恋人宣言-4-

結局その日は、フィンが心配した「シアルフィ城は手薄」という状況に何の問題もなく、平穏な時間が過ぎた。
本当のところ、彼らの一日一日に「平穏」などというものはそもそもない。日々、必ず戦の準備やら会議やらが開かれていて、それらに参加する人間にとって、平穏な一日なぞ存在しないのだ。
ありがたいことに、かどうかはわからないが、まだアレスがそういった場に呼ばれるほどの進展を、今のところは見せていない。
あと一日二日と経てば戦略に添った具体的な戦術も練られ、アレスを交えた本格的な打ち合わせが始まるのだろうが、少なくとも今日の時点ではそれはなかった。
その日、ファバルとリーンが戻ってきたのは、夕食もとうに終わっている時刻だった。
早朝番だったアレスは夕刻あたりの見張りを勤め、まったく普通に夕食を摂っていたので、その時刻は仮眠にあてるわけでもなくのんびりとしていた。
たまたま手洗いで用を足し終えて歩いていると、誰かが城内に戻ってきた音が彼の耳に届いた。
(ようやく、帰ってきたか)
それがファバルとリーンが帰ってきた音だとアレスは疑わない。
特に何かに急いている音が聞こえるわけでもないから、つつがなく帰ってきたのだろう。ならば問題はない、とアレスは思った。
気にせずに自室に戻ろうとそのまま歩いていたが、何を思ったかふと彼は歩みを止めて振り返った。
普段ならば、いくらリーンが外出から戻ってきたとはいえ、いちいち顔を見るために迎えに出ることはない。
けれども、今日は違う。今日は「普段」の外出ではない。
ファバルとリーン二人の問題に立ち入ろうという思いは彼にはまったくなかった。だが、戻ってきたリーンの様子を見れば、どれだけ彼女がファバルに大切にされているのかを知ることが出来るのではないか。そんな思いが突然胸の奥でふっと湧き出て、彼自身の足を引き止めた。
彼は彼で、無理強いをしてファバルについていったリーンのことが多少は心配だったのだ。
城の入り口に早足で向かうと、まだ扉を開けた状態で二人は夜露に濡れた外套をぱさぱさと振っている。
アレスが階段上から様子を覗いたのと、ファバルが扉を閉めたのはほぼ同時だ。
「あ、アレス。今戻ったよ」
階上にいるアレスに気付いて、リーンは先に声をかける。
「お疲れ。夕飯はどうした」
「食べてきたの。一緒に行った商人さんがご馳走してくれて」
「それはよかった。ファバルもお疲れ」
「ああ。ありがとう。昨日は、早朝番申し訳なかった」
「いい。たまには誰かに貸しを作るのも悪くない」
そういってアレスが笑うと、ファバルは苦笑を見せた。
戻ってきたリーンの表情には疲れが見えるが、どうやら悪い一日ではなかったようだ。
彼女がアレスに何かを隠そうと、努めてそう振る舞っているとしたら、きっとアレスはそれに気づく。彼女はとっくにそうであることを知っている。余計な時だけ気が回る人ね、と過去に何度もリーンはアレスに言ったことがあるくらいだ。
もしも、今そういう会話をすれば、アレスは「俺だけじゃない。きっとフィンもそうだ」と言うに違いない。だからといって、自分とフィンが似たもの同士だなんてこれっぽっちもアレスは思っていないが。
根掘り葉掘り話を聞くつもりはない。ただ、リーンにとって辛い一日でなかったならばそれでよい。
アレスはそう思い、二人に「じゃあ」と一声かけてから、再び自室に戻ろうと歩きだした。
と、階段を離れて通路の途中まで歩いたアレスの前に、反対の角から曲がってナンナが現れた。
「ナンナ」
「あっ、アレス。ね、リーン達、戻ってきたんでしょう」
アレスのもとへ近寄りながら、ナンナはそう尋ねる。
ああ、なるほど。
なんだかんだ言ってもナンナはナンナで、あんな形でリーンがファバルについていったことを心配していたのだ。
解放軍の面々のうち、ファバルが「リーンをおいて」今日ユングヴィに向かうつもりだったことを知る者は少ない。
そしてまた、あんな形でリーンがついていったことを知るのは、アレス達三人だけだ。
早朝番の他の組は、初めからリーンがファバルについていくのだと思っていたようだし。
「ああ、戻ってきた。大丈夫だ。笑う元気はあるようだったからな」
「そう……無理、してない?」
「疲れているだろうから、無理といえば無理だが。大丈夫だろう」
「アレスがそう言うなら安心ね。そう。じゃ、部屋に戻るわ」
