淡い微熱-1-

「あー、今年は、例年以上に雪が深くなるようだな。どさどさ降るぞ」
ベオウルフは馬を洗う一仕事を終えた後、ううん、と伸びをしながら言った。
息が白くなるほど気温が低いわけではないが、伸びた後に体の力を抜くとぶるると全身に寒さが染みる。
馬屋は冬の雪に耐えるために支柱を何本もたて頑丈さを重視しており、屋根は鋭角に作られて雪が落ちるようにしてある。
馬は元来臆病な動物だから、どさどさと雪が屋根から落ちると驚くものだが、シレジアの馬達にとってそれは冬の音として認識されているらしくあまり怯えることはない。これが天馬になれば尚のこと、突然冷たい塊が近くの高い木の枝から落ちてこようと、飛び上がって主を不快にすることなどはない。
しかし、それでも万全の対策を、ということで、馬屋の屋根の上に雪をおとすような木は近くに苗を植えず、たとえ木が生えていても屋根を覆う部分の枝は切られる。屋根の上の雪が下に落ちた後に、今度は木々から落ちた雪の音が彼らを待っているからだ。
それはそれで木々が可哀相だということでそのままそっくり移し変えることがほとんどだが、ベオウルフ達の馬がいる馬屋は、彼らがシレジアに来た時に簡易的に作られたものだったから、馬屋に対して何の気兼ねもなく近くに木が何食わぬ顔で立っている。
木々はもはや葉という葉を落としていた。シレジアの冬で雪がまだ積もっていない時期はそれゆえ寂しい風景になりがちだが、その時期がもっとも木々の枝の形がわかり、それらが並ぶことで作り出す自然の不思議な造形はなかなかユニークでベオウルフは「悪くない」と心の中では思っている。
「雪が深くなる?」
そもそも例年というのがどの程度なのかを知らないレックスはベオウルフの言葉の一部をオウム返しにする。
レックスの方はちょうどベオウルフが馬を洗い終えるところに遠乗りから帰ってきたところで今から愛馬の手入れをしようとしていた。
ベオウルフのその言葉からは、彼には「例年」の様子がわかる過去があると推測されるだろうし、それに気付けばレックスも多少は詮索もしようものだが、残念ながらというかありがたいことにというか、レックスは目先の話題に集中して、そのことを特に気にもとめなかった。
「そんなこと誰がわかるんだ?空を見ればわかるのか?」
「んん?こいつ」
ベオウルフは馬屋の角柱に背中をもたれかけさせて、近くの木を指差した。目線は上をあまり見ていない。木の幹付近を指差しているように見える。
レックスは自分の馬から離れて、怪訝そうにベオウルフの指差すものを見る。
「木かよ?枝とかでわかるのか?」
「よく見ろ、これだ、これ」
「うん?なんだこれ」
ベオウルフは木の傍に歩いて行き、レックスを手招いた。この男がいちいち面倒くさがらずに手招きまですることはめずらしい。それは彼が機嫌がいいということを物語っていたけれど、レックスはそれをよく知らない。
皮が何箇所かめくれている幹の、彼らの胸元くらいの位置に薄茶色の鉢型のものが付着していることにようやくレックスは気付いた。それは明らかに木の一部ではなく、動く生物によってそこにつけられたものだ。
「これ・・・虫の卵かなんかだろ」
「ご名答だ」
「いつ生まれるんだ」
「春かな」
「で、それが何の関係があるんだ」
「この下くらいの高さまで、雪が積もる」
「・・・へえ!?」
素っ頓狂な声を出してレックスは驚きを表した。
「なんでわかるんだ?おっさん物知りだな」
「おっさん扱いか、失礼なヤツだな」
時折レックスはこうやってベオウルフに絡む。そういったやりとりは嫌いではないらしくベオウルフは嫌そうな表情を見せつつも気分を害していないとわかる声の調子で話を続ける。
「野生を生きる物はよく知っているのさ。絶対、自分の子孫を残すのに、雪が覆うようなところに卵は産み付けない。かといって、それよりずっと下までしか積もらないってわけじゃあないらしいぞ」
