恋人宣言-5-

夜の談話室は、当然のように人っ子一人いない。
彼らはそれぞれ部屋をあてがわれていたけれど、ナンナは夜遅くに、男性を室内に招き入れることは極力しない。
アレスにとってそれはいささか「面倒くさいな」と思えたが、それなりの身分の人間であれば当然のことであり、本来は好ましく思われることなのだとも知っている。
談話室には、ぐるりと壁にそっていくつも燭台が設置されている。そのうちの二本に火をつけて、薄暗い中二人は座った。
昼間の談話室は扉が開け放たれていることも多いが、夜は来る人間も少ないため、扉を閉めていてもなんら問題はない。
「で、何だ?」
「・・・あの、ね。昨日・・・言ってた、でしょう」
「ん?」
「兄様と、話し合ったか、って」
回りくどい話は嫌いだ。だから、アレスは正面切ってナンナに聞いた。
そして、それに対するナンナの言葉は、アレスが「やはりそのことか」と思うに十分すぎるほど、予想したままのことだった。
「さっき、話してたのか」
「あ、ううん、違うの。あのね、兄様のところにいったのは・・・アレスに言われたから、話をしにいったんじゃなくて」
「うん」
「わたしが逆に、兄様とアレスは、何か話したかって、聞きにいったの」
「あー・・・」
そんなことは、デルムッドに聞かないで俺に聞けばよかっただろう。アレスはそう言いたくなったけれど、寸でのところでそれを止め、ナンナの次の言葉を待った。
ぼんやりと灯りに照らし出されたナンナの表情は浮かないものだ。
翳りを落とすほど重い気持ちが心の中にあるのだろうが、それを悟られないように無理にいつも通りに振舞うナンナ。
けれど、アレスはそれには騙されない。
「で?」
「・・・兄様が、ノディオンに行こうと思ってることは、わたしも知っていたの」
「ああ・・・」
アレスは、ここでデルムッドと話したことを思い出していた。
確かにデルムッドは、解放軍としてイザークを発つ時に、いずれグランベルに、そしてノディオンの近くへと行くことをわかっていたと言っていた。
「兄様、イザークでずっと育ったのに、馬に乗っているでしょう。イザークは、騎士のための馬があまり育たない国なのに、オイフェさんにお願いをして馬術を覚えたのも、いつかノディオンに戻るためだったとか」
「!」
「レンスターでわたしと母様との再会をして・・・って思っていたらしいの」
「しかし、ラケシス・・・伯母上は」
ラケシスの表情が、更に沈む。
イザークに残してきた息子を迎えに、彼らの母ラケシスはレンスターから単身旅立った。
信頼を寄せていたフィンに、愛娘であるナンナを預けて。
けれど、長い年月離れ離れになっていた兄妹の再会の時。
デルムッドの元に、ラケシスが訪れてはいなかったことが、判明したのだ。
「兄様は、とても悔やんでいらしたの。それがもっと早くわかっていれば、ご自身がイード砂漠をみなと共に南下する時に、もっと母様の情報がないかどうかを聞けたのにって」
「・・・ああ。なるほど」
イザークからレンスターに行くには、イード砂漠を渡らなければいけない。馬は、足をとられる砂を嫌がってなかなか砂漠では進まない。そもそも、砂漠に生きるような生き物ではないのだから当然だ。
イードでの戦いは、騎馬兵であるデルムッドには相当厳しかったことだろう。
そんな彼がいかほどのことが出来たか、とアレスは思うが、人の心とはそういった理屈では折れないものだ。
「で?」
「本当は、兄様は、イード砂漠に戻って、母様の行方を追いたいの。そうだって言わないけど、わかるのよ」
「・・・ふーん」
「アレス、兄様に・・・アグストリアを立て直すのは、兄様の役目じゃないって、言ったんですって?」
「ああ、言った」
「それを聞いてね、なんか、逆に・・・それは、アレス一人の役目でもないんだって、兄様は思ったみたい」
思いもよらぬナンナの言葉に、アレスは口をぽかんと開けた。
言葉が出ないとはこのことか。
そんな呑気な自己分析をして、アレスは「あー・・・えーと・・・」と、どういう意味なのかよくわからない声を出す。
人気のない談話室で、自分のその間抜けな声が、壁に跳ね返って自分とナンナにだけ聞こえる。
そのことが妙におかしくて、アレスは苦笑を見せた。
「なんで、そうなるんだ」
「・・・ノディオンではなくアグストリアって、アレスは言ったんでしょ」
「・・・そうだったかな?よく覚えていない」
「きっと、そうよ?だから、じゃないかしら。あなたの志が、大きかったからじゃない?」
事実は、どちらでも構わない。アレスはそう思う。
どうやら、デルムッドは、母ラケシスを探しに行きたい気持ちを抑えて、母国の復興に力を尽くそうと心に決めたらしい。
