはいささか時間がかかった。
寒いのは嫌いだし、面倒くさい。
温かさを追求しただけの重たい服は好まないし、かといって温かくて薄手の服というものが相当に高価なものであると、その頃の彼女は既にそれを知っていて。
少しだけ、自分が大人になったのだと実感できたあの国。
(これから何度、あの国の冬を思い出すのだろうか)
どの国の、どの初めての冬が来ても。
ラケシスにとって、あれほど強烈な自然の力を感じる冬は、他には存在しないのかもしれない。
硝子を指でそっとなぞってから、今度は冷たくなった指をそっと頬に押し当てる。
冷たい。
当たり前だ。
けれど、それは体の芯から凍えさせるような冷たさではない。
むしろ、頬が指先の冷たさを感じるよりも、冷たい指先が頬の温かさを感じて、己の生を実感するかのようだ。
と、その時、部屋にノックの音が響いた。
「どなた?」
「ラケシス様。フィンです」
「開いているわ」
「失礼いたします」
女中が出て行ったばかりの扉が開き、フィンが姿を現す。
「今日来るはずだった医師が、急遽明日に予定を変更したということで」
「あら。どうなさったのかしら」
「近場で事故があって、重傷者が出たという話を聞きました。詳しくはわからないのですが、とりあえずの早馬で連絡をくださって」
「わかりました。ありがとう」
若い騎士は穏やかな表情で一礼をする。
「初めてではないのだし、そう焦ることもないわ」
ラケシスは彼に向かって笑みを浮かべると、かなり大きさが目立ってきた腹部にそっと手を当てた。
「今、お湯を持ってきてもらったところなの。よければお茶を、ご一緒に?」
「ありがとうございます。折角ですから、いただきましょうか」
茶は、呼べば女中が持ってくる。
けれども、最近のラケシスは自ら茶を淹れるようになった。
それは、人の手を煩わすことを申し訳なく思ってのことだけではなく、人とあまり接したくない気持ちもあるからだ。
拒んでいるわけではない。ただ、ほんのわずかのことでいちいち、誰かに声をかけなければいけないことが今の彼女にとっては面倒で、そちらの方が煩わしく感じてしまう。だから、お互いにとって最良と思われることを彼女は提案をした。
何種類かの茶葉を部屋のチェストの上に用意をしてもらい、その日の気分で、飲む直前に決める。
その方が、女中を呼びつけて茶を淹れて貰うより、贅沢なことではないかと彼女は思うようになったし、実際に始めてみれば、何の不都合も己にないことにも気付かされた。
テーブル上で湯気のあがるティーカップを挟んで、フィンとラケシスは向かい合って座る。
「お腹の中で、冬を共に越すようですね」
「そうね」
「名前は、まだ決めてないのでしょう?」
「ええ。考える時間は、まだあるしね」
「ご長男は、ベオウルフさんが名づけたのでしたっけ」
「ええ、デルムッドよ」
「良い名前ですね」
「そうね。とても良い名前だとわたしも思うわ」
静かな会話。
愛しい男の死や仲間の死を忘れるには、まだ早すぎる。
そんなこともあったな、と昔話のように語るには、彼らにはまだ時間が足りない。
けれど、何を言っても泣き崩れ、何を聞いても耐えられない時期は既に過ぎている。
共通の痛みを抱えた彼らは、言葉以上の意味や、言葉から辿ってしまいそうになる過去から目を背ける。
常に『言葉通り』の会話だけを続けることが精一杯だ。
一種の偽善にとてもよく似ているし、一種の社交辞令とも人はいうのかもしれない。
だからといって、彼らはそれを変えるつもりはない。他に何のしようもないのだから。
解決をするために必要なものが時間ならば、今はそれで良い。
その時間が必ずお互いに与えられると信じるほど、彼らは自分達のおかれた立場を楽観視していない。
だから今、彼らはお互いの折り合いがつく、道化にも近いその会話が最良であると選んだのだ。
「二人目なら、どんな名前をつけるのかと考えても」
そっとティーカップに口をつけて、ラケシスは間を置いた。
温かい茶を僅かに口を含むと、カップをソーサーに戻しながら、フィンに小さく笑いかける。
「わたし、あの人のことを全然知らないから困っているの。占い師は女の子だって言っているから、まずは女の子の名前を考えないと」
「候補はもう?」
「いいえ、まだ全然。女の子だったら、可愛らしい名前が良いのよ。わたしの名前は、立派過ぎて可愛げがないって言ってたわ。女の子は、ちょっとぐらい普通すぎるって言われるぐらいの名前がいいって……」
「そんな……」
「ああ、いいのよ。それに、可愛げはないけれど、良い名前だって言ってくれたの。あの人」
フィンは唇を引き結んで、しばらくラケシスをじっと見つめていた。
それは、なんと返事をして良いかわからなかったからではない。
ラケシスが、既にこの世にはいない『あの人』――ベオウルフ――からのそんな言葉に目くじらを立てず、本当に許したのかを測ろうとしていたからだ。
けれども、フィンはそれを判断することなぞ決して出来ない。
何故なら彼は、ラケシスとベオウルフが親しくなり、彼女が赤子を授かるに至った経緯をまったく知らないし、ベオウルフという男のことも、そう多く知っているわけではない。
ただ彼が知っているのは、ベオウルフは傭兵であり、ラケシスを守って死んだということ。
ラケシスの子供の父親であり、そうであることをラケシスから認められており、長男に名を授けたということ。
そして、彼らの関係を知る者達から『よくわからない』と思われていたらしいという、たったそれだけ。
ラケシスがどうベオウルフを思っていたのか、ベオウルフがどうラケシスを思っていたのか、それを彼は自身の目で見ることは叶わなかった。
だから、彼は多くを言えないし言わない。けれど、ラケシスはそれを気にすることなく、ベオウルフの話を時々こうやって口にする。
もしかしたら、自分が『ベオウルフをあまり知らない』からこそ口に出来るのかも。
フィンはそう考えたことがあったけれど、敢えてラケシスにそれを尋ねる気にはならなかった。
少なくとも彼には、目の前にいるラケシスは、己が身ごもった二人目の子供に愛情を注いでいるように見えたし、であれば、それ以外のことなぞ根掘り葉掘り聞いても、意味がないとすら思える。
「柔らかい発音の名前が、いいんですって。どんな名前のことを言うのかしらね……」
そう言いながら、ラケシスは自分の腹部をぐるりと優しく撫でる。
その様子を見つめながら、フィンもまた『柔らかい名前とは、どういう名前だろう』と思ったけれど、何一つ考え付かなかった。
 
