ふるさと-1-

レックスが生まれ育ったドズルは、内陸だ。嫌になるほど内陸だ。
バーハラとシアルフィに上下に挟まれたドズルは、気候はほどよく穏やかだが、冬はそれなりには寒い。しかし、農作物を作るにそうそう困る場所でもなく、年中日照時間も長く、ほどよい雨の恵みもそれなりに受けて、比較的住み易い場所と言える。
が。
「へぐじっ!」
レックスのくしゃみはかなりの勢いがあり、部屋の薄っぺらいカーテンを揺らした。
「なんだレックス、風邪でもひいたのか」
「なんでもない、なんでもない」
レックスは軽くアイラに手をふった。
正直、イザークというところがこんなにも気候が違うとは思っていなかった。寒暖の差が激しく、季節の変わり目にレックスはどこかしら調子を悪くしている気がしてならない。自分はこんなに弱っちかったか?なんて思うけれど、乾燥した空気が冷たくなって喉を簡単に痛めつける。寒い朝晩と彼は首元に布を巻きつけて、時には口にその布を当てたりすることもようやく覚えた。
あのバーハラの悲劇より既に2年。
レックスとアイラ、そしてエーディンは、イザークへと旅立ったオイフェ達を追いかけて、グランベルの追っ手の目を盗みながらリューベック城からソファラ城付近を経由して、更に北を目指した。ひとり座りすら出来なかった幼い双子を連れた旅は過酷を極めた。それのみならず、出発してほどなく、エーディンが二人目の子供を身ごもっていることが判明し、彼らの旅は驚くほど歩みが遅いものとなった。
それから更に半年、レックスとアイラは子供達を育てつつ、身ごもっているエーディンは体調を整えつつ、時にはグランベル兵による探索の手から逃げるように彼らは更に北へ北へと向かい、イザークの中でも辺境の地へと辿り着き、オイフェ達と合流をすることが出来た。
そこには、かなり長い間放置されていたイザーク王族の別荘−とはいうほど立派なものではなく、辺境視察の折りに時々使われていただけの、贅も何もない建物だ−があり、アイラの見知った顔ぶれが身を寄せて暮らしていた。
イザーク王家陥落の時に、運良く逃げ延びることが出来た女中やら数人の兵士やら。
いつの日か、アイラがシャナンを連れてイザークに戻る日が来るだろう。そのために、お前たちは逃げ延びよ。
そう、国の重臣達に言われて、涙乍らに王宮を後にした者たちばかりだった。
事実上グランベルの手に落ちたイザークは、レックスの兄であるダナンが国王となり、この地を治めることになっていた。が、今はまだシレジアやレンスターに対する戦を仕掛けようとしている様子で、ダナン本人はグランベルのドズルとバーハラを往復する日々を送っている。それゆえ、イザークには期限つきで代理の者が監視役として派遣されている状態だ。
ともかく、そういった中、レックスとアイラは自分達の子供である−イザーク王族の血筋をひく−スカサハとラクチェを比較的安全な辺境に連れて行くことに成功をし、エーディンもまた、自分の息子であるレスターと再会を果たした。そして、彼女は二人目の子供−可愛らしいラナという名の娘だが−を出産。
安心こそは出来なくとも、慎ましやかな生活を彼らは続けていた。そう。まるで、あのシレジアでの仲間達との日々のように・・・
「もうすぐ春になるのだがな、朝晩の冷えがまた戻ってきて厄介だ」
「ああ。俺なんかより子供達の方が心配だ」
「何を言う。子供達の方が余程元気だぞ」
くくっと喉を鳴らしてアイラは笑った。あー、はいはい、とレックスは肩をすくめて降参のポーズをとった。
「アイラ様、2人の用意が出来ましたよ」
部屋の外−とはいえ、ドアも何もない開けっ放しの場所なので、外も内も関係ないのだが−オイフェの声が聞こえた。今日は、家族四人で海に行こうとめずらしくアイラが提案をしたので、海風で冷えないようにとオイフェが子供達の服を調達してきてくれたのだ。