「なんで虫がわかるんだ。統計でもとってんのか?あいつらが?」
統計か。これはまた勉学にいそしんだお坊ちゃんが使う言葉だな。
そう思ったけれどベオウルフはそれを言わずに、少しだけおかしそうに口元を歪めた。
「まさか。こいつらは、一年しか生きないし一生に一度の産卵だ。だけど、わかるんだよ」
「ふうーん、そんなものなのかねぇ。うん、そういうものなんだろうな」
レックスはしきりに感心をしたらしく、しみじみとその卵らしきものを見つめていた。
「生きるって、そーゆーことなんだよなぁ、野生の生物からすれば。子孫を残すことが一番重要なんだもんな・・・」
「そういうこった」
「おっさんはもうあちこち子孫残してるかもしれないけどな」
「かもしれねぇな」
あっさりとベオウルフは答える。否定をするような男ではないとは思っていたが、あまりの淡白な答えにレックスは噴出した。
「おーおー、色男ぶりやがって」
「そういうつもりじゃねぇよ。わかっているくせに」
「まあな。・・・本当はあんたは子孫なんて、なんの興味も今んとこないんだろ」
「ないね」
即答するベオウルフにもう一言軽く聞こうとして、レックスは瞬時に口を閉じた。
ラケシスとは。
レックスはその名前を口に出すことを躊躇した。けれど、彼の躊躇いの内容くらい、傭兵稼業が長いこの男は容易に見抜いている。逆にベオウルフはにやにやと嫌な笑みを浮かべながらレックスに聞いてきた。
「お前はちゃあんとわかってんのか?女が身ごもりにくい時期とか」
「あのな」
レックスは呆れ顔でそれに言葉を返した。
「誰かさんと違って俺は一応貴族の坊っちゃんでな」
その台詞は、先ほどベオウルフがレックスを「お坊ちゃん」と思ったことに気付いてのものではない。
昔ならば自分でそんな風に言うことは決してなかっただろうが、悲しいことにレックス本人も最近は自覚があって「貴族の坊っちゃん」と自分で自分のことをわざと言う。もちろん、ちょっとばかり苦笑まじりではあったが。
「子孫のことは大事なことだからな。誰かさんと違って「身ごもりにくい」なんかじゃなくて、「身ごもりやすい」時期ってのは曖昧には教えてもらっちゃいる。未だにグランベルの貴族でも、結婚して最初の夜に子供が出来る、とか阿呆なこと言ってるやつらもいるけどな」
「ぶわははは!本当かよ!いや、本当だろうなぁ。そしたら、結婚もしないで身ごもるそこいらの女達は立つ瀬がないってもんだ」
「そういうことの統計をとろうとした医者がいたけど、結局女達は口が堅くてよくわからないってのが本音らしい。どこの国でもあんまりそこらへんのことは詳しくないんだろう?」
ああ、その言葉は正しいな。
再度「統計」なんて言葉を使ったレックスに対して、ベオウルフはこれまたにやにやと笑いながらあっさりと適当な返答をした。
「俺もまあ、曖昧にやっちまうけど、そうそういつでも出来るってわけじゃあない。いーんだよ、お前みたいに子孫を残さないといけないとか言われてるやつらは回数やりゃあ。あの姫さんもそーだろーし」
レックスは嫌そうな表情をベオウルフに向けた。
ベオウルフはアイラのことを「姫さん」と呼ぶ。本当のところはその呼び名は語弊があるのだが、彼に言わせれば高貴な身の上の女性は誰も彼も「姫さん」なのだと言う。今、ベオウルフの頭の中で、自分とアイラのそういった行為を想像されているんだろうなぁ、と思えばついつい眉間にシワがよるというものだ。自分だって先ほどラケシスのことを思い描いたのだけれど、人は人、自分は自分。都合がいい自分のそんな思いに気付いてレックスは己に呆れながら肩をすくめた。
「なんでこんな話になったんだっけ」
と言えばベオウルフはおかしそうに
「お前が俺の子孫が云々とか言うからだ」
とこれまたあっさりと答える。
「あー、失言失言」
「人間界よかよっぽど」
「ん?」