ナンナはそう言うと、リーンの様子を見にいくことをやめたようだ。それへアレスは肩をすくめて
「俺のことを、そんな風に高く評価してくれるとは」
「だって、アレスとリーンは……仲良し、なんでしょう」
「仲良し」
ナンナが発したその言葉に、アレスは唖然とした。
まさか、自分とリーンとの関係をそんな言葉で表現されるとは、彼は到底思いつかなかったのだ。
ナンナの方は、自分が的外れなことを言ってしまったのかと慌て、頬をわずかに赤く染める。
「なあに。おかしい?仲良しじゃ、ないの?」
「……ああ……確かに、仲は、いいな」
「じゃあ、間違ってないわよね」
「……お前は、俺と仲が良いか?」
「え?何?……わたしは、勝手に、アレスとは……仲が良いんじゃないかって思ってるけど」
ナンナは、突然矛先が自分に向いたことに戸惑い、ぎこちなくそう答えた。
「じゃあ、俺とナンナは、その、仲良しとやらか」
「……」
そう言われたナンナは眉根を寄せ、けれど、ますます頬を紅潮させて唇を噛みしめた。
「違うのか」
「仲良しね、って無邪気に言えばいいの?わたしはアレスと仲良しよ。わたし、デルムッド兄さんとも仲良しだと、勝手に思っているわよ」
「リーフ王子とも、フィンともな」
仲良しとは、少しばかり照れ臭く、けれども便利すぎる言葉だな、とアレスは軽く鼻で笑った。
彼のその様子で、自分が発したその言葉が馬鹿にされていると感じたナンナは少しだけ恨みがましく
「じゃあ、どう表現すればよかったの。仲良し、なんて言葉で、リーンとの間柄を簡単に言われたことに、苛立ってるの」
と問いかけた。
ナンナのその言葉はおおよそのところ正解だったと言える。
彼女が口にした「仲良し」は「仲が悪くない」ととても近いようにアレスには感じられ、薄くて陳腐な言葉だと彼は思っていたのだ。
「そうかもしれないな。まあ、それがわかるぐらい、お前は俺と仲良しらしいな」
そういってアレスが茶化すと、ナンナはまだ非難がましい目で彼を見ている。
が、確かにアレスが言うように、「それがわかるくらいには仲良し」らしく、彼女は心得たように肩を竦めて表情を緩和させた。
「アレスは、意地悪ね。でも、わたし、アレスにそういう意地悪されても、そんなに傷つかないんだから」
「そうか。それはありがたいな」
「感謝されるようなことじゃないわよ!あ、感謝っていえば……アルテナ様に、今日少し馬術をお教えしたの。飲み込みが早い方だから、きっとレンスターに戻る頃には不自由なく乗りこなしそうだわ」
「ほう」
「話を聞いても、アレスがわたしを推薦した意味はよくわからなかったけれど……ありがとう。よく考えれば、わたしがお教えすれば父様の負担も減らせるし、レンスターのこととかもちょっとちょっとお話出来るものね。いい機会を作ってもらえた」
そう言ってナンナは、清清しい表情を見せた。
しかし、アレスの方は、フィンの負担を減らすことに関しては、これっぽっちも思っていなかったので、それへの感謝だと思うと、なんとなくおもしろくないようだ。
「……まあ、別にいいか」
「え?」
「いや、こっちの話だ」
それにしても、通路での立ち話も長くなると、なんとなく居心地悪く感じるものだ。
ファバルとリーンはこちらに歩いてこないだろうか?とアレスは少しちらりと後ろを気にした。
「あ、ごめんなさい、話しこんじゃって」
「いや。別に」
「でも、ここで会えてよかったわ。アレスにお礼いいたかったから」
その言葉は、別段とってつけたものではない。
無邪気に笑みを見せるナンナは、なるほど、確かにアレスのちょっとした意地悪にはへこたれないのだろう。
ほんの少しだけアレスが安心した時、ふと彼の眉根が寄せられた。それは、三人目の人物がそうっと通路の角から曲がってきた姿が見えたからだ。
その人物の歩みはいつも通りの軽快さがない。
ファバルとリーンの様子を見に来たことは明白だったが、明らかに「どうしよう」と戸惑っているのが伺われる。
夜の通路には、ぽつりぽつりと小さな灯りだけが点っている。その心許ない光の中でも、ファバルの妹であるパティの表情を見て取ることは出来たのだ。
アレスの視線が遠くへと移ったことと背後の気配を感じて、ナンナはそっと振り返った。
「パティ?」
「あ、は、は。どうしたの、2人とも、逢引にしては変な場所じゃない」