そのきっかけを作ってしまったのがアレスの発言だろうが、そうでなかろうが、そんなことは関係がない。
「それで・・・わたしは、ひとまず、レンスターに帰るでしょ」
「ああ」
「アレスにもお願いしたと思うんだけど、父様がアルテナ様と結婚するのを待ってね」
「うん」
「その後・・・わたし、イード砂漠に行こうかと思って」
「は!?」
アレスのその声に、ナンナは小さく笑みをもらした。
「珍しいわね、アレスがそんな声出すなんて」
「・・・お前が、思いもよらないことを、言うから」
切れ切れにそう答えるのが、アレスの精一杯だった。
しまった。
彼女に、そんな第三の選択肢があることを、まったく気付かなかった。
デルムッドとナンナがラケシスの子供であることは重々承知していたけれど、当のラケシスのことまで気が回らなかった。
誰に言い訳をするわけでもないが、解放軍にいる彼らと年が近い者達の両親は、ほとんどが行方知れずか、既に死亡している。少なくとも、アレスが聞いたことがあるわずかな話から考えれば、そうなのだ。
だから、気にしなかった。迂闊としか言えない。
「ラケシス母様に、わたしは似ているらしいから」
「・・・ああ、似ている、な。肖像画で見た限りには」
「似た顔の人間が探せば、早いと思わない?」
それは、一理あるとアレスは唸った。
話によるとラケシスが消息を絶ったのは、1年2年どころではない。10年を越える昔のことだ。
当時をすぐに思い出せと言われても、なかなか人の記憶は定かではない。
そういう場合に、視覚に訴えるものがあれば、記憶の底から何かを引っ張り出すきっかけになる。その上、その10年以上の歳月のおかげで、相当ナンナの容姿はラケシスに近づいているのだし。
「イード砂漠が危険だとか、危険じゃないとかは、ひとまず置いといてだな・・・何故、フィンが結婚するまで待とうと?」
アレスは、近くにあったサイドテーブルをひっぱって、そこに左肘を置いて頭を支えた。
彼のそんな様子がめずらしいこともナンナは知っていたが、あえてそれへは何も言わず、質問に対して素直に答えた。
「アルテナ様とご結婚すれば、お父様も勝手が出来なくなると思うし」
「・・・あー・・・お前に、ついていく、とか?」
「ええ。そういう可能性だって、ゼロじゃないわよね?」
「確かにな・・・というか、誰だってお前一人を行かせるわけがない。ナンナは、案外と策士なんだな」
「それ、褒めてるのかしら?」
「ちょっとだけ、な」
きっと、アレスが思っているよりも、ナンナはずっと考えていたのかもしれない。
肘をついて斜めになった前髪が、はらりと左眼にかかる。それを面倒くさそうにアレスは払った。
色々至らない、それは、自分が。
アレスは頭を抱えたくなった。が、すぐにそれは「しかし、これはしょうがない」という思いに変わる。
自己防衛ではなく、きっと誰が彼らの話を聞いてもそう思うだろう。多分、目の前にいるナンナにすべてを打ち明けても。
(あんなに、それぞれの親の血統について考えても、その親の所在についてはまったく気が回らなかった)
他人の親の心配をする余裕がない、というわけでもない。
ただ単に、思い当たらなかった。
それ以外に言葉はない。
ラケシスは、彼の叔母だ。
そう思えば、もしかしたら自分は相当に薄情かもしれない、と彼は小さく息をついた。
(まあ、別に、俺が薄情かどうかは、どうでもいい。どうせ、この軍にいる人間に聞けば、比較的薄情な人間だと答えられるに違いないし)
「アレス?」
「ああ、いや・・・その・・・少し、その。叔母上のことは、頭になくてな」
「そりゃあ、そうでしょうね。だって、わたしだって、アレスのお母様のこと、ほとんど聞いたことないもの」
「・・・そういうものか?」
ナンナの言葉は正しい。実際に、解放軍に身を寄せるようになってから、アレスが他人からグラーニェのことを聞かれた回数は、数える程度だ。
「デルムッドは、それでいいと言うと思うのか?お前がイードに行って・・・」
「まだ、話していないの。話せば、もしかしたら、兄様も行くって言い出しそうで」
「それのどこが悪いことなんだ?」
「・・・兄様が、言っていたの。このまま、イザークには戻らないでノディオンに行くって。一度戻れば、未練がでるからって」
なるほど。それもわからなくもない。
デルムッドにとっては、イザークは第二の故郷。いや、むしろ第一の故郷だ。
イード砂漠をくまなく探して北上すれば、そこはイザークとシレジアとの国境付近に出る。
そこから、またノディオンへ行こうと、彼は思えるだろうか?