「野生の方が、いいやね。どいつもこいつも平等で弱い遺伝子は淘汰される。それは正しいだろう。人間は生まれた時から平等じゃねえだろ。弱い個体だって、身分がよければ守られるし、どんなに強い個体だって、身分が低ければ子供の頃にでも死んぢまう確率があがる」
身分が高ければ高いなりに諍いがあって、短命なやつもいる。
ちらりと亡き友人エルトシャンのことが脳裏をよぎったが、ベオウルフはそのことについて何も言わない。
そのベオウルフの言葉に「身分が高い」レックスは答えにくそうな表情をちらりとみせたが、ここシレジアに来てから彼も余程大人になったらしく、おとなしく相槌をうった。
「そうだな。平等じゃ、ないな。そんなのは人間だけだろうな」
「だな。ま、動物の世界でも群れのリーダーの子かどうかとかの格差があるやつらもいるが・・・そもそも群れのリーダーってのが間違いなく強い個体だからな。絶対、そっちのが、正しい・・・ああ、降りそうだな。でも、雨っぽいな。雪じゃねぇ」
「おっさんは天気もよくわかるよな」
「うん?」
「空見ればわかるのか?ここの空はグランベルの空と違って、俺には読みにくい」
「バーカ」
ベオウルフは馬屋から離れて歩きながらそう言った。親しみが篭った声だ。
「空じゃねーよ。体だよ」
「・・・?」
「さっさと、馬の相手してやれよ」
そう言ったっきりベオウルフは振り向きもしない。
レックスは憮然とその後ろ姿を見ながら首を傾げた。
「体?雨が降ると、腰痛でもおきるってのかよ?」


冷たいシーツの感触が気持ち良いと感じるほど体が火照っていた。
ぴっちりと敷かれたシーツは、弱い冬の日差しで乾かされた後で、女中達が丁寧に暖炉の前で見張りつつ湿気を飛ばす。そんな心遣いをラケシスは知らない。ただ純粋に気持ち良いと感じつつ、せっかくのシーツをしわだらけにしながらごろごろと冷たい場所を求めて体を動かす。自分の体温がすぐに布から布へと移ってしまう。
ここ数日微熱が続いていることはわかっていたけれど、なんだか今日は体の重さ、けだるさを強く感じる。
体の調子があまりよくないということは前月くらいから感じ取ってはいたが、そのうち治るだろうと甘く見過ぎていたように思える。
(悔しいこと)
ラケシスはベッドの上でそんな言葉を繰り返し繰り返し思っていた。
(ノディオンの王女はやわだと、笑われてしまうわね・・・)
まあ、体だけではなく心が弱いところを既に見せてしまっているから、今更なんと言われても。
そういう思いが多少心の中を掠めたが、やはり「悔しい」という気持ちはなかなか消えないものだ。
シレジアの冬は始まりが早い。年の半分近くは雪が降っているのだとフュリーに教わった。
春も夏も秋も、そのどれもが時期が短く、そして「暑い」というほどの気候にはならない。
寒い季節と、あまり寒くない季節。その二つしか存在しない。天馬達は翼を持ち、鳥達よりも更に広い空に生きる者たちであるから、様様な気候の地に自分の体を合わせる術に長けており、その許容範囲はなかなかに広い。
冬が長い国だというのに陸続きになった東方向にはイード砂漠、そしてその北東はイザークがある。そのどの気候にも順応出来るのは天馬達の飛空距離内であるからだ。
とはいえ人間はそういうわけにはいかない。シレジアの人間が暑さにあまり強くないように、逆にラケシスもまた寒さにはあまり強くはなかった。時折心が乱れて雪の降る中窓を開けることも吹雪の中外に出ることもあったが、そのどれもが体の悲鳴を包み隠してしまう心の悲鳴に突き動かされた行動だ。
ラケシスは城内では常に肩をケープやショールで覆っていたし、立て衿のドレスもまた好んで着用していた。
それでも、ここ数日の微熱は体の不調を訴えていた。やっぱり自分はあまり寒さに強い方ではないのだな、と苦笑せざるを得ない。
亡き兄エルトシャンのもとに嫁いできたグラーニェは、病気がちなか弱い女性だった。
家臣の一部の者達は、あれでは強い御子が産まれないのでは、との懸念を隠さず表に出してエルトシャン本人にすら直接言葉にしていた。今思えば、よくもまあああいったことを臣下は口に出来たものだ。それに対して「無礼だな」と以前は思ったけれど、今のラケシスには「兄様は寛容なお人だったものね」と思える。