 
 
真夜中に目覚めたラケシスは、いくらか肩が冷えていることに気付いた。
子を身ごもってから、寝ている時もいくらか緊張をしているようで、眠りについて数時間で突然目覚めることが増えた。今日は特に目が冴えてしまい、眠れるような気がしない。
腹部のことを気にしすぎているのだろうと医者に言われたが、だからといって意識をするなと言われても、そう簡単に出来ることではない。
温かな飲み物を飲んで体を温めた後、体温が下がるときに眠くなるのだと聞いたことがある。
ラケシスは冬用の室内履きにそっと足をいれ、ふかふかの中敷の温かさに自然に漏れる安堵の息。
室内はそこまで冷えてはいないけれど、真夜中から早朝にかけての通路は既に冬の気温になっていることを彼女は知っている。
温かなポンチョに首を通し、手櫛で軽く髪を整えると、彼女は湯を貰うために部屋を出た。
女中達が夜も控えている部屋を覗くと、三人の女中が茶を淹れているところだった。
自分達の分ではなく他者の分であることは、テーブルの上に並んだ茶器の数とトレイの様子でわかる。
「忙しいところ悪いのだけれど、お湯は余分にあるかしら?」
「あっ、ラケシス様!寒い中、わざわざ足を運んでいただいて……およびいただければすぐに行きますのに」
「いいのよ。夜中にうるさくすることもないでしょう。お湯いただける?」
「はい、あります。どれほどご入用でしょうか」
「これに入れてちょうだい」
部屋用のポットを渡すと、ラケシスは軽く自分の腹部に手を当てた。ポンチョは下腹部までは覆っていない。冷えすぎていないだろうか、と彼女は優しく腹を撫でる。腹の中の赤子は気温を感じるのだろうか、とぼんやりと考えた。
そうしている間に女中は、くつくつと沸騰音をたてている釜から柄杓で湯をすくって、ポットに丁寧に注ぐ。
ラケシスは、テーブルに用意されていた茶器に視線をやった。
「こちらの茶は?見張りの兵士に?」
「あ、はい。今から持っていくところです」
見張り台の数は、ここで夜中に控えている女中の数よりも多い。そのことをラケシスは知っている。
どこかの見張り台は届けるのが遅くなって、茶が冷めてしまうのだろうと予想することは、容易な事だ。
「では、わたしがそれをひとつ運ぶわ。東の見張り台ならば、部屋に戻る途中で少し寄り道をすれば良いだけだし」
「いえ、ラケシス様にそのようなことをさせるわけには」
湯をポットに詰め終わった女中は、ラケシスの言葉に驚き、ポットを持ったまま困惑の表情でラケシスを見るだけだ。
それに気付いたラケシスは、軽く『ありがとう』と言ってポットを受け取り、茶の入った茶器が乗っているトレイの上に置いた。
「エスリン様なら、きっとご自分でさっさと持っていったんじゃないかと、わたしは思うのだけれど」
言ってはいけない、と思いつつ、ラケシスはさらりと、今は亡きエスリンの名を出した。
女中達は一瞬言葉を失い、眉間に皺を寄せたけれど、ラケシスの言葉を非難する者なぞいようはずがない。
「もちろん、わたしはエスリン様のようにレンスターの人間というわけではないけれど、同じほどの位を持つ者。自分が暮らす場所を守ってくれる兵士達に、茶を運ぶことがそんなに下賎なことかしら?」
「いえ……いえ……」
ラケシスはそれ以上は言わず、勝手にトレイを持ち上げた。
そのまま部屋を出ようとした彼女の背に、女中が声をかける。
「ラケシス様」
「なあに?」
「ありがとうございます」
振り向いたラケシスは、その女中の目に涙が滲んでいる様子に気付く。
ラケシスの言葉は失言だったか。
いや、そうではない。
エスリンの名を出されてその女中は泣いたのではない。
レンスターに身を寄せているこの高貴な女性が、エスリンという女性の人となりを正しく理解をして、今も心の中で彼女を思い起こしてくれたのだということに、女中は感極まったのだ。
もちろん、ラケシス本人はそこまでのことは理解していなかったけれど。
 
 
 