「ああ、悪いな、オイフェ」
「かーさま!」
おいおい、とーさま、じゃないのか。レックスはそう思ったけれど、それもいつものことなのでいちいち言うことでもない。
とっとっと、とおぼつかない足取りで走ってくるのはラクチェだ。めずらしく外套を着ている。それはどうやら誰かのお下がりらしく、彼女には少しばかり大きいようだ。
どうも彼らの息子娘は成長が早いらしく、2歳になる前には言葉二つを組み合わせた会話も出来るようになっていて周囲を驚かせたが、2歳になった今はもう、小さなお手伝いもするようになってきた。
セリスやレスターにデルムッドといった、同じくらいの年の子供達と共に育ったのが幸いしたのだとレックスは思っている。
「オイフェ、これ着せるの。これやだ!」
「ああ、ラクチェ、しょうがない。これからちょっと風が強い場所にいくからな」
「重い服、いや!」
その言葉にぶはっとレックスは笑い出した。
ラクチェのその言葉は、時々アイラが言うセリフそのままだったからだ。
「おおい、スカサハはどーした」
レックスは笑いながら部屋を出て、オイフェのもとに歩いていく。
シグルド達と別れた頃よりも、更に上背が伸びたオイフェは、今は子供達の世話を焼きつつも騎士としての鍛練も欠かさず、イザークのことをよく理解しようと知識を日々身につけようとしている。既に彼はこの館には不可欠な人物だった。
「とーさま」
「お、スカサハ。いいな、似合ってるじゃないか」
「スカサハにはちょうどいいサイズがあったんですけどね。ちょっと色が暗いでしょうか」
「なーに、なかなか渋くていいじゃないか」
暗い灰色の外套は、確かに子供っぽくはない。オイフェもそれをわかっていてレックスにそう言ったのだろうが、まだまだオイフェも子供心がわかってないなぁとレックスはにやりと笑って見せた。そういうときは、いっそ誉めてしまう方が問題なくてよいものだ、とレックスは信じて疑わないからだ。
「な、スカサハ、男らしい色じゃないか。かっこいいぞ」
しかし、スカサハは2人の思惑なぞどうとも思っていなかったようで、何も言わずにレックスを見るだけだ。それもまたいつも通り、とレックスは苦笑いをする。
「オイフェ、ありがとな。んじゃ出かけてくる」
「はい。お気をつけて」
「うん。あ、シャナンは?」
「セリス様とデルムッド様を相手にしていますよ。わたしも今からご一緒するつもりです。レスターは相変わらずエーディン様がラナに歌ってあげているのを楽しそうに聞いていますよ」
だからこそ、オイフェもシャナンもセリスとデルムッドを相手にしてくれているのだ。親と共に生活できない彼らが、スカサハ達を、レスター達を、出来るだけうらやましいと思わなくて済むように。
その気持ちをレックスは心底ありがたいと思っていたし、また、自分達もここにいるうちに、どの子供達に対しても多くのことを伝えなければ、と思える。
「行こう、スカサハ」
「あい」
小さな返事をして、スカサハはレックスについていく。歩けるようになってからは、レックスはわざとスカサハの歩調に合わせないことがある。そういうときは数歩進むと、ぎこちなく追いかけるスカサハを振り返って止まってやる。その繰り返しだ。最初は泣き出すことも多かったし、今だって時々どうしようもなくその場から動かなくなることもあったが、レックスは決して近づかない。
レックスの記憶の中の父は、「次男坊とはいえ、ドズル家の男子がそんなことでどうする」と何度も彼に言っていた。
レックスは決してそんなことを言わない。が、必死に追いついてきたスカサハを抱き上げて
「よーし、お前は強い子だ。偉いぞ」
何度も何度も頬擦りをして、彼なりの愛情を伝えようとする。ラクチェを連れて部屋から出てきたアイラは、自分の夫と息子のその様子を見て、にこやかな笑みを見せるのだった。

ラクチェに比べてスカサハはあまり言葉を多く話さない。
