片言の祈り-8-

かくしてラケシスが懸念していたとおりに、ラーナ王妃は昼食よりかなり前の時間にセイレーン城に到着した。
城で着替えた後で、城下町の教会に皆で移動することになっている。
自分よりも高位の人間が訪問したときに、わざわざ謁見に出向く習慣があるのは、さすがにキュアンとエスリン、そしてラケシスのみだ。シグルドはセイレーン城の管理もまた任せられていたから当然のことだが。
睡眠時間は足りなかったけれど、ラケシスは寝坊はしなかった。
鏡に映した自分の顔は、思ったよりも穏やかで、しかも今日は「良い」顔だと思える。
けれど、それがベオウルフとの情事のせいだとベオウルフには思われたくない、と朝から心の中で意地を張ってしまう。
決してラケシスが口に出すことはないが、もしもラーナ王妃に聞けば「女性が男性に愛されて満たされたときは、身体はとても気持ちに正直で、やわらかな表情になるものですよ」と穏やかに答えるに違いない。が、そんなことを言われればなおのことラケシスは「満たされてなぞおりません」と苛立つのだろうが。
夜半過ぎに洗ったショールは、布に挟んで乾かして、なんとかそれまでには湿気を飛ばすことが出来た。
暖炉に直接あててしまっては毛糸が傷むからよくない、と女中に聞いたとき、そんなこと考えもよらなかったラケシスは素直に感心した。
土の汚れがついてしまった部分はなかなか取れなかったけれど、女中が渡してくれた石鹸で軽くこすってぬるま湯の中でもむと、少なくとも色は薄くなった。石鹸の成分を中に浸透させるために、ごしごしとこすりつけるよりも、少しだけ塗ってもみこんだ方が取れやすいのだと教わった。ものをひとつ洗うだけでも、こする、もむ、ただ浸す、とたくさんの手段があるということに彼女は生まれて初めて気がついた。
世の中には自分が知らないことがたくさんある。
今までそれは一生知らなくても良いと思えていたけれど、昨晩ベオウルフが施してくれた凍傷の処置といい、女中に聞いた洗濯の方法といい、たくさんのことが理にかなっているとラケシスは感じた。
そして、その理にかなっていることを自分が想像すら出来なかったのだ、ということはとても恥ずかしいと思えた。
知っている、知らない、という知識量だけでなく、想像力が足りないことに気付かされ、ベオウルフが言う「馬鹿」であることを自覚させられたと言っても良いだろう。
ともかく、不思議なものでラケシスは、ベオウルフの情事のことよりも何よりも、そういったことを思い知らされたことの方が心にひっかかっていたし、そしてそうである自分があまり意外ではなかった。
もっと、あんなことが起こっては朝が来てから動転すると思っていたけれど。
一体自分はベオウルフに対してどんな感情を抱いているのだろう、とか。
何かに対する後ろめたさ、たとえば、ノディオン王家の血に対する気持ちとか。
もっと単純に、あんな男相手に純潔を失ってしまった自分への叱責など。
なのにそうではなかった。
ベオウルフに対する、静まり返ったこの気持ちは一体なんだろう?