「女々しい、って兄様を罵ったら、わたし、怒るわよ?」
「・・・いや、わかる。心が揺れないほどには・・・そこまで強く、志しがあるわけでもないってことだろう。今の時点で」
「でも、それでも、兄様が決めたことだから」
心が揺れるぐらいなら、ノディオンになぞ行くかずに、さっさとイザークに戻ればいい。
ナンナに先回りはされてしまったが、確かに以前のアレスならばそれぐらいは言っていたかもしれない。
けれど、今は理解出来ると思う。
己の体に流れている血が「そう」であるからといって、長年自分が生きてきた第二の故郷――もしかしたら、第一と言い切ってもいいとすら思える――と言える場所を、簡単に捨てることは難しい。
捨てるわけにはいかないと、そこで立ち止まってしまう方が、人の心としてとてもまっとうではなかろうか。
アレスから見ても、デルムッドがそうやって己の心の弱さを認め、決断をしようとあがいているのだろうことを考えるだけで、大層それは好ましいと思えた。
レスターが未だパティに言えない気持ちとか。ファバルがリーンに内緒でユングヴィへ行こうとした気持ち。
それを知りつつ、無理強いしてファバルについていったリーン。そして、馬に慣れようとしているアルテナ。
たくさんの人々がたくさん心を揺らして、この戦いの果てにある自らの道を探そうとしている。
心が揺れないはずは、ないのだ。
「で、お前は、イード砂漠に行くと決めた、というわけだな」
「・・・行きたい、とは思ってる」
念を押した途端、ナンナの語調が弱くなった。
ふんわりとした灯りに照らし出されている彼女の表情は、困ったような、何か悲しいことがあったような、まだ心になんらかのことを秘めたものだ。
「レンスターが落ち着いてから行きたいと思ってるけれど、それはいつになるかわからないし・・・もし、わたしが行くことで、レンスターから誰か兵士を連れて行くことになったら、それは申し訳ないことだから、出来ればそれは、避けたいし・・・」
「一人で行く気か。そもそも、お前はレンスターから一人で出たことがあるのか」
「・・・一人で、はないわね。帝国に追われて逃げた時も、お父様やリーフ様と一緒だった」
「・・・で、今度は、一人でどうにかしようと思ってるのか」
ナンナは、静かにアレスを見つめた。それから「ええ」と小さく呟く。
「兄様が、お一人でノディオンに行くと決断なされたんですもの」
「お前は、俺のことを、なんだと思ってるんだ」
「え?」
アレスの言葉に、怒気がわずかに篭った。
明らかに苛立ったように眉間にしわをよせ、頬杖をついている左手の指先がアレス自身のこめかみをトントンと叩く。
「なんだと、って、言うのは・・・」
「お前は、俺に、フィンとアルテナの婚礼まで、傍に居てくれと言った」
「ええ」
「で、それが終わったら、お前はイード砂漠に行く。で、俺は、そこで、はい、さようならというわけだな」
「・・・そうは、言ってない。だって、まだ、決まってないし」
更に、ナンナの言葉は弱弱しくなっていく。
初めは「イード砂漠に行こうと思って」と、既に決めていたこととして断言をしていたというのに、言葉を交わすごとに彼女の決断は弱り、ぽっかりと浮き彫りにされていくのは、彼女の惑いの姿。逡巡している様子ばかりが色濃くなってゆく。
