ふるさと-2-

イザークの北西の海は、風は確かに少しばかり強かったが、波は比較的穏やかだった。
海に対して並行に歩いてみると、砂浜が続くと思えば、突然岩場が長く現れ、それを越えればまた砂浜。
アイラは岩場と砂浜の間あたりに馬を放してやった。陸に近い岩と岩の間には海の草が生えており、その仔馬たちはそれを畏れずに慣れたように口にした。きっとグランベルの馬ならば、そんな草は口にいれないだろうな、とレックスは思う。
子供達は海に来るのは、初めてではない。一度目は、オイフェとシャナン、それからエーディンが子供達全員を連れ出して来たのだ。レックスとアイラはソファラ付近の様子を見に行っていたため、それに参加はできなかった。だから、親子で来たいとアイラは思ったのだろう。
その時の様子をオイフェから聞いたが、海は見ただけで水には触れていないという。さすがに子供達の数が多かったため、そこまでの面倒は見られなかったのだろうとアイラたちには推測できた。
ラクチェは落ちている貝を嬉しそうに拾っている。波は少し荒いし冷たいので、一人で水に入ってはいけないと重々言い聞かせた。
が、それで言うことを聞くわけもない。貝を片手によたよたと海に向かって歩くと、ラクチェはあっという間に波に足を濡らされてしまった。
「つめあーーーーーー!!」
冷たい、だろう。
いい薬だ、とアイラは心の中で呟きつつ、ラクチェに駆け寄ってひょいと抱き上げた。
「はは、靴がびしょぬれだな。驚いたか?」
想像もしていなかった冷たさにラクチェは驚いて硬直している。アイラは手早く靴を脱がせて、厚手の布でその小さな足を包んで揉んでやった。
「もっと温かくなったら、あの水も温かくなる。そうしたら、もっと入ろうな」
「はあーい」
いい返事だ、とアイラが思った瞬間
「わあ!」
今度はスカサハの声だ。
岩場に住む小さな生き物をレックスと見ていたはずなのだが、どうしたのだろう。振り向くとスカサハが今にも泣きそうな顔で何かを堪えている。
「どうした」
ラクチェを抱えたままアイラが声をかけると、笑いながらレックスは軽く手を振った。
「岩と岩の間に手を挟んだだけだ。大丈夫大丈夫」
まったくこの双子達は忙しい。
岩場に厚手の布を何枚も敷いて荷を置き、アイラはよっこらしょと腰をかけた。レックスもそれに倣う。
双子がそれぞれ「1人遊び」−ラクチェは貝あつめ、スカサハは生き物を熱心に見ている−に没頭する姿を視界にいれながら、2人は少しだけ冷たい海風にあたりつつ、しばしの間会話もなく黙って並んでいた。
「ここで、釣りが出来るのか」
とレックスは呟いた。アイラは肩をすくめながら
「投げ釣りも出来るが、置き釣りも出来る。まあ、せっかちな人間には向かない釣りだが」
と答える。
「じゃあ、お前には向かないだろ」
「わたしは、いつもせっかちなわけではない」
「確かに。アイラがいつもせっかちなら、もっと早く2人を作れただろうな」
「なんてこと言うんだ、レックスは」
海風に吹かれて、アイラの美しい黒髪がなびく。子供達を生んだときには一時期肩辺りまで切ったものだが、今はレックス出会った頃のように長く伸ばしている。
それが、似合うとレックスは思った。
時折煩わしそうに髪をかきあげたり、おさえたり、束ねる仕草。昔から彼はそれが好きだったことを、ふと思い出していた。
出会いはグランベルで、その後各国を渡り歩いたが、ようやく戻ってきたこのイザーク。
彼女の国にいる彼女の姿ふるまいは、間違いなくどの国にいるよりも相応しく思えたし、イザークの自然の中にいる彼女はあまりにも「彼女らしい」とレックスの目には映った。
たとえ、あの過去の忌まわしい戦いが何もかも違う展開で。彼女をドズルに、自分の生まれ故郷に連れて行くことが出来たとしたら。
そんなことにならなくて、本当によかったと彼は不思議な安堵をするときがある。
イザークに来てから、ドズルの次男坊としてのレックスへの風当たりは、当初はひどいものだった。当然だ。あのランゴバルトの息子なのだから。
それを耐え忍び、アイラのため、子供達のため、と唇を噛み締めながら我慢をし続けたけれど、彼の覚悟を超える罵声を浴びせられる日も当然なかったわけではない。
人々からの風当たりに心が折れて耐え切れなくなりそうなとき、ふとアイラを見ると。
ああ、こいつは、なんて、この国に相応しいんだろう。
そんな不思議な気持ちになった。