目覚めたときにテーブルの上に並んでいた三つのサシェを見ても、ラケシスの心は何も動かなかった。
ただ、ベオウルフはレンスターには行かないのだろう、と、問いたださずとも実感として残ったそのことを思い浮かべるだけだった。
ラーナとの謁見を終えてラケシスは着替えをしようと自室へ戻ろうと歩いていた。
すると、前方からベオウルフとキュアンが共に歩いてくる姿が見える。
夜番だったはずなのに。
ベオウルフはちゃんと眠ったのだろうか。
そんなことを思いながら、ラケシスは平静を装って彼らとすれ違おうとした。
「ラケシス。ラーナ王妃のところには?」
案の定キュアンが声をかけてきた。当然のようにベオウルフもラケシスを見る。
その視線に気付かないふりをしてラケシスは答えた。
「今、ご挨拶にいって参りましたわ」
「そうかい」
「キュアン様はこれからご挨拶ですか?ラーナ様はもうお着替えに入るとおっしゃっていましたけれど」
「あ、ちょっと遅かったかな。エスリンは先に行ったんだけど」
「ええ、エスリン様と入れ替わりでご挨拶させていただきましたので存じております」
それで話を終えてその場を去ることが出来る、とラケシスは思った。
と、そのとき
「ラケシス」
ベオウルフが呼びかける。その声の響きは、昨晩ベッドの上で聞いた彼の声とは違うように思う。
「何かしら」
「水いれてもっていったやつは、片付けてくれたのか」
「ええ、片付けたわ。昨日、これを洗ったの。そのとき、持っていったから」
ラケシスは自分の肩を覆っているショールをつまんでみせた。「ああ」と小さくベオウルフは声をあげて、またラケシスを
「すまねえな」
「どうということはないわ。それに、あれがあって助かったし」
キュアンは「何の話だろう?」と思いつつも、当然それに口を挟みはしなかった。
ベオウルフはそうか、と言うだけでそれ以上話は続けない。
「行こうぜ、王子」
「あ、ああ、じゃあ、ラケシスまた後で」
「はい」
ラケシスは返事をして頭を軽く下げた。
男二人が歩いていく背中をほんの数秒見てから、彼女は再び歩き出す。
身体を重ねたからといって、あまり見る目が変わるわけではないのね。
そんな風に思いながら。

ジャムカとエーディンの婚礼の儀は、城下町の教会で厳かに行われた。
シレジアの国民以外の人間の婚礼なぞ前例がなく、しかもそれが他国の王子であれば尚のことだろう。
実際にはジャムカの身分を知っている者は城下町の町民達の中にはほとんどいなかったけれど。
教会はどこにでもよくある造りになっていた。
横に4人座れる長椅子が二列、真中の通路を挟んで並んでいる。ラケシスはレックスとアイラ、そしてシャナンの隣に座った。
ほどなくして婚礼の儀は開始され、皆の前に姿を現したジャムカとエーディンが現れた。新郎新婦に相応しく、二人は白い服に身を包んでいる。
ジャムカは首から腰まで隠しボタンでまっすぐ止めるようになっている衿高の長袖の白い服に、かぶって着るおおぶりの布をたっぷりとったチュニックを重ねて腰で絞っていた。
銀色の紐で前で結ぶタイプのベルトは、彼の白ズボンの裾をしっかりいれている膝下ブーツにあしらった白い毛皮で出来ている。
下に着ている衿高の服は左右の身ごろの合わせ目に、縦に銀色のパイピングがほどこされており、チュニックの襟ぐりまでその縦ラインが見えていた。
一方のエーディンは夫にあわせたのか、これまた衿高の白ドレスに身を包んでいた。
長袖のドレスは衿から胸元までは豪華なレースが続き、袖も総レースだ。
ビスチェタイプの胸元から腰までは身体にぴったり沿う形になっており、きゅっと絞った腰から下は、8枚はぎのフレアーがひろがり、布同士を縫ったその上に、袖と同じレースの花モチーフが縦に並んでいた。冬用の生地では一枚布でフレアーを作るよりも、布を分断してはいだ方が見た目が落ち着くものだ。
そして、グローブと、頭につけたベールの裾には、雪うさぎの毛がぐるりと縫い付けられている。
「まあ、綺麗」
素直に声をあげたのはエスリンだ。隣に座っているキュアンに、こら、と小さくたしなめられる。
綺麗だ。
婚礼の儀に参列するのは初めてではなかったけれど、いいものだ。
ラケシスはそんなことを思った。
初めて参列したのは、遠縁の親戚の娘の婚礼の儀で、あのときはまだラケシスは10歳にも満たなかった。