「だって、わたしには答えが出ないの。一人では無理だからって、レンスターの騎士達を借り出して行くなんて、そんな迷惑はかけられないし・・・リーフ様達が戻ったら、トラキア半島との統一その他で、この先ずっとずっと人手は必要になると思うの。だから、騎士を連れて行くのも、お父様に着いてきていただくのも避けたい。だけど、だけどね、それはお父様に心配をかけることだし、自分でも不安なの。そうしたら、わたし、母様のことは諦めて、ノディオンはアレスやお兄様に任せて、ずっとレンスターにいて・・・父様の隣で、笑ってたらいいのかしら?それが一番、誰にも迷惑をかけないことなのかしら?」
「・・・」
「わかってるの。イード砂漠にいったって、多分母様には会えないって。見つからないだろうし、死んだという証拠も手にいれられないんじゃないかって思う。そうだったら、イード砂漠に行くのは、物凄く無駄なことだし、そこでの無意味な時間がどれほどのものかは今はわからなくて、余計怖い。だけど、だけど・・・兄様を迎えに単身砂漠に向かった母様のお気持ちを考えると・・・わたし、なかったことに出来ない。そう思っても、本当は不安でしょうがないの。考えれば考えるほど、ぐるぐる頭を回って、どうしたらいいのか、よくわからなくなる。お父様が心配するって思えば、足を踏み出せなくなるかもしれない。でも、逆に・・・お父様とアルテナ様を見続けることから逃げようと、やっぱりイードに向かうかもしれないし・・・そんなの、恥ずかしいことだし・・・まだ、結論を出すには時間があると思っているんだけど・・・でも、この戦いが終わった後、兄様と別れるなら、その時までには心積もりを自分の口からはっきり言えるようになっていたくて・・・えっと、えっと・・・」
よく、しゃべる。確かに、フィンが言った通りだ。
アレスはそうからかいたくなり、ふっと表情を緩和させた。
ナンナは、良い意味でも悪い意味でも、ひたむきなのだろうとアレスは思う。
だから、こんなにたくさんの思いを、言葉を、胸の中にいつでも秘めているに違いない。
残念ながら、ナンナはそれを誰にぶつけることも出来ないまま育ってきた。
フィンの隣で、リーフの傍らで、ただ静かに微笑みながら気遣って。
以前オイフェが「しかし、ナンナはラケシス様のご息女と思えぬほどに気性が穏やかですな。あれほどに顔立ちは似ているのに、やはり育った環境だろうか」と、世間話の延長でフィンに言っていたことをアレスは知っている。
その言葉は間違いだ。
彼女はきっと、穏やかであろうと努めているのだ。
好きで好きでたまらない男のことを気が違うほど思って、眠れぬ夜を過ごす女。
眠れぬ夜の心の痛みに耐えかねて、自らの体の痛みに摩り替えようとした女。
アレスが知っているナンナは、激しい一面も持ち合わせている。
そう。まるで、今のナンナの言葉が止まらないように、胸の中にしまっているたくさんの感情や思いは、アレスがひきずりだそうとすればこんなにも次々に明確に出てくるではないか。
そうだ。彼女の思いは明確だ。
明確でありながらも、答えが出ないという前置きは矛盾している。
「答えが、出ない、か」
「出ない。でも、誰も教えてくれないものだから、自分で、決めなきゃ」
「そうだな。俺は、答えが出た。あとは、お前が自分で決めろ」
「え?アレスが?」
ナンナはアレスの言葉に驚き、不意に哀しみの表情を崩すこととなった。
彼が一体何の答えを出したというのだろうか?