グランベルにいるときでも、シレジアにいるときでも、アイラの体にもっとも近しい空気というものは、その国のものではなく、いつでもイザークのものだったのではないか。そんなあり得ない想像をしてしまうほど「そうだったのか」とレックスを納得させる「馴染む」感覚。
その「彼女に相応しい」場を守れるならば、別に何を言われてもかまわない、と彼には思えた。ここで、レックスの心が折れてイザークにいることが出来なくなったら。アイラは間違いなく、シャナンを置いてまたレックスと共に生きることを選ぶはずだ。そのことを彼は確信していた。
スカサハとラクチェの成長と共に、そのしこりも少しずつ緩和して、ようやく穏やかに生活が出来るようになった。今は、彼に対して陰口を叩くものもほとんどいない。いや、いたとしても、必ずそれをたしなめ、彼を庇う人々が彼の周りにはたくさん存在するのだ。それを、とてもありがたいと思う反面申し訳ないとも思い、けれど、甘えさせて貰おうと彼は素直に思っていた。
「どうした、レックス」
「いや、なんでもない」
アイラが小首を傾げてレックスの顔を覗き込んできた。どうやらレックスは知らず知らずのうちに、「何かを考えている顔」になっていたらしい。
当然それは彼自身、自分で見たことはないものだったし、到底自分で気付きようもない表情に違いない。アイラが時々「何を考えている」と彼に声をかけるときは、どうやら「それ」の状態になっているだったが、レックス本人に自覚はない。
「お前と、イザークの海を見るなんて、想像もしていなかったなぁ、と思って」
「わたしもだ」
「というか、イザークに海があるなんて、考えてもみなかった」
「あはは。失礼だな」
「だな」
笑いあって、お互いの視線が絡んで。
アイラは、きっと今俺が何を考えていたかなんて、わからないだろうな・・・。レックスがそう思った時。
海の風に煽られたアイラの黒髪がレックスの頬にぱらぱらと当たり、彼は「うわ」と一瞬目を閉じた。その隙に。
「アイラ・・・・!?」
「しょっぱいな。海だから当たり前か」
ぺろりと自分の唇を舐めて、アイラは呑気にそう言った。

不意打ちだ。

アイラは自分のペースでさっとレックスの唇をついばんで、悪びれもせずにさっさと体を離した。彼女からの不意打ちはいつもいつもレックスの口元をだらしなくさせてしまう。「考え事をしている」自分の顔をレックスは知らないが、こういうときににやついてしまう自分のしょうがない顔は知っている。慌てて口元を、大きくてごつごつとした手で押さえると−口元どころではなく、顔の半分以上が隠れてしまうのだが−レックスはわざとふてくされたように言葉を返した。
「いつもお前はそうだ。自分が好きなときに好きなだけ俺の口やら腕やら舐めていきやがって」
「ははは」
「たまには俺も好きな時に好きなようにさせろよ」
「レックスは子供達が見てる前で手を出してくるから」
「そんなのはお前の言い訳だ」
レックスはそういって、ようやく頬の緩みも収まったらしく、アイラに手を伸ばした。
近くでラクチェとスカサハが楽しそうに笑っている声が聞こえる。拾った貝を数えているけれど、まだ数字を覚えているはずもない二人は、かなりいい加減に思い思いの数字を口にして「遊び」にしているようだった。
アイラは抵抗せずに、レックスの手が彼女の頬をとらえ、指先で髪をくすぐり、やがて耳からあごまでを優しく流れるように動いていくに任せて瞳を閉じた。
「レックス」
「うん?」
「それは、気持ちが良い」
「・・・そうか」
アイラはこんなときも彼女らしい言葉で、さらりとレックスの心を揺さぶるようなことを言う。人によっては「そういう言い方はないだろう」と言い返すかもしれないが、少なくともレックスは、アイラのそういう言葉が好きだった。その言葉達はとても正直で、何の嘘も隠し事もない真実を音にしたものだと知っているからだ。
−−俺も、お前に触れていると気持ちがいいんだ。
その言葉を飲み込んでレックスはアイラに覆いかぶさるように体を動かした。先ほど彼の唇を可愛らしくついばんだアイラの唇を、今度は自分が奪いたい。
うっすらと瞳を開けて、近づいてくるレックスの姿を見ようとしたアイラだったが・・・
「こら、ラクチェ!!」
今まさに口付けを、と勇んでいたレックスを半ば突き飛ばすような形でアイラは腰をあげ、駆け出した。スカサハは岩場で静かに遊んでいたため、突然のアイラの声で驚いた顔を向ける。