そして、その次に参列したのはエルトシャンの婚礼だ。
ラケシスは、ジャムカとエーディン、そして参列者に語りかける神父の言葉なぞ聞いてもいなかった。
わたしは、兄様を、愛していた。
兄様が笑いかけてくだされば、それが何よりの幸せだった。
兄様がいらっしゃれば、それでよかった。
その笑顔を、その存在を、義姉様にとられた気がして、あの日、わたしは二人を心から祝うことは出来なかった。
だって、兄様はわたしのすべてで。
(エルトシャンはあんたにとって神だったんだな)
いつぞやか、ベオウルフがラケシスに言った、耳に痛い言葉。
それを肯定することには、何の躊躇も彼女にはなかった。
そう。彼女には。
けれど。
それまでどうして、そのことを考えたことがなかったのか、あまりの自分の思い上がりにラケシスははっとなった。
ベオウルフは、わたしを馬鹿だと言った。
「それでは、誓いの言葉を」
神父の話が終り、二人は誓いの言葉を交わす。
ラケシスが思い出すのは、義姉になるはずの女性にエルトシャンが愛を誓ったその瞬間、泣き出しそうになった幼かった自分のことだ。
ずっと封印していた思い出。
だって思い出しては泣きそうになったし、激情がこみ上げて、いつもそれらはラケシスの気持ちを揺らす。
自分にとって神に等しいあの人のことを、封印しなければいけないなんて。
それはつまるところ、彼は自分にとっての神ではない、ということではないのだろうか。
「誓います」
ジャムカの声にはっと我に返るラケシス。
どちらかというと普段あまり大声を出さない、いや、出したところをラケシスが聞いたことがないだけなのだが・・・ともかく、そのジャムカの声は、それまで聞いたことがないと思われるほどに、毅然として、そして自信に満ちた誓いの声音に聞こえた。
神父が、エーディンに語りかけ、誓いを促す。
その言葉はシレジア流なのか、ラケシスがそれまでに聞いたことがある誓いの言葉とは違う物言いだ。
隣にいるジャムカに対して、常に誠実で、常に思いやりをもって、生涯の伴侶たる役割を担うことを誓いますか。
伴侶たる役割とはなんだろう。それを担うとはどういう意味だろう。
「誓います」
エーディンの優しい声。優しくて、そして、とても凛とした響きを持った声。
ラケシスは瞳を閉じた。
愛する相手と共に、お互いの愛を誓い合う。
いつからだっただろう。自分には、一生そんなことは無縁だと思えていた。
だって、自分が愛していたのは。
ラケシスはとても静かに、自分の心を向き合った。
ベオウルフと身体を重ねた。それは、愛する人間とする行為だと彼女は思っていた。そして、自分が身を委ねる相手も同じように自分を愛する者だと。
けれども現実はそうではなく、きっとベオウルフにとって自分は生涯を誓うような女ではないだろうし、自分だってベオウルフに対して生涯の思いを誓わないだろう。だって、それはとうの昔に、既にこの世にはいない人に捧げているから。
エルトシャンがこの世界から消えた時点、いいや、エルトシャンが婚礼を挙げた時に、ラケシスにとっては何もかもが終わっていたのだ。
この先のラケシスの人生でエルトシャン以外の誰かに心を奪われることはないと思えたし、そうでありたいと彼女は願っていた。
だから、ベオウルフと身体を重ねても、こんなに心が動かないのだろうか?・・・それは、違うような気がする。
たったった、と小さな足音が耳に届いて、ラケシスは瞳を開けた。
人々の後ろから、ジャムカと共に何度か狩りをしたことがある、城下町のはずれに住んでいる男性の妹だという少女が、リングピローを持って通路を歩いてきた。
ジャムカとエーディンは指輪の交換を行うところらしい。
白い羽をあしらった、光沢がある生地で作られたそれが、フュリーから彼らへの贈り物なのか。
ラケシスは目を細めてそれに手を伸ばすジャムカを、そっと手を差し出すエーディンを見つめる。
わたしは。
兄様達を祝福出来なかったし、お二人のために何かをして差し上げようとなんて思えなかった。
きっと、兄様もそれはわかっていたに違いない。
わたしはとても愚かで、子供で、そして、自分本位で。
わたしにとって、あの方が神の代わりであることを、あの方がお許しになるわけがないのに。
今はわたしの心はこんなに静かで、あの頃のように我を通せない。
あの方がお許しにならないことを、わたしがどうして続けていられよう?