そろりそろりとやってきたパティの足取りは、別段盗みに入る時の抜き足差し足というわけでもなさそうだ。
逢引などといわれたことに、ナンナはまったく気を悪くしていない。ただ、パティの様子がおかしいことに困惑はしている。
「ファバル達、帰ってきたわよ」
「そのよーね。どんな?」
どんな?というあまりにも曖昧な問いにナンナは更に苦々しい表情を見せ、そっとアレスを振り返った。事実、ナンナはアレスと会っただけで、ファバル達をまだ見ていない。
ちょうど、その時、何に時間がかかっていたのかようやくファバル達がこちらに向かってくる声が聞こえた。
「!」
パティは慌てて、アレスとナンナに
「内緒ね!」
と小声で言い放つと、今度は盗賊らしい、音もほとんど立てない軽快な足取りで来たばかりの角を曲がっていってしまう。その逃げっぷりは、さすがと言わざるを得ないものだ。
何が起きたんだ、と顔を見合わせては、またパティが曲がった角を見て、それからまた顔を見合わせる二人。
ナンナは小声でアレスに囁いた。
「内緒って、パティが来たことを?」
「……だろうな」
憮然とした表情で2人が通路の角をぼんやり見ていると、案の定ファバルとリーンが2人のもとへやってきた。
「あら。アレスまだいたの?……あっ、ナンナ様、昨晩はごめんなさい」
リーンはアレスと一緒にナンナがいることに気づいて、慌ててナンナに駆け寄って謝罪をした。
それが一体何のことなのかわからないのは、ファバル1人だ。
「ううん、謝られるようなことではないもの。お疲れ様。ユングヴィは、どうだった?」
ナンナの方はまったく気にした風はなく、するりとリーンにそんな問いかけをする。
それは、本当はアレスだって聞きたかったことだ。だが、なんとなく。そう、なんとなくそこまで積極的に立ち入ってはいけない気がして、自分からは言わないでおこうと決めていた。
アレスのその気持ちは「聞きたくない」ではなく「言いたくない」なのだろう。
だから、彼は内心、ナンナがあっさりとリーンに問いかけてくれたことに感謝をした。
「別段、何がどう違う、とか、そういうことはなくて」
くすっとリーンは笑った。それに気を悪くした様子でもないけれど、照れもあるのかファバルはぶっきらぼうに
「当然だろ。シアルフィの隣りにあるってだけで、別に間に山があるわけでも、谷があるわけでもない。気候に違いだって、そんなにあるような距離じゃないし」
「そうだけど。でも、だから、逆にありがたかったのよ。ファバルだって、少しは不安だったでしょ。何かこう……変に、特別な場所だったり、えーと、なんていうか」
「正直、期待ははずれていたかな。少しだけ、もしかしたらって期待をしていたんだ。ユングヴィに行けば、俺に流れている……ウルの血が、何かこう……初めてなのに懐かしいって感じたり、とか。そういう特殊なのがあったらどうしよう、とか。あっ、その、別に、俺がイチイバルを使えるから自分を特別に思ってるとかじゃなくて」
「わかってるわよう」
ファバルが言う意味も多少はわかる、とアレスは思う。恋人たちの会話に少しばかり痺れを切らしたように、アレスは先回りをした。
「つまり、なんてこともなかった、ということだな。そこで生活することをためらうような、大きな違いも感じなかったってことなんだろ?」
「だな。確かに、グランベルはさ、マンスター付近に比べれば土地がいい。でも、気候はそう気になるほど違いも、少なくとも今の時期はなさそうだし、この城の造りだって今まで入ったことがある城とそんなに変わりもない。ってことは、警戒するほどの差もなかったんだろうな。視察損だ」
そういって大仰に両手をあげるファバルに、リーンは素早くぴしゃりと言った。
「違うわ。視察して、よかったのよ」
「……わかったよ。リーンの、言う通り。リーンがよかったっていうなら、きっと間違いはないんだろう」
「パティにも、話してあげてね」
「ああ」
ファバルとリーンのその様子は、もうとっくの昔から知り合いであるかのような、馴染んだものだった。
それがなんだか不思議にも思えるし、もともとそうだったように感じるほど普通にも思えるし、アレスの胸中はいささか複雑だ。が、それが、つまらない嫉妬というものだと彼はとっくに気付いていて、努めて冷静に振舞う。
「妹(パティ)は、お前達についていくって言わなかったのか」