「・・・おとなしく、音を上げようかしらね」
自分には兄ほどの寛容さはないし、自己管理の能力もない。
だから、こうやって寒さに負けて体調を崩す自分が嫌で仕方がないし、誰かにその姿を見られることだってどうにもならないくらい悔しい。その姿を晒しているのは自分なのに、それを見る周囲に対して苛立ちや嫌悪を覚えてしまう。それは自分が他者に寛容ではなく、そして無意味に自分を守ろうとしているからだ。
自国を失ってからのめまぐるしい生活の変化は他の仲間達だって条件が同じだと思えるのに、ラケシスの体は順応に時間が比較的かかった。温暖な気候のノディオンでぬくぬくと城育ちをしてきたのだからそれは当然のことだ。
同じ条件と思えるエーディンやティルテュといったグランベルの公女達は、場所によって気候が大幅に違う広い国内のあちこちを催しのために飛び回ることも多かったし、エスリンは遠い国に嫁いで行き来をしているから変化には慣れっこだ。シルヴィアは旅芸人の一人として各国を回ることもあっただろうし、アイラにいたっては単身シャナンを守ってイザークからイード砂漠を渡ってくる強者だ。
ラケシスはエルトシャンに外交公務をほとんど任せ、シャガールとも出来るだけ会わないように、ノディオン領内から出来るだけ飛び出さないように、とこの年まで育てられた。気候変化に対する耐性が低くて当然なのだ。
ここセイレーン城には王宮付きの医師が一人常駐している。
ラーナ王妃おかかえ医師の一番弟子と言われる男性だ。
ラケシスは熱を帯びた体を起こして、いつものように肩にショールをかけると覚悟を決めて部屋を出た。
薬草をもらおう。
解熱作用がある薬草をラケシスは知っていたけれど、それはアグストリアに生えているものであるし、シレジアの植物のことはよく知らない。
いつもならフュリーに声をかけてどうにかしてもらうのだが、フュリーは今日は天馬騎士達と公務があってこの城にはいないと聞いた。
午後のお茶の時間を前にして茶器を運ぶ女中とすれ違った。茶の時間だから、とそれを常に所望するような人間はこのシグルド軍にはあまりいなかったけれど、エスリンは茶器を借りて出来得る限りはキュアンとフィンとその時間を共にする。また、エーディンもブリギッドを誘って茶を飲むことも多いようだ。
ラケシスは兄エルトシャンがいた頃は茶の時間を好んでいたが、近年がっくりそれに対する気持ちを失っていた。
エルトシャン自身も茶の時間を自らが好んでいたわけではなく、彼がそこで休むことで、周囲の人間もまた休むことが出来るため、その風習を大切にしているように思わせていただけだった。ラケシスはそんな彼を誇らしく思っていたし、その時間は間違いなく彼と過ごせる時間だったためその頃は茶の時間を重視していた。
けれども、それももう今となっては懐かしい思い出だ。
廊下を歩いていると前方から人影が見えた。
ああ、どうしてこういうときにいつもいつも。
ラケシスは歩調を少し速める。
何故余計な時にいつもベオウルフと自分はこうやって廊下で会ってしまうのだろうか。
それは明らかに彼女の被害妄想なのだが、一度そう思い込んでしまえばその気持ちはなかなか拭うことが出来ない。
前から歩いてくるベオウルフは呑気に片手をあげて挨拶をした。
「よ、久しぶりだな」
呆れた挨拶だ、とラケシスは思った。
久しぶり。
それは確かに間違いではない。ここ数日ラケシスはベオウルフと会っていない。
何度か体を重ねた間柄だというのに、彼らは自分達の関係を言葉にすることはなかったし、彼と会えなくとも別段ラケシスの心は動くことはなかった。
けれど、彼もまた自分と会わなくてもこんなに呑気に当たり前に生きていて、そのうえ、久しぶり、なんて馬鹿げた挨拶をするのだと思うと、無性に腹立たしさを感じる。その感情に彼女は特に理由を求めていない。そんなことは深く考えたい事柄ではないからだ。
