恋人宣言-7-


そんなアレスの気持ちを見透かしたように、ナンナは困ったような笑みを浮かべた。
「今、そんなこと言われたら台無しだわ。だって、わたし断れる自信がない」
「なんで断るんだ」
「お金、貯まってないし」
「ナンナは、時々物凄く馬鹿になるな」
「知ってる。でも、決めたのよ、わたし」
「ん?」
「お金貯めたら、アレスに告白しようって。昨日決めたの。アレスが言うように馬鹿みたいでしょ。昨日の今日であんな風にあなたにみつかっちゃうなんて。でも、折角決めたから、もう少し待って」
そう言ってナンナが微笑めば、アレスは肩をすくめて唇を引き結んだ。
自分たちは間違いなく、好きあっている者同士だ。それを、今更どうこう言って関係を足止めしなければいけないなんて。
一瞬心をよぎった彼のその思いは、誰が彼の立場でもそう感じるものだっただろう。
しばらくの無言の後に彼の頬は軽く緩み、その唇の間から困ったような、まことに情けない笑い声が漏れた。
「あんまり待たされると、困る」
「・・・他の子に、なびく?」
「逆だ。ナンナが、他の男になびいたら困る。だから、早く貯めてくれ」
お互い、馬鹿げた会話だと思う。
アレスも思い切って言えば良いのだ。
金なんていい。恋人になってくれと。イード砂漠には一緒に行こうと。
今すぐ手をとって、彼女を安心させればそれで何もかもうまくいくに違いない。
そして、ナンナも意地をはらなくて良いのだ。
イード砂漠に行く行かないは別で、アレスのことが好きなのだと。恋人になって欲しいと。
彼女がそう言えば、それで全てが解決する。
それでも、この意地っ張りな可愛らしい姫君をアレスは好きになってしまったのだ。勝てるわけがない。
彼はナンナと親しくなって以来、いつだって「ナンナのわがままに付き合ってやってもいい」というスタンスで彼女を見守ってきた。それは、きっとこんな時にでも変わらないし、この先も変わらないのだろう。
本当は、そう思った時が恋に落ちた時だったのだという自覚が彼にはないけれど、彼は「フィンに思いを寄せているナンナ」である頃の彼女と親しくなり、そしてそのまま好きになってしまったのだ。
「待っていてくれるの?」
彼に自分の身勝手を受け入れて貰えたことを知りつつも、恐る恐る聞くナンナ。
ナンナだって彼の突きつけた『お願い』が、彼に相当な苦労をかけることだと知っている。
また、デルムッドも大変な思いをするだろうし、ノディオンの民の元へアレスを返す時期も延ばしてしまう。
それでも、アレスに自分と一緒に行って欲しい。
その気持ちを『何も考えない単純な我が侭』と思われたくなくて、傭兵への給金として資金を形だけでも作る誠意を彼女は見せたかったのだろう。
その自己満足といえる行為は彼女にとって必要な武装であり、彼を利用するために告白をするのではないという自己主張だ。
そのうえ、いつまでも彼女の心から離れない、もう一つの避けて通れない問題もある。
困ったことに、フィンへの一方通行の想いは、彼女が目を逸らせるほどの時が未だたってはいないのだ。
彼から両手を差し出されても、そんな状態で今すぐ彼の胸に飛び込んでいけるほど彼女は軽率ではない。
あっさりとアレスに乗り換えたように思われること、それほどにフィンへの思いが軽いものだったと思われることも、ナンナにとってはつらいことだ。
今の己の気持ちに嘘がつけずにアレスを求めるけれど、複雑な思いは彼女の心中でずっと蠢き、その足を引き留める。
アレスは、彼女のそんな様子を責めない。
とても静かにやるせない片恋を過去に温め続けていた彼女には、本人にしかわからない戸惑いも苦悩もあるに違いないのだから。
「本当なら、そんな面倒なことはやめろって言いたいが」