「ああ。むしろ、興味ないってさ。財宝があるってわけでもないし、行くだけで疲れるし、母さんの故郷だからってそこまで固執してなんかいないって言われてなぁ。ま、あいつもさ、多分、レスターと一緒にイザークに行くことも考えてるんだろうし、俺も無理強いしようとはしなかった。きっとあいつ大変だぞ。エーディン伯母さんはシスターだから、パティみたいなはねっかえりには厳しいんじゃないか」
そういってファバルは笑う。ナンナは、ちらりとアレスに視線を送った。それをアレスは気付いていたが、ファバルに気付かせないためにあえて無視をする。
その後、他愛もない会話を2,3往復すると、ファバルとリーンはアレス達をおいて先に歩いていった。
そもそも外出から帰ってきた時点で、本来彼らはセリスに報告をしなければいけない立場だ。ここで立ち話をしている暇はないに決まっている。そのおかげでさっさと二人が立ち去ったことは、アレスとナンナにとってはありがたいことだった。
「……パティも、パティで心配してるのにね」
「そうだな」
実際、パティがどんな気持ちで先ほど様子を見にきたのか、それを彼らが知ることは出来ない。また、ファバルはああ言ってパティのことを笑い飛ばしていたけれど、彼の本当の気持ちはどうかわからないし、彼は彼で実はパティの気持ちを知っているのかもしれない。
だから、二人はパティのことは、うまく口を挟めなかった。そして、それでいいのだと思う。
「パティとファバルは、離れ離れになっちゃうのかしら」
「さあな。あの口ぶりじゃ、大してそういう話もしてないようだ。第一、レスターが必ずイザークに戻るなんて……」
「え?」
しまった、口を滑らせた、とアレスは言葉を止めた。
レスターがヴェルダンに行こうと考えていることは、まだレスターの恋人であるパティにも知らせていないことだ。
アレスに対して特にレスターは口止めをしなかったけれど、そのことは口止めされなくたって、黙っていたほうが良いとわかるようなことだ。
「どうして?だって、イザークにはレスターとラナのお母様が待っているのよ?」
「あー……まあ、一度は、戻る……かもしれないし……戻らないかもしれないし……それは、まあ」
「アレス、何か知っているのね?レスターのお母様はウルの血を引く方だから……ファバルと一緒にレスターもユングヴィに行くなら、パティも一緒にユングヴィに……あっ……」
「……」
「……レスター達の、お父様って」
「みんな、それぞれ色々考えがあるんだろうさ」
アレスのその声音は厳しくはなかったけれど、ナンナを黙らせるだけの力はあった。通路はしんとしているけれど、アレスの声はそこへ響かぬようにと注意を払ったかのようにくぐもっていた。それが、逆に、それ以上憶測であれこれ言うことを非難しているようにナンナには感じられたのだ。
ナンナは正解にたどり着いたのに違いない、とアレスは思う。が、口に出されれば自分は肯定か否定のどちらかをしなければならないし、それはどちらにしても面倒に思えた。彼は、レスターからの信頼をこれ以上裏切るわけにいかなかったので、出来ればこのままナンナが黙ってくれることが一番良いのだ。
「お前は、デルムッドとそういう話は、したのか?」
「えっ、あ、わたしは……」
「人の心配ばかり、してる場合でもないんじゃないか」
「……そう。うん。わかってる」
ナンナは、僅かに表情を翳らせる。
アレスの声音は彼女を非難するようなものでもなかったのだが、どことなく萎縮しているようにも見えるその姿に、アレスは眉根を寄せた。
ファバルとパティのように、デルムッドとナンナだって兄妹だ。
アレスの問い掛けは、裏を返せば「お前たちもそれぞれ考えがあって、それを話し合わないまますれ違っていないか」という意味にもとれる。
だが、ナンナはどこまでわかっているのか、沈んだ表情で僅かに間を置いて
「そうね。明日にでも、ちょっと兄様とお話してみる」
と、無理な笑みをアレスに見せた。
それが気にならないわけでもなかったが、アレスは「そうか」と簡単な返事をして、彼女の表情が言わんとしていることを追求しなかった。それを問うのは、明日彼女がデルムッドと話し合った後の方が良いかもしれない、と判断したからだ。
実際にナンナが本当にデルムッドに相談か何かをするのかはわからないが、彼女がそう言うからには一度はその意見を尊重しようと思ったのだ。


翌日、アレスは朝から昼過ぎまで見張り台に立った。