「お久しぶり」
ラケシスは素っ気無く答えてやり過ごそうとした。ちらりと目線を合わせただけで、その後は知らぬふりを決めた。
ベオウルフも心得たもので、はい、そうですか、とばかりに特に何も言わずに二人は人一人分の距離を開けてすれ違った。
「おい」
すれ違ってからベオウルフは声をかける。
「おい、ラケシス」
「何かしら」
何をまた言われるのだろう、と半ばうんざりしたようにラケシスはわざと平静を装って振り返った。
しかし、声をかけたベオウルフの方は、彼にしてはめずらしく言葉を続けず「あー・・・」と情けない声を出してラケシスをじろじろと見るばかりだ。
「何?」
「いや、なんでもねぇ。気のせいだ」
「気のせい?何だというの?」
「悪かったな。なんでもねぇよ」
ベオウルフはばつが悪いようにそう言って、そのままいつもと歩調も変えずに歩いていった。
当然ラケシスの方は彼には何の用事もなかったものだから、「一体なんだったのかしら」といぶかしみながらも先を急いだ。


その晩、ラケシスは食事の席に来なかった。
仲間達全員が同じ時間に食事をとるということは取り立てて約束されてはいなかったが、おおよその目安となる時間はあった。食事をする広間はいくつかテーブルが並んでいて、誰もが思い思いの場所に座って女中に食事を出すように頼む。
初めはそういったことも城の人々に申し訳なく思え、自分達だけでやるから女中はいらない、とシグルドはラーナ王妃に申し出たけれど、レンスターやノディオン、並びにイザークにヴェルダンの王族を抱えるのだから当然のもてなしだと逆に諭されてしまった。
それに、シレジアの人々からすればレヴィンこそこの国の王子であるから、王子が所属している(という言い方は誰一人、レヴィンだってシグルドだってしなかったけれど)「シグルド軍」に対しての奉公は名誉なことでもあるというわけだ。
まあ、ともかく、ラケシスは大概は一番初めに食卓につき、女中達をいつもどきどきさせる。また、この城の料理長も。
文句こそはあまり言わないが、間違いなくラケシスはこの城に住まっている人々の中では一番の贅沢な舌を持ち合わせている他国の王族だ。
この城で出される料理は2,3品にパンが付くことが多かった。シレジアでは本来は大鍋料理や大皿料理を並べることが多いけれど、この城でそれをすることは限りなく無理に思われた。出される2、3品というのも、一皿一皿を食べ終えては出てくる、といった類のものではなく、それぞれが初めからその場に出されて、好きなように食べるというのが当然のシレジア流であった。
シレジアの祝日などに時たま料理長が気を利かせてその2、3品の料理を選択出来るようなメニューを作ることもあった。鍋を、かまどを総動員して10種類近くの料理を用意して、そこから選んでもらうというわけだ。
レヴィンやフュリーに聞けば、シレジア流のもてなしだと答える。アイラなどは逆に面倒くさがって、先に食べている者の皿を指差して「あれとあれとあれ」などと中身も聞かずに頼むものだが。
そういったときに必ずラケシスは「ご存知だ」と料理長が舌を巻くほどに「本当はそう選んでほしかった」という組み合わせを選び出す。ソースや具材の種類、料理の温かさ冷たさ。シレジア料理など知るはずもないラケシスではあったが、気になる時には「その煮込みは温かいものが出てくるの?冷ましたものが出てくるの?」と質問をして確認をして選ぶ。
それには恐れ入った、と料理長は心の中でいつも呟いているものだ。
シレジアに来た頃は誰とも会わず、食事も自室でしかとらなかった彼女だが、大層な進歩だと言えよう。
彼女は食事をしてから眠るまでの間は十分な休息時間をおいていた。
それは故郷にいた頃からの体のサイクルであり、シレジアに来た頃には失われていたサイクルでもあった。