「なーん?」
その「なーん」はスカサハ語だ。何、どうしたの。そういう意味合いだとレックスは知っている。
「うわ!」
アイラが走っていった方向を見て、レックスもまた慌てて叫んだ。
砂浜に打ち上げられていた、砂にまみれた海草をラクチェはみつけてきて、体にまきつけて遊びだしていた。「あっつーー」と謎な声をあげてレックスは苦い顔をする。
せっかくの外套は海草のおかげで海水まみれ、砂まみれ、それに生臭くもなっているに違いない。アイラは慌てて駆け寄って海草をラクチェの体から引き剥がした。
「まったく、イザークの女ってのは何をやらかすか目を離せないな」
スカサハは既にアイラの剣幕には興味を失ったようで、岩場の虫を指で追いかけている。それはいかにも「男の子の遊び」と思えて、レックスからすればほほえましく見える。
「とーたま、これーあぁーに?」
「あー?この虫か?いや、父様もわからんぞ。イザークのものはさっぱりだ」
とレックスは言うが、では自分はグランベルの海のことを知っているのか?と問われれば、答えはNOだ。
「前言撤回、海のことは、さっぱりだ・・・ま、イザークのことも、確かに、まだまださっぱりだけど」
昔、まだシグルドたちと旅をしていた頃。
シャナンとオイフェが、罠にかかっている鹿をみつけたことがあった。その時、アイラは「こんな動物はイザークにはいない」と言っていた、と思い出す。
また、春になれば木の花を愛でると彼女は言っていた。
その意味がその頃はあまりわからなかったが、ここ、イザークに来てからレックスは理解をした。
基本的に草木が茂るのは、丈の短い草とまばらな木が散らばる場所が多い。お世辞にも種類が多いとはいえない低い草は寒い時期以外は通年で小さな花をよく咲かせる一方、木々は花らしい花を大きく咲かせるものが少ない。その中でも、我慢して冬を越した木々で、春に満開の花を咲かせるものがいくつかある。それらを見ることが、イザークの人々にとっての「春の花」を愛でるということなのだという。
春には春の花、夏には夏の花、年中たくさんの種類の花を咲かせるグランベルと違い、イザークでは「季節の花」と意識できるものはあまりない。だからこそ、春のみに満開に咲き誇る決まった木の花を誰もが待ち望むのだろう。
きっと子供達も、花といえばその花を想像するようになるに違いない。
(俺は、ドズル付近のこともさっぱりだけど)
女達が喜ぶ季節の花のことを、レックスは男のわりにはよく知っていた。いや、男だからといった方が良いだろうか。
潮風にあたりつつ、スカサハの動きを見ているようでぼんやりとレックスは自分の生まれ故郷のことを思い出していた。
やはり自分は、アイラのようには、知らない、と思う。
それが、この異国に来てから、今更ながらに恥ずかしくも勿体無いことだと彼は感じる。
いつも、アイラのことを思っていた。いつか、アイラがイザークに戻れたら。自分も彼女の故郷を見られるのだろうか。そんなことを思いつつ、あのバーハラまで彼はいつでも彼女のことばかりを考えていた。
自分はどうとでもなる。兄がいるのだからドズルを捨てられる。未練という未練もないと彼はおもっていた。
そして、それが叶った今、彼女が願った、彼女の故郷に腰を落ち着けた今。
ようやく、自分が自分の故郷のことをあまり知らず、「アイラに自分の故郷を見せたい」と思うほどに故郷の良さを覚えていないことに気づいた。
今となっては、それがとてももどかしい。
自分の子供達はこのままイザークで育ち、ひとつずつイザークのことを、アイラのように覚えていくだろう。
けれど、レックスは。
子供達には見せることは叶わないのだろう、という強い予感はひしひしと感じていた。
自分の思い出と共に、ドズルの風景や人々のこと、グランベルのこと。
それらを「体感」ではなく言葉で伝えるしかないことがまたもどかしい。なんといってもまだ、彼らは伝えようにも理解出来ない、覚えていられないだろう年頃なのだし。
「どうした、レックス、難しい顔をしているぞ」
ようやくラクチェの体から海草をすべて引き剥がし、持ってきた水で少しばかり外套について汚れを流したアイラが戻ってきた。
「これ!これ!」
アイラの後ろからついてきたラクチェは、嬉しそうにレックスの側にかけより、両手いっぱい−たかだか二歳児の両手いっぱいであるから量は知れているが−に拾ってきた貝を見せた。
