夜の蝶

風が吹けばきぃきぃと音を立てる、薄い鉄の扉を支える蝶番。歩くたびにきしむ、木を張った床の音には慣れっこだった。
一度は人並みの暮らしを覚えてしまったとはいえ、彼女は今までの人生の中で潤いがある生活を体験したことがあまり多くはない。
幸せというものがとても小さくて、すぐ側にあることに気づかない人々が多い中で、彼女はそれらを探すこと、気づくことがとても得意だった。それは生まれ持っての才能とも呼べただろう。
だからこそ、この境遇で女手ひとつで愛娘を育てなければいけなくなっても、彼女の生活は穏やかで幸せなものだと思えた。
だって、そうではないか。
今ここに、あの人との間に生まれた愛しいこの子がいて、あたしは生きていて。
それ以上にどれほどの幸せがあるのかと言えば。
もしも、もうひとつだけ背伸びをして、「もっと」幸せになれるならば、それはたったひとつだけ。
間違いなくあとひとつだけで、そして、それは誰にも譲れないもので。
ねぇ、神様。
あなたを信じて生きてきたあの人を、この世で一番あの人を愛しているあたしの元に返してください。
毎日の祈り。
彼女はその祈りが届くことがないと知っていたし、届いたところでかなえてもらえるとは思ってはいなかった。
けれども、その神様とやらに最もこの地上で近い彼ならば、聞こえるのではないかと、自分がこうして祈る神への声が彼には届くのではないかと、彼女は思ってしまうのだ。
あの人に聞こえてくれたらいい。待っていてくれたらいい。
神様は彼を返してくれるわけはないから、いつか自分が取り戻しに行くから。
その時まで、まかり間違ってもあの人が。
自ら、神様なんていうよくわからないものの近くに去る運命を、受け入れないように。

愛娘であるリーンは、もう2歳になる。髪の色は自分と同じだけれど、目元はどう見ても愛しいあの神父譲りだ。
赤子にありがちな病気は何度か経験したが、比較的健康に育っていると思う。
子供の頃は女の子の方が男の子よりも早く成長すると聞くが、若い母親であるシルヴィアにはよくわからない。
子育ての経験者がリーンを見れば皆、覚えが早い子だと答えるが、床を這うことや物に掴まって立てるようになった様子を見ても「こんなもんなのかな」程度にしかシルヴィアは思わない。ただ、そのひとつひとつが生物の奇跡なのだと素直に思えた。
野生動物は生まれてすぐに動けるのに、人間はなんて無様なんだろう。
そう思う反面、その緩やかな進化を見ることは彼女には新鮮だった。
それに、過去に自分がそれだったのだと思うとなおの事、いつかリーンが自分のように動けるようになる可能性があることに感動すら覚えた。
元来喜びに対しては単純な気質をもつシルヴィアは、そのことを考えれば未来のことですら楽しくなったし、泣きわめく赤子に癇癪をぶつけるときもあったけれど、独り言の良い話し相手としてリーンのことを心から愛していた。
ここグランベルで反逆者の一員とされているシルヴィアは、表立って以前のように全力で踊りを舞うことが出来ない。彼女の持ちうる稀有な才能は、すぐさま人々の口に上ってしまうことがわかっているからだ。
愛娘との生活を維持するだけの金が、今の彼女の、手を抜いた、十人並みに見せなければいけない舞だけでは稼ぐことが出来ない。
なんとか薄汚れた場末の酒場で男達の接待をして日銭を作ることだけが精一杯だった。
ありがたいことにリーンを孕んで身重だった彼女に手を差し伸べてくれた、酒場の客であった気が良い農園の主は、冬に備えるわらや薪を詰め込むために昔使っていた倉庫を彼女に開放してくれた。酒場の住み込みで働いていても、子供を産むとなったら話は別で、彼女は行き先を探していたのだから、渡りに舟とはこのことだ。
シルヴィアは、子供が産まれたら恩返しをするから、と何度も何度も言葉にしていた。
農園の主は彼女のその言葉の意味がわからなかっただろうし、わかっていても「女一人で何の恩返しが出来るものか」と鷹をくくっていたに違いない。
シルヴィアがリーンを産み落としてからひと月後。若くて健康な彼女は回復も早く、そして元来の明るさによってすぐさま酒場で人気を集めることが出来た。
農園のおかみさんが生まれたばかりのリーンの面倒を見てくれることに感謝を感じない日はなかった。やはり人は、一人では生きてはいけないのだろう。シルヴィアは、あのひと時のシレジアでの、愛しい人達に囲まれた生活を時折思い出してはささやかな今の幸せを噛み締めていた。