アレスは意地の悪い笑みを浮かべ、またソファから体を起こした。
「ナンナから告白してもらえるなら、待つ甲斐がある」
「!」
思いもよらぬアレスからのその言葉。
そんな風に逆に言われてしまっては、それはプレッシャー以外の何物でもない。ナンナは照れたように、困惑の表情を浮かべた。
「期待、しないでね。あの、わたし、別にそういうこと・・・得意じゃないし」
「告白が得意なやつなんているか」
「そうだけど」
「ナンナの気が済むようにしたらいい。どんな告白しようか、悩んでくれ」
投げやりな乱暴な発言は、むしろアレスらしい。それを知っているナンナは安堵しつつも、少しだけ不満げな表情を見せた。
「もう!・・・でも、ありがとう」
最後に、頬を紅潮させながらの可愛らしい微笑み。それを目を細めてみつめるアレス。
多分、誰に話しても「お前達は阿呆か」と言われるに違いない、とアレスは思う。
けれども、彼だけは知っている。
ナンナがフィンに深い思いを寄せていた当時、どれだけ彼女が一途に、己の立場に葛藤し続けていたのか。あれだけの感情は、彼女の心の中に深く根を張り、簡単に消えることはないのだろう。今でさえ、それは残っていてこんな形で彼の行く手を阻む。
ナンナがアレスを選んで恋人同士になるということは、フィンにもその関係を認識してもらうことになるだろう。それひとつ考えただけでも、ナンナの複雑な心境がうかがえるというものだ。
だから、一歩踏み出すためのちょっとの勇気ときっかけが欲しくて。
(きっと、本当は単純な気持ちだったんだろうな)
よし、決めた。お金を貯めたらアレスに告白しよう。お金が貯まるごとに、わたしの覚悟だって決まるに違いないもの。
そんな風に奮起したナンナの様子を想像すると、馬鹿なお姫様だと言いたくなりつつも、見守りたくなる。
彼が想像したそのナンナは、彼の認識の中のリーンに少しだけ似ている。
他の女性を引き合いに出すことはよろしくないと知っているが、少なくともナンナとリーンの、己を奮い立たせて無理に前向きになろうとする姿勢は似ているように思えたし、どうやら女性のそういう様子にアレスは弱いらしい。
(俺は、女性相手は思いのほか負け戦だらけだな)
少しそれを癪に思いつつ、ローテーブルを挟んだ状態で腰を浮かせるアレス。
「前払いだ」
「え?」
前かがみになったアレスは、ナンナの耳元に手を伸ばして、彼女の顔にかかっている髪を親指でどけた。
何、とナンナが思った瞬間、断りもなくアレスの顔はナンナに近づき、あっという間に唇を奪われてしまう。
ナンナはほんの一瞬驚きの表情を見せた。が、決して彼を拒んではいなかった。
アレスは『嫌』と先ほどナンナに言われたけれど、本当はそうではないことを願っていた。そして、彼のその願いは聞き届けられたようだ。
いつだって恋人同士になれるはずの、ぎこちないけれど何の恐れも無い初めての口付け。
触れ合う時間は僅かであったが、そっと唇を離して、また吸い寄せられるように二度、それからまたゆっくり唇を離し、更に離れ難くてもう一度。
(不思議だ)
好きな相手との初めての口づけというものは、いつだって鼓動が高鳴って、なりふり構わなくなるものではないかと思っていた。あるいは、逸る気持ちに自分が付いていけなくて、逆に気まずくなってしまうものではないかと。
しかし、鼓動の高鳴りの代わりに彼が感じたのは、まるでずっと前からこうしていたのではないかと思えるような錯覚。
そして、あまりにそれが当たり前なのに今まで忘れていたような。
だから、一度で満足は出来ず、何度でも思い出したように離れがたくなる。
(畜生。もっと、早くこうしていればよかった)
けれど、たとえアレスの恋の自覚が早くとも、それは叶わぬことだったと彼はわかっている。