くすんだ茶色の貝。
アイラの唇の色に似ている、淡いピンク色の貝。
白いけれどところどころがクリーム色がかっている貝。
両手にいっぱい、はたった三つのそれらだ。手のひらを広げてそれをレックスに見せてから、大事そうに小さな布袋にラクチェはいれようとした。
が、彼女がもっていた「宝物袋」には既に他の貝殻が砂まみれの状態でがしゃがしゃと入っている。
「いれて」
近くで遊んでいたスカサハの服の裾をラクチェはひっぱった。
それは、スカサハの「宝物袋」に自分の貝をいれろ、という大胆な発言だ。
「やーだー」
「いれてー」
「やーだー」
「ラクチェ、自分のものは、自分の袋に入る分しか持たない約束だ。その貝は帰りに捨てていこう」
アイラはきっぱりとそう言った。が、「一所懸命集めたのに」といいたげにラクチェはアイラを見て、レックスを見て、それから手の中の貝を見る。
スカサハもラクチェの手の中の貝を見て、それからアイラを見て、レックスを見て、最後にラクチェを見た。
「・・・ラクチェ、ほら、貸してみろ」
何をするかはわからなかったが、大方ラクチェのためのことをするのだろう、とアイラは予想して先回りをして言った。
「レックスは、甘い」
「嫌いか?」
「好きとか嫌いの問題ではなかろう」
「じゃあ好き?」
「バカ。好きだ」
そのアイラの言葉に満足したようにレックスはにっと笑顔を見せる。
ラクチェから受け取った貝を岩場に置いて、レックスは腰の道具袋から小さな工具を取り出した。
馬を操る人間は、鞍や馬蹄や鐙やら、あれこれと何かにつけ消耗されて都度メンテナンスが必要なものを扱う。レックスも昔から「何かがあったとき」のために様様な道具を携帯する癖がついている。まあ、概して男というものはそういった「ちょっとした道具」が好きなもので、レックス自身もそれに漏れていなかった。
「こいつは小さすぎるから無理だな。こっちの二つは出来るだろ」
「何をするのだ?」
アイラもレックスの隣にぴったりを見を寄せて、岩場で作業をする彼の手元を見守った。
「割らないように・・・・そーっと、な」
レックスの真剣な表情とその言葉にただならぬ状態を察したのか、元気すぎるラクチェもスカサハも静かになって、父親のやることをじっと眺めている。
「・・・穴をあけてるのか」
「そうそう。ゆっくり静かにちょっとずつ、な。でないと貝が砕ける」
レックスは先のとがった錐のようなもので、ラクチェが拾ってきた貝に小さな穴を開けた。それから、首に自分で巻いていた布を固定するためと、彼なりに洒落込むために巻いていた、いくつかの石を通していた皮ひもをするするとほどく。
「よっし、今日は細い紐をしてきてよかった」
「それを切るのか」
「ああ、俺のはまた新しい紐に石を通せばいい」
レックスは皮ひもを切り、貝に開けた穴に通した。
ひとつの貝は小さすぎるために穴を開けられなかったけれど、残りの二つはなかなか上手い具合に開けられた、と自分でも思っていることだろう。
「ラクチェ、これなら、持ち帰られるだろう。頭をこちらに向けてごらん」
「わあ」
レックスはラクチェの頭に、即席で作った貝のペンダントを通してやった。紐の長さを調節して、ラクチェの首の後ろで結んでやる。それを見てアイラも「ほう、可愛らしいものだな」と驚いたようにレックスに言う。
ラクチェは貝をつまんでじいっと眺めて、それから皮ひもを指でたどり、きょろきょろとあたりを見渡した。
「どうした、ラクチェ」
「見たい」
「ん?」
「かがみ」
なるほど、女の子だな、と親二人は驚く。
レックスにつくってもらったペンダントをつけた、自分の姿を鏡で見たいということだ。アイラは苦笑をしながらラクチェの髪をなでながら言った。
「あー、鏡はないな・・・戻ったら、見よう。きっと見たらもっと気に入るぞ」
「あーい」
その親娘のやりとりを見ながら後片付けをしているレックスを、スカサハはつついた。
「とーたま」
「うん。なんだ?」
「こえ」
「?」
「あれ。これで」
「・・・スカサハ、すまん、虫でペンダントは作れない・・・」
そのレックスの言葉を聞いて、アイラは大声で笑い出した。
スカサハは手にのせた岩場の生き物で、同じようにペンダントを作れとレックスに要求をしたのだ。
彼らの静かな息子は、時々大笑いさせてくれる。

「あー、これは、夜眠れないパターンだ」
帰り道、レックスは嫌そうに言った。