まったく知らないこの土地に慣れるほどはまだ長く滞在はしていない。そして、慣れないうちにきっと再び戦が始まるのだろう。
青空の下でシアルフィの緑豊かな広い自然を見渡しつつそんなことを思っていると、共に見張り台に立ったラクチェ――女子は、昼のみ見張り台に立つことになっている――が、まるで彼の心を見透かしたようなことを呟いた。
「今まで、色んな城に行ったけど……どの城にも腰を降ろして暮らす時間もないわね。わたし、まだここもいまひとつ慣れていないのよ」
「そうか」
「緑が多くて、いい場所だとは思うんだけど、でもわたし、ここまで緑が豊かじゃなくていいから、やっぱりイザークがいい」
二人はお互いの顔も見ずにそんな会話をしていた。
今日の空は驚くほど高くて、地面のすべてに腕を広げて覆い尽くすかのように、遥か彼方まで美しい色を見せている。
いっそう、シアルフィの豊かな緑は美しく見える。
先日アレスがフィンと共に立った見張り台とは違う場所のため、城門付近の様子がこちらからは相当によく見えていた。
「俺は、イザークのことはよくわからないが、住めば都というだろう。ここだって住めば、変わるかもしらんぞ」
「ううん、変わらない気がするの。ここは、わたしにとっては多分ただの通過点なんだなーって思える。あ、でも、オイフェやセリス様にとっては違うんでしょうね」
「かもな」
アレスは、ラクチェのその言葉にあっさりと答えながら、ちらりと彼女の横顔を見た。
きっとラクチェは、スカサハと、シャナンと共にイザークに戻るのだろう。
不思議と、それはあまりにも彼女に似合った選択肢だと思え、また、実際にイザークの地とやらに彼女がいることが「似合う」とアレスは思う。無論、彼はイザークの地を知らないのに、だ。それは、イザーク王子シャナンのみならず、ラクチェにもまたイザーク王家の血が流れているからなのだろうか。
リーフや、セティや、シャナンや。
国が肩に乗っている身分の人間は、なかなかに大変だ。
しかも、彼らは幼い頃からそういう扱いをうけて、そうであることが当然のように育ったに違いない。
けれど、アレスは違う。
たとえ、母であるグラーニェが「お前はエルトシャン王の息子なのよ」といくら言っても、彼がいるその場所はノディオンでもアグストリアでもなかった。
むしろ、自分はファバルに近いのではないかとアレスは思う。
デルムッドにせよ、ナンナにせよ、ラケシスの血を引くからといって、彼らが生まれ育った地だって、あるべき場所ではなかった。
それでも、引かれるものだろうか。己の血とやらに。
アレスをノディオンに導こうとしている何かは、時にはデルムッドであり、時には恨みつらみを抱いたまま死んでいった母親であり、母子をつらい境遇に貶める要因になってしまった父親エルトシャン王であったり、そしてミストルティンであったりもする。
条件は揃いすぎている。
多分、自分は逃げられないだろうという思いが、彼の中で少しずつ強まってきている。
セリス王子率いる解放軍にレンスターのリーフ王子、そしてエルトシャン王の息子であるアレスがいることを、美談として噂されていることも彼は知っていた。
それは、少し前であればまったく美談とは扱われず、むしろ「バーハラの戦を逃げ落ちた反逆者の子ども達の逆恨み」と巷では囁かれていた。
しかし、最早今の彼らは違う。
グランベルの子ども狩りから子ども達を守り、命の危険に晒されていた人々のために盾となって戦い、わずかずつながらも自分達の正当性を民衆に伝えてきた。
だから、こうやってシアルフィにあるべき人間が戻ってきたことを、この地域の人々は歓迎してくれている。
これを期に、アレス達の父親世代を知っている者は、更に噂を広めるだろう。
(いっそのこと、誰もエルトシャンの息子やらラケシスの子供に期待をしないでくれればいい)
そうであれば、自分はノディオンに戻らなくていいのではないか。
いや、違う。
レスターはどうだ。
レスターの父親はヴェルダンでは国を裏切った王子として非難されている。過去のバーハラでの大戦にて戦死してしまい、レスターはイザークで母親に育てられたと言う。アレスは知らないけれど、レスターには父親の記憶がない。そして、妹のラナにいたっては、父親であるジャムカ王子の死後に生まれている。つまり、彼ら兄妹は、まったくもって父親と無関係な人生を送ってきた。