三度目の軽いついばむような口付けの後、ナンナは体をひいてアレスから逃げるようにソファに身を委ねた。
ここにローテーブルがなければ、きっとアレスは追い詰めるように抱きしめただろう。
が、彼を押し留めたのはローテーブルだけではない。
アレスの手よりも随分小さなナンナの両手がそっと自分の口を覆い、それ以上のアレスの追撃を許さなかった。
「アレス」
「うん」
「えっ・・・と・・・前払いって・・・どっちが、どっちに、どう払う分・・・?」
「どっちがどっちにでも、いいだろ」
間抜けにも思えるナンナの問いに、アレスは苦笑いをする。
ソファの背もたれに深く沈んで上目遣いで彼を見上げるナンナは、すっかり縮こまっている。
彼女はそれ以上何も言わないが、じっとアレスを見続けていた。
「何だ?何か、言いたいことがあるのか」
「ないけど・・・見張ってないと、アレスがまた、何するかわからないもの」
そのナンナの発言に、アレスは不意をつかれたように一瞬目を見開き、それから噴出した。
「はは・・・確かに、そうだな」
「そうよ」
アレスのその笑顔をみて、ナンナも小さくさえずるように笑い声を漏らす。
彼女のその笑みで、その場の空気がふっと和んだ。それは、既に恋人同士以外の何物でもない男女が共有する空気に近い。
それでも「まだなってない」と言い張るナンナの様子を誰かが見れば、きっとみな驚くだろう。そんな風に彼女が意固地になること自体珍しいと人々は思うに決まっている。
けれど、アレスはそうは思わない。そして、そう思わないからこそ、ナンナも彼を好いているのだ。
誰しも、心の折り合いをつけることはとても難しい。
アレス以外に、ナンナの心の中でずっとひそやかに続いているフィンに対する複雑な愛情を知る者は今までにも、そして、この先も現れないだろう。だから、彼女の心のその折り合いを見届けるのも、アレスにだけ与えられた役割なのだ。
彼は最後に「闘技場に行く時には、ラナに頼んでついていってもらえ」と、ナンナを心配しているという自分の思いを隠さずに伝えた。


「とりあえず、俺をイード砂漠行きに巻き込むための賃金を稼ぐんだそうだ」
憮然とした表情のデルムッドに、アレスはあっさりと言い放つ。彼は、多くをデルムッドに言うつもりはない。
かいつまんで、自分とナンナがこの戦いが終わったらレンスターに戻ること、そして、レンスターが落ち着いたらその後イード砂漠に行くこと。それをアレスは説明をした。
イード砂漠に赴けば、探索にどれほど時間が必要かはわからない。何も収穫はないかもしれない。
けれど、それがどういう形にせよ終わったら
「アグストリアに行くから、それまで任せてもいいか。俺たち以外に、デルムッドの力になれる者がいればいいんだが・・・」
「ああ、その点は心配しなくていい。俺も、闇雲にノディオンに行って『ラケシスの息子が帰ってきた』と名乗りさえあげればどうにかなる、なんて阿呆なことを考えているわけではないから」
そう言ってデルムッドは微笑を浮かべた。彼は詳細はそこで話さなかったけれど、どちらにせよ戦を終えた後には、今後のことをアレス達と話し合うつもりだと告げる。
「それに、母さんのことについては、本当は俺がイード砂漠に行きたいぐらいなんだ。一度は渡ってきたところだしね。だが、ナンナが言うように、母さんに瓜二つといわれるナンナが行く方が確かに良い。そして、誰かはこの戦いが終わるタイミングでアグストリアに・・・少なくともノディオンに戻った方がいいとも思う。それなら、悪い分担じゃあない」
そうデルムッドが言うのと、アレスが食事を終えるのはほぼ同時だった。
「で、なんだって?そんな話をしてるのに、ナンナに振られたって?」
「ああ」
かたん、とアレスは椅子をひいて立ち上がる。