わたしが本当にあの方を愛していたというのに、その気持ちを持ちつづけることで、あの方がどれほどわたしを落胆させていたのかを、何故わからなかったのだろう。
その落胆は、わたしへの愛情だ。
兄様は、きっと、わたしに祝福して欲しかったに違いない。
それは、義姉様を愛していたからではなくて。
「誓いの口付けを、交わしなさい」
神父の声。
皆がみつめる中で、ジャムカはそっとエーディンの顔にかかるベールに手を触れた。
ラケシスは瞳を開けて、二人の動きを見守った。
ああ、幸せそうな二人。
これは、とても優しくて、穏やかで、そして広い愛の形だ。
多分、女性ならば誰もが一度は夢見る、正しくて、強くて、そして安らぎをもたらすものなのだろう。
改めてわたしは、たくさんの愛の形があることを、思い知ったような気がする。
エルト兄様はわたしを愛してくださっていたし、わたしもあの方を愛していた。
悲しいことだけれど、ああいう形でしか、わたしは兄様を愛することが出来なかったのだ。
今、あの方がここにいて。
そして義姉様とご婚礼をあげれば、わたしは祝福が出来るのに。
嘘偽りなく、エルト兄様を愛しているまま、それでも祝福が出来ると思えるのに。
そうすることが兄様からの愛情に答えた証になり、そして、わたしの愛情を兄様は受け止めてくれるだろう。
それは、思い上がりなのだろうか。
いつの日にかベオウルフにエルトシャンのことを話すかもしれない。
ラケシスはそんなことを思いながらふと周囲を見渡し、ベオウルフの姿が教会にないことにようやく気付く。
その時、ジャムカとエーディンは、皆に祝福されながら誓いの口付けを交わした。

城下町の人々の心遣いで、冬の花を持った人々が腕を伸ばして作った祝福のアーチを二人は通り抜け、やがてセイレーン城へと戻っていった。ラーナとシグルドを中心として皆は幸せな二人に少し遅れて、セイレーン城に戻ってゆく。
セイレーン城では祝いの宴が催された。
昼食後の儀式だったため、たくさんの食事が振舞われる、ということはなかったけれど、ちょうど大きな茶会を開くような、そんな温かなイメージで広間には甘い菓子の香りが漂っていた。焼きたてのマドレーヌはともかく、ほろりと口にいれるととけてゆく酒入りキャンディは少しばかり大人向けの味だったため、喜んで口にいれたシャナンはむせていたが。
もちろん酒類と、それに似合ったちょっとした食べ物も並んでいた。この寒い時期にとれる魚介をあしらったコンソメジュレやテリーヌ、シレジアでとれる植物から作った粉を使って焼いた小さな一口サイズの薄焼きパンなど、主に酒飲みのために作られた料理は、どれもあまり腹にたまらない程度のサイズだ。
シグルドの計らいで、ジャムカが狩りを手伝っている城下町の男達や、エーディンが時々手伝いに赴く城下町の医者、そしてそこでエーディンに助けられた人々などが、祝いの品を持って招待されていた。その人数はこじんまりとしたものだったし、ジャムカもエーディンも比較的肩から力が抜けた楽な衣服に着替えて彼らを出迎えたものだ。
そこにはベオウルフの姿があり、それに気付いたラケシスは、ああ、誰かは城に残っていなければいけなかったんだものね、と納得をした。本来、夜番だったベオウルフが更に城の警護についている、なぞはおかしい話なのだが、大方あの男は婚礼の儀そのものには何の興味もないだろうから「ああ、いーよ、俺が残ってる」程度にシグルドに言ったのだろう。
最近はシグルドも彼のそういう部分をよく理解出来るようになり、「じゃあお願いするよ」と気もつかわず答えたに違いない。
ラケシスは外からずっと着てきたコートを脱ごうとして、ためらいがちにぐるりと周囲を見回した。
近くにいたシルヴィアは気にせず、脱いだコートをくるくるとたたんで荷物を置くために壁際に置いてあるテーブルの上に放り投げていた。
「ちょっと、コートを部屋に置いてくるわね」
「はあーい」
ラケシスは彼女に声を軽くかけた。シルヴィアは手をひらひらと振って「いってらっしゃい」のポーズをとる。