彼らの子供達は行きと同じようにまた親の腕の中、馬の背の上で眠り込んでいた。違うのは、もう夕焼け雲が空を覆って、いささか冷たい風が吹いていることぐらいだろう。
草原の夕日はとても大きく見える。彼らは北西の海にいたので、夕日は海側へと落ちてゆく。それを海で見るわけにはいかないが−それでは帰りが夜になってしまうので−彼らの背を照らす大きな夕日は、足元に長い影を作り出し、その存在をいつまでもアピールしているかのようだ。
「そうだな。こちらはくたくただというのにな」
「だなぁ。俺、起きなかったらごめん」
子供達が夜起きだして騒いでいるとき、眠りが深くてレックスは起きられないことがある。そういったときにアイラが一人で二人の面倒を見るのがどれだけ大変なのか彼はわかっている。わかっていても、どうしようもない時があるのだ。
が、アイラはにやりと笑いながらレックスを見る。
「許さない」
「許してくれ」
「あはは」
レックスが素直に降参するときの「許してくれ」とか「悪かった」「すんません」などの言葉に、いつもアイラは笑い声で返してしまう。その、一見情けなく見える言葉と表情は「そういえば許されると思っているんだろう」と時々アイラを苛立たせもするが、それは稀なことだ。
レックスは本当に申し訳ないと思っているし、子供達が暴れていても起きられずに口を開けて眠っているレックスのことが、アイラもたまらなく愛しく感じるのだ。
だから、「許さない」は本当はウソだ。
「絶対今日、ラクチェはあのペンダントしたまま寝るってごねるぞ」
「今もしてるしな」
いつもラクチェは気に入ったものは身に付けたまま眠りたいと言い出す。それらが布で出来たものであれば何も問題はないのだが、今回のように危険だったりもろかったりするものだと、諦めさせるのが難儀になる。
「甘いが、なかなか風情のあることをしたな、レックスは」
「何が?」
「ペンダント。女の子はああいうものが好きだろう。綺麗な色の貝がこの辺りではとれるのだな」
「何。お前も欲しかった?」
「いや、わたしは・・・お前から色々もらっている。もう、十分すぎるほど」
アイラは馬を少しだけレックスの馬に近づけてそう言った。本当はきっと、アイラはレックスに体を寄せたかったのに違いない。馬で動いている以上それは叶わないけれど。
「・・・昔、親父と海にいったとき」
「うん」
「貝をひろって、親父が同じように・・・ティルテュに、土産だといって渡していた。まあ、小さい頃のことだから、ティルテュは覚えているかどうか知らないし、さっきまでそれも俺だって忘れていたんだがな」
「そうか」
「俺は下半身ズブ濡れで、そりゃあ阿呆みたいなもんだったから、ティルテュに土産なんざ考える暇もないガキだったしな。今思えば、あのクソ親父がよくもそんな気が利いたことをしていたもんだ。うわ、今思い出してほんっとに驚いた」
くっくっく、とアイラは喉を鳴らして笑う。
レックスが自分の父親のことをこんなに楽しそうに多く語るのを聞くのは、彼女も初めてだったかもしれない。
「不思議なもんだ。そういう思い出は出てきても、ドズルのことで知っていることはたかだか知れてる。自分の生まれ故郷を生まれ故郷とも思ってないのかなぁ、俺」
「うん?意味がわからない・・・ああ、フリージでの思い出の話だからか?」
「そうじゃなくてな。なんてーの・・・お前は、とてもよくイザークのことを知っているだろ。さっきのさ、どこは農作物がどーので、海は置き釣りができて・・・とか、色んなことを子供達に教えられるし、自分の故郷をよく覚えている。でもなんかなぁ。男ってそうなのかな?俺はどうもドズルのことを思い出せないし、たとえばお前をいまからドズルに連れて行っても、あそこがこーであーで、とかあまり教えられない気がする。俺が教えられるのはすぐ変わっちまう遊び場くらいのもんだ」
「なんだ、それは。思い出せないとか教えられないとか」
何をレックスが言っているのかアイラにはどうも理解が出来ないようだ。
「イザークに来るにもあんま、未練なかったしなぁ。俺は故郷に対して薄情なのかもしらん」
「何を言うかと思えば、お前は変なやつだな」
またそのフレーズか、とレックスは口をへの字にまげてアイラを見る。この「変なやつ」は子供達が覚えてしまうほどアイラは何度もレックスに言う。いいや、お前の方がよっぽど変だ、とレックスが言おうとも、アイラは頑としてそれは譲らない。