キュアン王子とその妻エスリン、そして、彼らと共に北に向かおうとしていた騎士団が壊滅をしたことは、レンスターにとっても大打撃だった。その上、アルテナ姫は行方不明で、生存も怪しい。
レンスター王はすっかりと気落ちをしていたし、国としての勢いも今は失われ、グランベルからの糾弾も激しい現状はなかなか簡単に打破出来るものではない。
そんな状態だというのに、フィンやレンスター王だけではなく、城務めの人々も快くラケシスを住まわせてくれていることは、感謝しなければいけない。
いくら己がノディオンの姫であろうが、そんなことは関係がないのだとラケシスはわかっている。
シレジアで、ラーナ王妃がそうだったように、レンスターの人々もまた。
ラケシスは、囲ってもらって当たり前、自分のために人々が動くのが当たり前……そのようにしか考えられなかった幼い自分とは、当の昔に決別をしている。彼女は成熟に少しずつ向かって一歩一歩進み続けており、そんな自分のことを彼女自身もよくわかっているのだ。
だから、こうやって、知りもしない兵士に茶を持っていくことぐらいはなんともないし、本当にことのついで、と素直に思える。
通路の冷えは冬の気温と言えどシレジアと比較できるほどのものでもなく、底冷えを感じるほどではない。
しかし、見張り台は屋内と違って遠くを見るためにむき出しになっている。
少しでも早く、湯が冷めないうちにもって行かなければ、兵士達もがっかりすることだろう。
ラケシスは、複数人分の茶器を運んだことなぞほとんどなかったが、彼女なりに注意をしつつ足早に見張り台に向かった。
冷めないようにとポットにはティーコゼがかぶせられていたし、ティーカップにはそれぞれ蓋がついている形のものだ。
なるほど、この配慮は良いな、とラケシスは心の中で呟いた。
(そういえば)
ふと、思い出すのはシレジアのこと。
(あの時も、みんな交代で見張りにたっていたはずだったけれど……女性はいいから、とシグルド公子がおっしゃっていて)
それに甘えて、自分はまったく見張り台に近寄ることもなかった、とラケシスは思う。
そもそも、自分が見張り台に立つという状況すら、これっぽっちも彼女は考えたことがない。
誰かがやって当たり前。それが仕事の者がいるのは当然。
人はそれぞれの役割があるのだから。
では、自分の役割は?
それが何であるかを知らぬまま、ノディオンの姫であるという血統だけに惑わされながら、人々を見下していたことを彼女はわかっている。
そして、彼女がそうであるからこそ、ベオウルフもまた、最初は彼女を見下していたのだろう。
彼は最初から、ラケシスが何も役に立たない小娘であると思っていたに違いない。
己の役割がまるで霞のようなもので、国という後ろ盾を失っては何の説得力もないものだと考えることは、ラケシスには出来なかった。
けれど、ベオウルフは何もかも突きつけてきて、エルトシャンの死や彼女の未熟といった、目を背けたいことを彼女に見せつけ、まるでまばたきすら許さぬように彼女を煽った。
今思い出しても、あれはやりすぎだろう、と彼女は思うけれど、彼がいなければきっと、自分は今でも誰かの力にすがりつき――それを、すがりついているのだという自覚すらなく――声高に己の権利だけを主張する子供のままだったのかもしれない。
(どうしようもない出会いだった)
ラケシスは、エルトシャンの知人であると言っていたベオウルフが、金のためならば何でもする傭兵だと知り、失望をした。