「恩返しといっても、あたしは踊ることしか出来ないんですけど」
ある晩、酒場の仕事を休んで、シルヴィアは農園の主の下に訪れた。
主人、おかみさん、息子夫婦、それから長女と次男と、犬2匹。それがこの農園の一家構成だった。
息子夫婦は離れに住んでおり、リーンの面倒を見てくれるのはもっぱらおかみさんと長女(とはいってもシルヴィアより10歳は年上なのだが)だ。夕食を終えた一家は、息子夫婦は離れに戻り、次男は隣町の知人の誕生祝いに出かけており、残っていたのは夫婦と長女だけだった。
ようやく生活も軌道に乗り、酒場の休みも時々とることが出来るようになった。それが、今になってようやく改めた礼を言える機会を彼女に与えてくれたわけだ。
「でも、あんたの踊りは酒場で何度か見ているよ。改めてここで踊って貰わなくてもいいんだよ。困ったときはお互い様だし、あんたは休みの日は農園を手伝ってくれているじゃあないか」
そう答える主の言葉は「それに、恩返しに踊られるほどの舞じゃないからね」と言う意味も含んでいるとシルヴィアは理解した。
「それに、ここには酒場と違って音楽がない。それとも歌いながら踊ってくれるってのかね」
「お父さん、無理言っちゃダメでしょ。折角踊ってくれるっていうんだから、おとなしく見せて貰いましょうよ」
長女が優しく父親をたしなめる。
その長女の傍らには、つい先ほど寝入ってしまったリーンが毛布に包まっている。
この農園はここいらの町の中では比較的経営が安定していて、富豪にはさすがになれるわけはなかったが、気候さえ彼らの味方になってくれればその年は何も食うに困らないという順調さだ。
しかしながら、気候に恵まれない時はやはり散々で、その時の周囲から差し伸べられる手のありがたさを知っている彼らは、決して驕り高ぶることはなく、町の人々からは好かれている。
彼らの団欒の場は、犬達が快適に過ごせるような、広い空間があった。
そこでシルヴィアが踊る許可をもらい、テーブルを脇のどけて、場を広げてもらった。
床に敷かれた絨毯は、あってもなくても彼女にとっては問題がない。
「音楽は要らないんです」
シルヴィアは、努めて明るく、きつい物言いにならないように言った。
以前の彼女ならば「うだうだ言ってないで、まずは見なさいよ!」と叫んでいた場面だったに違いない。
けれども、彼らが自分やリーンにほどこしてくれるその気持ちのありがたさを身をもって理解した今、十分な若さを備えつつも、シルヴィアは謙虚さを持つことが出来た。そして、それが時折、世渡りの武器になることも既に彼女は十分過ぎるほどに知っていた。
「ただ、見ていただければ。せっかく、お休みもとっちゃったので、是非見ていただきたいんです」
「ま、そこまで言ってるんだもん、あんた、見てあげようよ」
「まあ、見ない、とは言ってないけどなあ。わかったわかった。それじゃあ、お願いしようかな」
「ありがとうございます!」
シルヴィアは深く頭を下げた。