彼からの話はもう終わったのだと、デルムッドは気付いた。もちろん、デルムッドからも今の時点で話すことも他にはない。
「自分から告白する予定だから、俺の告白は受け入れられないらしい。そんなわけで、そのうちいずれナンナとは恋人になる」
デルムッドも、側で聞いていたコープルも、アレスのその発言には唖然とした。
意味がわからない。
そういいたげな二人に、アレスは生真面目な表情で
「いつなれるのかは、ナンナに聞いてくれ。じゃあな」
とだけ言い残し、談話室を出ようとトレイを持って歩き出した。
その背をみつめていたデルムッドは、不意に深いため息をつき、椅子の背にもたれかかる。
何も言わずに心配そうに見ているコープルに気づかぬように、彼はぼそりと
「いやだなぁ・・・」
と呟いた。
「・・・あの・・・デルムッドさんだけ・・・ノディオンに行くってこと、ですか?」
「とりあえずそれは確定だな。ああ、でも、嫌っていうのはそのことじゃないんだ」
「?」
「いつか、アレスに義兄さんなんて、言われるようになるのかなぁ。それだけは勘弁して欲しいな」
それを聞いたコープルは内心「立場的には『義兄さん』なんてくだけた言葉ではなく『義兄上』になるんだろうけど・・・」と思ったが、それは口に出さなかった。
「デルムッドさんは、ノディオンに行かれるんですね。アレスさんは確かに神器をお使いになるし血統としては申し分ないんでしょうけれど・・・デルムッドさんがお膳立てをしてあげた方が、いいんでしょうね」
解放軍の中ではかなり年若い方であるコープルがそんな話題に饒舌になることに驚いて、デルムッドは軽く眼を見開いた。
普段物静かで、あまり自分から会話に参加をすることがない控えめな印象からは、いささか予想外のことだ。
「コープルは案外と言うんだな」
「あの・・・ノディオンのことをよく知らないのに、出すぎたことを言ってすみません。でも、父のもとで、政治絡みの話はよく耳にしていましたから、なんとなくこう、思うところはあるんです。僕がいるところでは、あまり話したがらないんですけど・・・」
「そうか」
「だから、姉がファバルさんと一緒にユングヴィに行くのも・・・好きだから、とかそういうのだけじゃなくて、それはなんていうか、すごく正しいような気がします。ファバルさん一人がユングヴィに行けば、その、血筋だけでどうにかなるってもんじゃないと思うし」
そういうと、コープルは脇にどけていたボードゲームの位置を戻した。
デルムッドは苦笑を見せ
「俺は一緒に行ってくれる彼女もいないけどね」
「その代わり、アレスさんもナンナさんもいらっしゃるじゃないですか」
「いつ助けに来てくれるかは、あてにならないのが困りものだ」
コープルからの返事はなかったが、きっと「そうですね」と彼は言いたくなったのだろうとデルムッドは思う。
「損な役回りだとは、思わないけど」
そう付け足して、ボードゲームにデルムッドは手を伸ばした。
彼の番で中断していたことを、二人は覚えている。
「コープルは、エッダに?」
「まだ、わかりません。父さんと離れることは・・・あまり、考えられなくて。でも、父さんに言えば、一人で生きられる年齢になっているって言われると思うんです。それに、デルムッドさんと違って、グランベルにはセリス様も、ファバルさんも、それこそ、少し離れてたって姉さんが残るのでしょうから・・・」
なるほど、とデルムッドは心の中で呟いた。
リーンとコープルの父であるクロード神父は、エッダの党首という政治的に影響を持ちそうな立場でありながら、一説には浮世離れした人物だったと言う。
コープルは父親譲りの穏やかな性質らしいが、きっと父親が持ち合わせていなかった面も多々あるのだろう。当然、その逆も。