毛皮のコートは脱ぐとなかなか場所をとる。荷物を置くためのテーブルがあったけれど、そういったところに城下町の町民達と共に荷を置くのはあまり嬉しくはない。
広間を出ようとすると、丁度扉付近に立っていたベオウルフが
「護衛いたしましょうか?ラケシス様」
「何を言うかと思ったら。嫌な物言いね。勝手にしなさい」
「光栄至極」
何か自分に聞きたいことがあるのだろうか、とわずかにラケシスは身体をこわばらせつつ、広間を出た。
ベオウルフはラケシスの後ろについて歩いた。
その位置は、彼が特に護衛をする気がないことを物語る。
「婚礼の儀には出なかったのね」
「ああ、誰かは残らなきゃいけなかったからな。うとうとしながら城にいた」
「まあ」
「ま、腹は減るから軽食とやらはいただこうと思ったんだがな」
「あまり変わり映えがしない恰好ね」
ベオウルフは普段とそう大差がない黒いアンダーシャツに生成り色のくたびれたシャツを軽く羽織っているだけだ。
こげ茶のズボンを動物の皮をなめしたブーツにいれて、腰に剣をさしている。
「傭兵なんでね。そういった場に相応しい恰好は出来ないもんだ」
「面倒なだけでしょう」
「ご名答」
おおかた、それが教会に行かなかったもう一つの理由だろう。
やがて二人は大した会話もないままラケシスの部屋についた。
「ちょっと待っていて頂戴」
本来ならば通路でベオウルフが待つのが筋合いなのだが、扉を開けてラケシスが中に入ろうとすると、彼は何も言わずに一緒にするりと入ってきた。それへラケシスが厳しい表情を向ける。無礼な、と言いたいのだろうということはもちろん彼にもわかるだろう。
「コート、お取りいたしましょう、王女様」
ベオウルフは仰々しくそんなことを言って、多分彼流と思われる、まったくもって板についていない一礼をした。
ラケシスはそれを見て笑い出しそうになったけれど、何も言わずにベオウルフに背を向ける。
慣れないことだろうに、ベオウルフはわざわざラケシスの肩から毛皮のコートを脱がせた。結い上げた髪の後れ毛がはらりとワインカラーのケープにかかる。
「一体どういう風の吹き回し」
「あんたともうちょっとだけ、話をしなきゃいけないと思っていた」
ラケシスが振り向くと、ベオウルフはコートを適当に椅子の背にかけて
「今朝がた、キュアン王子に聞かれたよ。俺がレンスターに行くと聞いたんだが、と」
「え」
「俺には何のことやらさっぱりでな。あんたなら何か知っているかと思って」
「・・・キュアン様は、誰から聞いたと?」
「誰だったかなあ、なんて言っててな。あの王子もとぼけたところがあるからな。この前あの王子から、レンスターに帰る前に今までの礼だ、と酒をもらったんだが・・・冗談だろうが、レンスターに共に行くなら、返せと言われちまった」
そう言ってベオウルフは小さく笑い声をもらした。
「わたしが知る範囲では」
ラケシスは言いたくないが、と前置きをして告げた。黙っているのは尚のこと気がひけたからだ。
「シャナンとオイフェは、お前がレンスターに行く、とシグルド公子と話していた、と言っていたわ」
「はあ?」
「訓練所に、お前がシグルド公子に話をしに言ったときがあったでしょう」
「・・・うん?」
ベオウルフは眉間にしわをよせて考え込んだ。ラケシスは彼の回答を待って、彼女にしてはかなり根強く、無言のままベオウルフを見つめている。
やがて、彼は「あ、あー・・・あ?」と間抜けな声を出して、苦い表情を作った。
「そりゃあ、確かにそれっぽい話はしたがな。レンスターに俺は行こうかと思って、ってな」
「・・・そうなの」
「でも、そりゃあ、今じゃない。今じゃないぞ・・・いつか来る時の話だ」
「・・・」
ラケシスは一瞬息を飲み込んで止めた。
この男が具体的な未来の話をすることがあったのか、と初めて意識させられる言葉だと思える。
彼はこの先もその都度その都度、その時の気分ですべての物事を決めると思っていた。ただわかることは、いつまでも自分の傍にはいないだろう、ということだけだ。