そのぎくしゃくとした関係は、エルトシャンの死によって更におかしなものに変わってしまい、いつの日にか、どうにも解くことの出来ない糸のように絡み合い、不思議な関係を作り上げる。
どうして、こうなってしまったのか。
後悔はないけれど、それを思い出せば彼女は苦笑を浮かべるしかない。
第一。
ノディオンの姫である自分が、一介の傭兵ごとき。
いや、彼がどんな職業なのかなぞ、二の次だ。
己の元に引き止めることが出来ない男に、体を委ねて、子供をもうけて。
 
『お前は、わたしの前から消えないで。それが誓えないなら、もう、わたしの傍にこないで』
 
『駄目だ。責任とれないことは、誓えない。いくらいい加減な男でもな』
 
『誓えないけれど、もう少しあんたの傍にいてもいいか?』
 
彼と関わったことに何一つ後悔はない。ただ、自分は馬鹿なのだろうとラケシスは認めざるを得ない。
そして悲しいことに、それはベオウルフが何度も重ね重ね彼女に言い続けてきたことなのだ。
 
『馬鹿な女だ……それでも、女はちっとは馬鹿な方がいいに決まってる』
 
「本当に、馬鹿ね。あの人のことを思い出すなんて」
シレジアのことを僅かに思い出しただけで、ずるりと引きずり出されるのはベオウルフのこと。
そんな自分の女々しさは好きではない。
思い出せば思い出すほど、彼の一言一言が自分の中に深く刻み込まれていることに愕然とするからだ。
(ここに来てまで、あの人はわたしを嘲笑うつもりかしら。なんだ、随分、あれこれと覚えているんじゃないか?って)
お姫様は、物覚えが良すぎるようだ、なんて皮肉すら聞こえそうだ。
「よいしょっ……と……」
ラケシスは見張り台に出る扉を慎重に開けると、寒い中空元気の声がわずかに聞こえる。
外気とそこに響く彼らの声は、ラケシスを現実に引き戻すのに十分効果的だった。
「そういや、嫁さん出産とかいってなかったか」
「ああ、そうそう。もうそろそろだよ」
「生まれる日に休みをもらえるといいな」
「いやあ、別にいいさ。今、実家に戻ってるんだ。城勤務じゃ、あいつに何かがあったときでもすぐに駆けつけられるかわからないしよ。だったら義母さんが朝から晩まで一緒にいてくれるほうがこっちも安心するしな」
外に出たラケシスは、トレイの茶器を斜めにしないようにと、慎重に扉を閉める。
そこから少しバルコニーを進んだ先に更に飛び出している見張り台。
兵士達は彼女が来たことなぞ気付かないように、べらべらと話を続けていた。
「なんだ、じゃ、帰っても嫁さんいねぇのか。飯は?」
「何いってんだ、俺は一人暮らしが長いんだ。飯ぐらいはなんとでもなる。でもなぁ、今から寒くなるってのに、一人寝はなぁ」
「バッカ、俺なんて年がら年中一人寝だ」
「一人じゃ、一度夜中に小便に起きたら、あっという間にベッドは冷たくなっちま……あっ、これは、ラケシス様」
「こんばんは。見張りご苦労様」
兵士達はラケシスに気付くと慌てて姿勢を正し、見張り台から出てくる。
「これ」
「あっ、わざわざお持ちくださったのですか。ありがとうございます」
「冷めないうちに飲んで頂戴」
ラケシスはそういうと、兵士にトレイを渡す。
トレイの上から自分が持ってきたポットを手に取り、ポンチョの中に抱えるとすぐさま背を向けて戻っていく。
背後で兵士達は『ありがとうございます、お部屋までお気をつけて』と声をかけてきたので、ちらりと肩越しに振り返って頭を下げた。
 