左足に、薄汚れた小さな鈴がたくさんついているアンクレットをつけた。
酒場で踊る時は踊り子達数人が同じ恰好で踊る。
だから、彼女は今まで彼女が踊っていたときの恰好をすることがついぞなかった。
手首には同じように小さな鈴をつけた古いバングルをつけ、そこには細くて長い薄布が挟み込まれる。
産後に体型を戻すことに、シレジアではラケシスもアイラも苦しんでいた。特にラケシスは甲冑を身に纏うために、いつまでも続いた体の丸みが強い時期の出陣のため、鎧を作り直したほどだ。
それなのに、一体どういうことなのだろう。
シルヴィアはリーンを出産した後、自分の体に対して、初めての恐怖を抱いた。
まるで、「そう」であることが当たり前のように、彼女の体は、リーンを身ごもる前の体型にするすると戻り、重かったはずの体、体重を支えるためにむくんで太くなった脚、体内の子供を失ったために余ってしまった皮膚、それらのものがまったく産前と変わらないように再生をしたのだ。あたかも、彼女の体の細胞達が、時間を逆流させたかのように。それらは新しい細胞で形成されているはずなのに。
シルヴィアはそのことに恐れを抱いた。恐れを抱くと共に、それが、あの神父が信じていた神という厄介なものが自分に課した何かなのだということに気づいた。
また、踊らなければいけないのか。
否。
そんなものに操られずとも、自分は踊っていくというのに。
シルヴィアは髪を結い上げて、顔をあげてまっすぐ立ち、彼女に注目している農園の一家をぐるりと見た。
ひとつとして歪みがない、すらりとした自分の体型。
こうやって改めて心を沈めて立つと、それがいっそう自ら実感できる。
顔をまっすぐ向ければ、それは本当にまっすぐだし。
脚の踵を合わせれば、正しい角度で足先が外側を向くし。
そのどれもが安定して、そして、自分はそれゆえに安心して舞うことが出来るのだ。
一度だけ、あの愛しい神父が彼女をみつめて、感嘆のため息をついたことをふと思い出す。

「あなたは、左右の偏りが何もない人ですね」
意味がわからないシルヴィアに、困ったように微笑んでクロードは言葉を続けた。
「人は、誰しも神の下では平等だとわたしは思っていますけれど、あなたは」
「なあに?神父様が言うこと、いつも難しいよ」
「選ばれた人間なのかもしれません」
「・・・変なの」
「おかしいですか」
「そんなの、どーでもいいな。でも」
「ええ」
「神父様に選ばれるなら、いいよ!それは嬉しいもの!」
「わたしは」
神父は困ったような表情を向けた。
「人を選べるような人間ではありません」
「よくわかんないけど、そんなのどうでもいいじゃない」
シルヴィアは何故神父がそんな表情を彼女に向けるのかはまったく理解できなかったし、する必要はないと思えた。屈託のない彼女の言葉に、彼がどう心を揺らしたのかはわからない。
「わたしが、神父様に選ばれたいんだもの!」

幼かった自分のまっすぐな恋を思い出して、シルヴィアの心は揺れた。
愛しているという言葉にするにはあの頃の自分はまだ幼かったけれど、今、自分が心の中で抱いているその感情を言葉にしなければいけないならば、間違いなく「それ」なのだろう。
変わらない心がこの世界にあるなんてことは信じていない。
深まりゆくこの気持ちに歯止めが利かないことにシルヴィアは既に気づいていた。
今ならば、もっと深くあの人をわかってあげられるかもしれないのに。
どれほどの驕りだと他人にののしられても、それは間違いないのに。
ああ、なんてあの恋は幼くて。
その心のさざなみに突き動かされたように、シルヴィアは左手を、つい、と高くあげた。
とても小さな鈴の音が、彼女の耳に、人々の耳に響いた。
彼女は指先をぴんと反らす。
爪先まで伝わる緊張と共に、何かがそこから放たれるような感覚。
絨毯を蹴った足の爪先がわずかに床から離れて空間へ放り出された時、この世界に彼女達を縛り付けている重力や、しがらみや、何か目に見えない足枷が一瞬外れる。
しなった背や、伸びすぎるほど伸びていく彼女の手足は、自分達の生に与えられた限りない可能性を、誰もが気づかずに内に秘めたままであることを表すように、あまりにも開放的だ。
その開放感と相反する、開放されなかった自分達の体や心。
過去に遡っての悔恨や、その後悔と共に繰り返す自らへの憤り、もはや取り戻せない人への哀惜。
それらの、あまりにも時間や肉体や自らの心に縛られて、取り返すことが出来ない悲しみが、シルヴィアの体の中からほとばしる。
人間の可能性とは裏腹に、その可能性を知らずに過ごした時間が苦しみとなってしまう苦痛。
シルヴィアの舞はそれを気づかせてしまうほどに、人としては異質なものだ。
手足を動かすごとにはためく薄布は、何も意思を持たずに風にゆられる悲しい生き物にも見えたし、何かの力で無理矢理動かされる苦しみにも見えるし、そして、流されながらも美しさを保ち続ける、人の心の強さにも見える。
そんなに高く飛び上がっているわけでもないシルヴィアの跳躍は、それでも、空間でわずかな静止の一瞬を感じさせる、不思議な形だ。
過去に、戦場で、人々に命の活力を与え続けた彼女の舞が、今は静かな哀しみを人々に放っている。
揺れた心はそのまま彼女の舞に表れ、そして人々に伝わる。