「何が変だよ」
「ふるさとというものは、思い出そのものと変わりがない。お前がさっきのようにお父上のことを思い出せば、それがどの場所であろうとお前にとってのふるさとを思い出していることに違いはないのに」
「お前の言ってることのほうが意味がわからない」
「わたしが知っていることは、その言葉の通り、「知っている」ことだけだ。イザーク王家の人間として教え込まされたことだ」
「そりゃ、まあ、な」
「幼い頃走った草原を見て」
「うん」
「転びそうになって後ろから自分を抱きとめていてくれた手を思い出したことを話すのと、その草原に生えている草をもとに作った民芸品の運搬方法を話すのとは、まったく意味が違うだろう」
「・・・そりゃ、まあ、な」
「他人に教えるとか、詳しく知るとか、そんなことは関係ない。森に生えた木の種類や使い道を知らなくとも、幼い頃にあったそれらが切り落とされれば、寂しく思うしせつなくもなる。知らなくたって故郷は故郷で土地として存在し続ける。それらはどんどん姿を変えていって、今のわたしの説明なんてなんの意味もなさなくなる。ただ、その土地で見たもの感じたものでお前の中に残っているものが少しでもあれば、それは薄情ではないんじゃないか」
だから、その「残っているもの」の量を言ってるんだけど。レックスはそう言いたそうに苦々しく口を歪めた。
生まれ育った場所で得た思い出すべてがレックスにとっての故郷で、それ以外は「知識として知った」だけのものだとアイラは断言をする。
それはきっと一般的ではない発言だろうが、イザーク王族としてあれやこれやと教え込まれてきたアイラにとって、真実だと感じ取っていることなのかもしれない。
彼女はとてもよくイザークのことを知っている。たとえば、今彼らが馬に乗って歩いているこの草原が、あまり農作物が獲れないとか。何故知っているのか。それは、彼女の国の一部だからだ。
では、この草原は彼女のふるさとなのかと言われればそうではないのだ。
アイラは確かにイザークに帰って来たけれど、自分のふるさとに帰っているわけではない。形は違えど、レックスがドズルにいないように、アイラもまたそれを感じているのだろう。
彼女が「知った」こと、それ自体はただの知識であるが、それを「教えてくれた人」は彼女の心の中で大切な、ふるさとを思い出すたびに現れる人物かもしれない。
「・・・なんか、なんていうんだ。ちょっとばかし。お前がイザークのこと色々教えてやってるのを見て、しまったなあ、俺、なにも教えてやれないなー・・・って焦ったんだ」
「だから、何を気にしてるかは知らんが、お前は変なやつだと言ってるんだ。一体何をごちゃごちゃと、知ってるとか知らないとか思い出せないとか教えられないとか。理解できない」
乱暴な理屈だな、とレックスは苦笑をした。
「お前は充分、子供達にたくさん教えてやっているのに」
「俺が?」
「そうだ」
「そんな心当たりはない」
これだから、とアイラは溜息をついた。それは呆れた溜息ではない。いや、多少は含まれるだろうが、そのあきれるようなことを言うレックスをたまらなく愛しいと思えて吐き出した、優しい吐息だ。
「イザークの東側の海岸はもっと波が強く、打ち上げられる貝殻も粉々だし、綺麗な色の貝なんてなかなかありやしない。こちらのように西の海岸は形をきちんと残しているようだが、人が住まない地域だから、貝殻で何かを細工するような文化だってない。ちょっとの衝撃で欠けるもので実を飾る習慣なぞないからな。お前はきちんと、グランベルの人間らしい発想で、ラクチェにあんなに可愛らしいプレゼントをしてやったではないか」
レックスは拗ねたようにアイラよりも少し前に馬を進めていたから、わずかに後ろを振り返った。
夕日の逆光で、彼は目を細めた。柔らかな薄い茜色の空は地平線の上に目一杯広がり、そのままゆっくりと草原全てにカーテンをかけるように降りてくるようにも見える。
急がないと、もうすぐ夜のとばりが辺りを包むだろう。いくらなんでもそれぐらいはレックスにだってわかる。
「・・・アイラ、馬止めろ」
「え?」
「いいから」
「そろそろ急がないと」
アイラもそれは勘付いていたようだが、レックスはしつこく促す。
「うん。だから、今」
一体どうしたことか、とアイラは馬の足を止めた。今から少しばかり早く走らせるから、その前に馬に休憩をさせようということなのだろうか?