が、次のアレスの言葉は、ナンナが聞きたいと思っていたその回答ではなかった。
「俺は、お前がフィンだとかレンスターだとかのことばかり考えて、やりたいことが出来ない様子を見てるのも、我侭を言う勇気がいつまでも出ない、意気地のない様子を見るのもごめんだ」
「い、意気地がない!?」
まさか、そんな言葉を浴びせられるとは思っていなかったナンナは、彼女らしくない声をあげた。
アレスは、頬杖をやめて体を起こし、まっすぐナンナを見る。
「俺は、お前が本当は、貪欲で、芯が強い女だと知っている」
「え・・・」
「あれだけ、一人の男を思って、欲しくて欲しくてたまらない気持ちを持ちながら、お前は泣き暮らしてばかりではなかった。好きでいることを悟られたくなくて、良い娘でいたくて、何も失いたくなくて、必死に己を律していただろう。それは、お前の貪欲さと強さだ」
「ほ・・・褒めて、いる、の?けなして、いるの?」
「褒めている」
そう言って、アレスは立ち上がった。
「伯母上のことに関しては、結婚しているわけでも血が繋がっているわけでなくとも、フィンは無関係ではない。それに、デルムッドは間違いなく当事者だ。どちらも、形は違えどお前の家族だろう。その二人にすら遠慮してどうする」
「・・・」
「フィンが」
「え?」
「俺といるナンナは、よくしゃべる、と言っていた」
「!」
その言葉にナンナは目を見開き、立ち上がったアレスを見上げた。
驚きではない。彼女の表情に見て取れる感情は、わずかな怯え。
(この顔は、知っている)
フィンに恋焦がれて、気がふれてしまいそうなほどに自分の心を抑えていたナンナ。あの頃の彼女は、時々今の表情を見せていた、と思う。
自分の思いを、自分の病んだ心を、フィンに悟られまいか。
気付いて欲しい。けれど、気付かれたくない。
そこにあった葛藤を誰が気付かなくても、ナンナ本人が意識していなくても、アレスはそれを見ていたのだ。
彼女は、何かを恐れている。
「だが、多分、ナンナといる俺も、普段よりは饒舌なのだろうと思う」
「そう・・・かもしれない」
「それがどういうことなのか、俺は、わかった。だから、俺はもう決めた。後はナンナが決めればいい」
ふっと息を吐いて、アレスは表情を緩めた。
何かに怯えているナンナを、彼は追い詰めたいわけではない。
その思いを伝えるのに彼が出来ることは、たったそれだけのことだ。
「アレスは、何を決めたの」
「俺が決めたことをお前に話すよりも、お前が自分で決めることが先だ」
「それは・・・アレスが決めたことによって・・・わたしの答えは左右されないってこと・・・?」
アレスは返事をしない。その代わりのように彼の手は自然に伸びて、ナンナの髪に触れた。
まるでそれがまったく見えていないかのように、ナンナはアレスをじっと見つめ、ぴくりとも動かない。
「どうして、俺の手を払わない?」
「・・・嫌じゃないからよ」
「そうか」
それが許可の言葉でもあるかのように、アレスはナンナの髪を梳くように撫でた。
野を駆け日光に晒され、過酷な旅を続けてきたとは思えぬほど、ナンナの髪は柔らかく女性らしく思える。
同じ血族でありながら、同じ髪色でありながら、こうやって触れた髪が女性のものであること、ナンナのものであること、それだけでアレスの胸の奥は軽い痺れを訴える。
当たり前だ。
そうだと口に出していなくとも、好ましく思っている異性の一部だ。
アレスを見つめるナンナの頬は、淡い灯りに照らし出されながらその色を濃くしてゆく。
それだって、当たり前のことだ。
好む好まないはともかく、異性に髪をこうやって触れられる行為なぞ、ナンナにはあまり縁がなかったことに違いない。
信頼している人物であろうと、夜分に男性を部屋には決して招かぬような少女、いや、女性なのだし。
動くアレスの指を止めずに、ナンナは視線を逸らして目を軽く伏せた。
「・・・どうして、わたしの頭を撫ぜるの」
「ナンナといる時に、俺が饒舌な理由と、それは一緒だ」
「・・・」
「いや、違う。一緒だと、いいな、と思ったんだ。俺が勝手に」
そう言ってアレスは手を引いた。アレスの指先にナンナの髪はまったく絡まず、あっけなくするりと彼の指を解放する。
ナンナは目を逸らしたまま、動かない。
「悪かった。ナンナが怒らないから、甘えた」
まったく冗談に聞こえない口調でアレスはそう言い、立ち上がった。未だナンナは目を伏せて、アレスを見ない。
「1人で、部屋まで帰れるな?」
「ええ」