ラクチェは早いうちから色々な音を発して、二歳になった今はアイラが「駄目だ、ラクチェ!」と怒る声すら「らめ、らめ!かーさま、らめ!」と朝から晩まで繰り返す日もあるほど、楽しそうに言葉を早く覚えていた。その反面、「これだけは聞かなければいけない」という、レックスとアイラからの信号を受け取れば、ぴたりと口を閉ざして黙って2人の言うことを聞く聡明さも持ち合わせている、不思議な子供でもあった。
一方スカサハはというものの、1歳までは精一杯声を張り上げて泣くことも多かったと言うのに、ここ最近ようやく2歳を越えたあたりから、言葉どころか声を張り上げることも減ってきた。大人になるには早すぎるその変化は、あまりいいとはいえないものだ。質問をすればそれなりに答えが返ってくる。話をするという行為は確かに成長しているのだが、なんにせよラクチェとの回数の比ではない。これで本当に言葉をちゃんと覚えているのか?とレックスは心配にもなることがある。声を出す回数と、言葉を覚えるという成長は比例するのだと彼は思っていたし、ほとんどの場合それは間違っていないからだ。
しかし、母親であるアイラはいたって呑気で
「スカサハは内気なだけだろう」
と、けろりとしている。そうか?それだけでいいのか?とレックスは思うが、口数が少ないだけで、大人が話していることはかなり理解しているようにも見えるし、時期がくれば多く話せるようになるのだろう、と思うことにした。
アイラは荷物を馬に括りつけながら、楽しそうにじゃれあっている子供達を見ながら呟いた。
「もう少し大きくなれば、釣りでも一緒に出来るが、まあ今回はしょうがないな」
「釣り?」
その呟きを聞き逃さずにレックスは驚いて聞き返した。
「お前、海釣りなんか出来るのか?」
「当たり前だ。レックスは釣りをしたことがないのか」
「お前、俺を誰だと思ってるんだ」
「ドズル家の次男坊」
「そういうこと」
「どういう答えだ」
アイラはきょとんとレックスを見た。2人がそんな会話をしている間、子供達は子馬に触ったり、通りかかった女中に話し掛けられたりと親のことなぞ何も気にしていない様子だ。
「筋金入りの内陸育ちだぜ。川で釣ったことはあるけどな」
「あるんじゃないか」
「アイラは海釣りをしたことあるのか」
「お前こそ、わたしを誰だと思ってるんだ」
「イザーク王女」
「わたしは、イザークの女だ。野生の動物をさばけば、魚だって釣るぞ」
いくらなんでも信じられない。レックスは疑い深そうに無言でアイラをじっと見つめた。やがて、アイラは観念したように
「バレたか。嘘だ」
と、しれっと言って小さく笑みをもらす。
「なんでそんな嘘つくんだよ、お前は」
「海釣りは、したことがある。本当だ。獣はさばかないが、、まあ、やろうと思えば出来るんじゃないかな」
「へぇ、釣りはあるのか」
「イザーク城の東側は海だ。兄上に教わって何度か海釣りをした。シャナンが生まれるときに、義姉様が良い乳をだせるように質の良い魚を釣ろうと言ってな。幼かったわたしは兄上より多く釣ったぞ。といっても置き釣りでポイントが近くならば、後は運だけだが」
イザーク王家の人々は、自分の子供を乳母には預けずに育てる。自分の妻のため、生まれてくる子供のためアイラの兄王は妹と共に釣りにいったのか。そういうイザークの人々の気質は、レックスにはとても気持ちよく感じられる。
「わたしがイザークで覚えたことは、すべてこの子達に教えたい。たとえ環境が悪くとも、出来ることは」
アイラはそう言って、荷物の最後の紐をくくりつけた。
彼女の思いはわかる、とレックスは思う。
今日、海に行こうと言い出したのもアイラだった。
たとえこの地にレックスが馴染んだとしても、「ここだから体験できること」「ここだから知らねばならぬこと」を彼はまだ知ることは出来ない。