神様に、選ばれなくたって、いい。
わたしは、神父様に選ばれれば、それで。
そのことが、この世界でわたしが生きていく糧になるのだから。

今まで自分はどれほどの恋をして来たのかと思いを馳せれば、その全てが恋愛「ごっこ」だったように思える。
あんなに一所懸命に、いつも恋心をぶつけてきたのに。
シレジアの王子であるレヴィンへ抱いた恋心だってあの時は偽りはなかったと思う。
なのに、何故、こんな大きな愛情に自分は出会ってしまったのだろうか。
あなたは、もう、わたしの側にいないというのに。
悲しい。
悲しい。
悲しい。

農園の一家は、まばたきを忘れたようにシルヴィアの舞を見つめていた。
主人はぽかんと口を開けてぴくりとも動かない。
運命の踊り子、とブラギの申し子であるクロード神父に評されたシルヴィアの舞は、普段、酒場で見られるものとはまったく違うものだった。
音楽は要らない、と彼女は言った。
その言葉の意味を考える余裕もなく、ただ、彼は自分の脳裏に流れる、過去に聞いた音楽に捕らわれていた。
絶え間なく流れる音楽に、時折しゃらん、と鈴の音が混じる。多分、その音だけが耳の外側で発生している現実の音なのだろう。
彼女の舞は、人々の脳に刻まれた音で形成されている。
視覚から伝わった刺激が、脳で音に変換され、そして、心までも揺さぶる。
そんなことが人間に出来るはずがない、と誰もが言うに違いない。
それが出来ることが、つまり、彼女を「運命の踊り子」と呼ばせる力なのだから。
主人の隣に座っていたおかみさんが、声を出した。
「あんた・・・」
「シッ、静かに見てろ」
「あんた・・・怖いよ」
「何が」
「あたし、泣いているんだよ」
主人は、そう呟く自分の妻を見ずに、ぶっきらぼうに答えた。
「馬鹿野郎」
「だって」
「俺だって、泣いてるんだ」
「えっ・・・」
それは、芸術とか、文化とか、そんな言葉で表現すべきものではない。
身体の限界なぞないのではないかと思わせるほどに、滑らかに動き続けるシルヴィアの手足が見せる軌跡は美し過ぎる。
人間の動きを美しいと感じて、そしてそれに涙することも、人間の動きを見て自分の心の奥底にある「何か」への感情が動かされることも彼らには初めてのことだった。
ごそり、と彼らの傍らで眠っていた赤子が動いた。
起きてはいない。
ただ、動いただけだ。
シルヴィアは舞の最中にそれに気づいた。そして、彼女を揺さぶる対象となるものが、リーンになった。
その赤子の動きを境に、彼らの脳裏に響き渡る音、目の前で繰り広げられる異様な舞の質が変化をして。
彼女の体から、その踊りから放たれるものは、愛情。
飛び散る汗も、彼女の熱い吐息も、疲労を感じさせない跳躍も。
流れる布も、濡れた頬に張り付く髪も、遠くを見つめるその瞳も。
その子のために。そして、その子を与えてくれた、あの神父のために。