(イザークでは、時々オイフェさんに父上のことを聞いたものだ。その時にはいつも『デルムッドは両親の短所は受け継がれていないようだ』と言われていた。アレスもナンナも親に瓜二つだと言われるが、それは単に造作のこと。実際に親に育てられたわけでもない。それでも、親のように・・・とノディオンででは期待されるんだろうな)
俺は、顔だけでも親に似なくてよかった。
そんな風に思うのは親に申し訳ないだろうか、と思いつつ、ゲームの盤面へと視線を移す。
そして、コープルが打った次の一手を見て、もう一度デルムッドはため息をつくのだった。


それからほどなくして、彼ら解放軍はシアルフィ城を後にして、エッダ、ドズル、フリージ城を次々に制圧する快進撃を見せた。そのめまぐるしい進軍の日々に、当然彼らは徐々に消耗していたものだが、最終決戦となったヴェルトマー城を制圧するまで、戦の勢いは衰えることはなかった。
親達の代より、グランベルを隠れ蓑として蠢いていた悪の元凶であるマンフロイを、遂に彼らは討ち倒すことに成功し、拉致されていたユリアとの再会も果たした。
ヴェルトマー城を制圧した一同は、レヴィンの情報を元に宝物殿に隠されているナーガの書物を探すこととなった。ナーガの書物は、唯一暗黒神ロプトウスに対抗出来る魔法書だ。
「ディアドラ王妃の形見であったサークレットにカギを仕込まれていました。あのサークレットがあれば・・・」
フェリペ司祭からのその言葉を聞いたセリスは、それがいつもユリアが身につけていたサークレットだと気付く。
「ユリアを、呼んでくる」
「ありがとう、アレス」
たまたま同行していたアレスが、セリスとレヴィンを置いて、ヴェルトマ―城の奥まった場所にある宝物殿から離れた。
城を制圧したといっても、実際はまだ残兵がいることは多く、とりわけ、城の生活を担っている使用人達は隔離されるでもなく残っている場合もかなり多い。
彼ら以外の解放軍の者達は、そういった城内にいた使用人や兵士をひとところに集めたり、他の勢力がどこかに潜んでいないかどうか城周辺に早速斥候を出さなければいけない。
城内はともかく、外にはごろごろと馬や兵士達の遺体が転がっているし、グランベル領地に入ってから解放軍に志願してきた新兵の中にも命を落としたものだっている。遺体を放置しておくことは疫病に繋がるため、それらは何時間何十時間かかろうが手を打たなければならない面倒な処理だ。
マンフロイに操られていたユリアも、マンフロイを倒した後には正気に戻ったようだった。
しかし、他者に操られるということは相当に疲労に繋がるようで、彼女は今とりあえずの形でヴェルトマーの一室で休んでいた。
せめて、サークレットだけでも借りてこなければ、とアレスはまったく慣れていない城内を走り、彼女が休んでいる部屋にたどり着いた。
「では・・・今すぐ行きます」
ありがたいことにユリアは起きていて、事の次第をアレスから聞くとすぐに宝物殿に足を運ぶことにした。
アレスはもと来た道を足早に戻ろうとしたが、ふと気付けばユリアの歩みはアレスの歩みに比べれば相当に遅い。それでもどうにかついていこうと、健気に小走りになっているせいか、ユリアの息は少しあがっている。
(しかも、体調が優れないときた。もう、いっそサークレットだけ先に・・・いや、そういうわけにもいかないだろう)
面倒だ、と舌打ちしたい気持ちを抑えながらアレスはユリアに歩調を合わせ――たつもりになっていても、気付けばすぐに引き離しているのだが――気をつけて歩こうと試みる。
城の中はあちらこちらで人々の声が聞こえ、その喧騒とユリアの歩調への苛立ちで、アレスが僅かに気を緩めた時にそれは起こった。
「きゃあああ!」
響くユリアの声。