アイラが子供達にひとつひとつ教えることは、そのままレックスが「イザークを知る」ことにも繋がるし、お世辞にも良いとは言えない今の環境−当然だ。彼らはどちらも城育ちだったのだから−でのアイラの精一杯の気持ちは痛いほど感じる。
「俺にも、そのうち教えてくれよ・・・っととと、こらこら、ラクチェ」
さすがにそろそろラクチェは痺れを切らしたようで、レックスの腕をぐいぐいとひっぱる。それは、早く行こう、の意味だ。
「よっし、ラクチェは俺と一緒に馬に乗るぞ」
「やー。かーさま。今日はかーさま」
「こらこら、なんでお前はそうつれないんだ」
「ラクチェ、聞き分けろ。ラクチェよりスカサハの方が今は体が大きいんだから、レックスとスカサハが乗ったら馬がへばってしまうぞ」
「そういうわけ。小さなお姫様、わたくしめの馬にお乗りください」
わざとらしくレックスはそう言って、ラクチェの体をひょいと抱え上げた。そのレックスの言葉遣いが聞きなれないため、ラクチェは楽しそうに笑う。
「あははは、とーさま、めんなあつ」
それを聞いてアイラはくくく、と笑いを堪える。彼らにしかわからない「ラクチェ語」も「スカサハ語」もいくらかあり、この「めんなあつ」はラクチェ語だ。時々レックスがアイラに言う「お前は変なやつだなぁ」と、呆れた時によく使う会話をもとに覚えてしまった言葉だ。もちろん、ラクチェは「変なやつ」と言いたいのだろう。
スカサハは「変なやつ」を覚えていなかったのに、一時期ラクチェが「めん、めんなあつ」と繰り返し言っていたものだから、スカサハは「えんなーつ」と、覚えなくていいことを更におかしな発音で覚えてしまい、レックスは頭を抱えることになった。
「いらん言葉も覚えて。コラ。変でもいいから、さっさと行くぞー」
「おら!いくぞー!」
「まいったよ。ラクチェの勝ちだ」
今のところスカサハの方が一回りラクチェより体が大きい。が、女の子の成長は早いものだから、ほどなくラクチェは追い越してしまうことだろう。そして、大人になるにつれてまたスカサハが追い越すのだろうと親である2人は勝手に思っていた。
「スカサハ、さ、行こう」
「あい」
「お前は静かだな。寒くないか」
スカサハは静かに頷く。アイラはスカサハを抱えて小さな馬に乗った。
子供は柔らかい布を何重にも重ねて作られたクッションに覆われた状態で、親の腹と胸に体を預ける。初めての遠出ではないから、たくましいこの子達も慣れたものだ。
一度はしゃぎすぎてラクチェは落馬しそうになり、咄嗟にレックスが足をつかんだために逆さ吊になるという恐ろしい経験をしたこともある。しかし、その「恐ろしい」は両親だけが感じていることで、当のラクチェは楽しそうに笑っていたのだが。
「寒かったらすぐに言うんだぞ」
「うん」
聞き分けが良すぎる子供は手間がかからない分こちらの心が揺れる、とアイラは思う。
外に出し切れない何かの思いを、この幼い息子は抱えているのかもしれないな・・・それが何なのか、未熟な親である自分達は未だにわかってやれないけれど。

「レックスは、マディノ近辺に行くまで、海に行ったことはなかったのか」
丈が低い草がところどころ生えている草地には、道と言われるような道はない。ゆっくり馬を進ませながらぽろっとアイラは聞く。子供達は初めこそははしゃいでいたものの、親に抱きかかえられてゆっくりとした規則正しい馬の振動と幾重にも重なった布の温かみで二人共眠ってしまっていた。
春とはいえ、まだ限りなく冬に近い春だ。それでも、頭上から照らしてくる太陽の光は暖かいし、動き出してから風がいささか少なくなった。予想以上に快適な移動時間といえよう。これがまた夕方に近くなるとあっという間に気温がさがり、春はどこへやらという気持ちになるのだが。
「あー、いや」
曖昧に答える。
「・・・二度くらい、行ったかな。フリージが比較的海寄りにあるから・・・」