それが、何かの展望なり目標なりを感じさせるその言葉。
ラケシスは少しだけ驚きの表情になり、ベオウルフを見上げる。
「俺は傭兵だから、な。もらった金の分は働くし、もらった金の分以外もこうやって養ってもらってんだからな。まだ、お釣りが山ほど出るくらいなわけだ」
「そのお釣り分とやらを返すためにレンスターに、っていう話だったわけね」
「あんたは、その話をその、シャナンやオイフェから聞いたのか」
「そうよ」
観念したようにラケシスは言った。一方のベオウルフは、ははあ、なるほど、と知った顔をする。
「そいで、おかんむりだったってわけだ。もしかして、俺がレンスターに行くと今までずっと思っていたのか?」
「違うわ」
にべもなく言い放って、ラケシスはベオウルフから視線を離した。
「昨日、お前はどうやらレンスターに行かないらしいってわかったの」
すうっとラケシスはまたベオウルフに背を向けた。
「そうしたら、どうしてなのかしらね。自分がやっていることが、馬鹿らしくなって、何もかも嫌になったんだわ」
「やっていること?」
ラケシスは、サシェの話はベオウルフにはしなかった。
それは、自分一人が知っていればいいことだし、今更どんな顔をして彼にそれを告げればいいのかもわからない。
彼女はただ、自分が惨めだと思った。
この男に、自分が気持ちを込めて作ったものを渡そうとしたなんて、今となっては気の迷いとしか思えない。
「馬鹿よ、わたしは。お前のことを縛る権利はわたしにはないんだもの。だから、きちんと、お前を見送ろうとなんて思っていたんだわ」
「俺を、見送る?」
「第一、そんなことを考えなくちゃいけないこと自体、可笑しいことでしょう。お前なんてどうなったっていいのだもの。本当は。なのに・・・」
静かにラケシスはそう呟いた。それから、それこそ彼女らしからぬ仕草で、がつん、とベッドを蹴る。
驚いたようにベオウルフはそれを見て
「あんたは、ちょっと大人になったんだな」
「何を言ってるの」
「あんたは、とても、俺を尊重してくれたんじゃないか。違うのか。だから、我慢してくれたんだろうが」
「何を我慢したというの、わたしが」
「あんたは、言ったじゃないか。まだ行かないでくれって」
「!」
情事のさなかに自分が何を口走ったのか、ラケシスはうっすらとしか覚えてはいなかった。
けれども、ベオウルフが今告げたその言葉は、嫌気がさすほどに彼女の頭の中には残っていて。
最もそれは、聞きたくない話だった。
「だけど、俺がレンスターに行くと聞いても、止めなかったんだ。それは、いつものあんたの意地っぱりじゃない。大人の我慢ってもんだ」
「違う!」
ラケシスは声を荒げてベオウルフに向き直った。
「違う、そうじゃない。わたしは・・・」
その後の言葉は続かない。
ただ、わたしは、ベオウルフのことに心が揺れる自分が嫌で。
心が揺れない振りをしようとしていただけだ。
それは逆に、なんて子供めいたことなんだろう。
「お前のことで、心が揺れる自分なんて、嫌なのよ!」
ラケシスはそう叫んで、ベオウルフを睨みつける。
「そうか」
静かにそう言ってから、ベオウルフはラケシスに手を伸ばした。
「そうか」
ラケシスの頬に触れ、もう一度そう呟く。が、それ以上の言葉はとくには無い。
大きな手がラケシスの頬を包み、わずかに愛しむようになでる。
それに対してラケシスは抵抗を見せずに、瞳を閉じて、その手の感触を味わうようにそっと自分から摺り寄せる。
言葉にしてしまうと、いつも自分達はとても頼りなくて、心許ない関係になってしまう。
だから、もう、本当は何一つ言いたくない。
それでも相手から自分への言葉は聞きたいと思ってしまうし、それをもらっては落胆して。
なのに、この手のぬくもりは、間違いなく心地よいのだ。
「行くぞ。そうそう長く場を離れるのもよくないだろうしな」
「そうね」
ベオウルフはそっとラケシスの顔を覗き込み、それから彼女の下唇だけを軽く挟み込むだけの口付けをした。
唇を離した時、ラケシスはまっすぐとベオウルフを見つめる。