その声がアレスの鼓膜に届くよりも先に、気配を感じてアレスは振り返った。明らかな殺意がユリアに向けられていることを感じる。
またも僅かにユリアとの距離が空いてしまっていたのが、彼の失敗だ。
城にいた残兵――見れば、その男は司祭のような黒いローブを身に纏っており、ロプトウスを崇めている者だと一目でわかる――が突然細い通路から姿を現し、何かの魔法を行使する。ユリアは、まったく無防備で魔法書どころか杖すら持っていない。
アレスは床を強く蹴り、腰の剣を引き抜き、ユリアを庇うようにその男との間に割り込んだ。
どん、とまるで心臓部分を強く押されたような衝撃がアレスの体に走った。しかし、彼の体はそれをものともせず、黒いローブの男を切り捨てる。その狂信者は掠れた声で「ロプトウス様」と切れ切れに言い残し、その場に崩れ落ちた。
「あ、アレスさん、ありが・・・!?」
ユリアが礼を言いかけた時、アレスの膝ががくりと折れ、そのまま床に落ちた。
少なくとも、あの男が行使した魔法はファイアーでもサンダーでも、今までユリアが見たことがないものだ。そして、その魔法をアレスが受けたのだということすら、実はユリアにはわからなかったほど、見た目で判断がつかないものだった。
「・・・な、んだ、これは・・・」
アレスは、剣を手から落とした。
息苦しさと体の力が抜ける、普段ならば反する感覚にぞっとする。
今まで自分が体験したことのない、体の内側で何かが起こっているという異質さを彼は感じ取っていた。
剣がかしゃんと音を立てて床に転がると同時に、彼は胸元に手を添えたまま前のめりになって、どう、と倒れた。
「あ・・・あ・・・・・・アレスさん!アレスさん!」
ゆっくりと遠のいていく意識の中、ユリアの声が届く。
そんな風に大きな声をユリアが出せることをアレスは初めて知った。
痛みも何もない状態で倒れることなぞ、通常ありえない。そのありえない状況に陥ったというのによくもそんな呑気なことを考えられるものだ。(と、後から思い出して彼自身がそう思ったのだが)
膝が落ちた時、そして前のめりに倒れた時。
それぞれは、痛いと感じた。
外傷があるのにそれに気付かないわけでも、痛覚が麻痺しているわけでもない、と彼は判断した。
(・・・なんだ、あの魔法は・・・外傷は、ないようだが・・・なんだ、これは・・・ああ、外傷でも、確か、ユリアは杖を持っていなかったし・・・)
瞳は閉じられて暗闇の世界に落ちていく感触。その反面、最後の意識が途絶えるまで、何故か思考は冷静だ。
もしも、この先に死が待ち受けているとしたら、これは「眠るように」ではない。
最後の最後に、嫌になるほどはっきりと彼は確信した。


張り付いているのかと思うほど重い瞼。
まるで目やにがこびりついているのではないかと思うほど、瞳を開けることが困難だ。
苦労しつつもようやく少しずつ視界が開けてきても、頭はよく動かない。
飛び込んできた光景は、薄暗い天井。
そして、あごのあたりを掠めている毛布の感触。
「・・・う・・・」
と上半身を起こそうとしても、なんだか体全体が重くてやたらと時間がかかる。
まだ、頭がうまく回らない。いや、それどころか体そのものがうまく動かせないことに気付き、アレスは焦った。
「動ける?もしかしたら、時間がかかるかもって」
声をかけられて、ようやく誰かが室内にいることに気付く。そのこと自体が彼にしてみれば異常なことだ。
馴染みのある声に安堵するよりも、その異常事態を感じ取ってアレスは忌々しく思った。
「・・・ナンナか・・・」
「ええ。つい今まで、ユリア様が見てくれていたのだけど・・・責任を感じていらしたようで。でも、ユリア様こそお休みにならないといけないから、替わったの」