ドンドンドン。
荒々しいノックの音が家に響いた。
シルヴィアがその音に気づいて踊りを中断するまで、一家は誰もがそれに気づかないようだった。
夜の時間だというのに、ぶしつけだ、と、我に返った主は思った。
しかし、足元にいる犬達が主の服をひっぱる様子では、かなりの時間、そのノックは続いていたのだと彼は理解する。
「おい、誰か来たぞ」
まいったな、と思いつつも主は妻に、招かれざる訪問客が一体誰なのか見てくるようにと肘でこずいた。
「はいはい、誰でしょうね、こんな時間に」
腰をあげるのも面倒だ、というようにおかみさんは嫌そうな顔をひとつみせてから、部屋を出て行く。
シルヴィアは、自分が踊っている間に客人が痺れをきらして大きくノックをしていたのだとわかって、少し息を切らせつつも頭を下げた。
「ごめんなさいっ、踊るのに、夢中になって・・・お客さん・・・」
「いや、わしらもあんたの踊りに夢中になって、気づかなかったもんだ」
「驚いたわ。こんな踊り初めて見るんだもの。ねぇ、どうやって音楽を流しているの」
夢から覚めきらぬよう、長女は興奮してシルヴィアに問いかけた。
「それに、なんで、この曲なの。なんであなたが、これを知っているの」
ああ、きっと、彼女の頭の中では、思い出の何かの曲が流れているのだろう、とシルヴィアは首を小さく傾げて答えた。
「音楽を流すのは、あなた自身なんです。わたしは、踊るだけ。それを見て、あなたが、勝手に音を頭の中で流しているだけなんです」
意味がわからない、と長女が言おうとした瞬間、もぞもぞとリーンが動いた。
今度の動きは目覚める前兆だ。
「あらあら。リーンちゃん起きちゃうかしら」
「あ、はい、ありがとうございます」
シルヴィアは汗でうっすらと濡れた腕を伸ばして、毛布に包まっているリーンを抱き上げた。
不思議と疲れはあまりない。
久々に自分の本来の踊りを人に見せたシルヴィアは、体がまだ自由に動く喜びと、そして、人に見てもらえる喜びで、深い充実感を味わっていた。
もぞもぞと毛布の中で動いて、リーンは手を伸ばした。
何が欲しいというわけではないとわかっていたが、シルヴィアは左腕でリーンを抱きながら、右手で愛娘の小さな手を握る。
「起きちゃったねー。もうちょっと早く起きたら、あたしの踊りを見られたのにねっ」
「ううーん・・・」
慣れっこであるシルヴィアとは反対に、いまだに現実に戻りきれていない主と長女はぼんやりとその親子を見つめていた。と、そのとき
「シルヴィアさーん、シルヴィアさーん、あんたにお客さんだよ」
おかみさんの声がする。
ぎくり、とシルヴィアの体はこわばって瞬きがぴたりと止まった。
もしかして、グランベルの追っ手だろうか。
その思いが彼女の心の中で広がり、突如心臓の音が高鳴る。
どうしよう。
倉庫にいるならまだしも、ここで見つかったら、何も用意が出来ない。
腕の中のリーンを見て、いささか今の幸せに甘えて覚悟がなかった自分をシルヴィアは呪った。
やがて、呼んでもすぐにやって来ないシルヴィアに痺れを切らしたらしく、どたどたと耳障りな音を立てておかみさんは戻ってきた。
強張った表情をシルヴィアが彼女に向けると、人のよさそうな顔でおかみさんはにこにこ笑っていた。
「あんたを探してたんだって。結構な顔立ちの、いい感じの明るい青年だよ。まさか、あの子がリーンちゃんのお父さんってこたぁ、ないよねぇ」
「え」
「こんな時間に来て申し訳ない、とかいって、お土産までもらっちまったよ、あんた、ほら。こんないいもの」
「おいおい、そんな簡単に受け取っちまっていいのか」
おかみさんが手にしていたのは、塩漬けの豚の肉を詰めた瓶だった。それを包んでいた布を見て、シルヴィアは「あっ」と声をあげる。
その布には、見覚えが、ある。
それは、神父様の。
「リーンを、少しだけ頼みます」
「はいはい」
シルヴィアはリーンを長女に預けて、慌てて居間から出た。
それは、あの神父が以前、杖を包んでいた布だ。
彼は移動の際には丁寧に一本ずつ布にくるみ、更にそれをもう一枚の布で包んでいた。
本当は、それらの杖が必要とならない方が良いのだと。
死者を蘇らせるバルキリーの杖。
多くの仲間達の傷を広範囲に癒すリザーブの杖。
遠くの仲間の傷を癒すリブローの杖。
そのどれもが、あまり良くない事態に必要なもので、そういった状況にならずに済むには、それに越したことがないと彼は穏やかに話していた。
それは。
バルキリーの杖を包んでいた布の切れ端だ。
それを持ちながら、更に、人に賄賂のようなものを贈るやり方が出来る人間は、彼女が考えられる限りには一人しかいない。
玄関にたどり着いたシルヴィアの目の前にいる、その人物は。
「やっぱり、シルヴィアだ!よかった、探してたんだよ!」
「・・・デュー!」
そこにいたのは、懐かしい笑顔だった。
あのシレジアで同じ時を過ごしてきた仲間の一人、盗賊のデューだ。
金髪を伸ばして後ろで束ねているその髪型は変わってはいなかったけれど、背が高くなった、とシルヴィアは一目で思った。
以前より大人びて精悍な顔立ちになった盗賊の少年は、既にどこから見ても青年になっていた。それでいて、昔と変わらない大きい瞳は可愛らしさを残しているように思える。
「デュー・・・デュー・・・あたしっ・・・」
言葉にうまくならない。ひさしぶり、とも、会えてよかった、とも、生きていたのか、とも。
そのどの言葉も今の自分達には必要があり、そして必要がないとも言えた。
声に出すことになにやら苦しんでいるシルヴィアに、デューは明るく言葉を続けた。
「話は、後から出来るよ。シルヴィアさえよければ行こう!」
「行こうって・・・一体、どこに」
「ブリギッドさんが待ってるんだ」
「ブリギッドが?あんた達、一緒だったのね?」
うん、とデューは頷いて、それからほんの少しだけ声を潜めた。
「神父様が、バーハラの塔で生きているっていう情報を手に入れたんだよっ」
その言葉を聴いて、シルヴィアは唇を引き結んだ。