歯切れが悪いその言葉にアイラは眉を寄せた。何故こんな会話で歯切れが悪くなるのか、彼女にはまったく見当がつかなかったからだ。
「・・・親父に連れて行かれた。二度とも」
「・・・ほう」
ああ、それでか、とアイラは心の中で呟いた。
レックスが曖昧に答えることと、彼の口から出る「親父」という発言。
彼が自分の父親について語ることはここ二年あまりなかったと思える。時折その名が出る時は、いささか気持ちが重くなる話題のときに限られている。
レックスの父親ランゴバルドはイザークの人間からすれば、イザークを陥れた憎むべき相手だ。
今となっては彼自身も謀略の中踊らされた悲しい人物だとわかるけれど、それでも彼自身が決定付けて行った数々の所業は許せるものではなく、そのことを忘れることはイザークの民も、レックス本人もあるはずがない。
たとえ、その実の父親をこの世から消し去ったのがレックスだとしても。
アイラはそれ以上自分から聞いてよいのかどうか戸惑い、妙な合槌の後口を閉ざした。
その様子に気づいてレックスは慌てて笑いながらとりつくろう。
「それがさ、ひでぇの。俺は泳ぎがもともと得意じゃなかったってのにさ、親父のやつ、無理矢理泳がせようとすんの」
「はは」
「服着たままだぜ。ありゃー俺が10歳にもなってない頃だな」
「それで、泳ぎは得意になったのか。わたしは10歳の頃はもうとっくに泳げるようになっていたぞ」
「二回しか行ったことがないのに得意もクソもあるか!」
あはは、とアイラは声をあげて笑う。
アイラはレックスがひどい目にあったときの話をすると、まったくもって楽しそうに笑う。それがレックスのカンに時々触るのだが、どうやらアイラは「ひどい目にあったレックス」を想像して笑っているのではなく、過去を思い出して悪態をつくレックスの様子がおかしいらしい。一度それを指摘したら「子供が拗ねているような顔をするからだ」とあっさり言われて大層ショックだったのだが、レックスだって今更それを変えられる訳もない。
「しかも、服を着せたまま泳がせるんだ、あの野郎。だから、乾かないままでフリージ城に戻ったことがある。多分ティルテュなんか、覚えているんじゃないかな」
「馬車か何かで戻ったのか」
「ああ。服を良く絞らされたんだけどさ。あー、あんときはすごいと思ったな」
「何がだ?」
「親父」
「何をすごいと?」
「俺の服、濡れてるわけだよ」
「ああ」
「絞ってから馬車に乗れって言われてさ」
「うん」
「ぎゅっと絞るわけですよ、子供のレックスくんが」
はは、とまたアイラは笑う。
「それで馬車に乗ると、まだ駄目だ、って親父に怒られるわけ」
「ああ、絞り足りないってことか」
「そそ」
「子供は雑巾を絞ったりするのも苦手だからな。わたしも随分そういうことをしないで育ったものだから、苦手だ」
ああ、確かにそうだ、とレックスは思い出す。
アイラはあまり布巾などを絞ることが得意ではない。アイラがテーブルを拭いた後は、なにやら水分がやたらと残っていていつまでも使いにくいことがある。それを彼女自身も知っていて、どうやら絞る時の手の持ち方がおかしいということに気づいたのはつい最近だ。
「ところが、それだけじゃないんだよ」
「なんだ?」
「服を脱げ、って親父に言われて、かわいそうな子供のレックスくんはずぶ濡れのシャツを脱ぐわけです」
「あはは、やめろ、その子供のレックスくんってのは!腹が痛くなる」
「想像すると可愛いだろう?」
「可愛いというか・・・間抜けだ・・・」
「お前は可愛くないな!!」
そういいつつレックスは怒ってはいない。なんにせよ、アイラが笑ってくれることは彼にとって非常に嬉しいことだったし、めずらしくこんな風に思い出しながら話をすることも悪くないと思える。
「あのクソ親父に、ずぶ濡れのシャツを渡すと、ぎゅーっとしぼるわけだよ」
「うん」