それでも、彼は父の責任をとるために、荒れ果てたヴェルダンの地へ行こうとしているのだ。
彼の選択が正しいのかどうかはわからない。アレスは、レスターは大馬鹿だ、とも思うし、けれどもそういうところは嫌いではない、とも思う。
「アレスは、どこが好き?やっぱり、生まれ故郷?」
「ん?いや、生まれたってだけで、すぐ国を離れたし」
「どこで育ったの?」
「……母親が死んでからは、ひとところに落ち着いてはいなかったな」
「……ごめん」
「いや、別に」
「じゃ、どこが好き?」
ラクチェのその問いに、アレスは答えることが出来ない。
特に固執している地はない。だから、ナンナの願いを聞いてレンスターに行くことも悪くないと思う。
それは逆を言えば、どこに行っても良いということだ。
ノディオンに行くことを厭う理由はあまりない。ただ、「父親の国だから」という理由だけで、一国を自分の背に担おうと覚悟を決めるほどアレスはお人よしでも優等生でもない。いや、多少は思わなくもないが、他人に「アレスはエルトシャン王の息子なんだから、ノディオンの将来を考えなくちゃ駄目じゃないか」なんてことを言われれば、それは不本意だと思う。
残念ながら自分は魔剣ミストルティンを操ることが出来る唯一の人間であり、それがノディオンの象徴であることは間違いない。だが、アレスにとっては基本的には「ただそれだけ」だ。
エルトシャンの子供としての重圧だとか、逆にノディオンから逃れたグラーニェに対する目とか。
そういったものはとりたててアレスが心を痛めるものではない。
まったく気にならないといえば嘘になるが、エルトシャン王がアグストリア一正義感に溢れ忠誠心強い王だったと信じている者はノディオンに多数いるのだとも聞いたことがある。その人々に応えられるかどうかは別として、少なくともレスターよりは余程ありがたい状況に違いない。ならば、人々の好奇の目ですら逆手にとってなんとでもやりようがあるとすら思える。
むしろ、ノディオンに戻って、悪い意味で好奇の目に晒されるのは。
(俺は、馬鹿だ。それは、俺でもデルムッドでもなく、ナンナだ)
「だから、ナンナは俺に何も聞かないのか」
「え?なに?」
「……いや、別に。特に、どこが好きってのも、俺にはない」
「ふうん」
無意識に声に出してしまっていたことに気付いて、慌ててアレスは平静を装った。普段の彼は、そうそう独り言を呟いたりしない。独り言を呟く傭兵など、危険過ぎる。
それでも、あまりの自分の鈍さに気づいて、アレスは驚きすぎるほどに驚いたのだ。
(待て待て、落ち着け)
ありがたいことに、あまり面白味のない返事ばかりをしていたせいか、すっかりラクチェは気分が削がれたようで、見張りに集中しだしたようだ。
アレスもまた、城門の方角を向いて、異変がないかを見張るふりをした。
いや、彼にとっては「ふり」ではないのだが、それは普段の彼の見張りに比べれば余程の手抜きで――先日の早朝番もかなりのものではあったが――視界に入る情報をいまひとつ把握しきれていない。
(ナンナは、ラケシスに、似ている)
たとえ、アレスとナンナの関係が従兄妹以外の何物でなくとも、二人が共にいれば過去のことを引き合いにして、余計な中傷を広める者もいるだろう。
もし、アレスがノディオンに行かず、デルムッドが一人ノディオンに行くとなれば。
(ナンナは、どうするのだろう)
どう考えても、ナンナは行かない方が良いのではないかとアレスには思える。
デルムッドは、エルトシャンには似ていない。そして、ラケシスにもあまり似ていない。それは、デルムッドにとっては幸いなことかもしれないが、ナンナにしてみれば不幸なことだ。
失ってしまった王家の亡霊を、人々はナンナの中に見るのだろう。もちろん、アレスがいればアレスの中に。
姿形が似ているということは、案外と厄介なことだとアレスは知っている。現にアレスだってナンナと出会った時、彼の記憶に残っているラケシスの肖像画を思い起こして、彼女の母親がラケシスであることを十二分に納得したものだ。
もし、彼ら兄妹がノディオンに行ったら。
エルトシャンとラケシスを知る者が見れば、デルムッドよりもナンナに対してより強い、ノディオン王家の血筋を感じてしまうのではないかと思える。それは、ナンナにとって良いことと言えるだろうか?デルムッドにとって良いことといえるだろうか?