 
通路を歩くラケシスの足は、少しずつ速度をあげ、ついには小走りになった。
腹部を気遣って、小走りだろうが走ることなぞ、ついぞなかったことだ。
寒さゆえではない。
彼女は自身の脳内をぐるぐると回る、ベオウルフとの思い出に追い立てられていた。
シレジアの寒い冬の夜。
彼と肌を重ねても、彼が隣で眠ることを許さなかったのは、ラケシスの方だ。
彼は、それを何故とは問わなかった。
そんな関係ではないから、という言葉は無力。
唇をついばんで、体に口付けを落として、お互いの体温を感じあって、熱を与え合って。
その間柄を『そんな関係ではない』といえば、では、どんな関係なのだ、と言われてもおかしくない。
ただ、ラケシスは、それを許してはいけない、とひたすらに思い続けており、ベオウルフは彼女のその意思を尊重した。
しかし、そんな彼らにも『その時』は何度か訪れていたのだ。
第一子であるデルムッドを身ごもってから、たった三回だけ。
その数は、一夜一夜を鮮明に覚えていてもおかしくないほど、あまりにも少ない。
 
『今日は、あんたの隣で寝ることを、許してくれないか』
 
突然のベオウルフの言葉の意味がわからず、ラケシスは怯えた。
怯えつつも、それを出来る限り見せないように気丈に振舞って
 
『何故、今更そんなことを言うの』
 
と答えれば、ベオウルフはにやりと口端を吊り上げ、『いつもの薄笑い』を見せる。
 
『あんたと俺は、朝まで共に過ごすような、そんな関係じゃない。わかってる』
 
突きつけられたその言葉は、お互いの認識が一致していることの確認。
ラケシスは何も言わずに彼を見つめた。ではどうして、と聞きたくても、うまく口から声が出なかったのだ。
ベオウルフは無言のラケシスに近づいて、慣れたように彼女の髪に触れた。
瞬きもせずに立ちつくすラケシスの髪に指をさしこみ、梳くように軽く動かすと彼は手を引いた。
それから、わざとらしく肩を竦めて
 
『でも、あんたが身ごもってる子供の片親が俺だって言う事実は変えようがない。だから、一度くらいは』
 
意味がわからない、と思った。
けれど、ラケシスはそれを受け入れた。
共に朝を迎えることにした、初めての夜。
ベッドの上で彼女を抱き寄せるベオウルフの腕の中で、彼女は唇を噛み締めて泣き出した。
 
怖いの。
怖いのよ、ベオウルフ。
 
その言葉の意味を、彼はわかっていたに違いない。
彼はそれ以降も、余程のことがなければ彼女と朝を共にすることはなかった。
二度目の夜は、デルムッドをまだ身ごもっている間。
出産に対してナーバスになっている彼女のもとへ彼はやってきて、彼女からの八つ当たりを散々受けた後
 