ナンナは部屋の窓のカーテンを閉めからベッドに近づき、看病用に置かれていたらしい椅子に座った。
「・・・俺は、どうした?」
「なんか、変な魔法を使われたみたい。傷はないけど、一時的に仮死状態になったんですって。レヴィン様が見てくださったわ。わたしもよくはわからないけど・・・よかった」
上半身を起こしてぼんやりしているアレスに、ナンナは両手を伸ばしてきた。
体がうまく動かないアレスは、ぼんやりと「なんだ?」とまるで人ごとのようにその様子を見ていたが、彼女の腕が彼の体を抱きかかえ、ぐい、と引き寄せられたことにはさすがに驚いた。
「ナンナ?」
ナンナの肩に頭を乗せた状態で、アレスは彼女に抱きしめられる。あまり長くない彼女の金髪が、アレスの鼻をくすぐる。柔らかい花の香りは、洗髪後に彼女が使う香油の香りだろう。
「アレスが、生きていてよかった・・・」
「ナンナ」
「・・・ユリア様の声がして、たまたま近くにいたわたしが最初にあなた達のところへ行けたの。そうしたら、アレス、心臓止まってたのよ」
「何?嘘だろう?」
「本当よ。体に何も傷はなかったのに、心臓止まっていて倒れてて・・・わたしのリライブでも、何も反応しなくて・・・」
ぎゅっとナンナの腕に力が入った。それだけで、どれほどナンナを心配させたのかがアレスにもわかる。
前のめりになって少しばかり苦しいアレスは、動けないながらも力を入れて逆にナンナを引っ張った。
「きゃ・・・!」
ベッドに倒れこむ二人。
ナンナは椅子から腰を浮かせてアレスの胸元に体を重ねていたが、やがて観念したかのようにベッドに乗ってアレスの横に寄り添う。
ぱたぱた、とナンナは足を動かしてブーツを脱ごうとしたようだったがそれは徒労に終わる。アレスは「気にするな」と呟いて、まだ思うように動かせない腕をナンナの背に回した。
ナンナは、それを拒まない。
彼女が拒まないのは、それほど本気で一度はアレスの死を覚悟したからなのだろう。
「すぐに心臓は動き出すけど、暫くは意識を取り戻さないだろうって・・・レヴィン様が見てくださったの。アレスが庇わないでユリア様がその術を受けていたら・・・ユリア様、マンフロイに操られていて体が弱っていらっしゃるから、その状態では『戻って』これなかったかもしれないんですって」
「そうか。それは・・・よかったというべきか・・・」
「よくないわ。いいわけないでしょう、アレス」
「・・・心配させた。でも、不可抗力だ」
「そんなの、わかってる」
ナンナは静かに体を起し、ベッドの上でアレスを見下ろした。
看病する人間が困らない程度にだけ室内を照らす灯りは、彼らの邪魔をしない。その暗さは心地よいとアレスは思う。
「あのまま、もう、アレスが目を開けなかったらどうしようかと思った」
「・・・ああ」
適当な相槌をアレスはうったが、それも仕方のないことだ。答えようがない。
アレスが次の言葉に困っていると、ゆっくりとナンナが彼の上に覆いかぶさってきた。それは、あの日彼からそうしたように。
(目が、合う)
女ではないから、恥じらって瞳を閉じはしない。
むしろ、近づいてくるナンナがためらいがちに少しずつだけ瞳を閉じていく様子を見逃したくなかった。
さらりと、彼の頬に落ちる彼女の髪。
目線を絡ませたままで、長い睫がそれを遮ったと思った一瞬、ナンナの唇がアレスの唇に重なる。
アレスは、ベッドについていた彼女の手首を不意に掴んで体を浮かせ、更に強く彼女の唇を求めた。
驚いて身を引くナンナを、彼は許さない。
「ちょっと・・・アレスっ・・・んっ・・・」
あの日、初めて唇を重ねてから、ようやく訪れた二人きりの時間。
そして、ナンナから初めて彼に与えられた口づけ。
(ナンナはもう、後戻りをする気はないんだ)