「それが、とにかくすごいんだ。それだけでかなり乾いちゃうんだぜ」
「え?」
「どんな握力、筋力だよ!って感じで、俺が絞ってもちょぼちょぼしかもう水が落ちないのに、親父が絞るとジョバジョバってさ」
「へえ」
「あんな手で絞られたら、布の方が悲鳴あげちまう」
「お前はおもしろいことを言うな」
「だってそうだろう?さすが、スワンチカを扱うだけはある。あんな手で思いきり絞られたら、布の糸という糸がぎしぎしひどい目にあってるに決まっている」
「じゃあ、服が乾いてよかったじゃないか」
「それが」
レックスは苦々しい表情を見せた。ちらりと横目でその様子を見て、アイラはまたくすりと笑ってしまう。
「シャツは絞ってくれたが、下は絞ってくれなかった」
「ああ・・・ズボンか」
「そ。だから、そのままフリージに戻ったら・・・俺、一人でおもらししてるみたいじゃないか」
「あっはははは!」
それはそうだ。そこは素直に想像をして笑ってしまうアイラ。
ついつい大きな声で笑ってしまったものだから、アイラの胸元で寝息を立てていたスカサハがもぞもぞと動き出す。
「スカサハ、起きたか?すまないな」
あ、起きるかな?と思ったけれど、動いただけでまた寝息がすぐに聞こえてくる。体勢が体勢のため、あまりその顔を覗き込むことは出来ないけれど、感覚でおおよその様子はアイラにも伝わる。
「帰りは眠らないとありがたいな。帰りに眠ると、夜元気になっちまう」
レックスはそう言って、一緒に乗っているラクチェの顔を覗き込もうと少し上半身を傾けた。
もともと頑丈な馬を乗りこなして戦場を走っていた彼にとって、イザークにいる馬たちは小ぶりで頼りなく感じ、以前はあまり動くこともままならなかった。
しかし、イザークにいる馬は体こそ小ぶりだが、足はグランベルの軍用馬と同じかそれ以上に太く、かつ強い筋力を持っていて、慣れると案外と悪くないものだった。まあ、これで戦場に出るのは無理だろうが、荷の運搬などには信頼がおけるパートナーだ。
「あの岩場を越えたら、海だ」
「あの岩場までが案外遠いな」
「ああ。しかも冬の間この辺りは作物がまったくとれないらしい。この辺りほど人口が少ないと冬の時期の作物を作る知識が広がらないからな。もう少し豊かな場所も見せてやれればいいのだが」
「イザーク城のあたりはどうだったんだ?」
「あのあたりも、農作物自体はそう豊かではないな。ほどほどに作れるが、ほとんどが土の下に作られる野菜ばかりだ。グランベルはどちらかというと土の上の草木から収穫するだろう?」
「そうだな。あんまり土の下ってのは・・・ま、俺は慣れたけど」
「西寄りはなかなか寒くて。ソファラのあたりが一番気候がよいと思える。食べ物以外でもそうだな。リボーとソファラから、この馬たちを何頭も引き連れてよく行商人がやってきていたが、あのあたりは良い糸が作れるらしく、それを買い取って女達は布を織っていた」
きちんと、知っている。
いつもレックスはアイラと話をするとそう思う。
常識と思うことを知らなかったり、突拍子もないことを時々言うアイラではあるが、ことイザークのことになると彼女は正しく教育を受けてきた人間なのだとレックスは痛感することが多い。
(俺も、同じようにもっともっとドズルのことを知っていればよかった)
それは今後悔してもしようがないことだ。
彼は次男であったし、アイラのように「一国の」という肩書きがつく立場でもなかった。
なんでも面倒なことは自分の兄に任せてしまえばいいと思っていたし、自分は外に出ることばかりを考えていたといっても過言ではない。
それでも、もっともっと、知ればよかった。
レックスは、自分がどれほど自分の生まれ故郷のことを知っているのか、と思い巡らせながら馬を進めていた。

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モドル