(ナンナは、どこまで知っているだろうか)
アレスは眉根を寄せた。
思い起こすのは、既にそこにはいやしないラケシスに対して「嫌ってはいなかったのに。嫌っては、決して、いなかったのに!」と叫ぶ自分の母親。シグルド公子への恨みつらみと共に、アレスの母グラーニェはラケシスに対する憎悪も心の底にずっと抱いていた。
切り刻んだ肖像画。
何故ラケシス様は、シグルド公子の軍から離脱しなかったのか。
何故あの人を止めてくださらなかったのか。
あの人の妹ならば。
あの人を、女として愛してたのであれば、尚更!
どこまでが本当のことで、どこまでが妄想なのかは、最早誰にも知ることが出来ない。
ただ、エルトシャンとラケシスの兄妹は――少なくともラケシスからは間違いなく――お互いが異性であることを意識するような、兄妹愛とはまた色が違った感情があるのではないかと、アグストリアではもっぱらの噂だったという。
そればかりではなく、エルトシャンが命を落とすことになったきっかけの一つがラケシスだという噂も、アレスは知っていた。いや、少なくとも、彼の母親であったグラーニェはそう信じていたし、アレスもまた長い間そう信じていた。
エルトシャンが当時アグストリアを率いていたシャガール王に手討ちにされたのは、敵であるシグルド公子の軍と内通していたからだと言われていたが、その真偽については実は長い間「証拠はなかったが」と裏では囁かれていた。
しかし、そのシグルド軍にラケシスがいたことだけは間違いのない事実であり、そのラケシスの存在のおかげで噂は真実味を帯びてしまったのだ。
そのこともあって、ノディオンの民の中には、エルトシャンの死を嘆きつつもラケシスを罵倒していた者達もいた、とアレスは聞いたことがある。
アレスは、解放軍に加わってから、その当時のいきさつを詳しく知るオイフェに時々話を聞き、エルトシャンの無罪やシグルド公子と交わした約束を知った。そしてまた、どれほどシグルド公子がその約束に応えようと尽力したのかも。
ラケシスがシグルド公子の元に保護されていたのは、エルトシャン留守時のノディオンを隣国ハイラインが襲い、あわや陥落するかというところをシグルド公子が救ったからだ。しかし、その後何故ラケシスがずっとシグルド公子に保護されていたのかのいきさつを、オイフェは全て知っていたわけではない。
一説にはアグストリアのシャガール王もまた、ハイラインのエリオット王子と共にラケシスの美貌に目をつけており、それから護るためにシグルドに託したままだったとも言われている。きっと、それがすべての理由ではないのだろうが、それなりに信憑性はあるとアレスは思っていた。
それはともかく、ラケシスがシグルド軍にいたことは確かで、そしてエルトシャンがシグルド軍と内通の罪を着せられたことも確かなことだ。
(ナンナは、レンスターにいれば、いい。俺が、デルムッドとノディオンに行けばそれで済むことだ……いや、デルムッドは、折角兄妹の再会を果たしたのだし、神器継承をしているわけでもない。エルトシャン王の息子がいることを知った民衆が、それを差し置いてラケシスの息子を持ち上げるものだろうか)
頑張れば、人々は応えてくれる。
アレスは、そんな理想論を声高に主張するような世間知らずではない。
だからこそ、レスターを馬鹿だと思うのだ。
(もしも、ファバルが解放軍に参加しなかったら、レスターはどうしていたんだろう)
ファバルは、イチイバルを継承しているウルの血筋。ファバルとパティの母親は、レスターの母親の姉であり、ユングヴィの公女だ。そして、レスターの母親であるエーディンは、今もイザークの修道院だか教会だかで働いていると言う。
ファバルと出会わなければ、レスターの気持ちはユングヴィに向かっていたのかもしれない。
もちろん、今となっては、それはわからないし、それを問いたいわけではないのだが。
「……」
視界の遠く、小さな森の近くに、二つの小さな点がちらちらと見える。
それは、馬だ。
一見、穏やかでのどかな光景に見える。
「あ、戻ってきたのね。さっき、出かけたって聞いたんだ」
ラクチェはそう言うと、そう興味もなさそうに違う方角を向く。