ようやく強引なアレスの口づけから解放されたナンナは上半身を起こし、ベッドの縁に腰掛けて息を荒くついた。そして、なんとも情けない言い訳をする。
「もう!わ、わたしだって・・・もう、あれでいっぱいいっぱいなのに!」
いつもならば、アレスは笑うだろうところだ。しかし、彼は笑わなかった。
「ナンナ」
「・・・え?」
「いっぱいいっぱいでもいい。たまには俺にわがままを言わせろ」
「な、に?」
「もう一度、キス」
何の体裁の取り繕いもないそのアレスの言葉。
ベッドの上で横たわってそう言うアレスは、もう一つお菓子が欲しい、と駄々をこねる子供のようにナンナには見える。
恥ずかしそうに小さく笑うナンナ。
「一度だけよ」
「それでいい」
「これも、前払いね」
そんな会話を覚えていたのか、とアレスも声を出して笑う。
お互いのその笑い声で、彼らはいつもの自分達になった――はずだった。
が、薄暗闇の中で、微笑んでいたはずのナンナが不意に表情を強張らせる。
それを見たアレスは驚かない。
ナンナはひたすらにまっすぐアレスを見下ろして、それから、唇を少し開けた。けれども、そこから声が出てこない。
言葉が出ないのか、言葉を出す勇気がないのか。
アレスは、ナンナから目を逸らさない。
やがて、一度唇を引き結んでから、意を決したようにナンナは声を発した。
「アレス」
「ああ」
「いなくならないで」
投げかけられたその言葉は静かな声音であるにも関わらず、強い響きをアレスに感じさせる。
「・・・ああ」
「わたしが、あなたのものになるまで、いなくならないで」
「・・・」
「でも、その先も、いなくならないで」
それは、「死なないで」の意味だ。
アレスは、彼女の言葉を茶化すことなく静かに聞くと、上半身をゆっくりと持ち上げた。
「人間二人が共にいれば、どちらかは必ず先にいなくなる」
彼は、まるで彼女の言葉を否定するかのように、はっきりと言い放つ。
「たとえ、イード砂漠で討ち死になさった、リーフ王子の両親であろうと。必ずどちらかは相手を失った哀惜を得て、どちらかは相手を残していく悔恨を得るに決まっている。命あるものは、誰もが等しくそのように出来ているものだ。共に死ぬことを選ぶ以外に、それを避ける手段はない」
彼の言葉を聞くナンナの表情は静かで、そして真剣そのものだ。彼女は、アレスの言葉に続きがあることを察しており、ひたすらに次の言葉を待ち望んでいた。
「俺の命は俺のもので、その所在を誰に決められるものもごめんだ。エルトシャンの息子、黒騎士ヘズルの血統、それに縛られて生きる場所を定められることにも嫌気はさしているのが本音だ。だが、それでもお前がそう望むなら、いくらでも善処しよう」
「アレス」
「俺は、ナンナの我侭に付き合うのが、どうやら好きなようだ」
「そんなの、とっくに、知ってたでしょう。あなたは奇特な人よ」
「そうかな」
「そうよ」
ナンナは、泣き笑いの表情を向けた。
いや、アレスが一瞬そう思っただけで、それは正しくないかもしれない。
ナンナは躊躇せずにアレスにそっと体を寄せて、その柔らかな唇で彼の唇を捕らえた。
経験がなくとも何故かぎこちなさのない口付けは、お互いを求める気持ちが同じだということを表している。
(思い上がりだ)
ナンナの髪から香る花の匂いの中で、アレスは彼女の先ほどの表情をちらりと思い出した。
そうだ、思い上がりだ。
あれが泣き笑いではなくて。
愛情が外に迸った瞬間の表情だなんて。
それでも、彼女のその『泣き笑い』を見た瞬間愛しさがこみ上げて、こちらから口付けしたくなったのは間違いない。
ならば、それは彼にとっては思い上がりではなくて、自分だけの真実だ。



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