『部屋に帰りたくない気分なんだ』
 
と告げ、無理矢理彼女のベッドにあがりこんだのが、二回目。
三回目は、デルムッドを出産して少し経ってからのこと。
ラケシスの体がなかなか出産前の状態に戻らず、乳母と共にデルムッドの世話をするも、それすらうまくいかなかった憂鬱な時期。
情緒が安定しなかったその頃、彼女はベオウルフの訪問を拒み続けていた。そんな時に彼に会えば、更に苛立ちがつのると思ったからだ。
そこへ、敢えてベオウルフはやってきて、無理矢理彼女をねじ伏せて抱き、朝まで共にベッドの中にいた。
まだままならぬ体になんということを、とラケシスは怒り狂ったけれど、泣きながら罵る彼女に
 
『調子が戻れば、またあんたを抱いていいってことか、それは』
 
とあっさりと言って更に怒らせたものだ。
けれども悔しいことに、太い腕で引き寄せられ、『今は大丈夫だ』と囁かれながらその温もりに包まれれば、深い眠りに誘われて。
目覚めた時に、あまりの心地よさに感嘆の溜息をつくほどに、その夜の眠りの質がよかったことを彼女は覚えている。
そして、それが。
彼女が彼を拒んでいた理由でもあり、彼が彼女の隣に強引に来なかった理由でもあるのだ。
ラケシスは、容易に数えられてしまう、その三度の夜のことを思うと悲しくなる。
それは、ベオウルフが無理強いをしたからではない。
彼は本当は、その三度ですら、彼女の意思をねじ伏せたくなかったのだ。
けれども、彼が彼女の元に来て、その体を彼女に与えたのは、どれも彼女のためであってベオウルフのためではない。たとえ、二度目の夜の彼の言い訳が真実だったとしても。
それに気付かぬほどラケシスはいつまでも愚かではなかったし、彼女が口に出さないだけでわかっているということを、きっとベオウルフだって知っていたに違いない。
彼は、彼女の傍らを離れない約束はしていなかったし、彼女がそれを承知していることも知っていた。
あのままバーハラの悲劇が起こらず、ラケシスがノディオンに戻ることになったとしたら。
アグストリアとの国境――今はそれすら曖昧に思えるが――まで彼女を送るぐらいが、彼の最大の譲歩だとラケシスは考えていた。
そうしたら、その先は。
ベオウルフがどこへ行くのか、何を為すのかを、ラケシスは知らないし、きっと彼もまた答えなかっただろう。
ただわかっていることは、二人の道はそこで大きく離れ、再び交わることがあるのかどうかすら、ベオウルフは約束をしなかったに違いない。
だから。
だから彼は、彼女の冬の夜に、朝に、彼のぬくもりを残さぬように。
彼女もまた、そのぬくもりを己が求めることを恐れて。
 