「お姫様を送り届けない、薄情な男だと思われても構わない」
「そうは思わないわ」
決してナンナはアレスに深追いをしない。
どういうことなの。
甘えたって、何。
第一、アレスが言ってる意味がよくわからない。
どんな言葉を投げつけられてもおかしくないのに、ナンナは黙ったままだ。
彼女の真意をアレスは測れない。けれど、それは良いのだと思う。
測っても、仕方がない。
自分はナンナに「お前が決めろ」と石を投じたのだし、縋り付かないナンナは間違いなく自分で答えを決めることを納得して選んでいるのだろうし。
「おやすみなさい、アレス」
先に、場の終わりを言葉にしたのは、ナンナだった。
目を逸らしたまま言うのは、彼女の流儀に反するのだろう。
ようやく彼女はまっすぐアレスを見て、か細い声で告げた。
それに対して、アレスは素直におやすみの挨拶を返す以外に選択肢などありはしない。
彼が先ほど触れた髪の柔らかさは、初めての感触ではない。以前触れてからは相当時間が経っていたし、今日まで「触れたい」という思いを強く抱いたこともなかった。
けれども、今。
彼女の髪にもう一度触れたいという衝動がどうにも湧き上がってきて、アレスはそれに抗うように、気持ちを断ち切るかのように、ナンナに背を向けた。
自分のその気持ちに素直になってしまっては、それ以上のことが起きそうな、そんな恐れが彼の心の片隅に生まれていたのだ。



翌日の昼、馬を洗っていたアレスはパティに頼まれて、またも荷運びを手伝うことになった。
量がそう多くないため、城門近くで見つけた人間だけに声をかけているようだ。
「やあ、アレス。昨晩はどうも」
パティに半ば無理矢理引っ張られて行くと、そこには同じように声をかけられたのか、デルムッドが居た。
「・・・ああ」
面倒くさそうな返事をして、アレスは麻袋をひとつ肩に担いだ。
「厨房前に、運ぶんだ」
「わかった」
男二人が仕方なく――といっても、仕方なくと思っているのはアレスだけなのだが――肩を並べて歩き出す。
ちらりとデルムッドを見ると、どうもいつもの彼らしくなく、少しばかり気持ちが高揚しているように見えた。
アレスが知る限り、デルムッドは「うきうき」としているように見えることがほとんどない。落ち着いているとか年長組だからではなく、気性が生来穏やかだからだとも思う。
しかし、今のデルムッドはいささか違うようにアレスは感じた。
と、そのアレスの視線を感じたのか、デルムッドの方から声をかけてくる。
「うかない顔をしているようだけど、どうした? ナンナにでもふられたか?」
浮かれている(ように見える)人間に逆にこう言われては、普段ならばいささか不愉快にもなる。
が、残念ながらというべきか、デルムッドの発言はそう遠からずのことだったため、アレスは素直に答えた。
「まだだ。それは、これからだ」
「は!?」
そんなアレスの返答に、デルムッドは笑い出す。
「はははっ、それはないだろう。いや、人の気持ちに絶対がないとは知っているけれど、それでも、絶対それは、ない」
「何を言ってるやら」
お前にナンナのことが、俺のことが、何がわかるのだ。
そう言いたくもなったけれど、アレスは黙って肩に担いだ麻袋をアレスは担ぎ直した。
「デルムッドの方は、いいことでもあったのか」
「いいこと・・・なんだろうな。つい先ほど、早馬で報告が来た」
「城内が、少し騒がしかったな」
「ああ」
デルムッドもまた、肩からずるりと落ちそうになった袋を担ぎ直し、「よっ」と小さく声を漏らした。
「何があった」
「ついに・・・アグストリアでも、グランベルに対する反乱が勃発したらしい」
「・・・」
この男は、それで浮かれていたのか。
アレスはアグストリアのことを思うよりも先にそう思い、苦笑を浮かべた。
その曖昧な表情を、デルムッドはどう解釈したのかはわからない。
「ついに、アグストリアまでもが、動き始めたか」
ついに、というのは、既にシレジアがその動きを見せていたことを知っていての言葉だ。
解放軍の働きは各国に噂になって広がり、そして人々に反乱を喚起する存在になっていた。
反乱というものは、中枢部から遠ければ遠いほどに成功しやすい。
いくらグランベルから派遣された者たちが占拠していようと、遠い国のことであれば手薄になるは当然のことであり、特に、環境がまったく異なるシレジアであれば、住民の地の利は明白だ。
そこまではわかっていたことだった。