子供を抱えたまま馬を下りるのはアイラには難しい。先にレックスは降りて、布を草の上に敷いてラクチェを置いた。風に砂が巻き上げられないような場所を選ぶことも忘れない。それからアイラからスカサハを受け取り並べて寝かせてから、冷たい風が当たらぬように温かい幾重にもなっている布を足から口あたりまでかけてやる。
「馬の休憩か?」
「ああ、休憩。でも、馬のじゃない」
「なんだ、レックスが疲れたのか。それならそうと」
アイラはそう言ってぐるりと空を見た。あとどれくらいで暗くなるのか、あとどれくらいで家につくのかを気にしている様子だ。
レックスはそれに近づいて苦笑を見せた。
「疲れたんじゃない」
「わからないことばかり言うな」
「こいつら、絶対夜寝ないだろうからさ。今のうちに」
「うん?・・・あ」
レックスはアイラの腕を引っ張ってを強引に引き寄せた。
風をうけて冷たくなったアイラの黒髪に大きな指を差し入れ、顔を近づける。
海で軽くついばまれた唇のお返しとばかりに、レックスは何も言わずにアイラに口付けた。
彼の唇も彼女の唇も風のせいで冷たかったけれど、その中は温かい。絡めた舌が名残惜しそうにゆっくりと離れるまで、そう時間はかからなかった。
「ほら、お前は子供の前でそういうことをする」
「寝てる」
「そうだけど」
「もうしょっぱくないな」
「ああ、気にもしてなかった」
じゃあ、もう一度。そうレックスが言う前に、アイラは彼の首に綺麗な形の腕を回して、海でそうしたようにまた軽く彼の下唇を、自分の唇ではさみこんだ。彼女からの口付けは、いつも可愛らしい。
唇が離れてもレックスはアイラの体を覆うように抱きしめ、幸せの余韻に浸っているようだ。アイラもまたしばしの間、瞳を閉じてレックスの体温と、その体温が与えられない場所は草原の風を感じていた。
やがて、するりとアイラの腕がレックスの首から離れてゆく。それが、休憩終了の合図だ。
「いつか、わたしもお前が育ったところへ、行ってみたいものだ」
「ああ、いつか、な」
「いいところなんだろう、きっと」
「ああ、いいところだ」
馬に乗ったアイラにスカサハを渡しながらレックスはそう言った。すると、アイラは
「・・・それでいいじゃないか」
と小さく微笑みを見せる。なんとなく、しまった、とレックスは心の中で呟いた。
自分では何を気にするわけでもなく素直に答えてしまった彼は、自分でそのことに驚いたように軽く眉を動かした。けれど、それをそうと認めるのも少しばかり恥ずかしく思えるのか、ぷいっと背を向けて、次はラクチェを抱えながら自分で馬に乗った。
甘い口付けに気が緩んで、理屈も何もあったもんじゃない返事をしてしまった。けれど、それはきっと抗えない真実の言葉だったのだろう。
「急ぐぞ。アイラ、お前が先に自分のペースで走ってみろ」
「ああ、頑張ってみる」
それ以上アイラもレックスに何も言わず、馬を走り出させた。
イザークで生まれ育った馬が、イザークの草原を走る姿をしばらく見つめ、少し遅れてからレックスも出発した。
貝を通した皮ひもを、大事そうに握りながら眠っている愛娘を抱きながら。


Fin

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