それを取り戻した今、ラケシスはとても穏やかな日々を送っているように周囲には見えていたに違いない。
「ごっそさん」
ベオウルフは今日はめずらしく一日見張り番やらなにやらの仕事がない日だったけれど、なんとなくだらだらとして食事をするのが遅くなっていた。これもまためずらしいことだが。いつもは他の人間がいる時間に食事をすることが多い。
彼が綺麗さっぱりと食事を平らげて腰をあげると、少しばかり心配そうに女中が彼に声をかけた。
「ベオウルフさん、ラケシス様がお見えにならないのですが、お体の具合があまりよろしくないのでしょうか」
本来そういったことを軽軽しく女中達は口にしてはいけない。
しかし、フュリーがいない今日は彼女達の懸念を聞いてくれる人物がいない。
「さあな」
なんで俺にそんなことを、とも言わずにベオウルフは席を離れてさっさと食事の間から出て行ってしまった。
もう一人の女中はそのベオウルフの行動が薄情だと囁いたが、そもそも彼女たちはベオウルフという人間を良く知らないし、ラケシスとの関係も「あのお二人は良い仲なのかしら」「きっとそうよ」と噂する程度にしか理解がない。
もしかして、ベオウルフとラケシスは何の関係もないのかもしれない、とその晩は非常に寿命が短い噂がセイレーン城の女中達の間に軽く流れた。そのことを噂の張本人達が知ることはなかったけれど。


室内に用意された調度品をベオウルフはほとんど使うことがない。クローゼットもチェストもほとんど物が入っていない。衣類は適当な場所に彼は無造作に置く。チェストにいれておくようなものは何もない。必要なものは戦の時に身につける皮のポーチに入っているし、普段もそれの一回り小さなものは腰につけている。腰から取り外せば、別珍が張り付けてある値が張りそうな椅子の背にひっかけるだけだ。
剣はいつもベッドや壁にたてかけてあり、腕を伸ばせばすぐに手にとれるようにしてある。
そんなわけで、ほとんど使われない調度品達ではあったが、とりあえず椅子と小さなテーブルは、座って酒を飲むには役に立ってくれていた。ベオウルフはいつものようにどっかりと椅子に腰掛けて、ほんの一杯だけ酒をゆっくりと飲んでいた。
しばらくぼんやりした後、突然思いついたように立ち上がって、底にわずかに琥珀色の液体を残したグラスを音を立ててテーブルに置く。それから彼はシャツ一枚の楽な恰好で剣だけを持って部屋を出た。
城の廊下は決して暖かくはない。
さみーな。
とぼそりと口に出してしまったけれど、だからといって彼は自室に引き返しはしなかった。
「わあ、そんな寒そうな恰好で、どうしたんだ!」
角を曲がるとキュアンに出くわした。彼は手に薪の束を持っている。
「いやいや、ちょいと野暮用ってもんですよ、キュアン王子」
「寒くないのかい?」
「まあまあかな。でも、これくらいどうってことない。肌を刺すほどは空気が冷たくないでしょう」
「そうかな?」
キュアンは苦笑いを見せた。温暖なレンスターで育った彼からすれば、十分すぎるほど既にこの寒さには堪えているのだろう。ベオウルフは独り言に近い口調でぼそりと続けた。
「ああ、それに俺は自分でわかってんですよ」
「ん?何をわかってるって?」
「この程度の気温じゃ、問題ねぇんだ。それくらい、わかる」
「はあ。まあ、君が自分がそう思うなら、そうなんだろうけど」
「んじゃあそういうことで」
何がそういうことなのかはまったくわからなかったけれど、とりあえずベオウルフは適当な挨拶をしてその場を離れた。
キュアンに言ったとおり、肌を刺すほどの冷気は感じない。それより何よりセイレーン城内はまだそんなに乾燥をしていないと彼は思う。
彼は、温度や湿度を自分の体で計ることが得意としていた。
傭兵を始める前からそれは彼の生活に根付いていたが、そういった感覚は年々と研ぎ澄まされるもので、キュアンに雇われてシグルド軍に入る二月前ほどには農夫から農業をやれと言われたという妙な経歴もある。