解放軍にセティが参加したという噂はとうの昔に広まっており、そもそもシレジアの民達は解放軍の肩入れをしていたのだし、グランベルの兵士達の目を逃れて天馬を増やし、それを操る騎士を育て続けていた。
グランベル兵達は、解放軍が侵攻したことによっていくらかの戦力を母国に帰すことを余儀なくされた。
シレジア側から、イザーク側から、イード砂漠を渡って戦力が減っても、解放軍を足止めさせるつもりだったに違いない。
けれども実際は、それに乗じた反乱を巻き起こすきっかけとなっただけで、解放軍に襲い掛かる前に各派遣国に戻ることになった。そして、遅れて反乱鎮圧に戻った兵力は厳しい旅程により消耗しており、あまり戦力にもならぬままだったらしい。
「正直、アレスには言いたくないが・・・解放軍にアレスがいることに期待をしている者は多いようだ」
「・・・いささか厄介な話だがな」
「いいじゃないか。期待してる人間には勝手に期待させておけば。それに応える応えないは別として、その期待があるからこそ人々が立ち上がったんだし」
デルムッドのその言葉は確かに納得が出来るものだ。
「期待されても、俺はすぐにアグストリアに行くつもりはないぞ」
城内に入り、厨房に向かって歩いて行く二人の足取りは、いつもよりも緩やかだ。
荷物が重いわけではなく、それだけ話に二人は集中しているのだろう。
「わかっているよ。レンスターに行くって言ってただろう。でも、そのうちには」
「・・・そのうちに、な。その時に、俺が必要ないと判断すれば戻らないが」
「黒騎士ヘズルの血を、いつかノディオンに返したいとは思わないのかい」
「必要なものは、必要な時にきっとそこに戻るだろう。バーハラで無念を遂げた者の血を継ぐものが、この解放軍に集まってきたように。神器を使える者の手に戻ってくるように」
「そんな他力本願な。それに、君は」
「俺は、自分がアグストリア再建を果たす必要があるとは一言も言わなかっただろう?確かに、俺の役目なのだとは思う。けれども、俺ではないものがやっても出来るならばそれで構わない。それが、私欲のために為すのでなければな。そのきっかけに、まだ見もしない俺の存在が必要なら、まあ、勝手にすれば?ってとこだ。厄介なことには変わらないが、それはどうにも出来ないことだしな」
言いながらアレスは、自分はどうやら少し丸くなったようだ、とふと気づいた。
以前の自分ならば、知らないところで祭り上げられ、その立場を勝手に思い違いされることが耐えられなかったのではないかと思う。
解放軍に入ってからというもの、どうも自分は勝手に誰かに変えていかれているような、そんな気がしてならない。
短期間に人はそうそう変わるものではない。けれど、変わってしまうほどに彼の環境はめまぐるしい刺激に溢れていたし、今までの人生で使ったことのない部分の脳を使ったり、他人のことを考えざるを得ない状況に置かれてきたのだ。
無論、アレス自身はそのことを把握しているわけでも納得しているわけでもないため、自分の中に生まれた漠然とした違和感に対して、腑に落ちないように眉根を寄せるしかない。
そんな彼の気を知ってか知らずか、デルムッドは
「・・・きみは、無責任に聞こえるような言葉を使っているけれど、自分の立場をよく理解しているように思う」
と告げた。
返事を出来ずに更に眉根を寄せるアレス。リーンがそこにいれば「もう、またアレスったら、眉間に皺!」といって彼の眉間を人差し指ではじくことだろう。それほどまでに、先ほどからの彼の表情は険しいままだ。
それから彼はため息をつきながら、ぼそりとつぶやいた。
「お前たち兄妹は、揃いも揃って・・・」
「うん?なんだい?俺とナンナのこと?」
「・・・」
人を動かそうと画策しないくせに、人が動かざるを得ない言葉を発しやがる。
舌打ちをしそうになってぴくりと鼻筋を振るわせたが、寸でのところでアレスはそれを止めた。
話の終わりを告げるのに丁度良く、先日ナンナと並んで運んだ時と同じように厨房の前に到着した。
まず、デルムッドが麻袋を降ろし、厨房の出入りに邪魔にならないように並んでいる荷物の傍に寄せた。
「離れて育ってるのに、なんで似てるんだ」
「え?似てるかな?そう言われたことはあまりないけど。ああ、でも、解放軍のほかの兄弟達に比べれば、似てるほうかもしれないね」
そんなデルムッドの呑気な発言に苦笑をするしかないアレス。
きっと、ナンナと話をしていても、同じような返事がきたのだろう。
そんな風に思いながら麻袋を下ろし、それ以上アレスはデルムッドに何も言わなかった。