来た。

何故か、少しの驚きもなかった。
彼女の心はとても静かで、先ほど、グランベルの追っ手がやってきたのではないか、と思ったときに取り乱したのが嘘のようだった。
どうしてここがわかったの、とか、そんな問いは無意味なことだ。
ただ、ついに「それ」がやって来たのだ、と静かに思う。
自分が数年振りに全てを開放して踊ったその夜に、運命の歯車が動き出したのだ、と感じた。
シルヴィアは瞳を閉じた。

あなたは運命の踊り子。そして。

クロードの愛しい声が、鼓膜に響いたような、気がした。

わたしの、踊り子。

あなたに、会いに行く。
シルヴィアは瞳を開けた。
迷いは、何もなかった。このために自分は今この瞬間まで生きていたのだと確信できた。
たったもう一つだけの更なる幸せを求めることに、一体誰が自分を責められるというのだろうか。
「連れて行って。あたし、なんでもするわ」
目覚めた時に確かにそこにいたはずの母親の姿が見えないことに苛立った赤子の声が居間から聞こえた。
デューはその声にはっとなり、シルヴィアを見たが、彼女はもう一度繰り返すだけだった。
「あたし、なんでもするわ」
凛とした響きに心を打たれたように、デューはただシルヴィアを見つめて、それから、手を差し伸べた。まるで何かの儀式のように、デューの手に汗ばんだシルヴィアの手がそっと重ねられる。

リーンの泣き声が耳に届いた。シルヴィアは瞳をもう一度閉じる。
この日を待っていた。
リーン、あなたのお父さんを、わたしの愛しい人を、取り戻してくるね。
シルヴィアは手に力を入れた。デューはそれに応えるように、彼女の細い手を握り返した。
「デュー、あたし、今、幸せだと自分で思うの」
「うん、そうみたいだ」
あの赤子の声は、この家の子供ではない。
デューは直感でそう理解していた。
バーハラでの別れの前に、シルヴィアが身ごもっているという話は聞いていなかったけれど、勘の良い彼はシルヴィアに特に問いたださなかった。
「でも、毎日祈ってたの」
「うん」
「この幸せをくれた神父様と、もっと幸せになりたいの」
「シルヴィア」
「欲が深いのかなぁ?だって」
デューはどう答えて良いのかわからず、彼女の言葉を静かに待つ。
もう、少年はあの頃の少年ではなく、大人の女性と対等に話が出来る器を持った男性へと変化していた。
「あの人を、このまま神様なんてものに渡すつもりなんか、これっぽっちもなかった。だってそうじゃない。あたし達の方がそんなものの何倍もあの人のことを好きなのに」
シルヴィアは、静かに瞳に涙を浮かべていた。その表情はひきしまり、心に決意を秘めた人間だけが持つ、強い意志を体から放っている。
デューは頷いて、強い口調で応えた。
「行こう。神父様に会いに」

それは、運命の踊り子が舞う夜。
赤子の訴えが響く中、自分の脳裏で何かが動き出す音が鳴っているのを、シルヴィアはただ静かに聞いていた。


Fin



モドル

アナザーとかアフター小説は正直言うとあまり好きではないんですが、クロシルとレクアイは多少書かせていただきます。まあ、二次創作やってる時点でアナザーだろ、というツッコミもあるとは思いますけど、どーもこーも苦手なの。ユルシテ!
それにしても、大人びたデューって、すげえ書くのがムズイです。