その表情は、恋人からの口付けに心酔している、すべてを委ねきった表情ではない。
いっそう毅然として、自らを主張するその眼差し。
ベオウルフは苦笑を見せた。
「あんたがあんたでいることが、一番の幸いだ」
「・・・意味がわからないわ」
「どんなに俺のやることに気持ちが揺れようが、馬鹿なことをしようが、あんたはあんたが信じるとおりに生きればいい。それが」
それが、俺にとっても、幸いとなるだろう。
その言葉は発せずに、ベオウルフは扉を開けた。

祝宴を行っている広間に戻ろうと歩いていると、ラーナとその護衛についている天馬騎士数人の姿が見えた。
教会での儀式にも出席し、祝宴にも顔を出したので、聞こえはあまりよくないが義理をこれで果たしたというわけらしい。女中達が軽い携帯食を天馬騎士に渡していた。
「もう、ザクソンに行かれるのですか」
ラケシスが声をかけると、ラーナは頷いた。既に身軽な恰好になっているのは、天馬に彼女もまた乗って行くからだ。
「今、フュリーを待っているところです」
穏やかに女帝は言い、ラケシスの後ろにいるベオウルフに気がついたように
「あら、あなたは・・・えっと、そう。ベオ・・・ベオウルフ、でしたね」
「覚えていただくほどの者でもありませんがね」
「ベオウルフ!」
「良いのですよ、ラケシス王女。人には自分が思うように振舞う権利があるのですから」
そういってラーナは笑う。
ラケシスは何故か恥じ入ったように困った表情を作る。
共にいたベオウルフの不躾さに恥じたわけではなく、この女帝のおおらかさの前で、己の小さなこだわりがわずかではあるが無用のことに思えてしまったからだ。
「そういえば、あなたに言い忘れていたことがあったのですよ」
と、ラーナはそんなラケシスに語りかけた。自分のことか、と一瞬気がつかない風だったが、慌ててラケシスは返事をする。
「なんでしょうか」
「朝の謁見のときに、わたくしがさしあげたショールを身につけてくださったでしょう。ありがとう。とても嬉しく思ったわ。あなたならば、あまり汚さずに身につけてくださるかと思って白を選んだのだけれど、気に入ってくださったのかしら」
その言葉にラケシスははっと身を固くした。
きっと、こわばった自分の表情にラーナは気付いただろうし、ベオウルフも背後から見て、気付いたに違いない。
それほどに明らかな不思議な間を作ってしまった。
とまどいがちに、なんとか言葉にしなければ、とラケシスは声を振り絞るように出す。
「ありがとうございました。とても気に入って身につけさせていただいております。でも・・・。申し訳ございません。実はもう、いくらか汚してしまって。洗ってもとれない土汚れが内側についてしまいましたの。少しぬるま湯にもつけたのですけれど、どうにも・・・。ご期待に添えずに申し訳ありません・・・」
消え入るように最後はか細い声で謝り、深く詫びの一礼をした。
ベオウルフは「そんなこたあ、大したことじゃねえだろう」と言いたそうに呆れ顔をしていたけれど、当然ラケシスには見ることが出来ない。
「まあまあ、そんなかしこまったことは必要ないでしょうに。ラケシス王女、頭をおあげになって」
ラーナはそう言ってラケシスに顔を上げさせる。
「汚れのことより、それでも身につけてくださっていることの方が、どれだけ嬉しいことか、あなたはご存知ないのかしら?ぬるま湯にもつけたのですって?あなたがそれをなさったのかしら」
「は、はい」
それには理由があったし、今日がなければきっと女中に任せきりだったに違いないことではあった。
ラケシスは彼女にしてはめずらしく、未だ困惑の表情を浮かべている。
「ありがとう。そうやって大切にしていただけることは、とても嬉しいわ。ラケシス様は素敵な気持ちをお持ちの方なのですね。嬉しく思います」
ラーナはそう言って微笑んだ。
ラケシスは喉元まで「違う。違うのです、ラーナ様」と、言葉がぐいっと押し上げられていたけれど、それをかろうじてこらえていた。この場でそれを訴えたとしても、一体それが何になるというのだろう?