その二つの点の姿がはっきり見えるようになるまでは、かなりの時間を要する。が、アレスはなんとなくそれが誰なのか察知した。ラクチェに確認するまでもないし、望遠鏡でそちらを見る必要すらないと思う。
多分、ナンナとアルテナだ。
馬の速度はゆっくりだ。それは、見ればわかる。
さすがに竜を操るだけはある。きっとアルテナはそれなりにすぐに馬に慣れたのだろう。
(もう、ナンナは大丈夫なんだろうか)
アルテナにナンナを勧めたのはアレスだ。適任だと思ったからだ。それは間違いない。
ナンナは別段、それに対してアレスに何か恨みがましいことを言うわけでもなかったし、アルテナに対するしこりは小さくなっているのだと信じたい。
義父フィンへ抱いていた恋心。アルテナに対する複雑な感情。
大きくなってから出会った実兄。そして、母親の祖国のこと。自分が生まれ育った国のこと。
(父親の国はわからない、と言っていた。それが、あいつらにとって、いいことなのかどうかはわからんが)
ナンナをとりまく環境は、案外と複雑だ。
この解放軍にいる人間のほとんどがそうであることをアレスは知っていたが、フィンの存在とアルテナの存在が、ナンナを更に面倒な状態にしている。
(もしかして、俺もか?)
アレスは、少しずつ姿見えてきた馬から、目を逸らした。
それは、見張り番の職務を放棄した瞬間だったが、それに気付く者も、それを責める者も、そこにはいなかった。



その晩、アレスは一言だけデルムッドに言おうと、デルムッドがいる見張り台に向かった。
ナンナがデルムッドと話をしたかどうかはわからない。
が、とりあえず、ちょっとだけアレスがけしかけてしまったということを伝えておこうか、という気になったのだ。
彼は、それが自分らしくないことを承知の上だ。事実、「そうしよう」と心に決めて部屋を出て来たわけではない。
アレスは先ほどまでセリスの部屋にいて、自室に戻る途中だった。たまたま寄れる位置に見張り台あったから、歩いている間に思いついただけだ。
でなければ、そんなことをいちいち気にするような性格ではない。面倒くさいことはできるだけ避けたいとアレスはいつだって思っていた。まあ、そのスタンスを貫くことが出来なくなったのはいつかのナンナのせいで、それ以来彼は調子を崩されっぱなしなのだが。
と、通路から見張り台に出る扉に近づいた時、きい、とゆっくりとした動きでその扉は外から開けられた。
立ち止まるアレス。
そこに、会いたかったような会いたくなかったような、彼を悩ませている可愛らしい姫君の姿が扉の外から現れる。
「アレス!?」
驚いてナンナが発した声は案外と大きく、それは見張り台に立っているデルムッドの元に届くほどのものだった。
「……昨日今日と、よく会うな」
「……本当ね」
と、お互いわざとらしいやりとりをしながら、アレスとナンナは「ふー」と息を吐き出した。
もちろん、二人共わかっている。何故ここでお互いが出くわしたのか。
当然答えは、デルムッドだ。
それ以外にあるはずがない。
ナンナはくすっと笑って、アレスを誘った。
「ね、もし時間があれば、少し話を聞いてもらってもいいかしら?後でいいんだけど……用事、あるんでしょ?」
そういって、見張り台の方ちらりと見るナンナ。見張り台にいる兄様に、用事があるんでしょ?……そういう意味だ。
「いや、別に。話を聞こう」
ナンナから直接話を聞けるなら、デルムッドに会わなくとも良い。そう判断してアレスがそう言うと、ナンナはほっとした表情を見せた。彼女が緩和した様子に内心アレスも安心して、憎まれ口がついつい出た。
「こんな遅い時間に男を誘うとは大胆なお姫様だな」
「もう!アレスったら!」
そういって僅かにふくれるナンナ。
アレスは声をあげて笑い、見張り台から離れるように歩き出した。ナンナは自分の抗議をあっさりと流されたことが不満だったようで、軽くアレスの背を叩いてからついていく。
「……大丈夫か、あの二人……」
もう一人。
見張り台からひょいと城内を覗いてデルムッドが背後で心配そうに見ていることなぞ、二人はまったく気づかないままだった。
デルムッドはデルムッドで溜息をついて見張り台に戻っていくのだが、もちろんアレスとナンナはそれだって知ることもない。



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モドル