 
ラケシスは部屋に戻ると、折角持ってきた湯の入ったポットをテーブルに置いたまま、ベッドの前に立ち尽くした。
小走りだったつもりなのに、気付けば息が軽くあがっている。
それを整えて、深呼吸を一つ。
ポンチョを着たままで、ちょっと前まで自分が眠っていたベッドに手を伸ばした。
シーツは、既に冷たくなっている。
(今から寒くなるってのに、一人寝は……か)
先ほど見張り台にいた兵士達の会話を思い出す。
一人で寝ていれば、夜中に起きてベッドを少し離れるだけで、ぬくもりはあっという間に失われる。
そこに、あの人がいてくれれば。
「大丈夫」
ラケシスはそう呟くと、膝を折って床にしゃがみこみ、ベッドに両腕を乗せて顔をつっぷした。
ひんやりとした感触。
床に溜まっている冷気。
あまり腹部を冷やしたくないと思いつつも、彼女はそのまましばらく瞳を閉じる。
「大丈夫なのよ。ここにぬくもりがないことなんて、当たり前なんですもの。わたし、あの兵士のように寂しくなんてないわ」
静かに伏せられたまつげの間に、見る見るうちに溢れてくる涙。
ラケシスはそれの熱さに驚き、瞳を開けながら指先でそれをぬぐった。
冷えたはずの指先をほんの一瞬温める、己の体温を持った液体。
何度ぬぐっても後から後から溢れ出すそれは、紛れもなく彼女の胸に秘められた想いの化身だ。
シーツに頬を擦り付ければ、先ほどまでひんやりとしていたその布は、あっという間にラケシスの体温が移ってしまう。
それに気付いたラケシスは、泣きながら床に膝をついたままで、まだ冷たい場所へ、まだ冷たい場所へと体を斜めに動かした。
とめどなく流れる涙は点々とシーツに跡を残し、彼女のぬくもりが通過した場所だと主張をしている。
これから、幾度の冬を過ごし、幾度の夜、冷たいベッドの中で。
あの男を思い出すのだろうかと考えれば、それはあまりに途方もないことで、ラケシスは眉根を寄せた。
「お前は本当に、ひどい男ね」
このシーツの冷たさ。
ここに誰もいないこと。
ラケシスは、それらを寂しく思わない。それは、今までと何一つ変わらぬことだから。
けれど、彼女は最早、あの白い国にいた頃よりも大人になり、彼の人を思う心は静かに満ちようとしている。
それゆえに、本当は辿り着いてはいけない正しい場所に、彼女の心は辿り着いてしまったのだ。
どんなに人肌の恋しい寒い夜であっても、出来る限り朝を共に迎えないこと。
それが、彼の優しさだったなんて、気付かなければよかったのだ。
それらは、彼の思惑や彼女の思惑を無視して、物事ぐるりと一周回って、結局。
結局、ラケシスに彼を思い出せて、彼女の心を大きく揺さぶって。
「寂しくなんて、ないのよ、わたし。お前がいなくたって、大丈夫なのよ」
彼の優しさに気付いた今、ラケシスは自分を苛む。
涙が零れるのは、彼がここにいないからではない。
彼の愛情に自分が溺れ、彼に己の愛情を注ぐことが出来なかったことを、今ならば痛いほどにわかる。
彼への同情ではない。第一、彼はそんな同情を欲する男ではなかった。
あの冬の日々に、ラケシスは既にそれらを全て自覚していた。口に出さなくとも、彼女の心の奥底には、本当はずっとそれらの感情は生まれていたのだ。
そうでなければ、あんな風に朝を共に迎えることだって、二人目を身ごもるための行為だって出来るはずはなかった。
別れが来ることなぞ、最初からわかっていた。だから、それに心が折れぬように、失っても生きていけるように、彼も、彼女も。
けれども、それを後悔する日が、こんなに早く訪れることを彼女は想像もしなかったのだ。
ラケシスは、シーツを強く握ると泣きながらのけぞった。
軌跡を変えた涙は彼女の耳を濡らし、それでは足りぬように髪を濡らす。
ポンチョから伸びた無防備な白い喉が、嗚咽と共にびくりと動いた。
「なのに、どれほどお前は、わたしに思い出させるの」
誰もいるはずのない、ベッド。
そこに彼がいないことは、ずっと彼女の日常だった。だから、今更寂しいとは思わない。
けれども。
「お前がいなくても大丈夫だなんて。どうして、わたしをそんな女にしたの、ベオウルフ」
ついに彼の人の名を口から出せば、そこに残るものは。
「お前が隣にいなくても寂しくないなんて、なんて寂しいことなの」
ラケシスは軽くしゃくりあげながら、シーツから手を離すとゆらりと立ち上がった。
乱暴にポンチョを床に脱ぎ捨てベッドにあがり、涙の跡がない部分に体を横たえる。
毛布を引き上げ、ラケシスは体を丸めて腹部に触れた。
仰向けで寝たほうが良いと何度も医師に言われていたけれど、こんな夜にはそれが出来ない。
寒さから、寂しさから自分を守るように、まるで赤子のように膝を抱える。
ラケシスは毛布にくるまって瞳を閉じ、まだ頬に残る涙をぐいと拭った。
彼女を強く揺さぶる、激しい嵐はようやく去りつつあった。
(冬は嫌い。だって)
この先何度でも己のいたらなさを悔い、ベッドの冷たさはまるで呪縛のように彼のことを思い出させるだろうから。
泣きすぎて痛むこめかみを不快に思いつつも、引き潮のように彼女の感情の波は引いていく。
自分の体温で自分を温めながら、眠りに入る手前でラケシスはぼんやりと思った。
あの人が優しい発音で呼んでくれるだろう名前を、考えなくては、と。



Fin



モドル