彼女の脳裏に浮かび上がる映像は、とても昔のこと。
ああ、あれは食事の時。
エルト兄様の袖のボタンが落ちて。
「・・・!・・・」
不意にこみ上げてくるその気持ちは、先ほど彼女が発しようとした言葉とはまったく異なるものだ。
その時、通路の角からフュリーが走ってくる姿がラケシスの視界に入った。
「お待たせいたしました!」
「ああ、ご苦労。それでは、私達はザクソン城へと参ります。またそのうち」
「はい。お気をつけて」
軽くラーナが挨拶をすると、ラケシスは美しい仕草で深々と一礼をした。その様子を見て、柄でもなくベオウルフもそれらしく頭を下げる。
ラーナは天馬騎士達に囲まれて二人の前から離れていった。
その姿はとてもゆったりとした余裕と威厳に満ちていて、この白い大地を持つ凍えた国が、その風土に反してとても国民の気質が温かくおおらかで、そして気ままであることを象徴しているようにすら思える。
「まったく、あの王子もちったあ母親に似ればよかったんだ」
見送ってから開口一番ベオウルフはそんなことを言った。
が、ラケシスからの返事はない。ただうつむいて床を見つめているだけだ。
「うん?どうした?」
「わたし・・・」
「ラケシス?」
「今、やっと、兄様がおっしゃっていたことがわかったんだわ」
様子がおかしい、とベオウルフはラケシスの前に回りこんで、彼女の顔を覗き込もうとしたとき。
ぽとり。
床に、ラケシスの涙が落ちた。
「ベオウルフ」
「・・・なんだ」
「汚れが、とれない服を着ていることは、みすぼらしいことでしょう?」
「・・・種類によるけどな」
「汚れたら、捨てれば良いと思っていたのだけれど、わたしは間違っていたのかしら」
「湯水のような富があれば、そうしたって構わない。少なくとも今の俺たちにはそんなもんはないだろうがな。ちっとばかり金を稼いでも、大抵ラーナ王妃の温情にすがって生きているようなもんだろうよ」
「でも」
一体何がどうしたんだ。
ベオウルフはわけがわからない、という顔でラケシスの言葉を待つ。
けれど、ラケシスはそのまま唇を引き結んで、何も続けることが出来なくなったように肩を震わせる。
誰も来ないといいんだが、なんて呑気にベオウルフがあたりを見回すと、不意にラケシスが言葉を発した。
「たくさんのことがわかって、わたし、どうしていいかわからない」
「そうか」
「わたしは、何も知らない子供だったんだわ。今までずっと」
「今は?」
ベオウルフのその問いに、ラケシスは静かに顔をあげる。
「・・・わからない」
「だろうな」
「でも、今ならきっと、もっともっと、いい妹にもなれると思えるの」
結局はエルトシャンのことか。
ベオウルフはそう言おうとしたけれど、あえて口に出さずにラケシスを見つめるだけだ。
それでも、何かを越えなければいけないときにエルトシャンの影が時折彼女の心の中に現れることは、未だつきまとう、仕方がないことなのだと彼は知っている。
やがて、ベオウルフは呆れたように溜息と共にお決まりのフレーズをラケシスにぶつけた。
「あんたは、馬鹿だ」
「わかっているって、言ってるでしょ」
「・・・エルトは、あんたを、愛していたし、あんたを最高の妹だと言っていた」
「・・・っ・・・」
ラケシスは目を見開いた。それから、まるで苦痛を訴えるように、眉根を寄せながら声を絞り出す。
「言わないでっ・・・」
こんなときに、なんて残酷な男。
突然突きつけられた、自分以外の人間が知っているエルトシャンの存在に、ラケシスは耐え切れなくなったように嗚咽を漏らした。
「なんで、今、それを・・・」
「あんたが、言うなといったからだ。エルトシャンのことを。そして、昨日、許可をもらったから、今、話した。それに」
「何」
「あんたは、馬鹿だから、教えてあげないといけないと思っていた。エルトは、あんたを、心から愛していた」
「そんなこと、知って・・・」
いたのだろうか?自分は。
ラケシスは瞬きを忘れたようにベオウルフを見た。けれど、その瞳が映しているものは、本当は彼ではないのだろう。
違う。知っていたならば、きっともっと。
ラケシスはふらついて、どん、と背を壁につけた。ベオウルフはそれに手を出さない。
「ベオウルフ・・・ベオウルフ・・・」
「ああ」
「ベオウルフ、わたしっ・・・」
「エルトが好きだった酒を、キュアン王子からもらった。女とは一緒に酒を飲まないんだが、あんたとなら一杯くらい一緒に飲んでもいいと思う」
「ベオウルフ」
もはや他の言葉を忘れたようにラケシスは壁にもたれかかって、顔を両手で覆った。
ああ、とても不自由でどうにもならない女だ。
そう思いながらベオウルフはその場にラケシスを置いたまま歩き出した。少しずつ彼は祝宴の声が聞こえる方へと近づいていく。
彼女はベオウルフを止めないし、ベオウルフも振り返らない。
ただ、ラケシスの唇から、彼の名前がもう一度発されるだけだった。
そして、その名がエルトシャンの名ではないことに恐れおののきながら、ラケシスは床にずるりとくずれおちた。


Fin

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モドル