シアルフィ城奪回のためにエッダ城付近で傭兵軍団が雇われたらしいという情報が入ったのは、明日明後日にでもシアルフィを出てエッダ城へ攻め込もうと決定した軍議の途中だった。
が、その情報は然程体勢には影響を与えず――今のグランベルの兵力を考えれば、傭兵の雇用は当然と思われていたからだ――後は、地の利のない自分達が不利にならぬよう、天候次第、ということで話はまとまった。
あれから、まだアレスはナンナと話をしていない。
考えてみれば、もともと毎日言葉を交わすわけではない。
(・・・どうにもそれをもどかしく思うのは・・・辛抱が必要だと思えるのは、俺の、負けだな)
今まで意識をしたことがなかった、「毎日言葉を交わすわけではない間柄」という事実。
それに気付いたのは、良いことでもあり悪いことでもある。
意識しなければ、我慢出来たのに。いや、我慢だと思ったことなぞなかったのに。
(それにしても、姿も見ないな)
朝食時。昼食時。
軍議に参加をした時は、そもそもナンナは召集の頭数に入っていなかった。
アルテナに馬術を教えているのかと思った時に限って、アルテナが別のことをしている姿を目撃する。
一体、ナンナはどうしているのだろうか。
アレスは、シアルフィ城の最も高台――通常の見張り台よりも高い位置にあるのだが、僅かな方角しか見られない場所があるのだ――に足を運び、少しばかり曇った空を、ぼんやりとした空気に包まれた城の周囲を眺めていた。
それは、気分転換にはうってつけだ。
ここにそんな場所があるということをオイフェに聞いたのは今朝のことで、アレスは既に知っていたらしいリーンに案内をしてもらった。
しばらくそこに立っていると、かなり遠くの方に土煙のようなものが舞い上がる様子がうっすらと見えた。
と、彼が目を細めてそれを見ようとするより先に、城内が慌しくなっている様子に気づく。
(何か、あったか?)
城内に戻ろうと思う前に、アレスはもう一度遠くを見る。
「ちっ」
この場所が見張り台として機能しないことが、よくわかる。
肝心な部分がまったく見えない。
仕方なく城内に引っ込んで、アレスは通路を走った。
「どうした!」
「アレス、ここにいたのか!探したぞ!」
丁度階下から通達にあがってきたアーサーと出会い何事か尋ねると、アーサーの方もアレスを捜していたようだった。
「城下町に山賊が向かって来ている。丁度、城下町に視察にいっていたメンバーが迎え撃つとのことだ」
「出陣すればいいか」
「オイフェからの連絡では、どうもグランベル側からのこっちの戦力を測るための捨て駒じゃないかという話だぜ。雇ったといわれている傭兵部隊とは格も人数も違いすぎるらしい。陽動されるほどの人数でもないし。歩兵である俺たちはこのまま城に残って、アレスやデルムッド、ナンナやフィーとか、機動力のある騎馬隊だけ加勢に出て欲しいとのことだ」
「なるほど」
城下町には、つい先ほどセリス、オイフェ、リーフ、フィンの四名が出かけていたはずだと思い出しながら話を聞く。
機動力があるメンバーといえば、あとはレスターやアルテナも挙げられるだろう。
「俺たちもいつでも出られるようにはしておく。俺たちが出ることになっても、城はハンニバル将軍を中心に守備を行うようにと、そこまで通達は来てるんだ。みんな、もう出発してる。急いで出てくれよ!」
「わかった」
アーサーの口ぶりでは、アレスがあんなところにいるとは誰も気にしていなくて――リーンに聞いてアーサーが来たのかはよくわからないが――連絡にくるのが遅くなった、という感じなのだろう。
確かに、土煙が目視出来てからの対応としては早すぎる。きっと、もう少し前の時点で見張り台や城下町に設置されているそちらの見張り台からも発見されていたのだろう。
アレスは帯剣していることを改めて確認して、階段を駆け下りた。
騎馬隊とはいえ、行き先が決まっていて合流するならば、別段そこいらへんの軍隊のように規律を守って進軍する必要もない。きっと、連絡を受けてから、皆はそれぞれ自分のペースで既に出たに違いない。
しかし、厩にようやく辿り着くと、そこにはまだ出かけていない人物が居た。
ナンナだ。
何故か、ナンナの傍らにはラナが居て、ナンナに治癒の杖をかざしている。
何があった。どうしたんだ。
そう言いたい気持ちもあったけれど、それは後回しにしよう、とアレスは自分の気持ちを落ち着かせ、二人に近づいた。



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