その時は、まったく阿呆なことを言うやつが世の中にはいるな、と思ったけれど、改めて考えればわかる。自然を相手にする職業であれば、天気だけではなく温度や湿度もまた重要な要素なのだ。
しかし、彼ら農夫達がそれを求めるのは作物をうまく作るため。ベオウルフがそれを手に入れたのは己の身を守るためだ。
これくらい乾燥していれば、と追っ手を撒くために草むらに火をつけたこともある。
魔導師達はどこまでそれを知っているのかはわからないが、湿度によってサンダーの魔法の威力が変化するように、経験で彼は感じている。ファイアも湿度が高い日は精彩が欠けると彼は思っている。
寒いところで熱や体のだるさを伴う病になるときは乾燥した日が続いているように思えたし、同じ湿度でも温度が違うとき、同じ温度でも湿度が違うとき、それらのわずかな差でも馬達が不快を感じる、感じないを左右することを知っていた。もちろん、知っていたとしても彼は自然を動かす力を持つわけでもないし、馬達のわずかなご機嫌が大きく左右する局面にも出会ったこともないからあまりそれらは意味をもたない。
それらは彼の中では「思う」ではなく確信なのだが、それを他人に言ったところで何のメリットもない。だから彼は口に出さない。視覚や嗅覚・聴覚が優れていた方が生き残りやすいのに、と心の中で舌打ちをしていることも誰にもいうことはない。
ベオウルフはそれから数人の女中とすれ違いながら、ラケシスの部屋に辿り着いた。
ドアを軽くノックする。
夜の訪問をラケシスは嫌う。とりわけベオウルフの訪問を周囲に知られることを彼女は嫌っている。
冬の寒さに耐えるように丁寧な造りをしているこの城は、一部屋一部屋の防寒性を重視しているため壁が比較的厚いと思う。それでも彼女は気になるのだろう。
「誰」
少しいつもより篭った声で中からラケシスの声がする。
誰、と聞いてはいるが、もう彼女はここに来ていることが自分だということに気付いているに違いない、とベオウルフは一人で口元を歪めた。苦笑とも微笑ともつかないその表情を見る者はどこにもいない。
「ベオウルフだ。ちょっと、あんたの顔が見たくてな。夜分で失礼だとは思うが、開けてくれねぇかな?」
「確かに失礼だわ」
先ほどと同じような篭った声で、ラケシスは扉をそっと開けた。
ああ、やっぱりあまり調子がよくなさそうだな。
ベオウルフは扉の隙間から見えるラケシスの表情を見てそう判断した。眉間が軽く寄っているのはご機嫌だけではなく、体の不調を我慢していることを表しているようだし、心持ち頬が上気している。
それでも、体調が優れないから、と断らないということは、見た目よりも調子は良いのだろうか?
「珍しいことを言うのね。顔が見たいなんて」
「ま、本題は違うんだが、許してくれるだろう?それくらいの口上は」
「本題次第ね」
ラケシスはおもしろくもなさそうにそう言って溜め息をつく。
この男の「本題」はいつもいつもろくなものではない。彼女は今までの経験から心の底よりそう思っていたのだろうし、ベオウルフも彼女がそう思っていることを嫌というほど知っていた。知っているからこそ、わざとそういう言い方をしてしまう。いちいち過敏に反応するラケシスの様子を彼は実のところ気に入っていた。体調があまり優れないことはわかっていても、これくらいの意地悪は許してくれるだろう、と自分が甘えているということだけは気付いていなかったが。
ラケシスは決して「入りなさい」と言葉にはしなかったが、扉を開け放したまま暖炉の近くに歩いて行った。その動作は彼を室内に招くことを意味していた。

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モドル

毎度毎度ラケシスの部屋で話が動く展開で申し訳ありません(苦)
でもまあ、そういう二人だと思っていますので。レクアイはもう少し広いんですけどねー・・・
ほら、うちのラケシスはエンドレスひきこもりだから。許して〜